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2012/10/23

劇作家・石川裕人・年表(私家版)

<2>からつづく 

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「方丈の海」 <3>
石川裕人 TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.34 2012/08~09上演 せんだい演劇工房10-BOX box1 上演台本 152p

劇作家・石川裕人・年表(私家版) 工事中

(ブログ「石川裕人百本勝負」等を中心に編集加筆・訂正中。乞う新情報!)

1953/09/21 石川秀一(大正12生)・マサ(昭和3生)夫妻の長男として誕生。本籍は宮城県だが、母が実家のある山形県東根市に里帰り出産したので、成人して演劇活動を開始してから、山形県東根市出身を名乗るようになった。

1955頃  宮城県塩釜市出身の父親の務め(自衛隊)の転勤により、宮城県矢本町(2~3歳の頃)、仙台空港のある名取市下増田周辺、などに住まいを移しながら、名取市箱塚住宅に入居する。母親の背中におんぶされている時から、買ってくれとせがむのは本ばっかりだったという。背中におんぶされたまま本にかじりついていた。

1956/09(3歳) 3歳下の妹が誕生、二人兄妹。

1960/04(7歳)宮城県名取市立増田小学校に入学。当時、幼稚園の数も少なく、幼稚園には通っていない。箱塚住宅の子供たちとのびのびと幼少時代をすごした。

1962/11(9歳)小学3年 学芸会で主役を演じる。友達からはニックネームでニュートンと呼ばれ、いつも仲間たちの中心にいた。

1963/04(10歳) 小学4年 山形大学教育学部新卒の越前千恵子先生が担任となる。彼女の指導で「シナリオライター」という言葉を知り、脚本家、劇作家、という具体的な夢を描いていくことになる。11月、学芸会で劇「孫悟空」の主役をつとめる。

1966/04(12歳)名取市立増田中学校に入学。野球部に入部するが運動が得意ではないのでマネージャーを務める。中学時代、学級新聞「1+1=3」などを編集するかたわら、「ボーイズ・ファイター」や「UFO」といった肉筆誌を連発する。

1969/03(15歳)増田中学校を卒業するも、高校受験に成功せずに一年間の浪人(自称傘張り)生活をおくる。当時は、成績のよい子は一発勝負で、私立高などの滑り止めを受けない風潮があった。ベビーブームの影響もあり、高校は狭き門だった。中卒で就職していった同級生も多数いた。

1970/04 (16歳) 宮城県名取高校に入学。演劇部に入部するが満足せず。

1970/11       黒テント公演を仙台市西公園で観賞。感激する。

1971/01(17歳)   状況劇場仙台公演を鑑賞。翌日、演劇部を退部。唐十郎に生涯、演劇の師として私淑する。

1971/10       高校文化祭で中学校からの同級生K(のちの元木たけし)と「演劇場座敷童子」を立ち上げ、長編処女戯曲「死神が背中を触った」を公演する。会場は学校内の階段の踊り場だった。ペンネーム・いしかわ邑。

1972/(18歳) 東京キッドブラザーズの映画上演を企画し、ゲストに呼んだ寺山修司、東由多加と会食。

1972/10       同じ高校文化祭で自主団体として第2作目 「秘密のアッコちゃん 凶状旅編」を公演する。    

1973/04 (19歳)  高校卒業後、仙台市に友人たちが開始していた共同生活「雀の森」に参加する。のちに仙台市緑が丘の共同生活「サザンハウス」を創設する。

1973/12(20歳)国際ユネスコ会館3Fで第3作目「治療」公演。実質的な有料チケットを販売する劇団公演が始まった。

1974/     (21歳)仙台市民会館小ホールで第4作「顔無獅子(ライオン)は天にて吠えよ!」 公演。まだまだ実験的な試行がつづく。

1975/01(22歳)メンバーが入れ替わり劇団名を「ラジカルシアター座敷童子」と改称し、第5作「夏の日の恋・贋作 愛と誠」を東北大学川内キャンパスで上演予定するも、許可が出ず、仙台市原町の喫茶店「原っぱ」で公演。

1976/      劇団名を「洪洋社」と変更する。

1976/04(23歳) 公演戯曲6本目「月は満月 バンパイア異聞」を仙台白鳥ホールで公演。仙台市向山に稽古場を作る。5坪ほどの小さな店舗跡だった。

1976/       稽古場兼劇場をテアトル・デ・ムール(風俗劇場)と名付け、稽古場を会場として7本目「失われた都市の伝説・廃都伝序」を12ステージのロングラン公演する。

1976/      東北大学祭からの招待で「異貌の天使の憑肉(つきにく)」歌謡ショーをテント公演する。

1976/11     8本目「愛情劇場・白痴の青春十字路篇を仙台定禅寺通にある演劇工房アトリエで公演。宮城県芸術年鑑に掲載されるようになる。

1977/    (24歳)9本目「美少女伝」10本目「かげろう夜想」11本目「紅蓮妖乱」を執筆するも団員が合議にいたらず、公演しなかった。 劇団洪洋社としては「ビギン・ザ・バック」自安降魔可魔・作演出)を公演するも、担当は役者と音楽などだった。

1978/06(25歳)  劇団としての内部統制がとれないところに宮城県沖地震が発生。稽古場を閉鎖し、劇団も解散した。芝居を一切観ないやらない関係も持たない日々が始まり、就職することを考えた。長い沈黙(のちに三年間といっている)が続く。

1979/頃  宮城県泉市(現・仙台市泉区)の(株)神田食品に正社員として入社。漬物工場の工場長などを務める。

1980/     (27歳)元洪洋社メンバーが参加する劇団「IQ150」が市内で旗揚げ人気となり、刺戟を受ける。

1981/10(28歳)元洪洋社を中心とした10人のメンバーと 「十月劇場」を立ち上げる。神田食品の倉庫2階(現・仙台市泉区)が稽古場だった。芝居を趣味と位置付け、年一年の公演ペースを想定する。12本目の「流星」公演。ペンネームを石川邑人に変更する。

1982/   (29歳)13本目「ねむれ巴里」をデパートの企画モノとして公演。

1983/   (30歳)14本目「ねむれ巴里」改訂版を八戸市で開催された「東北演劇祭」にて公演。参加していた他の劇団との全国ネットワークが広がる。

1984/   (31歳)15本目「ぼくらは浅き夢みし非情の大河を渡るそよ風のように」を小畑二郎プロデュース公演。16本目「嘆きのセイレーン・人魚綺譚 」は「水の三部作」の第1弾だった。当時の稽古場は勤務先の食品会社工場2階倉庫だった。

1984/       盛岡市で開催された第二回「東北演劇祭」に参加し「嘆きのセイレーン・人魚綺譚 」を公演、好評を得る。

1984/冬  仙台市本町にあるビル4階にアトリエ劇場を開設。

1985/02(32歳)17本目の「じ・えるそみーな」

1985/05      札幌で18本目「翔人綺想」公演。ペンネームを石川邑人から石川裕人に変更する。やっと自分の作品に自信を持ち始めた、とは本人の述懐。

1985/       19本目「十月/マクベス」

1986/05(33歳)20本目「水都眩想」。風の旅団からテントを借りて仙台、盛岡、八戸、山形県寒河江と大作テント芝居だった。全国紙でも取り上げられ「十月劇場」全国区への足がかりとなった。評論家から岸田戯曲賞に推薦する声もあった。

1986/12     21本目の「モアレ・場末名画座の人々」上演

1987/(34歳)22本目「ラプソディー」 小畑二郎プロデュース公演。

1987/     23本目「虹の彼方に」水の物語三部作最終篇。<銀猫テント>での旅公演で仙台→早池峰(ハヤチネフェスティバル)→福島→山形→盛岡を約3週間かけてまわった。

1987/    24本目「笑いてえ笑」小畑二郎氏と当時仙台で活躍していたタレント・今田青春氏のコント・コラボレーション。

1988/(35歳) 25本目「マクベス」

1988/  26本目「又三郎」。2ヶ月半の旅公演で劇団の強力な団結力を培った。この頃からワープロを導入。執筆速度があがる。

1989/(36歳) 27本目「ラストショー」。28本目「劇団喜劇城」ご祝儀書き下ろし「コメディアンを撃つな!!」。29本目「ラストショー改訂テント版」。30本目「三島由紀夫/近代能楽集・集」。31本目「じ・えるそみーな・~フェリーニへ~」、32本目「モアレ・~映画と気晴らし~」。初めて年間6本の演劇を執筆。

1989/10/28  絵永けいと入籍

1990/(37歳)33本目「斎理夜想」丸森町のイベント芝居のための戯曲。松島トモ子が出演。十月劇場活動を休止する。34本目「あでいいんざらいふ」は石川裕人事務所公演。

1991/(38歳)「十月劇場」解散の噂でるも2年ぶりに35本目三部作「時の葦舟」The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」。テント公演。

1992/03(39歳) 平成3年度宮城県芸術選奨新人賞受賞

1992/ 36本目「隣の人々 静かな駅」石川裕人事務所プロデュース公演。

1992/(39歳) 稽古場を定禅寺から市内河原町に移す。新稽古場柿落とし公演作37本目「ラブレターズ●緘書●世界(あなた)の涯へ」

1993/(40歳) 38本目「三部作 時の葦舟第2巻 無窮のアリア」。稽古入りから打ち上げまでの5ヶ月を「河北新報」が全23回連載。

1994/  (41歳) 39本目「演劇に愛をこめて あの書割りの町」。40本目「月の音 フェリーニさん、おやすみなさい」。41本目「スターマンの憂鬱ー地球人類学入門ー」。42本目「三部作時の葦舟第3巻 さすらいの夏休み」。十月劇場解散を決意する。43本目「月の音ー月蝕探偵現るー」。ついに発展的解散を宣言。

1995/  (42歳)TheatreGroup"OCT/PASS"旗揚げ第1作、44本目「素晴らしい日曜日」 。全27ステージ。45本目「小銃と味噌汁」現代浮世草紙集第二話も1ヶ月全20ステージ。46本目「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集第三話。

1996/(43歳) 47本目「犬の生活」現代浮世草紙集第四話。48本目「大難破」。49本目「百年劇場」仙台座幻想。50本目「見える幽霊」PlayKENJI♯1。51本目「ロード・テアトル そして、さい涯」。52本目「転校生」。53本目「1997年のマルタ」現代浮世草紙集第五話。

1997/03(44歳)平成8年度宮城県芸術選奨受賞。

1997/   54本目「カプカプ」 PlayKenji♯2。55本目「明日また遊ぼう」 56本目「アポリアの犬」ーいじめの時代のわたしたちへ。

1998/  (45歳)57本目「むかし、海のそばで」。58本目「FOOL TRAIN」。59本目「SI★MI」~小さき生き物たちの伝説~。60本目「周辺事態の卍固め」

1998/12     取材のため、香港、ハワイへ、初の海外旅行。

1999/  (46歳)61本目「超サムライ 玉蟲左太夫」。62本目「キセルと銀河」を劇作60本突破記念公演。63本目「夜を、散る」現代浮世草紙集第六話。64本目「山猿の子」~さよなら20世紀。65本目「つれづれ叛乱物語」。66本目「ぼくが発見した町と町に発見されたわたし」

2000/  (47歳)67本目「又三郎 20世紀最終版」 。68本目「しーんかーんミステリー」~誰かが僕らを夢見てる~。

2001/  (48歳)69本目祖母からみれば 僕たちは 荒れ果てたさかしまの夜にうち捨てられた野良犬の骨のようだ」70本目「遺棄の構造」。71本目「FOOL TRAIN」~阿呆列車第2便~。72本目「わからないこと」~戯曲短篇集~。73本目「ナイトランド」~夜を呼吸する妖怪たちの物語~。

2002/  (49歳)74本目「祖母からみれば 僕たちは 荒れ果てたさかしまの夜に うち捨てられた野良犬の骨のようだ」NewVersion。75本目「ほんとうの探し物」~目覚めなさい、サトリ~。76本目「翔人綺想2002」。”OCT/PASS"スタジオのクロージング公演」。77本目「この世の花 天涯の珊瑚」。78本目「本の中の静かな海」SHI★MI。ノートPCを購入し、いつどこでも書けるような体勢にした。

2003/  (50歳)79本目「阿房病棟」。80本目「アンダーグラウンド・ジャパン」。81本目「この世の花 天涯の珊瑚」改訂版。82本目「THE RIVER STORY」

2004/  (51歳)83本目「センダードの広場」PlayKENJI♯3仙台文学館篇。84本目「大福の孤独」。85本目「銀河のレクイエム」

2005/(52歳) 86本目「オーウェルによろしく」~アンダーグラウンド・ジャパン続~。87本目「修羅ニモマケズ」 PlayKenji♯4。88本目「眠りの街の翼」

2006/  (53歳)89本目「カオス・クラッシュ この国の涯」。90本目「遊びの天才 遊びの国へ行く」。91本目「ザウエル」~犬の銀河 星下の一群~PlayKenji♯5。    

2006/     NHKオーディオドラマ奨励賞受賞

2006/08   「石川裕人劇作日記 時々好調」スタート ~2012/09

2007/04(54歳) 肝細胞ガンのために入院手術。

2007/8    92本目「バビロン バタフライ バーレスク」。93本目「少年少女図鑑」~僕たちは理科室から旅に出る~。

2008/  (55歳)94本目「少年の腕」ーBoys Be Umbrellaー。95本目「アズナートの森」。岩手・宮城内陸地震に材をとって書かれた。奥羽山脈の麓に生きる私たち東北人のアイデンティティを誇る戯曲。96本目「100万回もオルフェ」

2009/  (56歳)97本目「宇宙大作戦」~グスコーブドリ・ミッション~。98本目「A TREE」~夢をつなぐ大いなる樹木の物語~。99本目「絞首台の上の馬鹿」~死刑をめぐるブラックコメディ~。

2010/  (57歳)100本目「ノーチラス」~我らが深き水底の蒼穹~。  

2010/11        脚本集「時の葦舟」 出版

2011/02(58歳)101本目「風来~風喰らい 人さらい~」 精華演劇祭 2010 SPRING/SUMMER 参加

2011/03/11   東日本大震災に大衝撃を受ける。

2011/08   102本目「人や銀河や修羅や海胆は」PlayKenji♯6、被災地の被災地など11か所で公演。

2012/08(59歳)103本目「方丈の海」上演。 遺作となる。 

2012/10/11 肝細胞癌により逝去。満59歳1カ月。

2012/10/14  通夜法要。訃報に驚いた関係者が全国からかけつけ、故人をしのんだ。

2012/10/15 仙台市太白区ファミーユたいはくにて葬儀。享年60歳。法名 演雅一道居士。 菩提寺は自宅に近い宮城県名取市・吉祥寺(曹洞宗)。

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これはあくまで書きかけの私家版です。誰か志のある人は、ウィキペディア上などで、もっと整理加筆していただくとありがたい。

<4>につづく

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コメント

「夏の日の恋」の「原っぱ」での公演写真をアップしました。貴重な時代の記録です。http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post.html

投稿: Bhavesh | 2012/10/26 08:18

丹野祐一クン
情報どうもありがとう。ニュートンの書き込みにもそれらしきものがあり、訂正しておきました。他の部分のチェックもよろしく。
葬儀のさいは、あわただしくてゆっくり話せなかったのですが、とてもなつかしかったです。
洪洋社時代は、なかなかキモですね。おっかけてみると面白い。

投稿: Bhavesh | 2012/10/24 00:54

劇団名を洪洋社に変更したのは,「夏の日の恋」の後だと思う。「月は満月」は,洪洋社で公演を行ったはず。
誰かに聞いてみて。 丹野

1975/ (22歳) メンバーが入れ替わり劇団名を「ラジカルシアター座敷童子」と改称し、第5作「夏の日の恋・贋作 愛と誠」を東北大学川内キャンパスで上演予定するも、許可が出ず、仙台市原町の喫茶店「原っぱ」で公演。

1976/ (23歳) 公演戯曲6本目「月は満月」を仙台白鳥ホールで公演。仙台市向山に稽古場を作る。5坪ほどの小さな店舗跡だった。


投稿: 丹野祐一 | 2012/10/23 20:34

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