1+1=3にせよ! 石川裕人15歳の叫び 中学校卒業文集『根っこ』
「根っこ」
増田中学校第22回卒業生 1969/03 文集 p42 石川裕人年表
Vol.3 No.0827★★★★☆
1)私たちの中学校卒業は1969年である。時代は騒然としており、高校を目指して受験勉強をしている時、テレビでは、東大安田講堂の攻防戦をやっていた。学生運動が激しくなり、また、それを報道するテレビ網も急速に発達しようとしていた。
2)そんな時代の動きに私たちはそれぞれに敏感になっていった。こんな時、受験勉強などしていていいのか、とさえ思った。そういう訳でもないのだろうが、二人ともこの文集には投稿していない。石川裕二は編集委員には名前だけ載っている。どこか学校の教師どもがうっとうしく思えてきた時代だった。
3)それでも、それぞれ「私の言葉」としてひとことづづ寄せている。
4)青春は1+1=3にせよ! 石川裕二 p3
5)彼は中三時代のクラス新聞を作っていて、そのタイトルは「1+1=3」だった。そのことは覚えていたが、卒業文集のひとことまで、こう書いているとは知らなかった。数学は得意ではなかったので、皮肉っていたわけでもなかろうが、合理的なものより、非合理的で、超越的な何かを模索し始めている兆候だったのかもしれない。
6)ちなみに私自身の「私の言葉」はこうである。
7)ひつじの皮をかぶったオオカミ 阿部清孝 p4
8)今回、順序が逆になり、誰かが私のこの言葉を解釈しようとしても、ひょっとすると、この意味がわからないのではないかと危惧する。なにやら、「赤ずきんちゃん」にでもでてくる赤い舌を垂らしたオオカミ男にでもたとえられるのではなかろうか。あいつはやっぱり二重人格男だった、なんてね。
9)実は、これは、当時のレースカー、プリンス自動車のスカイラインGTRのキャッチフレーズだった。セダンのようなおとなしいスタイルのクルマだが、とてつもないエンジンを積んでいて、日本グランプリでもそうとう優秀な成績だったはずである。だから、意味的には、ボロは着てても心は錦、みたいな意味で使ったのだった、と記憶している。
10)なにはともあれ、義務教育を終えて、社会にでていく私たちを、矛盾にみちた、騒々しい現代社会がむかえようとしていた。そんな1969年の春だった。
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