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2012年10月の65件の記事

2012/10/31

補完しあうものとしての「演劇」性と「瞑想」性 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<2>

<1>よりつづく

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <2>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

1)前回、80年代には、ニュートンと私のあいだには「共同性」は消えていた、と書いた。書いたあとで、すごく寂しくなった。ただ、それは完全な表現ではなかった。たしかに「共同性」は消え失せた。しかし、たしかな関係は続いていた。よくよく考えてみれば、それは、補完性へと分化していったのではないか。

2)それはまるで、一つの細胞が二つに分化したようなものだ。それぞれの細胞が、一個の細胞として独立しながら、他の細胞と連携しあっている。そういう関係だったのだ。

3)つまり、ニュートンの「演劇」性がより独自性を持ちながら自立して行く時、私の「瞑想」性もまた独自性を持ちながら自立していった。しかしそれは互いに補完しあうものとして連携しあっていたのである。

4)いままで彼は乙女座生まれで、私は牡羊座生まれ、と単純に思ってきたが、彼が9月生まれで、私が3月生まれ、であり、ちょうど太陽の位置はほとんど対極に位置していることになることに気がついた。ある意味ではライバルであり、ある意味では補完しあうものとして、強烈に引き合うのである。

5)今日は、ニュートンの三七日の命日だった。焼香のあと、またお母さんと話す機会があって、とても楽しかった。

6)彼は9月21日が誕生日である。そこからなのか、お母さんは、ニュートンが「自分は宮沢賢治の生まれ変わり」であると、何度も言っていたことを記憶していた。宮沢賢治の命日は1933年の9月21日である。

7)今日、彼の家を訪問したさい、玄関脇の書斎のドアがあいていた。彼の膨大な本箱など見る気もなかったが、なにげにドアのすぐ側に積み上げられていた本の中に、Oshoの「ダイヤモンドスートラ」があるのを発見した。

8)この本は初版が1986年3月である。すくなくとも、ニュートンは、この時点において、この本を読んでいたのはまちがいない。一つくくりの中には、もう互いを入れておくことはできなくなっていたとしても、彼は彼なりに「瞑想」性を凝視していたのである。

9)この本はよい本だ。かなりクオリティが高い。当ブログでは、まだまだ十分触れていないが、結構おもしろいんだなぁ、これが。

10)彼が「瞑想」性からインスピレーションを受けて自らの「演劇」性を展開していたとしたら、私は私なりに自らの「瞑想」性を、「演劇」性という力を借りて、表現してみる時期にきているかもしれない。

<3>につづく

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総合芸術としての演劇 石川裕人作『明日また遊ぼう』 ~時さえ忘れる蔵王の麓のファンタジー~

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「明日また遊ぼう」 ~時さえ忘れる蔵王の麓のファンタジー~
作/石川裕人・演出/米澤 牛 1998/02公演 AZ9ジュニア・アクターズ 宮城県大河原町えずこホール 石川裕人年表
Vol.3 No.0845★★★★★

1)アズナインにおける石川作品第2作。きっちりと「蔵王の麓のファンタジー」と入っているところがいいね。

2)マッキーは小学六年生の女の子。歌が大好きで、なんと「さんさ時雨」からアムロまで二千一曲歌えるという特技の持ち主です。 

 ある夜、マッキーのところへみのむし達が一通の手紙を届けに来ます。手紙はサナトリウムに入院しているユキというマッキーとは見ずしらずの女の子からでした。ユキは学校のいじめが原因でサナトリウムで療養しているのです。 なぜユキが見知らぬマッキーに手紙を送ることになったのか?それはマッキーのお父さんと関係がありました。マッキーはお父さんはロケットの研究をする先生で、ナンジャモンジャという変な名前です。  

 小さな通信ロケットの研究のために試作機を飛ばし、その一機がサナトリウムに着陸していました。その通信文をユキが読んだのです。それにはナンジャモンジャ一家の事が書かれてあり、それでマッキーのことも知ったのです。でも、通信文には肝心な住所が抜けていました。それ以来、ユキは見知らぬマッキーに興味を覚え、日記のようにマッキー宛ての手紙を書き始めたのです。  

 マッキーと弟のモンタは、ユキに会うためにサナトリウムに向かいます。そしてナンジャモンジャ先生の家にはパトラという一匹の猫がいます。パトラには兄弟がいました。その兄弟たちもサナトリウムで飼われていたのです。パトラもマッキーのように兄弟達に会いたくなりました。それを聞いた町猫のボス・ザオーはパトラのため、猫たちを引き連れてサナトリウムへのハイキングを計画します。かくして、マッキーとモンタ、猫達のサナトリウムへの旅が始まることになります。AZ9活動記録より

3)へぇ~、なんか面白いな。このダイジェストは誰が書いたんだろう。そもそも、脚本にこうあったのだろうか。それとも、だれか関係者がまとめたのだろうか。

4)個人的にいえば、1998年2月というと、我が家の下の子が小学校6年生だった。たまたま小学校の中にできた「OH!父ちゃんの会」という父親の会に参加して、いろいろな行事に参加した。あの頃、ニュートン夫妻には子どもがいなかったから、あまり子どものことで話題にはならなかったけど、彼は彼なりに、すっかり子ども達と遊んでいたのだなぁ。

5)思えば、ちょうど彼がAZ9に関わる決意をするころが、ちょうど我が家の子どもが小学校4年だった。同じような時代を生きていたんだな、とあらためて確認。

6)それにしても、上のダイジェストを見る限り、なんともオーソドックス(笑)な童話風で、いいなぁ。やっぱり、いつかチャンスがあったら、上演台本も読んでみたい。ひょっとすると、このまま童話になるかもしれない。

7)このアズナインのページには演劇は総合芸術だ、とあった。十月劇場やオクトパスなどでは、ちょっと気恥ずかしくて、「総合芸術」なんて言えなかったけど、本当は、やっぱり、総合芸術なんだよな。ちゃんと、そのことを認識しなければいけないと思う。演劇のことなんかわからない、なんて、いつまでも言っている場合じゃないな。そう思った。

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阿武隈流域から蔵王連峰へ石川裕人が馳せた想い AZ9『転校生』 ~時の十字路の物語~

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「転校生」~時の十字路の物語~
作/石川裕人・演出/米澤 牛 1997/02公演 AZ9ジュニア・アクターズ 宮城県大河原町えずこホール 石川裕人年表
Vol.3 No.0844★★★★★

1)神尾正太郎先生からバトンタッチしてアクターズの指導者となったのは仙台を拠点に活動する俳優 米澤牛先生。その演出第1作。

   冬休みをあさってに控えた小学校に、転校生がやってきます。彼女の名前はさやさや。さやさやが学校にやってきたときから不思議な事が次々と起こります。 時が止まった・・・まさか? 今、時の十字路に僕たちはたっています。
AZ9活動記録より

2)TheatreGroup"OCT/PASS"の活動として、現代現代浮世草紙集シリーズやPLAY KENJIシリーズをスタートさせながら、石川裕人は、実は、もうひとつ、この子ども達に対するシリーズをスタートさせているのだった。どこまで続くかわからないシリーズではあっただろうが、年一回の公演が16作続いていたのはすごいと言わざるを得ない。

3)葬儀のあとに、お母さんが「こうなるんだったら、もっと裕二の演劇を見ておけばよかったなぁ」とおっしゃった。そして「ほら、子どもたちがでてくるオペラみたいなの」ともおっしゃった。正直言って、私はこの活動をまったく知らなかった。おかあさんは2~3回見たという。

4)このシリーズについては脚本を石川裕人が書いて、渡部ギュウ(米澤牛)が演出という形だったので、石川本人の負担は少なかっただろう。そして、書く相手が小学生と決まっているので、シリーズとしては書きやすかったのかもしれない。

5)このシリーズについての上演台本も読んでみたいなとも思うが、今はもう、その痕跡をネットでたどれる範囲で満足しなければなるまい。

6)小学校4年生がオーディションやレッスンを受けて、やがてステージに立つという、子どもにとっても、親にとっても、夢のような企画に思える。石川裕人本人が小学校4年の時に、学芸会で主役を務めたり、人形劇でシナリオを書く楽しみに出会ったことを考えると意味深いものがある。

7)それにしても、AZ9(アズナイン)というネーミングも意味深い。仙南広域行政事務組合というお堅い組織ながら、このネーミングはなんともいい。

8) まずAZ9ジュニア・アクターズのことを説明しましょう。以下略してAZ9(アズナイン・編注)とします。AZ9は仙南地域の阿武隈川(A)と蔵王連峰(Z)の環境を共有する9つの自治体2市7町(白石市、角田市、蔵王町、七ヶ宿町、大河原町、村田町、柴田町、川崎町、丸森町)の小学校4年生から6年生で構成された児童劇団です。石川「ココロ♡プレス」「震災を忘れない (大河原町)」(2012/01/29) より抜粋

9)ああ、いいなぁ、AZにはそういう意味があったのだ。これって、先日行った熱日高彦神社のいわれとつながってくる感じがする。アズナインというネーミングは、宮沢賢治のイーハトーブに連なるイメージの展開があるなぁ。

10)この児童劇団の足跡、追っかけてみる価値はある。楽しみだ。

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2012/10/30

new-T  「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス」 <2>

<1>よりつづく 

Coco
「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス <2>
龍庵・篇 2011/11/10~2012/10/13 宮城県震災復興・企画部 震災復興推進課 石川裕人年表
★★★★★

1)「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス」におけるnew-Tこと石川裕人の70におよぶレポートを読んでいて、いくつかのことに気がついた。たくさんの人脈に囲まれている。もうすぐ還暦というところだったので、当然のことだろう。特に演劇関係のネットワークが力強く根付いている様子が見てとれる。

2)彼はたくさんの情報をここに残していってくれたが、まずは注目したの、「震災を忘れない (大河原町)」(2012/01/29) という記事だった。

3)new-Tです。

 今回は2月11日初日を迎える仙南地域の子ども劇団、AZ9ジュニア・アクターズを紹介します。手前味噌ですが、わたしはこの劇団に16年間16本の戯曲を書きおろしていて、いわば座付き作家ということになります。

 まずAZ9ジュニア・アクターズのことを説明しましょう。以下略してAZ9(アズナイン・編注)とします。AZ9は仙南地域の阿武隈川(A)と蔵王連峰(Z)の環境を共有する9つの自治体2市7町(白石市、角田市、蔵王町、七ヶ宿町、大河原町、村田町、柴田町、川崎町、丸森町)の小学校4年生から6年生で構成された児童劇団です。

 平成5年(1993年)に結成され、毎年6月小学校4年生を対象に募集、オーディションを経て劇団メンバーとなります。総合芸術である演劇への参加を通して、仙南圏域の将来の文化活動を担う人材を育成することと、豊かなコミュニティ作りがこの事業の目的です。

 平成12年度には「自治大臣賞」を受賞しました。AZ9の卒業生は総勢220名を超え、学生や社会人として各方面で活躍しています。
石川「震災を忘れない (大河原町)」(2012/01/29) 

4)そうなのだ。石川裕人の劇作風雲録をみると、このAZ9用に書き下ろしている作品がたくさんある。とりあえずメモできる範囲で見ると、以下のようになっている。(正しくは後日修正)

1997/02公演 「転校生」~時の十字路の物語~
1998/02公演 「明日また遊ぼう」
~時さえ忘れる蔵王の麓のファンタジー~
1999/02公演 「SI★MI」~小さき生き物たちの伝説~
2000/02公演 「山猿の子」~さよなら20世紀~
2001/02公演 「しーんかーんミステリー」~誰かが僕らを夢見てる~
2002/02公演 「ナイトランド」~夜を呼吸する妖怪たちの物語~
2003/02公演 「本の中の静かな海」SHI★MI
2004/02公演 「THE RIVER STORY」
~AZ9版「楽しい川辺」~
2005/02公演 「銀河のレクイエム」
2006/02公演 「眠りの街の翼」
2007/02公演 「遊びの天才 遊びの国へ行く」
2008/02公演 「少年少女図鑑」~僕たちは理科室から旅に出る~
2009/02公演 「アズナートの森」
2010/02公演 「A TREE」~夢をつなぐ大いなる樹木の物語~

2011/02公演 「ランドセルの不思議な旅」
2012/02公演 「フレンズ」~蒼い海と碧の山の間でわたしたちは大きな白い大漁旗を上げよう~
2013/02公演 
THE RIVER STORY」水鏡の中の不思議な世界~AZ9ジュニア・アクターズ結成20周年記念公演 石川裕人「劇作風雲録」ZA9活動記録などを参照

5)AZ(アズナイン)ジュニアアクターズについては、HPもあるようだし、20年も続いている活動のようなので、後日、ゆっくり追っかけてみよう。

6)さて、今夜このかきこみを書き始めたのは、このグループの指導をしているらしき渡部ギュウ(47歳)(当ブログ全文敬称略)について、考えたことがあったからである。ギュウは1980年代の初期から、石川裕人率いる十月劇場のスタッフであり役者であった。その彼が十月劇場後のOCT/PASSには参加しなかった。いずれにせよ、80年代の石川裕人を側でみていた一人であったことはまちがいない。

7)そして、今回、偶然にも、この「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス」の書き手の中に、私の側から見てつよいつながりのあった友人がもうひとりいたことを知った。こちらでの名前は龍庵という。彼は80年代初めから共同生活をしたり、一緒にアメリカや行ったり、インドで一緒だったりした瞑想上のつながりである。

8)書きたいことはいろいろあるのだが、まとまらん。今夜はすこし長くなりすぎた。簡単にまとめておく。石川裕人と私の距離は80年代に入ると、次第にひろがり共同性を失って行ったかに見える。石川+ギュウ、というつながりと、私+龍庵、というつながりを対比させて考えてみると、いみじくも「演劇」性VS「瞑想」性、という比較になるなぁ、と思ったと、ただそういうことである。

10)そしてさらに言いたかったことは、ポスト3・11において、これらのつながりが、一挙にこのココロプレスあたりで噴出して、さらなるつながりができたなぁ、ということについてであった。う~~ん、まとまらん。こだわりすぎかも・・・。なんとかして、80年代のミッシングリンクをつなげようとして、焦っている。(汗

<3>につづく

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石川裕人『又三郎』 20世紀最終版 仙台演劇祭参加テント公演 2000

Mata
「又三郎」20世紀最終版 
石川裕人作・演出 2000/10 TheatreGroupOCT/PASS 仙台演劇祭参加テント公演 上演台本p130 石川裕人年表 
Vol.3 No.0843★★★★★

1)光の谷は東北の山奥のへんぴな村です。
もちろんそんなへんぴな村にも小学校はあり、子ども達が元気に、遊んだり勉強したりしています。
光の谷小学校といいます。その小学校も今度の冬休みが来るまでには廃校になってしまいます。もう四人の子どもしかいないのです。
なぜなら光の谷に都会のゴミを処理する工場が出来るのです。その工場は都会の一週間に出るゴミさえ一日で処分する能力を持っているようで世界的にも注目を浴びています。その工場建設のために村の人みんな立ち退き料をもらって出て行ってしまったのです。
さて、今日はそんな光の谷小学校の二学期の始業式です。
上演台本 p2

2)私はこの演劇を見たことがある。でも、どうも感じが違う。だいたいにおいて、このパンフレットを見たことがない。それに石川「劇作風雲録」(第十五回 21世紀を目前に。)に紹介されているこの「20世紀最終版」には、くろ丸なる犬まで登場している。やはり、私はこのバージョンではないのを視ているのだ。

3)だいたいにおいて、くろ丸は、ニュートン宅にいけばいつもいて、最近は死んでしまったが、いつもまとわりついてきたのだ。ところが、このくろ丸を私はステージで見た記憶がない。つまり、私はこの「又三郎」の1988年版を見たのであろう。

4)忘れないうちに書いておこう。彼ら夫婦には子どもがいなかったが、動物は大好きだった。犬も猫も飼っていた。今頃、あちらで彼は、くろ丸や歴代のペットたちと戯れているのではないだろうか。

5)この戯曲は宮沢賢治の全体像から力を得ました。

 12年前の5月頃だったと思う。賢治さんに憑かれたようにこの戯曲の初演版を書いた。ほどなくして苦難と歓喜の入り交じった旅の公演が始まる。なんにしてもその時の全ては今現在まで続く演劇の光栄だ。

 初演スタッフ、役者、全国の仲間達に改めて大きく感謝します。そしてこの改訂版上演に集う全ての方々にも光栄あれ!! 上演台本 p130

6)初演版は1988年に上演されている。「劇作風雲録」(第八回 ワープロで書き始める。)をみると、たしかに、こちらのチラシのデザインは記憶に残っている。私はこちらを見たのだ。たしかにこの演劇は面白かった。あめゆじゅとてちてけんじゃ、永訣の朝は、それこそ彼と唯一同級だった中学校一年の年代に、国語で習ったし、雨ニモマケズの詩も、今でもひととおりそらんじることはできるが、宮沢賢治は、好きとも嫌いとも言えない時代だった。でも、あの芝居をみて、とても賢治が気になり始めたことは確かなのだ。

7)彼の演劇を全部見ていたわけではないからなんともいえないが、これほどまでに彼が賢治にのめりこんだのは、あの1988年が初めてだったのではないだろうか。とするなら、1996年から始まる彼のPLAY KENJIシリーズはむしろ、あの1988年初演版から始まっていた、ということも可能ではないだろうか。そして、むしろ大型だったように思う。

8)この戯曲は宮沢賢治の全体像から力を得ました。上演台本 p130

9)という限り、全体として賢治ワールドにつながる世界観である。台本だけではなく、演劇全体として考れば、それはそれは賢治ワールドそのものだった、と言っても過言ではない。すくなくとも彼は「賢治さんに憑かれたようにこの戯曲の初演版を書いた。」と言っている。

10)今回、こちらの20世紀最終版を読んだわけだが、なにはともあれ、初演版を読む楽しみが増えた。

11)宮沢 僕は、僕の生まれた世界の涯まで精一杯走り抜けたい。宇宙とか、地球とか、人間とか、動物とか、植物とか、好物とか全ての目に見えるあらゆるもの、目に見えなくて気配だけで感じる万象を全て記憶にとどめたい。上演台本 p86

12)正直にいえば、彼が宮沢賢治と重なってくれている時が、一番、観客としての私は楽だ。楽しい。1988年といえば、もう私は単に一観客でしかない。しかも、行かなくてもいいし、行ってもいい、というような微妙に自由な立場であった。そういう時代(1988年)だったからこそ、この演劇のことを印象深く覚えているのだろう。

13)ふう、ようやく、80年代のエピソードをひとつ見つけた。

14)インディ 私たちの考えることは、幻想、妄想、夢の類いであろうと全て存在してしまうという原理です。だから自分の立てた一つの仮説をとにかく信じて当たってくだけろのスピリットで研究するのです。

宮沢 つまり、自分が宇宙だということですね?

インディ そうです。ただ思い上がりはいけません。宇宙はその姿を無関心に開いています。私たちはそこに精神をゆだねるのです。

宮沢 この光の谷に何かあるのですか? 上演台本p97

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石川裕人版宮沢賢治第二弾 『カプカプ』PLAY KENJI#2

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「カプカプ」PLAY KENJI#2
石川裕人作・演出 1997/09 OCT/PASSスタジオ 上演台本 p80 石川裕人年表
Vol.3 No.0842★★★★☆

1)1997年に宮城県芸術選奨を受賞。54本目「カプカプ」PlayKenji♯2 宮澤賢治の「やまなし」を底本に生と死をめぐる幻想的な戯曲。舞台の半分がプールという仕掛けにお客さんが大喜びだった。「カプカプ」のカニの親子。シャワー状の雨が降る仕掛けに観客で来ていた外国人女性が「Fantastick!!」と歓声を上げていた。石川裕人「劇作風雲録」第十四回 とんだバブル。

2)石川裕人PLAY KENJIシリーズの第二弾。石川の賢治理解、あるいは換骨奪胎。換骨奪胎とは「古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる。」(Weblioによる)とのことである。

3)たしかに、この作品は宮沢賢治の童話「やまなし」に着想を得ているが、かなり趣のちがったものになっている。OCT/PASSスタジオで公演が行われていて、どうやら、水もふんだんに使えるプールを設定していたようだから、上演台本を読むだけでは、本当のこの演劇の面白さはわからないようだ。

4)山椒 驚くべき事に、生物学的には「死」という概念はない。ある高名な生物学者に、死とはなにかと尋ねたら、「生きていないこと」という答えが返ってきた。生物学が生の学問であり、その対極にある死はまさに死角だった。医学でもことは同様だ。

 死は、医者にとっては常に敗北であり、あってはならない事故であった。患者の死を迎える医学という項目は、内科の書物にも外科の書物にもなかった。医学では生命は不死であるべきだった。死をどのような形で引き延ばそうとも、遺伝子にはこうプリントされている。生命は元々死すべきものとして生まれてきたのだ。上演台本p40

5)決して大きくない、せいぜい50も入ればたくさん、というOCT/PASSスタジオの、プールつきのステージの、多分ファンタジックであっただろう雰囲気の中で、このようなセリフを語られれば、私などは、絶対、身の乗り出して、芝居の中にのめり込んでいくと思う。

6)しかしながら、そこに「答え」は結局もどってはこなかっただろう。

7)彼の「演劇」性はつねに「つづく」のだった。「完」というものがない。しかしながら、私たちが感知している「瞑想」性は、まずその「死」を自らのものとして体験する。自らの人生を「完」として終わらせることから、新しいなにかが始まるのである。

8)山椒 今死ぬ間際だぞ。死んだら泳ぐのも飛ぶのも自由自在だ。
ボン そうなのかい?
山椒 だって幽霊だからな。
ボン 幽霊か・・・、怖いなぁ。
上演台本 p667

9)瞑想をしていたら、あるいは「瞑想」を第一義としていた場合、このような台本は書けない。こうはならない。そうは知ってか知らずか、このような台本を書ける、というのが「演劇」性なのである。そこに展開されるのが、真実であろうが、彼いうところの「フェイク」であろうが、演劇は成り立つ。

10)この戯曲は宮沢賢治の「やまなし」に想を得て書かれました。相変わらず賢治さんには頭が上がりません。上演台本p80

11)石川裕人が劇作家であり、この演目がPLAY KENJIのひとつであってみれば、自前のスタジオで、このようなテーマの演劇が展開されたとしても、観客はそれを、ひとつの作品として「楽しむ」ことはできる。それに対して自由に自分の感想や体験、あるいは意見をいうことができる。

12)しかしながら、生の対局が死であり、生命は元々死すべきものとして生まれてきたのだ、とまで言われれば、私の「瞑想」性は、うずく。決してこの台本や演劇に満足することはないだろう。問いかけは深い。しかし、その問いかけに対する思索は、この芝居の中で、十分に行われていただろうか。結局は、答えは、観客のひとりひとりに返されていただろうし、ひとりひとりが、自らの内にその問を持ち帰ってこなければならない。

13)であるならば、私なぞは、芝居を見る前からこの問いにとりつかれていると言える。芝居をみることによって答えがでない(と決まっているわけではないが)のならば、あえて、芝居なんぞみる必要はない、ということになる。依然として問いは問いとして残ったままなのだ。

14)
PLAY KENJI#1 「見える幽霊」 1996/06
PLAY KENJI#2 「カプカプ」 1997/07
PLAY KENJI#3 「センダードの森」 2004/06仙台文学館篇
PLAY KENJI#4  「修羅ニモマケズ」 2005/09 
PLAY KENJI♯5 「ザウエル~犬の銀河 星下の一群~」 2006/12 
PLAY KENJI#6
 「人や銀河や修羅や海胆は」 2011/07 東日本大震災魂鎮め公演

15)上記を一連の石川版賢治理解とするならば、まずは6作品すべてを見てみなければわからないが、♯1と♯6にはかなり関連性があるということは言える。そのあいだにあって、♯2は、ちょっと小ぶりなアングラ・サーカスと言えないこともないが、せいぜい、アングラ・コントになってしまっているかもしれない。♯2から♯3につながるのは、ここから7年の月日を要する。

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石川裕人ポスト3・11ノンフィクション・ライティング 『宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス』<1>

Coco
「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス  <1>
new-T(石川裕人) 2011/11/10~2012/10/13 宮城県震災復興・企画部 震災復興推進課 石川裕人年表
Vol.3 No.0841

1)new-Tというペンネームは、彼のニックネーム、ニュートンからきているだろう。このブログの企画自体は多分投稿者には原稿料がでているのだろうが、どういうわけかペンネームで記事が書かれている。そもそもがそういう企画なのだろう。

2)だが、彼が2012/10/11に亡くなったため、最後の投稿日(10/13)に彼の実名が好評された。私は前回書いたような訳で彼のもうひとつの活躍を知っていたことになる。この一年間で書かれたレポートはおよそ70本。月平均6本のレポートが書かれたことになる。

3)偶然だが、第一回の取材先になっている閖上の大橋さんも、実は、ひょんなことで、以前に直接お話していて、こういう活動をしている人だとは知らなかった。その後、名取市長選などにも立候補されたようだ。途中で、私の紹介者も取り上げてくれたし、最後の取材先となった「いのちの電話」も、私としては、とても無縁とは思えない。

4)彼の文学的(?)な「演劇」性あふれる上演台本などにきりきり舞いしている私としては、これほどあっけらかんと、石川裕人のノンフィクション・ライティングが展開されていると、ちょっと拍子抜けしてしまう。なんだ、なんだ、ちゃんと書けるんではないか(爆)

5)ひとつひとつの記事を読んでいくと、彼の演劇ネットワークの人脈がいろいろ登場し、また、自分のことも書いている。

6)東松島にやってきました。
まだ2、3歳の頃わたしは矢本に住んでいましたが、もちろんどこら辺にいたのかなんてわかるはずもなしです。
10月にも東松島図書館でとある企画をやりました。

図書館の様子は次回書きますが、とにかくなにか縁のある土地です。new-T(石川裕人)2011年12月8日投稿分

7)そもそもこのブログはこんなところに「着目」すべき目的でつくられているわけではないのだが、石川裕人おっかけ最中の当ブログとしては、貴重な資料となる。つまり、「演劇」性ゆえに、山形県東根市出身と自称している彼の履歴をなんとか、ノンフィクション的に修正したいと思っているわけである(笑)。

8)その他、彼の演劇ネットワークのことがあちこちに散在しているので、ごく最近までの演劇活動の足取りをたどる上で、なにかと役にたつ。

9)それはそうと、前回このブログについて書いたところ、実はもうひとり、私の重要な親友が、こちらもまたペンネームでこの「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス」に投稿し続けていることが判明した。本人が明かしてくれたのだが、こちらは、まだ実名は控えておこう。

10)なんにせよ、このブログは、近年の石川裕人、そして3・11後の石川裕人を知る上では、かなり大きな資料となる。すこし時間をかけて再読したい。

<2>につづく

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2012/10/29

80年代の石川裕人

  .                 石川裕人年表
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1)おおよそ、70年代末までの石川裕人おっかけの第一回は、ほとんど一巡した。もうすこし細かい資料はあるし、場合によっては、もっと詳細にひとつひとつを取り上げない訳でもないが、それではあまりにもバランスが悪くなりすぎる。

2)さて、80年代に入っていこうとするのだが、正直いって、手持ちの資料がほとんどない。あるいは、人生の中での絡みがほとんどないと言っても過言ではない。

3)彼は、演劇工房跡のビルの中に自分たちのアトリエを構え、時には、テント公演を野外でやり、地方公演に出かけていった。団員は増え、スター役者も何人かでてきたようだ。評価も高くなり、仙台の演劇「界」にあっては、ひとかどの人物に見られるようになっていった。

4)それに対する私も、結局は病気上がりながら、東北大病院の裏手の元サウナビル跡に「瞑想センター」を開設、アメリカのコミューンに、仙台から21人の仲間たちとツアーを組み参加したりした。こちらも仲間が順調に増え、東北や全国のネットワークがつながりだした。

5)1983年には、私たち夫婦が結婚式をあげた。その時の司会は石川裕人ともうひとりの友達がやってくれた。だから、人間関係としては良好で、常に意識はし合っていたのだろうが、私が彼の劇団のスタッフになるということはあり得なかったし、彼もまた私たちの瞑想会に参加する、なんてことはなかった。

6)彼らは仙台市民文化事業団(あるいはその前身)などの後援をうけながら、その活動を拡大していったし、私たちもまた、独自のビジネスで、年商数億という業績を続けることができていた。今考えてみれば、これが私たちの「バブルの時代」であったのだろう。

7)1987年、ふたたび私はインドに向かうことになり、私たち家族4人は6月頃に旅立った。この頃、私は国内においてもカウンセリングの勉強を続けていた。彼が3・11後の2012年になって、支援ブログ「ココログ」の最後のインタビュー先となった「いのちの電話」などの相談員などもしていた。私は、その延長で、Oshoカウンセラー・トレーニング・コースを受けにインド・プーナに4ヶ月滞在したのだった。

8)そして、彼が1991年度の宮城県芸術選奨新人賞を受賞した時の受賞パーティーで、私は、たくさんの友人たちの祝辞の後で、「古い友人」として、やはり祝辞を述べる場をあたえられた。

Img_0001 
   1992/03 新人賞受賞パーティにて Photo(C)Saki

9)あの時、私はもう、「演劇人」石川裕人の最近の活躍など、評価できる立場になかった。私の彼との共同性は、小学校時代の学芸会のことだろうし、ニュートンというニックネームの由来についてあたりにしかなく、そのことを壇上から語った記憶がある。そして、最後には小学校の校歌を歌ったのだった。

10)私の中では、十月劇場が定禅寺通のアトリエから、河原町のアトリエに引っ越したのは80年代末あたりだと思っていたのだが、それは1992年になってからのことだった。

11)80年代の「石川組」は、カマチャン、ジュン、セイチャン、ミッコ、などに加え、ジロー、ギュウといった「若手」が活躍する、まったく別次元の世界へと成長していたように思える。

12)80年あたりで、最初のインドから持ち帰ってきた影響で、十月劇場中心メンバーのひとりであるカマチャンに、「演劇」性と「瞑想」性のクロスするポイントとしての「サイコ・ドラマ」などの活動を提案したこともあったが、私自身、その「演劇」性に疎かったので、そのような方向には、なにひとつ動いてはいかなかった。

13)この流れは、1995年の「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」までつづくことになる。そして、そこからは、まったくの接点を失ってしまったかにみえる。

14)今回、石川裕人の逝去にともない、さまざまな記憶や記録をつなげようと思っている。私が積極的に語りうる部分のほぼ80%は終了した。あとは、80年代、90年代、そして21世紀における石川裕人像は、それぞれに関わった人々が自らの記録として語ってくれるのを楽しみにしたい。

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次第に地歩を固める石川裕人 『喜劇・愛情劇場・白痴の青春・十字路篇』1976

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「喜劇・愛情劇場」 白痴の青春・十字路篇
いしかわ邑人作・演出 1976/11/10~14 劇団洪洋社 仙台市定禅寺通「演劇工房アトリエ」  石川裕人年表
Vol.3 No.0840★★★★☆

1)この頃の「いしかわ組」は、次第に劇団としての装いを明確にしていった時代だと云える。名称をそれらしく整え、自前の稽古場をもち、中央部のビルにての公演である。

2)私も見に行ったが、内容など覚えていない。ただ、狭いビルの上階にあるステージで、ギュウギュウに押し詰められた観客たちが、さあ、今から、何かがおこるぞ、という期待感でいっぱいでステージを見ていた。前のほうに席には、役者たちが大きく叫ぶと、唾が飛んできた。

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3)それまでは、石川以外まったくのドシロートの役者陣だったが、次第に、他の演劇グループから移籍してくるメンバーもでてくるようになり、ポスターや情宣もそれなりに整ってくる。

4)私は、個人的に観客のひとりであったが、まさかこのステージに一年後、別の劇団の役者として私自身が立つとは思ってもみなかった。

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立ち昇る日高見の地平 『熱日高彦神社創祀壱千九百年記念大祭』

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奉祝「熱日高彦神社創祀壱千九百年記念大祭」
島田神楽会他 2012/10/28 宮城県角田市・熱日高彦神社
Vol.3 No.0839

1)祭りがあるという。行きませんか、というお誘いである。どんな祭り? 知人が神楽を舞うという。へぇ~、それは見に行きましょう。そういえば、以前から神楽に参加していて、昔20年ほど前にもテレビにでたことがあったよね。

2)どこの神社? お日高さんよ。あ、それは絶対見に行かなくちゃ。22年ぶりに、12演目全てのフルバージョンが一挙に奉納されるらしい。

3)この神社の古式ゆかしいことは以前より察していた。そして、3・11震災後、飯沼勇義の「仙台平野の歴史津波」(1995/09 宝文堂)か「3・11その日を忘れない。」(2011/6 鳥影社)かどちらかの記述で、この熱日高彦神社の格式の高さ、ゆかりの深さに仰天していたから、これは絶対見なければならんと思った。見逃すわけにはいかない。

4)今日は、もう遅いので、いつかゆっくりこの経緯を紐解くことにする。

5)結論からいうと、1992年に私的メモに残しておいた、「ムーからやってくる龍」が、今こそ天空に再び舞来たりている、と感じることとなった。

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6)「縄文時代・高見産霊(タカミムスビ)・日高見国の歴史津波時代と歴史時代」というプリントが、お祭りのパンフレットに挟まっていた。自宅に戻ってから見てみようと思った。帰宅してみたら、なんとやっぱりこのプリントの作者は飯沼勇義氏だった。

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7)今日のおまつりで、私はなぜ、この地に縁ができて、30数年このかたこの地に通い続けているのか、いまさらながらに分かった気がした。

8)脈絡なく、今夜はメモだけしておく。この地、阿武隈川の土手近くには天平時代の郡衙(ぐんが・役所)がある。そこから4キロ東方にこの神社があり、春分の日、秋分の日には、郡衙からみると、この山から日が昇る。そして、西には対応する形で、斗蔵山が鎮座しており、そこに日が沈むのである。つまり、この三つのポイントは一線に東西にキチンと並んでいるのであった。

9)さて、そうしてみると、長島榮一「郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡」(2009/02 同成社)にみる仙台郡山遺跡における西の太白山に対応する形の、東の「日高見」は、どういう形で存在しているのだろう。

10)これはもう、太平洋そのものだった、とみることができるのだろうか。

11)ひとつひとつがつながり、ひとつひとつが紐解かれていく。神秘の扉が開きはじめている。

12)エピソードとして、これまた、珍しい人とここで再会したことが、なお不思議さに輪をかける。境内で町内会の人々のボランティアで振舞われていたサンマの炭火塩焼きをいただいていると、やはりサンマをほおばっている、となりの男性の顔に見覚えがあった。高校PTA時代にお世話になったK先生だった。野球部が甲子園にいった時、私はPTA会長として応援団を組織し、、彼は応援団を率いてアルプススタンドでブラスバンドの指揮をとられた。

13)彼らは35年におよぶキャリアを持つデキシー・ジャズバンドのメンバーである。今日のお神楽の合間に、彼らの音楽も奉納された。なんとも素晴らしい取り合わせである。

14)午前中はなんとか持ちこたえていた空模様だったが、午後からはポツポツと落ち始めた。夕方には、しっとりとそぼ降る感じになって、参拝客もすこしづつ帰り始めた。だが、むしろ、そこから、ゆっくりと夕闇が落ち、かがり火がたかれ、静かに静かに鎮魂の舞いが、タカミムスビの大地を舞った。

15)沿革 熱日高彦神社に古くから伝承されてきたお神楽「日高神楽」は、名取の熊野神社に伝承される「熊野堂神楽」が伝わったものとされています。パンフレット「日高神楽について」

16)さてさて、さらにこの地のネットワークの、ひとつひとつが、今、語られはじめようとしている。

<「解き明かされる日本最古の歴史津波」 熱日高彦神社>につづく

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2012/10/28

ヴァンパイア伝説と天皇制を掛け合わせた政治風刺劇 いしかわ邑人作・演出 『月は満月』 劇団洪洋社 旗揚げ公演 1976

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「月は満月」
石川裕人作・演出 1976/09 「劇団洪洋社」 旗揚げ公演 仙台市・白鳥ビル  石川裕人年表
Vol.3 No.0838
★★★★☆

1)「ラジカルシアター座敷童子」を創設し、たった1年で「劇団洪洋社」へと歩を進めた。着実な進展だった。メチャメチャなことをやっていたが集団としてのノウハウはきっちり学んでいた。

 ’76年旗揚げ公演戯曲6本目「月は満月」を白鳥ホールで上演。ヴァンパイア伝説と天皇制を掛け合わせた政治風刺劇。そして遂に稽古場を持つ。仙台市の南部向山・野草園の登り口の近辺のこれまた5坪ほどの小さな店舗跡だった。隣が大家さんの部屋だったので防音には気を遣った。しかし、どんな狭く劣悪な環境でも自分たちの稽古場は創造の源である。

 この場で酒を酌み交わし、談論風発、泊まることもしばしば、女子高生シンパが制服のままでやってきて泊まり込み、「娘を帰しなさい」って親から電話がかかってきたこともある。これじゃまるで新興宗教である。彼女もその後入団することになるのだが。石川裕人「劇作風雲録」第四回 劇団洪洋社

2)石川裕人年表を作成しながら、80年代についての記述がまったく進んでいないことに驚き、ちょっとしたあせりもでてくる。もっとバランスよく埋めていくほうがいいのではないか、と思いつつ、今手元にある70年代の資料をなにはともあれ貼り付けておく。

3)70年代といっても、すでに記憶ははるかな40年前のことになりつつあり、散発的にでてくる資料が、眠っていた記憶を呼び起こしてくれる程度。今後も、友人たちの記憶が蘇ってくることを期待しながら、その手がかりをアップしつづけてみよう。

Po4)この時期になると、チケットはキチンとした印刷屋にだされ、ポスターを担当していたサキ工房の技術も安定し始める。チケットをコピーしたせいで、文字が中心のポスターになる傾向があったのか、とも思う。

5)私はこの頃、石川友人劇団の優秀な「観客」だったと思う。その細かい内容については覚えていないが、このような芝居が行わえる「白鳥ビル」というそのものが、私の中では、ひとつのブランド化していったように思う。

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2012/10/27

幻のチラシ発見! 石川裕人第5作目 『夏の日の恋』 贋作愛と誠 1975<2>

 

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<1>よりつづく

←クリックすると幻のポスターが見える。元の会場に二重線が引かれ、「喫茶 原っぱ」に訂正されている(笑)


「夏の日の恋」
贋作愛と誠 <2>
石川裕人作・演出 1975/01/24~26  ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演 東北大学片平キャンパス内 元喫茶店「ルーエ跡」改め、仙台市原町 「喫茶店 原っぱ」にて公演 石川裕人年表

1)台本、チラシ、写真など全て散逸している。石川「劇作風雲録 第四回 劇団洪洋社」

2)石川裕人は、この作品についてこのように述べているが、写真、ポスターに続いて、チラシが発見された。完全なものか、何種類か存在したのか、それもわからないが、なにはともあれ、貴重な資料である。

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3)わき目もふらず、爆弾かかえて、あいつに突っ込むあたしを追う誠。

誠、忘れてしまったの?

あの真夏の一日の激情を!! 

真夏のあの日を鮮血に染め、討つべき奴は誰だ!?

圧倒的大迫力で、75年をイクイク、毒見の季節の芝居道、其之壱。 チラシコピーより

4)圧倒的大迫力、ってとこが、なかなか力が入っていて、いいなぁw

5)伊達政宗ゆかりの仙台市北山・資福寺・覚範寺の裏手にあった「雀の森」。当時、ここでミニコミ「時空間」をつくり、座敷童子のスタッフの何人かは、ここから出撃していった。石川裕人は、市内福沢町に別途「サザンハウス」なる共同生活体をつくっていた。

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20歳の石川裕人はアングラ劇作者として顔を現した 『顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!』 演劇場座敷童子 第2回公演

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「顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!」
「いしかわ邑人/作・演出 1974/06 演劇場座敷童子 第2回公演  仙台市民会館小ホール 石川裕人年表
Vol.3 No.0837★★★★★

1)当時仙台には劇場なんてものは仙台市民会館と県民会館、電力ホールくらいしかなかった。もちろんアングラ劇団も小劇場系劇団もなかった。私たちは仙台演劇界の鬼っ子として誕生したのだった。

 その証拠として翌年’74年「演劇場座敷童子」第2回公演「顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!」を仙台市民会館小ホールで上演した時のこと、「河北新報」に宣伝に行き、記者からけんもほろろに扱われた。他劇団から私たちは全く無視された。市民会館のスタッフも「下手だなあ」とご丁寧な感想を述べてくれた。

 この時、私は二度と公共の会館なんか使うか!!と思った。しかし、それがアングラへの道筋をはっきりさせてくれたようにも思うのだ。それが翌年’75年の劇団名改称とメンバー総入れ替えにつながる。つまり、劇団員とのつながりを密にすることが作風と集団論の変化を生んだ。石川裕人「劇作風雲録」第三回 仙台初上陸。

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 3)この時のチラシは私が作った。こんなの作ったことなど、すっかり忘れていた。サキが提供してくれた膨大な資料の中に発見し、あっけにとられた。ポスターも作ったはずなのだが、それは見つからない。黄色い模造紙にシルクスクリーン印刷だった。 

4)このチラシで下のほうに当時のたまり場喫茶店「どぐら・まぐら」と雑誌「時空間」の名前がでているのが、懐かしい。ポスターのほうは、もっと綺麗で刺激的だったのだが、また私なりの「参加」癖が始まった。ポスターの下のところにもやっぱり「広告」を入れたのだ。それは団体名。「男根武装同盟」と、ただ、これだけである。

5)仲間うちには好評だったのだが、市民会館の会場入口に貼るのは職員から拒否され、その部分だけ、切り落として張り出された。それは覚えているが、芝居の内容なんて、まったく覚えていない。会場にさえ入いんなかったんじゃないか・・・? わからん。 

6)宿命の対決はコブラ仮面と明智小五郎の上にだけ降りかかってくるものだろうか? 顔を主張しはじめた獅子は予兆の風を感じて天で吠える、吠える、吠える!!!

 あの市民会館小ホールに飛行船つぇっぺりんが出現、そしてステージが踊るぞ。 チラシ文面
 
7)ああ、もはや何をいっているのかわからない。おーい、ニュートン、ちゃんと説明せよ。
 
8)今回「劇作風雲録」 の承前を読んでいて了解したことがあった。
 
9)(小学4年生の)ある日の授業は国語と図工を合体させたもので、粘土細工でキャラクター人形を作り、それを人形劇として発表するまでを3人くらいのグループで行うというものだった。手先の不器用さは子どもの時からで図工は不得意だったが、国語は大好きだった。作文も得意だったので創作劇の台本は書けるような気がした。
 
 創作人形劇の発表会は大受けだった。そしてその時「ゆうちゃんはシナリオライターになれるわね」と、憧れの越前千恵子先生が言ってくれたのだ。劇作風雲録」 の承前
 
10)この頃からたしかにこの男、「手先の不器用さは子どもの時からで図工は不得意だった」のだ。いや、不器用さは他のことにもいろいろあって、どうも側で見ていられない、という、どこか周りの者にボランティア意識を刺激する何かがあるのだ。これが、結局私がいうところの「ニュートンという名前の由来」につながってくる。つまり、側にいると、頼まれないのに、彼の「演劇」性をお手伝いしたくなるんだな。
 
11)このチラシの小林少年役は20歳当時の石川裕人だが、あとのスタッフの名前は誰が誰やら、もうわからない。明智小五郎役は誰だったんだろう。

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70年代から80年代にかけての大きな分岐点 洪洋社公演『ビギン・ザ・バック』自安降魔可魔・作演出

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「ビギン・ザ・バック」
自安降魔可魔・作演出 1977/09 劇団洪洋社 杮落とし公演 石川裕人年表
Vol.3 No.0836★★★★★

1)早いもので石川裕人が逝ってから、すでに半月以上経過した。湧き上がる個人的な記憶を整理し、友人たちとの語り合いの中から、あらためて劇作家・石川裕人という全体像を再現しようとすると、実に膨大な作業になることがわかってきた。

2)ましてや作者、役者、演出、舞台、制作、情宣、協力者、そして全国の観客者の全てに思いを巡らして行く時、これは再現するなんて、ほとんど不可能なほどの広がりがあったのだ、ということがあらためて痛感される。

3)それにしても、小学校以来の個人的なつながりを「誇る」私ではあるが、実はそれはせいぜい70年代いっぱいが最後だったのではないか、とさえ思う。80年代になれば、私は、一観客にとどまり、あるいは、観客でさえなくなっていく。マスメディアに登場する石川裕人の読者であったとしても、それは一時期であり、やがて、読者でもなくなっていく。

4)1980年代以降について、私はこの人の偉業について、あれこれ語る資格はない。もう、それは、彼の関係者なり、ファンなりが、彼の総体をなしていた。私はむしろ、彼の「演劇」性からは退却していった。

5)しかし、それは彼を中心として見ていた場合のことであって、むしろ「瞑想」性に活路を見つけた私からみれば、彼は、「戦線」から「離脱」していったのである。私は私なりに、自らの道をしっかりと歩み始めていたのである。

6)ある地点までは、一緒に歩いている意識が強くあった。人間関係も互いに重層していたことは否定できない。しかし、それはある地点までだった。新たなる1980年代に向けて、互いがそれぞれに自らの歩みを進めていた。

7)その分岐点にあるのがこの演劇「バック・ザ・ビギン」である。
 

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8)私は上のピンクのチラシを自分が当時勤めていた印刷会社で製版し、オフセット印刷した。下の黒いシルクスクリーン印刷ポスターはサキが作った。脚本を書いた作者も、舞台に登場した役者たちも、2012年につながってくる重要な友人たちである。

9)私はこの時、ほぼ同時に、他の劇団でステージに立っている。私は作品論を細かく展開するほどには、演劇を理解できていない。よくわからない、というのが本当のところだ。しかし、その時に、その芝居が、私になにをしたのか、情況にどのようなインパクトを与えたのか、という意味では、私は私なりに語る権利と義務を擁してしていると、ひそかに思う。

10)私は、これらの芝居が上演された直後、インドに旅立つことになる。2年前にOshoの「存在の詩」を読んだ直後、私はすぐにミニコミ誌「時空間」を廃刊を決意し、インド巡礼の準備を進めていった。そして77年12月、この劇団の稽古場兼練習場で、数十名の多勢の激励会を開いてもらい、インドへと旅たったのだった。

11)私は、この人々に、なにごとかのお返しをしたいと思っていた。なにか価値あるなにかを、この人々に持ち帰ってくるのは、私の義務でさえあると思っていた。この辺の経緯については、他にも書いているので割愛する。

12)しかし、それはある意味、達成されることはなかった。(達成された、と見ることもできるが、視点による。いずれ後述する)。私がインドの一年間の「瞑想」の旅から帰ってみれば、私を待ってくれていたはずの、あの洪洋社のメンバーは、ちりぢりになっていた。その「共同性」は拡散してしまっていた。

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13)私はこの劇団洪洋社解散パーティの一ヶ月後に、灼熱のインドから帰国した。12月に入り、すでに小雪が舞う季節となっていた。木枯らしの吹くバス停で、遅れてやってくるバスをひとり待っていた、あの夕方の自分の風景が、今だに忘れられない。

 

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石川裕人は宮沢賢治の生まれ変わりなのか 『見える幽霊』 PLAY KENJI#1

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「見える幽霊」PLAY KENJI#1
石川裕人作・演出 1996/06 仙台演劇祭'96プレ公演  盛岡・ イーハトーブ演劇祭招待参加 上演台本p103 石川裕人年表
Vol.3 No.0835★★★★☆
 

1)今年、1996年は賢治さんの生誕百年です。偉い人もマスコミもみんなそう言っているので多分そうなんでしょう。

 考えてみるとキンさん、ギンさんは賢治さんより年上なのだ。(感心する事なのかは別として)ただ、そんなに昔に死んだ人ではないということ。賢治さんの研究家は星の数ほどいて、賢治さんを信奉する人、賢治さんを愛する人、賢治さんに一方ならぬ親近感を持つひと、賢治さんの生まれ変わりであるとのたまう人(これは愚生)、その人たちの賢治像はその人達分くらいあるといっても過言ではない。

 それほどの人は、世界的に見てもいなにのではないかと、この前お会いしてお話をする機会を得た賢治さんの親戚で宮沢賢治記念館の館長さんも言っておられた。多分そうなのである。だからこれから愚生の書くこのお芝居も一般の賢治像からはほど遠いものになることは確実なところです。そうなんなかったら御免ね。

 とにかく「PLAY KENJI」ですから賢治さんと遊ばないことには始まらないのですが、賢治さんが木立の陰や、風にザワザワそよぐ草叢の陰、神社の狛犬の陰から私たちの馬鹿騒ぎをちょいと覗いてくれるだけでいいのですが、 上演台本p1

2)当ブログでは、「TheatreGroup"OCT/PASS"」を劇団オクトパス、「PLAY KENJI」をプレイ賢治と表記してきた。自分のブログに書きつけるメモならそれでもいいのかもしれないが、そろそろ作者自身が記した表記方法に改める時期がきているかもしれない。

3)劇団オクトパスはどうして「TheatreGroup"OCT/PASS"」にならなければならなかったのだろう。プレイ賢治はどうして「PLAY KENJI」でなければならなかったのだろう。十月劇場を超えるという意味では"OCT/PASS"であるのは理解できるが、なぜにTheatreGroupでなければならなかったのか。そして賢治ではなくて、KENJIでなくてはならなかったのか。

4)私がもし東日本大震災魂鎮め公演「人や銀河や修羅や海胆は」に感動したとすれば、そこには自分が思う賢治がいたし、劇団や役者が演じる芝居や、そこから広がるイメージが、宮沢賢治という背景とつながることによって、限りない空間を持ち得たからだった。

5)その、みんなの自分勝手な「賢治像」に対峙させて、あえて「KENJI」とすることによって、作者は作者なりの強い思いを込めようとしたのだろう。

6)「PLAY KENJI」シリーズ(と勝手に言ってしまう)は6作ある。♯3は勝手に3にしてある。

PLAY KENJI#1 「見える幽霊」 1996/06
PLAY KENJI#2 「カプカプ」
 1997/07
PLAY KENJI#3 「センダードの森」 2004/06仙台文学館篇
PLAY KENJI#4  「修羅ニモマケズ」
 2005/09 
PLAY KENJI♯5 「ザウエル~犬の銀河 星下の一群~」 2006/12 
PLAY KENJI#6
 「人や銀河や修羅や海胆は」 2011/07 東日本大震災魂鎮め公演

7)PLAY KENJI、Play Kenji、Play  KENJI、と様々に表記されているが、ここはPLAY KENJIに統一しておこう。ここで気がつくことは、実にこのPLAY KENJIシリーズは足掛け15年の期間に渡って続いており、準備期間を考えれば、石川裕人のTheatreGroup"OCT/PASS"における作品の一貫した柱になっている、ということだ。

8)それに比して、もうひとつの柱に思えた「現代浮世草紙集」シリーズ(と勝手にいってしまう)は、スタートダッシュはよかったものの、21世紀に到達する前に消滅してしまった。

現代浮世草紙集第1話 「素晴らしい日曜日」 1995/03
現代浮世草紙集第2話 
「小銃と味噌汁」 1995/06~07 
現代浮世草紙集第3話 
「教祖のオウム 金糸雀のマスク」 1995/11
現代浮世草紙集第4話 「犬の生活」 1996/02
現代浮世草紙集第5話 「1997年のマルタ」1997/03 

現代浮世草紙集第 話 「夜を、散る」1999/11

9)「現代浮世草紙集」は「AZ9(アズナイン)ジュニア・アクターズ」シリーズや、「エイジングアタック」シリーズに継承されていったのかもしれない(未確認)。

10)’08年、94本目「少年の腕」ーBoys Be Umbrellaーはアングラ・サーカスという新しいスタイルを求めて書き下ろされた戯曲。というより得意分野にシフトし直したという意味合いが強い。得意分野とは綺想、フェイク、大法螺である。この分野になると思わず筆が走る。最新作「ノーチラス」までこの分野の戯曲が多くなっているのは何か意味するものがあるのだろうか?石川「劇作風雲録」 第二十回最終回 砂上の楼閣?

11)アンダーグランド・サーカスというコンセプトは、シリーズ化しているわけではないが、PLAY KENJIを超えていく、石川裕人の次なる「つづき」の位置づけにあったのではないだろうか。

12)「賢治さんの生まれ変わりであるとのたま」って見せる石川裕人だが、唐十郎を演劇の師としている以外、他の人物に自らの寄せて語っている部分はすくないのではないだろうか。

13)転生輪廻のシステムは、チベット密教の継承者探しに見られるように、一丁一旦に確認されるようなものではないが、本人がそのようにいう限り、かなり親近感をもっていたことはたしかだろう。

14)葬儀にあたって、多くの人々の弔問を受けて、お母さんが「こんなに多くの人たちに慕われているとは思っていなかった。裕二は何かの生まれ変わりだったんだろうねぇ。こんな田舎っぺの元に生まれてくれて、どうもありがとうねぇ」と、遺影の話しかけていた。

15)いずれにせよ、3・11後とはいえ、当ブログとしては、急速に賢治への収束を感じた限り、この度、降って湧いた、石川裕人おっかけの収束点も、この「PLAY KENJI」シリーズあたりに見ることができれば、とても分かりやすいと思う。

16)賢治 あなた達は幽霊です。もちろん、僕も幽霊です。見える幽霊。
 僕たちという現象は、有機交流電燈の、ひとつの青い照明です。あらゆる透明な幽霊の複合体です。風景やみんなと一緒にゆらゆらゆらゆら明滅しながら、たしかにともり続ける、因果交流電燈のひとつの青い照明です。
上演台本p100

17)最初、賢治シリーズの始まりとしては「見える幽霊」というタイトルはあまりふさわしくないように感じたが、賢治の「春と修羅」を下敷きにしているかぎり、これはこれで石川版「賢治」ということになるのであろう。

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2012/10/26

「演劇」性と「瞑想」性がクロスするとき 石川裕人『失われた都市の伝説』 劇団洪洋社1976

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「失われた都市の伝説」 廃都伝--序--
いしかわ邑人(石川裕人)/作演出 1976/07/25~08/01 劇団洪洋社 於・洪洋社道場 石川裕人年表
Vol.3 No.0834★★★★☆

1)いつの間にか当ブログのカテゴリ「Meditation in the Marketplace2」も108個目の書き込みに到達した。このカテゴリをカバーするために、石川裕人の作品からひとつ選ぼうと思った。ちょうどタイミングとしては、この「失われた都市の伝説」がぴったりくるのではないだろうか。

)「都市が、洪水をともなって出現する、巨大な青鯨に呑みこまれるだろう、その日に--------」公演ポスターより

3)なんというコピーだろう。この芝居が公演された若い日々から、35年というはるかな日々が経過したあと、この大地は、未曾有の大地震に見舞われ、巨大な大津波が都市を飲み込んだ。石川裕人の最後の遺作となったのは「方丈の海」だった。テーマは、巨大津波に都市が消え去った後の10年後の設定だった。

4)若者たちがファンタジーとして描いていた想像の世界が、そんな日があったことさえ忘れかけていたころ、、ひたひたと「現実」として迫りつつあった。

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5)劇団洪洋社という右翼的な名称は当時愛読していた夢野久作の父親で国家主義者の杉山茂丸の主宰した玄洋社を意識した。字面が固くて良かったのと、洪水の海というイメージも好きだった。そしてどこか大陸浪漫的な響きにも憧れをもった。これは多分に唐十郎師の影響もある。考えてみれば、当時のアングラ系の芝居はどこか右翼的な匂いを放っていたようにも感じる。それは己の肉体という逃れられない捕縛状態に鞭打つ超保守的な思考方法から編み出された演劇論にもよるのだろう。石川「劇作風雲録 第五回 地下に潜る」

6)この後、石川が自らが主宰する劇団名の命名法を、「十月劇場」から→「oct/pass」という、「ナンセンス」性へと向けていったこと考える時、この「洪洋社」というネーミングだけは、極めて重要な意味をもってくるのではないだろうか。

7)洪水のイメージも「好きだった」と言っている。好きではあったけれど、それは彼にとっては、いずれ到達する「妄想の帝国」の中でのモチーフでしかなかった。

8)しかしながら、現実は、彼の想像=妄想を超えて現出する。1995年のオウム真理教出現の時は、ある意味、オチョクルだけの力がまだあったのに、2011年においては、彼の「演劇」性は、どっぷりと巨大津波に飲み込まれていくことになる。

9)「演劇」性が「ナンセンス」性へと向かい、ともすれば、次なるステップを見失いかけた時、彼には「瞑想」性がみえてきつつあっただろうか。

10)次への「つづき」を考えていた時、3・11巨大津波は、彼と都市とをどっぷりと呑み込んでいったのだった。

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『嗚呼!!水平線幻想』白骨街道爆走篇 1977年ひめんし劇場 <1>

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「嗚呼!!水平線幻想」白骨街道爆走篇
うみだるひめんし作・演出 ひめんし劇場”おくのて芝居”公演 1977/9/9~11 仙台市定禅通「演劇工房」 石川裕人年表 <1>
Vol.3 No.0833★★★★☆

1)「私にとって演劇とはなにか」を考える時に、この芝居を考えないわけにはいかない。私の今回の人生において、演劇役者としてステージにあがったのは、この時一回限りである。しかも、今回見つけた友人の古いファイルに挟まっていた新聞記事の、この写真が、今のところ、唯一のその証拠である。

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左が私。上半身はだかで背中に「南無妙法蓮華経」と墨筆されている。

「おくのて芝居」
 ひめんし劇場”おくのて芝居”公演「嗚呼!!水平線幻想--白骨街道爆走篇」は、9日(金)から11日(日)までの3日間、18時半から演劇工房(定禅寺通ナショナルショールーム隣ムサシビル4階)で開く。

 数年前、高速道を走行中のバス運転手が、突然両手をあげて”バンザーイ”とやった事件にヒントをえて、天皇の御代に生きる日本人の深層にひそむ国家--天皇--個人をめぐる諸問題を、時にユーモラスに、時には鋭く描いている。同劇団旗上げのオリジナル脚本。たびたび登場する某菓子メーカーの”1粒で何メートル走れるか”PRがなかなか効果的。公務員や学生など20代5人が団員。800円(前売700円)、詳細は電話番号・塩野方まで。「週刊せんだい」1977/09(発行日未確認)

3)どうやらこの記事を見ると、上演予告であり、したがって上記の写真は、情宣用の前撮り写真のようだ。たしかに、この写真を見る限り、ヘルメットから髪がはみ出しているので、私はまだ長髪のようだが、公演当日、ばっさりと切り落とし、坊主頭でステージに立った。

4)この演劇については、いままで何度か当ブログでも触れているので、いま見つかった部分を再掲しておく。

5)1975年に「存在の詩」を読んで、1977年にインドに行くまでの間、私は全部で10名ほどの小さな印刷会社で働いていた。旅行資金のために一生懸命だったということもあるが、仕事そのものがとても楽しかった。写植、版下、デザイン、編集、校正、製版カメラ、フィルム現像、オフセット印刷機の運転、製本、と、印刷技術者として学ぶべきことのひととおりを覚えた。この時の体験がいかに楽しかったかは、いまだに年に何回か当時の夢を見ることで確認できる。

 そんな時、その会社の社長の甥で、高校の教師をしている青年が、印刷工場を訪ねてきた。演劇集団を立ち上げるためのパンフレットやチラシ、ポスター、チケットなどの印刷を依頼されたのである。窓口になってひととおり面倒みたのだが、最後の依頼事には参ってしまった。

 演劇をやるのだが、ひとり役者が足りない。ひとつ、その面も手伝ってくれないか、という。とんでもないことを見こまれてしまったものだ。例によって、私は小学校3年生以来、芝居や演劇の役者としては、自らの才能を確認できなかったので、すみやかに辞退した。

 しかし、相手の依頼も強引だった。まるで、候補者は私しかいなくて、しかも台本は私のために書いたような口ぶりだ。ましてやこの青年、私の学校の先輩にあたっていたので、ついつい、断りきれずに、その演劇集団の立ち上げに役者として参加することになったのだった。

 練習そのものは面白かったが、そのシナリオがいまいち面白くなかった。高速道路を疾走する観光バスには、ある結社の人々が乗っている。さまざまな歌が唄われ、高揚する。やがて全員が恍惚となった時に、突然、いままで静かだった運転手が、ハンドルから両手をあげて「万歳!」「万歳!」を連呼する。軌道を失った観光バスは、突然、異次元の世界に突入する。その時、突如、空間に現れるのが、上半身裸、スキンヘッドの右翼少年だ。その背中には、「南無妙法蓮華経」と大書されている。そしてアジテーションをブツのだ。

 その右翼少年の役をもらったのだが、どうも私は乗り切れなかった。真夏の練習で、クーラーもないアングラ演劇団のけいこ場も蒸し暑い。街なかのメイン通りに面したビルの階上にあるとは言え、なんともぐったりしたものだった。

 ところがある日、にわかに空がかき曇り、ものすごい雷鳴が下った。練習していた団員達は、全員けいこをやめ、窓際に走り寄った。まだ昼下がりだというのに、西の空はどんよりと暗雲を垂らし、稲妻が何筋も走った。まるで、倦怠していた団員たちを激励するのか叱責してくれているかのようにさえ思えた。いやいや、あの迫力は、まるで街全体に「喝!」を入れているような、激しいものだった。ビルの階上から眺める稲妻は、それこそひとつのエンターテイメント・ショーだった。

 私はかの青年に言った。「もし、あの稲妻を、あなたの演劇のステージに乗せることができるなら、私はあなたの演劇団の一員として、一生付き合ってあげるよ」

 芝居そのものは好評で、最後まで責任をはたした私は、観客からもらう拍手が、これほど気持ちがいいものか、と、つくづく思った。なるほど、なんとかと役者は、3日やったらやめられない、とか。その気持ちがよくわかった。だが、この演劇集団は、この立ち上げ公演一回きりで解散した。

 それ以降、こんな体験をしたことなど、すっかり忘れていたが、私はこの、自分のセリフを5年後に思い出すことになる。1982年、7月。私は、自分の瞑想センターの仲間たち21人と、米国オレゴン州のコミューンのセレブレーションに参加していた。巨大な温室として作られた瞑想ホールに、一万人を超すサニヤシンが、Oshoがロールスロイスで到着するのを待っていた。

 その時、にわかに雷鳴がとどろき、龍雲をともなって彼はやってきたのだった。巨大な瞑想ホールの中央に彼が立って、人びとにナマステを送っている時、ふいに私は、自らの5年前のセリフを思い出した。

 「もし、あの稲妻を、あなたの演劇のステージに乗せることができるなら、私はあなたの演劇団の一員として、一生付き合ってあげるよ」

 Oshoは、見事に稲妻を自らのステージに乗せることに成功していた。私の体験は、私個人の体験ではあるまい。Bhavesh「バビロン 空中庭園の殺人」2009/05/08

6)これは私がOshoとの「一生のつきあい」を決意した経緯だが、また、最近では石川裕人についても、この体験に触れている。

7)私は、ずっと昔に別の友人の芝居団のステージに立ったことがある。練習している時、雷が鳴って、中断しなくてはならなくなった。その時、作者に言った。あの雷を、あなたのステージに乗せることができるなら、私は一生あなたの芝居に付き合ってもいいよ。

 そんなことはなかなかできるものではない。

 でも、今日のお芝居、あの地震をステージに乗せることができたんではないかな。天地が共鳴した。賢治が一緒にいた。空から舞い降りてきていたな。素晴らしい芝居だった。Bhavesh「人や銀河や修羅や海胆は」2011/10/29

8)私にとって、演劇とはなにか、を突き詰めて考えることはでできない。しかし、私は一回だけステージに上がった時の直感を大事にしておきたいし、すくなくとも、それができたのは、Oshoと石川裕人だったということになる。この二人については、やはり「一生のつきあい」になったようだ。

9)なにはともあれ、当時の私の芸名は「真平せぇこぉ」だったことを始めて知った(笑)。

<2>につづく

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私にとって「演劇」とはなにか<1> 石川裕人作・演出『教祖のオウム 金糸雀のマスク』現代浮世草紙集Vol.3

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「教祖のオウム 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集Vol.3
石川裕人作・演出 1995/11  シアターグループ・オクトパス 上演台本p97 仙台演劇祭'95参加 石川裕人年表
Vol.3 No.0832?????

1)因縁の対決である。これがわからなければ、結局は私は、劇作家・石川裕人をわからなかった、ということになる。

2)有田 麻原彰晃。
江川 うまかろう安かろう亭。
有田 石垣島予言セミナー。
江川 波野村。
有田 ラージャヨーガ。
江川 ガスマスク。
有田 クンパカ。
江川 カルマ落とし。
有田 真理教。
江川 裏部隊。
有田 石井久子。
江川 コスモクリーナー。
有田 中川智正。
江川 最終解脱。
有田 土谷正美。
江川 ミラレパ。
有田 パルマゲドン。 
江川 ハでしょ、
上演台本p5

3)1995年11月当時、こんな単語の羅列を聞いて、観客席の私は、なにがおかしかろう。苦々しい思いの単語をさらに聞かされて、最初の最初からイライラしてきていた自分が今さらながら、イメージできる。

4)有田 もうでまへん、
江川 まだまだ
有田 江川はん、よその教団の尻取りをやって何になるんでっか、やめまひょ、
 上演台本p6

5)ん? 尻取り?  ははぁ~~~、上の単語をよくよく見ると、単に単語を並べているわけではない。尻取りだったのだ。ああ、驚いた。今さらながら、驚いた。

6)こんなのルール違反だろう。台本だからこそ、そう言われれば、ページをさかのぼって確認することができるが、すでに言われてしまったセリフをさかのぼって確認できる観客などひとりもいない。

7)やるだけやらせておいて、作演出者は、ひとりで、ふふふ、と笑っていたに違いない。まったく意味のないようなところに、実は「意味」があった。それは、言葉の意味、というより、単に「尻取り遊び」という「意味」だったのだ。まいった。

8)同じ演劇を何回か見に来る人なら、気づいて聞き取ったかもしれない。あるいは、台本はこうなっているけれど、舞台では、キチンと語尾を長く伸ばして、尻取りだよ、とわからせていたんだろうか。当時の私はまったく気付かなかったに違いない。いずれにせよ、作者は遊んでいる。

9)他のところでも、ミラレパをニラレバ、中沢新一を中沢古一、出口ナオを入口ヲナ、とするなど、実にいい加減な(と見えてしまうのだが)、下司なジョークで笑い飛ばす(私には苦笑もできなかった)。作者は、この作品において、徹底的に「事件」と「社会」と「時代」とおちょくりまくっている。

10)ふと思う。高校時代の私のミニコミのキャッチフレーズは「書きたい時に書きたいことを書く」だった。そして彼のミニコミのキャッチフレーズは「私の求めるものは鍵穴です」だった。ところがいつの間にか、「書きたいときに書きたいことを書く」ことができていたのは、彼のほうだった。戦線のためとか、賞をもらうためとか、劇団存続のためとか、そういうことが第一義的にあるわけではないのだ。「書きたいから書くのだ」。ある意味、彼は、ここで「芸術」の域に達していたのではないか。

11)逆に「鍵穴」を求めてうろうろしていたのは、私のほうだったようだ。あのような現実と夢想妄想がクロスするような事態において、彼はなお、それらを「演劇」化することによって、より明確に演劇の演劇性であることを強調しようとしていたように思う。

12)この戯曲を書くに当たって多くの資料を読んだ。(資料リスト中略)
オウム真理教の事件は現在も進行しており、予断を許さない。様々な分野から諸々の言説が流れ、この事件がこの国の文化に与えた影響力を思い知らされる。この事件は私たちにとって踏み絵となる現象である。

 それは今までをどう生きてきて、これからをどの様に生きていこうとしているかという事への問い掛けになっているからだ。そして、麻原がこれから発するであろう言葉によってはこの事件は未曽有の価値観闘争へと発展していく可能性をも秘めている。心してこれからの顛末を見ていこうと思う。作者 上演台本p97

13)きわめてまともである。この文は私が書いたのではないか、と思うほど、その通りだと思う。この台本のここを読まなかったら、あの芝居をみただけでは、作者がこれほど、「まとも」な「あたりまえ」の感覚の持ち主だった、とは気がつかないだろう。少なくとも、私は気づかなかった。

14)しかし、また、それでもなお、やはり彼にとって「演劇」とは何であったのか、私にとって「演劇」とはなんであるのか、の答えはでてこない。やはり、問題作である。どこかで「サイテー」なんて書いたことは訂正しておかなければならない。この作品には、なにか隠し文字のようなものが隠されているのではないか。私はそれが今だに発見できないでいるのだ。この芝居を見る、私の演劇を見る感性の方が「サイテー」レベルなのかもしれない。

15)この事件は私たちにとって踏み絵となる現象である。それは今までをどう生きてきて、これからをどの様に生きていこうとしているかという事への問い掛けになっているからだ。上演台本p97

16)まさにその通りだ。

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2012/10/25

幻のポスター発見! 石川裕人第5作目 『夏の日の恋』 贋作愛と誠 1975 <1>

Poster

←クリックすると幻のポスターが見える。元の会場に二重線が引かれ、「喫茶 原っぱ」に訂正されている(笑)




「夏の日の恋」
贋作愛と誠 <1>
石川裕人作・演出 1975/01/24~26  ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演  東北大片平 元喫茶「ルーエ跡」改め、仙台市原町 「喫茶店 原っぱ」にて公演 石川裕人年表
Vol.3 No.0831

1)ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演も東北大学のキャンパス内の旧レストラン跡のような所でやろうとした。「夏の日の恋」贋作愛と誠である。これが5本目の戯曲。当時ヒットしていた劇画「愛と誠」をパロディに天皇制を射程にした政治劇だった。その頃私は天皇制に興味を持っていたのでそれがそのまま研究発表のようにして書いたのを覚えている。台本、チラシ、写真など全て散逸している。石川「劇作風雲録 第四回 劇団洪洋社」

2)いやいや、それがあったんですね。ほとんど一枚。よくよく見ると壁に当日のポスターまで見える。台本が散逸しているのは残念だけど。中央が石川裕人。わずかだが、観客の顔も見える。この中に将来の奥さんも映っているかも。足は私。あの頃、やたらと逆立ちばかりしていた。

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「喫茶店 原っぱ」での石川裕人(中央) photo@saki

 
3)そしてこの芝居は風雲録そのものである。初日当日最終調整をしていた私たちの元へ2、3名の機動隊員がやってきて不法侵入での上演を中止するように通告してきた。大学当局ではなく機動隊が通告して来るというくらいに大学は自治能力を失っていた。いよいよラジカルシアターはその本領を発揮することになりそうだった。「上演断固続行!!」「表現への国家権力の介入を絶対許さないぞ!!」とシュプレヒコールを上げて闘うはずだったが、腰砕け。しかし、上演を中止するわけにはいかない。私たちは早速上演できる場所を探し始めた。今日の今日である。もちろん上演可能な劇場などない。まして借りる資金さえない。大学キャンパスは会場費が無料だったからやろうとしたわけで。

 そして原町の「原っぱ」という当時の情報発信系の喫茶店が上演を受け入れてくれた。5坪ほどの喫茶店に早速かけつけ最低限の仕込みをやった。店内の椅子やテーブルはそのままだからアクティングエリアはほんの少々。トイレで着替えをやった。現在でいう「杜劇祭」のはしりだろう。「杜劇祭」よりずっと乱暴で猥雑だったが。

 公演を何日やったのかその1日だけで終わったのかももはや記憶の彼方になっているが、観客の中に二人の女子大生がいて、彼女たちが翌年に旗揚げする「劇団洪洋社」のメンバーになり、そのうちの一人が後の絵永けいであり、私の妻になろうなどとは夢にも考えていなかった。石川「劇作風雲録 第四回 劇団洪洋社」

4)どうやらポスターを見ると3日間の予定だったようだ。しかし、実際には1日しかやらなかったのではないか、とは当時の関係者の記憶。公演当日の写真ではないかもしれないが、当時の写真がでてきた。当時の雰囲気が伝わる。

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左から、石川裕人、私、葬儀で歌を歌ったゴトゥちゃん、神田食品時代のハクシュー、写真・情宣美術のサキ。photo@saki

<2>につづく

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石川裕人にとって「離脱」とは何か 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<4>

<3>よりつづく

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「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <4>
石川裕人ブログ 石川裕人年表

1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。石川「二十回最終回 砂上の楼閣?)

2)という時の「離脱」とはなんだろう。「革命」「戦線」をいまだ特定する前に、「離脱」を検討してみることは、彼にとっての「革命」や「戦線」を理解する上で有効であろう。生涯の中で、彼が「離脱」したであろう瞬間を、時代順にアップしてみる。

3)唐十郎師と状況劇場との出会いがその後の私の人生の針路を決めた。「愛の乞食」を観た翌日に私は演劇部に退部届けを出した。石川「第二回 承前その弐」

4)この時、まず「離脱」が始まっている。ただし新劇を中心とした高校演劇からの離脱は、「革命戦線」からの「離脱」とは言えないかもしれない。むしろ、「革命戦線」への参加であっただろう。

5)つまり70年代斗争を自分が斗っていくには70年の情況にふん切りをつけたいと願った訳だ。70年以後のミニコミ発行にしても、コンサアト企画にしても映画上映にしても、唄つくりにしても、「70年の影」の下での暗い陰湿な自分との斗いであったとも云える。

 そしてその中で徐々に影から脱け出してきたことだけは確かだ。それが顕著に現れたのがミニコミの休刊だ。いまはもう廃刊にしようと思っているが、それはひとつ「70年戦士」のひとりであった友人の影をモロ体で感じながらの活動であったからだ。石川時空間3」「インタヴュー1973/04  いしかわ邑 『演劇場座敷童子』は『神話』をつくりに行くのだ!!」

6)この時点では自らのミニコミ「ムニョ」を休刊から廃刊することによって、彼いうところの「70年代闘争」から「離脱」していくことを試みている。ここにでてくる「70年戦士」とは誰のことかできないが、その「ひとり」としてミニコミ発行の影響を与えていたのは、私であったことは想定できないわけではない。しかし、その後の「離脱」はさらに続く。

7)そういう背景のなかで、石川裕人は、1975年という時代をどう生きていたのか、ということが気になってきた。残念ながら、この「星の遊行群」には石川裕人は投稿していない。彼の当時の住まい(共同生活体)「サザンハウス」の住所は載っているが、仙台市福沢町になっているので、最初の緑が丘から引っ越した二番目の住所である。阿部「独自の演劇活動を貫こうとした石川裕人 『星の遊行群』 1975年ミルキーウェイ・キャラバン<2>」

8)いずれ後述するが1974年には仙台における「カーニバル」というイベントがあった。広瀬川にかかる牛越橋付近の河原でのキャンプインでのどんちゃん騒ぎである。夏の仙台七夕にぶつけた3日間のイベントだった。この時、石川裕人は「演劇」を上演し、積極的にかかわっている。

9)ところが、この1975年のミルキーウェイ・キャラバン「星の遊行群」の時には、彼の活動を見つけられない。この時、彼は、再び、日本のカウンター・カルチャー、「叛文化戦線」からの「離脱」を図っていた可能性は高い。あの沖縄から北海道までを旅する(だけの)キャラバンは、彼にとっては「無意味」だったのではないか。

10)’78年宮城県沖地震の年、遂に私は「洪洋社」の解散を決めた。劇団の数人は続けたがっていたが、私のエンジンは動かなかった。

 借りたとき意気揚々とはがした天井板を私たちは張り直した。そしてこの日から4年、私は地下に潜る。アングラ芝居育ちは本当にアングラに帰った。芝居を一切観ないやらない関係も持たない日々が始まる。このときの私に芝居という文字はなかった 石川「第五回 地下に潜る」

11)せっかく探し当てた自らの演劇戦線の「仲間」と「場」である「洪洋社」という「鍵穴」も、「合議制」運営においては、彼にとっての「帝国」にはなりえなかった。ここからも彼は「離脱」していくのである。

12)次いで’86年大作テント芝居、20本目「水都眩想」。(中略)この芝居は「読売新聞」全国版でも取り上げられ「十月劇場」全国区への足がかりとなった作品でもある。そして私は劇評家・衛紀生氏に妙に気に入られ「水都眩想」で岸田戯曲賞を取ろうと言われた。そのためには演劇雑誌に戯曲を載せなければならないから改訂しろということだった。最近引っ越し荷物の中から手紙の山が見つかった。その中に衛氏のものもあり、「新劇」と「テアトロ」の編集長に話を付けてあるから早く改訂戯曲を私に送りなさい旨の手紙だった。なぜか私はこの話に乗らなかった。生意気だったのである。書き終えたものはそこで終わるというのが私の流儀だった。だから長年再演することをしなかった。石川「第七回 人生は変わっていただろうか?」

13)この地点での彼の行動もまた、私には彼にとっての「離脱」に思える。「新劇」や「テアトロ」という雑誌の持っている意味はわからない。その後、両誌に石川裕人が投稿することがあったのだろうか。あれば貴重な資料となる(乞う情報)。

14)少なくとも、彼はその誘いを蹴った。すでに「出来上がっている路線」としての全国演劇戦線からの「離脱」である。悪友たちの中は、彼にはその勇気も才能もなかったのではないか、と見る向きもある。しかし、当ブログとしては、ここではやはり彼は「生意気だった」のであると仮定しておく。

15)1991年において、私は仙台で行われた国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」に参加しないか、と彼を誘っている。しかし彼は「即座」に断ってきた。「今うちの劇団はそのような状態にないんだ」というのが彼の返答だった。では「どのような状態だった」のだろうか。このイベントの詳細については他稿に譲る。

16)この時期(1990年)私はテント芝居のようなケレンの芝居から遠ざかろうとしていた。やめようと思っていたわけではないが、「十月劇場」若手陣に誤解を与えてしまうことになる。若手はプロデュース公演でテント芝居「落日」を打っている。外野席には「十月劇場」解散の噂が流れた。石川「第九回 年間6本書く。」

17)この時点で彼は、アングラ・テント演劇戦線からも「離脱」しようとしていた。

18)「十月劇場」解散の噂は噂にしか過ぎず、’91年2年ぶりにテント芝居をやることになる。35本目三部作時の葦舟・The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」。石川「第十回 アトリエ劇場引っ越し。」

19)月日をつき合わせてはいないので正確ではないが、やはり彼は私の誘いを断った時点で、彼の劇団の「解散」の危機と遭遇していたことは間違いない。しかし、そこから踏ん張り、生涯を通じての代表作「時の葦舟」三作シリーズに到達するのである。

20)そして、彼の「離脱」はこの「十月劇場」に対しても発生する。94~95年の頃である。

21)そして私は劇団員へTheatreGroup"OCT/PASS"への発展的解散を宣言した。ちょうど40歳。私はテントへの決別と1ヶ月を越えるロングラン公演の確立、新機軸の戯曲連作など大人の鑑賞に堪えうる芝居作りを標榜していた。とにかく芝居でメシが食いたかった。石川「第十一回 十月劇場を閉じる。」

22)そして彼は、彼がいうところの「妄想の帝国」をつくりあげていくことになるのである。ここまで見てくると、「高校演劇戦線」、「70年戦線」、「ミニコミ戦線」、「カウンターカルチャー戦線」、「演劇戦線」、「スピリチュアリティ戦線」、「テント演劇戦線」、全ての連なりが、彼にとっての「革命戦線」で、そこから限りなく「離脱」を繰り返した結果、到達したのが彼の「最終形」TheatreGroup"OCT/PASS"に到達したのだった、と見ることも可能であろう。

23)しかし、彼の「離脱」癖(へき)は、これで「おさまった」のだろうか・・・・・・?

<5>へつづく

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2012/10/24

New-T 発見!石川裕人のあらたなるペンネーム 『仙台平野の歴史津波』 飯沼勇義 <7>

<6>よりつづく

Hukkoku
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<7> 
飯沼 勇義 (著) 復刻版 2011/09 本田印刷出版部 単行本 p234 石川裕人年表

1)前回この本について触れて以来、あっという間に9カ月が過ぎた。

2)前回アップしたイチゴの写真をもう一度アップしたい。

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3)なぜ、この写真をここで再掲するかというと、石川裕人本人が食べたイチゴの写真だからである。って、別にビートルズが宿泊したホテルのシーツでもあるまいし、そんなこと価値ないんじゃない、と思う向きがあるかもしれないが、いやいやいろんな因縁があるなだぁ、これが。

4)実は、昨年2011年の暮れ、石川裕人から連絡があった。

5)現在わたし宮城県復興広報という業務委託をされて県内各地を取材して回っていますが、貴兄の広い行動範囲の中で復興を頑張っている方、支援に頑張っている方、再開した店、企業などを紹介してもらえないでしょうか? エリアはとりあえずどこでも構いません。取材して『ココロプレス』という復興ブログに掲載します。よろしくです。2011/12/15 石川

6)この仕事をしていたことは、別途事務局のコメントがアップされているのだから、実名を出しても構わないだろう。

7)<読者の皆さまへ>
この記事の筆者であるnew-Tさんは、2012年10月11日、癌のため急逝されました。
59歳のお誕生日の2日前に取材したこの記事が最後となりました。
「いのちの最後のよりどころ」 宮城県復興支援ブログ 2012年10月13日土曜日

8)石川裕人はNew-Tという名前で復興支援ブログで活躍していた。最後の支援先は「仙台いのちの電話」を取材していたのだった。実は、私も数年間「仙台いのちの電話」の相談員をしていたことがある。本来はそういうことを名乗るのは御法度なのだが、四半世紀以上も前のことだから、もう時効だろう。

9)なにはともあれ、私は、次のように返信しておいた。

10)そう言われてみれば、この人達はどうなのかなぁ、という心当たりはいくつかあります。
オクトパスの演劇公演があった山元町公民館に避難していたイチゴ農家の人で、自宅は被災して、かろうじて形だけは残った渡辺さん。うちの遠い親戚です。
彼(60歳代)は、現在は、仮設住宅で暮らしながら、
来年はイチゴを作るぞと、被災地の畑を耕し始めています。
 2011/12/15 Bhavesh

12)そしてアポをとった上で続信しておいた。

13)イチゴの仕事は遅れ気味だそうですが、なんとか花が咲いたということでした。
海岸から約1キロほどにあった自宅は、まだ築10年ほどしかたっていなかったはずなのですが、被災し、周囲はほとんど流出してしまいました。
渡辺さん宅は、津波で天井まで水をかぶりましたが、流出しませんでした。
今後この地区は住宅地域にはならないようですが、自宅を修復し、物置小屋とかには使いたいという意向のようです。
長男夫婦は、町の外に住んでいるようですが、通って一緒に農業をしているはずです。
被災した農地にハウスを建てて、イチゴの苗を植えているようですが、塩害のため、成長はいまいちのようです。
長男が農家を継ぐと言っているので、来年はイチゴを出荷するぞ、と張り切っています。
電話するさいには、私の紹介だと言ってもらえば、すぐ分かると思います。
ニュートンのことは、県の復興ブログの取材ということで、古い友人と言ってあります。
先日も山元町で演劇をしました、とも付け加えてあります。
2012/12/16 Bhavesh

14)そしてできたのが、こちらのブログ記事です→「ごっつぉするぞ(山元町)」

15)その後、渡辺さんは我が家に自分で作ったイチゴを持ってきてくれました。4パックあったので、2パックを我が家でいただき、2パックをニュートンの自宅にとどけました。おいしかったなぁ。正座してイチゴ食べたの、初めて。

16)今夜は、写真だけでも、ニュートンに4パック全部供えよう。

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<8>につづく

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石川裕人にとって「革命戦線」とは何か 『朝日ジャーナル』特集:ミニコミ’71---奔流する地下水<1>

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特集:ミニコミ’71---奔流する地下水
「朝日ジャーナル」 1971/03/26 朝日新聞社 石川裕人年表
Vol.3 No.0830

1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」ブログ(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

2)という時の、石川裕人にとっての「革命戦線」とはなんだろう。寡聞にして、彼が先鋭な政治活動をしたとか、政治結社に属したなどということは聞かない。政治色の濃かった70年前後から、街頭デモや、政治集会にさえ出たことはなかったのではないだろうか。

3)まだまだ田舎の16歳の高校生である。まして昭和28年生まれという、ベビーブームからおくれてやってきた青年であってみれば、なかなか社会の潮流とコミットするタイミングは難しかった。

4)その中でも、彼がもし自らを将来的に「離脱」する「革命戦線」に属していたのだと自称するなら、私はこの雑誌を連想する。すでに廃刊になって久しい左翼系雑誌であるが、70年アンポの時代にあっては、新左翼系の牙城とも思える雑誌であった。

5)週刊誌だったから情報は早い。他の週刊誌より薄かったが、この雑誌を小脇に抱えて、街にでることで、ちょっとした革命家気分になれたものだった。この号は特別号だから100円となっているが、50円とか、60円くらいだったのではないだろうか。

6)私がこの「朝日ジャーナル」の1971年の3月にでた「ミニコミ」特集号を思い出すのは、この全国の当時の反体制的なミニコミ紙、約800の中に、石川裕人のミニコミがリストアップされているからである。

7)ムニョ=住所 石川裕二 電話番号 自己欺瞞ミニコミ”私の求めるものは鍵穴です” p8

8)並み居る地域闘争機関紙などの中に、彼のミニコミは、それなりに自己主張していた。

9)なぜにここに彼のミニコミが紹介されているかといえば、石川裕人ファンにはお呼びじゃないかしれないが、先に私が自分のミニコミを投稿し、彼にも投稿するよう勧めたからである。

10)すくりぶる=住所 阿部清孝 電話番号 書きたい時に書きたいことを書く p7

11)私のミニコミのキャッチフレーズも、決して誇れたものではない(笑)。ほんの数行のマスメディアへの登場だったが、実は、これが絶大な効果があった。

12)東大裁判闘争ニュース、三里塚闘争救援ニュース、靖国神社国営化反対・津地鎮祭違憲訴訟支援ニュース、新左翼、と言った超硬派な団体から、月刊キブツ、非暴力つうしん、沖縄ヤングべ平連と言ったやや軟派なグループもある。釜ケ崎通信、牛乳共同購入ニュース、など、かなりくだけたネットワークの中に、末永蒼生のPEAK、山形の菅原秀のニュー・ヴァーブ、なども見えていた。

13)これらの並み居る「革命戦線」の中にあって、私たち高校生のミニコミは必ずしも「場違い」ではなかった。むしろ「70年以後」をにらんだ、新しい時代のニューウェイブとして、全体としてのバランスをとる作用もあったかに思える。

14)絶大な効果とは、このリストの以後、毎日毎日、膨大な全国から問い合わせがあり、また、それぞれのミニコミが送付されてくるようになった事である。あっという間に段ボールがいっぱいになるほど、全国からネットワークの誘いがきた。

15)この「全国ミニコミ一覧表」はそもそも中央寄りの情報が中心で、私たちの宮城県からはわずか9紙しか応募していなかった。だから、映画の上映や、なにかの企画イベントの連絡先としてのターゲットを探している団体にとっては、きわめて容易に連絡をとれる便利帳に見えたことだろう。

16)宮城県からの他の7紙の発行元の中には、みちのく団地の友(このおばさんとは後に私は一緒にNHKテレビに出演した)、仙台市政研究会、東北小川プロダクション、青年ー民主主義に反するものとは徹底的に戦う、東北地方解放戦線、めしゅうど、「のりひび」などがある。

17)特に「のりひび」は、「全国原子力化学技術者連合仙台支部、東北大反公害闘争委員会、仙台市東北大工学部内・女川原発実力阻止」(p7)という紹介がある。今日の小出裕章氏の活躍を考える時、すでに、この時点で彼らと私たちが横一線に並んでいた、と、拡大解釈をすることも可能だろう。

18)私はこの「ミニコミ特集」で山形の菅原秀と連絡がとれ、そこから末永蒼生につながり、さらに全国のカウンターカルチャーにつながっていった。

19)石川裕人は、この時、東京キッドブラザーズの東由多加たちの「さくらんぼユートピア」のDMをもらったはずだ。だからこそ、田舎の高校生が、ダイレクトに東や寺山と食事をするほどの接点を持つことができたのだ。

20)もちろん、この時、石川が「さくらんぼ」のDMをもらって彼らに連絡をとらなかったら、その後、高校時代に一緒に劇団「座敷童子」を立ち上げた元木たけしは、その後キッドにいくことはなかったかもしれないと、ひそかに思う。

21)それにしても、この当時から石川は独自の路線を歩んでいる。「私の求めるものは鍵穴です」。まさに、人を食ったキャッチフレーズである。彼は、彼の「演劇」性を差し込むべき「共同性」をこそ求めていたといえる。

22)私は私なりに「書きたい時に書きたいことを書く」という、ノンフィクション・ライティング路線を歩んでいる。ただ、私はこの時点で、すでに「ジャーナリズム」に対する大きな「失望感」を味わっている。これは、いずれ後述する。

<2>につづく

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<誤読>に始まる40年 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<9>

<8>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<9>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

1)この「あとがき」を読んでいて、いろいろ考えた。最初に読んでから約一年経過しようとしている。出版→「3・11」「人や銀河や修羅や海胆は」「時の葦舟」三部作を読む、という順序で進んできたわけだが、その後、事態は「方丈の海」「作者急逝」「葬儀」ということに展開した。

2)その後、いろいろな遺業をまとめながら、二七日を迎えるにあたって、再び、この著者が残した唯一の公的出版戯曲集を眺めてみると、さらに意味深いものに見えてくる。

3)演劇人生約40年目にしてやっと初めての戯曲集出版ということに相成った。背中を押してくれた劇団のみんなには本当に感謝です。石川「あとがき」

4)TheatreGroup"OCT/PASS"は、作者にとって、本当に居やすい「帝国」であったのだろう。あらためて、TheatreGroup"OCT/PASS"劇団員の皆様には感謝とともに御礼を申し上げたい。本当に幸せな奴だったな。

5)上演されたこの三部作は私の畢竟の戯曲だと自負できる。1991年から1994年まで書き継ぎ、上演してきた戯曲を再読したが、古びたところが無かった。石川「あとがき」

6)この劇作家を評するに、なにか一つと言われれば、この「時の葦舟」を代表作にする以外にないのだろう。他も全て含めて、この三部作に凝縮して見ることも可能であろう。とするならば、この戯曲集一冊をさらに凝視し、その世界に入り込むことによって、この劇作家の本質に迫ることができるに違いない。

7)約10年ほど「時の葦舟」のような物語演劇から遠ざかったが、ここ数年は先祖帰りしている。やはり自分の質、性(さが)に忠実に生きていこう書いていこうと決めたここ昨今である。石川「あとがき」

8)この「物語演劇から遠ざかった」と表現するところのシリーズは、「現代浮世草子集」シリーズであろうし、「プレイ賢治」シリーズであろう。子供むけの「ジュニアアクターズ」シリーズや、年配向けの「エイジング・アタック」シリーズもまた、ここでいうところの「物語演劇」には当てはまらないに違いない。

9)名付けて「アンダーグラウンド・サーカス」。次の戯曲集はこの中から編んでみようか。石川「あとがき」

10)そもそも「アンダーグランド・サーカス」シリーズとは何であろうか。何作存在するのだろう。もし次の戯曲集に編まれるとしたら、その中にどれが選ばれるであろうか。そして、「時の葦舟」が三部作で構成されているとしたら、次の戯曲集にも、三作品ほどは収録されるはずだった、のだろうか。

11)しかし、今となっては作者自らが選び出版するということは不可能となった。もうすでに不可能であるにも関わらず、次があるかのように装うこの劇作家は、つくづくto be cotinued「つづく」がお好きなようである。

12)私の演劇の師は唐十郎さんである。石川「あとがき」

13)じつは「弔辞」の最初の原稿の段階では、寺山とのエピソードの他に、唐十郎や東由多加や黒テントなどの名前を列挙しておいた。しかしあまりにも長いものになってしまったので、割愛することにした。

14)それにしても、「弔辞」の中で寺山にしか触れられなかったのは、故人に対して失礼だったかな、とも反省する。

15)映画の宣伝のためなにか大きな企画をやろうということになり、寺山修司と東由多加を呼ぶことになった。大者来仙!!寺山さんとは東京へ帰る日に電力ビル西の邪宗門(だったかなあ?)というコタツのある喫茶店で話す機会を得た。

 「いしかわくんは顔が大きいから座長になれるよ」と寺山さん独特の語調で言ってくれたのを今でも思い出す。なんだか大きい人だったという印象と、目の輝き、そしてサンダル履きの寺山修司のところへ何故行かなかったのだろう?と今でも思うことがあるが、後悔ではない。(「石川裕人百本勝負」第二回承前その弐)

16)でも、このようなエピソードが残っているかぎり、まったく寺山を慕っていなかったわけじゃないだろう。逆にいうと、このようなふれあいが、唐との間に個人的に存在した、ということは聞いていない(未確認)。むしろ恩人は、寺山のほうだ、と私は思っている。

17)作風は、唐、寺山、どちらとも言えず、石川独特のものになっていったのではなかったか、と推測する。しかし、私は評論家でもなければ、彼のよき「観客」でもなかった。一時は、制作協力者の立場になりえていたかもしれないが、全体を通して彼の全体を見た場合、よくわからない、というのが本音のところだ。

18)かつて高校生だった頃に「状況劇場」に出会い、芝居は何をやってもいいんだという大きな誤読をした。石川「あとがき」

19)う~ん、ここはポーズのような気がする。彼にしてみれば、かなり気取った言い方をしているのではないだろうか。これでは全部が「状況劇場」に「責任」があるかのように読めてしまう。もちろん、ここは「誤読」ではない。彼はそう「理解」したし、その後、そう「行動」した。

20)その誤読が今現在まで私を突き動かす遠因である。石川「あとがき」

21)誤読であったなら、40年も走り続けられるはずがない。あの時代の風潮の中で、劇作家・石川裕人は「アンダーグランド」を正当に理解し、正当に相続しようとしていたのである。であるがゆえの晩年の物語戯曲「アンダーグランド・サーカス」シリーズにつながってくるのである。

22)その遠因は多くの芝居の友を作り、大きな輪を作ってきた。石川「あとがき」

23)それは本当だろう。

24)改めてTheatreGroup"OCT/PASS"の仲間、「十月劇場」を生きた仲間に感謝します。石川「あとがき」

25)ここでは二つの劇団名しか書いていないが、彼はもちろん、洪洋社や劇団座敷童子の仲間にも感謝している。もう一つの弔辞を献辞した八巻寿文氏の文面にも多く歴代のメンバーの名前が列挙されていたが、十月劇場以降の役者たちの名前を中心に読み上げてくれただけで、実は、情宣や裏方、照明、舞台設定、美術など、読み上げきれない多くの方々が参加している。

26)その豊かな収穫がこの戯曲集になったと実感している。石川「あとがき」

27)だとするならば、やはり、この一冊を再読、再再読することは、故人に対する供養ともなろう。すでに残部希少(!)とは聞いていない(笑)。まだネット上から購入できる

28)皆さんのおかげでここまで来ることが出来ました。2010年12月 石川裕人 p260

<10>につづく

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「アンダーグラウンド・サーカス」へつづくもの 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<8>

<7>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<8>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

あとがき

 2010年、劇作100本を達成した記念に戯曲集を出版するという企画が劇団から提案された。それまでにもいくつか戯曲集を出しませんか?という誘いが出版社からあったが、自費出版に近かったのでやむなくお断りしていた。自費出版するにも先立つものがない。

 なにせ戯曲は出版業界では一番売れないカテゴリーにはいるし、出版したとしても直売するしかない。というようなことで踏ん切りがつかないまま、演劇人生約40年目にしてやっと初めての戯曲集出版ということに相成った。背中を押してくれた劇団のみんなには本当に感謝です。

 初の戯曲集に何を入れるか、ほんとんど迷わずに「三部作 時の葦舟」と決めた。TheatreGroup"OCT/PASS"の前進劇団「十月劇場」で上演されたこの三部作は私の畢竟の戯曲だと自負できる。

 1991年から1994年まで書き継ぎ、上演してきた戯曲を再読したが、古びたところが無かった。時をテーマにした戯曲だからだろうか?時を旅する異能の家族の物語は戯曲の中で永遠性を勝ち取ったようだ。

 思うに、よくこんな途方もない戯曲を上演してきたものだ。ロケーションは全て野外公演、テントでのツアーである。若い野放図な劇団らしい野望と企みに満ちた舞台だった。「十月劇場」全盛時の才気煥発な役者陣がいたからこんな戯曲が書けたのだと思う。

 「十月劇場」からTheatreGroup"OCT/PASS"に劇団を進展させて約10年ほど「時の葦舟」のような物語演劇から遠ざかったが、ここ数年は先祖帰りしている。やはり自分の質、性(さが)に忠実に生きていこう書いていこうと決めたここ昨今である。

 そしたら軽くなった。軽くなりすぎ筆の滑りでバカバカしい台本を書いている。名付けて「アンダーグラウンド・サーカス」。次の戯曲集はこの中から編んでみようか。

  私の演劇の師は唐十郎さんである。かつて高校生だった頃に「状況劇場」に出会い、芝居は何をやってもいいんだという大きな誤読をした。その誤読が今現在まで私を突き動かす遠因である。その遠因は多くの芝居の友を作り、大きな輪を作ってきた。その豊かな収穫がこの戯曲集になったと実感している。

 改めてTheatreGroup"OCT/PASS"の仲間、「十月劇場」を生きた仲間に感謝します。皆さんのおかげでここまで来ることが出来ました。

   2010年12月         石川裕人  p260

<9>につづく

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「妄想の帝国」、あるいは「市場での瞑想」 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<3>

<2>よりつづく 

20100131_885617
「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <3>
石川裕人ブログ 石川裕人年表

1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

2)きわめて示唆に富んだ、興味深い一文である。「革命」「戦線」から「離脱」し「地下」に「潜り」、「妄想」の「帝国」を「作り上げた」主人公は、彼の「自画像」である、というのである。ひとつひとつのキーワードを検証していきたい衝動に駆られる。

3)「革命」とは70年を契機とする一連の新左翼的社会的風潮や文化運動と考えていいだろう。それはさまざまに変質して年代を重ねてきた。

4)「戦線」とは、彼の場合は、黒テント、赤テント、天井桟敷といった、いわゆるアングラにはじまる演劇の全国ネットワークと考えていいだろう。

5)ただ「離脱」はよくわからない。どこでどう何から「離脱」したのか。当ブログとしては、94年前後の、十月劇場から劇団オクトパスへの移行がそれである、と仮定しておこう。

6)「地下」とはなにか。対社会的な反抗的な姿勢や意表をつくような姿勢を抑え、より一般社会的で、穏健なスタイルをこそ、当ブログは彼の「地下」であったと見る。

7)「潜る」とは、淡々と、日常的に物事をこなし、目立たないで生活することである、としてみる。

8)「妄想」。さあ、これはなにか。当ブログは、一応「オクトパス」での劇作すべてが、彼いうところの「妄想」であった、と仮定してみる。

9)「帝国」とはなにか。オクトパス時代の、劇作家・石川裕人としての稽古場や上演の場は、決して合議性ではなくて、彼の意向が強く反映された場であったことは、容易に推測できる。

10)ここでは、この二つの単語をわけずに「妄想の帝国」としてしまったほうがわかりやすいかもしれない。書きあげた台本という「妄想」が、稽古場、上演という「妄想」へと拡大し、ついには、劇作家「石川裕人」先生という「妄想」が、対社会的に独り歩きする。それ全体が「妄想の帝国」として一体化していた可能性がある。

11)そして、彼は「作り上げた」と言っている。100本の台本を書き、脚本集を一冊上梓することができた。彼は、ある達成感を感じていたはずである。

12)しかるに、彼はなぜに、自らの行為を「離脱」「地下」「潜り」「妄想」といったマイナスイメージで語るのであろうか。「離陸」し、「天空」へ、「上昇」し、「覚醒」の境地に至ったとか、プラスイメージで表現することも可能であったのではないだろうか。

13)彼一流の照れだろうか。あるいは、またまた彼一流の「大法螺」だろうか。

14)彼はなぜに「時の葦舟」三部作を自らの最高傑作としたのだろうか。あの芝居は「離陸し、天空へ、上昇し、覚醒の扉」を開く世界観を持っていたからだったのではないだろうか。

15)「方丈の海」を石川裕人の最高傑作とする人はいるだろうか。お涙ちょうだいどころではなくて、まるで観客から涙を強奪していくような、悲しいストーリーは、私には石川裕人の真骨頂だとは思えない。

16)もし、当ブログが、今後もこの劇作家にこだわりを持ち続けるとしたら、ここにこそ、その重要なポイントがある。

17)彼が潜っていった集合無意識の広がりを、再び上昇させ、意識を、さらに覚醒させ、集合超意識へと誘導することである。つまり彼の「演劇」性を「瞑想」性へと変容させることである。うまくいくだろうか。可能性はゼロではない。しかしながら、そのためには、当然のことながら、さらに厳しく、私自身の「瞑想」性を問われることになる。

18)つまり、石川裕人を、彼が自らが作り上げてしまった「妄想の帝国」から引き出すこと自体は、本当は、最終目的ではない。彼の「妄想の帝国」を、キチンと視野の中におさめながら、その地下からの吸引力を感じつつ、自らの「瞑想」性を高める、反重力として変容できれば、それでいいのである。

19)仮に、無意識が集合無意識と化し、さらに宇宙的無意識まだ沈潜していくことができたなら、意識が、超意識となり、宇宙的無意識と拡大上昇してしまえば、いずれにせよ、宇宙意識は一体化するのである。どこに自らの立ち位置をつくるかなど、本人のまったくの自由なのである。

20)「妄想の帝国」の住人が、そこに安住するなら、それはもう「妄想の帝国」とはいわないだろう。そこに安住できているならそこはもうパラダイス、天国だ。ところが、何らかの理由により、そこは彼にとっては「妄想の帝国」でしかないのだ。

21)「妄想の帝国」に対置できる言葉として当ブログが掲げているのは「市場での瞑想」。Meditation in the Marketplaceである。もっとわかりやすく対置するなら「瞑想の市場」だ。

22)「妄想」を「瞑想」に変える。「帝国」を「市場」に変える。「変える」というのも、「瞑想」性がわから言うとすこし語弊がある。「なる」が正解。「妄想」が「瞑想」になると、「帝国」は「市場」になる。こちらのほうがより近い。

23)偶然発見した中学時代の文集の二人の文章から、いみじくも象徴的なものを感じた。

24)大ボラ吹き。なんでもかんでもウソにしてしまう。こんな人もあったもんじゃない。そしてホラがばれても、どうてこともない。そうとう、キモッ玉が強いようだ。石川裕人「ますだ6」p57 名取市立増田中学校生徒会 1967/03

25)約100メートルぐらいの高さの所に、出たり入ったりしてすごい姿を見せている。雲などをかぶっているところなんか実にすばらしい。帰りもあのおそろしく長い道をさっきの逆の方向に進んでいった。ほんとうに遠足だ。阿部清孝「ますだ6」p48 名取市立増田中学校生徒会 1967/03

26)この二つの文章を、今とても意味深く読みなおしている。「大ぼら吹き」の「キモっ玉が強い」人物に感心する彼。「雲をかぶった」景色を見つつ、「帰り」道につく私。

27)私はずっと旅館の温泉に浸かっていたいとは思わない。やはり「希望」して磐司岩を見に行くだろう。その道は山道ででこぼこしている。だけど見に行きたい。そしてその風景に神秘を感じ圧倒されつつ、やがて帰り道につく。そして、「雨の日、出かけるのも楽しいものだと思った。」と結論づける。

28)彼もまた、少年らしく、夏目漱石という文豪に挑み、ひとつひとつを分析しつつ、「演劇」性に感動しつつ、「下巻が楽しみだ。」と結論づける。to be cotinued 「つづく」である。根っからの「演劇」性を持ち合わせていたのだろう。

29)私は私なりに、山道をこえて「神秘」を見てきた。苦労もあったが「雨の日、出かけるの楽しい」と思う。そして、「帰り」ついて、今、ここに、いる。

30)主人公はまるで私の自画像ではないか。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

31)彼の「演劇」性は、使いようによっては、「私の鏡」になる。

32)100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

33)私は今、その「集大成」を「解体」しようとしている。そして、彼の本当の顔、オリジナル・フェイスをみつけよう、としている。本当の彼の顔は今、どこにあるだろう。そして、そこに、まさか、私自身の顔などみつけたりするならば、そこから新しい事態がおこるだろう。

34)それは新しい謎を呼ぶ「演劇」性への「つづき」となるのか。

35)それは「覚醒」の扉を開いて、the end 「完」となるのか。

<4>につづく    

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2012/10/23

『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<2>

<1>よりつづく

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「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <2>
石川裕人ブログ 石川裕人年表

1)洪洋社時代の主要メンバーである友人から他の用事で電話がきた。どうも気になるので、確認してみた。

2)劇団員の中に一人どういうわけか反対する人間がいた。ほぼ旗揚げメンバーである。当時は合議制で上演作を決定していたから一人の反対者が出れば上演できなかった。(第五回 地下に潜る)

3)この「反対する一人」とは誰かと聞いてみたのである。その友人もすでに記憶がさだかでなくなってはいたが、いつもいつも「反対する」という特定の人物はいなかっただろう、ということだ。全体が合議性だったので、結論を得ようとすると、最後の最後の一人まで賛成を取り付けることは難しかった、という意味だろう、ということだった。納得した。ほぼ全員が旗揚げメンバーだったので、みんなが云いたい放題云える雰囲気だったんだろう。そして、最終的にまとまればよかったのだけど、まとまらなかった。

4)それと洪洋社時代に公演された「バック・ザ・ビギン」の作者はギャンガマガマ(どういう字を書くのかあとでしらべよう)=かまちゃんだった、ということだ。この時のパンフレットなども、当時私が勤めていた印刷会社で、私がリデザインして、私がオフセット印刷機を回して印刷したらしい。そういわれれば、確かに記憶がよみがえってくる。

5)そして私は劇団員へTheatreGroup"OCT/PASS"への発展的解散を宣言した。ちょうど40歳。私はテントへの決別と1ヶ月を越えるロングラン公演の確立、新機軸の戯曲連作など大人の鑑賞に堪えうる芝居作りを標榜していた。とにかく芝居でメシが食いたかった。(第十一回 十月劇場を閉じる。)

6)当然のことだろうと思う。93~94のことである。

7)私が彼の演劇を意識して見なくなったのは、95年晩秋からである。

8)46本目「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集第三話は仙台演劇祭参加作でオウム真理教問題へ真っ向から切り込んだ問題作で宗教者への説明、当時仙台にあったオウム真理教とおぼしき団体からの無言電話、嫌がらせなどがあったが無事乗り切る。’95年はもう2本書いている。(第十二回 ”OCT/PASS"始動。)

9)私はこの作品に唖然とした。私の中では、この作品「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」を石川裕人、サイテーの作品と位置付けている(これは訂正を要する。2012/10/25記)。彼のスピリチュアリティ理解の薄さ、おちゃらけ、下種なジョーク。もう覚えてはいないが、最後まで見ないで会場を飛び出したのではなかっただろうか。

10)そもそもが、この「なになにと思しき団体から無言電話、嫌がらせなどがあった」とするところ自体、私は、彼のセンスを疑う。どうして、「無言」電話から「団体」とわかるのか。私の拙いジャーナリスト根性というか、ノンフィクション・ライティング傾向から考えると、どうもこのような表記が、うっとうしくてしかたない。

11)私にとってはこの事件は大事件だった。その意味は深く深く問われる必要があった。だから、私は、もう一度深く沈黙の淵に落ちていった。ここいらの数年前までの私の経緯は「湧き出ずるロータススートラ」(2002/06)に書いておいた。趣旨がまったく違う文章ではあるが、年代をつき合わせるには重要な意味がある。

12)私はこの団体のことを言葉に出して考えられるようになるまで10年かかった。そして、この団体名に含まれるチベットのマントラを108回唱える(つまりこのマントラを含んだ本を108冊読んだ)ことで、ようやく解放された気になった。それはごくごく最近になってからのことである。

13)近々この時の上演台本を借りることができる可能性がでてきたので、どうしてももう一度再読しておきたい。今となっては作者をどうすることもできないが、なぜに私があれほどまで感情を激したのか、自分で確認しておきたい。

14)そしてオクトパスになって、「現代浮世草紙集」という「社会派」シリーズと、「プレイ賢治」というシリーズで、「量産体制」をつくり、「穏健派」を装うようになった。それは確かに「大人」のふるまいだった。

15)”OCT/PASS"になって「現代浮世草紙集」と「PlayKENJI」という二つの連作戯曲を手がけるようになる。PlayKENJIは宮澤賢治の作品を換骨奪胎して演劇的手法で組み立て直すという趣向の戯曲である。(第十三回 『百年劇場』というメルクマール。)

16)食えたか食えなかったかはともかくとして、オクトパスこそは、劇作家・石川裕人の「完成形」であったのだろう。だから、最大の代表作を十月劇場時代の「時の葦舟」三部作を頂点としつつも、オクトパス時代になって盤石な地盤を両翼に広げ、大地へと舞い降りていった。

17)劇作家・石川裕人を語るなら、このオクトパス時代をまず語らなければならない。彼は石川裕二でも、いしかわ邑でも、石川邑人でもなかった。彼は自分自身を劇作家・石川裕人、と「確定」した。残念ながら、私はこの時代の彼を完全に見失っている。今は多くを語る資格を持っていない。

18)しかしながら、彼を石川裕二と見、ニュートン、と見た場合、「劇作家・石川裕人」は、ニュートンと呼ばれた総体の、一パート、一キャラクターに過ぎない。「ニュートン」全体を語るなら、やはり、巨視的な視野を得つつ、オクトパス時代の「劇作家・石川裕人」を発見し、さらに再検討しなければならない。

19)字面だけ読んでいるとまったく頭に入ってこないのだが、「児童劇団AZ9ジュニア・アクターズ」とか、「高齢者俳優養成企画AgingAttack!!」とかは、なんだったのだろう。一回、しっかりと捉えなおさなければならない。

20)ところでこの’98年に新人がなんと8人も入ってきた。現在残っているのは篠谷薫子と美峰子だけ。(第十四回 とんだバブル。)

21)今、オクトパスの団員として活躍しているメンバーの中心はこれ以降の人びとである、とお見受けする。4つの時代の石川裕人演劇のスタッフたちは、時代別に分かれていて、必ずしも、先輩後輩の関係が密ではないのかもしれない。そういう意味では、私もまた「石川組」の一人ではあるわけだが、先輩らしいことなぞ、何もできなかった。

22)私はただただニュートン本人だけ見ていた。視野狭窄に陥っていた。

23)初の海外旅行をするきっかけはテレビ・ドキュメンタリーのための戯曲を書くための取材で98年12月に香港、ハワイと東西に旅立った。(第十五回 21世紀を目前に。)

24)ほう、あれだけ国内を公演旅行していたのに、海外旅行をしたなんてことは聞くことはなかった。もっと早い時期に海外を体験しておくべきではなかったか、とも思うが、諸般の事情が許さなかった経緯もわかる。

25)63本目「夜を、散る」現代浮世草紙集は脳死からの臓器移植問題に真っ向から挑んだ戯曲。ドキュメンタリータッチで描かれた病院の待合室のドラマは迫真的で反響を呼んだ。ちょうど臓器移植に関しては賛否両論の時期だったのでマスコミが取り上げてくれた。(第十五回 21世紀を目前に。)

26)やはり、「現代浮世草紙集」とはそういうシリーズだったんだな。大人の社会派を説得する演劇シリーズ。このシリーズの第三作目にあの作品「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」は位置していたのだ。大人の社会派の目からみた麻原集団事件。そんなものを、他人に解釈してもらおうとなど、私はしていなかった。ただただ、一つのリトマス試験紙として使っていた。彼はどう判断し、この人はどうみているか。少なくとも、彼は私に向けて語っていなかったし、私は私で、私が望む「視点」を彼の中には見つけることができなかった。

27)しかし、演劇や芝居はどういうものか、ということはともかくとして、私自身はそれらに、何を求めているのだろう。もし、彼が「演劇人」ではなかったら、まったく演劇になど触れることもなかったかもしれない。私の側からは不要なものにしか見えていないのではないか。

28)72本目「わからないこと」~戯曲短篇集~)は「遙かなり甲子園」「兆し」「わからないこと」の3本からなる作品集的戯曲でまとまった1本とはいえないが、3本ともいえないので難しい。(中略)「遙かなり甲子園」。まぐれで甲子園出場を決めてしまった僻地の高校の顛末を描くコメディ。(第十六回 年間5本2年連続 その1)

29)この作品は、ひょっとすると、この私を「おちょくって」いるかもしれない、最初はそう思った。上演されたのは2001/11。この当時私は某県立高校のPTA会長をしていた。そしてひょんなことで、その野球部が「まぐれで甲子園出場をきめてしまった」のだ。県立高校としては50年ぶりの快挙であった。出場支援実行委員長として私は忙殺され、さまざまな貴重な体験をした。

30)彼はこの私の「事件」を知っていてこの短編をものしたのだろうか、と最初思ったが、どうやら年代が違う。私の「事件」のほうが半年後の2002/08だった。彼が先にシナリオを書いて、私が「社会」の中で演じていたなんてこともあるかもしれない(笑)。

31)75本目「ほんとうの探し物」~目覚めなさい、サトリ~は児童劇団ザ・ビートへの脚色。(幸野敦子原作) (第十七回 年間5本2年連続 その2。)

32)タイトルからすると、ちょっと気になるが、原作は別人のようだ。

33)9月11日アメリカ同時多発テロ。この時の衝撃が77本目「この世の花 天涯の珊瑚」を書かせた。12月に上演しているから、本当に即書き下ろしたことになる。書かずにはいられなかった。1970年の三島由紀夫割腹事件からフィクションは現実に追い抜かれ始めたとうのが私の見方だが、ここにきて完璧に私たちの想像力はツインタワーのように爆砕されてしまったように思えた。私たちは、劇作家は、演劇人は想像力を行使していかに現実に立ち向かっていくのだろう?というのが大きなテーマになった。その端緒としての戯曲である。(第十七回 年間5本2年連続 その2。)

34)ここでは逆に、彼のほうが年代を1年間違っているのではないだろうか。9・11が起こったのは2001/09、上演されたのは2002/12なので、1年以上かかっていることになるのではないだろうか(未確認)。

35)どうもこの年は賢治年だったらしく、「センダード」に続いてこの作も賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きにしている。ネタに詰まると賢治というのが私の傾向で、PlayKENJIや賢治モノが上演されたときは、ははあ石川はネタ切れか、と思ってもらっていいかもしれない。そして、賢治の作品には茫洋たるヒントが多く詰め込まれていると言うことでもある。(第十八回 ”OCT/PASS"に書かなかった2004年。)

36)他にも書いておいたが、興味深い一説である。

37)87本目「修羅ニモマケズ」PlayKenji♯4は宮澤賢治のかこった修羅=ストイシズム(禁欲)、ストレンジ(異貌)、スーパーネーチャー(超天性)を描いた祝祭的戯曲。大河原、山形県川西町、仙台文学と基本的に野外で上演された。(第十九回 宿題。)

38)私がもうすこし前に賢治に目覚めていれば、ぜひ見に行きたい作品だった。プレイ賢治シリーズについては「見逃したな」と、素直に思う。

39)’08年、94本目「少年の腕」ーBoys Be Umbrella、はアングラ・サーカスという新しいスタイルを求めて書き下ろされた戯曲。というより得意分野にシフトし直したという意味合いが強い。得意分野とは綺想、フェイク、大法螺である。この分野になると思わず筆が走る。最新作「ノーチラス」までこの分野の戯曲が多くなっているのは何か意味するものがあるのだろうか?(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

40)やっぱりこの劇作家の一生を貫く基本線は、中学校一年時の文集において夏目漱石を読んだ感想文で、「迷亭先生の大ボラ吹き」について触れて以来、「大法螺」にあったのではないかしらん。

41)2010年。そして100本目「ノーチラス」~我らが深き水底の蒼穹~を書き下ろした。6月に書き下ろしたこの戯曲は書いている間は無意識だったが稽古しながら考えてみると実に示唆的だった。革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。1本×原稿用紙100枚平均として10000枚に上る原稿用紙は幻視の砂上の楼閣のようでもある。しかし、確実にこの手でここに書いてきた筆跡は存在している。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)

42)なるほど、そうであったか。一度はぱらぱらめくった「ノーチラス」ではあったが、再読を要す。

<3>につづく

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『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<1>

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「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」<1>
石川裕人ブログ 石川裕人年表
Vol.3 No.0829

1)いつ頃からか、たぶん一年ほど前からこのブログには気がついていたのだが、なんだか気恥ずかしくて、読み進めることができなかった。いや、読み始めては見たのだが、自分が関わっている、最初の最初の頃から、いろいろな想いが去来して、同じところを読むだけで、まったく進行しなかった。

2)今回、同級会へ提出するためのパンフレット「ニュートン 劇作家・石川裕人の足あと」(仮題)をつくろうと思い立ち、なにはともあれ、その百本とやらの歴史を振り返ってみた。実に長い長い人生で、彼は3人分も4人分もの人生を生きたのではないか、と思う。

3)それでも、このブログを読んでいて、気になった点がいくつかあったので、アトランダムに上げておく。

4)いわゆるユートピア構想で彼らは「桜んぼユートピア」と名乗っていた。鳥取県の私都村(きさいちむら)の土地を買い取り一坪100円で一般の人たちに売っていた。何を隠そうその第1号地主が私である。(第二回 承前その弐)

5)となっているが、東京キッドブラザーズの「桜んぼユートピア」と「私都村(きさいちむら)」は、まったく別物。「桜んぼ」の発起人には、漫画家のやなせたかし、などもかかわっていたが、ほんの数年で霧消した。「私都村」は農家の廃屋を改修したもので、鳥取県生まれの医師・徳永進などが中心となって、今でも存続しているはず。1972年夏に、この二つのスペースを私は訪れた。ふたつのスペースの間にはまったく交流はなかったはず。この時、元木たけしは「桜んぼ」にいた。

6)そして原町の「原っぱ」という当時の情報発信系の喫茶店が上演を受け入れてくれた。(中略)公演を何日やったのかその1日だけで終わったのかももはや記憶の彼方になっているが、観客の中に二人の女子大生がいて、彼女たちが翌年に旗揚げする「劇団洪洋社」のメンバーになり、そのうちの一人が後の絵永けいであり、私の妻になろうなどとは夢にも考えていなかった。(第四回 劇団洪洋社)

7)1975年のこの公演のことを、葬儀の後に絵永けいさんご本人に確認したが、本人は「原っぱ」のことは知らない、という。記憶が消えてしまったのかもしれないが、タイミングとしては、やはり、もうすこし後なのかな、と思う。

8)新稽古場を持ち、張りきっていたことがわかる。しかし、この3本は上演されなかった。劇団員の中に一人どういうわけか反対する人間がいた。ほぼ旗揚げメンバーである。当時は合議制で上演作を決定していたから一人の反対者が出れば上演できなかった。改訂するより新作を書いた方が楽だったので次々と書いてはダメ出しをされるうちにプライベートなことで軋轢が起こった。心身ともに疲弊してきていたが、劇団の代表としてやる気は満々だった。新稽古場での初公演は他のメンバーのオリジナルで私は役者と作曲に専念した。しかし、それは空元気でもあった。(第五回 地下に潜る)

9)こんなことがあったのか、としみじみ思う。ニュートンは、劇団名をたびたび変えたので、ある種「もったいないなぁ」と思っていたのだが、こういう経緯があったんだね。

10)仙台は劇団IQ150が’80年に旗揚げし人気急上昇中だった。この中心メンバーには洪洋社解散時に在籍していた茅根利安氏がいる。彼は洪洋社を反面教師にした。(第六回 「十月劇場」旗揚げ)

11)へぇ~、こういうことがあったのか。初めて知る。1981年頃から仙台の演劇界は活況を呈し始めたと表現されることがあるが、こういうことがあったんだな。よきライバル関係ととらえておいて、まずはいいのだろう。

12)そして私は劇評家・衛紀生氏に妙に気に入られ「水都眩想」で岸田戯曲賞を取ろうと言われた。そのためには演劇雑誌に戯曲を載せなければならないから改訂しろということだった。最近引っ越し荷物の中から手紙の山が見つかった。その中に衛氏のものもあり、「新劇」と「テアトロ」の編集長に話を付けてあるから早く改訂戯曲を私に送りなさい旨の手紙だった。なぜか私はこの話に乗らなかった。生意気だったのである。書き終えたものはそこで終わるというのが私の流儀だった。だから長年再演することをしなかった。それより衛氏の顔をつぶしてしまったわけでもある。しかし、この時もし間違って岸田戯曲賞などとっていたら私の人生は変わっていただろうか。(第七回 人生は変わっていただろうか?)

13)86年頃のことである。私はそもそも岸田戯曲賞のなんたるかをしらないし、意味も、価値も知らない。(もちろん、受賞してテレビなどでタレントみたいに活動している演出家たちは知っている)。どっちでもよかったんではない、と一応は思う。

14)しかし、86年と言えば、同級生の私たちは子供を抱え、マイホームを考え、日常の仕事に縛られ、演劇など頭からはずさなければならなかった時代である。彼ら夫妻には子供はいなかったが、同じにつきあっていくなら、自由業の彼にとっては、受賞歴は大きな勲章になったことは間違いない。生活ももっと楽にはなっただろう。

15)それを結局は拒否したのだから、それはそれで、彼なりの矜持があったのだろう。あえて「無冠」の道を選ぶ彼の清々しい人格を思い出させる。宮沢や寺山をはじめ、無冠の天才は多くいる。

16)劇評家・衛紀生氏の名前は、石川裕人の通夜の日に、狭い会場にあふれんばかりに並んだ献花のひとつにこの名前があったので、初めて知った。

17)私は全然結びつかなかったのだが、通夜が始まる2時間前ほどに早々と式場に到着した弔問客がいた。やや小柄ながら、太い縁の眼鏡をかけたレインコートを着て、四角い大きなアタッシュケースを下げた、ちょっと太めの男性である。年齢は、50代~70代くらいか。やや正体不明な感じ。髪の量はふさふさとして多いが、ひょっとするとカツラかもしれない。

18)会場係としていた私は、まだがらんとしていた会場をうろうろといったりきたりしている、その男性に、声をかけた。「棺の中にはまだ彼がいますから、顔をみてやってください。いい顔してますよ。」

19)彼は答えた。「私はニュートンのこと大好きでしたから、ニュートンの死顔など、見たくありません。これからやってもらいたいことが山ほどあったのに。くやしい。」と下を向いた。大きな底が厚い皮靴で、床をふんづけたようにさえ、私には見えた。

20)ずっと立っているので、近くの椅子に腰かけるよう勧めたが、一切、座らなかった。

21)焼香を終え、人ごみをかき分けて、早めに出入り口に現れたその男性に、これから「通夜ぶるまいがあるから、お残りください」と勧めたが、いやタクシーを待たせてあるから、と断られた。「飛行機の時間があるので」。なるほど、と思い、それ以上は勧めなかった。

22)ところが、出口をでたところで、5~6人の劇団関係者たちにつかまってしまい、立ち話が始まった。それから30分もそこにいただろう。ひょっとすると、彼は飛行機に乗り遅れたんじゃないだろうか。

23)出入り口を整理しながら、何度かすれちがったので、何の確証のないまま私は直観で「衛先生ですよね」と問いかけてみた。「そうです」とおっしゃった。この人が劇評家・衛紀生氏だった。

24)そして私の代表作のひとつ26本目「又三郎」である。戯曲執筆にしても公演自体としても思いで深いこの1作からワープロを導入した。(第八回 ワープロで書き始める。)

25)88年の頃である。彼はもうすこし前から宮沢賢治をモチーフにしていたと思うが、そうでもないようだった。後段で、彼は「宮沢賢治を書くときはネタ切れの時だと思ってもらって構わない」とか書いていた。それじゃぁオクトパスでの「プレイ賢治」シリーズはなんなのだろう、と素直に思う。要検証。

26)それにしても、テント公演もずいぶんおこなっている。私は、県外まで彼の演劇をおっかけたことはないけれど、ほんとに御苦労なことだった。経済的にもひっ迫する理由がわかる。

27)「十月劇場」解散の噂は噂にしか過ぎず、’91年2年ぶりにテント芝居をやることになる。35本目三部作時の葦舟・The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」(第十回 アトリエ劇場引っ越し。)

28)それにしても不思議だと思う。100本のシナリオを書いたという石川裕人。100本突破記念に出された記念脚本集は、この35本目あたりの「時の葦舟」三部作であった。彼は「十月劇場」で燃え尽きてしまったのか。

29)もしそうだとしたら、その「十月劇場」を越えようとして名付けられた劇団「オクトパス」は、どこまで進んでいたのだろうか。その後、50作以上をものにしながら、「時の葦舟」を超えることはついになかったのか。

30)あの三部作は、あまり彼のよい観客じゃない私も三部とも仙台で見ている。たしかにスケールがおっきくて、若さがあった。みんな若かった。だが・・・・・

31)私は今、石川裕人を(1)座敷童子、(2)洪洋社、(3)十月劇場、(4)オクトパス、の4つの時代に区切って、起承転結、としてまとめて理解しようとしている。(2)の洪洋社時代は、情報のボリュームが少なく、ましてや休筆時代も含んでいるので、飛ばすことも可能だが、彼の人間性、葛藤を見ようとすれば、絶対はずせない時期である。

32)(3)十月劇場は彼の名前を定着した時代である。だがしかし、彼はその十月を「パス」しようとした。越えようとした。

33)(4)オクトパス時代とは、彼にとって何だったのか。単に起承転結の「結」としてしまっていいのか。それにしても、長い長い、20年にも渡る「結」ではないか。

34)山元町の被災地で「人や銀河や修羅や海胆は」を見た時、私はその「結」をさらにこえようとしている石川裕人がそこにいた、と感じる。

<2>につづく

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劇作家・石川裕人・年表

<2>からつづく 

 

Houjou_omote_web
「方丈の海」 <3>
石川裕人(いしかわ ゆうじん) TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.34 2012/08~09上演 せんだい演劇工房10-BOX box1 上演台本 152p

 

劇作家・石川裕人・年表

追記 当ページは2020/10/13に、wikipediaに転載しました。
CC表示-継承3.0 非移植(CC BY-SA 3.0)で公開しています。
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/deed.ja 


(ブログ「石川裕人百本勝負」等を中心に編集)

1953/09/21 石川秀一(大正12生)・マサ(昭和3生)夫妻の長男として誕生。本籍は宮城県だが、母が実家のある山形県東根市に里帰り出産したので、成人して演劇活動を開始してから、山形県東根市出身を名乗るようになった。

1955頃  宮城県塩釜市出身の父親の務め(自衛隊)の転勤により、宮城県矢本町(2~3歳の頃)、仙台空港のある名取市下増田周辺、などに住まいを移しながら、名取市箱塚住宅に入居する。母親の背中におんぶされている時から、買ってくれとせがむのは本ばっかりだったという。背中におんぶされたまま本にかじりついていた。

1956/09(3歳) 3歳下の妹が誕生、二人兄妹。

1960/04(7歳)宮城県名取市立増田小学校に入学。当時、幼稚園の数も少なく、幼稚園には通っていない。箱塚住宅の子供たちとのびのびと幼少時代をすごした。

1962/11(9歳)小学3年 学芸会で主役を演じる。友達からはニックネームでニュートンと呼ばれ、いつも仲間たちの中心にいた。

1963/04(10歳) 小学4年 山形大学教育学部新卒の越前千恵子先生が担任となる。彼女の指導で「シナリオライター」という言葉を知り、脚本家、劇作家、という具体的な夢を描いていくことになる。11月、学芸会で劇「孫悟空」の主役をつとめる。

1966/04(12歳)名取市立増田中学校に入学。野球部に入部するが運動が得意ではないのでマネージャーを務める。中学時代、学級新聞「1+1=3」などを編集するかたわら、「ボーイズ・ファイター」や「UFO」といった肉筆誌を連発する。

1969/03(15歳)増田中学校を卒業するも、高校受験に成功せずに一年間の浪人(自称傘張り)生活をおくる。当時は、成績のよい子は一発勝負で、私立高などの滑り止めを受けない風潮があった。ベビーブームの影響もあり、高校は狭き門だった。中卒で就職していった同級生も多数いた。

1970/04 (16歳) 宮城県名取高校に入学。演劇部に入部するが満足せず。

1970/11       黒テント公演を仙台市西公園で観賞。感激する。

1971/01(17歳)   状況劇場仙台公演を鑑賞。翌日、演劇部を退部。唐十郎に生涯、演劇の師として私淑する。

1971/10       高校文化祭で中学校からの同級生K(のちの元木たけし)と「演劇場座敷童子」を立ち上げ、長編処女戯曲「死神が背中を触った」を公演する。会場は学校内の階段の踊り場だった。ペンネーム・いしかわ邑。

1972/(18歳) 東京キッドブラザーズの映画上演を企画し、ゲストに呼んだ寺山修司、東由多加と会食。

1972/10       同じ高校文化祭で自主団体として第2作目 「秘密のアッコちゃん 凶状旅編」を公演する。    

1973/04 (19歳)  高校卒業後、仙台市に友人たちが開始していた共同生活「雀の森」に参加する。のちに仙台市緑が丘の共同生活「サザンハウス」を創設する。

1973/12(20歳)国際ユネスコ会館3Fで第3作目「治療」公演。実質的な有料チケットを販売する劇団公演が始まった。

1974/     (21歳)仙台市民会館小ホールで第4作「顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!」 公演。まだまだ実験的な試行がつづく。

1975/01(22歳)メンバーが入れ替わり劇団名を「ラジカルシアター座敷童子」と改称し、第5作「夏の日の恋・贋作 愛と誠」を東北大学川内キャンパスで上演予定するも、許可が出ず、仙台市原町の喫茶店「原っぱ」で公演。

1976/      劇団名を「洪洋社」と変更する。

1976/04(23歳) 公演戯曲6本目「月は満月 バンパイア異聞」を仙台白鳥ホールで公演。仙台市向山に稽古場を作る。5坪ほどの小さな店舗跡だった。

1976/       稽古場兼劇場をテアトル・デ・ムール(風俗劇場)と名付け、稽古場を会場として7本目「失われた都市の伝説・廃都伝序」を12ステージのロングラン公演する。

1976/      東北大学祭からの招待で「異貌の天使の憑肉(つきにく)」歌謡ショーをテント公演する。

1976/11     8本目「愛情劇場・白痴の青春十字路篇を仙台定禅寺通にある演劇工房アトリエで公演。宮城県芸術年鑑に掲載されるようになる。

1977/    (24歳)9本目「美少女伝」10本目「かげろう夜想」11本目「紅蓮妖乱」を執筆するも団員が合議にいたらず、公演しなかった。 劇団洪洋社としては「ビギン・ザ・バック」自安降魔可魔・作演出)を公演するも、担当は役者と音楽などだった。

1978/06(25歳)  劇団としての内部統制がとれないところに宮城県沖地震が発生。稽古場を閉鎖し、劇団も解散した。芝居を一切観ないやらない関係も持たない日々が始まり、就職することを考えた。長い沈黙(のちに三年間といっている)が続く。

1979/頃  宮城県泉市(現・仙台市泉区)の(株)神田食品に正社員として入社。漬物工場の工場長などを務める。

1980/     (27歳)元洪洋社メンバーが参加する劇団「IQ150」が市内で旗揚げ人気となり、刺戟を受ける。

1981/10(28歳)元洪洋社を中心とした10人のメンバーと 「十月劇場」を立ち上げる。神田食品の倉庫2階(現・仙台市泉区)が稽古場だった。芝居を趣味と位置付け、年一年の公演ペースを想定する。12本目の「流星」公演。ペンネームを石川邑人に変更する。

1982/   (29歳)13本目「ねむれ巴里」をデパートの企画モノとして公演。

1983/   (30歳)14本目「ねむれ巴里」改訂版を八戸市で開催された「東北演劇祭」にて公演。参加していた他の劇団との全国ネットワークが広がる。

1984/   (31歳)15本目「ぼくらは浅き夢みし非情の大河を渡るそよ風のように」を小畑二郎プロデュース公演。16本目「嘆きのセイレーン・人魚綺譚 」は「水の三部作」の第1弾だった。当時の稽古場は勤務先の食品会社工場2階倉庫だった。

1984/       盛岡市で開催された第二回「東北演劇祭」に参加し「嘆きのセイレーン・人魚綺譚 」を公演、好評を得る。

1984/冬  仙台市本町にあるビル4階にアトリエ劇場を開設。

1985/02(32歳)17本目の「じ・えるそみーな」

1985/05      札幌で18本目「翔人綺想」公演。ペンネームを石川邑人から石川裕人に変更する。やっと自分の作品に自信を持ち始めた、とは本人の述懐。

1985/       19本目「十月/マクベス」

1986/05(33歳)20本目「水都眩想」。風の旅団からテントを借りて仙台、盛岡、八戸、山形県寒河江と大作テント芝居だった。全国紙でも取り上げられ「十月劇場」全国区への足がかりとなった。評論家から岸田戯曲賞に推薦する声もあった。

1986/12     21本目の「モアレ・場末名画座の人々」上演

1987/(34歳)22本目「ラプソディー」 小畑二郎プロデュース公演。

1987/     23本目「虹の彼方に」水の物語三部作最終篇。<銀猫テント>での旅公演で仙台→早池峰(ハヤチネフェスティバル)→福島→山形→盛岡を約3週間かけてまわった。

1987/    24本目「笑いてえ笑」小畑二郎氏と当時仙台で活躍していたタレント・今田青春氏のコント・コラボレーション。

1988/(35歳) 25本目「マクベス」

1988/  26本目「又三郎」。2ヶ月半の旅公演で劇団の強力な団結力を培った。この頃からワープロを導入。執筆速度があがる。

1989/(36歳) 27本目「ラストショー」。28本目「劇団喜劇城」ご祝儀書き下ろし「コメディアンを撃つな!!」。29本目「ラストショー改訂テント版」。30本目「三島由紀夫/近代能楽集・集」。31本目「じ・えるそみーな・~フェリーニへ~」、32本目「モアレ・~映画と気晴らし~」。初めて年間6本の演劇を執筆。

1989/10/28  絵永けいと入籍 

1990/(37歳)33本目「斎理夜想」丸森町のイベント芝居のための戯曲。松島トモ子が出演。十月劇場活動を休止する。34本目「あでいいんざらいふ」は石川裕人事務所公演。

1991/(38歳)「十月劇場」解散の噂でるも2年ぶりに35本目三部作「時の葦舟」The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」。テント公演。

1992/03(39歳) 平成3年度宮城県芸術選奨新人賞受賞

1992/ 36本目「隣の人々 静かな駅」石川裕人事務所プロデュース公演。

1992/(39歳) 稽古場を定禅寺から市内河原町に移す。新稽古場柿落とし公演作37本目「ラブレターズ●緘書●世界(あなた)の涯へ」

1993/(40歳) 38本目「三部作 時の葦舟第2巻 無窮のアリア」。稽古入りから打ち上げまでの5ヶ月を「河北新報」が全23回連載。

1994/  (41歳) 39本目「演劇に愛をこめて あの書割りの町」。40本目「月の音 フェリーニさん、おやすみなさい」。41本目「スターマンの憂鬱ー地球人類学入門ー」。42本目「三部作時の葦舟第3巻 さすらいの夏休み」。十月劇場解散を決意する。43本目「月の音ー月蝕探偵現るー」。ついに発展的解散を宣言。

1995/  (42歳)TheatreGroup"OCT/PASS"旗揚げ第1作、44本目「素晴らしい日曜日」 。全27ステージ。45本目「小銃と味噌汁」現代浮世草紙集第二話も1ヶ月全20ステージ。46本目「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集第三話。

1996/(43歳) 47本目「犬の生活」現代浮世草紙集第四話。48本目「大難破」。49本目「百年劇場」仙台座幻想。50本目「見える幽霊」PlayKENJI♯1。51本目「ロード・テアトル そして、さい涯」。52本目「転校生」。53本目「1997年のマルタ」現代浮世草紙集第五話。

1997/03(44歳)平成8年度宮城県芸術選奨受賞。

1997/   54本目「カプカプ」 PlayKenji♯2。55本目「明日また遊ぼう」 56本目「アポリアの犬」ーいじめの時代のわたしたちへ。

1998/  (45歳)57本目「むかし、海のそばで」。58本目「FOOL TRAIN」。59本目「SI★MI」~小さき生き物たちの伝説~。60本目「周辺事態の卍固め」

1998/12     取材のため、香港、ハワイへ、初の海外旅行。

1999/  (46歳)61本目「超サムライ 玉蟲左太夫」。62本目「キセルと銀河」を劇作60本突破記念公演。63本目「夜を、散る」現代浮世草紙集第六話。64本目「山猿の子」~さよなら20世紀。65本目「つれづれ叛乱物語」。66本目「ぼくが発見した町と町に発見されたわたし」

2000/  (47歳)67本目「又三郎 20世紀最終版」 。68本目「しーんかーんミステリー」~誰かが僕らを夢見てる~。

2001/  (48歳)69本目祖母からみれば 僕たちは 荒れ果てたさかしまの夜にうち捨てられた野良犬の骨のようだ」70本目「遺棄の構造」。71本目「FOOL TRAIN」~阿呆列車第2便~。72本目「わからないこと」~戯曲短篇集~。73本目「ナイトランド」~夜を呼吸する妖怪たちの物語~。

2002/  (49歳)74本目「祖母からみれば 僕たちは 荒れ果てたさかしまの夜に うち捨てられた野良犬の骨のようだ」NewVersion。75本目「ほんとうの探し物」~目覚めなさい、サトリ~。76本目「翔人綺想2002」。”OCT/PASS"スタジオのクロージング公演」。77本目「この世の花 天涯の珊瑚」。78本目「本の中の静かな海」SHI★MI。ノートPCを購入し、いつどこでも書けるような体勢にした。

2003/  (50歳)79本目「阿房病棟」。80本目「アンダーグラウンド・ジャパン」。81本目「この世の花 天涯の珊瑚」改訂版。82本目「THE RIVER STORY」

2004/  (51歳)83本目「センダードの広場」PlayKENJI♯3仙台文学館篇。84本目「大福の孤独」。85本目「銀河のレクイエム」

2005/(52歳) 86本目「オーウェルによろしく」~アンダーグラウンド・ジャパン続~。87本目「修羅ニモマケズ」 PlayKenji♯4。88本目「眠りの街の翼」

2006/  (53歳)89本目「カオス・クラッシュ この国の涯」。90本目「遊びの天才 遊びの国へ行く」。91本目「ザウエル」~犬の銀河 星下の一群~PlayKenji♯5。

2006/     NHKオーディオドラマ奨励賞受賞

2006/08   「石川裕人劇作日記 時々好調」スタート ~2012/09

2007/04(54歳) 肝細胞ガンのために入院手術。

2007/8    92本目「バビロン バタフライ バーレスク」。93本目「少年少女図鑑」~僕たちは理科室から旅に出る~。

2008/  (55歳)94本目「少年の腕」ーBoys Be Umbrellaー。95本目「アズナートの森」。岩手・宮城内陸地震に材をとって書かれた。奥羽山脈の麓に生きる私たち東北人のアイデンティティを誇る戯曲。96本目「100万回もオルフェ」

2009/  (56歳)97本目「宇宙大作戦」~グスコーブドリ・ミッション~。98本目「A TREE」~夢をつなぐ大いなる樹木の物語~。99本目「絞首台の上の馬鹿」~死刑をめぐるブラックコメディ~。

2010/  (57歳)100本目「ノーチラス」~我らが深き水底の蒼穹~。  

2010/11        脚本集「時の葦舟」 出版

2011/02(58歳)101本目「風来~風喰らい 人さらい~」 精華演劇祭 2010 SPRING/SUMMER 参加

2011/03/11   東日本大震災に大衝撃を受ける。

2011/08   102本目「人や銀河や修羅や海胆は」PlayKenji♯6、被災地の被災地など11か所で公演。

2012/08(59歳)103本目「方丈の海」上演。 遺作となる。 

2012/10/11 肝細胞癌により逝去。満59歳1カ月。

2012/10/14  通夜法要。訃報に驚いた関係者が全国からかけつけ、故人をしのんだ。

2012/10/15 仙台市太白区ファミーユたいはくにて葬儀。享年60歳。法名 演雅一道居士。 菩提寺は自宅に近い宮城県名取市・吉祥寺(曹洞宗)。

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<4>につづく

 

 

 

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2012/10/22

いやはや腹の底からびっくりしたぞ 黒テント公演『翼を燃やす天使たちの舞踏』1970年

Photo
「翼を燃やす天使たちの舞踏」 黒テント公演1970
マルキ・ド・サド作 佐藤信・山元清多・加藤直・斎藤憐構成 佐藤信演出 佐藤充彦・岡林信康音楽 ’70年10月、センター68/70(後の黒テント) 仙台西公園テント興業 石川裕人年表
Vol.3 No.0828

1)私にとっても生涯見た演劇のベスト入りする作品であった。演劇というもの。野外というもの、芸術というものを、まざまざと見せつけられた。私は高校2年生。石川裕人は一年遅れて進学したので、まだ高校1年だった。

2)この演劇を一緒に見にいくきっかけになったのは、今となっては定かではないが、私の記憶によれば(エヘン)私が誘ったからである。仙台市外の高校に通っていた彼は、必ずしも情報が最新ではなかった。仙台の街中を横切って通学していた私のほうが、さまざまな挟雑物に触れるチャンスが早かった。

3)ある時、この芝居のポスターを見て、彼を誘ったのだ。見たのは、当時の新左翼の雑誌や新聞が山となっていた「八重洲書房」(だったと思う)。今ではビル街になり一時、新ビルの地下に入った八重洲書房だったが、いまや姿かたちはない。

4)高校2年生になった私は、上級生たちと政治集会に参加し街頭デモにも参加するようになった。デモに参加するときも、学校から下校してきて教科書などが入ったカバンを書店にあずけ、ある者は黒く塗ったヘルメットをかぶって街頭にでた。私は街頭でヘルメットをかぶったことはなかった。せいぜいべ平連(ベトナムに平和を市民連合)のフランスデモ(みんなで手をつないで大通りを闊歩するもの)程度であった。

5)後年、石川裕人は自分のミニコミ発行について「70年戦士」のひとりであった友人の影をモロ体で感じながらの活動」と記している部分がある。(「インタヴュー1973/04」) 彼のまわりには政治的な活動をしていた高校生は複数いたが、ミニコミ発行で影響を与えていたとするならば、それはこの私である可能性は高くなってくる。ただ私は「70年戦士」にはほど遠かった。なんせ、お互い16歳の高校生だもんな。

6)この芝居のインパクトはすごかった。私たちは二人で見に行ったと思う。いや、一緒に行ったのは私だよ、とか、一緒に三人でいったよ、という人がいたら名乗り出てほしい。もし3人だったら、石川の高校時代の「座敷童子」劇団員で、やがて高校を卒業しないで東京キッドブラザーズに参加していったK(元木たけし)がいたかもしれない。

7)元木たけし(演劇名)は、私たちの大事な小中学校時代の同級性だが、早く上京し、私たちとの関係はうすくなり、現在、連絡はほぼない。ネットで検索すると、舞台監督の仕事を今でもしているようだ。石川裕人がなくなった今、彼からの情報も貴重なものとなっている。(たけし、これをみていたら、なんらかの連絡ちょうだいね。せいこう)

8)私は生涯、黒テントは2回しか見ていない。一度目はこの時であり、二回目は、2011/10/26 「窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ ワルプルギュスの夜篇」 原作/宮沢賢治 黒テント仙台公演。実に41年ぶりに黒テントをみたわけだ。こまかいことは以前書いたブログに譲るが、よくできた演劇ではあったが、これがなぜ「黒テント」なのか、私には解せなかった。完全に変質していた。

9)私がこの芝居を見に行ったのは、劇団「オクトパス」が同じ宮沢賢治の作品をモチーフとした作品「人や銀河や修羅や海胆は」(東日本大震災魂鎮め公演)を見に行こうと思っていたからだ。同じ賢治を、ふたつの劇団はどう扱うだろう。演劇「界」のことなど、なにも知らない私は、まず、この二つを比較してみようとした。

10)黒テントは、2011年の10月というタイミングで、この仙台の地を踏んでいるのに、壇上から「被災者」への挨拶もなく、その「配慮」のそぶりもなかった。ただただスケジュールだから来たのだ(と私には理解する以外になかった)。単なるエンターテイメントだ。おいおい、それがあんたたちの芝居かい。私は、もうこんな黒テントは、生涯見なくてもいい。

11)このがっくり感があったからこそ、オクトパスの山元町体育館での「人や銀河や修羅や海胆は」公演が、痛く痛く身にしみわたった。よくぞ、ニュートン、ここまできたな。40年かかったね。

 

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「演劇」性とノンフィクション・ライティング 「週刊朝日」 10/26号 2012年10月26日号 緊急連載 橋下 徹 佐野眞一 ハシシタ 奴の本性


「週刊朝日」 緊急連載 橋下 徹 佐野眞一 ハシシタ 奴の本性 
10/26号 2012年10月26日号 石川裕人年表
Vol.3 No.0827★★☆☆☆

1)ハシシタだかハシモトだか知らないが、当ブログの関心とはほとんどクロスしない。まぁどうでもいいけれど、なんだこの週刊誌、伊藤計劃/円城塔『屍者の帝国』について清水良典が解説を書いている号と同じだった。

2)あの時はこのタイトルも見たけれど、本文は読む気にはならなかった。佐野眞一という名前は気になったけどね。今日、また銀行に行ったら、誰も読まずに待合のブックコーナーに斜めになっておいてあった。ネットじゃいまや5000円の高値がついている号だが、銀行の待合では誰も関心を持っていない。

3)一通り読んでみて、ふむふむ、と思った。「演技」性性格のハシシタもハシシタだが、サノもサノだな。「フィクション・ライティング」になりかかっている。アサヒもアサヒだ。もっと誠実にジャーナリズムの本道を歩んでほしい。

4)当ブログの出発地点において、佐野の「私の体験的ノンフィクション術」(2001/11 集英社)を読んで感動したのを思い出した。文字にこだわりがあり、何事かを表現するとするならば、私自身はジャーナリズムより、「ノンフィクション・ライティング」のほうが、性にあっていると思った。しかし、あの時感じたものよりも、今回の週刊誌から感じるものは、荒れていて、ダイジェストとデフォルメの手法が極端すぎると感じた。すでにノンフィクションではない。

5)青少年時代を「朝日ジャーナル」で過ごした世代としては、朝日ブランドは説得力がある。しかしながら、もうすでに昔日の面影は薄く、現在の「週刊朝日」など、「サヨク」的な「ポーズ」をとっている、もうひとつのポピュリズムでしかない。実話雑誌以下になり下がっている。こういう時こそ、私は、生涯の仕事として「ジャーナリズム」を選ばなくて、ほんとによかったなぁ、と痛感するのである。

6)被差別部落の問題は、「東北人」の私にはよく理解できない。昔むかし関西で「週刊月光仮面」を発行していた大学生A氏(名前どわすれ)を尋ねた18歳の時、「関西に来ると部落問題の横断幕など良く見ますが、東北ではこういうのはありません」と云ったところ、傍らにいた御父さんに「東北は全部部落みたいなもんだからね」と言われて、それからずっと気になって問題ではある。

7)なにはともあれ、私は、この週刊誌を読みながら、ハシシタの「演劇」性と、佐野のノンフィクション・ライティングの比較について考えた。それは今、石川裕人の「演劇」性と、私の「ノンフィクション・ライティング」の対比として、つなげて考えることができるのではないか。

8)当ブログでは、「還暦を迎えるわが同期生たちに捧げる10冊」なるものを準備中だった。石川裕人が亡くなるほんの3日前のことであった。わが同級生である石川裕人の脚本中をリストの5冊目(中心)にあげ、これからさらに案を練ることにしていた。

9)しかし、こうなって見れば、あのリストのテーマはさらに絞られ、「ニュートン---劇作家・石川裕人の軌跡」とでも改称されるべきのように思えてきた。「生涯と業績」でもいいのだが、ちょっとそれでは重い。

10)弔辞はお母さんに向けて書いた。今準備しかかっているものは、わが同級生たちに向けて書くのである。読んでくれるかどうかはともかくとして、ニュートンを偲びたい、という同級生たちが複数いるかぎり、その人物のプロフィールは最低知っておく必要があるだろう。

11)実際には、彼の全体像すべてを知っている人は、ほとんどいない。お母さんも、芝居や社会の中の彼を知らない。私たち同級生も幼いころや青年時代の彼なら知っているが、成長し、社会の中で活動していった彼の軌跡はもう見失っているところがある。奥さんである一枝さんにしても、小さい頃の事は知らないだろうし、家族には見せなかった彼の顔もあったかも知れない。現在のオクトパスの人びとも、日々共に練習に励んでいたとしても、古い時代の彼のことを知ろうにも知ることができないことになってしまっているだろう。

12)さいわい、最近、劇団の人たちから、今度また会ってお話をしたいです、というお誘いを受けた。彼らにも何事かを伝えたい気持ちがある。

13)そんなわけで「追悼パンフレット・ニュートン」を作りたいと思う。時期は、私たち同級生の還暦祝いがある来年2013年の2月までに発行。量的にはあまり長いと読んでくれないし、短いと何も書けないので、せいぜい、私たちの老眼で一時間ほどで完読できるものにしたい。

14)先日の弔辞は読んで10分だから、読んで一時間の内容といっても、あの6倍。通常の単行本にしたら、せいぜい4~50ページのものとなるだろう。コピーして同級生たちに配るにも、あんまり厚いと私の経費がかさむ。ほどほどでよい。

15)それでもいつかは作られる「石川裕人--その生涯と業績」(仮称)の叩き台になる程度の質は持たせたい。そのためにも、もう少し資料を集め、必要なところは取材し、関係者に聞き取りをしなければならないかもしれない。

16)弔辞ではポイントを越前先生、寺山修司、宮沢賢治に絞ったが、追悼パンフ「ニュートン」(仮称)では、彼の演劇活動の集団の名前でいうと、(1)「演劇場座敷童子」、(2)「洪洋社」、(3)「十月劇場」、(4)「オクトパス」、の4つの時代の区切ってみたい。オクトパスは「oct/pass」とすると、我同級生たちには理解できなくなる。ここは、ぐっと還暦を迎える友人たちのほうに降りてきてもらいたいと望むものである。

17)(1)座敷童子の時代はだいたい私にはわかる。あるいは、私が書かなきゃ誰が書く、という自負さえある。(2)洪洋社や(3)十月劇場は、当時情宣美術や写真記録を担当していたサキが手伝ってくれるだろう。だが(4)オクトパス時代は、一枝さんや劇団員の人びとの話を聞かないことにはどうにもならない。あるいは、この(4)のオクトパス時代こそは、やがて、拡大編集されることになる「石川裕人---その生涯と業績」(仮称)のメインになるはずなので、次なる編集者にバトンタッチすべきポイントだろう。

18)そんな訳で、また、もうすこし上演台本や過去の彼の文章、あるいはマスメディアの報道記録なども活用しながら、石川裕人の全体像の俯瞰に挑戦していこうと思う。

19)「演劇」性と「ノンフィクション・ライティング」。なかなか面白いゲームになるかもね。

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インタヴュー1973/04  いしかわ邑 『演劇場座敷童子』は『神話』をつくりに行くのだ!!

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「時空間」
 
時空間編集局 1973/04 ミニコミ雑誌 p100 石川裕人年表
Vol.3 No.0826
★★★★☆

「演劇場座敷童子」は「神話」をつくりに行くのだ!!

インタヴュー いしかわ邑石川裕人19歳)

 ----「演劇場座敷童子」の旗揚げ公演である「秘密のアッコちゃん☆凶状旅篇」は何に向けて撃たれたのか?----

 完全に言い切っちまえることは「70年の影」へ向けて撃たれたということだ。70年代斗争という観点から見れば70年・一年だけへ向けて撃ったなぞというと視野が狭いなぞと笑われるかもしれんが、'70年をいい子ちゃんで送った俺には、どうしても長く尾を引く影がまとわりついてた訳だよ。

 そいつは遂には学校の枠を中で変に割り切ちまって斗いの火を消してしまったなんてことからも云えるんだが、つまり70年代斗争を自分が斗っていくには70年の情況にふん切りをつけたいと願った訳だ。70年以後のミニコミ発行にしても、コンサアト企画にしても映画上映にしても、唄つくりにしても、「70年の影」の下での暗い陰湿な自分との斗いであったとも云える。

 そしてその中で徐々に影から脱け出してきたことだけは確かだ。それが顕著に現れたのがミニコミの休刊だ。いまはもう廃刊にしようと思っているが、それはひとつ「70年戦士」のひとりであった友人の影をモロ体で感じながらの活動であったからだ。

 つまり俺は俺としての斗いを展開しなかったという訳だが、自分の「ことば」つまり行動でもいいがそいつで斗いをくり広げなかったことにあったからだ。

 ミニコミ休刊の次には脱出作戦第2弾として、俺は俺の最も先鋭な「ことば」を体現化しようとし、俺がもっとも動ける芝居でもってそれをしたのだ。つまりあの芝居は、俺としての「70年の影」への総括であり脱出であり70年代斗争展開であったんだ。

 ----ではあんたの芝居の動点は何か?----

 わかっているとは思うが、「芝居が好きですから」とか、「ぼくの要求です」とかっていうことは超えられねばならぬのだ。そんなことはあったり前だしね。

 で、動点となると、芝居がどれだけ日常に亀裂を生じさせられるかということなんだ。そうしてからそこに流れ込んでくる人間の感情とか怨念とかいうものに、芝居がどれだけ耐えうるかみたいなことだね。

 ----もう少しくわしく話してくれ。----

 芝居自体が断頭台に立たなければいかんような気がする。つまり見せしめじゃわい。いまはもう価値観も相対化してきてるし、それに輪をかけて日々の流れというものも不安が全然なくてね。そいつにうつつをぬかしてるようなもんだから、そんなところに芝居をもちこんで暴れまわったら一体何が起こるか楽しみだね。

 国家というもんが国民といわれる人たちを、演出しつくさっている訳だね。つまり角栄とっつあんなぞは演出家中の演出家ということになる。だからそいつに対抗するには、俺たちも何もかもを演出しつくそうじゃないかということなんだ。ただ奴らは権力者という国家役者だからね。奴らは強いが、国家を演出してるということは、時代を演出しているし、それはつまりこの空間も演出してるというほどすごい演出家達だからね。手強いね。

 ----ただ、その芝居空間で起こりえる何もかも計算しつくした上での演技なり演出なり、というのは意識しちまって全然飛ばない芝居になりはしないだろうか?----

 計算ししくすというというのはできないことで、強引にその通りにしようとする傾向がでてくるだろう。しかし考えてもみりゃぁ奴らだって強引に演出してくるからね。例えば安保があったし、三里塚があったし、GNP狂信妄想があるし、それは全て被権力者への「公約」という芝居の演題で演じられてきたんだ。

 するってえと造反した奴らは強制的というより他の劇団員つまり国民さね、その劇団員らの同意の上に、造反団員は断頭台にのせられる訳だね。それはおまつりみないなもんだし一億団員みんなもろ手をあげて拍手させられちまうようなね、強引なんだが、他の団員には、「しょうがいない」としか写らないんだね。つまり退団を許してるようにみえて、実は絶対的に退団を許しはしてないんだね。

 よしそうなりゃあ、こっちから、何もしないで断頭台に昇ってやろうじゃねえか!!という捨て台詞を投げつけて行動に移す訳です。こういうことも奴らは演出してるんじゃないかという恐怖におののきながらね。だから飛ぶ芝居をつくってゆく為には俺たちのつくる強暴な空間と共に暴れ回ることではなくて、「フン!!」なんてそっぽをむく客のほうがなにかいい感じがしてしまう訳でね。

 その離反関係の中で国家劇の醜悪さみないなものが、俺もわかってくるし、客も気付いてくるんじゃないだろうか?という実に安易な考えの下であるからして、もう行動しかない訳ですよ。

 ----うん、そこで、民衆の情念みたいなものをどうくみ込んでゆく訳?----

 つまり呪縛されてるのは俺達民衆なんだ、ということだ。民衆の情念というのは俺の芝居にとってテーゼであって、アンチテーゼは、共同体を形成している人間なんだ。どっちも人間が当事しているものだが、この二つは、離反していると思う。

 それで呪縛の根源は何かというと、某かの共同体がそれだね。そいつを俺たちは忘れているというよりは生れた時からもう俺達は共同体に組み込まれてきたらね。ただ潜在意識みたいなもので時たまフッと考えてみたりするって時を情念の健かさに転化していままでのサイクルを換えてみるってことが必要なんだと思う。

 そのフッとわからせる作業を芝居でやっていけると思う訳だ。呪縛を突破するのに民衆の情念を求めて共同作業の中から、生活行為そのものとしてのというより芝居空間における共同性みないなものを生活行為そのもので打ち消していきたいと思っているんだ。

 そこに民衆の情念のサイクルと役者のサイクルとの位相が各自信見えてくると、そこから何か出てくるんじゃないかと思っているんだが。

 ----あんたはこの頃、「南下」ということをしばしば口走っているが・・----

 ウン。そいつも前に云ったことと関連があるんだが、俺は東北生まれの東北育ちなんだ。それで近代の呪縛を生んできた過程には、古代文化の影響が強い訳だ。つまり南方から文化は輸入され北上してきたんだね。

 で、神話ひとつとってみても、これは反動的であると云われるが、そいつもひとつの呪縛だろうし、「神話」がこの時代まで生き残れ得たの共同体存続のための呪があったからだとも云えるのさ。

 祭的な要素と芝居。そして祭的な要素と「神話」というのはすごく関係がある訳よ。そしてその現代を圧倒的に呪縛しちまっているものっていうのは普遍的な日本文化の上属としてみられてる「古事記」そして「日本書紀」の中のものって感じがするね。それは紀元節復活ってなことに現れてくるんだが。

 それで南の国への北からの「神話」造成ね。つまり新しい文化時代性の流れを逆流させちまう作業ってのが何か変に芝居的でね。いいいいと思っちまうね。唐十郎も「日本列島南下運動の黙示録」なんていう本を出してたが、俺は氏の本を知る前から考えていたし、まだ読んでないんだ。唐のとは違うんじゃないかな?

 ----じゃ旅回りになる訳か?----

 そうならざるを得ないし、旅回り自体が、日常に亀裂を生んでゆく訳だよ。たとえば町中をチンドン屋みたいな格好してだ、「ご当地見参!!」みたいなことして芝居の宣伝やっててね、人の眼をモロ感じたら亀裂は生じてくるしね。もう芝居なんてやる必要もないんだろうが・・・・・。

 ----ないんだろうが・・・、ナニ?----

 ないんだろうが・・・、俺たちゃお芝居でめしを食っていこうとする訳だからね。今度は亀裂をおこした駄賃として、皆様から金を頂だいしなくっちゃ。

 ----役者を芝居の中でどう位置づける?----

 いや、役者とか演出とか照明とかね、それはもう芝居の場全体の中での一構造を成しているだけだからね。どうも位置づけない。

 ----では役者のない芝居もでてくるか?----

 ああ出てくるだろうし、ただ今のところ俺のものには役者が必要だね。ちょっとまだ、言語を吹っ切れないから。

 ----「言語」が呪縛を生んでいるとも云えるが。----

 そうだろう。しかし俺らの「神話」つくりには伝承言語が必要だからね。昔の神話も伝承だったんだろうが、そして言語も芝居の中では構造にしかすぎんということだ。

 ----集団創造みたいなことだけれど、そう思うのか?----

 集団創造にも二通りあると思うんだが、ひとつは台本もない状況から役者演出裏方一体となってひとつの作品をつくりあげていくものと、もう一つは芝居と関係ないところから、つまり芝居以前の人間関係などから作っていくもの。云ってみれば芝居以前といっても芝居は前提とする訳だが。

 俺は役者の方でやっていきたいんだ。つまり旅回り自体がすでに芝居だし、どうしても割り切らなくちゃならんことがいっぱい出てくると思うんだ。そんな所で人と人との葛藤ってものが石ころみたいにゴロゴロ投げ出されてるみたいなところまで行きついてね。行くつくと今度ははね返ってきてそれが感性の眼覚めみたいなことになるといい芝居ができるようになるんではないかな。てことからだけど。

 ----さっきあんたは客について、そっぽを向かれた方がいい。なんて云ってたけれどもね。客参加ということをどう捉える?----

 芝居というものは客がいなきゃあできないということ。そして、客の期待するもんだけを俺たちがやるとは限らないこと。だが芝居であると客は思っていること。ここからここまでは現実で、ここからこっちは虚構の世界なんだと客は金を払って観にくること。

 客はそういうことを頭に置いているからものすごく慎重だね。というよりも頭をなぐられても酔ってもいない限り「何、てめえ!!」てなぐりかかってはこない。つまり虚構の世界にいてもたかが芝居というところに寄っかかるところをこさえているからだね。

 ところがさっきも云ったようにあらゆるハプニングを計算した上でということは非常に無理だから、例えば酔っ払いがけんかを吹っかけてきた時とかね。この前の「アッコちゃん」の時みたいにガキ共がいろいろふっかけてきたりした時に、その客は虚構の中で寄りかかるところを失っている訳だから、そういうハプニングは劇的に発展性のない客参加であっても、芝居の枠組みの中へくわえ込んでしまってね。

 互いによっかかるところのないせめ際まで持っていったらいいと思うね。つまりそっぽを向かせるということはよりどころを失わせるということにもなるんだ。

 ----これからの計画を聞かせてくれ。----

 いまはやっぱり「童子」たちを集めることだね。もしかこれを読んで興味をもった人はチラっときてくれるとありがたいね。お茶でもすすりながらお話すると何かいいんじゃありませんこと? 言い足りないこともあるんでね。

 そして照明器具とか確保してね。ああその前に共同生活みたいなことから始めなければならんが。そして南へ兇状旅に出てゆこうということなんです。

 新作は並行して二作つくってるが、俺は気分がいい時に書くんでね。気分がよくない日が実に多いからペースは遅いんだけど「秘密のアッコちゃん☆血煙り街道編」と、仮題だが「想い出は粉死の彼方に」っていうのをシコシコ書きつづけている。

 それじゃぁ「神話」の国であいませう。

 3/6~3/7 深夜インタビュー <終>

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2012/10/21

1+1=3にせよ! 石川裕人15歳の叫び 中学校卒業文集『根っこ』

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「根っこ」
増田中学校第22回卒業生 1969/03 文集 p42 石川裕人年表
Vol.3 No.0827
★★★★☆

1)私たちの中学校卒業は1969年である。時代は騒然としており、高校を目指して受験勉強をしている時、テレビでは、東大安田講堂の攻防戦をやっていた。学生運動が激しくなり、また、それを報道するテレビ網も急速に発達しようとしていた。

2)そんな時代の動きに私たちはそれぞれに敏感になっていった。こんな時、受験勉強などしていていいのか、とさえ思った。そういう訳でもないのだろうが、二人ともこの文集には投稿していない。石川裕二は編集委員には名前だけ載っている。どこか学校の教師どもがうっとうしく思えてきた時代だった。

3)それでも、それぞれ「私の言葉」としてひとことづづ寄せている。

4)青春は1+1=3にせよ! 石川裕二 p3

5)彼は中三時代のクラス新聞を作っていて、そのタイトルは「1+1=3」だった。そのことは覚えていたが、卒業文集のひとことまで、こう書いているとは知らなかった。数学は得意ではなかったので、皮肉っていたわけでもなかろうが、合理的なものより、非合理的で、超越的な何かを模索し始めている兆候だったのかもしれない。

6)ちなみに私自身の「私の言葉」はこうである。

7)ひつじの皮をかぶったオオカミ 阿部清孝 p4

8)今回、順序が逆になり、誰かが私のこの言葉を解釈しようとしても、ひょっとすると、この意味がわからないのではないかと危惧する。なにやら、「赤ずきんちゃん」にでもでてくる赤い舌を垂らしたオオカミ男にでもたとえられるのではなかろうか。あいつはやっぱり二重人格男だった、なんてね。

9)実は、これは、当時のレースカー、プリンス自動車のスカイラインGTRのキャッチフレーズだった。セダンのようなおとなしいスタイルのクルマだが、とてつもないエンジンを積んでいて、日本グランプリでもそうとう優秀な成績だったはずである。だから、意味的には、ボロは着てても心は錦、みたいな意味で使ったのだった、と記憶している。

10)なにはともあれ、義務教育を終えて、社会にでていく私たちを、矛盾にみちた、騒々しい現代社会がむかえようとしていた。そんな1969年の春だった。

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小学校の学芸会の主役を演じる石川裕人 『孫悟空』

1963

石川裕人、小学校4年生(1963/11)の時の学芸会「孫悟空」で主役孫悟空その1を演じる。

石川裕人(最前列中央、大王の右隣)。私は護衛役(最前列中央大王の左隣)。石川裕人年表

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楽しかった中学校時代 「吾輩は猫である(上)」を読んで 石川裕二(中一)

Masuda
「ますだ」6号

名取市立増田中学校生徒会 1967/03 学校文集 p64 石川裕人年表
Vol.3 No.0826★★★★☆

「吾輩は猫である(上)」を読んで 石川裕二(中一)

 吾輩は猫である名前はまだない。

 この文を読んだだけでこの猫がそうとういばっていることが、わかる。

 猫でありながら、中学生くらいの頭をもっている。

 自分でもそういっているのだから世話がない。人間のことが気になるのか主人の友だち寒月君の縁談ごときにいたっては、この猫。そうとうの活躍をする。

 まづこの猫が人間なら探偵くらいにはなるのではなかろうか。しかしこの猫君。世の中で高利貸しと探偵ぐらい下等な職は、ないと思っている。

 ジャア好奇心と冒険心があるので探検家ぐらいが適当だろう。

 一番傑作なのは、一回、もちでも食べてみようと思い、食べようか、食べまいかと思う。しかし、来年の正月までもちは食べられない、よし食べよう!

 そして食べたまでは、よかったが、もちが歯からとれない。もちは魔物だと思ったときはもうおそかった。主人と同じで割りきれない。

 エエイッめんどう。とばかり前足をもちにかけ、後足で立ち、おどりでは、ないが、主人や

子供たちは、そう思った。

 ここの場面は、ぼくの目にも見えるようだ。ついでにこの小説にでてくる登場人物で感じたことを書こう。

 まづ主人、苦沙彌君。名前にあわずのんびりというのか無関心というのか、何もたいしてもはなはだ無関心である。

 たまにだれかにしげきされ絵や俳句などをやるが、それもろくなのができない。

 おこり方も「バカヤロウ」しかしらない。もっとおもしろいところが、あるのだがまあこのくらいだ。

 次に迷亭先生。大ボラ吹き。なんでもかんでもウソにしてしまう。 

 こんな人もあったもんじゃない。

 そしてホラがばれても、どうてこともない。そうとう、キモッ玉が強いようだ。

 マアこのくらい。

 それからこの名ナシの権兵衛の猫の友達の三毛子の飼い主と来たら人間より猫の方が大事だ。

 漱石は、この小説で猫の口をかりて、その時代、人間などをおおいに批はんしている。

 例えば、土地について、人間は土地をつくるのに何も神に手伝ってもいないのに自分たちで「ここはおれたちの土地だ」なんてのはもっての他だというもの。

 これには、ぼくもまいった。

 猫ながらあっぱれ。

 最後に、これは、漱石の処女作であるが最高によくできていて、おもしろい。

 処女作でおもしろいなんていうのは、やっぱり、学問のつみかさねだと思う。

 下巻が楽しみだ。p57

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 石川裕人13歳(中一)の時の学校文集である。この時代から彼が小説を読み、「ウソ」について語っていたことに今さらながら気がついて驚いてしまう。

 彼の文章を探していて、自分の文章もみつかり唖然とした。こんな文章を書いたことを全く覚えていなかった。一読してみて、この時代から、なんと二人の作風(笑)が違っていたんだろう、と痛感する。彼は最初からやはり演劇作家になるようにできていたのだろう。

 私のほうは、なんともせいぜいノンフィクション・ライターを目指せるかな、くらいの力量しかなかったようだ。なにもどさくさにまぎれて自分の文までアップすることもないだろうが、まぁ、ここで二人の作風を比較するのも、一興かな。

 二人の距離が一番近い学年だった。僕は彼が大好きだったからね。この当時、二人は三年生を送る会で、10分間の漫才を体育館のステージでしている。この時、タイムキーパーなどの裏方を買って出てくれたのが、やがて東京キッドブラザーズやスリムカンパニーに行ったK(元木たけし)。

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「二口渓谷を見て」 阿部清孝(中一)

 5月23日、ゆうべからの雨で、せっかくの遠足もあやぶまれたが、バスは雨の中を出発した。

 バスの中では、せいぜい楽しもうというわけで、みんなはしゃいでいる。歌を歌うもの、話しをするもの、笑うもの、みんな楽しそうだ。

 一時間半もバスにゆられてついた所が、「秋保大滝」、とてもいいところだ。幅5メートル高さ55メートル、岩をたたく水の音が、数キロメートル四方にまでおよぶそうだ。

 予定を10分ほどオーバーして、二口温泉に到着した。さっそく温泉に入った。みんな楽しそうにお湯にひたっている。そしてあっちでもこっちでもお湯をひっかけっこしている。お湯は適当ないい熱さだ。あまり長く入っていてのぼせた人もいたそうだ。

 食事をすませてから、希望者だけで、磐司岩を見学することになった。山道を走ったり、歩いたりして、進んでいく。山道は似たところがたくさんあるので、同じ所を何回も歩いているような気がする。それにしてもずいぶん遠いところだ。ズボンにすっぱねを上げて走ってはみるがまだまだつかない。ふきをとりながら歩いている人もいる。

 自分の前にもたくさんの人がいるが、下のほうにももっと人がいるようだ。大きな水たまりをとんでみたり、すごいがけの所を逃げるように走り去ったり、そんなことをしているうちに、やっと磐司岩についた。

 約100メートルぐらいの高さの所に、出たり入ったりしてすごい姿を見せている。

 雲などをかぶっているところなんか実にすばらしい。

 帰りもあのおそろしく長い道をさっきの逆の方向に進んでいった。ほんとうに遠足だ。

 一日をふりかえってみて、本当にたのしかった。雨の日、出かけるのも楽しいものだと思った。p48

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『ナイト・オブ・シタール』 by Atasa シタールの音色で、心癒されるひとときを 2012年11月4日(日) 仙台 ホルトヨガスタジオ<1>

Atasa_2

<2>につづく

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独自の演劇活動を貫こうとした石川裕人 『星の遊行群』 1975年ミルキーウェイ・キャラバン<2>

<1>からつづく

Photo
「星の遊行群」 Vol.1 <2>
星の遊行群 ミルキーウェイ・キャラバン 1975/03 ミニコミ雑誌 p135 石川裕人年表
★★★☆☆

1)59才と一ヶ月を一期として逝った石川裕人を振り返ると、実に多くの事柄が残されていることに気づく。ましてやそれらがごくごく身近に残されていることに、あらためて驚かざるを得ない。

2)ひとつひとつの資料は、未整理のまま、一度は順不同で並べてみようかなと思い始めているが、その作業をはじめる中で、いくつか気がついたことがある。また、今後、整理をすすめる上での留意点もひとつひとつ分かり始めている。

3)まず、1975年の例の「ミルキーウエイ・キャラバン」だが、はて、あの時、彼はどのような取り組みをしていたのだろうと、気になってきた。

4)最近、もとプラサード書店の槇田但人(きこり)がメッセージをくれた。彼は山尾三省の処女集「聖老人」を出版した人だが、現在、山田塊也の「アイ・アム・ヒッピー」の改訂を準備している浜田光(あぱっち)の依頼で、1975年のミルキーウェイ・キャラバンの項を増補しているという。そこに私にも協力要請があった。

5)そういう背景のなかで、石川裕人は、1975年という時代をどう生きていたのか、ということが気になってきた。残念ながら、この「星の遊行群」には石川裕人は投稿していない。彼の当時の住まい(共同生活体)「サザンハウス」の住所は載っているが、仙台市福沢町になっているので、最初の緑が丘から引っ越した二番目の住所である。確かではないが、名称は残っているものの、すでに石川裕人は「サザンハウス」から離れていたかもしれない。(未確認)

6)この75年の頃、たしか彼は洪洋社という劇団名で、市内本町あたりに稽古場をつくる準備をしていたはずだから、全国のカウンターカルチャーの流れというよりは、独自の演劇の世界へと邁進していたか、別な演劇ネットワークにコネクトし始めていたに違いない。(未確認)

7)彼のブログをみると、1978年から1981年あたりを「暗黒の時代」のように書いていて、演劇から離れようとし、一切演劇は見ず、触れないという生活をしていた時代があるようだ(未確認)。ここもまた興味深い。

8)実は1977年12月に私がインドに旅立とうとした時、友人たちが30人ほど集まって送別会を行ってくれた会場は、この仙台市本町にあった洪洋社の稽古場だった。その後帰国して、一時学業に戻ったものの、私は病を得て「余命6ヶ月」を宣告されていた時代である。ようやく復帰したのは1981年の後半であった。

9)彼が演劇離れしていた時期と、私が日本を離れ、あるいは生死をさまよっていた時期とが重なっていることは、こちらからの勝手な想いだが、なかなか興味津々のところがある。彼が私たちの結婚式の司会をやってくれたのは1983年2月だから、交流はずっと続いていた。

10)そう思い始めると、気になりだすのは、1991年の「スピリット・オブ・プレイス」の時代である。半年の長い準備期間のあいだに、彼に協力依頼をしたことがある。たしかPHS(ケータイ)で歩きながら話したのを覚えているので、こちらの説明も不足していたのだろう。彼のほうは即座に協力を断った。「今、うちの劇団はそういう状態にないんだ」。1991年夏頃のことである。それは、どういうことだったのか、これもまたこれから検証してみようと思う。

11)彼の演劇については、まったくの「招かざる観客」の私ではあるが、彼を振り返る意味でも、どうしても、その演劇の100本とやらの上演台本に触れてみたいものだと思う。特に、オクトパス時代は、私には全く見えておらず、「現代浮世草紙集」シリーズと「プレイ賢治」シリーズは検証して見る必要がある。

12)1995年の晩秋に上演された第三話「教祖のオウム 金糸雀のマスク」あたりは、ぜひとも台本や他の資料で付き合わえて考えてみたいと思う。私はこの演目で彼の演劇を見なくなった。なぜだったんだろう。演劇の出来が気になるのは当然としても、私の中に何がおきていたんだろう。

13)うちの奥さんは、それは封印しなさい、とおっしゃるが、なにはともあれ、結論は「石川裕人絶賛」にならざるを得ない当ブログの「石川裕人おっかけ」である。ここではっきり言っておきたい。あの芝居の後、彼は何回か無料チケットで招待してくれたことがあった。だが、それでも私は、一切見る気になれず、「バス代がもったいない」と言って、行かなかった。(関係者のみなさん、ごめんなさい)

14)3・11後に、にわかに宮沢賢治の「大」ファンになってしまった当ブログだが、石川裕人は早くから賢治をモチーフに使っていた。弔辞では、賢治、賢治と連発し、熱烈なオクトパスファンにとっては違和感が残ったかもしれないが、やはり、賢治と石川裕人は付き合わせて考えて見る必要はあると思う。それには「プレイ賢治」シリーズは、最終ステージにさしかかった石川裕人の演劇とはなんだったのかを知る上では重要な鍵になるはずである。

15)そう言った意味において、弔辞では唐十郎が抜けている。

16)その頃、中央では新しい時代の劇作家たちが活躍していました。特に天井桟敷の寺山修司と一緒に食事をした時、あなたは「君にはリーダーになる才能がある」と励まされ、石川裕人というペンネームで本格的に脚本執筆を開始しました。「弔辞」2012/10/15より

17)正確には、どこかの芝居の打ち上げの時、寺山からギョロっと睨まれて、「お前は顔が大きいから頭領運(ずりょううん)がある」と言われたらしい。ないしは、何回か聞いた彼の自慢話を私はそう記憶している。知人から彼には誰か先生がいるのか、という質問があったが、私の知る限り、彼は独自で演劇の世界を切り開いていったと思う。

18)まだキチンとみていないので不明だが、あちこちで彼は唐十郎を師匠のように書いているが、その芝居に圧倒されたことは確かだっただろうが、どこかで寺山との会話ほどのエピソードは残っていないだろう。会食さえしたことないと思う(未確認)。しかし、石川は唐十郎を演劇の第一の師としている。

19)ここがオクトパスファンにとっては不満なところかもしれない。ただ弔辞は、85才のお母さんにわかるように書いたために、かなりダイジェストのダイジェスト、デフォルメのデフォルメになっている。ふう、10分間のシナリオを仕上げるにも、一苦労である。

20)もうひとりの師としている小学校時代の担任だった越前千恵子先生については、いずれあらためて書くときもあろう。彼女は30才ほどで結婚したので、武田姓になっていたが、だれひとり武田先生と呼ぶ同級生などいない。

21)彼女のご主人の武田さんが友人から一本の電話を受けたという。「おい、お前の女房の名前が新聞に載っているぞ」。河北新報の石川裕人が「越前先生」について書いたエッセイが、どうやら共同配信されて東京の地方版でも掲載されたらしい(未確認)。それでエチゼン先生はその記事を読んで、とても喜んだ。生涯財布にその記事を入れて大事にしていた、という。石川裕人が亡くなって初七日が過ぎ、宮城県名取市の越前先生の墓前に行き、「ニュートンがそちらにいきましたから、先生、よろしく」と挨拶してきた。

22)駆け足になるが、私は2011/10/29宮城県山元町体育館での「人や銀河や修羅や海胆は」を見ることができたから、石川裕人という男の芸術の仕上げには満足している。もうしわけないが私にとっては「方丈の海」はプレミアム付録(もちろん豪華特別版だが)に思える。

23)高校時代に、文化祭の階段の踊り場から始まった彼の演劇は、3・11の避難所で終結した。仔細は省くが、彼はみずからの演劇に天地の鳴動を乗せきることができた。見事なできであった。私は、これをみたかった。一生つきあってきてよかった。

<3>へつづく

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2012/10/20

南無飛行ニュートン命 いしかわ邑『夢魔のメルヘン 20才の献血』

10
「時空間」10
雀の森の住人たち 1975/04 ミニコミ雑誌 p128 表紙デザイン/阿部清孝 石川裕人年表
Vol.3 No.0825★★★★☆

「夢魔のメルヘン 20才の献血」 いしかわ邑

 さっきのことだった。

 鋭利なビンのかけらにぼくは身を投げ出していた。それ以来、右腕の血が止まらないのだ。何故身を投げ出してしまったかなんてことはもう問題ではなかったのだ。眼前のビンのかけらの散らばりが中天の太陽に輝いて七色の光を妖しげに放っていたからかもしれない。それは嬉しいでき事であった。太陽に輝くものがこの砂漠にあったのだから。

 ぼくはもう砂に足をとられることは二の次で息せき切ってビンのかけらの群れに飛びこんでいた。コーラのビンらしかった。

 ぼくは血のしたたりの快よさに胸を躍らせてビンのかけらを太陽にかざした。血が付着したそのビンのかけらで見上げた太陽は腐ったトマトケチャップのようだと、ぼくはそのかけらを口に含んで血をなめたのだ。

 その時、舌先が切れてしまった。鉄をなめたような、しかしもっと金属的ではない不用意なものが口中にあふれ出した。ぼくの唾は真赤だった。

 血が出ているのは、舌と右腕だけではないらしかった。ビンのかけらに写った太陽が強烈に光をはね返してきた。眼を射られたぼくは眼を下にそらした。すると腹と左足にも血の湧きでているところがあった。

 ぼくは赤い唾をはいた。

 ----チッ、なんてこったい。

 唾は白くさらさらと始終動き続ける砂の上に赤い滴々をたらし続けはしていたが一滴ずつ違うところへ移動していくのだった。もしかしてこの血の一滴々々が、南へ南へ向かっていくのかも。風に流される砂のひとつぶひとつぶにのっていくのかもしれない。ぼくの居場所を知らせるには絶好だ。

 ぼくはかけらの中で一番切れそうなやつを探した。もう少し大量の血を放出する為にだ。

 そいつは、他のかけらがキラキラ輝いていうるのに半分を砂の中に埋めて輝きのしないのだった。ぼくはそいつを引き抜こうとしたが、このサラサラとした砂なのに抜けないのだ。疲れてきているのだろうか。汗だらけだ。そして血は体中至るところからにじみ出してきているみたいだった。泉の水みたいに。

 砂の流れが変わったようだった。ぼくは遠くを眺めた。

 砂だけだった。

 隆起も何もなかった。

 首のつけ根あたりからも血が湧き出しているらしかった。

 もしかしたらこんなに傾むいて見えるのは、首がこそげ切られ傾むいているのかもしれない。あるいは蜃気楼だろうか。

 ぼくは左へ眼を移した。遠くの砂の一点が白くはない色を呈していた。それはゆるやかにゆるやかに近づいてきた。

 ----まるで脈動の速さだなあ。

 その白くない砂が近づいてきているのが妙に不安だった。

 微かな不安どおりそれは赤い色をしていた。それは血だった。血の固まりだった。

 するとこの血は----ぼくはさっき引き抜こうとしたビンのかけらの処の砂を堀った。

 ----やはり。

 やはり砂の下には人間がいた。ぼくのように砂は南へ行くことを念じてやまなかった人間だったろう。そして一度に血を出してしまったのだ。

 ----砂は南へは行かない。

 ゆるやかな脈動と同じ速さで近付いてきた赤い砂はもうすぐそこまできていた。

 その時、ゆらっと少しの落下の時のような衝撃があって、見ると。

 ぼくの頭のない胴の先、つまり首のつけ根から大量の血が中天向けて噴き出し始めているところだった。 <終> p98~p100

 

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21歳の石川裕人は何を想っていたのか いしかわ邑『化粧の季節』

Photo
「時空間」8号
時空間編集局 1974/10 ミニコミ雑誌 p164 表紙デザイン/阿部清孝 石川裕人年表
Vol.3 No.0824★★★★☆

1)石川裕人の足跡には膨大な資料が残されている。いずれひと連なりのものとして俯瞰される時もくるだろうが、まずは手元に残っていて、でてきたものから、整理準備のために提出しておく必要がある。

2)私の手元にあるものは、彼の人生の中のごく一部でしかない。だが、それでも、彼とともにいて、それを再確認する意味を痛感する私は、私は私なりにできるところから始めていこうと思う。

3)これは1972~1975年の4年間に作られたミニコミ誌である。だが、ミニコミ誌とあなどるなかれ。そのネットワークは全国に及んでいたのである。発行部数およそ600部(号により増減あり)、ほぼ完売となった「伝説」のシリーズである。(蛇足だが、表紙は相変わらず、私がデザインし、シルクスクリーンで印刷している。)

4)この全12巻のミニコミの中には、いしかわ邑の短文がいくつか残されている。演劇脚本は、いずれ役者たちによって「解体」され、「舞台」(とはかぎらないが)の上で再構築されることを前提として書かれているので、もともとが未完成である(と彼は繰り返し述べている)。

5)しかし、雑誌の中に文章として掲載された限りは、それは修正できない「決定稿」であり、あとから言い逃れができない重さがある。それを意識しているだろう「劇作家」のこの文章に、彼は、演劇脚本とはまたちがったリアリズムを持って、立ち向かっているはずである。

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「化粧の季節」 演劇場座敷童子 いしかわ邑 

 俺らの回りにはらまれているはずの肉体とはらまれているはずの時空は、あるいは悶絶しようとしているのかもしれない。たかが内時空にからめとられてしまうことには何の恐れも持ちはしないが、外時空によってからめとられて、内空が外心力を失速してしまった時が恐いのだ。 

 あらゆるはらまれてしまっている時空間を一掃してしまうことはできないにしても、時空を我が時空としてしまうことはできるだろう。 

 いま肉体は狭い路地をつきぬけてゆくのだが、その路地は真夏の太陽にじりじりと焼き焦がされて両脇の塀のタールが不気味に褐色の脱色症状をおこなおうとしていたのだ。その時、我が身は全身総毛立つ程の恐怖を覚えてしまおうとする。出口があるのだ。そこにこんなはずはないのだ。こんな簡単に出口は見つかるはずはないのだ。そして俺は再び、全身タールの中で窒息しそうになりながら、迷宮へ進軍していくのだった。 

 肉体が全身全霊をかけて打ちこむとはこういうことなのかもしれない。 

 柄にもないことが口をついて出てしまった。しかし、いま何故、人間は自分の肉体を肉体化してしまわないのか? 君にも覚えはあるはずだ。得もいわれぬ疼きが肉体を戦慄として走っていくことを。俺の疼きは真夏の街頭へ向けられた。 

 △街頭へ△

 七夕祭りだという。街は。暗いまつりの低揚感が我が身をさいなんだ。まつりの前の高揚感とか、まつりの真最中の猥せつ感とか、まつりの後の殺伐さとか、全ての要素をはぎとられ、それでも人は一番丁へと肉体を浮遊させもっていく。それは俺にとって強烈な畏れだったのだ。まつりはまつりという言葉の上で自壊作用を起こす。肉体はまつりへあづけることをしない。狂乱のまつりとはなりえない。顔のない歩行者が肉体を空洞化させた上、空洞化されていることに一種あせりを感じながら流される。不思議なのだ。実に。あれだけ整然と規格されて流されても、そのあせりが不満となり自分らで騒ぎ出すということをしない。清浄感が伴うのだそうだ。気持ちのいい、ああいい、ああいい。だって?
 

 俺ら「劇団座敷童子」数名は、街頭へ出た。街は相変わらず、性器が魚になっていた。 

 俺の回りをとり巻く人・ひと・ヒト。俺らのその彼方にタールの原野を見たのだっただろうか。自己の内へ内へのめり込んでいくという作風をとったにもかかわらず、彼ら顔のない歩行者は陥没をつくられてしまったのだ。彼らの肉体を一種の風が吹き抜けていったのだ。 

 △虚視の街を視擊していく△ 

 話は飛ぶけれども、俺が高校生のときに「新宿はみだし劇場」の外波山文明他一行を田舎の駅の前で見た時、愕然としてしまったことを覚えている。彼らは芝居をやっているのではなかった。ただ駅の前にトラックを止めて日向ぼっこをしている風景だったのだ。俺は狂って、彼らに近付いていき外波山と二言・三言話し、チラとシートのかかっている荷台を見た。するとそこに俺は見てはならぬものを見てしまったのだ。トラックの中には家財道具が置かれてあったのだ。俺の脳天から風が脊髄を貫ぬいて広野原?へ吹き抜けていった。ショックだった。 

 日常生活者の俺と彼らの日常がぶつかり合って、こっちの日常に陥没をこさえられてしまったのだ。 

 それと同じことが、七夕で賑わう街頭でおこっていた。 

 俺らの演劇感性だけでも日常化しようとするベクトルが、歩行者の空洞化している日常とある時は激しく、ある時はやさしくぶつかり合った。それはスリリングであった。スリリングな快楽が横滑りしていく状態で俺らは動めきつづけた。人が歩く街はいまや街ではなく機能論的な処でしかなくなっているのだ。----あんたらがいま視ている街はこんなはずじゃなかったよ。街を吹き抜けてゆく風は黒く淀んでいて、それはあんたらも一緒になって作ってきたんじゃないか。 

 あるいは演劇という虚構の現実を虚構の街へぶつけた時に、相乗作用でどんどん隠れていた、又は隠されていたものが、膿のようにドロドロにじみ出てくるのだった。 

 虚構だから現実なのか、現実だから虚構を孕んでいるのか。しかし、個々の肉体のあがきをも内包せし得ない街など、虚構とか現実とかいう言葉を吐くのも、もったいない。 

 街を知らさしめる為、そして肉体のありかを知らさしめる為には、虚構空間を俺らの手で組み変え、さらけ出さねばならない。 

 この街のこの肉体が、こんな動めきをしていることこそ虚構の風ではないのか。そこからの現実を視擊していくということだ。 

 △反演劇的肉体の彼方に△ 

 舞台で、街で、要するに芝居の場というところで、例えば俺にとって芝居の現場であるところのものなんぞあまり関係はない。稽古場でだけ、あるいは公演の舞台でだけ、日々の抑圧から自己を露出できる回路というのは、演劇といううもののもつ効力を密室に閉じ込めてしまうのではないか? 人間ひとりひとりが演劇的肉体をもっているということを引き出すことがこの世の中を変えていく、ひとつの感性動作であると俺は今でもそう思っているから、こんなことが言えるのだけれども。 

 Aという人間が、稽古場だけ跳ねて、日常的には全然跳ねないという構造は、抑圧の棲み家である日常という時間にからめ取られている姿のもろ出しではないのか。てめえのひっかかえている問題を稽古場にもち込み、そこから日常へ----。というベクトルが出てくる訳だ。日常までもおもしろくしていこうという雑多な空間と肉体露出こそ、演劇というメディアの効力なのだと思う。これはもう演劇というより反演劇というのかもしれん。いままでずっと演劇というジャンルの中でだけ進められてきた作業とは何だったのか? 既成演劇が深化するとは拡大を相対的には生みやしない。演劇の可能性なぞ信じない。(あや、えらいことを云っちまった。))俺は俺の肉体の可能性を感じるのだ。反演劇的肉体に可能性を信じるのだ。さて、そこでだ。 

 △俺にとって集団を組むとは何か△ 

 芝居の集団とは、おもしろくも、儚くも、一抹の泡なのだよなあ。人間はひとりなのだよ結局。という淋しい言葉がある。そうなのだ。しかし俺はちっとも淋しくなんかない。ひとりでも跳ねれる為に、生きれる為に、集団の中で身をさらけ出していくのだ。これはかなりきつい。芝居は集団でやるのだ。なんて最初から思っている奴は自分の肉体の中に吹く風がどこに吹いていくのかわからん奴よ。いや、風が吹いていることさえ、わからんのじゃないだろうか。 

 ひとり芝居がやれれば、それにこしたことはないのだ。てめえの風を、てめえで受けとめてめえ自身の風に乗っていくということこそ露出なのだから。内時空と外時空の幅を縮めていくことだからだ。 

 ところが最終的に一人でやることが俺の目標であっても、いま俺は一人ではできない。集団の感性のぶつかり合いが自分のパターンを捉え直すことにつながるからだ。 

 例えば言葉とは生き物だということがマザマザとわかる。たった一箇所のイントネーションが違っても俺は対応の仕方を迷ってしまう。突出化していく劇言語を馴らすには日常言語の魔性を知ることから始めねばならないということだ。 

 俺はいま、「サザンハウス」というスペースで芝居をやっていこうとしている二人と共同生活をしている。目論見は、飯をたべ、クソをたれ、という生活の視点から日常の言語と肉体の動きを検証しよう、というものだ。只の生活ではなく拡大深化の生活なのだ。この生活の中から、これからやっていく芝居の方向は打ち出されてくると、俺は確信している。とにかく俺は、いま修行中だ。 

 △虚構の外化----化粧論△ 

 俺はある時から、自分の中に特権的なものを視たのかもしれなかったのだ。しかし何に対して特権なのかそれがわからなかったのだし、表現の仕方さえわからなかったのだ。さて、ちっとも特権でなくする為にだ。問題は。 

 俺は公衆便所の中で後ろをすれ違った人に声をかけた。 

 ----ねぇ、さよならだけがじんせいさ。 

 その人は答えた。 

 ----だいせんじがけだらなよさ。 

 一瞬、俺の小便が止まった。不吉な予感が俺のチンポコを立たせた。公衆便所の汚ない染みだらけの裸電球から水がしたたり落ちた。虹の設計だ。俺は振り向きざまピストルをぶっぱなした。奴の顔に笑みがもれた。 

 ----よく、ぼくのことがわかったね。 

 ----ああ遠い巨大な海の水がチンポコからあふれ出ているのがわからないのかい? 

 奴はもうすぐ死ぬはずだ。 

 ----ぼくが死ぬとでも? 

 奴は・・・・。よく見ると奴の顔はピエロだったのだ。その顔を奴は今、コールドクリームをぬりたくって別の顔に、そう別の顔にしようとしているのだった。奴の左手にはドーランの丸い器が。 

 俺のちんぽこからの水は公衆便所をあふれさせるはずだったのだ。しかし、いまチンポコはしなびはじめ、最期の一滴がしたたり落ちた。 

 ----はは、はは。 

 奴の顔を見る前に、俺は自分の顔を汚ないガラスに写して見てしまった。俺の顔は生まれたまんま腐敗しようとしていた。 

 奴の顔は----。  <終> p48~54

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2012/10/19

石川裕人と互いのキャラクターを確認しあう日々 『ニッポン若者紳士録』

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「ニッポン若者紳士録」
ジ・アザーマガジン21編集部 1973/01 ブロンズ社 単行本 p192 石川裕人年表
Vol.3 No.0823

1)石川裕人は、自分のブログ「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」第三回でこの本を1969年発行と記しているが、1973/01の間違い。青春時代の4年の違いは大きい。彼は自分の部分を切り抜きで残していたのだろうか。あるいは、昭和年号を西暦に治す時に間違ったのだろうか。

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2)このコピーの仕方をみると、やはり雑誌のままコピーしているようだから、単純に算数を間違ったのだろう。

3)’69年発行「ニッポン若者紳士録」(ブロンズ社)。この本には石川セリだの沢田研二だの有名人・無名人600名が掲載されているサブカルチャー系の不思議な本。この仕掛け人も阿部氏である。「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」第三回

4)「仕掛け人」とされるのは光栄なことだが、お互いまだまだ18~9歳の頃。私は当時のブロンズ社の「ジアザーマガジン21」の熱心な読者で、編集部と連絡がとれていたから、この600人ほどの中の30人ほどを担当しただけだ。

5)決まったフォームに写真と文章を書いただけだが、一応、原稿料がでたので、10代としては結構ワリのいいアルバイトだった。石川裕人(いしかわ邑)は、まだこの時点で高校三年生の卒業式を迎えていない。

6)ちなみに、私自身の紹介はというと・・・・

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7)40年前のフェイスブックだと思えばわかりやすい。もちろんこの雑誌でネットワークも広がったし、当時のプロフィールでは気がつかなかったけど、あの人とこんなところで友達になった、なんて、面白いことは確かにあった。

8)お互いまだハイティーンだ。劇団主宰とミニコミ発行。この対比、なかなか互いのキャラが立っているではないか。自分たちのパーソナリティを模索していた日々のことである。

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石川裕人の実質的処女劇作? 『治療』演劇場「座敷童子」旗揚げ

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「治療」
いしかわ邑・作演出 演劇場座敷童子旗揚げ公演 1973/12 仙台ユネスコ会館 石川裕人年表
Vol.3 No.0822
 


1)石川裕人100本の劇作を書いたという。その100本目は「ノーチラス」だから、その後、「風来~風喰らい 人さらい~」、「人や銀河や修羅や海胆は」「方丈の海」の3本を追加して、103本書いたことになる。

2)では、一本目はなんだろう。この問いはなかなか難しい。そもそもペンネームが石川裕人になったのが1980年前後だとすると、その前のいしか邑(ゆう)時代に書いたものか、それ以前のものになる。

3)彼のブログ「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 によれば、「治療」は第三本目の脚本あたりに位置している。小学校時代には小さなものが3本以上書かれているようだが、一、二本目は高校時代の文化祭で上演されたものがカウントされている。一本目は私も観客として参加していたが、上演時間が短く、演劇脚本としての体をなしていたかどうかは定かではない。

4)それを考えると、この「治療」は実質的処女作と言っていいのではないだろうか。

5)台本もチラシも残っていないが、チケットだけ残っている。デザインは中学校の頃からの旧友・阿部清孝氏。彼はその後数回私たちの情宣デザインをやってくれた。表面は横尾忠則風、裏面はつげ義春風と当時のアンダーグラウンド系での流行のパロディである。印刷は謄写版である。当時は台本も全て謄写版だった。石川裕人「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」第三回

6)ここで、「中学校の頃からの旧友」として私が紹介されているが、これは彼が正しい。私はしばしば「小学校からの友人」と紹介され、自称することもあるが、実質的には「友人」ではなかった。なんせ、小学校6年間、一回も同級にならなかったし、住まいも学校をはさんで、まったくの反対の位置にあったので、友人になりようがなかったと言える。

7)しかし、例の小学校三年の学芸会の時以来、私は彼を強烈に意識しているので、「小学校からの同期生」くらいは自称しても構わないと思う。

8)詳しくは後段にゆずるが、実質的な劇作一作目を、小学校時代のラジオシナリオとするなら(私はまったく記憶にない)、その時代の彼の親友だったO君(現仙台市太白区O外科医院長)なら覚えているかもしれない。

9)彼ら二人はいつも一緒にランドセルを並べて仲良く下校し、近くにあるO君の父が経営している医院の、彼の部屋にたくさんあるという単行本や漫画本を、ほかの仲間たちとわいわい楽しんでいた(という噂)ようだ。私はうらやましそうに彼らを眺めていた記憶がある。

10)さて「治療」のポスターだが、もうすでにないというのは残念だが、この時は私がシルクスクリーンで作った。たしかピンクの模造紙に、緑と黒くらいの二色刷りだったと思う。茶とか赤も入って三色刷りだったかもしれない。

11)なんせ制作費も少なく、知名度もまったくない集団である。より目立つように、首なしのヌードを左右に配置し、真ん中に劇団名「演劇場・座敷童子」という文字を、カッターナイフで型どったシルクスクリーンで印刷したはずだ。

12)その頃、シルクスクリーン印刷は仙台では一般的ではなく、技法はまったく独自に開発したものだった。布屋に行ってメッシュの荒い化学繊維を書い、木材屋に行って角材を買ってきて木枠を作った。印刷台は、アパートの襖(ベニヤ板製)をはがして、その役目とした。

13)それでも、インクや印刷用の刷毛(スキージ)とかを入手して楽しくみんなで徹夜で作ったものだ。制作部数も30部とか50部程度ではなかっただろうか。とにかく、インク代もかかり、だいたいにおいて、スケジュールが急に決まったりしたものだから(せいぜい一ヶ月程度)貼っておく期間もみじかかったはずだ。

14)「治療」を上演したのは国際ユネスコ会館3F。(現在も晩翠通りに健在)そこの管理人をやっていたのが当時大学生だった伊東竜俊氏である。そして伊東氏と阿部氏はその数年後「ひめんし劇場」という伊東氏主宰の劇団で一緒に舞台を踏むことになる。石川裕人「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」第三回

15)私が「ひめんし劇場」に参加したのは1977年のことだから、青春時代にとっての4年後はだいぶあとのことになる。この時、面白いエピソードがあるのだが、後日に譲る。

16)いずれにせよ、私はこの「治療」に関わっていながら、まったく演劇の内容も、演劇風景も覚えていない。たぶん制作スタッフを裏方をやっていたのだろう。

17)そもそも当時私たちの共同生活の場(雀の森の住人たち)は、20歳前後の若者たちの梁山泊的な存在で、必ずしも演劇集団ではなかった。フォーク歌手を目指すものもあれば、ミニコミを作りたいもの、喫茶店をつくりたいもの、ウーマンリブをやりたい女たち、遺書集を出版したいものなど、実にまちまちのキャラクターだった。

18)だから、メンバーたちは、ほかのメンバーがやりたいことを手伝う、ということがひとつのルールとなりつつあった。私は雑誌を作りたかったから、石川裕人の原稿を取り付けたし、コンサートがあれば、ビラまきや会場係をてつだった。そのノリで、彼の芝居の情宣美術も引き受けていたのである。

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再び採掘された原石の輝き 山尾三省『インド巡礼日記』


「インド巡礼日記」インド・ネパール巡礼日記1(山尾三省ライブラリー)
山尾三省 2012/04 野草社 新泉社 単行本  501p
Vol.3 No.0821★★★★☆

1)本来の当ブログのスケジュールであれば、山尾三省のもっとも初期の原稿集であるこの一冊にどっぷり浸かっていたい時期であった。ところが、大切な友人である石川裕人の急逝により、その目論見はすっかりはずれてしまった。

2)しかし、こちらの本は、新刊に属する一冊ではあるが、今すぐに読んでおかなければならないような緊急性のあるものではない。そして続刊である「ネパール巡礼日記」の後記ですでにこの本は確認できている。また、この本を読むにふさわしいタイミングが来るだろう。その時また、ゆっくり読むことにする。

3)赤ちゃんのがらがらに似た形の高さが3メートルほどある巨大な筒を、それにつかまるようにしてまわるのである。オンマニペメフーンという観音のマントラを説えながら、私もちょうど入ってきた7,8人のインド人にまじって何回も何回もまわし、まわったことであった。p47「インド巡礼日記」

4)オンマニペメフーン 南無観世音 p48

5)すでにチベットのマントラが書いてある本を当ブログでは百数十冊読んできたけれど、ダイレクトに漢字に置き換えてある本はそう多くなかったのではないだろうか。三省本の中では、「観音経の森を歩く」(2005/08 野草社)にも、このあたりのことに触れているが、深く考えるのは、またゆっくり読めるタイミングを待とう。

オンフーン

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語り継がれる何か 伊藤計劃/円城塔『屍者の帝国』


「屍者の帝国」
伊藤計劃/円城塔 2012/08 河出書房新社 単行本 459p
Vol.3 No.0820★★☆☆☆

1)また同級生が亡くなった。本日が葬式だという。残念ながら、仕事で出席はできない。同級会ではまもなく還暦の年祝いをしようと幹事会が動き出しているのに、石川裕人をはじめ、一人欠け、二人欠けして、古びた櫛の歯が、ボロボロと落ちていくような気分だ。

2)先日、「還暦を迎えるわが同期生たちに捧げる10冊(準備編)」なるリストを当ブログにアップしたばかりだ。わずか10日前。この10日間で2人の同級生がなくなった。早い。早すぎるスピードだ。

3)あのリストには石川裕人「時の葦舟」も5冊目に登場させておいた。

4)さて、学校は一緒じゃなかったが、同じ学年を他の学校で過ごした同期生とも年に一度の会食を続けてきている。6人の集まりだが、こちらもまた、この年令に達するとみんななんだかヨレヨレになってきている。白髪になり、腰が曲がり、どこか生気が失われているかのようだ。

5)先日も会食した折、隣の二人がなにやら談笑していたのが、この小説である。居酒屋の会食は、興が盛り上がってくると、隣の席でも声が聞きにくく、連中が話している内容が聞き取れない。面白そうだったので、箸袋にタイトルと著者名を書いてもらい、後日読むことにしておいたのだった。

6)新刊でもあるし、なかなか人気本でもあるらしく、私のところに来るまで時間がかかった。そして来てみたら、あれやこれやの日常の中で、なかなか読み進めないでいた。ほんの20ページほど読んだだけだった。

7)もう読むのをあきらめかけた時、偶然、銀行の待ち時間で週刊誌をめくったら、この小説の解説が一ページにわたって書かれていた。これ幸いと、この記事を読むことで、この小説を通り過ぎようと思う。

8)SF界に彗星のように現れて夭折した伊藤計劃の遺構を受け継ぎ、盟友の円城塔が書き継いで完成させた小説である。清水良典「不気味な技術と闘う者の資格とは」週刊朝日2012/10/26 p78

9)ほう、そうだったのか。演劇「界」どころか、SF「界」のこともなんにも知らない、ほとんど関心もない当ブログのことである。そういうこともあるものか、と驚いた。手元には「伊藤計劃記録」(2010/03 早川書房)もあるので、ちらっとだけめくってみると、なるほど、二人の中のよさそうな対談も載っている。

10)伊藤が残したのは、この「プロローグ」の20ページにすぎないが、その20倍以上を円城に書かせただけのインパクトがある。世界観の濃密さがずば抜けている。清水 同上

11)なんと、ようやく私がめくった20ページだけが前者の作であり、そこからの膨大な後半部分は、後者が書き継いだものだった。きっと、二人とも作風が似通っていて、なおかつ、事前になんらかの打ち合わせのようなものがあったのだろう。

12)ふと考える。石川裕人には書きかけの原稿のようなものはあったのだろうか。もし絶筆というものがあったとするならば、どんなものだっただろう。あるいは日記のようなものが残っているかもしれない。遺族の方々が、もし許してくれるものなら、いつかはそういうことも知りたいものだと思った。

13)もともと、演劇やらSFなどのフィクションやエンターテイメントにはとんと縁のない当ブログとしては、これだけ分厚い小説などをとても読む気にはなれない。次の飲み会まで、話を合わせるために、まぁ、時にはこんな本も手にとることがある、ということだ。

14)チラチラとめくると、なにやら「意識」やら「ネットワーク」やら、面白そうなのだが、それを小説やSFにしてしまう、というところに、わが人生観とは大きく違う何かがあるようだ。

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石川裕人関連リスト 石川裕人作・演出『方丈の海』 <2>

<1>からつづく 

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「方丈の海」 <2>
石川裕人 TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.34 2012/08~09上演 せんだい演劇工房10-BOX box1 上演台本 152p 石川裕人年表

石川裕人関連リスト 

「孫悟空」1963/11 学芸会記念写真

「越前千恵子先生」 1963年(小学校4年時の担任)

「ボーイズ・ファイター」 1966年 肉筆ミニコミ同人誌

「『吾輩は猫である(上)』を読んで」 1967/03 学校文集「ますだ6号」収蔵

「根っこ」 1969/03 中学校卒業文集

「翼を燃やす天使たちの舞踏」 1970/10 黒テント仙台公演

「朝日ジャーナル」 1971/03  特集:ミニコミ’71---本流する地下水 週刊誌 

「ニッポン若者紳士録」 1973/01 ブロンズ社 単行本

「『演劇場座敷童子』は『神話』をつくりに行くのだ!!」 1973/03 「時空間3」所蔵

「治療」 演劇場座敷童子旗揚げ公演 1973/12

「顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!」 演劇場座敷童子 第2回公演 1974/06 仙台市民会館小ホール

「化粧の季節」1974/10 ミニコミ雑誌「時空間8」収蔵

「夏の日の恋」 贋作愛と誠 ラジカルシアター座敷童子の旗揚げ公演 1975/01

「星の遊行群」 1975/03 ミルキーウェイ・キャラバン機関誌

「夢魔のメルヘン 20才の献血」 1975/04 ミニコミ雑誌「時空間10」収蔵

「失われた都市の伝説」 劇団洪洋社道場 1976/07

「喜劇・愛情劇場・白痴の青春・十字路篇」 演劇工房アトリエ 1976/11

「嗚呼!!水平線幻想」 白骨街道爆走篇 1977/09 ひめんし劇場

「ビギン・ザ・バック」 自安降魔可魔・作演出 1977/09 洪洋社公演

「80年代の石川裕人」 

「ダイヤモンド・スートラ」Osho 1986/01 めるくまーる社

「80年代十月劇場の特権的肉体論を求めてのリストアップ」模索中 

「無窮のアリア」 時の葦舟三部作第2巻 古代編 1993/08~09

「素晴らしい日曜日」 現代浮世草紙集 第一話 1995/03

「小銃と味噌汁」 現代浮世草子集 第二話1995/06~07

「教祖のオウム 金糸雀のマスク」 現代浮世草紙集 第三話 1995/11

「犬の生活」 現代浮世草紙集第四話 1996/02

「見える幽霊」 PLAY KENJI#1 1996/06

AZ9(アズナイン)ジュニア・アクターズ」1997~2012

「転校生」 ~時の十字路の物語~ 1997/02 AZ9

「高齢者俳優養成企画AgingAttack!!」1997~2000

「1997年のマルタ」 現代浮世草紙集第五話 1997/03~05

「カプカプ」 PLAY KENJI#2 1997/09

「明日また遊ぼう」 ~時さえ忘れる蔵王の麓のファンタジー~ AZ9 1998/02

「夜を、散る」 現代浮世草紙集第六話 1999/11

「又三郎」 20世紀最終版 2000/10

「祖母からみれば僕たちは荒れ果てたさかしまの夜にうち捨てられた野良犬の骨のようだ」 2001/03、2002/03

「わからないこと」短編集「遥かなり甲子園」含む 2001/11

「修羅ニモマケズ」 PLAY KENJI♯4 2005/09

「ザウエル」~犬の銀河 星下の一群~PLAY KENJI♯5 2006/12

「ノーチラス」 ~我らが深き水底の蒼穹~ 2010/07~08

「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 2010/06

「時の葦舟」三部作 2011/02 Newton100実行委員会 単行本

「新白痴」 2011/08 「総合文芸誌 カタルシス」復刊1号 伊東竜俊編集発行

「窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ」 2011/10 黒テント仙台公演

「人や銀河や修羅や海胆は」PLAY KENJI♯6 東日本大震災魂鎮め公演 2011/07~2011/12

「ココロ♡プレス」宮城県復興支援ブログ 2011/11~2012/10 宮城県震災復興・企画部 震災復興推進課

「方丈の海」2012/08~09

「訃報」 石川裕人(ニュートン)が亡くなりました。2012/10/11 

「弔辞」 石川裕二君、ニュートン、劇作家・石川裕人へ 2012/10/15 阿部清孝

「THE RIVER STORY」~水鏡の中の不思議な世界~AZ9ジュニア・アクターズ結成20周年記念公演 2013/02/11

「つれづれ叛乱物語」 石川裕人追悼公演 仙台シニア劇団「まんざら」2013/5/3

「方丈の海」 石川裕人作・演出 2013追悼公演編 2013/10/11~14 せんだい演劇工房10-BOX box1

「石川裕人蔵書市」 ひやかし歓迎! 2014/07/27~28 せんだい演劇工房10-BOX BOX3

「ラストショー」リーディング公演 石川裕人追悼イベント
TheatreGroup“OCT/PASS”2015/10/11

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「劇作家・石川裕人年表」(私家版)工事中

<3>につづく

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2012/10/18

月に置き忘れられた宇宙飛行士の野グソ 石川裕人作・演出『祖母からみれば僕たちは荒れ果てたさかしまの夜にうち捨てられた野良犬の骨のようだ』

Samne
「祖母からみれば僕たちは荒れ果てたさかしまの夜にうち捨てられた野良犬の骨のようだ」

石川裕人作・演出 2001/03、2002/03 “OCT/PASS” 上演台本p70 石川裕人年表
Vol.3 No.0819★★★★☆

1)ずーっと疑問に思っていたことがある。
石川裕人の演出は、ダメ出しのほとんどはギャグのところだ。
それも、非常にナンセンスなギャグにこだわるのだ、
作品の重要なところ、テーマに関わる深い部分、にはあまり演出をいれない。
えっ、そこですかい!
とツッコミをいれたくなるようなところを、丁寧に演出する。
「メンバーズブログ」 2012-10-14

2)なにげなくクリックしたページにこんなことが書いてあった。意義深い。直感として、この「ナンセンス」性こそ、「演劇」性と「瞑想」性をつなぐミッシングリンクである。

3)そしたら石川は、
「私はナンセンスなところを非常に大切にしている。
それに、作品の肝になるような大切なセリフは、こっちがとやかく言わなくても、役者がちゃんと考えているんで、大丈夫なんだ。」
と言った。
「メンバーズブログ」 2012-10-14

4)劇団オクトパスのスタート地点でこそ「社会派」を装ってはみたものの、作者がそれから向かい始めた地点は「ナンセンス」性だったのではないか。

5)UZA 僕たちは何に喩えられる?
UZU なに?
UZA 僕たちみたいな子どもが動物や鳥や魚の中にいるだろうか?
UZU いない。
UZA だから、喩えるとだ。
UZU こんな汚くて、みすぼらしいかっこうしたものを喩えられるか?
UZA だから究極の喩えだ。
UZU 難問だ。
UZA こんなのはどうだ? 月に置き忘れられた宇宙飛行士のウンコ、
UZU 心は?
UZA 役に立たないものは二度と日の目をみないってこと。 
上演台本p13

6)「社会派」を装ってドラマツルギーを操っているうちは、彼の「演劇」性は上昇しない。すべて意味(センス)ある表象はすべて投げ捨てられる必要がある。すべてのセンスが捨てられて、ナンセンスの極地にいたり、もう投げ捨てるものなど何もなくなった時、この時こそ、「瞑想」性が立ち上がってくるのだ。ガラクタは投げ捨てられる必要がある。そうして、部屋になにもなくなった時、そこに瞑想がある。

7)UZA おばあちゃん、僕たちいったいなんのために生まれてきたの?
祖母 今度は哲学かい? わしにしてもなんのために生まれてきたかなんてわからないよ。考えたこともないね。いずれお前たちの母親が引取りに来る。来ないかもしれない。来たとしてそうしたらお前達は嬉しくてそんなを考えていたことも忘れるさ。そんな他愛もない愚問だ。
上演台本p61

8)彼が今回入院した時、ケータイに電話があった。ちょうどサキの治療院にいて、彼の話題が出たばっかりのタイミングだった。
「入院するのに保証人が必要らしいのだが、セーコーになってもらうことにしたから」
しばし、口ごもったが、「いいよ」と言わざるを得ない。
「じゃぁ、そちらに行って署名するよ」
「いや、代筆でいいらしい。オレが書いておくから」
「じゃぁ、ハンコ持っていこうか」
「それも、拇印でいいらしいから、オレが押しておく」

9)おいおい、それでいいのか。後からその話を聞いたうちの奥さんは「そういうものは、家族とか身内の人がなるものでしょう」と不満そうだった。まあ、私は彼の家族か身内みたいなものだから、仕方ない。

10)私が営むFP業などの観点からみれば完全にNGである。書類の受理は行われるだろうが、コンプライアンス上、問題がある。何か事があった時、私がそんなこと知らないよ、といえば、勝算はこちら側にあるだろう。

11)しかし、私は逃げることはできない。なぜなら、そのやりとりの一部始終を、すぐ隣でサキが聞いていた。もしサキが私を裏切ってすべてを証言すれば、今度はこちらが負けるだろう。口約束でも約束は約束だ。

12)もちろん、私はそのことを否定するワケはない。サキはサキで「いや~名誉なことだよ」なんて、脇でため息をついていた。

13)「嘘」から始まった彼の「演劇」性は、結局、最後の最後に、彼の手で私の名前を書き、私の印鑑の代わりに、彼自身の拇印を押し、私に「なりすます」ことによって完結したと言える。

14)この地点で、私たちはなにも知らされていなかったが、彼は医師から「余命半年」を告知されて、自分の病状はそれなりに知っていた。

15)彼は、もうひとりの友人と、私たち夫婦の結婚式の司会をしてくれた。とても感動的だった。お返しに二人の結婚式の司会をやってあげようかな、なんて思ったが、二人ともすでに結婚していた。しかたないので、飲み会の度に、冗談で、お礼に君たちの葬式の司会は私がやるから、と約束していたのだった。

16)ところがひょんなことで、もうひとりの友人は再婚することになり、その再婚式の司会はすでに私が担当させていただいた。まずは義理のひとつは返せた。残るは、ニュートンの葬式だった。今回は、葬儀社の女性が司会をしていたので、私は司会はしなかったが、友人代表として「弔辞」を読ませてもらった。彼への義理のひとつはまずは返せただろう。

17)彼の「演劇」性からみれば、最後の最後に、私になりすますという「詐欺」を働くことで一期の幕引きを図ったのだ。一方、私の「瞑想」性からすれば、彼は、アストラル界において、私と一体化することを望んだのである。

18)だから、私は弔辞で「ニュートン、僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こう」と答えたのである。

19)彼が書いた台本はだいたいここまでだろう。そして、彼が演劇作家として、書こうとして書けなかった、本当のドラマは、いまようやく開演しようとしているのである。

20)UZA それから一週間たった朝。
UZU おばあちゃんは死んだ。
UZA 葬儀は簡素だった。
UZU 町の係りの人がそそくさと全てを終えた。
UZA 参列する人もいなかった。
UZU 僕たちにはおばあちゃんの骨だけが残った。
UZA 紙のように軽かったおばあちゃんはもっと軽くなり。
UZU 骨壷の中でカランカランと乾いた音がした。
 上演台本p63

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2012/10/17

「嘘」は「演劇」の始まり? 石川裕人作・演出『犬の生活』 現代浮世草紙集第四話

Samne
「犬の生活」現代浮世草紙集第四話 
石川裕人作・演出 1996/02 仙台、東京「第8回大世紀末演劇展」参加 上演台本 石川裕人年表
p86
Vol.3 No.0818★★★☆☆

1)今日は初七日だった。彼にとってはともかく、85歳のお母さんにとっては、ごく当たり前に初七日だったはずである。早いものだ。

2)線香をあげに行くと、家族はたまたま所要で外出しており、お母さんだけがいた。弔辞を読ませていただいたことをお話し、涙がでたよ、どうもありがとう、と言ってもらったのだから、まずはほっとした。

3)お茶をいただきながら、子ども時代から、現在までのいろいろなお話を話し、聞いた。先日から確かめようと思っていたことを、おもむろに切り出した。「ニュートンは、長男なのにどうして裕二という名前をつけられたんですか」。

4)彼からは兄がいたと聞いていたので、あまりお母さんを刺激しないように話してみた。「それ、画数がよかったからでしょ、一より二のほうがよかったのではないかな。」

5)わが耳を疑った。「え、お兄さんがいて、小さい時に亡くなったとニュートンから聞いていたんですが。」 お母さんは、痛い腰を抑えながら大笑いした。「誰~もいませんよ。長男ですよ。」

6)「僕はお父さんが秀一さんだったので、その息子に「二」をつけたと思っていたのですが」、と言うと、お母さんは、「そうそうその通りよ」、とおっしゃった。

7)やられた。先日私は「ニュートンの名前の由来について」なんて勿体ぶった記事をブログにアップしたばかりだ。やっぱりもともと私の推理はズバリだったのだ。そして、彼はすっかり「嘘」をついていたのだ。

8)彼が劇作家を志す「嘘」つき少年だったとしたら、私はジャーナリスト志望で、明智小五郎の助手をつとめる小林少年くらいの洞察力があったはずなのだ(笑)。しかし、この勝負、どうやら、嘘つき少年の勝ちだったようだ。

9)とするならば、先日書いた「ニュートン」というニックネームについてさえ、彼は笑って容認していたけれど、それも間違っている可能性がある。あ~、謎が謎を呼ぶ。

10) ラクダ、見てた? こうやってこの人は騙すんだ。いつでもあなたはそう、そうやって私たちを騙し、ほかの女を騙し、会社の同僚を騙して生きていくのよ。優しいのは素振りだけ。ラクダ、これが君の父親の本当の姿、よく見るのよ。上演脚本p53

11)どうやら単純な私は、ここまで嘘について考えたことはなかった。

12)この台本を借りてきてみれば、中に公演後に書かれた新聞記事の解説の切り脱ぎが挟まっていた。、結構シリアスないじめ問題がテーマであった。なるほど、そういう芝居だったか、とわかった。彼もこの時代は結構シリアスな台本を書いていたんだな。

13)帽子 ああ、こんな遊びは中学で終わりだよ。高校になってまでやりたくなんかない。僕はラクダのいじめられてもいじめられてもめげない精神力に尊敬する念すら持つようになっていた。卒業式まであと一ヶ月、もうすぐ終わるはず、長い長い戦いも終わるはずだったけど、お前からゲーム・オーヴァーした。お前は僕のゲームの規則全てを粉微塵にしてしまったんだ。上演台本p76

14)なるほど、こうしてみると、あちこちに、作者自身の奥深く隠されていた多面性をもつキャラクターが、転写されている。

15)彼の「演劇」性は天性のものだったのだろう。

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めずらしく社会派?作品ではあるが・・・ 石川裕人作・演出『小銃と味噌汁』 現代浮世草子集 第二話 "OCT/PASS"

19950715_syoujyuu
『小銃と味噌汁』 現代浮世草子集 第二話 "OCT/PASS"
石川裕人・作・演出 1995/06~07 “OCT/PASS” STUDIO(宮城県) 上演台本79PVol.3 石川裕人年表
No.0818★★★☆☆

1)小銃は戦争体験した山窩の人々やNPOで平和維持軍で派遣されようとしている若者、味噌汁はそのアンチテーゼとしての東北の山奥を象徴している。この作者にしては「めずらしく」社会派のイメージがある。

2)しかし、この作品には「現代浮世草子集 第二話」というサブタイトルが与えられており、いつどういう形で第一話がはじまり、何話まで続いて、何話で、どのように終わったのか、全体像を知ってから、もう一度、その位置づけを知る必要がある。

3)この後に第三話「教祖のオウム 金糸雀のマスク」が位置していることを考えると、1995年という年を、作者がどのように体験していたのか、興味深いものがある。

4)1995年は、1月の阪神淡路大震災があり、3月以降は「麻原集団事件」が社会問題となり、12月にはパソコンOSウィンドウズ95が発売された年だった。私たちの人生の中でも、極めて特異な年代のひとつである。

5)今回、3・11にするどく反応した作者であったが、おなじ震災でも、阪神淡路には、即反応したのではなかったのかもしれない。あるいは、劇作という、上演するまでにタイムラグがある文芸であってみれば、その反応を示すのはしばらく時間がかかったのかもしれない。

6)私といえば、すでに80年代以降、語りきれないものは語らない、という寡黙路線を走り始めていたので、自らが表現したものはほとんどない。90年代以降多少は再開したが、すぐに中止したので、対比するようなものは何もない。表現者の表現だけをあげつらって、自らの姿を現さないのは、多少ひきょうな気もするが、まぁ、ここは作者の全体像を知る上でも、多少辛口になったとしても、今読んでみるところの印象は印象として残しておかなければならない。

7)この台本が、最終的にどのように変化して上演されたのかは、今のところ定かではないが、この台本を読む限り、この段階では、作者はもっと社会の現場にいて、私自身はむしろ、ずっと奥に引っ込んでいたように思う。

8)昨晩「ノーチラス」の台本の巻頭言を読んでから、いろいろ考えた。「百本の嘘を書いた」劇作家の「弔辞」はあれでよかっただろうか。私は私なりに「真実」を語ろうと思った。そして、85歳を超えられた彼のお母さんにもわかるように書き、話そうと思った。結果として、所詮、小中学校の新聞部が書くような「ニュース」にしかならなかった。

9)それでも私は私なりに、その大役をつとめ終えたことにホッとしている。他にももっとふさわしい人がいるはずなのだが、私にその任が割り振られたとすれば、それはそれでお受けする以外にない。

10)しかるに、「真実」を報道することを自認する「アマチュア・ジャーナリズム」の弔辞は、その第一行から、実はこの人物の「嘘」に巻き込まれていたのではなかっただろうか。

11)彼はいつの頃からか、自分を「山形県東根市」出身と書いている。私の記憶によれば、30歳前後になってからだと思う。それまでは、私にとっては、彼は「宮城県出身」であることは明白だった。彼がそう言い出すにはそれなりの「演出」があったはずだ。

12)私が第一行で、「山形県に生を受け」と言った時、彼のお母さんはどう思ったことだろう。私は「出身」とは言わなかった。お母さんは実家のある東根にお里帰りして彼を出産したのだから、間違いではあるまい。しかし、その時、「山形」を強調することに、どんな意味があるだろう、と思ったに違いない。

13)そういう目で見始めれば、あの読んで10分あまりの「弔辞」にはたくさんの「嘘」が含まれている。「ニュートン」というニックネームにしても、「嘘」と「ホント」の狭間にある。「いしかわ邑人」や「石川裕人」というペンネームの由来にしても、さらに検証していけば、「嘘」と「ホント」の狭間に揺れ続けることになる。

14)そもそも人の人生など、10分で語れるはずがない。敢えてダイジェストのダイジェストを作ればそうなるよ、ということで、「真実」を描くことなど、ほぼ不可能だ。

15)かくいう私はペンネームを持ったことがない。ないとは言えないが、いつも「本名」で書いていた。しかし、ある時から私はSwami Prem Bhaveshという名前になった。例えていえば、彼が「演雅一道居士」という名前になったことと符合する。

16)一期は夢よ、ただ狂え、と誰かが言った。方丈記でも「よどみにうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」とある。

17)そもそもが、この人生そのものが「虚構」なのである。「嘘」というのが嫌なら、「夢」と言い変えよう。所詮は、生きていること自体が演技なのである。そこに「真理」はない。

18)だが、人は、この人生こそが唯一で絶対だ、と思ってしまうために、執着を持ち、苦悩する。そこをどう生きるのか。彼は「嘘を書いて」、「劇」にすることによって、客観視することを試みた。

19)所詮、この人生が「演劇」ならば、その役になりきって「演じきる」ことにすればいい。だが、本当の自分はそこにいない。本当の自分は、どこにいる。

20)「演劇」性と「瞑想」性を、もうすこし付き合わせて見る必要があるようだ。

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2012/10/16

真理への道の裏表 石川裕人劇作100本達成記念公演『ノーチラス』 ~我らが深き水底の蒼穹~ TheatreGroup“OCT/PASS”Vol.31

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「ノーチラス」 ~我らが深き水底の蒼穹~
石川裕人劇作100本達成記念公演  TheatreGroup“OCT/PASS”Vol.31 2010/07~08 初稿 p120 石川裕人年表
Vol.3 No.0817★★★★★

1)一緒に何冊か台本を借りてきたので、メモはともかくパラパラとめくってから返却しようと思った。しかし、トッパシで引っ掛かってしまった。

2)癖というものがある。くせではなく、へきである。意味としては同じなのだが、くせよりも重傷かもしれない。そして第三者からみたものではなく己本体しか感得できない我ながら恥ずかしい習性でもある、。

 愚生の癖は嘘をつくことである。それも路地の暗がりへ暗がりへ袋小路のどん詰まりまで行くような嘘である。オオカミが来るぞ少年にならなくて済んでいるのは劇作をやっているからだ。劇作がなければ今頃詐欺師として牢獄と娑婆を行ったり来たりの人生を送っていたのは確実だ。

 しかし、牢獄を劇場・稽古場、娑婆を日常と置き換えれば(この逆かもしれないが)前科がないだけで、あまり変わらないかもしれない。

 そんな奴が百本の嘘をつけばそれは真実になるのだろうか。 初稿p1

3)この文章は看過できない。多読家であった彼は、どこからかこの文章をコピーしてきたのかも知れないし、まったくのオリジナルかもしれない。私自身これににたニュアンスの文を読んだことがあるような気もするが、なんの根拠もない。

4)この文章は巻頭言なのであり、作者筆とか書いていなければ、たんに挿入言なのかもしれない。しかし、この作品が彼の100本目の劇作であるかぎり、「そんな奴が百本の嘘をつけばそれは真実になるのだろうか。」という述懐は、かなり作者の本懐といっていいに違いない。

5)だとするなら、私の中ではかなり氷解するものがある。仮に彼が小学校4年で将来は劇作家に成りたいと夢をもったとすれば、私もまた同じ頃、将来はジャーナリストになりたいという夢をもったことは確かだった。そして上学年になると、私の新聞の標語は「ペンは剣より強し」になった。(この言葉の出典は「来たるべき民族」を書いたイギリスの小説家ブルワー・リットンの戯曲『リシュリュー』にあるらしいことを最近になって知った)。

6)ジャーナリズムというものに対する私の幼い正義感は、早くも高校時代の学生運動の中で崩壊していくのだが、このブログにも「ジャーナル」とつけているように、ジャーナリズムには未練があるらしい。

7)しかし、ジャーナリズムが「事実」を文字にする(あるいは報道する)「文芸」であってみれば、かたや劇作というものは脚本という「文芸」を、ステージの上(とは限らないが)に「事実」化する芸術であった。そもそもが、今ようやく気がつくことがある。二人は同じ「文字」にこだわりがあったが、その方向性は、まったく逆だったのである。

8)真実を真実として描写することなど出来ないんだ、と理解した高校生の私はジャーナリズムに夢をもたなくなり、より「真実」なものを「瞑想」性に求めていった。

9)しかるに彼は、最初から「嘘」をよしとしているのだった。しかも「100本」も嘘をついた。これじゃぁ、二人がソリが合わなくなるのは当たり前だった。今になって気付く。

10)1990年代前半の「時の葦舟」三部作あたりまでは彼の作品を見ていたが、いよいよこれはだめだな、と思ったのは1995年の「教祖のオウム 金糸雀のマスク」を観た時だった。このオチョクリは、完全に私の精神世界とずれた。これ以降、彼の演劇は見ないと決断した。だから劇団オクトパスの作品はほとんど見ていないことになってしまう。

11)そんな奴が百本の嘘をつけばそれは真実になるのだろうか。 初稿p1

12)私はならないと思う。嘘は嘘であり、どこまでも嘘だ。そして嘘の裏側には「真実」はない。もっと正確に言うなら、それと「真理」とはまったく別な次元に属している。真理は正反を超えているだろう。

13)ここが、「演劇」性と「瞑想」性の差異である。彼がジャーナリストになることもなかっただろうし、私が劇作家になる可能性ももともとなかったのだ。今夜はとにかくそう理解しておく。

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ここが約束の地、時は今 石川裕人作・演出『方丈の海』<1>

Houjou_omote_web
「方丈の海」
石川裕人 TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.34 2012/08~09上演 せんだい演劇工房10-BOX box1 上演台本 152p 石川裕人年表
Vol.3 No.0816

1)意識して悲しいことは考えなかった。ごくごくワープロ文書を棒読みして、さっさと済まそうとした。しかし、3分の1ほどになると、感情がこみ上げてきて、つっかえつっかえになってしまった。

2)そもそもが老眼鏡をかけて読むつもりが、すっかり忘れていた。なんとか読んでいたが、途中で目が涙で曇ってきたので、ますます見えなくなった。直前に何度か読み直して練習していたので、大体の内容が頭に入っていた。まぁ、なんとか最後まで弔辞を読み終えることができた。

3)私はこのニュートンの最後の作品を見ていない。決して「残念ながら」とは言わない。意識して見なかった。その前の「人や銀河や修羅や海胆は」があまりにも感動的だったから、大体のできはわかっていた。スタッフやその上演に尽力している人々たちには大変申し訳ないが、演劇を見ない、かかわらない、というのも、私なりの矜持なのである。

4)いつからそうしてきたのかは覚えていないが、決して最近のことではない。1977年に私がインドに行って「瞑想」性を持ち帰った時から、ニュートンの「演劇」性とはそりが合わなくなった。ニュートンもまた、ある意味「瞑想」性を排除した。

5)今となっては、お互いに自立するには、そうするしかなかったのだろう、と推測できるが、それはある意味、つらい葛藤でもあった。

6)台本は稽古過程で修正していきます。この台本は上演までの過程の記録とお考えください。 上演台本154

7)葬儀が終わって、さっそくサキから上演台本を借りてきて一読した。劇団のHPの写真も見た。大体が、まずは想像していたイメージとそう変わるものではない。もちろん、その場にいなければ、その面白さや素晴らしさがわからないのが演劇だ。そう言った意味では、毎回毎回、上演ごとに違いがある。出来も違う。

8)襤褸 雪が降ってきたっけな。天変地異が訪れると必ずそういうことが起こる。寒い夕方そして夜になった。
2011年3月11日、午後2時46分だった。今から十年前のことだ。もうみんな忘れてしまったろう。ま、そういうもんだ。熱いところ過ぎればいつしかすべてが無かったことのように語られる。
上演台本p7

9)私は演劇を考える時、いつもこの架空性を考える。10年後なんてないんだよ。10年後から現在を振り返るなどという架空性に、いつもフィクションというものの「弱さ」を感じる。だから、どんなフィクションも現実を超えない。

10)岡田 仏壇か・・・・、
時子 ええ、仏壇。
岡田 仏壇のセールスマンだったりしてな。
上演台本 p28

11)演出している段階では、ニュートン自身、まもなくすぐに「仏壇のセールスマン」にお世話になるなんて思いもしなかっただろう。今回の葬儀の祭壇はいたって質素なものだった。釈迦三尊の小さな仏画を飾っただけの、仏教としてはもっとも簡素なものだった。

12)しかし、葬儀を出せて、多くの人々がかけつけてくれただけ、まだ幸せというものかもしれない。3・11においては、葬儀を出せなかった人々がいっぱいいる。まだ肉体さえ見つけてもらえない人たちだって、まだまだ多く残っているのだ。

13)ニュートンは、最も質素な葬儀を選び、火葬場は、閖上の火葬場だった。ここもまた当日、あの津波で被災して、今だ完全復活ならざるところである。被災後、荒野にポツンと残った火葬場は、市長命令で至急復興を急いだが、なんとか部分再開に至るまで2週間かかったという。名取市では死亡者が多く、東京などに運ばれて火葬された人が多くいる。地元の火葬場で火葬してもらったニュートンは、幸せだった、と言えないこともない。

14)式場も家族葬のミニマムの会場だった。質素を重んじたニュートンにはふさわしい式場だったが、予想どおり、収容人数をはるかに超える弔問客が押し寄せた。ありがたいことである。

15)小桜 冗談でも法螺でもない。この世の中には我々の知らない神秘の世界がまだまだあるものだ。十年前の大地震で日本海溝に地殻変動が起こり、全長800キロメートルに及び長々と寝そべっていた龍が天空に飛翔したという。p45

16)さぁ、このセリフを、ニュートンはどれほど、自分のものにし得ていただろうか。フィクションの中のフィクションは、フィクションのままだろうか。ニュートンは「神秘の世界」の「龍」を感知し得ただろうか。ここが、「演劇」性と「瞑想」性の分かれ目である。

17)ニュートンは、「方丈の海」を残してアストラル界へと旅立った。なぜに? 彼はすでに「演劇」性から「瞑想」性へと移行する時期にあった。あの演劇を書いてしまったなら、自動的に上への扉が開いてしまうのは当然だったのだ。

18)子ども1 おらの父ちゃん、母ちゃん、妹、みんな見つかった。
子ども2 おらはじいちゃん、ばあちゃん、父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん、ばあちゃんと父ちゃんが行方不明だ。
子ども3 (自慢するように)おらはな、ひいばあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん、父ちゃん、母ちゃん、おんちゃん、兄ちゃん二人に弟人で9人だぞ。みんな見つかって土葬した。
子ども1 すげ、
子ども2 すげ、

子ども3 すげべ。
子ども1 ・・・人数の問題でねえべ。
子ども2 量より質だ。
子ども1 何言ってるんだ?
子ども3 どういう意味だ?
 上演台本p61

18)演劇を見た人の何人も問題にしたシーンだが、実際に3・11のあとはこんな会話がごく当たり前にあちこちから聞こえてきた。実際、火葬の際にきていたニュートンのごく身内の若い人たちも、そういう境遇に遭遇している。現実は、フィクションをはるかに凌駕している。

19)石持 十年前の地震と津波で東北の地は傷つき人心は荒廃した。しかし、この荒れ果てすさんだ心を東北人はかみしめ、心の奥にしまおうとした。自らの被虐の出自さえ心の奥にしまった。そして野垂れ死にした東北人がどれだけいただろう? 東北以外の人々はいつしか東北であった震災のことを忘却し、惨状に蓋をして浮世の寝物語のようにたまに思い出すようになった。

 東北人はこのことをしまっておくべきではない。このような世の中に憎しみの火を放つべきだ。そのマッチの役目を果たすのがカイコーなんだよ。上演台本p103

20)いまや、ニュートンこそがそのカイコーの役割を担っていることを自覚しているかな。もちろん、放つべきは、憎しみの火ではない。

21)小桜 じゃぁカイコーよりもっとグレードアップしたフリークスを用意しなきゃぁ。
龍だな。あの地震の時に日本海溝から飛翔したというドラゴンを見つけてくれ。
上演台本p104

22)石川ゆうじんは、石川りゅうじんになった、というのが私のインスピレーションである。彼は、ムーからやってきた龍。もちろん、憎しみの使者などではない。

23)小節 あの日、浪板の浜に突如襲来した彼岸からの波の塊がもう一度わたしの元にだけやってくれば全てを終わりに出来る。わたしも家族も同様に骨の欠片になれるのだ。(袋の中からカイコーから受け取った骨を出す)これを供養すれば自ら終わりにできるであろうか、 上演台本p113

24)3・11で被災していまだに工事中の閖上の火葬場で、骨の欠片になったのは、ニュートン、君自身なのだよ。そして、これは終わりではない。大きな、本当のドラマの新しい始まりに過ぎないのだ。

23)蘭留 誰かが、何物かが犠牲にならなければ収拾がつなかない深い傷痕が残った。その傷痕は誰の目に見えず、誰も気づかなかった。人は気づかないうちにに多くの過ちを犯す。無意識という潜在的な意識の波打ち際で、打ち上げられたイルカのように人は息絶える。上演台本p123

24)誰も犠牲になどになる必要はない。もちろん、あなたもそんなものではない。あなたはあなたの道を行き、あなたの存在を全うしようとしているだけだ。

25)蘭留 無意識は目に見えぬ怪物を創り上げ、それを強烈に信ずる者が押し黙る者たちを凌駕したときこの地域は不可触領域になった。触ると祟りと穢れがあると言われた土地、それがわたしらが営々と築き住まい続けてきた蝦夷の地、東北だ。上演台本p124

26)ルサンチマンとしての東北を考えるのはもうやめよう。丑寅の金神と考えることも、もういいのではないか。今は地球全体を考えよう。地球人としてのスピリットをこそ現出させよう。

27) 静かな海だ。
声 この静かな海が暴虐の限りを尽くしたことを忘れない。
 時に自然は無慈悲で容赦ない仕打ちをくだす。
 その前で人間はただただ祈るしかない。
 物語は簡潔するが震災後の日常は続く。
 多くの死者と厖大な瓦礫を背景にして、
 私たちは生きていく。
 ここは約束の地なのだろうか?
 荒涼とした原野の先を目ざして歩く。
 その人々はどこから来て、何処へ去るのか、誰も知らない。
 ただ歩くのみ。
 上演台本p152

28)海は暴虐の仕打ちをしたわけではない。海は海であったにすぎない。そして、こここそが約束の地なのだ。ここしかないのだ。どこからも来ず、何処へも去らない。本当は、歩きもしない。

29) 第三暁丸出港だぁ!!

10年ぶりに暁浜に船が浮かんだ。上演台本p153

30)3・11で被災した住宅から、瓦礫になる寸前の建材を譲り受けてきて、我が家の車庫を補強して事務所にした。この方丈オフィスが、ニュートン、あなたがいうところの、わが第三暁丸である。

31)方丈とは一丈すなわち、約3メートル四方の狭い意である。上演台本P1

<2>につづく

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ニュートンと作った雑誌、演劇、共同体について 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<7>

<6>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<7>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

1)1966年6月は、日本にビートルズがやってきて一大ムーブメントを起こした時である。この時、私たちは中学校の1年生だった。そして、9年間同じ学年にいたのに、唯一ニュートンと同じクラスになった年でもある。

2)私はこのチャンスを待っていた。とても待ち遠しかった。小学校時代は友達になりたかったが、同じクラスでもなく、住んでいる地域も学校を挟んで、まったく反対方向だった。同じクラスになって、ようやく私はニュートンを「独占」できる気分になった。

3)4月か5月の習字の時間。それぞれの練習になったチャンスを見計らって、私は彼の机のところに行った。「なんか面白いことをやろうよ」。二人で習字の練習を教えあうふりをして、計画を練った。結果、「雑誌をつくろう」ということになった。大友百子先生の時間である。

4)彼はクラスに小学館から出ていた小青年向き雑誌「ボーイズライフ」を持ち込んでいた。クルマや映画やファッションの話題が満載の雑誌で、ちょっとしたソフトヌードもついていた。すぐに、私たちの雑誌の名前は「ボーイズファイター」と決定した。当時ボクシングのファイティング原田が人気を博していたので、その影響もあったのだろう。

5)中一になって英語を習い始めたばかりなので、英語も目新しかったが、このタイトルのゴロに正当性があるかどうか不明だった。私たちは、職員室に行って、英語の佐藤先生にこの英語でいいか聞いた。その結果はOKだった。

6)でも、今となってみれば、「ボーイズファイト」とか、「ファイティングボーイズ」などのほうが英語では正しい意味になるとは思うのだが、ボーイズファイターも、間違いではない。少年たちの戦士、まぁ、それはそれ、固有名詞としては独自性がないでもない。

7)この雑誌については、これまでも何回か書いた。わら半紙に肉筆で書いた原稿を閉じた200ページ。表紙は私が作った。結局、中一時代に5号まで行った。後年、この雑誌は長い間ニュートンが保管していたのだが、手違いでちり紙交換に出されてしまい、紛失した。幻の雑誌となってしまった。場合によれば劇作家・石川裕人の貴重な資料ともなったことだろう。

8)同じ中一の三学期、ニュートンと私は三年生を送る会の余興でコント漫才をしたことがある。タイトルは「アルバイト」。シナリオは私が書いた。内容はほとんど忘れたが、最後のオチの、「いいバイトってほんとないねぇ」、「いやあるよ、アルバイト、っていうよ」ってあたりだけ覚えている。たしかホウキを持ってステージにあがって、ギターの真似もしたと思う。

9)その後、彼と一緒のクラスにならなかった。中三の時は、僕はBクラスのクラス新聞「MPC」を作り、彼はA組のクラス新聞「1+1=3」を作った。このタイトルに、Aクラスの担任海老原先生(美術担当)は、大いに評価して、私たち他のクラスの生徒たちにも自慢した。

10)高校生になり、1970年になると、世はミニコミブームとなり、私は個人ミニコミ「すくりぶる」を作り、彼も個人ミニコミ「ムニョ」を作った。二人のミニコミは、1971年の「朝日ジャーナル」のミニコミ特集号に連絡先つきでリストアップされ、たくさんの問いあわせを受けることになった。彼のミニコミはのちに「夢煮夜(むにょ)」と改題された。(余談だが、冬崎流峰のミニコミは「ムルソー」、石川秀一のは「原情景」といった。)

11)雑誌に掲載されたことで、私たちのネットワークは一気に広がった。私はNHKテレビに出ることになったし、雑誌や単行本のインタビューも受けることになった。(その時の一冊が「もし僕らが生き続けるなら」塚本 晃生 1972/12 大和書房)。この時代は、彼が高校で演劇を始めた時であり、一緒に閖上出身の岩波映画の製作者にインタビューを受けたこともある。

12)この当時、二人で行動することが多かった。1970年の黒テント仙台公演「翼を燃やす天使たちの舞踏」も一緒に見たし、唐十郎の「紅テント」も二人で見に行った。八幡神社境内での「夜行館」の時も、二人だった。

13)高校時代に劇団「座敷童子」を、同じ学校の元木たけし(のちに「東京キッドブラザーズ」に行った。現・舞台監督)と立ち上げ、校舎の階段の踊り場を使った演劇を展開した時は、私は数少ない観客の一人だった。

14)高校を卒業したニュートンは、一年早く仙台で共同生活を開始していた私たちに合流した。その時、一緒に、ミニコミ「時空間」を作った。煩雑になるので仔細は省くが、この時の私のキーワードは「雑誌」であり、彼のキーワードはすでに「演劇」になっていた。二人を含めて、私たちの「共同体」は着実に進行していた。私たちの共同体の名前は「雀の森」と言って、台の原森林公園の脇、東北薬科大学の高山樗牛ゆかりの「瞑想の松」の近くにあった。

15)それからしばらくして、彼は自らの「演劇」性をさらに伸ばすために、緑ケ丘に作った自分たちの「サザンハウス」へと引っ越していった。彼の劇団「座敷童子」は次第に回転し始め、私はポスターをシルクスクーンで作ったり、チケットを謄写版で作成した。つまりいつのまにか私は彼の美術情宣のスタッフになっていたというわけである。

16)雀の森に残った私は、「雑誌」性と「共同体」性のハザマから、次第に「共同体」性への志向性が深まり、やがて「瞑想」性へと進んでいく。それがもっとも顕著になったのは私がOshoの「存在の詩」(1975年)に触れた時である。

17)それから間もなくして、1977年に私がインドに旅立つ時、ニュートンたちはすでに市内に立ち上げていた。演劇団「洪洋社」の練習場兼演劇場で、劇団員を中心に50人ほどで歓送会をしてくれた。というか、この劇団は、私たちの友人を組織してつくられていた、ということができる。

18)この後も二人の交流は生涯続いたが、基本的的には、二人の道の大きな分かれ道はこの1977年あたりにあった。私は私で「瞑想」性と「共同体」性を追求することになり、彼は彼で「演劇」性をどこまでも追及していくことになる。しかしながら、彼の「演劇」は、シナリオで完結するものではなく、上演されて初めて完成するものだったので、彼もまた「演劇」性とともに、「共同体」性をもおのずと追求せざるを得なかった。

19)つまり、大きな意味において、ニュートンと私を生涯結びつけていたものは「共同体」性にあった。「共同体」性についての仔細は後日に譲る。

20)更新される震災の記憶。

約束の場所は

現実のものとなって立ち現れるのだろうか?

石川裕人が渾身の力を降り注ぎ描く

震災の黙示録。 石川裕人遺作「方丈の海」案内より

21)もし、ニュートンと私の「共同体」性にシンクロニシティが起こり、私が「瞑想」性で求めてきて、彼が「演劇」性で求めてきたものが、クロスするなら、ここにこそ、そのポイントがある。あるいは、彼が肉体を離れ、アストラル界からコンタクトしてきて、私が自動書記するとなれば、テーマはおのずとここしかない、ということになる。

<8>へつづく

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2012/10/15

ニュートンの名前の由来について 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<6>

<5>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<6>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262 石川裕人年表
★★★★★

1)本名は裕二という。この名前になんの疑問もいだかなかったが、ふと気づいてみれば、長男なのに、裕二とはこれいかに。私は、お父さんが秀一さんだったので、その息子に「二」がついたのだと思っていたが、そうではなかった。いつか本人に聞いたところ、彼には兄がいたようだ。幼少のころ亡くなったらしい。それで彼は次男あつかいなのだ。(注・後日お母さんに確認したら、彼はやっぱり長男で、私の推察がただしい、ということだった)

2)その彼がどうして、いつ、ニュートンになったのか、という話題が、昨日の通夜でも出たし、今日の火葬場でもでた。このことについては、すでに1991年の、彼が宮城県芸術選奨新人賞を受賞したさいの祝賀パーティーで、私が友人代表として挨拶したときに、みんなの前で発表した。ところが、みんな分かっているはずだと思っていたが、案外そうでもなかったようだ。

3)あのときは、本人の前で公けに話して、本人も否定しなかったのだから、ほとんど私の説は正しい。今回、通夜に来てくれた、子供時代の友人たちも、同意している。

4)どうしてアインシュタインではなくて、ニュートンだったんですか、という疑問は、最初から話題のポイントを外している。物理学とか、リンゴとか、科学雑誌を連想するようでは、理解不能だし、本当のことを受け入れ難い。そういう人は自らの「仮説」を楽しんだほうがいい。

5)本当のところは、ニュートンとは、私たちが子供時代だったころのスラングである。ズバリ言えば、野グソのことである。ニューっと出て、トン、と落ちる。だからニュートンなのである。公衆トイレのなかった時代、道路脇の竹やぶなどにはよく野グソがあったものだ。あれが、私たち悪たれガキたちのスラングでニュートンと呼ばれたものだ。

6)その野グソがどうして彼のニックネームになったのかは諸説ある。小学生時代に(彼は幼稚園に通っていない)いつかおもらしをしたのが由来なのではないか、という説があるが、私はこの説をとらない。ただ、私が気付いた時にはすでに彼はニュートンと呼ばれていたので、それが事実だったのかもしれない。

7)しかし、いくら子供時代に一回二回おもらしをしたくらいで、一生涯、還暦まで野グソと呼ばれるのは変である。これは、彼がみんなから愛されたからこそ、このニックネームがついた、というのが私の説である。

8)子供たちはケンカする。お前の母ぁちゃんデベソ!とか、まぬけ!、ばか!とか罵しりあう。そのなかに、くそ!とかニュートン!とかいう単語があったのだ。大体の子供はその言葉に傷つく。痛く傷ついて、泣き出す。あるいは怒り、逆上する。そんなことを言われる筋合いはないし、一時も早くそんな言葉から離れたい。普通の子供ならそうだ。

9)ところが彼だけは、そんな言葉にはめげなかった。人間が野グソであるはずはない。そんなこと言われたって屁っちゃらである。ニュートン、そうだよ、僕はニュートンだよ、そういう開き直りと受容性が、小さい時からあった。ニュートン、ニュートン、と、けなし続けても、なんともしない彼には、ついにニュートンという名前が定着してしまった、というのが私の説である。

10)私がこの説をとるのは、このニュートンという言葉に、宮澤賢治の「デクノボー」に通じるものがあると思うからである。みんなから「ニュートン(野グソ)」と呼ばれ、褒められもず、苦にもされない、そういう存在が子供時代の彼だったのである。褒められるというほどではなかったにせよ、そう呼ばれて、いたずら小僧連中に愛された、それが彼の本質だった。

11)その彼が10代の後半になって、ペンネームを持つことになったことは今日「弔辞」でも話したが、本当は、すぐに石川裕人になったわけではない。最初は「いしかわ邑人」だった。邑は「ムラ」のことであり、「ユウ」と読ませる。最初の劇団名は「座敷童子」(ざしきわらし)だった。そのイメージに合わせたのだろう。

12)「座敷童子」のネーミングの由来は定かではないが、寺山修司の「天井桟敷」のイメージと、宮沢賢治のイメージを掛け合わせたものだったのではないか、と思う。このへんは、彼のブログを丁寧に調べていけば、キチンと書いてあるだろう。

12)今回の葬儀で多くの人びとと話していて、意外と彼の経歴が知られていないことに驚いた。そもそもの最初の劇団名は「座敷童子」であり、次に劇団「洪洋社」であり、それからだいぶ経過してから「十月劇場」になった。この名前さえすでに知らない人が多い。なんにせよ、「シアターグループ・オクトパス」(正しい表記はアルファベット)になってから、もはや20年近くになるので、昔を知らない人がいても不思議ではないのだ。

13)その彼が、一時期、洪洋社の時代あたりに自分の正式名は、アイザック・アシモフ・スパルタクス6世・菊之丞・ニュートンである、と言っていた時がある。雪之丞だったかもしれない。でもやっぱり最後はニュートンと名乗っていたので、このネーミングは自分でも気に入っていたのだと思う。

14)彼は小学生時代から大のSFファンだった。自分でもSFを書いていた。中学生時代の肉筆紙「ボーイズファイター」には、自作のSFを連載していた。彼は国語は大得意だが、算数や数学はてんでだめだった。だから、緻密な物理学的な「ニュートン」は似合わないが、SF的イメージでは、たしかにニュートンと呼ばれることもまんざら嫌いじゃなかったと思うし、いつの間にかその意味合いが、呼んでいるほうも、そちらのほうにスライドしていったことは確かだ。

15)小さいときから、電話をくれれば「ニュートンです」と名乗った。最近病院から電話をくれた時も「ニュートンです」と言っていたから、一生涯、彼はこの名前が気にいっていたはずだ。なにはともあれ、お母さんや親戚にとっては「裕二」だろうが、私にとっては「ニュートン」だった。「裕人」でもなかった。

16)石川裕二、ニュートン、石川裕人と呼ばれた、私たちの友人が、今日から4つ目の名前を持つことになった。仏教に入門した証拠として、お寺の和尚さんがつけてくれたのである。演雅一道居士、これが彼の新しい名前だ。

17)いたって簡素な名前である。御布施の多寡に従って名前に格をつけるというのも、一般人には府に落ちないが、この不条理が今でも常態化している。院とか軒とか庵とか頭書きがつく人は、仏道に励んだり、お寺の経営に貢献したと見なされる人である。寺の近くに「院」や「軒」や「庵」を作って住んでいたり、その建物を寄付したりした人に、その名前が与えられる。悟りの深さそのものについては、本当は関係ない。

18)演雅一道居士の最後の「居士(こじ)」とは、在家の仏道者のことで、「さん」とか「くん」とか「博士」とかつくようなもので、一般的な仏道者にはこの名称がつく。だから、今回もらったのは「演雅一道」の部分である。

19「演」とはよくつけてくれたもので、演劇の演と考えていいだろう。「一道」も、その字義のまま「一本道」と考えていいだろう。まさに彼は「演劇一本道」であった。

20)さて、「雅」とはなんだろうか。ガと音読みするが、みやびとも訓読みする。詳しい理解はいずれ後日に譲るとして、雅には祝福とかお祝いの意味や、風流や奥ゆかしい、あでやかの意味もあるらしい。

21)彼は奥ゆかしいとかあでやかを演じたというイメージはないが、どうだろう。でも、お祝いとか風流という意味では「雅」であったかもしれない。そのようにしてみれば、演雅一道居士も、なかなかいい名前だな、と思う。

22)さて、私はひそかに、もうひとつ別な名前をつけようとも思っている。「ゆうじん」は「りゅうじん」にもつながる。彼はこの辰年において、龍人、あるいは龍神になったのではないか、という仮説も持っているのである。

23)そんなわけで、これら全部総体を含めて、彼のことを私はニュートンと呼んでいる。

<7>につづく

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弔辞 石川裕二君、ニュートン、劇作家・石川裕人へ

                   

石川裕人年表    石川裕人関連リスト   

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弔辞          

 石川裕二君。あなたは1953年山形県に生を受け、お父さんの転勤で移った宮城県名取市の増田小学校に入学しました。小さいときから本を読むのが大好きだったあなたは、ニュートンというニックネームでいつも私たちのクラスの人気者でした。特に国語や作文が大の得意で、学芸会では劇の主役をたびたび演じました。小学4年生の時には、担任だった越前千恵子先生のアドバイスもあり、早くも、将来は劇作家になりたい、という大きな夢を持つことになりました。

 名取市立増田中学校では野球部のマネージャーをしながら、新聞部としても活躍し、クラスの仲間と手書きのミニコミ雑誌を創刊しました。そして宮城県立名取高校に入学すると演劇部に入部し、脚本を書き始め、自分たちの手で新たな劇団を結成、文化祭で独自の作品を発表しました。

 その頃、中央では新しい時代の劇作家たちが活躍していました。特に天井桟敷の寺山修司と一緒に食事をした時、あなたは「君にはリーダーになる才能がある」と励まされ、石川裕人というペンネームで本格的に脚本執筆を開始しました。

 仙台市に拠点を移した後は、あなたの実直にして温厚な性格に惹かれて仲間が集まり出し、次々に新しい作品を書きあげては、自分たちの劇団で上演するという生活になりました。そして、その当時に出会った一枝さんと結婚し、劇作家と看板女優という、二人三脚の生活が始まったのでした。

 あなたの活動は、若者文化としてだけではなく、広くマスメディアも取り上げるところとなり、その活動は仙台市民文化事業団などの後援を得て、ますます広範な活動を展開しました。1991年には、宮城県芸術選奨新人賞、1997年には宮城県芸術選奨、そして2006年にはNHK奨励賞を受賞されました。

 あなたの活動はめざましく、全国に演劇ネットワークを広げ、いつの間にか書いた演劇脚本は100本に達することになりました。それは2010年に出版された記念脚本集「時の葦舟」という一冊の本となって結実しました。その活動は高く評価され、多くの人々に注目され、今後の活躍も期待されているところでした。

 昨年2011年3月11日の東日本大震災は、大変なショックでした。地元の演劇人として、傷んだ東北に対して何ができるのか、と考えたあなたは、劇団オクトパスの劇団員たちと、被災地をまわり、演劇を公演することによって、仮設住宅の人々を慰めることを始めました。多くの人々がその演劇に癒されました。

 裕二君、あなたとの50年を超える交流を振り返ると、あまりにもたくさんのエピソードがあり過ぎて、何から語ればいいかわかりません。その中でも、特に一つと言われれば、私たちが中学1年生だった時のことを思い出します。

 当時、仙台空港で自衛隊飛行機の整備の仕事をなさっていた、あなたのお父さんの計らいがあり、私たち二人は年に一度の航空祭で、ヘリコプターの遊覧フライトに乗せてもらえることになりました。

 発着場から飛び立ったヘリコプターは最初南に向かい、岩沼を超え、阿武隈川を超えて亘理までいきました。その後、方向転換してUターンし、北に向かい、私たちの増田の町の上空を通り過ぎ、名取川、広瀬川まで飛んでいきました。

 あの時、私たちは初めて自分の住んでいる町を空から見ました。自分の家を上空から見ることは大変な感動でした。蔵王連峰を囲む山並みも見えたし、東側には、大きく広がった太平洋も見えたのでした。

 あの時の記憶は、昨年の大震災後、テレビやインターネットで何度も何度も見ることになった、太平洋沿岸を襲った津波の映像とつながってきます。あなたはあの震災に大変心を痛めました。そして最後の遺作となった「方丈の海」では、被災した東北に大きな大きな応援歌を送っていたのでした。

 宮沢賢治は仙台のことをエスペラント語でセンダードと呼んでいました。あなたは、センダードの地に現れた、もうひとりの「風の又三郎」だったのではないでしょうか。教室で人だかりができるのは、いつもあなたの机の周りでした。いつも新しいことが始まるのはあなたのアイディアからでした。

 そして、ヘリコプターに乗った時の私たちは、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラでもあったように思います。あの時から、私たちはずっと銀河鉄道に乗ったままです。

 あなたとの旅はとても楽しいものでした。そして、あなたといると、友人たち誰もが、自分を大きな芝居のなかで演劇をしている、役者になったかのような気分を味わうのでした。

 あなたは人生を通して、センダードの地に佇む一人の劇作家として、脚本を書き続けました。松の林の陰の小さな萱葺き小屋にいて、デクノボーと呼ばれたいと願った宮沢賢治にも似て、争いごとを好まない、優しい心の持ち主でした。

 あなたは、今も空から私たちを見ているように思います。ジョバンニはカンパネルラに言いました。「僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こう」。裕二君、今、私はやはり同じことばをあなたに贈りたいと思います。

「ニュートン、僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こう」。

 あなたの大きな愛を、残されたお母さん、一枝さん、そして妹さんご一家に送ってください。そして、私たち友人たちのことも見ていてください。あなたの大きな愛はもっともっと広がって、このセンダードの地を超え、東北一円まで広がっていくことでしょう。

 あなたの作品は、時間と空間を超えて、宇宙まで広がっていきました。そして今でもあなたは、そちらで新しいもうひとつの作品をきっと書いていることでしょう。いつの日か、あなたの新しい作品に感動する日を楽しみにしながら、今日はしばしのお別れの挨拶をしなければなりません。

 石川裕二君、ニュートン、そして劇作家・石川裕人。私たちはあなたと出会い、あなたの演劇に出会えたことをとても感謝しています。どうもありがとう。そして長く友人であってくれたことを大変誇りに思っています。どうぞ、お安らかに。

心からご冥福をお祈りいたします。  合掌

                  平成24年10月15日

           友人代表    阿部 清孝

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2012/10/14

ニュートン会場の本日の風景 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<5>

<4>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<5>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262
★★★★★

1)ふう、ようやく無事通夜が終わり、自宅に戻った。60人の会場にその3倍か4倍以上の人々が駆けつけた。遺族の方と、一部の弔問客以外は、みんな立ち席だった。

2)駐車場もマックス30台だったが、葬儀社や劇団のスタッフが大活躍して、入れるだけ入れた。何事も問題なく終わったと理解していいだろう。

3)早々と劇団スタッフが会場の受付の整備を完了し、ニュートンがやってきた。祭壇はいたって簡素だったが、贈られた花輪で会場がいっぱいになった。親戚の方々や劇団や同級会を初め、仙台市、仙台市文化事業団、その他、劇団関係の名前がズラリと30ほどならんだ。

4)エイさんという演劇解説者はほとんど一番にきた。顔をみてください、と勧めたが、これからたくさんのことして欲しかったので、彼の死顔は見たくない、とおっしゃった。

5)シガノさんは、読経まぎわにきて、人だかりの中にずっとたっていた。エイさんに会いたがったが、どうやら、このふたりはすれ違った。

6)リュウホウも新幹線でやってきた。太子堂駅はいつからできたのか、と驚いていた。仏さんの前に行っても帽子をとらないのは彼くらいだ。

7)レオンも大阪からやってきた。私が会うのも20数年ぶり。お互い頭の白髪がふえましたな。ニュートンの顔を見て、いい顔してるね、と褒めていた。

8)タクローは、式が終わって会食になってからようやく到着した。なかなか忙しいが、逆に会場がすいてからきたから、割とみんなとゆっくり話せた。

9)同級会の人々も多く来た。数えただけで10数人。ニュートンを偲ぶ会を同級会でやろう、と会長はいうが、まぁ、企画は面白いが、別途立ち上げるのは難しいかもね。

10)アキアキラは先輩筋にあたるので、一応は敬語を使わなければならない。しかし、現代詩手帖のことなどを、多少辛口で評価すると、なかなか最上段から対抗バクダンが落下してくる。

11)リュウシュンは、式の前からクサかった。おいおいお酒飲んできたの、と聞いたら、ニュートンが死んだのに、飲まないでいられるか、と来た。彼流のダンディズム。若いころ彼の芝居で役者をしたことがある。

12)サキはカメラで記録係。訪問客が多すぎて、漏れがあるといけないので、みなさんの顔を記録して、あとでカズエちゃんに報告するのだと思う。

13)シホちゃんも、カマちゃん、ジュンも来た。それなりの腰掛けの位置に配慮しつつも、みんな早くきたから、椅子に座ることができた。

14)ギュウもジロウもきた。かれらは、式が終わってから2時間も会場で会食したのに(したから・・・?)、そのあとみんなで飲みにいった。モールの前で待ち合わせ。

15)エッちゃんもきた。彼女によると、今朝10月14日つけの朝日新聞朝刊にもニュートンが紹介されたという。切り抜きをもらった。

16)昨日の河北の記事を見ていない人も多く、記事をカラーコピーしていったのだが、10枚以上はけた。

17)和尚さんの通夜のおはなしは後ろまではよく聞こえなかったが、まぁあんなもんだろうな。ごく当たり前の、ニュートンのことをなんもしらない、お坊さんの抹香ばなしである。

18)カオルもきていたな。それからそれから、みんな来ていた。顔を知っているが名前をしらない人たちがたくさんいた。

19)それにそれに、劇団員のみなさんは大活躍なのだが、現在のメンバーはほとんど名前がわからない。ステージでは見て、役柄ではなんとなくイメージができるんだがな。

20)セイチャン&ミーコも来ていた。古い劇団の名前の名刺を渡されたが、本当にいまでも活動しているんだろうか。まぁ、とにかくかれらもますます元気そう。

21)この人混みを、85歳のお母さんは、あっけにとられたようにご覧になっていた。本当のニュートンの姿は誰にもわからないが、お母さんにとってもなお分からないのではないだろうか。

22)サワダイシ、ハクシュウ、タンノ、還暦組の昔の友人たちも顔を揃えた。それなりにみんな年輪を重ねたな。重い腰をあげてきた人々もいる。悲しいけれど、送ってやんなくちゃね。

23)それと、ほかにもいろいろあったが、このへんで明日のために寝よう。

<6>につづく

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2012/10/13

ニュートンと私だけで交わした秘密の会話 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<4>

<3>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<4>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262
★★★★★

1)一枝ちゃんから弔辞を頼まれた。ありゃ、私でいいのかなぁ、と思いつつ、断る理由もないので、受けることにした。いろいろ考えた。あまりにもいろいろな思い出がありすぎて、まとまりがつかなかった。

2)うちの奥さんは、みんなは別にあなたのことを聞きにくるわけではないのだから、ニュートンさんのことだけを手短に話せばいいのよ、とおっしゃる。なるほど、そのとおりだ。とにかく、一通り書き直して、読み直した。

3)本当に簡単なストーリーだったし、85歳になったニュートンのお母さんにもわかるように書いたのだが、実際に読んでみると、10分ほどかかった。長いなぁ、と思いつつ、もうこれ以上切り詰めることはできないな、と思う。

4)サキと待ち合わせして、またニュートンの顔を見てきた。すでに死化粧をしてもらい、棺おけに入っていた。昨日は、多少取り乱していたかなぁ、と思ったお母さんではあったが、今日は、かなり落ち着いた和やかな顔を見せてくれた。

5)弔辞を頼まれたこともあり、いくつかのポイントを確認した。彼は自分は山形県東根市出身とか語っていたが、それは、お母さんがお里帰り出産をしたから、たしかにそうなるのだが、お父さんの出身は塩釜市で、その時、石川家の本拠は宮城県だったのだから、実際は、やはり宮城県としたほうが正しいのであった。しかし、彼は彼なりのダンディズムで山形出身と自称していたのだろう。

6)最初から自衛隊勤務だと思っていたお父さんの経歴も、思っていたよりドラマチックだった。そもそも大正12年生まれの方である。その青春は、戦争に埋め尽くされたような人生だった。はあ、なるほど、この父があり、母があって、ニュートンは生まれたんだな、と確認した。

7)当のニュートンは相変わらずだった。単に寝ているだけではないか。おかしいのは、呼びかけても、起きてこようとしないだけだ。棺おけの窓からみた彼の顔はいつものままだった。

8)一枝ちゃんをはじめとして、家族の人々はもうお疲れ気味だった。それはそうだろう。食事もまだ十分にとれないようだ。ただただ、そのご心痛を察するのみである。

9)自宅に戻って、また弔辞を考えて、ウトウトとしてしまった。そしたら、いつものニュートンがやってきた。なんにも変わらない、いつもの彼だった。そして、夢うつつの会話を交わした。たわいのない簡単な言葉だったが、実は重要なことが伝えられた。その内容については、彼と私にしかわからない。私は、しかと受け止めるよ、と彼に誓った。

10)弔辞の内容をサキにチェックしてもらおうかなとも思ったが、やめた。漠然とだけ、話しておいた。ネタばれはまずい。ニュートンと私しか知らない思い出もある。それは当日のお楽しみ、というところかな。

11)今日10月13日づけの河北新報朝刊に、ニュートンの訃報が、大きく写真つきで取り上げられていた。あらためて彼を失ったことの意味を考えた。

<5>につづく

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2012/10/12

ニュートンが残した100本のシナリオ 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<3>

<2>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<3>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262
★★★★★

1)ニュートンが亡くなった。昨夕、サキから電話をもらい、手元の仕事を片付け、彼の自宅に駆けつけた。ちょうど枕経をあげるために若い僧侶が到着したところで、彼はすでに北枕で眠っていた。

2)その寝顔は、やはりただ目を閉じているニュートンでしかなかった。たしかに太めではあったが、体重が増えた時の彼と何ら変わるものではなかった。すでに顔には布がかけられており、それをはねのけて「ニュートン、ニュートン」と声をかけてみるものの、もちろん返事はない。後ろから80をすぎたお母さんが「まだ聞こえているはずだから、声をかけてやって・・・」と涙声で叫んだ。

3)30分ほどの枕経のあいだに、何件か友人たちからケータイに連絡がはいった。同級会からも連絡がはいった。劇団員たちも駆けつけ始めていた。町内会のおじいさんたちも二人、正座して読経を聞き入っていた。

4)その後、葬儀社の社員のリードで、火葬や告別式の日取りを決め、火葬場や葬祭会館と連絡を取り、一つ一つが決まっていった。そして、車で5分ほどの吉祥寺に移動して、庫裡で寺族も交えて法名やお布施の話になった。

5)法名のために人柄を教えてほしいと僧侶にいわれ、口数すくなっていた遺族に代わって、彼の子供時代から今日までのストーリーを私なりに話した。ちょっとでしゃばりすぎたが、彼のキャラクターは一般人にはわかりにくいところもあり、また遺族にとっては説明しづらいのではないか、と勝手に推測したからだった。

6)自宅に戻ったのは結構遅い時間になってからだった。夜食を食べ直し、何人かの友人に電話をかけ、葬儀の日程についてブログにアップした。それから風呂に入り、いろいろ考えた。いろいろな思いが去就したが、まとまりのない記憶がないまぜになった。

7)このタイミングで逝ってしまうのか、と思うと悔しいなぁ、と思った。でもよく見ると、彼もまた享年60歳なのだ。9月の誕生日で59歳になったばかり。現在の日本の平均寿命には達しなかったが、十干十二支でいうところの還暦である。これはこれで、彼の一期の人生だったのではないか。そう考えると、実に充実した立派な人生だった、と私は思い始めた。

8)また何人かの友人に連絡した。みんなびっくりし、君の急逝を惜しんだ。彼とて、本当に覚悟はできていたであろうか。今の私には分からない。もうすこし時間をかけよう。葬儀までまだ時間がある。それまで、ゆっくり、彼との長い長い人生だった今回の人生の意味を考えてみようと思う。

9)彼が残したこの100本のシナリオとはなんだったのだろうか。

<4>につづく

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2012/10/11

訃報 石川裕人(ニュートン)が亡くなりました。

石川裕人年表

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訃 報  

故 石川 裕二 君 享年60 

通 夜 平成241014日(日曜日)午後6時 

告別式 平成241015日(月曜日)午後1

会 場 ファミーユたいはく 仙台市太白区大野田袋前522 電話0120365024  

喪 主 石川 一枝 さん 宮城県名取市手倉田字諏訪63010 電話0227389875  

故人は、肝臓に病を得て9月に入院加療し、一旦は退院しました。その後、ふたたび自宅で痛みを覚え、再入院しましたが、家族の厚い看護の甲斐なく、平成241011日午後、急逝いたしました。あらためて故人の業績をたたえるとともに、ご冥福をお祈りいたします。合掌

 

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発見!?シャンタンのお父さん 宮井一郎 『漱石の世界』

Books_2 
「漱石の世界」 
宮井 一郎 1967/10  講談社ハードカバー本 314p
Vol.3 No.0815★★★★★

1)どこか友人のブログあたりでこのユーストリームが出ていた。おやまぁ、なるほどね。彼らしい近況である。

2)どこかのSNSでは、「体験を基に描いた実名小説」阿部敏郎著「随(かんながら)神」に「ぼく、シャンタンがこの小説に出ています」と自己紹介している。

Video streaming by Ustream

3)ビデオの内容もまぁまぁ分からないわけでもないし、彼らしいと思わないでもない。たしか現在は、「ガイアの法則」(千賀一生 2010/01 徳間書店)とやらのインスピレーションのまま、関西に移動したのだった。

4)そんなことを考えながら、たしか彼にはお父さんがいて、本も出しているはずだったと検索してみたら、割と簡単にでてきた。近くの公立図書館にも何冊か宮井一郎の名前の著書が収められている。

5)「夏目漱石の恋」とか「漱石の世界」とかでていて、なかなかの文学の解説書のようである。そもそも宮井一郎は「群像」の第二回新人賞にも応募していて、その時のテーマが夏目漱石だったということだから、きっとこの道の専門家なのだろう。

6)いつか直接シャンタンにお父さんのことを聞いたことがあった。元気で本を書いているよ、という話だったが、その内容については聞いたことがなかった。なるほど、こういう本を書いていたんだなあ。

7)そういえば、今夜の日本時間よる8時には、今年のノーベル文学賞の受賞者が発表されるという。当ブログの書き込み、「日本にノーベル賞が来る理由」(伊東 乾 2008/12 朝日新聞出版)、「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか」(市川真人 2010/07 幻冬舎)、「『1Q84』でノーベル文学賞はとれるか」(村上春樹研究会 2009/07 データハウス)、なんてところにアクセスが急増している。「村上春樹、夏目漱石と出会う」(半田淳子 2007/04 若草書房)、とか、「東アジアが読む村上春樹」(藤井省三 2009/06 若草書房)なんて書き込みにも波及している。

8)あまり得意分野ではないが、iPS細胞の話題と並んで、またハルキストたちの闊歩を見るのも悪くあるまい。ゆっくり宮井一郎あたりからおさらいしてみるかなぁ・・・・・。

 

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2012/10/10

風呂敷に包まれて発見された幻の原稿 山尾三省ライブラリー2『ネパール巡礼日記』


「ネパール巡礼日記」インド・ネパール巡礼日記2(山尾三省ライブラリー)
山尾三省 2012/04  野草社 新泉社 単行本 495p
Vol.3 No.0814★★★★★

1)三省追っかけはほとんど終了しているのだが、いずれ野草社あたりから三省全集がでるらしい、という噂を聞いて、楽しみにしていた。この本は、その前ぶれとも思えるが、実は今まで出版されたものの再編集ではない。まだ出版されたことのなかった幻の原稿で、しかも、位置的には、一般に三省の処女作と言われている「聖老人」のさらに前にあるべき一冊である。

2)ライブラリーとしてでたのは2冊、そのうちの「1」である「インド巡礼日記」には、前書きもなければあとがきもない。実にざっくりとした編集だ。これではなんだかわからないなぁ、と思って「2}のこちらをみたら、宮内勝典が解説「永遠の道は曲がりくねっている」p474を書いている。20数ページに渡る長文である。

3)宮内かぁ、と、ちょっとがっくり。たしかに彼は三省とナナオをつなげたキーパーソンではあるらしいのだが、Oshoに対する理解が進んでおらず、また誤解の裏になりたつへんてこな小説「金色の虎」を書いたりしているので、当ブログにおいての評価はCクラスである。三省とのあいだには 『ぼくらの智慧の果てるまで』(1995/09 筑摩書房)がある。

4)でも、その出会いが実にかなり初期的であったことを知って、なるほどな、と納得した。

5)三省に出会ったのは18のときだった。私の叔母が神田淡路町にある「山尾自動車工業」の事務員をしていたという偶然からだ。若い叔母は、九州からやってくる甥っ子のために下宿先まで決めていた。山尾家の向かいにある花の師匠の家であった。それから叔母は、
「きっと気があうはずだから」
 と、同じ職場の青年にひきあわせてくれた。哲学科を中退して、油まみれになって働きながら詩作をつづけているのだという。それが24歳の山尾三省だった。かれは私のことを「一平君」と呼ぶようになった。
宮内勝典p474

6)なんだ、そうだったのか。それじゃぁ、しかたないな。それにしてもこの二人は6歳の年の差があったのか。

7)いまは聖者のように崇められている宮沢賢治も、理不尽な憤怒を抱えていた。「まことのことば」を発しようとする詩人たちの源泉の感情なのか。その長編詩は日本で生まれた最初のビートニクの詩ではないかと思われた。

 そこで私は、三省をナーガとサカキ・ナナオに引き合わすことにした。アレン・ギンズバーグがインドからの帰路、日本に立ち寄ったとき、かれら二人はギンズバーグとゲーリー・スナイダーに出会って知己となっていたからだ。

 ナーガたちとの出会いから「部族」というグループが生まれてきた。「部族」誕生のささやかなきっかけを作ったけれど、私自身はつかず離れず、一定の距離を保っていた。宮内勝典p479


8)その後、宮内は1967年アメリカに渡ったのだから、ビートルズが日本にやってきた頃の話である。

9)他界する二ヶ月ほど前、三省は「インドの日記があるので、ぜひ読んでほしい」と、野草社の石垣雅設さんに語ったそうだ。いくつかの遺言のなかの一つだった。だが仕事場は混沌としていて、いくら探しても見つからなかった。

 そうして一年ほど過ぎてから、風呂敷に包まれた数冊のインドの本と原稿用紙と共に、7冊のノートが発見された。かつて私も読んだことのある日記であった。

 原稿用紙の訳稿は虫食いだらけでほとんど判読できなくなっていたが、ノートは完全なかたちで残っていたという。三省がインドの地を踏みしめ、ヒマラヤの麓で暮らしていた日から30数年も過ぎて、ノートの日記はかくして出版されることになった。宮内勝典p486

10)なにやら賢治の弟、宮沢清六が守った「兄のトランク」をさえ連想させる場面である。 なにはともあれ、これでこの二冊の本の位置がわかってきた。それでは、とにかく「1」に戻って、三省ライブラリーを読み始めることにしよう。

11)三省はこの時(1973年)、家族連れでインド・ネパールを一年間旅したのだった。遅れること14年、私もまた妻と2歳と4歳の子供を連れてインドの旅をしたのだった。もし三省がこの旅をしなかったら、私もまた、あんな冒険をしなかったかもしれない。

12)こんな分厚い二冊セットの本である。どんなことが書いてあるだろう。楽しみだ。

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起こるべき事が起こっただけではないのか ジャン・ピエール・デュピュイ 『ありえないことが現実になるとき』


「ありえないことが現実になるとき」 賢明な破局論にむけて
ジャン・ピエール・デュピュイ  桑田光平・他・訳 2012/05 筑摩書房 単行本 233p
Vol.3 No.0813★★★☆☆

1)松岡正剛が「3・11を読む」でデュピュイの「ツナミの小形而上学」を紹介していた。前後して出版された本ながら、こちらは、今年になって邦訳されたものである。こちらも一応目を通しておこうと思ったが、当ブログとしてはなかなか読み込めない一冊だった。

2)その理由の一つに、3・11後の日本語版への序文「倫理的思慮の新しい形」(2011/12/23)が付されているものの、そもそもは2001年の9・11に触発されて書かれた一冊であり、原書出版も2002年であってみれば、ポスト3・11の読書としては、すこしタイミングを失っており、ポイントも微妙にずれている。

3)そもそもが、私自身にとっては9・11と3・11は比較にならない別々の事象である。9・11はアメリカのことであり、あるいは中東との出来事であり、それは「戦争」なのであって、人間対人間で解決できるものだろう、という感触がある。

4)そういう意味では、1995年の阪神淡路大震災も、東北人の私からは、遠い「向こう」のことであった。残念なことではあるが、私にはむしろその直後に起こった麻原集団事件のほうに、より巻き込まれてしまう要素があった。

5)今回3・11にも沢山の評論があったが、たとえば「ポスト3・11の子育てマニュアル 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?」を読んだ時に、私はどうしてあんなにイラついたのだろう、と自分なりに不思議に思った。今思えば、あの本は、3・11を直視しないまま、阪神淡路大震災の「体験」をとうして類推している文章が多かったの原因だったのだ、とわかる。

6)3・11を理解するに、9・11を通して理解しようとする動きもあるが、私はそれには賛成できない。9・11は避けようとすれば避けられたことである。また、阪神淡路は個人的にどうしても対岸の火事的な要素があった。

7)3・11についての率直な私の感覚を言えば、起こるべきことが起こるべくして起こった、という感覚がある。そして、私自身が、その渦中にいるべきだ、という感覚は、まさに、私自身はこの日のために生きていたのだ、という感覚にさえ昇華する。

8)3・11については、地震、津波、原発、の三要素があり、場合によっては原発に特化して3・11を語る向きもあるが、私はそうしない。むしろ、3・11は地震、津波にとどめて考えてもいいのではないか、とさえ思っている。

9)原発事故は、起こるべきことが起こるべくして起こったのだから、決して「ありえないことが現実に」なったわけではない。いくらでも避けることができたのだし、それは人間界の問題だ。

10)地震・津波もまた「起こるべきことが起こるべくして起こった」のだから、同じようなことなのだが、これもまた「ありえないことが現実に」なったわけではない。容易に想定できたし、予告もされていた。しかし、沿岸部の被害規模はともかく、地震と津波という現象は、「起こるべきことが起こるべくして起こった」のであって、ありえるべきことが現実になったに過ぎない。

11)もちろんそれはごく少ない確率で起こる現象であり、日常的に見られる現象ではない。ごくまれに起こることではあるが、起こってしかるべきことが起こったに過ぎない。

12)そして、私自身は、この状況こそが、今回この生を受けた理由だった、とさえ思い込むほど、必然的な、運命的なつながりを感じる。

13)この現実は受けいれる以外にない。大自然、大地球との対峙である。デュピュイがいうように、ここから新しい形而上学を作ることも可能であろうが、その論理性、その分離性には、いつまでも違和感を感じる。

14)現実、あるいは自然、地球と対峙する時、そこに解決策があるとすれば、それらと一体になってしまうこと、その中に溶けさってしまうこと、それ以外にないような気がする。「私」という感覚は、ごくごく小さなコップの水に過ぎない。大自然という大海原にとけ去ることしか、「私」にはできないのではないか。

15)私にはちょっと難しすぎて、よく読みきれなかった一冊だが、印象だけメモしておく。

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2012/10/09

市場での瞑想の真髄 OSHO 『反逆のスピリット』 <1>

Photo
「反逆のスピリット」 <1>
OSHO (著), スワミ・デヴァ・マジュヌ (翻訳) 1990/12 めるくまーる 単行本: 323p
Vol.3 No.0812

1)ディビッド・ソロー老子ゲーリー・スナイダー寒山拾得宮沢賢治鴨長明、あるいはビル・マッキベン三省のことなどを思い出して、なにか、もうひとつすっきりしない自分を感じていた。

2)かたや「森」や「山」があり、かたや「街」や「市場」がある。この相矛盾する二つの対立概念の配合具合の匙加減はいかに。

3)そして今、当ブログは「Meditation in the Marketplace」のカテゴリに停泊しつつ、長期に渡って、そのバランス感覚を楽しんでいるところだ。

4)山に行って瞑想的な気分になる。そしてそのまま瞑想の中に消えていってしまうことも可能であるかもしれない。

5)あるいは市場にいて、雑然とした不協和音の真っ只中にいる自分をみる。

6)市場にいながら、山にいる深い瞑想を持ちえたら、それこそが「反逆」なのではないか。今、もっとも必要なキーワードは反逆だったのではないか。反逆とは、SNSで過激な言葉を発したり、街頭にでて行動することだけではない。もっと「瞑想」の質に近いなにかなのだ、そう思えた今朝だった。

7)そう思って、この本を引っ張り出してきた。気がつけば、なんども引用はしているけれど、単体としてこの本を当ブログに登場させるのは初めてだった。

8)今回は目次だけ引用しておく。もう目次を見ているだけでナットクしてしまう。

9)目次  

服従がこの危機をもたらした  

自分自身でいなさい

大好きなことを仕事にしなさい

急がないと地球は終わってしまう

反逆者は戦士だ

新しい夜明けの前ぶれ

神はフィクションだ

反逆者はゾルバ・ザ・ブッダだ

反逆の炎

自分自身であることの喜び

炎の魂とともに生きる

笑いながら反逆する

危険にみちた生を生きよ

反逆者求む---ただし個人にかぎる

内側に入って見てごらん!

反逆者に従うべき道はない

究極の恋愛

暴力は問題外だ

愛と瞑想からの反逆

正義とは何か?

光明を得た反逆者が必要だ

だれの内にも反逆者はいる

瞑想とは何か?

24時間瞑想している必要はない

<存在>を信頼して生きる  p4「目次」

<2>につづく

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2012/10/08

BMW202の時代からの警告 ジェーン・フォンダ他『チャイナ・シンドローム』


「チャイナ・シンドローム 」
マイケル・ダグラス ジェーン・フォンダ ジェームズ・ブリッジ他 1979年作品 ソニー・ピクチャーズエンタテインメント スコレクターズ・エディション DVD 122分
Vol.3 No.0811 ★★★★★

1)チャイナ・シンドローム。アメリカの原発がメルトダウンして、炉心が溶融してしまえば、すべてのものを溶かしてしまい、だんだん落下して、地球を突き抜けて中国にまで到達してしまう、という寓話をもとにしてつくらえている作品だが、内容はいたって真面目。別にトンデモ科学をもじったはちゃめちゃな映画ではない。

2)FUKUSHIMAどころか、旧ソビエトのチェルノブイリの以前に作られた作品である。この作品が発表された直後に本当にアメリカのスリーマイル島の事故が起こった。

3)原発所長が往年の名車BMW202でカーチェイスする時代のおはなしである。しかし、それを懐かしんではいられない。この映画で描きだされている世界は、それから30数年経過しても、何も変わっていなかったことを、FUKUSHIMAは露呈させた。

4)悲しいかな、これが現実である。原発につきまとう「原罪」は、計り知れないほど原発の本質であるようだ。本当になにも変わっていなじゃないか。その危険性、隠蔽体質、強欲、権力、そして圧殺される真実。

5)東電の発電所の炉心がメルトダウンして、日本の裏側のブラジルまで届く、ということはありえないが、そう誇張されてもおかしくないような事故が現実に起きているのである。しかも現在進行中!

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還暦を迎えるわが同期生たちに捧げる10冊(準備編)

 小中学校の同期会より連絡があった。来年は私たちの還暦の年になるらしい。したがって同期会を開くための準備の幹事会をしよう、ということである。 ほほう、もうそんな年回りになるのか。

 先日、56才と7ヶ月を記念して、プロジェクト567を立ち上げたばかりなのに、まったく月日は迷える子羊を待っていることはない。どんどん馬齢を重ねていくばかりである。 ひさしぶりに会う同期生もいる。お互いの距離感はどんなものだろう。相手のこともよく理解できないかもしれないが、自分だって、自分の人生の来かた行く末を、うまく説明できるであろうか。

 確かに、何人かの同期生とは今でも友人として付き合っている。しかしながら、彼らのことを本当に分かっているだろうか。分かろうとしていたであろうか。 そして、私もまた、自分をうまく説明できるほどに、本当に自分自身をわかっているだろうか。 そんなことを考えていて、タイトルのように、「還暦を迎えるわが同期生に捧げる10冊」、というものを考えてみることにした。まずは準備編である。

  なに、集まりは来年だし、本当に捧げなくともいい。そういう仮定で、読書ブログとして当ブログなりに、自分の人生をこの辺で、ひとまとめにしておくことも一考であろう。 そうしてできたのが下のリストである。

 うまく10冊とはならなかった。そもそも、本の形になっていない部分が多い。また、本として出版されていたとしても、すでに入手不能なものも多い。 しかし、ここは10冊に疑して、ひとまとめにしてみようと思う。

 そもそも、当ブログは、あるミッシングリンクを埋めるために始めたのであった。そしてそのストーリーは、まとまりのよい一文になるはずだった。だが、いまだ果たせていない目標である。 いずれ、今回をきっかけとして、適当な長さの、均等な密度をもったものに仕上げようと思う。今は原稿の準備のつもりで、まずは資料集めとして、このリストを作成しておく。

 1冊目「ボーイズファイター」 1~5号。同期会となれば、まずは、この一冊ははずことはできない。中学一年のときに、1年A組の男子10人ほどで作ったわら半紙に肉筆で書いた雑誌。表紙は私が作った。実質的には編集者でもあっただろうか。

 2冊目「時空間」 このミニコミ雑誌は、自分の青春時代、10代から成人までの存在を証明する大事な出版物である。ただし現在一般には入手不可能。ネットでもその全容を知ることはできない。ここはいずれ、必要部分をネットにアップしようと思う。

 3冊目「湧き出ずるロータススートラ」は、まとまっているが、固有名詞などに、すこしかたよりがある。リライトすべき時にきている。もともとは1992年に友人が編集する京都のミニコミ「ツクヨミ」に掲載したものであるが、多少省いてあるところがある。ただ、半生を振り返ったという意味では、個人的には貴重な記録である。

 4冊目「地球人スピリット・ジャーナル」こそは、このわがブログであり、現在進行形の自分がいるので、同期生たちにもこれを読んでもらうのが一番いい。だが、すでにとりあげた読書も3000冊にならんとしている。ここはうまくダイジェスト版としてまとめなければならない。

 5冊目「時の葦舟」は、わが同期生の一人にして、大事な友人の劇作家の一冊である。50年にわたる交流だが、私は必ずしも彼のーよき理解者というわけではない。また、私もまたもっとも身近な友人へ、自らの本心をぶつけることをためらってきた部分もある。彼との距離をはかることは、自らを理解する機会ともなるいのではないか、という期待がこの一冊にはある。

 6冊目「 私が愛した本」は、私が愛した現代のマスターOshoの一冊である。この本でOshoのすべてがわかるわけではない。だが、この本が当ブログの多くを構成してきたかぎり、同期生にOshoから一冊を、というなら、この本をはずすことはできない。

 7冊目「仙台平野の歴史津波」 そして、私たちは3・11を迎えた。この本は、私たちが育ったこの地の歴史研究書である。また、巨大津波の予言書でもある。この大地にいたことを、今あらためて同期生たちと感じあってみたい。

 8冊目「その時、閖上は」は、写真集である、同期生がこの津波で何人かなくなった。すぐれた記録はたくさんあるが、私の目にふれた3・11の記録の中では白眉の一冊である。この地に嫁ぎ、家を建て、被災し、家族を亡くした同期生たちも多くいる。

 9冊目「郡山遺跡」かつて、この地はどんなものだったのか。身近なところにある歴史的遺跡が持っている意味が、今回の3・11でにわかに浮上してきた。わが同期生たちも歴史ロマンの中に没入していく年代でもある。この本の持っている意味をもうすこし深くトレースしたい。

 10冊目「大いなる挑戦-黄金の未来」は、Oshoその人のエッセンスがつまってるー冊ともいえる。しかし、かくいう私にも理解しかねるところが多く、容易に賛同しかねるところも多い。なかなか一気飲みすることのできないこの問題作を肴に、同期生たちと未来を語り合うのもいいのではないか。

 次点「巨大津波は生態系をどう変えたか」 さらに加えたい本はたくさんあるが、最後まで石寒太 「宮沢賢治 祈りのことば」と選択を悩んだ上で選んだのは、この本である。いずれは大地に戻り、草葉の露となる身であってみれば、あえて私たちが生まれて育った地域の自然の記録を残したこの本は、同期生たちにとっても、極めて貴重な一冊になるはずである。 

 以上、暫定的に以上のリストを作っておく。還暦祝いの集まりは来年2月、温泉での一泊となった。それまでに、このリストを元になんらかのまとまりのある一文一冊になればよいなと思う。また、友人諸君においては、以上の本に思いを馳せ、時には読んでおいてくれると、再会した時に、お互い理解が早くなるだろう。

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2012/10/05

アンパンマンを卒業したら次はこれか  ラリー・ザ・ケーブル・ガイ『カーズ2』


「カーズ2」 
ラリー・ザ・ケーブル・ガイ ウォルト ディズニー スタジオ ホーム エンターテイメント 2012/01 ポニーキャニオンDVD1枚 106分 【映像特典】    ハワイアン・バケーション/飛行機メーター
Vol.3 No.0810 ★★★★★   

1)図書館から借りてきたDVDを見ようというのは、大体が、通常の読書に飽きてしまった時だ。しかも眠い時が多い。ましてや、今回「カーズ2」がこのタイミングで届いたのは、あまりよいタイミングではない。なんで今ころ?と思う。

2)期待もしていなかった前作「カーズ」に感動したのは7月のこと。夏真っ盛りの時だった。すぐこちらの「カーズ2」もリクエストしておいたのだが、先客がいっぱいで、ようやく私の番になってみれば、もう中秋の名月も過ぎて、上着の欲しい秋になっていた。

3)眠いままに枕元でDVDを再生したものの、すぐウトウトが始まった。なにやら音がうるさい時にばかり目がさめるので、カーチェスばかりの、つまらないDVDだなぁ、と最初は思った。見たのは、飛び飛びのほんの5分の1程度だったのだろうか。このまま返しちゃおうかな、と思った。

4)でもな、天下のピクサー作品である。何かあるはずだな、と思って、昨晩はまた最初から見直しをすることにした。

5)最近、私の世代はヨレヨレである。久しぶりにショッピング・モールで出会った遺跡発掘男は、もう前歯が一本しか残っていなかった。冬には仕事がない。スポーツジムの清掃男は、がん手術で退院したあと、また救急車で運ばれたという。昨日も図書館の新聞閲覧台に細い身を寄りかけていた。

6)ハイカラ・コピーライター男には、もう長いこと仕事がない。原発宣伝の記事を月1回書いてくれたら、一年間500万やるといわれているらしいが、さすがにそれだけは勘弁してくれ、と言っている。名もない雑誌にエロ記事でも書いて月3万もらっていたほうがまだましだ、と、飲み会の時にぼやいていた。

7)かくいう私も、最近はいろいろと勘違いが多い。一人で本でも読んでいるうちはいいのだが、一歩外に出てみると、なんだか、すでにマーケットからは排除されているような気さえする。ショッピング・モールには私の欲しいものがない。欲しくないものばかりが並んでいて、欲しいものが並んでいないのである。時代と、私は、大きくずれてしまっているのではないか。

8)そう思い直して、やはりこのDVDを見直してみることにした。車ばかりのこのCGアニメーションを見ていて思い出したのは、まもなく2歳になろうとする孫の男の子。先日までは、アンパンマンで持ちきりだったのに、最近は車に夢中だとか。パトカーやゴミ収集車にご執心だ。

9)先日は、秋の交通安全キャンペーンで、道路脇で「交通安全ナシ」配りをしているところを、大喜びで観劇していたら、ご褒美に安全協会の人が「交通安全梨」をくれたとか。

10)そうか、このDVDは、自分の趣味として見るべきものではない。今度孫が来たら、一緒に見よう、そういう気分で見ればいいんだな。

11)そう思い直してみれば面白くないわけじゃない。そもそもプロジェクト567の中心は、孫たちの世界だった。ここに未来がある。1歳児や2歳児の視点からみれば面白い。いやその親のアニメ世代だって、結構おもしろがるはずだ。われら爺さん婆さんの世代には、ちょっとうるさいだけで、疲れてしまうようなDVDではあるが、もし傍らで孫たちがキャッキャッと喜んでいたら、それはそれでまぁ、いいじゃないか。韓ドラや水戸黄門ばかりじゃ、世の中は進まない。

12)ピクサー追っかけもこれで11作目。このDVDと一緒にリクエストしていた「カールじいさんの空飛ぶ家」と「「トイ・ストーリー3」はまだ来る気配はないが、まぁ気長に待とう。

 

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2012/10/04

正しくも悲しきスローガン 小出裕章&土井淑平『原発のないふるさとを』


「原発のないふるさとを」 
小出裕章 土井淑平 2012/02 批評社 単行本 178p
Vol.3 No.0809★★★★☆

1)「原発のないふるさとを」というスローガンに瑕疵はないだろうか。原発がなければ、ふるさとはOKなのだろうか。ふるさとにさえ原発がなければ、それで何事も問題ないのだろうか。

2)そもそも、ふるさととは何だろう。自ら生まれた地域、産土、家族や親族が多く住むところ。竹馬の友の住む、自らの存在証明の基となるところ、・・・・・? 自分を育んでくれた山や里、川や海。雲や空。

3)そして、原発って、一体なんだ? なんでそんなものがあるんだ。科学の進歩? 欲望の膨張? 人類の業? エネルギー? 核兵器の双子の兄弟姉妹? 人類が生み出しながら、人類ではもはやコントロールできなくなってしまったこと。

4)その原発が、どうしてふるさとにあるのだろう。ふるさとに原発がある、ということ自体、おかしいではないか。ふるさとに原発を持ってくるという発想自体、どうして生まれたのだろうか。

5)この本は小出裕章と土井淑平の共著。土井には「反核・反原発・エコロジー」の著書があり、松岡正剛「3・11を読む」にも紹介されている。鳥取生まれ、元共同通信社勤務、市民活動家兼フリーライター。

6)この後には、ウラン残土市民会議運営委員。さようなら島根原発根ネットワーク会員。などなどの経歴が続く。いわゆる活動家というイメージだろうか。

7)今日の私の公演タイトル「原発のないふるさとを」は、主催者の方がつけてくださったものです。
 なぜこのタイトルになったかといいますと、皆さんがつくってくださった「原発のないふるさとを」(鳥取県気高郡連合婦人会編集・発行)という冊子があるからです。
p12小出「序」

8)この本では、1983年当時、鳥取県のある「ふるさと」に降って湧いた「原発」計画を、地元の主婦を中心としたグループがついに撤回させ、「原発のないふるさと」を守ったという話がメインストーリーになっている。

9)鳥取県は、日本の原子力発電の歴史の中でかなり特殊な役割を負っています。それは人形峠というウラン鉱山があったからです。1955年に人形峠でウランが見つかったということが事の発端でした。 

 人形峠は静かな山村ですね。そういう風光明媚な閑静なところが一躍、宝の山ということになって、翌年(1956年)の正月、元旦の新聞は、全国紙も含めてウラン鉱山が人形峠で見つかったといって日本中が浮かれてしまった。

 それから10年ほど試掘が繰り返されましたが、とうとう人形峠の採掘では、採算の合うようなウランはないということになって、結局、ウラン鉱山は閉山になりました。

 しかし、その周辺には、ウラン混じりの「残土」と私たちが呼んでいる放射能のゴミが、45万立方メートルも野ざらしのまま放置されるということになったのです。それから数十年以上という長期に渡って苦闘が続くことになりました。p13小出「序」

10)原発がなければふるさとは幸せなのだろうか。ふるさとに原発がなけければ、原発はなくなるのだろうか。原発はどこかに行ってしまうのだろうか。原発は結局どこかのふるさとにできてしまうのだろうか。

11)レンガ加工されたウラン残土にも放射能が含まれているので、その使用は日本原子力研究開発機構の施設内に限定されるべきだというのが私たちの主張でした。だが、実際には、ウラン残土レンガはかれらの施設内の舗装などの使用に限定されず、一般市民にも有料で出回りました。これは”核のゴミ”の”スソ切り”に当たるので認められないことでした。p161土井「原発のないふるさとの核廃棄物---人形峠のウラン残土撤去運動の報告」

12)原発のないふるさとを、というスローガンには、基地のない沖縄を、というスローガンに通じるものがある。沖縄に集中してしまった軍事基地をほかの地域に移そうとしても、積極的に受け入れようという自治体はない。だが、いずれ、世の中から戦争がなくなる時代がくれば、軍事基地はなくなる可能性はほんのわずかだがある。

13)原発も、代替エネルギーなどの開発によりいずれはゼロになる可能性はある。しかしながら、原発が発電しなくなっても、廃棄物は残る。永遠に残る。何十万年というタイムスパンは、何十年という命しかもたない人間には「永遠」とほぼ同じことだ。

14)原発のないふるさとを。よくよくこのスローガンを感じてみると、いくつも不思議な疑問が生まれてくる。「わが」ふるさとにさえ原発がなければ幸せなのだろうか。ほかのふるさとに原発が行ってしまえば、それでいいのだろうか。いや、そんなことはあるまい。

15)今や、わがふるさとという限定された地域などなくなってしまった。この地球全体がわたしたち人類のふるさとなのだ。つまり、原発のない地球を、がスローガンにならなければならない。

16)しかし、仮に原発がなくなったとしても、その負の遺産である核廃棄物は「永遠」に地球上に残されることが決定してしまっているのだ。核廃棄物のない地球を、というスローガンには100%の正当性があるが、それは現実不可能な悲しき「理想」となってしまった。

17)もともと1983年の段階で、山陰の地方の婦人たちがあげた声が「原発のないふるさとを」だったのだが、少なくとも2012年の現在、このスローガンは、悲しくも論理矛盾を多く含んだお題目となってしまった。

18)現在、この地球上には核廃棄物という絶対「悪」が存在することになった。あるいは、それを確認、認識しないことには、生きていけない時代となった。そういう時代に私たち地球人は生きている。

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2012/10/03

もうひとりの自分を想起させる引力 ゲーリー・スナイダー・コレクション1『リップラップと寒山詩』


「リップラップと寒山詩」 
ゲーリー・スナイダー 原成吉訳 2011/10 思潮社 単行本 156p
Vol.3 No.0808

1)あれ、これはもうひとりの自分?と思わせる人と出会う時がある。。その人と自分を隔てる壁がない、あるいはほとんどない。そんな感覚をほんのまれに感じる時がある。それはほとんど理想的な形で存在している自分の姿に近い。だが、よくよく考えてみれば、それは本当の自分なのではなく、その人が精神においてかなり透明度の高い人で、こちらを鏡のように写し出しているに過ぎないのだ。

2)ゲーリー・スナイダーに触れる時、これにやや近い感覚を持つ。スナイダーは、もちろん自分とはまったく違う別人格だ。だが、確かな感覚として、彼の傍らに、もうひとりの自分がいたはずだ、という強い感覚を持つ時がある。それはどこから来るのか、確かではないが、それは前世の記憶から来ているのだと理解すると、一番わかりやすい。

3)物理学の素粒子などの細かい世界では、確かにここにこういうエネルギーがあると仮定したほうが理にかなうとして、改めて検証していくと、やがてその存在が実証されることがあるらしい。そんな感覚が、スナイダーと自分のあいだにはいつも伴う。

4)この詩集は1953年の「夏」、サワード山の火事見張り小屋の詩から始まる。1930年生まれのスナイダー23歳の詩だ。しかし、それではないけない。1953年の「春」が問題なのだし、さらにそれに遡ること数年前のことが重要なのである。つまり、スナイダーに詩情として何事かがやってくる前のことだ。

5)スナイダーは1948年18歳のときに、ニューヨークまでヒッチハイクし、船員組合に入会し、船員手帳を取得した。このとき、厨房の助手としてコロンビアとヴェネズエラへ行った。p145(訳注)

6)この後の数年のこと、後にジャック・ケルアックが「ザ・ダルマ・バムズ」に書き出す前のスナイダーが、確かに存在していたはずなのであり、その実在感が、もうひとりの自分の存在を浮き彫りにする。それこそは、スナイダーという「詩人」の、「詩」が、優れているからであり、この詩集が存在し、こうして今、当ブログにおいても読んでいるというリンクにつながってくる。

7)この詩集の翻訳者が1953年生まれである、ということも、このことと無縁ではあるまい。

8)リップラップとは---馬が通れるようなトレイルを作るために、山の急斜面の滑りやすい岩に据えられた石 p9

9)まさにリップラップと寒山詩とは、「スナイダー・コレクション1」におけるタイトルにもっともふさわしい詩情だ。こちらの処女詩集においてスナイダーは寒山詩を24編翻訳している。「The Back Country 奥の国」においては宮沢賢治の翻訳を試みている。

10)寒山は中国に古くから伝わるボロをまとった隠者の系譜につらなる、山にくらす風狂の人である。かれが寒山というときは、かれ自身、かれの家、かれの心理状態をさしている。p84 「寒山詩の序 台州の使節による」

11)寒山拾得の名前はスナイダーの名前とひと連なりになった。いつか友人が中国から(台湾だが)の土産としてプレゼントしてくれた寒山拾得の石碑の写を、そのまま押入れにしまいっぱなしであることをまた思い出した。いつかキチンと表具するべきだろうと思いつつ、いやあれはあれでいいのだ、と思い返したり、なんども思いが交錯したままだ。

12)この詩集は、アメリカで2009年に発行されたゲーリー・スナイダー・コレクションの第一号だ。これから何号か続くのだろうか。だけど、本当は私は第0号が読みたい。「リップラップと寒山詩」のその前の、スナイダーにあふれた精神の、詩になる前の詩情に、私は関心がある。

13)あるいは、「現代詩手帖」2012・7に展開された『ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン』以降の、まだ書かれないスナイダーの詩情をこそ、読んでみたい。

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2012/10/02

あらためて大震災を受けとめる ジャン・ピエール・デュピュイ著 『ツナミの小形而上学』


「ツナミの小形而上学」
ジャン・ピエール・デュピュイ 嶋崎正樹訳 2011/07 岩波書店 単行本 150p
Vol.3 No.0807★★★★★ 

1)松岡正剛「3・11を読む」第一章「大震災を受けとめる」の11冊は、このデュブュイの一冊で締めくくられている。1941年生まれのフランス人、科学哲学者。スタンフォード大学教授やフランス放射線防護原子力安全研究所の倫理委員会委員長などを歴任しているようだ。

2)われわれが読むべきは、事故と損傷の正体の真っ只中にあえて身を突っ込んで、新たな意味を再発見することなのである。おそらく3・11とはそのことの告知であったろう。

 ポール・ヴィリリオが「これからの時代は事故からしか新たな展望は生まれない」といい、ジャン=ピエール・デュビュイが「いまや津波の体験が新しい形而上学を生むしかあるまい」と指摘したように、われわれは損傷の渦中から新哲学を掬(すく)ってくるべきなのである。松岡正剛「3・11を読む」・表紙見返し

3)この小さな一冊を読み終えるまで一週間が経過してしまった。外側が忙しかったから、という理由もあるが、仮に忙しかったとしても、この本の読書を中断するわけにはいかなかった。ちょっと当ブログとはかけ離れたような文脈も登場することもあるが、であるからこそ、この本を当ブログの文脈のなかで読み直す必要があった、とも言える。エンコードの時間がかかったとも言えるだろう。

4)この本における「ツナミ」は、当然日本語の「津波」が語源なのだが、必ずしも自然現象としての「津波」だけを表しているわけではない。そこには、9・11やアウシュビッツ、ヒロシマやナガサキ、そして核兵器、原発事故などが含まれている。

5)当ブログでは、「地震」、「津波」、「原発事故」を、それぞれに独立した事象として捉える必要があるだろうと思っている。地震は人間にはコントロールできない。津波もまた避けることができないが、減災としてはややコントロールできる面もあろう。原発事故は、人間が作り出したものだから、完全にコントロールできる(つまり原発ゼロ世界に向かう)ことと考えている。

6)しかしながら、この本において「ツナミ」は究極の破局として語られる。ツナミのプチ・メタフィジクス、である。この本は9・11を契機として書かれた本であり、出版は2005年、邦訳は2011年7月にでている。3・11後の著者の日本語版への序文も書かれている。3・11後に書かれたものではなければリアリティに欠ける面もあるが、むしろそれを予見し、深く熟考しようとしてきた一冊であれば、3・11の前も後ろも関係はない。新たなる3・11はこれからも起きる可能性は十分にあるからだ。むしろ、ひとつの連続体として存在しているとも言える。

7)この本は、さらっと目を通し、気になったところを抜き書きしておく、といういつもの当ブロブの読書では通り過ぎることができなかった。松岡正剛がポール・ヴィリリオと、このジャン=ピエール・デュビュイだけを巻頭に登場させていた所以が、すこしわかった気がする。

8)「ツナミ」という具象の究極と、「形而上学」という抽象の究極が並べられていることに、「色即是空」という般若心経の一文を思い出した。ツナミという「色」の中に、形而上学という「空」を見ることができるのか。だとするなら、「ツナミの小形而上学」は、形而上学という「空」から、ツナミという「色」を見ることができるか。

9)そういう意味においては、この西洋哲学の最先端ともいうべき思潮には、どこか片手落ちの面が感じられる。東洋哲学的「空即是色」の捉え直しができていないようである。

10)「Meditation in the Marketplace」という現在当ブログが走っているカテゴリは、もっと真理をついているように思える。MarketplaceこそMeditationを産み出し、MeditationこそMarketplaceを明らかにする。Marketplaceとしてのツナミ「色」は、Meditationという形而上学「空」を生み出している。逆も真なり。

11)個人的な人生観のなかで予見された「プロジェクト567」の中において、3・11は7番目の、つまり究極の意味を持つ。尖閣列島や竹島問題、あるいは内政の政治状況のあれやこれやで、いつの間にか風化し始めている「3・11」。当ブログは、このテーマを、今後とも、以前よりももっと強烈に意識して行く必要があるようだ。

12)個人的な思いとして、以前自分はツナミで命を落としたという経験記憶を持つ。ずっと古いか過去においてだ。そして、その時に天から啓示として受け取ったもの、そのことの意味が、確実に、「すぐ側」に存在していることを理解する必要がある。

13)ジャン・ピエール・デュピュイには、出版順序は逆になったが「ありえないことが現実になるとき 賢明なは極論にむけて」(2012/05 筑摩書房がある。当ブログとしては読みやすい作家ではないが、避けては通れない吸引力を感じる。

14)それにしても、ポール・ヴィリリオといい、ジャン・ピエール・デュピュイといい、なぜにフランス人なのか。電力の7~8割を原発に頼っているというフランス。世界で「最悪」な原発国家ではないか。そこに徒花のように咲く生哲学者たち。そこにはどんな意味が宿っているのであろうか。

つづくかも・・・・・・

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