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2012/10/17

めずらしく社会派?作品ではあるが・・・ 石川裕人作・演出『小銃と味噌汁』 現代浮世草子集 第二話 "OCT/PASS"

19950715_syoujyuu
『小銃と味噌汁』 現代浮世草子集 第二話 "OCT/PASS"
石川裕人・作・演出 1995/06~07 “OCT/PASS” STUDIO(宮城県) 上演台本79PVol.3 石川裕人年表
No.0818★★★☆☆

1)小銃は戦争体験した山窩の人々やNPOで平和維持軍で派遣されようとしている若者、味噌汁はそのアンチテーゼとしての東北の山奥を象徴している。この作者にしては「めずらしく」社会派のイメージがある。

2)しかし、この作品には「現代浮世草子集 第二話」というサブタイトルが与えられており、いつどういう形で第一話がはじまり、何話まで続いて、何話で、どのように終わったのか、全体像を知ってから、もう一度、その位置づけを知る必要がある。

3)この後に第三話「教祖のオウム 金糸雀のマスク」が位置していることを考えると、1995年という年を、作者がどのように体験していたのか、興味深いものがある。

4)1995年は、1月の阪神淡路大震災があり、3月以降は「麻原集団事件」が社会問題となり、12月にはパソコンOSウィンドウズ95が発売された年だった。私たちの人生の中でも、極めて特異な年代のひとつである。

5)今回、3・11にするどく反応した作者であったが、おなじ震災でも、阪神淡路には、即反応したのではなかったのかもしれない。あるいは、劇作という、上演するまでにタイムラグがある文芸であってみれば、その反応を示すのはしばらく時間がかかったのかもしれない。

6)私といえば、すでに80年代以降、語りきれないものは語らない、という寡黙路線を走り始めていたので、自らが表現したものはほとんどない。90年代以降多少は再開したが、すぐに中止したので、対比するようなものは何もない。表現者の表現だけをあげつらって、自らの姿を現さないのは、多少ひきょうな気もするが、まぁ、ここは作者の全体像を知る上でも、多少辛口になったとしても、今読んでみるところの印象は印象として残しておかなければならない。

7)この台本が、最終的にどのように変化して上演されたのかは、今のところ定かではないが、この台本を読む限り、この段階では、作者はもっと社会の現場にいて、私自身はむしろ、ずっと奥に引っ込んでいたように思う。

8)昨晩「ノーチラス」の台本の巻頭言を読んでから、いろいろ考えた。「百本の嘘を書いた」劇作家の「弔辞」はあれでよかっただろうか。私は私なりに「真実」を語ろうと思った。そして、85歳を超えられた彼のお母さんにもわかるように書き、話そうと思った。結果として、所詮、小中学校の新聞部が書くような「ニュース」にしかならなかった。

9)それでも私は私なりに、その大役をつとめ終えたことにホッとしている。他にももっとふさわしい人がいるはずなのだが、私にその任が割り振られたとすれば、それはそれでお受けする以外にない。

10)しかるに、「真実」を報道することを自認する「アマチュア・ジャーナリズム」の弔辞は、その第一行から、実はこの人物の「嘘」に巻き込まれていたのではなかっただろうか。

11)彼はいつの頃からか、自分を「山形県東根市」出身と書いている。私の記憶によれば、30歳前後になってからだと思う。それまでは、私にとっては、彼は「宮城県出身」であることは明白だった。彼がそう言い出すにはそれなりの「演出」があったはずだ。

12)私が第一行で、「山形県に生を受け」と言った時、彼のお母さんはどう思ったことだろう。私は「出身」とは言わなかった。お母さんは実家のある東根にお里帰りして彼を出産したのだから、間違いではあるまい。しかし、その時、「山形」を強調することに、どんな意味があるだろう、と思ったに違いない。

13)そういう目で見始めれば、あの読んで10分あまりの「弔辞」にはたくさんの「嘘」が含まれている。「ニュートン」というニックネームにしても、「嘘」と「ホント」の狭間にある。「いしかわ邑人」や「石川裕人」というペンネームの由来にしても、さらに検証していけば、「嘘」と「ホント」の狭間に揺れ続けることになる。

14)そもそも人の人生など、10分で語れるはずがない。敢えてダイジェストのダイジェストを作ればそうなるよ、ということで、「真実」を描くことなど、ほぼ不可能だ。

15)かくいう私はペンネームを持ったことがない。ないとは言えないが、いつも「本名」で書いていた。しかし、ある時から私はSwami Prem Bhaveshという名前になった。例えていえば、彼が「演雅一道居士」という名前になったことと符合する。

16)一期は夢よ、ただ狂え、と誰かが言った。方丈記でも「よどみにうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」とある。

17)そもそもが、この人生そのものが「虚構」なのである。「嘘」というのが嫌なら、「夢」と言い変えよう。所詮は、生きていること自体が演技なのである。そこに「真理」はない。

18)だが、人は、この人生こそが唯一で絶対だ、と思ってしまうために、執着を持ち、苦悩する。そこをどう生きるのか。彼は「嘘を書いて」、「劇」にすることによって、客観視することを試みた。

19)所詮、この人生が「演劇」ならば、その役になりきって「演じきる」ことにすればいい。だが、本当の自分はそこにいない。本当の自分は、どこにいる。

20)「演劇」性と「瞑想」性を、もうすこし付き合わせて見る必要があるようだ。

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