21歳の石川裕人は何を想っていたのか いしかわ邑『化粧の季節』
「時空間」8号
時空間編集局 1974/10 ミニコミ雑誌 p164 表紙デザイン/阿部清孝 石川裕人年表
Vol.3 No.0824★★★★☆
1)石川裕人の足跡には膨大な資料が残されている。いずれひと連なりのものとして俯瞰される時もくるだろうが、まずは手元に残っていて、でてきたものから、整理準備のために提出しておく必要がある。
2)私の手元にあるものは、彼の人生の中のごく一部でしかない。だが、それでも、彼とともにいて、それを再確認する意味を痛感する私は、私は私なりにできるところから始めていこうと思う。
3)これは1972~1975年の4年間に作られたミニコミ誌である。だが、ミニコミ誌とあなどるなかれ。そのネットワークは全国に及んでいたのである。発行部数およそ600部(号により増減あり)、ほぼ完売となった「伝説」のシリーズである。(蛇足だが、表紙は相変わらず、私がデザインし、シルクスクリーンで印刷している。)
4)この全12巻のミニコミの中には、いしかわ邑の短文がいくつか残されている。演劇脚本は、いずれ役者たちによって「解体」され、「舞台」(とはかぎらないが)の上で再構築されることを前提として書かれているので、もともとが未完成である(と彼は繰り返し述べている)。
5)しかし、雑誌の中に文章として掲載された限りは、それは修正できない「決定稿」であり、あとから言い逃れができない重さがある。それを意識しているだろう「劇作家」のこの文章に、彼は、演劇脚本とはまたちがったリアリズムを持って、立ち向かっているはずである。
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「化粧の季節」 演劇場座敷童子 いしかわ邑
俺らの回りにはらまれているはずの肉体とはらまれているはずの時空は、あるいは悶絶しようとしているのかもしれない。たかが内時空にからめとられてしまうことには何の恐れも持ちはしないが、外時空によってからめとられて、内空が外心力を失速してしまった時が恐いのだ。
あらゆるはらまれてしまっている時空間を一掃してしまうことはできないにしても、時空を我が時空としてしまうことはできるだろう。
いま肉体は狭い路地をつきぬけてゆくのだが、その路地は真夏の太陽にじりじりと焼き焦がされて両脇の塀のタールが不気味に褐色の脱色症状をおこなおうとしていたのだ。その時、我が身は全身総毛立つ程の恐怖を覚えてしまおうとする。出口があるのだ。そこにこんなはずはないのだ。こんな簡単に出口は見つかるはずはないのだ。そして俺は再び、全身タールの中で窒息しそうになりながら、迷宮へ進軍していくのだった。
肉体が全身全霊をかけて打ちこむとはこういうことなのかもしれない。
柄にもないことが口をついて出てしまった。しかし、いま何故、人間は自分の肉体を肉体化してしまわないのか? 君にも覚えはあるはずだ。得もいわれぬ疼きが肉体を戦慄として走っていくことを。俺の疼きは真夏の街頭へ向けられた。
△街頭へ△
七夕祭りだという。街は。暗いまつりの低揚感が我が身をさいなんだ。まつりの前の高揚感とか、まつりの真最中の猥せつ感とか、まつりの後の殺伐さとか、全ての要素をはぎとられ、それでも人は一番丁へと肉体を浮遊させもっていく。それは俺にとって強烈な畏れだったのだ。まつりはまつりという言葉の上で自壊作用を起こす。肉体はまつりへあづけることをしない。狂乱のまつりとはなりえない。顔のない歩行者が肉体を空洞化させた上、空洞化されていることに一種あせりを感じながら流される。不思議なのだ。実に。あれだけ整然と規格されて流されても、そのあせりが不満となり自分らで騒ぎ出すということをしない。清浄感が伴うのだそうだ。気持ちのいい、ああいい、ああいい。だって?
俺ら「劇団座敷童子」数名は、街頭へ出た。街は相変わらず、性器が魚になっていた。
俺の回りをとり巻く人・ひと・ヒト。俺らのその彼方にタールの原野を見たのだっただろうか。自己の内へ内へのめり込んでいくという作風をとったにもかかわらず、彼ら顔のない歩行者は陥没をつくられてしまったのだ。彼らの肉体を一種の風が吹き抜けていったのだ。
△虚視の街を視擊していく△
話は飛ぶけれども、俺が高校生のときに「新宿はみだし劇場」の外波山文明他一行を田舎の駅の前で見た時、愕然としてしまったことを覚えている。彼らは芝居をやっているのではなかった。ただ駅の前にトラックを止めて日向ぼっこをしている風景だったのだ。俺は狂って、彼らに近付いていき外波山と二言・三言話し、チラとシートのかかっている荷台を見た。するとそこに俺は見てはならぬものを見てしまったのだ。トラックの中には家財道具が置かれてあったのだ。俺の脳天から風が脊髄を貫ぬいて広野原?へ吹き抜けていった。ショックだった。
日常生活者の俺と彼らの日常がぶつかり合って、こっちの日常に陥没をこさえられてしまったのだ。
それと同じことが、七夕で賑わう街頭でおこっていた。
俺らの演劇感性だけでも日常化しようとするベクトルが、歩行者の空洞化している日常とある時は激しく、ある時はやさしくぶつかり合った。それはスリリングであった。スリリングな快楽が横滑りしていく状態で俺らは動めきつづけた。人が歩く街はいまや街ではなく機能論的な処でしかなくなっているのだ。----あんたらがいま視ている街はこんなはずじゃなかったよ。街を吹き抜けてゆく風は黒く淀んでいて、それはあんたらも一緒になって作ってきたんじゃないか。
あるいは演劇という虚構の現実を虚構の街へぶつけた時に、相乗作用でどんどん隠れていた、又は隠されていたものが、膿のようにドロドロにじみ出てくるのだった。
虚構だから現実なのか、現実だから虚構を孕んでいるのか。しかし、個々の肉体のあがきをも内包せし得ない街など、虚構とか現実とかいう言葉を吐くのも、もったいない。
街を知らさしめる為、そして肉体のありかを知らさしめる為には、虚構空間を俺らの手で組み変え、さらけ出さねばならない。
この街のこの肉体が、こんな動めきをしていることこそ虚構の風ではないのか。そこからの現実を視擊していくということだ。
△反演劇的肉体の彼方に△
舞台で、街で、要するに芝居の場というところで、例えば俺にとって芝居の現場であるところのものなんぞあまり関係はない。稽古場でだけ、あるいは公演の舞台でだけ、日々の抑圧から自己を露出できる回路というのは、演劇といううもののもつ効力を密室に閉じ込めてしまうのではないか? 人間ひとりひとりが演劇的肉体をもっているということを引き出すことがこの世の中を変えていく、ひとつの感性動作であると俺は今でもそう思っているから、こんなことが言えるのだけれども。
Aという人間が、稽古場だけ跳ねて、日常的には全然跳ねないという構造は、抑圧の棲み家である日常という時間にからめ取られている姿のもろ出しではないのか。てめえのひっかかえている問題を稽古場にもち込み、そこから日常へ----。というベクトルが出てくる訳だ。日常までもおもしろくしていこうという雑多な空間と肉体露出こそ、演劇というメディアの効力なのだと思う。これはもう演劇というより反演劇というのかもしれん。いままでずっと演劇というジャンルの中でだけ進められてきた作業とは何だったのか? 既成演劇が深化するとは拡大を相対的には生みやしない。演劇の可能性なぞ信じない。(あや、えらいことを云っちまった。))俺は俺の肉体の可能性を感じるのだ。反演劇的肉体に可能性を信じるのだ。さて、そこでだ。
△俺にとって集団を組むとは何か△
芝居の集団とは、おもしろくも、儚くも、一抹の泡なのだよなあ。人間はひとりなのだよ結局。という淋しい言葉がある。そうなのだ。しかし俺はちっとも淋しくなんかない。ひとりでも跳ねれる為に、生きれる為に、集団の中で身をさらけ出していくのだ。これはかなりきつい。芝居は集団でやるのだ。なんて最初から思っている奴は自分の肉体の中に吹く風がどこに吹いていくのかわからん奴よ。いや、風が吹いていることさえ、わからんのじゃないだろうか。
ひとり芝居がやれれば、それにこしたことはないのだ。てめえの風を、てめえで受けとめてめえ自身の風に乗っていくということこそ露出なのだから。内時空と外時空の幅を縮めていくことだからだ。
ところが最終的に一人でやることが俺の目標であっても、いま俺は一人ではできない。集団の感性のぶつかり合いが自分のパターンを捉え直すことにつながるからだ。
例えば言葉とは生き物だということがマザマザとわかる。たった一箇所のイントネーションが違っても俺は対応の仕方を迷ってしまう。突出化していく劇言語を馴らすには日常言語の魔性を知ることから始めねばならないということだ。
俺はいま、「サザンハウス」というスペースで芝居をやっていこうとしている二人と共同生活をしている。目論見は、飯をたべ、クソをたれ、という生活の視点から日常の言語と肉体の動きを検証しよう、というものだ。只の生活ではなく拡大深化の生活なのだ。この生活の中から、これからやっていく芝居の方向は打ち出されてくると、俺は確信している。とにかく俺は、いま修行中だ。
△虚構の外化----化粧論△
俺はある時から、自分の中に特権的なものを視たのかもしれなかったのだ。しかし何に対して特権なのかそれがわからなかったのだし、表現の仕方さえわからなかったのだ。さて、ちっとも特権でなくする為にだ。問題は。
俺は公衆便所の中で後ろをすれ違った人に声をかけた。
----ねぇ、さよならだけがじんせいさ。
その人は答えた。
----だいせんじがけだらなよさ。
一瞬、俺の小便が止まった。不吉な予感が俺のチンポコを立たせた。公衆便所の汚ない染みだらけの裸電球から水がしたたり落ちた。虹の設計だ。俺は振り向きざまピストルをぶっぱなした。奴の顔に笑みがもれた。
----よく、ぼくのことがわかったね。
----ああ遠い巨大な海の水がチンポコからあふれ出ているのがわからないのかい?
奴はもうすぐ死ぬはずだ。
----ぼくが死ぬとでも?
奴は・・・・。よく見ると奴の顔はピエロだったのだ。その顔を奴は今、コールドクリームをぬりたくって別の顔に、そう別の顔にしようとしているのだった。奴の左手にはドーランの丸い器が。
俺のちんぽこからの水は公衆便所をあふれさせるはずだったのだ。しかし、いまチンポコはしなびはじめ、最期の一滴がしたたり落ちた。
----はは、はは。
奴の顔を見る前に、俺は自分の顔を汚ないガラスに写して見てしまった。俺の顔は生まれたまんま腐敗しようとしていた。
奴の顔は----。 <終> p48~54
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