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2012/10/16

ニュートンと作った雑誌、演劇、共同体について 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<7>

<6>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<7>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

1)1966年6月は、日本にビートルズがやってきて一大ムーブメントを起こした時である。この時、私たちは中学校の1年生だった。そして、9年間同じ学年にいたのに、唯一ニュートンと同じクラスになった年でもある。

2)私はこのチャンスを待っていた。とても待ち遠しかった。小学校時代は友達になりたかったが、同じクラスでもなく、住んでいる地域も学校を挟んで、まったく反対方向だった。同じクラスになって、ようやく私はニュートンを「独占」できる気分になった。

3)4月か5月の習字の時間。それぞれの練習になったチャンスを見計らって、私は彼の机のところに行った。「なんか面白いことをやろうよ」。二人で習字の練習を教えあうふりをして、計画を練った。結果、「雑誌をつくろう」ということになった。大友百子先生の時間である。

4)彼はクラスに小学館から出ていた小青年向き雑誌「ボーイズライフ」を持ち込んでいた。クルマや映画やファッションの話題が満載の雑誌で、ちょっとしたソフトヌードもついていた。すぐに、私たちの雑誌の名前は「ボーイズファイター」と決定した。当時ボクシングのファイティング原田が人気を博していたので、その影響もあったのだろう。

5)中一になって英語を習い始めたばかりなので、英語も目新しかったが、このタイトルのゴロに正当性があるかどうか不明だった。私たちは、職員室に行って、英語の佐藤先生にこの英語でいいか聞いた。その結果はOKだった。

6)でも、今となってみれば、「ボーイズファイト」とか、「ファイティングボーイズ」などのほうが英語では正しい意味になるとは思うのだが、ボーイズファイターも、間違いではない。少年たちの戦士、まぁ、それはそれ、固有名詞としては独自性がないでもない。

7)この雑誌については、これまでも何回か書いた。わら半紙に肉筆で書いた原稿を閉じた200ページ。表紙は私が作った。結局、中一時代に5号まで行った。後年、この雑誌は長い間ニュートンが保管していたのだが、手違いでちり紙交換に出されてしまい、紛失した。幻の雑誌となってしまった。場合によれば劇作家・石川裕人の貴重な資料ともなったことだろう。

8)同じ中一の三学期、ニュートンと私は三年生を送る会の余興でコント漫才をしたことがある。タイトルは「アルバイト」。シナリオは私が書いた。内容はほとんど忘れたが、最後のオチの、「いいバイトってほんとないねぇ」、「いやあるよ、アルバイト、っていうよ」ってあたりだけ覚えている。たしかホウキを持ってステージにあがって、ギターの真似もしたと思う。

9)その後、彼と一緒のクラスにならなかった。中三の時は、僕はBクラスのクラス新聞「MPC」を作り、彼はA組のクラス新聞「1+1=3」を作った。このタイトルに、Aクラスの担任海老原先生(美術担当)は、大いに評価して、私たち他のクラスの生徒たちにも自慢した。

10)高校生になり、1970年になると、世はミニコミブームとなり、私は個人ミニコミ「すくりぶる」を作り、彼も個人ミニコミ「ムニョ」を作った。二人のミニコミは、1971年の「朝日ジャーナル」のミニコミ特集号に連絡先つきでリストアップされ、たくさんの問いあわせを受けることになった。彼のミニコミはのちに「夢煮夜(むにょ)」と改題された。(余談だが、冬崎流峰のミニコミは「ムルソー」、石川秀一のは「原情景」といった。)

11)雑誌に掲載されたことで、私たちのネットワークは一気に広がった。私はNHKテレビに出ることになったし、雑誌や単行本のインタビューも受けることになった。(その時の一冊が「もし僕らが生き続けるなら」塚本 晃生 1972/12 大和書房)。この時代は、彼が高校で演劇を始めた時であり、一緒に閖上出身の岩波映画の製作者にインタビューを受けたこともある。

12)この当時、二人で行動することが多かった。1970年の黒テント仙台公演「翼を燃やす天使たちの舞踏」も一緒に見たし、唐十郎の「紅テント」も二人で見に行った。八幡神社境内での「夜行館」の時も、二人だった。

13)高校時代に劇団「座敷童子」を、同じ学校の元木たけし(のちに「東京キッドブラザーズ」に行った。現・舞台監督)と立ち上げ、校舎の階段の踊り場を使った演劇を展開した時は、私は数少ない観客の一人だった。

14)高校を卒業したニュートンは、一年早く仙台で共同生活を開始していた私たちに合流した。その時、一緒に、ミニコミ「時空間」を作った。煩雑になるので仔細は省くが、この時の私のキーワードは「雑誌」であり、彼のキーワードはすでに「演劇」になっていた。二人を含めて、私たちの「共同体」は着実に進行していた。私たちの共同体の名前は「雀の森」と言って、台の原森林公園の脇、東北薬科大学の高山樗牛ゆかりの「瞑想の松」の近くにあった。

15)それからしばらくして、彼は自らの「演劇」性をさらに伸ばすために、緑ケ丘に作った自分たちの「サザンハウス」へと引っ越していった。彼の劇団「座敷童子」は次第に回転し始め、私はポスターをシルクスクーンで作ったり、チケットを謄写版で作成した。つまりいつのまにか私は彼の美術情宣のスタッフになっていたというわけである。

16)雀の森に残った私は、「雑誌」性と「共同体」性のハザマから、次第に「共同体」性への志向性が深まり、やがて「瞑想」性へと進んでいく。それがもっとも顕著になったのは私がOshoの「存在の詩」(1975年)に触れた時である。

17)それから間もなくして、1977年に私がインドに旅立つ時、ニュートンたちはすでに市内に立ち上げていた。演劇団「洪洋社」の練習場兼演劇場で、劇団員を中心に50人ほどで歓送会をしてくれた。というか、この劇団は、私たちの友人を組織してつくられていた、ということができる。

18)この後も二人の交流は生涯続いたが、基本的的には、二人の道の大きな分かれ道はこの1977年あたりにあった。私は私で「瞑想」性と「共同体」性を追求することになり、彼は彼で「演劇」性をどこまでも追及していくことになる。しかしながら、彼の「演劇」は、シナリオで完結するものではなく、上演されて初めて完成するものだったので、彼もまた「演劇」性とともに、「共同体」性をもおのずと追求せざるを得なかった。

19)つまり、大きな意味において、ニュートンと私を生涯結びつけていたものは「共同体」性にあった。「共同体」性についての仔細は後日に譲る。

20)更新される震災の記憶。

約束の場所は

現実のものとなって立ち現れるのだろうか?

石川裕人が渾身の力を降り注ぎ描く

震災の黙示録。 石川裕人遺作「方丈の海」案内より

21)もし、ニュートンと私の「共同体」性にシンクロニシティが起こり、私が「瞑想」性で求めてきて、彼が「演劇」性で求めてきたものが、クロスするなら、ここにこそ、そのポイントがある。あるいは、彼が肉体を離れ、アストラル界からコンタクトしてきて、私が自動書記するとなれば、テーマはおのずとここしかない、ということになる。

<8>へつづく

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