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2012/11/15

唐十郎と宮沢賢治で読み解く石川裕人 『石川裕人劇作日記 時々好調』<4>

<3>からつづく 

Newton
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <4>
石川裕人 2005/09~2012/09 Vol.3 石川裕人年表
★★★★★

1)昨夜の「情熱大陸」は唐十郎。相変わらずいい意味で狂っている。毎年唐の誕生日には自宅でパーティが開催されるらしく、そこではかつての戯曲が役者達によって演じられている。大久保鷹もいた。それを見ている唐の目は異様に光っていて、そして涙さえ流している。とてつもない没入だ。
稽古場は自宅にあり、8畳間くらいしかないかもしれない。稽古は広ければいいってものじゃない、密度だよ、熱だよ。稽古が終わって16:00。唐はメンバーにこう言った。「ちょっと飲もうか」稽古が終わってすぐ飲める体勢といい、すぐ鍋を囲んでという雰囲気、いいなあ!!唐の若さはこういう原動力があるからかもしれない。狭くてもいいから、稽古場また持とうかな。
唐・状況劇場の「愛の乞食」に出会わなければ芝居をしていなかったかもしれない愚生の灯台でもある巨大な師、お元気で。
2006年 5月 8日 (月).......唐十郎。」

2)あん時も一緒に見に行ったよね。二人共高校生だった。私しゃ演劇人ではなかったからそれほど人生は変わらなかったけど、ニュートンにしたら、どでかいことだったんだな。

3)唐十郎「劇的痙攣」。小林信彦「地獄の読書録」。篠山紀信「作家の仕事場」。「2006年 5月10日 (水).......公演まで3週間。 」

4)「劇的痙攣」は明日あたりから読む予定。6年半遅れ。って、唐十郎は、私のリストにはもともとなかったからなぁ。ニュートンを追悼する意味でようやく読み始めたところ。

5)めっきり酒も弱くなり、5合以上呑むと次の日はずだらである。昨日の居酒屋の宴会もうまい地酒が揃っていたので次から次と呑み、家に帰っても焼酎を呑み、今日は起きてはいるが廃人一歩手前。石川廃人なんてね。廃人というのは大げさだが、本を開く気力がないのを廃人だと思っている。読書が健康のバロメーターかもしれない。もちろん稽古の時間くらいまでには回復しましたよ。で、稽古が終わって家に帰ってまた呑み始めた。懲りない体。酒はうまいが体がまずい。うまいと感じる体が何故悪いのだろう?こんなに酒がうまいのに肝臓が悪い。まずくて体を悪くするのならわかるが、旨い酒を呑んで体が悪くなるのが解せない。これ、煙草も同じだね。「2006年 5月15日 (月).......石川廃人。 」

6)あんたはずいぶん呑んだね。酒を飲まなきゃ、演劇やれないのかな。

7)「演出家の仕事 60年代・アングラ・演劇革命」日本演出者協会+西堂行人と「昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫」という本を購入。どちらもいぶし銀のようで現在に直結するテーマを扱っている。(中略)そして実際今現在の愚生を作ったとも言える出会い、寺山修司さんと東由由多加さん。まだ17歳くらいのガキの頃、一緒にこたつ囲んで芝居の話、家出の話、ロック・ミュージカルの話など尽きることなく話しをした。

 話しをしたのは彼らで愚生はずっと聞き入っていたのだが、寺山さんが例の口調で愚生にこう言った。「あのね、顔の大きい人は座長になれるよ。」あのまま寺山さんの所、天井桟敷に家出してたら今頃どうなっていたのかねえ。東京キッド・ブラザーズまではたどりついたのだが…。修業時代の面白い話しはいっぱいくさるほどある。また今度。でも本の方は元気のない時のビタミン剤のような本だなあ。「2006年 5月16日 (火).......アングラ芝居検証本。」

8)「演出家の仕事 60年代・アングラ・演劇革命」、この本も明日あたりから読み始める。6年半遅れ。例の寺山・東との会食の場には私はいなかったが、例の「朝日ジャーナル」ミニコミ特集1971/03/26がきっかけだと思うから、私も関係者のひとりということになろう。もっとも、私は72年6月頃に、ヒッチハイク日本一周の最中に、青森県民会館の天井桟敷の公演に潜り込んで、寺山や九条や佐々木英明やシーザー、友川かずきなどと飲んで宿舎にとめてもらったのだった。わはは。でも演劇人にはやっぱりならなかった。縁がないんだな。

9)今日も終演後、酒盛りが始まった。無事を祝っての御神酒である。無事を祝って、祈って15日間御神酒の日々が続く。遠来の友が来るし、しばらくぶりの顔とも会える。これを御神酒無くして過ごせるかってんでぇ!!って、なんで江戸っ子なの?「2006年 6月 1日 (木).......御神酒の日々、開ける。」

10)あ~あ、また飲むの。

11)5月の初旬から読み始めて途中で止まっていた「カラマーゾフの兄弟」をまず読み倒さねば。ほぼ2週間ぶりに上巻のページ(まだ上巻なのだ)を開いたが、圧倒的なパワーの世界に引きずり込まれる。もう少しで中巻。夏休みの読書感想文の課題図書を読んでるような、今日の仙台の天気である。「2006年 6月19日 (月).......充電しなければ。」 

12)「カラマーゾフの兄弟」を当ブログで読んだのは2009/08。二年二ヶ月遅れ。なかなか面白い構図になっていたね。

13)次の公演はPlay KENJIである。宮澤賢治の作品を換骨奪胎するシリーズでファンが多い。賢治の研究書は数多あり、それを読むも読まないも愚生の賢治論であり、演劇論でもある。
 千葉一幹「銀河鉄道の夜しあわせさがし」。次が「銀鉄」ものなので読んでいるが、どこかで読んだような論で新しさは感じない。全く新しい地平から賢治を捉えることは可能だろうか?愚生は研究者じゃないから手柄を立てるつもりはないし、その任でもない。だから無責任にやれる。
「2006年 6月21日 (水).......沸々と不埒に。」

14)「ザウエル」~犬の銀河 星下の一群~PLAY KENJI♯5を準備中だったのだろう。「銀河鉄道の夜しあわせさがし」は未読だから、近日中に取り寄せて読むことにしよう。

15)ちょっとの間酒を断つことにする。誰も愚生を誘うなよ。「2006年 7月 1日 (土).......今年の半分が終わった。」

16)そうそう、そのほうがいいよ。ちょっとの間、なんて言わずに、ここで断酒できれば、あんたはもっと長生きしたよ。

17)押野武志「童貞としての宮沢賢治」読了。タイトルはスキャンダラスだが、まっとうな賢治論。生涯童貞と言われた賢治だが、何故そう思えるのか作品から追っていく。
実生活ではなく作品から探るという方法論は潔い。しかし、賢治という人、近親相姦的関係、同性愛への傾き、マザコン、ロリータ、多形倒錯、春画収集家などなど、様々な顔が見えてくるのだが、どうも他者とのコミュニケーション不全を囲っていたように思える。現在こういう人は結構世の中にいっぱいいて、賢治は先駆的存在だった。
2006年 7月 3日 (月).......「『童貞としての賢治』」

18)この本も君の書斎のちょうど真正面の目の高さにあったから、すぐに気がついた。そうか、この時に読んだんだな。当ブログ未読、近日予定。

19)で、愚生は高校卒業してドロップアウトした時点で上昇志向は捨ててしまった。今考えてみるとすごい早い離脱だけど、世が世なら修行僧なんだろうね。いまだに世のなんたるかがわからない虚け者なので修行の日々はいつまでも続くのでしょうが。「2006年 7月 8日 (土).......修行するぞ。 」

20)長い長い59年と一ヶ月の旅だったが、あの頃の1・2年が大きな転機だったね。いやぁ、ニュートンはニュートンらしい飛行ルートを通って、高く高く飛翔したと思うよ。

21)西成彦「森のゲリラ 宮澤賢治」読了。賢治の作品を読んでうすうす感じていたのは戦争、非常事態への思いだったが、それを解き明かしてくれた。帝国主義戦争・ファシズムに巻き込まれた人間の心情をもう既に書いてしまっていたという指摘は慧眼。次の戯曲「ザウェル」では動物管理センター(遺棄された動物たちの収容所)からの視点を取ろうと思っていたので、刺激的なインスパイアだった。「2006年 7月10日 (月).......『森のゲリラ』。 」

22)この本も当ブログ未読。近日予定。

23)8月6.7.8日は仙台七夕、全国的にも有名なお祭り。毎年この8日になると思い出すことがある。穴があったら入りたい、穴が無いなら掘ってでも入りたい、そんな大馬鹿な思い出、思い出は重いでえ。仙台市民会館大ホール、立ち入りならぬのお達しが出るくらいの乱痴気騒ぎの一部始終を初めて公開。

 それはもう約30年前の夏。その頃愚生はヒッピーまがいの生活をおくっていた。当時こういうことをやっていた人間は全国に散らばっていながらもネットワークが確立していた。驚くべきことだけどパソコンもメールもファクスでさえその当時は無かった。電話さえダイアル式だよ。でも全国ネットがあったのだ。その仙台ステーションに関係していた。

 「雀の森」という名前だったが、名前はとりあえず場所の呼称だったように思う。なんと二間のアパートに全国から様々な人間が集った。政治活動家、映画人、旅人(いたんだよこういう人が)、薬草栽培家(危ない)、ミュージシャン、何もしない奴(今で言うプータロー)、労働組合幹部等々。そこでの付き合いが今現在の愚生の考えの立脚点だと確信できる。当時は芝居はやっていたが、別にどうなっても良かった。

 で、仙台で夏祭りをやろうということになったのだ。その夏、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが日本に来るという情報をつかんだ東京組がコンサートをやれるかもしれないということを言ってきた。なに!?レノンのコンサート?それを仙台で?あっという間に話はふくらんだ。書いている内に恥ずかしくなってきた、というよりよくそんな話しに乗ったもんだという贖罪。詐欺です、全て。今初めて謝ります。レノンが来ると言って協賛を貰ったナショナル・テクニクス。ナショナルの命運をかけてすごいPAを用意してくれた。

 そして当日、勿論レノンはおろかノレンさえくぐれず。演奏したのは大学のアマチュアバンド。なんでこんなバンドがやることになったのか全然覚えていないのだが、そのメンバーの中には後で著名になる考古学者や一緒にやることになる役者も含まれていた。だが全国からやってきたヒッピー連がそのバンドを面白くないと言ってこきおろし、喧嘩は始まる、愛の交歓が始まる、ほぼアナーキー状態。そうこうしてるうちになだれ込んできた七夕ぼんぼり軍団。七夕の飾りを手に持ち歌うは踊るわ裸になるわ。もう手のつけられないことになった。

 おまけに当日の申し込み責任者は愚生で会館関係者から追われる始末。「石川という者はどこにいる?」逃げる逃げる!!チャップリンの映画のように会館の中を早足で逃げた。かくて市民会館出入り禁止。そのあと、愚生らは「カーニバル」ベースキャンプの牛越橋たもとのテントに戻って終わらないライブをやったんだった。パトカーは連日来たけど、別に誰も捕まる者もなく、ミニ・ウッドストック牛越だった。あの頃の連中今なにしてんのかなあ?
考えてみると耐えられないほどの面白さ、そして青春っていうほんの一時の痛みと輝きがみんなあった。社会も、関係も、大きな世界もあんまり病んでいなかった。

 ここに書き切れないほどの真情あふるる軽薄さは書かなければならないなあ。誰も書いていないこと。心の底深く沈んでいく大切なことを書きたくなってきた。「2006年 8月 8日 (火).......七夕の大馬鹿 Uoo!!」

24)これは1974年の夏のこと。この当時のことを書くのはニュートンか私しかいないだろう。体験した人は多いが、書き手がいない。それにしても、この次の年の「星の遊行群・ミルキーウェイキャラバン」からは、ニュートンの名前が消えていたような気がする。何か心境に変化があったかな、と思う。

25)ここでブログのサイトが変わって、現在のものになる。---------

26)結婚記念日でした。
といっても式場で大がかりなことをやったわけではなく、籍を入れた記念日。17Thです。中途半端やなあ!!
「2006.10.28 Saturday」

27)ということは、1989年10月28日入籍ということだね。さっそく年表に加筆。

28)伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」 2006.11.17 Friday

29)当ブログでこの本を読んだのは2006/12。一ヶ月遅れ。まぁ、ほぼ同時。

30)仙台の戯曲賞の審査もしているが、ほんと時の運というか、審査員との相性というか。劇作家の中には戯曲賞の審査員に合わせて書く人もいるらしい。賞を取るための傾向と対策なのだろうが、そこまでして取りたいもんかねえ。寺山修司のような無冠の帝王もいる。村上春樹のように賞なんて考えたことがない、読者が私の賞です。と言うのもクサイけど、どっかから思いもかけずくれる賞っていうのが一番いいような気がする。
そして賞に輝かなくても愚生の作はOAされているし、芝居は多くのお客さんに観てもらっている。要はこの仕事、持続することが大事なんだと思う。
2006.11.23 Thursday

31)同感。

32)打ち上げでIQ150の方々と懇談。IQの旗揚げメンバーの中にな、なんと愚生の作った初期劇団「洪洋社」の芝居を観てる人がいた。もう30年も前である。IQが旗揚げしなければ入団していたかもしれないということだった。

 その劇団にはIQの核・茅根利安君(現在はフリー)も在籍したことがあり、当時で10000円もの団費だけ払い続け、1回も舞台に立つことなく劇団は解散したのだった。それを反面教師として彼は丹野久美子さんや井伏銀太郎氏らとIQ150を旗揚げしたのである。

 そして愚生は極度の人間不信と芝居嫌いになり、3年間ほど芝居を一切観なかった。再起して今に至るだが、もう芝居から足を洗っていてもおかしくないブランクの時期だったなあ。

 なんで再起出来たのかって?それはヒミツである。酔って口が軽くなっている時に君だけに語ってやろう。
2007.01.21 Sunday

33)当ブログは、そのヒミツには唐十郎が絡んでいると推測している。

34)愚生もあだ名とのつきあいが40年以上にもなる。小学校の時つけられたあだ名が今でも流通していて、メールの差出人告知はあだ名である。(劇団員やらごく親しい人だけ)これは非常に珍しいケースではなかろうか?

 でも、劇団員の中には愚生をあだ名で呼べない人もいる。ま、最初から継母を「お母さん」と呼べないようなものだろうが、その呼べない2割の劇団員はなかなかに貴重なメンバーである。集団の中で座長と自分、他のメンバーと自分との関係のスタンスを取ろうとしているんだろう。

 そうだなあ、大体新人は1年以内に愚生をあだ名で呼べないと、そのまま石川さんとかゆうじんさんとかになるようだ。そして初めて愚生をあだ名で呼ぶときの彼ら彼女らの表情がすごいもぞこいんだよね。

 でも、愚生は自分のあだ名を気に入っている。よくぞつけたり林信夫。
2007.01.24 Wednesday

34)当ブログにおいても「ニュートンの名前の由来について」なんてことをメモしておいた。それにしてもその命名主が林信夫なんて書かれても、このつながりをわかる人物はそう多くあるまい(笑)。彼がつけたのか。なるほど。今度同級会で会ったら確認してみよう。

1963
 大王の右隣が石川裕人、大王の左隣が私。最前列の一番左側で槍を持っているのが林信夫。小学4年生の学芸会「孫悟空」

35)よーく考えてみると、興味のある戯曲は唐十郎しかないのではないか?色々な戯曲を再読してきて、やっぱりそんな風にも思われるので「唐十郎のト書きの風景」になるかも知れません。

 ということで唐十郎の言葉「舞台に立つ人が、市民としてのアイデンティティを客席とキャッチボールしあいながら、自分自身の社会的存在感を確認するという演劇がずっと続くようだったら、僕は芝居なんかやっていないと思う。」さすがである!!
2007.01.27 Saturday

36)どこまでも唐十郎が好きだったんだなぁ。

<5>につづく

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