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2012/10/02

あらためて大震災を受けとめる ジャン・ピエール・デュピュイ著 『ツナミの小形而上学』


「ツナミの小形而上学」
ジャン・ピエール・デュピュイ 嶋崎正樹訳 2011/07 岩波書店 単行本 150p
Vol.3 No.0807★★★★★ 

1)松岡正剛「3・11を読む」第一章「大震災を受けとめる」の11冊は、このデュブュイの一冊で締めくくられている。1941年生まれのフランス人、科学哲学者。スタンフォード大学教授やフランス放射線防護原子力安全研究所の倫理委員会委員長などを歴任しているようだ。

2)われわれが読むべきは、事故と損傷の正体の真っ只中にあえて身を突っ込んで、新たな意味を再発見することなのである。おそらく3・11とはそのことの告知であったろう。

 ポール・ヴィリリオが「これからの時代は事故からしか新たな展望は生まれない」といい、ジャン=ピエール・デュビュイが「いまや津波の体験が新しい形而上学を生むしかあるまい」と指摘したように、われわれは損傷の渦中から新哲学を掬(すく)ってくるべきなのである。松岡正剛「3・11を読む」・表紙見返し

3)この小さな一冊を読み終えるまで一週間が経過してしまった。外側が忙しかったから、という理由もあるが、仮に忙しかったとしても、この本の読書を中断するわけにはいかなかった。ちょっと当ブログとはかけ離れたような文脈も登場することもあるが、であるからこそ、この本を当ブログの文脈のなかで読み直す必要があった、とも言える。エンコードの時間がかかったとも言えるだろう。

4)この本における「ツナミ」は、当然日本語の「津波」が語源なのだが、必ずしも自然現象としての「津波」だけを表しているわけではない。そこには、9・11やアウシュビッツ、ヒロシマやナガサキ、そして核兵器、原発事故などが含まれている。

5)当ブログでは、「地震」、「津波」、「原発事故」を、それぞれに独立した事象として捉える必要があるだろうと思っている。地震は人間にはコントロールできない。津波もまた避けることができないが、減災としてはややコントロールできる面もあろう。原発事故は、人間が作り出したものだから、完全にコントロールできる(つまり原発ゼロ世界に向かう)ことと考えている。

6)しかしながら、この本において「ツナミ」は究極の破局として語られる。ツナミのプチ・メタフィジクス、である。この本は9・11を契機として書かれた本であり、出版は2005年、邦訳は2011年7月にでている。3・11後の著者の日本語版への序文も書かれている。3・11後に書かれたものではなければリアリティに欠ける面もあるが、むしろそれを予見し、深く熟考しようとしてきた一冊であれば、3・11の前も後ろも関係はない。新たなる3・11はこれからも起きる可能性は十分にあるからだ。むしろ、ひとつの連続体として存在しているとも言える。

7)この本は、さらっと目を通し、気になったところを抜き書きしておく、といういつもの当ブロブの読書では通り過ぎることができなかった。松岡正剛がポール・ヴィリリオと、このジャン=ピエール・デュビュイだけを巻頭に登場させていた所以が、すこしわかった気がする。

8)「ツナミ」という具象の究極と、「形而上学」という抽象の究極が並べられていることに、「色即是空」という般若心経の一文を思い出した。ツナミという「色」の中に、形而上学という「空」を見ることができるのか。だとするなら、「ツナミの小形而上学」は、形而上学という「空」から、ツナミという「色」を見ることができるか。

9)そういう意味においては、この西洋哲学の最先端ともいうべき思潮には、どこか片手落ちの面が感じられる。東洋哲学的「空即是色」の捉え直しができていないようである。

10)「Meditation in the Marketplace」という現在当ブログが走っているカテゴリは、もっと真理をついているように思える。MarketplaceこそMeditationを産み出し、MeditationこそMarketplaceを明らかにする。Marketplaceとしてのツナミ「色」は、Meditationという形而上学「空」を生み出している。逆も真なり。

11)個人的な人生観のなかで予見された「プロジェクト567」の中において、3・11は7番目の、つまり究極の意味を持つ。尖閣列島や竹島問題、あるいは内政の政治状況のあれやこれやで、いつの間にか風化し始めている「3・11」。当ブログは、このテーマを、今後とも、以前よりももっと強烈に意識して行く必要があるようだ。

12)個人的な思いとして、以前自分はツナミで命を落としたという経験記憶を持つ。ずっと古いか過去においてだ。そして、その時に天から啓示として受け取ったもの、そのことの意味が、確実に、「すぐ側」に存在していることを理解する必要がある。

13)ジャン・ピエール・デュピュイには、出版順序は逆になったが「ありえないことが現実になるとき 賢明なは極論にむけて」(2012/05 筑摩書房がある。当ブログとしては読みやすい作家ではないが、避けては通れない吸引力を感じる。

14)それにしても、ポール・ヴィリリオといい、ジャン・ピエール・デュピュイといい、なぜにフランス人なのか。電力の7~8割を原発に頼っているというフランス。世界で「最悪」な原発国家ではないか。そこに徒花のように咲く生哲学者たち。そこにはどんな意味が宿っているのであろうか。

つづくかも・・・・・・

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