agataとアガルタ 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<4>
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <4>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739
1)二つのことが理解されなければならない。ひとつはタターガタththagataという言葉だ。それは非常に不思議な言葉だ。それには二つの意味があり、互いにまったく反対だ。互に完全に反対の二つの意味----それは不思議な言葉だ。
一番目の意味は如来tatha-agata、それは「かくの如く来た」という意味だ。二番目の意味は、如去tatha-gata、それは「かくの如く去った」という意味だ。ひとつの意味は「かく来たり」、もうひとつは「かく去りぬ」だ。
幾人かの人々は一番目の意味を選んだ。「かく来たり」-----。この場合にはそれは、自分できたのではない者、ここへ来るいかなる動機もない者、を意味する。それがキリスト教徒たちがキリストについて好む点だ。キリストは神につかわされた。彼には、ここで達成されるべき動機や欲望はいっさいない。彼は使者として来た。
それがイスラム教徒たちがマホメットについて好む点だ。彼らはマホメットとバイガムバル、使者と呼ぶ。彼は自分自身の欲望を満たすためにこの世にきたのではない。彼は完全に満ち足りている。ここにいるべき理由はなにもない。ほかの人たちはただ来たのではない。彼らは彼らの欲望のせいで来た。彼らは来たかった、だから来たのだ。
仏陀は来た。彼が来たかったからではない。彼は<存在>そのものによって送られた。彼のなかで形をとっているのは<存在>だ。それには理由も動機もなく、個人的欲望はいっさいない。それがタターガタの一番目の意味だ。「かく来たり」-----。
幾人かの人々は二番目の意味を選んだ。「かく去りぬ」-----。それはすでにここから去った者を意味する。もし仏陀のなかに深く入って行ったら、あなたはそこに誰も見出さない。彼はその「住居」を立ち去っている。彼はもう肉体のなかには存在していない。彼はもう肉体のなかには現存していない。彼は空(くう)になっている。彼は善逝だ、完全に彼岸へ逝っている。彼の真の<実在>は彼岸にある。此岸ではただ影だけが動いている。
しかし私自身の選択は両方ともだ。私はタターガタという言葉をこう解釈したい。「かく来たり、かく去りぬ」、風のように・・・・・・。
風が来るのはけっして自分自身の理由、自分自身の動機のためではない。風は完全に<存在>のなかに身をゆだねている。それは<存在>が自分を送るところならどこへでも行く。それは必要があるところならどこへでも行く。p278
2)このThe Diamond Sutraの講話は77/12/21~ 77/12/31の間に、インド・プーナで行われている。考えてみれば、この講話の時、私はあのブッダ・ホールにいたのだ。そしてこの本が翻訳されて日本で出版されたのは、1986/03。これは見事に符号する。
3)以前、The Osho Upanishad <2>にも書いておいたが、ほぼ当ブログにおけるagata=agartha=アガルタプロジェクトは、この地点において一定の結論をみた、ということになる。
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