インタヴュー1973/04 いしかわ邑 『演劇場座敷童子』は『神話』をつくりに行くのだ!!
「時空間」3
時空間編集局 1973/04 ミニコミ雑誌 p100 石川裕人年表
Vol.3 No.0826★★★★☆
「演劇場座敷童子」は「神話」をつくりに行くのだ!!
インタヴュー いしかわ邑(石川裕人19歳)
----「演劇場座敷童子」の旗揚げ公演である「秘密のアッコちゃん☆凶状旅篇」は何に向けて撃たれたのか?----
完全に言い切っちまえることは「70年の影」へ向けて撃たれたということだ。70年代斗争という観点から見れば70年・一年だけへ向けて撃ったなぞというと視野が狭いなぞと笑われるかもしれんが、'70年をいい子ちゃんで送った俺には、どうしても長く尾を引く影がまとわりついてた訳だよ。
そいつは遂には学校の枠を中で変に割り切ちまって斗いの火を消してしまったなんてことからも云えるんだが、つまり70年代斗争を自分が斗っていくには70年の情況にふん切りをつけたいと願った訳だ。70年以後のミニコミ発行にしても、コンサアト企画にしても映画上映にしても、唄つくりにしても、「70年の影」の下での暗い陰湿な自分との斗いであったとも云える。
そしてその中で徐々に影から脱け出してきたことだけは確かだ。それが顕著に現れたのがミニコミの休刊だ。いまはもう廃刊にしようと思っているが、それはひとつ「70年戦士」のひとりであった友人の影をモロ体で感じながらの活動であったからだ。
つまり俺は俺としての斗いを展開しなかったという訳だが、自分の「ことば」つまり行動でもいいがそいつで斗いをくり広げなかったことにあったからだ。
ミニコミ休刊の次には脱出作戦第2弾として、俺は俺の最も先鋭な「ことば」を体現化しようとし、俺がもっとも動ける芝居でもってそれをしたのだ。つまりあの芝居は、俺としての「70年の影」への総括であり脱出であり70年代斗争展開であったんだ。
----ではあんたの芝居の動点は何か?----
わかっているとは思うが、「芝居が好きですから」とか、「ぼくの要求です」とかっていうことは超えられねばならぬのだ。そんなことはあったり前だしね。
で、動点となると、芝居がどれだけ日常に亀裂を生じさせられるかということなんだ。そうしてからそこに流れ込んでくる人間の感情とか怨念とかいうものに、芝居がどれだけ耐えうるかみたいなことだね。
----もう少しくわしく話してくれ。----
芝居自体が断頭台に立たなければいかんような気がする。つまり見せしめじゃわい。いまはもう価値観も相対化してきてるし、それに輪をかけて日々の流れというものも不安が全然なくてね。そいつにうつつをぬかしてるようなもんだから、そんなところに芝居をもちこんで暴れまわったら一体何が起こるか楽しみだね。
国家というもんが国民といわれる人たちを、演出しつくさっている訳だね。つまり角栄とっつあんなぞは演出家中の演出家ということになる。だからそいつに対抗するには、俺たちも何もかもを演出しつくそうじゃないかということなんだ。ただ奴らは権力者という国家役者だからね。奴らは強いが、国家を演出してるということは、時代を演出しているし、それはつまりこの空間も演出してるというほどすごい演出家達だからね。手強いね。
----ただ、その芝居空間で起こりえる何もかも計算しつくした上での演技なり演出なり、というのは意識しちまって全然飛ばない芝居になりはしないだろうか?----
計算ししくすというというのはできないことで、強引にその通りにしようとする傾向がでてくるだろう。しかし考えてもみりゃぁ奴らだって強引に演出してくるからね。例えば安保があったし、三里塚があったし、GNP狂信妄想があるし、それは全て被権力者への「公約」という芝居の演題で演じられてきたんだ。
するってえと造反した奴らは強制的というより他の劇団員つまり国民さね、その劇団員らの同意の上に、造反団員は断頭台にのせられる訳だね。それはおまつりみないなもんだし一億団員みんなもろ手をあげて拍手させられちまうようなね、強引なんだが、他の団員には、「しょうがいない」としか写らないんだね。つまり退団を許してるようにみえて、実は絶対的に退団を許しはしてないんだね。
よしそうなりゃあ、こっちから、何もしないで断頭台に昇ってやろうじゃねえか!!という捨て台詞を投げつけて行動に移す訳です。こういうことも奴らは演出してるんじゃないかという恐怖におののきながらね。だから飛ぶ芝居をつくってゆく為には俺たちのつくる強暴な空間と共に暴れ回ることではなくて、「フン!!」なんてそっぽをむく客のほうがなにかいい感じがしてしまう訳でね。
その離反関係の中で国家劇の醜悪さみないなものが、俺もわかってくるし、客も気付いてくるんじゃないだろうか?という実に安易な考えの下であるからして、もう行動しかない訳ですよ。
----うん、そこで、民衆の情念みたいなものをどうくみ込んでゆく訳?----
つまり呪縛されてるのは俺達民衆なんだ、ということだ。民衆の情念というのは俺の芝居にとってテーゼであって、アンチテーゼは、共同体を形成している人間なんだ。どっちも人間が当事しているものだが、この二つは、離反していると思う。
それで呪縛の根源は何かというと、某かの共同体がそれだね。そいつを俺たちは忘れているというよりは生れた時からもう俺達は共同体に組み込まれてきたらね。ただ潜在意識みたいなもので時たまフッと考えてみたりするって時を情念の健かさに転化していままでのサイクルを換えてみるってことが必要なんだと思う。
そのフッとわからせる作業を芝居でやっていけると思う訳だ。呪縛を突破するのに民衆の情念を求めて共同作業の中から、生活行為そのものとしてのというより芝居空間における共同性みないなものを生活行為そのもので打ち消していきたいと思っているんだ。
そこに民衆の情念のサイクルと役者のサイクルとの位相が各自信見えてくると、そこから何か出てくるんじゃないかと思っているんだが。
----あんたはこの頃、「南下」ということをしばしば口走っているが・・----
ウン。そいつも前に云ったことと関連があるんだが、俺は東北生まれの東北育ちなんだ。それで近代の呪縛を生んできた過程には、古代文化の影響が強い訳だ。つまり南方から文化は輸入され北上してきたんだね。
で、神話ひとつとってみても、これは反動的であると云われるが、そいつもひとつの呪縛だろうし、「神話」がこの時代まで生き残れ得たの共同体存続のための呪があったからだとも云えるのさ。
祭的な要素と芝居。そして祭的な要素と「神話」というのはすごく関係がある訳よ。そしてその現代を圧倒的に呪縛しちまっているものっていうのは普遍的な日本文化の上属としてみられてる「古事記」そして「日本書紀」の中のものって感じがするね。それは紀元節復活ってなことに現れてくるんだが。
それで南の国への北からの「神話」造成ね。つまり新しい文化時代性の流れを逆流させちまう作業ってのが何か変に芝居的でね。いいいいと思っちまうね。唐十郎も「日本列島南下運動の黙示録」なんていう本を出してたが、俺は氏の本を知る前から考えていたし、まだ読んでないんだ。唐のとは違うんじゃないかな?
----じゃ旅回りになる訳か?----
そうならざるを得ないし、旅回り自体が、日常に亀裂を生んでゆく訳だよ。たとえば町中をチンドン屋みたいな格好してだ、「ご当地見参!!」みたいなことして芝居の宣伝やっててね、人の眼をモロ感じたら亀裂は生じてくるしね。もう芝居なんてやる必要もないんだろうが・・・・・。
----ないんだろうが・・・、ナニ?----
ないんだろうが・・・、俺たちゃお芝居でめしを食っていこうとする訳だからね。今度は亀裂をおこした駄賃として、皆様から金を頂だいしなくっちゃ。
----役者を芝居の中でどう位置づける?----
いや、役者とか演出とか照明とかね、それはもう芝居の場全体の中での一構造を成しているだけだからね。どうも位置づけない。
----では役者のない芝居もでてくるか?----
ああ出てくるだろうし、ただ今のところ俺のものには役者が必要だね。ちょっとまだ、言語を吹っ切れないから。
----「言語」が呪縛を生んでいるとも云えるが。----
そうだろう。しかし俺らの「神話」つくりには伝承言語が必要だからね。昔の神話も伝承だったんだろうが、そして言語も芝居の中では構造にしかすぎんということだ。
----集団創造みたいなことだけれど、そう思うのか?----
集団創造にも二通りあると思うんだが、ひとつは台本もない状況から役者演出裏方一体となってひとつの作品をつくりあげていくものと、もう一つは芝居と関係ないところから、つまり芝居以前の人間関係などから作っていくもの。云ってみれば芝居以前といっても芝居は前提とする訳だが。
俺は役者の方でやっていきたいんだ。つまり旅回り自体がすでに芝居だし、どうしても割り切らなくちゃならんことがいっぱい出てくると思うんだ。そんな所で人と人との葛藤ってものが石ころみたいにゴロゴロ投げ出されてるみたいなところまで行きついてね。行くつくと今度ははね返ってきてそれが感性の眼覚めみたいなことになるといい芝居ができるようになるんではないかな。てことからだけど。
----さっきあんたは客について、そっぽを向かれた方がいい。なんて云ってたけれどもね。客参加ということをどう捉える?----
芝居というものは客がいなきゃあできないということ。そして、客の期待するもんだけを俺たちがやるとは限らないこと。だが芝居であると客は思っていること。ここからここまでは現実で、ここからこっちは虚構の世界なんだと客は金を払って観にくること。
客はそういうことを頭に置いているからものすごく慎重だね。というよりも頭をなぐられても酔ってもいない限り「何、てめえ!!」てなぐりかかってはこない。つまり虚構の世界にいてもたかが芝居というところに寄っかかるところをこさえているからだね。
ところがさっきも云ったようにあらゆるハプニングを計算した上でということは非常に無理だから、例えば酔っ払いがけんかを吹っかけてきた時とかね。この前の「アッコちゃん」の時みたいにガキ共がいろいろふっかけてきたりした時に、その客は虚構の中で寄りかかるところを失っている訳だから、そういうハプニングは劇的に発展性のない客参加であっても、芝居の枠組みの中へくわえ込んでしまってね。
互いによっかかるところのないせめ際まで持っていったらいいと思うね。つまりそっぽを向かせるということはよりどころを失わせるということにもなるんだ。
----これからの計画を聞かせてくれ。----
いまはやっぱり「童子」たちを集めることだね。もしかこれを読んで興味をもった人はチラっときてくれるとありがたいね。お茶でもすすりながらお話すると何かいいんじゃありませんこと? 言い足りないこともあるんでね。
そして照明器具とか確保してね。ああその前に共同生活みたいなことから始めなければならんが。そして南へ兇状旅に出てゆこうということなんです。
新作は並行して二作つくってるが、俺は気分がいい時に書くんでね。気分がよくない日が実に多いからペースは遅いんだけど「秘密のアッコちゃん☆血煙り街道編」と、仮題だが「想い出は粉死の彼方に」っていうのをシコシコ書きつづけている。
それじゃぁ「神話」の国であいませう。
3/6~3/7 深夜インタビュー <終>
| 固定リンク
« 1+1=3にせよ! 石川裕人15歳の叫び 中学校卒業文集『根っこ』 | トップページ | 「演劇」性とノンフィクション・ライティング 「週刊朝日」 10/26号 2012年10月26日号 緊急連載 橋下 徹 佐野眞一 ハシシタ 奴の本性 »
「30)Meditation in the Marketplace2」カテゴリの記事
- 「演劇」性と「瞑想」性がクロスするとき 石川裕人『失われた都市の伝説』 劇団洪洋社1976(2012.10.26)
- 私にとって「演劇」とはなにか<1> 石川裕人作・演出『教祖のオウム 金糸雀のマスク』現代浮世草紙集Vol.3(2012.10.26)
- 幻のポスター発見! 石川裕人第5作目 『夏の日の恋』 贋作愛と誠 1975 <1>(2012.10.25)
- 石川裕人にとって「離脱」とは何か 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<4>(2012.10.25)
- New-T 発見!石川裕人のあらたなるペンネーム 『仙台平野の歴史津波』 飯沼勇義 <7>(2012.10.24)
コメント