私にとって「演劇」とはなにか<1> 石川裕人作・演出『教祖のオウム 金糸雀のマスク』現代浮世草紙集Vol.3
「教祖のオウム 金糸雀のマスク」現代浮世草紙集Vol.3
石川裕人作・演出 1995/11 シアターグループ・オクトパス 上演台本p97 仙台演劇祭'95参加 石川裕人年表
Vol.3 No.0832?????
1)因縁の対決である。これがわからなければ、結局は私は、劇作家・石川裕人をわからなかった、ということになる。
2)有田 麻原彰晃。
江川 うまかろう安かろう亭。
有田 石垣島予言セミナー。
江川 波野村。
有田 ラージャヨーガ。
江川 ガスマスク。
有田 クンパカ。
江川 カルマ落とし。
有田 真理教。
江川 裏部隊。
有田 石井久子。
江川 コスモクリーナー。
有田 中川智正。
江川 最終解脱。
有田 土谷正美。
江川 ミラレパ。
有田 パルマゲドン。
江川 ハでしょ、 上演台本p5
3)1995年11月当時、こんな単語の羅列を聞いて、観客席の私は、なにがおかしかろう。苦々しい思いの単語をさらに聞かされて、最初の最初からイライラしてきていた自分が今さらながら、イメージできる。
4)有田 もうでまへん、
江川 まだまだ
有田 江川はん、よその教団の尻取りをやって何になるんでっか、やめまひょ、 上演台本p6
5)ん? 尻取り? ははぁ~~~、上の単語をよくよく見ると、単に単語を並べているわけではない。尻取りだったのだ。ああ、驚いた。今さらながら、驚いた。
6)こんなのルール違反だろう。台本だからこそ、そう言われれば、ページをさかのぼって確認することができるが、すでに言われてしまったセリフをさかのぼって確認できる観客などひとりもいない。
7)やるだけやらせておいて、作演出者は、ひとりで、ふふふ、と笑っていたに違いない。まったく意味のないようなところに、実は「意味」があった。それは、言葉の意味、というより、単に「尻取り遊び」という「意味」だったのだ。まいった。
8)同じ演劇を何回か見に来る人なら、気づいて聞き取ったかもしれない。あるいは、台本はこうなっているけれど、舞台では、キチンと語尾を長く伸ばして、尻取りだよ、とわからせていたんだろうか。当時の私はまったく気付かなかったに違いない。いずれにせよ、作者は遊んでいる。
9)他のところでも、ミラレパをニラレバ、中沢新一を中沢古一、出口ナオを入口ヲナ、とするなど、実にいい加減な(と見えてしまうのだが)、下司なジョークで笑い飛ばす(私には苦笑もできなかった)。作者は、この作品において、徹底的に「事件」と「社会」と「時代」とおちょくりまくっている。
10)ふと思う。高校時代の私のミニコミのキャッチフレーズは「書きたい時に書きたいことを書く」だった。そして彼のミニコミのキャッチフレーズは「私の求めるものは鍵穴です」だった。ところがいつの間にか、「書きたいときに書きたいことを書く」ことができていたのは、彼のほうだった。戦線のためとか、賞をもらうためとか、劇団存続のためとか、そういうことが第一義的にあるわけではないのだ。「書きたいから書くのだ」。ある意味、彼は、ここで「芸術」の域に達していたのではないか。
11)逆に「鍵穴」を求めてうろうろしていたのは、私のほうだったようだ。あのような現実と夢想妄想がクロスするような事態において、彼はなお、それらを「演劇」化することによって、より明確に演劇の演劇性であることを強調しようとしていたように思う。
12)この戯曲を書くに当たって多くの資料を読んだ。(資料リスト中略)
オウム真理教の事件は現在も進行しており、予断を許さない。様々な分野から諸々の言説が流れ、この事件がこの国の文化に与えた影響力を思い知らされる。この事件は私たちにとって踏み絵となる現象である。
それは今までをどう生きてきて、これからをどの様に生きていこうとしているかという事への問い掛けになっているからだ。そして、麻原がこれから発するであろう言葉によってはこの事件は未曽有の価値観闘争へと発展していく可能性をも秘めている。心してこれからの顛末を見ていこうと思う。作者 上演台本p97
13)きわめてまともである。この文は私が書いたのではないか、と思うほど、その通りだと思う。この台本のここを読まなかったら、あの芝居をみただけでは、作者がこれほど、「まとも」な「あたりまえ」の感覚の持ち主だった、とは気がつかないだろう。少なくとも、私は気づかなかった。
14)しかし、また、それでもなお、やはり彼にとって「演劇」とは何であったのか、私にとって「演劇」とはなんであるのか、の答えはでてこない。やはり、問題作である。どこかで「サイテー」なんて書いたことは訂正しておかなければならない。この作品には、なにか隠し文字のようなものが隠されているのではないか。私はそれが今だに発見できないでいるのだ。この芝居を見る、私の演劇を見る感性の方が「サイテー」レベルなのかもしれない。
15)この事件は私たちにとって踏み絵となる現象である。それは今までをどう生きてきて、これからをどの様に生きていこうとしているかという事への問い掛けになっているからだ。上演台本p97
16)まさにその通りだ。
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