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2012/10/15

ニュートンの名前の由来について 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<6>

<5>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<6>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

1)本名は裕二という。この名前になんの疑問もいだかなかったが、ふと気づいてみれば、長男なのに、裕二とはこれいかに。私は、お父さんが秀一さんだったので、その息子に「二」がついたのだと思っていたが、そうではなかった。いつか本人に聞いたところ、彼には兄がいたようだ。幼少のころ亡くなったらしい。それで彼は次男あつかいなのだ。(注・後日お母さんに確認したら、彼はやっぱり長男で、私の推察がただしい、ということだった)

2)その彼がどうして、いつ、ニュートンになったのか、という話題が、昨日の通夜でも出たし、今日の火葬場でもでた。このことについては、すでに1991年の、彼が宮城県芸術選奨新人賞を受賞したさいの祝賀パーティーで、私が友人代表として挨拶したときに、みんなの前で発表した。ところが、みんな分かっているはずだと思っていたが、案外そうでもなかったようだ。

3)あのときは、本人の前で公けに話して、本人も否定しなかったのだから、ほとんど私の説は正しい。今回、通夜に来てくれた、子供時代の友人たちも、同意している。

4)どうしてアインシュタインではなくて、ニュートンだったんですか、という疑問は、最初から話題のポイントを外している。物理学とか、リンゴとか、科学雑誌を連想するようでは、理解不能だし、本当のことを受け入れ難い。そういう人は自らの「仮説」を楽しんだほうがいい。

5)本当のところは、ニュートンとは、私たちが子供時代だったころのスラングである。ズバリ言えば、野グソのことである。ニューっと出て、トン、と落ちる。だからニュートンなのである。公衆トイレのなかった時代、道路脇の竹やぶなどにはよく野グソがあったものだ。あれが、私たち悪たれガキたちのスラングでニュートンと呼ばれたものだ。

6)その野グソがどうして彼のニックネームになったのかは諸説ある。小学生時代に(彼は幼稚園に通っていない)いつかおもらしをしたのが由来なのではないか、という説があるが、私はこの説をとらない。ただ、私が気付いた時にはすでに彼はニュートンと呼ばれていたので、それが事実だったのかもしれない。

7)しかし、いくら子供時代に一回二回おもらしをしたくらいで、一生涯、還暦まで野グソと呼ばれるのは変である。これは、彼がみんなから愛されたからこそ、このニックネームがついた、というのが私の説である。

8)子供たちはケンカする。お前の母ぁちゃんデベソ!とか、まぬけ!、ばか!とか罵しりあう。そのなかに、くそ!とかニュートン!とかいう単語があったのだ。大体の子供はその言葉に傷つく。痛く傷ついて、泣き出す。あるいは怒り、逆上する。そんなことを言われる筋合いはないし、一時も早くそんな言葉から離れたい。普通の子供ならそうだ。

9)ところが彼だけは、そんな言葉にはめげなかった。人間が野グソであるはずはない。そんなこと言われたって屁っちゃらである。ニュートン、そうだよ、僕はニュートンだよ、そういう開き直りと受容性が、小さい時からあった。ニュートン、ニュートン、と、けなし続けても、なんともしない彼には、ついにニュートンという名前が定着してしまった、というのが私の説である。

10)私がこの説をとるのは、このニュートンという言葉に、宮澤賢治の「デクノボー」に通じるものがあると思うからである。みんなから「ニュートン(野グソ)」と呼ばれ、褒められもず、苦にもされない、そういう存在が子供時代の彼だったのである。褒められるというほどではなかったにせよ、そう呼ばれて、いたずら小僧連中に愛された、それが彼の本質だった。

11)その彼が10代の後半になって、ペンネームを持つことになったことは今日「弔辞」でも話したが、本当は、すぐに石川裕人になったわけではない。最初は「いしかわ邑人」だった。邑は「ムラ」のことであり、「ユウ」と読ませる。最初の劇団名は「座敷童子」(ざしきわらし)だった。そのイメージに合わせたのだろう。

12)「座敷童子」のネーミングの由来は定かではないが、寺山修司の「天井桟敷」のイメージと、宮沢賢治のイメージを掛け合わせたものだったのではないか、と思う。このへんは、彼のブログを丁寧に調べていけば、キチンと書いてあるだろう。

12)今回の葬儀で多くの人びとと話していて、意外と彼の経歴が知られていないことに驚いた。そもそもの最初の劇団名は「座敷童子」であり、次に劇団「洪洋社」であり、それからだいぶ経過してから「十月劇場」になった。この名前さえすでに知らない人が多い。なんにせよ、「シアターグループ・オクトパス」(正しい表記はアルファベット)になってから、もはや20年近くになるので、昔を知らない人がいても不思議ではないのだ。

13)その彼が、一時期、洪洋社の時代あたりに自分の正式名は、アイザック・アシモフ・スパルタクス6世・菊之丞・ニュートンである、と言っていた時がある。雪之丞だったかもしれない。でもやっぱり最後はニュートンと名乗っていたので、このネーミングは自分でも気に入っていたのだと思う。

14)彼は小学生時代から大のSFファンだった。自分でもSFを書いていた。中学生時代の肉筆紙「ボーイズファイター」には、自作のSFを連載していた。彼は国語は大得意だが、算数や数学はてんでだめだった。だから、緻密な物理学的な「ニュートン」は似合わないが、SF的イメージでは、たしかにニュートンと呼ばれることもまんざら嫌いじゃなかったと思うし、いつの間にかその意味合いが、呼んでいるほうも、そちらのほうにスライドしていったことは確かだ。

15)小さいときから、電話をくれれば「ニュートンです」と名乗った。最近病院から電話をくれた時も「ニュートンです」と言っていたから、一生涯、彼はこの名前が気にいっていたはずだ。なにはともあれ、お母さんや親戚にとっては「裕二」だろうが、私にとっては「ニュートン」だった。「裕人」でもなかった。

16)石川裕二、ニュートン、石川裕人と呼ばれた、私たちの友人が、今日から4つ目の名前を持つことになった。仏教に入門した証拠として、お寺の和尚さんがつけてくれたのである。演雅一道居士、これが彼の新しい名前だ。

17)いたって簡素な名前である。御布施の多寡に従って名前に格をつけるというのも、一般人には府に落ちないが、この不条理が今でも常態化している。院とか軒とか庵とか頭書きがつく人は、仏道に励んだり、お寺の経営に貢献したと見なされる人である。寺の近くに「院」や「軒」や「庵」を作って住んでいたり、その建物を寄付したりした人に、その名前が与えられる。悟りの深さそのものについては、本当は関係ない。

18)演雅一道居士の最後の「居士(こじ)」とは、在家の仏道者のことで、「さん」とか「くん」とか「博士」とかつくようなもので、一般的な仏道者にはこの名称がつく。だから、今回もらったのは「演雅一道」の部分である。

19「演」とはよくつけてくれたもので、演劇の演と考えていいだろう。「一道」も、その字義のまま「一本道」と考えていいだろう。まさに彼は「演劇一本道」であった。

20)さて、「雅」とはなんだろうか。ガと音読みするが、みやびとも訓読みする。詳しい理解はいずれ後日に譲るとして、雅には祝福とかお祝いの意味や、風流や奥ゆかしい、あでやかの意味もあるらしい。

21)彼は奥ゆかしいとかあでやかを演じたというイメージはないが、どうだろう。でも、お祝いとか風流という意味では「雅」であったかもしれない。そのようにしてみれば、演雅一道居士も、なかなかいい名前だな、と思う。

22)さて、私はひそかに、もうひとつ別な名前をつけようとも思っている。「ゆうじん」は「りゅうじん」にもつながる。彼はこの辰年において、龍人、あるいは龍神になったのではないか、という仮説も持っているのである。

23)そんなわけで、これら全部総体を含めて、彼のことを私はニュートンと呼んでいる。

<7>につづく

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