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2012/10/23

『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<1>

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「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」<1>
石川裕人ブログ 石川裕人年表
Vol.3 No.0829

1)いつ頃からか、たぶん一年ほど前からこのブログには気がついていたのだが、なんだか気恥ずかしくて、読み進めることができなかった。いや、読み始めては見たのだが、自分が関わっている、最初の最初の頃から、いろいろな想いが去来して、同じところを読むだけで、まったく進行しなかった。

2)今回、同級会へ提出するためのパンフレット「ニュートン 劇作家・石川裕人の足あと」(仮題)をつくろうと思い立ち、なにはともあれ、その百本とやらの歴史を振り返ってみた。実に長い長い人生で、彼は3人分も4人分もの人生を生きたのではないか、と思う。

3)それでも、このブログを読んでいて、気になった点がいくつかあったので、アトランダムに上げておく。

4)いわゆるユートピア構想で彼らは「桜んぼユートピア」と名乗っていた。鳥取県の私都村(きさいちむら)の土地を買い取り一坪100円で一般の人たちに売っていた。何を隠そうその第1号地主が私である。(第二回 承前その弐)

5)となっているが、東京キッドブラザーズの「桜んぼユートピア」と「私都村(きさいちむら)」は、まったく別物。「桜んぼ」の発起人には、漫画家のやなせたかし、などもかかわっていたが、ほんの数年で霧消した。「私都村」は農家の廃屋を改修したもので、鳥取県生まれの医師・徳永進などが中心となって、今でも存続しているはず。1972年夏に、この二つのスペースを私は訪れた。ふたつのスペースの間にはまったく交流はなかったはず。この時、元木たけしは「桜んぼ」にいた。

6)そして原町の「原っぱ」という当時の情報発信系の喫茶店が上演を受け入れてくれた。(中略)公演を何日やったのかその1日だけで終わったのかももはや記憶の彼方になっているが、観客の中に二人の女子大生がいて、彼女たちが翌年に旗揚げする「劇団洪洋社」のメンバーになり、そのうちの一人が後の絵永けいであり、私の妻になろうなどとは夢にも考えていなかった。(第四回 劇団洪洋社)

7)1975年のこの公演のことを、葬儀の後に絵永けいさんご本人に確認したが、本人は「原っぱ」のことは知らない、という。記憶が消えてしまったのかもしれないが、タイミングとしては、やはり、もうすこし後なのかな、と思う。

8)新稽古場を持ち、張りきっていたことがわかる。しかし、この3本は上演されなかった。劇団員の中に一人どういうわけか反対する人間がいた。ほぼ旗揚げメンバーである。当時は合議制で上演作を決定していたから一人の反対者が出れば上演できなかった。改訂するより新作を書いた方が楽だったので次々と書いてはダメ出しをされるうちにプライベートなことで軋轢が起こった。心身ともに疲弊してきていたが、劇団の代表としてやる気は満々だった。新稽古場での初公演は他のメンバーのオリジナルで私は役者と作曲に専念した。しかし、それは空元気でもあった。(第五回 地下に潜る)

9)こんなことがあったのか、としみじみ思う。ニュートンは、劇団名をたびたび変えたので、ある種「もったいないなぁ」と思っていたのだが、こういう経緯があったんだね。

10)仙台は劇団IQ150が’80年に旗揚げし人気急上昇中だった。この中心メンバーには洪洋社解散時に在籍していた茅根利安氏がいる。彼は洪洋社を反面教師にした。(第六回 「十月劇場」旗揚げ)

11)へぇ~、こういうことがあったのか。初めて知る。1981年頃から仙台の演劇界は活況を呈し始めたと表現されることがあるが、こういうことがあったんだな。よきライバル関係ととらえておいて、まずはいいのだろう。

12)そして私は劇評家・衛紀生氏に妙に気に入られ「水都眩想」で岸田戯曲賞を取ろうと言われた。そのためには演劇雑誌に戯曲を載せなければならないから改訂しろということだった。最近引っ越し荷物の中から手紙の山が見つかった。その中に衛氏のものもあり、「新劇」と「テアトロ」の編集長に話を付けてあるから早く改訂戯曲を私に送りなさい旨の手紙だった。なぜか私はこの話に乗らなかった。生意気だったのである。書き終えたものはそこで終わるというのが私の流儀だった。だから長年再演することをしなかった。それより衛氏の顔をつぶしてしまったわけでもある。しかし、この時もし間違って岸田戯曲賞などとっていたら私の人生は変わっていただろうか。(第七回 人生は変わっていただろうか?)

13)86年頃のことである。私はそもそも岸田戯曲賞のなんたるかをしらないし、意味も、価値も知らない。(もちろん、受賞してテレビなどでタレントみたいに活動している演出家たちは知っている)。どっちでもよかったんではない、と一応は思う。

14)しかし、86年と言えば、同級生の私たちは子供を抱え、マイホームを考え、日常の仕事に縛られ、演劇など頭からはずさなければならなかった時代である。彼ら夫妻には子供はいなかったが、同じにつきあっていくなら、自由業の彼にとっては、受賞歴は大きな勲章になったことは間違いない。生活ももっと楽にはなっただろう。

15)それを結局は拒否したのだから、それはそれで、彼なりの矜持があったのだろう。あえて「無冠」の道を選ぶ彼の清々しい人格を思い出させる。宮沢や寺山をはじめ、無冠の天才は多くいる。

16)劇評家・衛紀生氏の名前は、石川裕人の通夜の日に、狭い会場にあふれんばかりに並んだ献花のひとつにこの名前があったので、初めて知った。

17)私は全然結びつかなかったのだが、通夜が始まる2時間前ほどに早々と式場に到着した弔問客がいた。やや小柄ながら、太い縁の眼鏡をかけたレインコートを着て、四角い大きなアタッシュケースを下げた、ちょっと太めの男性である。年齢は、50代~70代くらいか。やや正体不明な感じ。髪の量はふさふさとして多いが、ひょっとするとカツラかもしれない。

18)会場係としていた私は、まだがらんとしていた会場をうろうろといったりきたりしている、その男性に、声をかけた。「棺の中にはまだ彼がいますから、顔をみてやってください。いい顔してますよ。」

19)彼は答えた。「私はニュートンのこと大好きでしたから、ニュートンの死顔など、見たくありません。これからやってもらいたいことが山ほどあったのに。くやしい。」と下を向いた。大きな底が厚い皮靴で、床をふんづけたようにさえ、私には見えた。

20)ずっと立っているので、近くの椅子に腰かけるよう勧めたが、一切、座らなかった。

21)焼香を終え、人ごみをかき分けて、早めに出入り口に現れたその男性に、これから「通夜ぶるまいがあるから、お残りください」と勧めたが、いやタクシーを待たせてあるから、と断られた。「飛行機の時間があるので」。なるほど、と思い、それ以上は勧めなかった。

22)ところが、出口をでたところで、5~6人の劇団関係者たちにつかまってしまい、立ち話が始まった。それから30分もそこにいただろう。ひょっとすると、彼は飛行機に乗り遅れたんじゃないだろうか。

23)出入り口を整理しながら、何度かすれちがったので、何の確証のないまま私は直観で「衛先生ですよね」と問いかけてみた。「そうです」とおっしゃった。この人が劇評家・衛紀生氏だった。

24)そして私の代表作のひとつ26本目「又三郎」である。戯曲執筆にしても公演自体としても思いで深いこの1作からワープロを導入した。(第八回 ワープロで書き始める。)

25)88年の頃である。彼はもうすこし前から宮沢賢治をモチーフにしていたと思うが、そうでもないようだった。後段で、彼は「宮沢賢治を書くときはネタ切れの時だと思ってもらって構わない」とか書いていた。それじゃぁオクトパスでの「プレイ賢治」シリーズはなんなのだろう、と素直に思う。要検証。

26)それにしても、テント公演もずいぶんおこなっている。私は、県外まで彼の演劇をおっかけたことはないけれど、ほんとに御苦労なことだった。経済的にもひっ迫する理由がわかる。

27)「十月劇場」解散の噂は噂にしか過ぎず、’91年2年ぶりにテント芝居をやることになる。35本目三部作時の葦舟・The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」(第十回 アトリエ劇場引っ越し。)

28)それにしても不思議だと思う。100本のシナリオを書いたという石川裕人。100本突破記念に出された記念脚本集は、この35本目あたりの「時の葦舟」三部作であった。彼は「十月劇場」で燃え尽きてしまったのか。

29)もしそうだとしたら、その「十月劇場」を越えようとして名付けられた劇団「オクトパス」は、どこまで進んでいたのだろうか。その後、50作以上をものにしながら、「時の葦舟」を超えることはついになかったのか。

30)あの三部作は、あまり彼のよい観客じゃない私も三部とも仙台で見ている。たしかにスケールがおっきくて、若さがあった。みんな若かった。だが・・・・・

31)私は今、石川裕人を(1)座敷童子、(2)洪洋社、(3)十月劇場、(4)オクトパス、の4つの時代に区切って、起承転結、としてまとめて理解しようとしている。(2)の洪洋社時代は、情報のボリュームが少なく、ましてや休筆時代も含んでいるので、飛ばすことも可能だが、彼の人間性、葛藤を見ようとすれば、絶対はずせない時期である。

32)(3)十月劇場は彼の名前を定着した時代である。だがしかし、彼はその十月を「パス」しようとした。越えようとした。

33)(4)オクトパス時代とは、彼にとって何だったのか。単に起承転結の「結」としてしまっていいのか。それにしても、長い長い、20年にも渡る「結」ではないか。

34)山元町の被災地で「人や銀河や修羅や海胆は」を見た時、私はその「結」をさらにこえようとしている石川裕人がそこにいた、と感じる。

<2>につづく

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