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2012/10/19

石川裕人の実質的処女劇作? 『治療』演劇場「座敷童子」旗揚げ

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「治療」
いしかわ邑・作演出 演劇場座敷童子旗揚げ公演 1973/12 仙台ユネスコ会館 石川裕人年表
Vol.3 No.0822
 


1)石川裕人100本の劇作を書いたという。その100本目は「ノーチラス」だから、その後、「風来~風喰らい 人さらい~」、「人や銀河や修羅や海胆は」「方丈の海」の3本を追加して、103本書いたことになる。

2)では、一本目はなんだろう。この問いはなかなか難しい。そもそもペンネームが石川裕人になったのが1980年前後だとすると、その前のいしか邑(ゆう)時代に書いたものか、それ以前のものになる。

3)彼のブログ「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 によれば、「治療」は第三本目の脚本あたりに位置している。小学校時代には小さなものが3本以上書かれているようだが、一、二本目は高校時代の文化祭で上演されたものがカウントされている。一本目は私も観客として参加していたが、上演時間が短く、演劇脚本としての体をなしていたかどうかは定かではない。

4)それを考えると、この「治療」は実質的処女作と言っていいのではないだろうか。

5)台本もチラシも残っていないが、チケットだけ残っている。デザインは中学校の頃からの旧友・阿部清孝氏。彼はその後数回私たちの情宣デザインをやってくれた。表面は横尾忠則風、裏面はつげ義春風と当時のアンダーグラウンド系での流行のパロディである。印刷は謄写版である。当時は台本も全て謄写版だった。石川裕人「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」第三回

6)ここで、「中学校の頃からの旧友」として私が紹介されているが、これは彼が正しい。私はしばしば「小学校からの友人」と紹介され、自称することもあるが、実質的には「友人」ではなかった。なんせ、小学校6年間、一回も同級にならなかったし、住まいも学校をはさんで、まったくの反対の位置にあったので、友人になりようがなかったと言える。

7)しかし、例の小学校三年の学芸会の時以来、私は彼を強烈に意識しているので、「小学校からの同期生」くらいは自称しても構わないと思う。

8)詳しくは後段にゆずるが、実質的な劇作一作目を、小学校時代のラジオシナリオとするなら(私はまったく記憶にない)、その時代の彼の親友だったO君(現仙台市太白区O外科医院長)なら覚えているかもしれない。

9)彼ら二人はいつも一緒にランドセルを並べて仲良く下校し、近くにあるO君の父が経営している医院の、彼の部屋にたくさんあるという単行本や漫画本を、ほかの仲間たちとわいわい楽しんでいた(という噂)ようだ。私はうらやましそうに彼らを眺めていた記憶がある。

10)さて「治療」のポスターだが、もうすでにないというのは残念だが、この時は私がシルクスクリーンで作った。たしかピンクの模造紙に、緑と黒くらいの二色刷りだったと思う。茶とか赤も入って三色刷りだったかもしれない。

11)なんせ制作費も少なく、知名度もまったくない集団である。より目立つように、首なしのヌードを左右に配置し、真ん中に劇団名「演劇場・座敷童子」という文字を、カッターナイフで型どったシルクスクリーンで印刷したはずだ。

12)その頃、シルクスクリーン印刷は仙台では一般的ではなく、技法はまったく独自に開発したものだった。布屋に行ってメッシュの荒い化学繊維を書い、木材屋に行って角材を買ってきて木枠を作った。印刷台は、アパートの襖(ベニヤ板製)をはがして、その役目とした。

13)それでも、インクや印刷用の刷毛(スキージ)とかを入手して楽しくみんなで徹夜で作ったものだ。制作部数も30部とか50部程度ではなかっただろうか。とにかく、インク代もかかり、だいたいにおいて、スケジュールが急に決まったりしたものだから(せいぜい一ヶ月程度)貼っておく期間もみじかかったはずだ。

14)「治療」を上演したのは国際ユネスコ会館3F。(現在も晩翠通りに健在)そこの管理人をやっていたのが当時大学生だった伊東竜俊氏である。そして伊東氏と阿部氏はその数年後「ひめんし劇場」という伊東氏主宰の劇団で一緒に舞台を踏むことになる。石川裕人「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」第三回

15)私が「ひめんし劇場」に参加したのは1977年のことだから、青春時代にとっての4年後はだいぶあとのことになる。この時、面白いエピソードがあるのだが、後日に譲る。

16)いずれにせよ、私はこの「治療」に関わっていながら、まったく演劇の内容も、演劇風景も覚えていない。たぶん制作スタッフを裏方をやっていたのだろう。

17)そもそも当時私たちの共同生活の場(雀の森の住人たち)は、20歳前後の若者たちの梁山泊的な存在で、必ずしも演劇集団ではなかった。フォーク歌手を目指すものもあれば、ミニコミを作りたいもの、喫茶店をつくりたいもの、ウーマンリブをやりたい女たち、遺書集を出版したいものなど、実にまちまちのキャラクターだった。

18)だから、メンバーたちは、ほかのメンバーがやりたいことを手伝う、ということがひとつのルールとなりつつあった。私は雑誌を作りたかったから、石川裕人の原稿を取り付けたし、コンサートがあれば、ビラまきや会場係をてつだった。そのノリで、彼の芝居の情宣美術も引き受けていたのである。

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