不思議さに満たされる時 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<6>
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <6>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739
1)スブーティは訊ねた。「未来の世に、最後の時に、最後の代に、最後の五百年代に、良い教えが滅びる頃になって、この経典の言葉が説かれるとき、その真理を理解する者たちが誰かいるでしょうか?」
世尊は答えて言われた。「スブーティよ、そのように言ってはならない。そうだ、その時代でも、この経典の言葉が説かれるとき、その真理を理解する者たちがいるであろう。なぜなら、その時代にさえも、スブーティよ、菩薩たちはいるからだ。
そしてその菩薩たちは、スブーティよ、ただひとりの覚者を敬った者たちではなく、ただひとりの覚者の許で善根を植えた者たちでもない。それどころかスブーティよ、この経典が説かれるとき、たとえ一念だけでも静かに澄んだ<信>を得る菩薩たちは、何十万という多くの覚者たちを敬い、何十万という多くの覚者たちの許で、善根を植えてきた者たちなのだ。
彼らは、スブーティよ、仏智によって如来に知られている。彼らはスブーティよ、仏眼によって如来に見られている。彼らは、スブーティよ、完全に如来に知られている。そして彼らはすべて、スブーティよ、測り知れない、数え切れない功徳を積むであろう」p141「ダンマの車輪」
2)私はこの「ダイヤモンド・スートラ」を聴くためにインドに呼ばれた。ちょうどそのタイミングだった。そのときしかなかったのだ。そのとき私を送り出してくれたのは、石川裕人たちの演劇アトリエの仲間たちだった。
3)私たちの共同体が、演劇人としての石川裕人を送りだしたように、石川裕人たちの「演劇」性は、私を「瞑想」性へと送りだした。今回、彼の生涯をたどりながら、いくつも不思議なことを発見した。
4)私は、あの演劇アトリエから送り出してもらったことにとても感謝していた。そして、インドで勝ち得たものを、一番に、彼らの演劇アトリエへと届けたかった。そもそもそう誓いをたてていたのだ。
5)しかし、それは形としては叶わなかった。どうしてなのか、当時はよくわからなかった。だが、今回、彼の生涯を振り返ってみると、ちょうど私がインドに渡る時にできたあの演劇アトリエは、まさに私が帰国する直前に解体されていたのだ。
6)一年間日本を留守にしていた私は、その経緯がよく飲み込めていなかった。しかし、私が届けることができなかったのは、届けるべきところが解体されていたからだったのだ。そして、その頃、石川裕人は、自らの「演劇」性を疑い、そこから限りなく離れようとしていた。
7)私もまた、帰国後、農業学校に入り直したりしたので、口の悪い友人たちからは「宮沢賢治みたいだ」などと皮肉を言われつつ、実は体に病を得て、生死の境をさまようことになる。
8)私の病気が奇跡的に完治したのは、1982年になってからだった。一旦死んだものと居直った私は、結局は、私の道は「瞑想」性しかない、と覚悟した。しかし、ここも不思議なもので、石川もまた、奇跡的にこの時、同時的に自らの「演劇」性へと復帰していったのだ。
9)なぜそのように復帰したのか、彼は言葉を濁して語ってはいない。どこかに残しているかもしれないが、現在のところ、私には確信はない。しかし、彼の「復帰」は、私の「復帰」と無縁ではない、という直感をもっている。
10)私たちは、自らの「演劇」性を通し、あるいは自らの「瞑想」性を通して、1986年、この「ダイヤモンド・スートラ」と出会う。それぞれの角度から、若者らしい清純な感性を使い切って、そのビジョンを嗅ぎ取った。
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