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2012/10/15

弔辞 石川裕二君、ニュートン、劇作家・石川裕人へ

                   

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弔辞          

 石川裕二君。あなたは1953年山形県に生を受け、お父さんの転勤で移った宮城県名取市の増田小学校に入学しました。小さいときから本を読むのが大好きだったあなたは、ニュートンというニックネームでいつも私たちのクラスの人気者でした。特に国語や作文が大の得意で、学芸会では劇の主役をたびたび演じました。小学4年生の時には、担任だった越前千恵子先生のアドバイスもあり、早くも、将来は劇作家になりたい、という大きな夢を持つことになりました。

 名取市立増田中学校では野球部のマネージャーをしながら、新聞部としても活躍し、クラスの仲間と手書きのミニコミ雑誌を創刊しました。そして宮城県立名取高校に入学すると演劇部に入部し、脚本を書き始め、自分たちの手で新たな劇団を結成、文化祭で独自の作品を発表しました。

 その頃、中央では新しい時代の劇作家たちが活躍していました。特に天井桟敷の寺山修司と一緒に食事をした時、あなたは「君にはリーダーになる才能がある」と励まされ、石川裕人というペンネームで本格的に脚本執筆を開始しました。

 仙台市に拠点を移した後は、あなたの実直にして温厚な性格に惹かれて仲間が集まり出し、次々に新しい作品を書きあげては、自分たちの劇団で上演するという生活になりました。そして、その当時に出会った一枝さんと結婚し、劇作家と看板女優という、二人三脚の生活が始まったのでした。

 あなたの活動は、若者文化としてだけではなく、広くマスメディアも取り上げるところとなり、その活動は仙台市民文化事業団などの後援を得て、ますます広範な活動を展開しました。1991年には、宮城県芸術選奨新人賞、1997年には宮城県芸術選奨、そして2006年にはNHK奨励賞を受賞されました。

 あなたの活動はめざましく、全国に演劇ネットワークを広げ、いつの間にか書いた演劇脚本は100本に達することになりました。それは2010年に出版された記念脚本集「時の葦舟」という一冊の本となって結実しました。その活動は高く評価され、多くの人々に注目され、今後の活躍も期待されているところでした。

 昨年2011年3月11日の東日本大震災は、大変なショックでした。地元の演劇人として、傷んだ東北に対して何ができるのか、と考えたあなたは、劇団オクトパスの劇団員たちと、被災地をまわり、演劇を公演することによって、仮設住宅の人々を慰めることを始めました。多くの人々がその演劇に癒されました。

 裕二君、あなたとの50年を超える交流を振り返ると、あまりにもたくさんのエピソードがあり過ぎて、何から語ればいいかわかりません。その中でも、特に一つと言われれば、私たちが中学1年生だった時のことを思い出します。

 当時、仙台空港で自衛隊飛行機の整備の仕事をなさっていた、あなたのお父さんの計らいがあり、私たち二人は年に一度の航空祭で、ヘリコプターの遊覧フライトに乗せてもらえることになりました。

 発着場から飛び立ったヘリコプターは最初南に向かい、岩沼を超え、阿武隈川を超えて亘理までいきました。その後、方向転換してUターンし、北に向かい、私たちの増田の町の上空を通り過ぎ、名取川、広瀬川まで飛んでいきました。

 あの時、私たちは初めて自分の住んでいる町を空から見ました。自分の家を上空から見ることは大変な感動でした。蔵王連峰を囲む山並みも見えたし、東側には、大きく広がった太平洋も見えたのでした。

 あの時の記憶は、昨年の大震災後、テレビやインターネットで何度も何度も見ることになった、太平洋沿岸を襲った津波の映像とつながってきます。あなたはあの震災に大変心を痛めました。そして最後の遺作となった「方丈の海」では、被災した東北に大きな大きな応援歌を送っていたのでした。

 宮沢賢治は仙台のことをエスペラント語でセンダードと呼んでいました。あなたは、センダードの地に現れた、もうひとりの「風の又三郎」だったのではないでしょうか。教室で人だかりができるのは、いつもあなたの机の周りでした。いつも新しいことが始まるのはあなたのアイディアからでした。

 そして、ヘリコプターに乗った時の私たちは、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラでもあったように思います。あの時から、私たちはずっと銀河鉄道に乗ったままです。

 あなたとの旅はとても楽しいものでした。そして、あなたといると、友人たち誰もが、自分を大きな芝居のなかで演劇をしている、役者になったかのような気分を味わうのでした。

 あなたは人生を通して、センダードの地に佇む一人の劇作家として、脚本を書き続けました。松の林の陰の小さな萱葺き小屋にいて、デクノボーと呼ばれたいと願った宮沢賢治にも似て、争いごとを好まない、優しい心の持ち主でした。

 あなたは、今も空から私たちを見ているように思います。ジョバンニはカンパネルラに言いました。「僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こう」。裕二君、今、私はやはり同じことばをあなたに贈りたいと思います。

「ニュートン、僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こう」。

 あなたの大きな愛を、残されたお母さん、一枝さん、そして妹さんご一家に送ってください。そして、私たち友人たちのことも見ていてください。あなたの大きな愛はもっともっと広がって、このセンダードの地を超え、東北一円まで広がっていくことでしょう。

 あなたの作品は、時間と空間を超えて、宇宙まで広がっていきました。そして今でもあなたは、そちらで新しいもうひとつの作品をきっと書いていることでしょう。いつの日か、あなたの新しい作品に感動する日を楽しみにしながら、今日はしばしのお別れの挨拶をしなければなりません。

 石川裕二君、ニュートン、そして劇作家・石川裕人。私たちはあなたと出会い、あなたの演劇に出会えたことをとても感謝しています。どうもありがとう。そして長く友人であってくれたことを大変誇りに思っています。どうぞ、お安らかに。

心からご冥福をお祈りいたします。  合掌

                  平成24年10月15日

           友人代表    阿部 清孝

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