背中まで迫ってきていた3・11 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <8>
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <8>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★
1)わしも60歳になったら「ニュートン祭」でもやるか。2009.01.09 Friday
2)やってほしかったな。ところで、ニュートンという名前の命名主HN君は、昨日の同級会の幹事会で聞いたところ、同級会の集まりには一度も出席していなかったらしい。小学校のどの時期にそういうエピソードがあったのか、聞きたいと思っているのだが。
3)家人は清志郎のファンだ。昨夜遅く家人の友達からメールが入って、それでわしも知るところとなったが、58歳、早過ぎる。
合唱、合掌。
昨日血圧が高くて稽古を休んだ。わしも気をつけねば、と思うも、やったれ!!とも思う。長くチマチマ生きながらえるより、短くてもぶっとく生きたいと思う。でも、56年も生きてきたんだから長いといえば長いし、中途半端な年齢だ。2009.05.03 Sunday
4)なにをかいわんや。
5)日本演出者協会編集の「演出家の仕事」③が発行された。この巻は80年代・小劇場演劇の展開で、巻末の80年代より活躍する演出家リストに僭越ながらわしもアップされた。書店にて立ち読みしてください。2009.10.17 Saturday
6)最初見失ったと思った80年代の石川裕人だが、ここまで当ブログでおっかけてくると、かなり明瞭になりつつある。「80年代・小劇場演劇の展開」は、その推定を補強してくれるものとなるかもしれない。今手元には「演出家の仕事」①(にあたるもの)がある。
7)今年中に20冊の本を読むことを課したが、実は熟読・精読しなければ20冊なんてあっという間に読める。そりゃそうだろうって飛ばし読みでもないのがわしの読書法。どういう読み方かというと、同じテーマの本を10冊なら10冊一斉に読んでいく。ざっとページをめくっていくうちに気になるワードが目に飛び込んでくる。そこを細心に読んでいく。気になれば付箋を貼る。こうやっていくうちに全体像がなんとなく浮かび上がる。そこからどうしても気になった本1,2冊は精読する。ここでもう一度読まなければならない本に当たれば全く新しい本に手をつける。まるでブックローラー作戦である。2009.12.16 Wednesday
8)これは当ブログもだいたい同じ。「松岡正剛などには鼻で笑われるだろう。」とも言ってはいるが、「きちんと読む本も勿論あるんですよ。」というところも同じ。
9)2年越しの大仕事、HP"OCT/PASS"の劇団の軌跡がやっとコンプリートした。ライヒお疲れさんでした。’95年の旗揚げ公演からのチラシ、舞台写真が掲載されています。どうぞご覧ください。2010.02.01 Monday
10)この「上演作品紹介」わりと以前からあるのかと思っていたが、この2年ほど前の仕事だったんですね。ライヒさんの仕事なのか。
11)「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」連載開始しました。HPバナーかこのブログのリンクからどうぞからどうぞ。不定期連載です。2010.02.03 Wednesday
12)二年半前スタートか。準備させられていたようなもんだな。当ブログでもひととおり目を通した。細かくは今後追っかけを継続する予定。
13)「劇作風雲録」第三回もUPしました!!2010.02.15 Monday
14)ここで私の名前と私がつくったチケットの画像が紹介されている。
15)。アルトーの「演劇と形而上学」にもろ影響を受けた戯曲である。「もし、演劇がわれわれの抑圧に、生を与えるためのものなら、一種の恐るべき詩が、奇怪な行為の数々によって表現されるだろう。」今この本を取り出してみると鉛筆で括弧を書き、線を引っ張り、多くの書き込みがある。この本は唐十郎師の「腰巻お仙」内の「特権的肉体論」と共にこの時代の私のバイブルだった。2010.02.15 Monday
16)すでにこの18歳の時から唐十郎「腰巻お仙」内の「特権的肉体論」を読んでいたわけだ。
17)この2010/02/15前後に、私は家族とぞろぞろと埼玉の「ジョン・レノン・ミュージアム」に行ったり、Oshoの「秘教の心理学」やケン・ウィルバー「インテグラル・スピリチュアリティ」を読んでいたのだった。あの頃、ニュートンは、私のことを思い出していたのだ。
18)椎根和「平凡パンチの三島由紀夫」読了。当初三島のゴシップや裏話がどんどん出てくるので軽い読み物かと進むうち、ユング、プルースト、フロイト、ウォーホルなどの系列から三島の行動原理を探るという結構になり自決の謎へ言及するというアクロバティックな構成の本。新奇なことはないが、三島の謎は解明されない。解明されなくていいのだけれど。2010.03.09 Tuesday
19)「平凡パンチの三島由紀夫」を当ブログで読んだのは2008/6/29。先行すること1年ちょっと。ここで気になるのは、石川の三島観。遺作となった「方丈の海」は、三島の遺作「豊饒の海」にかけていると思うが、その謎解きは、まだ始まっていない。
20)葬儀、火葬のときは冷たい雨が降っていたが、昨日父の四十九日と納骨は春の日差しだった。これで一段落。父も約束の場所に眠りについた。
伊藤比呂美「読み解き 般若心経」読了。作者自身の親の死に目の体験から掘り起こし読み解いたお経の数々。お経そのものより彼女の体験が身に迫る。老親のデッサンはまるでうちの親を見ているようだ。そうか、どこも同じ空か。深く納得した。 「いつか死ぬ、それまで生きる」深く軽く良い本に出会った。2010.03.15 Monday
21)迫り来るXデー。般若心経とかの話になれば、こちらの好みも細かくなるが、供養である。この本も近日中に目を通してみよう。
22) 「ノーチラス」を書きながら思いつくままに頭の栄養として様々な本の断片を食いちぎる。アーサー・ミラー「南回帰線」、ドストエフスキー「地下室の手記」、ロートレアモン「マルドロールの歌」、この中に「大落語論」も入れよう。2010.03.17 Wednesday
23)ドストエフスキー「地下室の手記」は当ブログでは2009/07/25にメモしている。精読したとはとてもいえないので、いずれ、まためくってみよう。
24)昨日のぎっくり腰は昨今の腰痛とは一線を画す痛みと苦しさで遂に治療院へと。実は旧友・悪友が院長なので気易いが、なかなかここまでひどくなることはないのでご無沙汰していた。運転して行った家人ももちろん旧知。そんなつもりもなかった家人も一緒に治療を受ける。
わしは腹筋への電気マッサージ(というのか?)、背中への電気マッサージと針治療。これですぐさま治るわけはないが、帰るときには1メートルを1秒くらいで歩けるようにはなった。
「ノーチラス」は書くことも出来ない。しかし、口述筆記という手があると閃いた。 ところで治療院の院長は「劇作風雲録」の「十月劇場」の写真などでお馴染みのO氏である。最近酒をぴったり止めたとか、昔は二人で二升なんてざらで、酒屋を起こして酒買ってきたものだった。あの頃一生分の酒を呑んでしまったはずなのに、わしはまだ意地汚く酒を呑んでいる。2010.04.07 Wednesday
25)この二人は10代からの付きあいで、私もここに絡み込む。この時に、ニュートンも酒をきっぱりやめときゃなぁ、と思う。・・・・・といいつつ、 O氏(サキ)には私も「酒をやめろ」と言われている。だが、やめることができない。やはり他人のことは言えない。結局、酒を早々と切り上げたO氏(サキ)が一番長生きすることになるのであろうかしらん。
26)本日もO治療院に行く。そしたら級友・旧友・悪友のA氏が先客(とは言わないか)でベッドに横たわっていた。同病です。気持ち安らぐ治療が終わってO先生も入って3人で歓談。二人はどう思っているかわからないが、この二人は親友と呼べる人たちだ。A氏の結婚式の司会をしたお返しにA氏にはわしの葬儀委員長を任せることにしている。ま、それは冗談のような本当のような話だけど、久しぶりに気の置けない二人と話すことが出来て楽しい午前中だった。2010.04.10 Saturday
27)あらら、こんなことまで書いてある。A氏とは、もちろん私のこと。ほんとあの頃は私も腰を痛めっぱなしだったよ。寄る年波には勝てないね、お互い。「A氏の結婚式の司会をしたお返しにA氏にはわしの葬儀委員長を任せることにしている。」って、これは私が言い出した冗談だったが、結局それに似たようなことになってしまった。
28)葬儀委員長とはおこがましいが、とにかく、無事葬式は終わって、まもなく六七日、四十九日、百ヶ日と続いいていく。待ってておくれ、いつかは私も行く道でありんす。だが、あんたのやり残した仕事をかたづけなくては、とてもそちらに行く気にはなれん。断固、まだまだいかないぞ(決意表明)。
29)「ノーチラス」台本印刷が終わり、家人が持ち帰ってきた。表紙入れると122ページの厚さ。ぎっちりと綺想、妄想の世界が描かれている。1971年の処女戯曲から40年の集大成だと思う。この40年間、100本戯曲に書いてきたテーマはやはり一徹一貫していることが証明されたような気がする。2010.05.09 Sunday
30)100本の戯曲のテーマが一徹一貫しているかどうかは、私には分からない。しかし、ニュートン=石川裕人がシナリオ・ライター(劇作家・演出家)として、「一徹一貫」して生きたことは、私が生き証人となって証言する(って人は私以外にもいっぱいいるだろうな)。演雅一道居士に恥じない、一本道であった。
31)芝居に死す。劇作家として本望の生き方だと思う。2010.05.11 Tuesday
32)ここまで言い切る男に、切り返す言葉など、私にはない。
33)つかこうへいさんが亡くなった。One and Onlyとはこの人のことを言うのではないか?70年代後期から80年代初頭にかけて演劇シーンはつかこうへいと共に動いた。この人の作品をやった大学劇研や小劇団は数多くあったが、どれひとつとして面白いものを観たことがない。つか戯曲はつかこうへいしにしかやれない特権的なテキストだった。享年62歳。まだまだだよなあ。2010.07.13 Tuesday
34)ここまで無視し続けてきたが、この1年くらい、誰かが亡くなったという記事が他出している。忌野清志郎、井上ひさし、藤井黎仙台元市長、そしてお父さん、奥さんのお父さん、お母さんなど。本人がどんどん高齢化しているのだから、周囲も同じことなのだろうが、そういうことに敏感にならざるを得ない老境に入りつつあったということだろう。ということは、この私も同じことだが。
35)お盆。葛岡にお墓参り、二寺三基。 そのあと、くろ丸の遺灰を海に還した仙台港へ。帰宅して今度は父が入るお寺へ、ここは車で3分もあれば行ける近所。今日はわしをこの世界に導いてくれたE先生のお墓参りをしようと思っている。ここも車で5分圏内。お盆、心がしんとする貴重な日だ。2010.08.14 Saturday
36)ここでE先生とは小学校4年のときの担任、越前千恵子先生。 ことあるごとにでてくる。この 『石川裕人劇作日記 時々好調』がスタートした地点では、宮沢賢治がけっこうでていたが、だんだん唐十郎が多くなって、やがて越前先生のことがでてくるようになった。どんどん小さい時へ逆行しているようだ。
37)それにしても、けっこうマメにお墓参りしているね。これは意外だった。もっと「不信心」かと思っていた(笑)。私もけっこうお墓参りしているけど、自分のブログにはほとんど書いたことはない。何か察するものがあったのかしらん。
38)谷啓さんが亡くなった。わしの精神風土をつくってくれた子ども時代のヒーローの一人だった。何気なくつけたBSでドーモ君をやっていて、うさじいの声が谷さんだった。合掌。2010.09.12 Sunday
39)またまたでてきた訃報ニュース。けっこう敏感になっているね。
40)友人のブログをしばらくぶりに開いたら入院中の病院からだった。病名は白血病。驚いた。1週間分の入院日記を読む。あっという間の診断、入院だったようだ。涙がこぼれてきた。
彼とはバカやっていた若い頃に同居していたことがある。うちの芝居の照明をやってくれたこともある。センシティブな奴で、いい写真を撮る。早速メールを出そうとしたが、わしのメールアドレスが不正アドレスということではねられてしまう。どういうこと? わしのブログを読んでいるかも知れないのでここに記します。
ご無沙汰ですね。アイの写真が見たくてブログのぞいてました。なにせうちで去年まで飼っていたくろ丸とそっくりだったもんで。そしたら今回の入院のことを知りました。びっくりです。貴君本人が一番びっくりしているでしょうけど。わしも3年前に1週間ばかり入院しました。早期発見早期治療のおかげで未だに元気です。定期的に通院して検査を受けていますよ。色々考えることあるでしょうが、今は治療に専念してください。大丈夫、絶対大丈夫!! 2010.11.01 Monday
41)これは以前、M坊の名前ででてきたミー坊のこと。2011/02に亡くなった。
42)闘病中だったミー坊が昨日午前7時20分に亡くなった。「風来」が終わったら彼からの宿題をまとめるつもりだったのに、未完になってしまった。春になったら訪ねていこうとも思っていたのに。悔しい。自分が一番悔しいだろう。前日までブログも書いていたのにそういえば「時の葦舟」第1巻「絆の都」の照明やバラシも手伝ってくれたっけ。
「風来」をミー坊に捧げるつもりで残りステージを丁寧に創っていこうさよなら、君の斜に構えた笑顔をいつまでも忘れない。合掌 2011.02.11 Friday
43)って、おなじみのO鍼灸院へ。彼もミー坊とは旧知の仲。告別式では弔辞を読んだ一人。医者に行けと進言したのも彼だ。そしてミー坊は翌月入院。闘病4ヶ月だった。
告別式にはわしとミー坊と一緒に暮らしたこともあるGちゃんも大雪の秋田湯沢から来ていたとか。会いたかった。芝居は親の死に目にも会えないと、良く言うが、本当にそうだなあ。
鍼を打ってもらい、張っていた腰が回復した。大阪行くまであと1,2回行っておくか。2011.02.15 Tuesday
44)芝居のことがたくさん書いてあるのに、ついつい、こんなとこばかり拾い読みしてしまう。G(ゴトー)ちゃんは、ニュートンの葬儀の時にはギターをかきむしって唄を弔辞として捧げた。Gちゃんにしてみれば、ほんのちょっとの間にM(ミー)坊とニュートンの二人を失ったことになる。もちろん、それは私やO(サキ)とて同じこと。
45)亡くなってから1ヶ月、やっとミー坊にお線香を上げることが出来た。家には奥さんとひとつぶだねのさくらちゃん、そしてお父さんが。
昨年11月から始まった往復メールのミー坊のコメントを奥さんとさくらちゃんに読んでもらいたくて持って行った。あと、戯曲集とね。彼は「絆の都」を手伝ってくれている。
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