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2012年11月の73件の記事

2012/11/29

不思議さに満たされる時 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<6>

<5>よりつづく

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <6>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

1)スブーティは訊ねた。「未来の世に、最後の時に、最後の代に、最後の五百年代に、良い教えが滅びる頃になって、この経典の言葉が説かれるとき、その真理を理解する者たちが誰かいるでしょうか?」

 世尊は答えて言われた。「スブーティよ、そのように言ってはならない。そうだ、その時代でも、この経典の言葉が説かれるとき、その真理を理解する者たちがいるであろう。なぜなら、その時代にさえも、スブーティよ、菩薩たちはいるからだ。

 そしてその菩薩たちは、スブーティよ、ただひとりの覚者を敬った者たちではなく、ただひとりの覚者の許で善根を植えた者たちでもない。それどころかスブーティよ、この経典が説かれるとき、たとえ一念だけでも静かに澄んだ<信>を得る菩薩たちは、何十万という多くの覚者たちを敬い、何十万という多くの覚者たちの許で、善根を植えてきた者たちなのだ。

 彼らは、スブーティよ、仏智によって如来に知られている。彼らはスブーティよ、仏眼によって如来に見られている。彼らは、スブーティよ、完全に如来に知られている。そして彼らはすべて、スブーティよ、測り知れない、数え切れない功徳を積むであろう」p141「ダンマの車輪」

2)私はこの「ダイヤモンド・スートラ」を聴くためにインドに呼ばれた。ちょうどそのタイミングだった。そのときしかなかったのだ。そのとき私を送り出してくれたのは、石川裕人たちの演劇アトリエの仲間たちだった。

3)私たちの共同体が、演劇人としての石川裕人を送りだしたように、石川裕人たちの「演劇」性は、私を「瞑想」性へと送りだした。今回、彼の生涯をたどりながら、いくつも不思議なことを発見した。

4)私は、あの演劇アトリエから送り出してもらったことにとても感謝していた。そして、インドで勝ち得たものを、一番に、彼らの演劇アトリエへと届けたかった。そもそもそう誓いをたてていたのだ。

5)しかし、それは形としては叶わなかった。どうしてなのか、当時はよくわからなかった。だが、今回、彼の生涯を振り返ってみると、ちょうど私がインドに渡る時にできたあの演劇アトリエは、まさに私が帰国する直前に解体されていたのだ。

6)一年間日本を留守にしていた私は、その経緯がよく飲み込めていなかった。しかし、私が届けることができなかったのは、届けるべきところが解体されていたからだったのだ。そして、その頃、石川裕人は、自らの「演劇」性を疑い、そこから限りなく離れようとしていた。

7)私もまた、帰国後、農業学校に入り直したりしたので、口の悪い友人たちからは「宮沢賢治みたいだ」などと皮肉を言われつつ、実は体に病を得て、生死の境をさまようことになる。

8)私の病気が奇跡的に完治したのは、1982年になってからだった。一旦死んだものと居直った私は、結局は、私の道は「瞑想」性しかない、と覚悟した。しかし、ここも不思議なもので、石川もまた、奇跡的にこの時、同時的に自らの「演劇」性へと復帰していったのだ。

9)なぜそのように復帰したのか、彼は言葉を濁して語ってはいない。どこかに残しているかもしれないが、現在のところ、私には確信はない。しかし、彼の「復帰」は、私の「復帰」と無縁ではない、という直感をもっている。

10)私たちは、自らの「演劇」性を通し、あるいは自らの「瞑想」性を通して、1986年、この「ダイヤモンド・スートラ」と出会う。それぞれの角度から、若者らしい清純な感性を使い切って、そのビジョンを嗅ぎ取った。

<7>につづく

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ふたたび動き出す法輪 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<5>

<4>よりつづく

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <5>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

1)「世界は、車輪のように動いている。<世界>という言葉にあたるサンスクリット語は、サンサーラだ。サンサーラとは車輪を意味する。その車輪は大きい。そのひとめぐりは、ちょうど25世紀だ。いまや25世紀が過ぎた・・・・。再び、世界は混沌のなかにある。再び、車輪は同じ地点に来た。それはつねに同じ地点に来る。この瞬間がおこるには、25世紀かかる。25世紀ごとに、世界は大いなる混沌状態にはいる。人間は根こそぎにされ、空しく感じはじめる。生の価値はすべて消える。大いなる闇が取り囲み、方向感覚は失われる・・・・・」p5「まえがき」

2)そもそもOshoであろうと、ブッダであろうと、ひとつの「演劇」性で読み解くことも可能であろう。たしかに演劇仕立てではある。その演劇の一部となって、リアリティを感じるか、演劇を単なるエンターテイメントとして楽しむか。どちらも可能であろう。石川裕人はこの一冊をこの文章から読み始めて、いったいどんなことを感じていただろう。

3)「この混沌の時、この無秩序の時は、大いなる災いにもなりうるし、人類成長の量子的飛躍を証明することにもなりうる。それは、私たちがこの時をどう使うかにかかっている。偉大な星が誕生するのは、このような偉大な混沌の時代においてだけなのだ」p5同上

4)3・11後を生きる、というテーマで、復旧復興を語る潮流はあるけれど、本当は、もっと大きなスパンで、もっとリアリティを持って語られなければならないことがある。考えようによっては、人間が生きるということは、日々ポスト3・11なのである。そうでなかった試しなどない。特にこの「ダイヤモンド・スートラ」は、そのあたりの人間意識のトリックをあばききる。

5)「いまや、私たちは再び大いなる混沌のなかにいる。そして人間の運命は、私たちが何をするかにかかっている。人間は自滅することもできるし、再生することもできる----。両方の扉が開かれているのだ」p5同上

6)この「演劇」性を笑い飛ばすことも可能だし、そのリアリティのなかに「瞑想」性をもって入っていくこともできる。いずれにせよ、それをどう扱うかは、それぞれの存在にまかされている。

7)「来たる25世紀目、つまり今世紀の末期は、途方もなく価値のあるものになろうとしている。もし私たちがこの世界に、瞑想、内なる旅、平安、静寂、愛、神のために、ある勢いを創りだすことができたら・・・・・、もし私たちが、この来るべき25年間に、神が大勢の人々に起こるような空間を創り出すことができたら、人類は新しい誕生、復活を得る。新しい人間が誕生するのだ」p6同上

8)私はこの「演劇」性への参加者だ。観客でもあり、スタッフでもある。時には照明をやり、情宣をする。役者としてステージに立つことも厭わなければ、部分的にはシナリオだって書いた。私は、この芝居と一生つきあおう、とあの時決意したのだから。

9)「仏陀が動かした車輪は止まった。その車輪は再び動かされなければならない。そしてこれこそが、私とそしてあなたのライフワークになる。その車輪は、再び動かされなければならない」p6同上

10)それは私のライフワークであり、私はそのワークの目撃者だ。1978年3月にスリランカ仏足山の日本山妙法寺・藤井日達上人からOshoへと伝わった法輪を私は見た。それを見届ける楽しみで、私は今日まで生きてきたと言える。

11「ブッダフィールドとは、ブッダがさまざまな存在を成熟させるエネルギー・フィールドだ---すみやかな精神的成長のための理想的条件を提供する、浄土、超俗的な世界、地上の楽園だ」p7同上

12)そのワークに参加しつつ、また新たなる小さなオアシスを探し、つくり、また浄化する旅のキャラバンの一員であったことを誇りに思う。

13)「この経典全体は、いかにして完全に空になるかに関わっている。これは、世界への仏陀の根本的な贈り物だ」p7同上

14)愛すべき畏友・石川裕人が、その一生をかけて、私にこの一冊を残してくれたことに感謝する。彼が自らの死をかけてそのチャンスを作ってくれなかったら、私はこの本を再び読むことがなかったかもしれない。

15)「私が死んだように、死ぬことだ。そうすれば、あなたは私が生きているように生きる。まったく個人とは関係のない生がある。まったく自己とは関係のない生がある。<空>の生、純真無垢の生がある。私はそれをあなたにひらいている。あなたの恐怖を捨てなさい。私に、もっと近づきなさい。私をあなたの死と復活にすることだ」p8同上

16)私は、この言葉を聞くためにインドに旅立った。そして再び、10年後の石川裕人に目に止まった。そしてあれから何年も経過した。そして、お互いの死を通過しながら、ふたたび復活し、ここに生きている。

<6>につづく

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2012/11/28

agataとアガルタ 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<4>

<3>よりつづく

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <4>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

1)二つのことが理解されなければならない。ひとつはタターガタththagataという言葉だ。それは非常に不思議な言葉だ。それには二つの意味があり、互いにまったく反対だ。互に完全に反対の二つの意味----それは不思議な言葉だ。 

 一番目の意味は如来tatha-agata、それは「かくの如く来た」という意味だ。二番目の意味は、如去tatha-gata、それは「かくの如く去った」という意味だ。ひとつの意味は「かく来たり」、もうひとつは「かく去りぬ」だ。 

 幾人かの人々は一番目の意味を選んだ。「かく来たり」-----。この場合にはそれは、自分できたのではない者、ここへ来るいかなる動機もない者、を意味する。それがキリスト教徒たちがキリストについて好む点だ。キリストは神につかわされた。彼には、ここで達成されるべき動機や欲望はいっさいない。彼は使者として来た。 

 それがイスラム教徒たちがマホメットについて好む点だ。彼らはマホメットとバイガムバル、使者と呼ぶ。彼は自分自身の欲望を満たすためにこの世にきたのではない。彼は完全に満ち足りている。ここにいるべき理由はなにもない。ほかの人たちはただ来たのではない。彼らは彼らの欲望のせいで来た。彼らは来たかった、だから来たのだ。 

 仏陀は来た。彼が来たかったからではない。彼は<存在>そのものによって送られた。彼のなかで形をとっているのは<存在>だ。それには理由も動機もなく、個人的欲望はいっさいない。それがタターガタの一番目の意味だ。「かく来たり」-----。 

 幾人かの人々は二番目の意味を選んだ。「かく去りぬ」-----。それはすでにここから去った者を意味する。もし仏陀のなかに深く入って行ったら、あなたはそこに誰も見出さない。彼はその「住居」を立ち去っている。彼はもう肉体のなかには存在していない。彼はもう肉体のなかには現存していない。彼は空(くう)になっている。彼は善逝だ、完全に彼岸へ逝っている。彼の真の<実在>は彼岸にある。此岸ではただ影だけが動いている。 

 しかし私自身の選択は両方ともだ。私はタターガタという言葉をこう解釈したい。「かく来たり、かく去りぬ」、風のように・・・・・・。

 風が来るのはけっして自分自身の理由、自分自身の動機のためではない。風は完全に<存在>のなかに身をゆだねている。それは<存在>が自分を送るところならどこへでも行く。それは必要があるところならどこへでも行く。p278

2)このThe Diamond Sutraの講話は77/12/21~ 77/12/31の間に、インド・プーナで行われている。考えてみれば、この講話の時、私はあのブッダ・ホールにいたのだ。そしてこの本が翻訳されて日本で出版されたのは、1986/03。これは見事に符号する。

3)以前、The Osho Upanishad <2>にも書いておいたが、ほぼ当ブログにおけるagata=agartha=アガルタプロジェクトは、この地点において一定の結論をみた、ということになる。

<5>につづく

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ニュートンが残した最後の一冊 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<3>

<2>よりつづく

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <3>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

1)早いもので、今日でニュートンが亡くなって49日目になった。 いつまでも、ニュートンの思い出に浸っていたい気分と、 いつまでも、こだわっていることを彼も望んでいないかな、 という思いがない交ぜになる。 昨日、初雪もちらつき、お墓の中のニュートンはさぞや寒いだろう、 と思ってみたり、彼のことだから割りとサバサバしているのかな、と 思い直してみたり。

2) 来年のことを言うと鬼が笑うと言うが、 いよいよ師走の声を聞くようになり、今年のことを片付ける 季節となった。 次は百ヶ日というけじめの日はあるのだが、 何はともあれ、今年は大変なことがあったなぁ、と振り返っている。 これからも、ニュートンが残してくれた仕事を自分なりに理解していきたいと 思う。

3)今日は49日目だから「チベットの死者の書」を読んでみようかなと思う。でも、あれって、もともとマスターに対する信頼感が基礎となっているので、形だけ読み上げても、あまり意味がないかもな。

4)たしかに「般若心経」も悪くないけど、先週、伊藤比呂美「読み解き『般若心経』」を読んでしまったしなぁ。それに追善供養と言っても、あちらに逝ってしまった存在と、こちらにまだいる存在が、共通意識を持てないと意味がないだろう。

5)彼の残した本と言えば、百本の上演台本を別にすれば、「時の葦舟」ということになるが、はて、それを墓前で読み上げることは、むしろ彼がこの世に執着する要因を作ってしまうのではないか。時間と空間を超えたスペクタルではあるが、ほんとにそれを読み上げることが、彼が成仏する起縁となるだろうか。

6)ニュートンの遺業について、それを受け取る側としては、まだいろいろやり残していることが多い。
・100本の台本にひととおり目を通したい。
・特に80年代の動きを、もういちどスキャンしてみたい。
・膨大に残された写真資料を振り返りたい。
・ビデオで残された公演活動を確認したい。
・劇団座敷童子の名前の由来の確認
・時空間などに残された彼の古い原稿の掘り起こし。
・洪洋社から十月劇場への転換時期の再確認。
・十月劇場からOCT/PASSへの転換時期の再確認。
・AZ9ジュニアアクターズ活動の振り返り。
・アタックエイジング活動の振り返り。
・仙台文学館とのつながりの確認。
・河北新報などに残された報道の収集。
・唐十郎の影響、特に「特権的肉体論」との絡みの確認。
・アングラ・サーカスとはなんだったのか。
・3・11後の彼の活動の確認。
・劇作家・石川裕人とはなんだったのか。
・etc

7)ひとつひとつ上げていったら、キリがない。残された者として、上記すべてを追っかけることはできるだろうか。すくなくとも、49日を迎えた本日までにはとてもとても追いかけられるものではなかった。年が明けて、来年になったり、もっと時間が経てば、さて、それらを理解することができるだろうか。

8)たしかに来年のことを考えれば、鬼が笑うのである。今日は今日だ。今日、墓前に行って、彼と私をつなぐものは一体なんだろう、と考えた。その結果、残されたのは、Osho「ダイヤモンド・スートラ」だった。膨大な彼の著書の中に、この本は、よく目のつくところに収められていた。

9)彼は新刊本をたくさん購入したあと、古書店などに売却もしたようだから、彼が読んだOshoの本はこの本一冊だとはいえない。しかし、現在のところ私が確認できたのは、この「ダイヤモンド・スートラ」だけである。

10)当ブログにおいてもまだ、この本を本格的に読み始めていない。彼の特権的肉体論とのつながりでOsho「こころでからだの声を聴く」を読みすすめてみようかな、と思ってみたり、80年代のニュートンとOsho「アメリカへの道」を比較見当してみようかな、と思ってみたり。だが、どれもこれも、全部ができるなんてことはないだろう。私たちに与えられている時間は限られている。いつまでも「つづく」で引っ張ることはできない。

11)いったい誰に対して、タターガタはダンマを教示することができよう? そこには誰もいない、あるのは純粋な大空だけだ。 あなたが消えた瞬間、あらゆる存在が消える。そうなったら、もう分離した存在というもはなく、すべてがひとつだ。マスターのような者もなければ、弟子のような者もない。Osho p714「完全に光明を得た者」

12)今日のところは、この一冊にしよう。そして、この本の中に、聞こえることのない、語られることのなかった、なにものでもない、なにごとでもない、なにかを彼との共感のつながりとしよう。

<4>につづく

 

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2012/11/27

まちがい探し 羽倉 玖美子『愛する地球(テラ)に』 女神は夜明けに舞い降りる<5>

<4>からつづく 

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「愛する地球(テラ)に」 
女神は夜明けに舞い降りる <5>
羽倉玖美子著 2012/12 本の森 単行本 0178

1)著者にはすでに4~5冊の著書がある。

「ひとりじゃないよ」~不登校・ひきこもりの子どもと共に(エルパーク仙台 2001/03) 
「ホピの太陽の下へ」女三人、アリゾナを行く(2005/06 野草社)
「まちがい探し」(日本文芸社) 
「数申」豊かな時間の設計図(2010/07  本の森) 
「愛する地球(テラ)へ」女神は夜明けに舞い降りる(2012/11 本の森)

Ma5_22)ところで、ここでちょっと気になるのが、三冊目としてリストアップされている「まちがい探し」(日本文芸社)。この出版社は自費出版などで有名だが、自前の本も出しているのかもしれない。検索してみると、同名の本は数冊あり、シリーズ化されている。しかし、著者の名前は冠されておらず、また図書館などにも収容されていない。

3)どんな本なのかは、いずれ著者に直接聞けばいいことなので、深追いしないが、単なる野次馬として察するに、これは彼女の画業に関わる一冊だと推測する。クリスチャン系の雑誌に連載されているだろう、まちがい探しの絵が一冊にまとめられているのではないだろうか。

4)ということなら、すこし考えるところがある。二枚の絵が並べられており、どちらかがオリジナルで、片方は何箇所か筆を入れられている。二枚の絵はかぎりなく似てはいるのだが、よくよくみると、たしかに「差異」がある。

5)この「差異」は特徴的である。この「差異」は、どちらかの正しさを証明するものだろうか。Aという絵とBという絵に「差異」があったとしても、本当は、どちらも正当性があって、どちらか片方が「正しい」とされてしまうから、他方は「まちがい」となるのである。

6)このことを、ちょっと象徴的に考えてみる。彼女には彼女が思っているAという絵があって、私には私が思っているBという絵がある。かぎりなく似てはいるのだが、たしかに「差異」はある。だが、その「差異」は、どちらが「正しく」て、どちらが「まちがい」ということでもなさそうなのだ。

7)当ブログはこの本の中に、腰巻に書いてある「地球人としての精神性(スピリチュアリティ)」を探そうとしてきた。また、当ブログは「地球人スピリット・ジャーナル」として、自らの考えるところを主張しようとしている。そしてそれは、喜納昌吉の「アース・スピリット宣言」とともに「先住民と新人類」として、すでにその原型は21年前に提示している。

8)あの時、塩釜神社を散策したのは、私と、著者であり、著者の本を出版した野草社のIG社長であり、またIM少年だったりした。「矢と的」の発想はIG氏のものである。この時は「スピリット・オブ・プレイス」の前後の準備の時だった。

9)当ブログでは、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」のスタイルを借りて、あらたに「地球人スピリット宣言草稿」を準備中である。AとBの「差異」探しはそこそこにして、当ブログは当ブログなりの「独自性」を歩んでいくことにする。

<6>につづく

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2012/11/25

青木やよひ 『フェミニズムとエコロジー 』


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「フェミニズムとエコロジー」
青木やよひ 1986/10 新評論社 単行本p249 1994年に増補新版がでた
Vol.3 No.0892
★★★★★ 

1)羽倉玖美子「愛する地球(テラ)に」(2012/11 本の森)の中に、「思想(おもい)の両翼」として、片や山尾三省が語られ、片や青木やよひが語られている。三省は出版され流通している殆どに目を通し終わったが、青木については、特に意識して読んだことはなかった。名前を知らないわけではないし、その論調を知らないわけではないが、敢えて読まなかったのは、私が「男性」であったからかもしれない。

2)ウィメンズ・リブについて最初に知ったのは、1970年ごろ、5学年上の姉の親友からであった。すでに理科系の短大を卒業して研究室の助手を始めていた姉と違って、一浪して教育大に入った姉の親友は、教師を親にもつ3人姉妹の長女という立場にあり、わりとその問題には関心を持ったようだった。

3)当時でもまだ先進的な話題であり、アメリカから取り寄せた文献を散分的に見せられて、新たなる潮流を知ることになった。もっともこちらは高校生のハナタレ小僧だから、深くその問題に首を突っ込んだ記憶はない。

4)72年から始まった、私たちの雀の森という実験的な共同生活は最初4人の男子で始まったわけだが、いつまでも男性だけで暮らし続けたわけではない。自然と女子も寄ってきた。したがって、男女混合のコミューンの形態を準備し始めるわけだが、そのような実験に参加してくる女性は、その時代の潮流を敏感に感じている人たちだった。

5)当然その女子たちもウィメンズ・リブに関心を持ち、あるいは積極的に自らの思想として学び、やがて、女性たちだけの共同生活スペースを立ち上げていく。上の姉の親友にせよ、新しく立ち上がった女性の共同生活運動にせよ、格別に先鋭的な動きではなかったので、いつのまにか、そのウィメンズ・リブ的な外形は衰えていった。

6)しかし、そこで提起された問題は、不完全燃焼ではあったが、私自身の問題とも重なった。女性からみれば、不十分ではあるのだろうが、私自身は、生涯をフェミニズムという視点からずっと見つめ考えてきた。しかし、その取り組みが、十分でないどころか、杜撰であると、指摘されることがあるなら、その意見に反論することはできない。

7)1977年にインドに渡り、Oshoコミューンに参加したとき、マスターとしてのOshoは男性であったが、そのコミューンの運営の要所要所が女性で仕切られていることに、私自身には、ここちよいものに思えた。男性幹部によるヒエラルヒーなどはまったくと言っていいほど見えなかった。もちろん、女性だから権力的ではなかった、というわけではないが、「権力を持った女性」というあり方に、どこかここちよいイメージを持ったことは確かである。

8)アメリカにおいて、いわゆるシーラという女性がOshoコミューンの権力を握り、数々の失敗をやらかしたとされる件については、日本にいた私にとって仔細は不明だったものの、一方的な女性「崇拝」もいけないなぁ、という反省の材料にはなった。

9)この本が書かれた1985年頃、私はカウンセリングを学び、自殺防止電話相談のグループに参加していた。そこで気がついたのだが、その研修にでていた人々は95%が女性だった。私の他の男性は、大学院で心理学を学んでいた学生や、保険営業職の自営業の中年男性など、ごくごく僅かだった。このような「仕事」には女性が向いているのだろうか、と思った。

10)ところが、1991年頃になって、当時の労働省管轄の「産業カウンセラー」資格をとろうとした時、参加者たちは90%くらい男性だった。おなじ心理関係で、しかもカウンセリングを学ぼうというのに、なんでこんなに女性/男性の違いがあるのだろう、と、面食らった。

11)もっとも、1987年にふたたびインドに渡り、Oshoカウンセリング・トレーニングコースを学んだ時は、殆ど男性女性50%くらいづつだった。ちょうどバランスが取れていた。講師群も男女半々で、ごくごく当たり前の雰囲気だった。

12)1990年代後半には、私は小学校の「父親の会」に参加して、女性に偏りがちと言われるPTA活動に男性として参加した。小学校時代は父親たちの仲間がどんどん増えておもしろかったのだが、中学校になると、また母親中心の活動になった。育成委員会という「男組」の組織もあったが、活動の中心は女性だった。

13)私は、家庭向きの営業をしているので、自然と家庭にいることの多い女性陣と面談し、業務を進めることが多かったので、80年代から2000年代の今日まで、わりと女性と話をする機会は多かった。もちろん男性とも話す機会が多かった。多分、どちらに偏るということはなかったと思う。

14)自分がどこかでウィメンズ・リブに対しては受容的であり、私もまたフェミズムに共感するひとりなのだ、と自覚しつづけてきたとすれば、それは母親に対する思いもあったからだと思う。病弱で入院生活が長かった父親に代わって、家業を仕切り、三人の子ども達を育てた母親の姿を見ていて、女性が置かれている社会や現実に対する矛盾も、あれこれ見聞きすることになった。

15)今回縁あって、この本を読んだが、「本を読む」というレベルで言えば、けっこう面倒くさいテーマの本ではある。だが、わりとスラスラと読めたのは、もちろん著者の文章が優れているからだけれども、その視点自体はぜんせん珍しくもなく、むしろ当たり前のことが書いてある、という感触を最初から持っているからである。

16)もし私がフェミニストたり得ないとしたら、ずっとその問題から目を離さないで、自らの思想(おもい)の翼にしてきたか、と問われれば、いいえそうではありません、と答えるしかないからだ。フェミニズムやエコロジーは、ごくごく当たり前のことのように思える。しかし、思えるだけでは、なにかが不足しているのだろう。そこには、継続した問題意識やら、行動、実践の積み重ねが必要となるのだろう。

17)なにはともあれ、この本には改訂版があるようだが、私は1986年10月に出された初版を読んだ。あれから四半世紀が経過したのである。日本において10数年しか経過していなかった当時のウィメンズ・リブやフェミニズムの系譜は、2012年の現在において、さらになにごとかが新展開していることだろう。

18)そのような振り返りの機会をもてたことで、今回の読書は満足することとする。

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CD『アース・スピリット』 喜納昌吉&チャンプルーズ


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「アース・スピリット 」 

喜納昌吉&チャンプルーズ 1991/09 東芝EMI  CD iTune
Vol.3 No.0891
★★★★★

1.ドンドン節
作詞:喜納昌吉 徳之島民謡
 

2.タンチャメー
沖縄民謡
 

3.アース・スピリット
沖縄民謡

4.チルダイ
作詞・作曲:喜納昌吉 
 

5.命のまつり
作詞:喜納昌吉 作曲:TAO MUSIC 
 

6.セイヴ・ザ・マングローブ
作詞・作曲:喜納昌吉 
 

7.KOZA CITY
作詞:喜納昌吉 作曲:又吉強  
 

8.クバラパーズ・クイチャー
作詞:喜納昌吉 宮古民謡
 

9.ボーダレス・ジンジン
作詞:喜納昌吉 沖縄民謡
 

10.想い
作詞・作曲:喜納昌吉

11.永遠なるエクシタシー
作詞:喜納昌吉 作曲:TAO MUSIC

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アース・スピリット宣言 『喜納昌吉チャンプル-・ブック Earth Spirit』<2>

<1>よりつづく 

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「喜納昌吉チャンプル-・ブック」 Earth Spirit <2>
ハイサイ/企画 1991/12 宝島編集部 宝島社 単行本 169p
★★★★☆

「アース・スピリット宣言」

 ボーダーレスとは、内なるボーダー・ラインを解き放つこと。地球上にある国境線。それは、政治・経済・宗教・科学・文化の中の様々なジャンルによって成り立っている。それらの源になっているのが内なるボーダーラインだ。嫉妬・妬み・憎悪・中傷・惰性・etc・・・・・。これらすべては過去に根ざした無意識によって支配されている。

 内なるボーダーラインを解かないことには外なるボーダーラインは解けない。まず、生命の核である内なるスピリットに、創造的爆発を与え、覚醒させなくてはいけない。その一番重要な軸がアース・スピリットである。

 今まさに、地球上において、真なる自由と解放を求めていくならば、自然を讃える詩(うた)の中に現われる大地の神々、その聖なるものと、我々のスピリットをチューニングし、コンタクトしていかなければならない。

 今回のアルバム「アース・スピリット」は、本当の意味での生きとし生ける万物の存在からの愛のメッセージ、プレゼンテーションとなるだろう。

 アース・スピリットを受け入れることによって未来を育む種子を落とすことになる。より健全な根っこを持ち、美しい花を咲かせるためには、グローバルに物事を捉えるのと同じように、足元のことも深く捉えていかなければならない。

 この二極間の出会いが全てのボーダーラインを破壊していくキー・ワードである。来るべき宇宙のステージに招待されるためには、最低ひとつの地球、ひとつの人類のパスポートが必要だ。

 さあ~唄え~踊れ 永遠なる祭は、あなたを無限の彼方へ

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2012/11/24

先住民と新人類 『喜納昌吉チャンプル-・ブック Earth Spirit』<1>

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「喜納昌吉チャンプル-・ブック」 Earth Spirit<1>
ハイサイ/企画 1991/12 宝島編集部 宝島社 単行本 169p
Vol.3 No.0890★★★★☆

1)なにげなく検索していたら、私の名前でこの本がヒットした。そうそう、この本に私の文章が収録されたのだった。この本のために書いた文章ではないが、事後承諾で編集者が入れてしまったのだ。彼らのコンサート企画などをやっていたし、サブタイトルのEarth Spiritというのも、懐かしい。そういえば、この本は、1991年の「スピリット・オブ・プレイス」と前後して出たのだった。

2)彼らのコンサートには何年も付き合って、2004年の選挙にも付き合った。今となっては懐かしいが、当時のエネルギーはまだ残っているのだろうか。なにはともあれ、自分の文章をここに再録しておく。

3)先住民と新人類 和尚に捧ぐ 阿部清孝 

 先日、塩釜神社で流鏑馬神事を見る機会があった。武者姿の修行者が馳せる騎馬にまたがり、馬上から50センチ四方ほどの方板を3枚連続して射抜くものである。矢を射る人々も弦が切れたり、弓が落ちてしまったり、あるいは自分が落馬して駆ける馬に踏まれそうになったり、など相当に命がけのようだった。 

 見物人たちは幾度とその演技がくり返されるうち、的の中心にみんなの意識が集まり、神社の境内にいる人々の心がひとつにつながっていくような雰囲気があった。的もまた、これも大変で、ちゃんと立っていなければ、的は的として役を果たせない。 

 板の端のほうに矢が当たると、うちわのようにクルンと回ってしまい、またしなり方が適当でないと割れてしまう。しっかりと大地に固定され、適度な張りを持っている時、見事に矢は的に命中し、中ほどまで突き進んでピタリと止まる。この男性原理の「ヤ」と女性原理の「マト」。このふたつの動きが相和してこそ「ヤマト」大和になるのだ、という。 

 思えば、この日本はかつて、中国大陸から放たれた文化の矢をしっかりと受け止め、あるいはインドから放たれた仏教の矢を自らのものとしては禅を作り上げ、近代においては西洋から放たれた民主主義や科学技術という矢までしっかり受け止めて、よりそれらを純化することに努めてきたようだ。 

 かつて古代においては中東に発したユダヤ民族の失われた十部族のひとつの流れの矢は、はるかシルクロードを渡り切って、この弧状列島にたどり着き、天孫族として受け入れられたという説があるくらいだ。それら全ての矢を受けて、優しく育んできたマトの女性原理こそ、この日本の本来の姿であり、未来に向けて世界に誇りうるメシーの法なのではないだろうか。 

 かつて、この列島に一万年に渡って、自然と共存してきた縄文人たちは、朝鮮半島から米作りと鉄器を携えて渡ってきた弥生人たちに次第に南と北へと押しやられていってしまった。彼らの狩猟採集の日常生活は決して破壊的ではなく、自然に生かされながら、分かち合って豊かな社会を作っていたという。 

 ところで、縄文人たちは自分たちを縄文人と呼んでいたのであろうか。いやそんなはずはない。百十年程前に大森貝塚を発掘したエドワード・モースが「cord-marked pottery」と名付けたところから訳語として縄文土器の名は出来、縄文人の名前も出来上がった。 

 本来、人間は住む場所や言葉や考え方の違いによって差別されるものではない。コロンブスが新大陸を発見する前から豊かな生活を営んでいた先住民たちは、決して自らをアメリカ・インディアンと呼んだはずはあるまいし、もちろんアイヌにしたところで自らをアイヌ民族なんて考えていないのだ。 

 小屋の外をキタキツネが通れば、その足音からチロンヌップが通ったな、と言い、エゾシカが通ればユクが通ったと言い、人間が通ればアイヌが通ったという。そのくらいの意味なのであって、人間には、それほどの違いはないし、私たちは自然や他の生物たちと一緒に生きていることを忘れてはならない。 

 十年以上前にインドから帰ってきて瞑想センターを始める時に、北日本のセンターの名前として、和尚は「スバガット」を選んでくれた。それは歓迎を意味するヒンズー語であり、直接瞑想とは関わりのないことのように感じたときもあった。しかし、時間が経つとともに北日本における和尚の瞑想を表すのに、これほどふさわしいものはないように思えてきた。 

 「それは歓迎を意味する。私のサニヤスの世界はカーストや宗教、国籍、性別の差別なく誰でも歓迎する。サニヤスはひとつの地球とひとつの人間性を信ずる。全ての宗教は私たちに属するが、私たちはどんな特別な宗教にも属さない。だから、スバガットをあなたのセンターの名前にしなさい」OSHO 14.Oct. 1978  

 民族、国境、宗教、思想、人間たちが争い、戦争する材料はたくさんあり、その無意識は果てしない環境破壊をくり返し、答えのないクエスチョンばかりがつのっていくようなこの世紀末。いたずらに無気力にならず、僕は今、自分の住んでいるところをもう一度、見直してみたいと思う。 

 縄文人たちが歩いたこの大地を踏みしめて今なお豊かな原生林が残された東北の夢を追い、深く瞑想に入り、古い条件付けから自由になり、ネイティブなスピリットとなって果てなき旅を楽しんでみたい。 

 ひとつの地球を愛し、自然とともに歩む新人類たちの足音がここ、東北日本の大地からもたしかに聞こえ始めたようだ。 p105

4)執筆者紹介  

阿部清孝 喜納の若い頃からのファンであり、かつ10年来の友人でもある。仙台でたくさんのムーブメントとニューエイジのネットワークを組織。また仙台での喜納のコンサートをプロデュースしている。 p168

<2>につづく

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石川裕人が言いたかった本当のこと 『総合文芸誌 カタルシス』復刊1号 伊東竜俊編集発行<1>

Kata
「総合文芸誌 カタルシス」復刊1号<1> 
伊東竜俊編集発行 2011/08 カタルシス社・第三次戦後派出版 雑誌 p132 石川裕人関連リスト
Vol.3 No.0889★★★★☆

1)石川裕人震災後初の怒りの鉄筆「新白痴」掲載。これが石川裕人が言いたかった本当のことだ!! 他、伊東竜俊実名戯曲など盛りだくさん。魂の一冊を是非お読み下さい。ネット上の宣伝コピー

2)となれば、一度は目を通しておかなければならない。「カタルシス」誌は、バックナンバーVol.10(1994/06)を最近手にとってみた。伊東竜俊戯曲集1「嗚呼!! 水平線幻想」1980/06カタルシス社)には私が役者として参加した演劇脚本が収蔵されている。

3)震災前の2月に上演した芝居は「風来」~風喰らい人さらい~だった。この戯曲はこう始まる。シェークスピアの「マクベス」の三魔女の台詞をアレンジした「風という風が吹かなくなって早や十年」「街に死臭が漂い始める太陽が沈む前」そして「いい悪いで悪いはいい」という有名な決め台詞で序章は終わる。

 そしてラストの台詞はこうだ。「世界の涯て(はて)の辺境で、伽藍のつむじ蒼眠の風塵 瓦礫と残骸 朽ちは果てる文明の残滓の町こそ 約束された緑の地 風の吹く町 最初の町」 p48石川裕人「新白痴」

4)当ブログとしてはこの「風来」の上演台本はこれから読むところ。たしかに、なにかが予感する。

5)震災後、一ヶ月半くらい経った頃、ふと、この台詞を思い出した。(中略)まるで津波震災のこと、原発人災のことを予見したような台詞である。p48 石川 同上

6)たしかに。しかし石川演劇の作品集をみると、初期のころから、わりと逆ユートピアとしての廃墟が書かれたことがすくなくなかったのではないだろうか。

7)予見性のあるものをどれだけ書いたのかわからない。読み返す気力も体力もない。ただ、ある時点から事実の後追いと批評性に傾いた戯曲が多くなっていたように思う。しかし、それは確実に物語としては脆弱である。事後の追認ほどつまらないものはない。p48 石川 同上

8)この「ある時点」とは、石川にとってはどこからであっただろうか。私なら、それは1995年から始まった「現代浮世草紙集」シリーズ、特にその第三話「教祖のオウム 金糸雀のマスク」であっただろうと、指摘することになる。 

9)「坑内のカナリア」である劇作家になるべく、3年くらい前から始めたのが”アンダーグランドサーカス”というジャンルだった。「風来」はその”アンダーグランド”のうちの一本だ。p48 石川 同上

10)それは2008/05の「少年の腕~Boys Be Umbrella~」からをさすのだろう。

11)’08年、94本目「少年の腕」ーBoys Be Umbrellaーはアングラ・サーカスという新しいスタイルを求めて書き下ろされた戯曲。というより得意分野にシフトし直したという意味合いが強い。得意分野とは綺想、フェイク、大法螺である。この分野になると思わず筆が走る。最新作「ノーチラス」までこの分野の戯曲が多くなっているのは何か意味するものがあるのだろうか。「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」第二十回最終回 砂上の楼閣?2010/06/21

12)このアンダーグランドサーカスについて、石川は震災前も震災後も、なんども繰り返し述べている。彼が今後もやりたかったのはこのカテゴリーなのだろう。

13)自問する。たかが芝居で大地や風土を回復させることが出来るだろうか? 出来る。神楽は大地と風土と人々の魂を慰撫してきた。芝居は神楽の末裔である。ということは芝居でも出来るということである。

 そんな簡単なことではないかもしれないが、芝居で祈ること鎮魂することは出来る。芝居の特権性は死者を召喚し死者と生者が語り合うことではなかったか? p50 石川 同上

14)それは出来たと思う。”OCT/PASS"石川裕人作・演出東日本大震災魂鎮め公演PLAY KENJI♯6「人や銀河や修羅や海胆は」(2011/07~2011/12)を見て私もそう思った。しかし、ふしぎなもので、いまや、芝居という特権性で召喚されるべきなのは、石川裕人その人となってしまった。

15)俺はあの膨大な瓦礫の山を背景に生活している。どうやら震災後の今現在が本格的な戦時下になったのかもしれない。長い戦争になりそうだ。その間俺は自粛せぬ芝居の東北の地に捧げるつもりだ。「白痴」だから何も怖くない。p50 石川 同上

16)この雑誌は2011/08/11が発行日になっている。すくなくとも石川の文章はこの前に書かれたものだろう。あの時点で、自らの心象を書き留めるのは、このくらいがせいぜいだったのではないか。

17)さて、この雑誌には、付録として編集者=伊東竜俊丸の「夜の訪問者~石川ニュートンの思い出~」の2ページが書かれている。演劇場座敷童子旗揚げ公演「治療」(1973/12)の会場仙台ユネスコ会館の管理人だった伊東と石川の出会いが書かれている。石川のほうでは、「劇作日記時々好調」2012.04.21に書いている。

18)畏友であり悪友。
昨日の夕方、畏友であり悪友のIRと暫くぶりに呑む。今年初の顔合わせ。IRにとっては都合の良い仙台駅地下の飲食店街。新幹線で来仙、再び新幹線で帰っていった。約6時間ああでもないこうでもないと様々な話題で盛り上がった。もう40年くらいのつきあいになるが昔からIRと呑んでお金を払ったことがない。自慢していいことなのかどうか判らないが、いつぞやからそんなことになってしまった。5月の連休には吉本隆明の墓参りに行くという。
石川「劇作日記時々好調」2012.04.21

19)なんとも長い長いつきあいである。「殆ど全ての作品を見てきた」と豪語する伊東竜俊丸は、たしかに石川演劇の一貫した支持者であっただろう。ただ、私はその伊東よりさらに10年前から石川ウォッチャーだったのだから、もっと長いことになる。

20)石川裕人の芝居が人々に感銘を与え続け歴史に残ることは間違いない。p52伊東「夜の訪問者~石川ニュートンの思い出~」

21)それはどのような経過をたどって未来につづいていくのか楽しみだ。伊東は「ニュートンの楽しさ--どこを取っても『石川裕人の世界』は飽きることが無い。」(p52)とまで言っている。

22)「石川ニュートンの思い出」あるいは「石川裕人の世界」。どちらも、今後私がまとめようと思っていた文集のタイトルの候補であった。みんな考えることは似たようなものだと思った。すくなくとも、伊東のほうは、石川が亡くなるまえに書かれているのだから、たしかに「予見性」があったということになる。

<2>につづく

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888冊目はこの本 鷹野秀敬監修 羽倉玖美子編著 『数申』 豊かな時間の設計図


「数申」 豊かな時間(とき)の設計図 
鷹野秀敬/監修 羽倉玖美子/編著 2010/07  本の森(仙台)     単行本     191p
Vol.3 No.0888★★★★☆

1)当ブログVol.3の888冊目はこの本となった。編著者にとっては3冊目となる。監修者とは、80年代に野草塾などで出会いがあったのだろうが、具体的には1991年の国際心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」が出発点となるだろう。

2)いわゆる占いの一種であるが、監修者が創造したものを、編集者がなんと20年近くの歳月を費やしてまとめきった一冊。その占法は、どの占いでも独特であるように、独特なヌメロジーの上に成り立っている。その哲学を学ぶには容易なことではないが、縁を感じる人には困難を極めるというほどでもない。誰でも手軽に占えるように説明がされている。

3)私自身、占いに興味を持ったのは中学時代。姓名判断だった。なにげなく算出した自分の運命が「天恵開花運」とでたので、素直に信じた。周りの人たちを占ってみると、なるほどそれなりにそうなのかなぁ、という程度に理解はできた。しかし、よそ様のことなんて、ほんとのことはわからない。

4)その後、ハイティーンになって西洋占星術、タロット、易経を学び始めた。さまざまな占法があるが、この三つは円環する世界観を持っており、占法というより、その世界観、宇宙観にこころ惹かれたというのが本当のところ。

5)人相や手相も学んだが、これはちょっと下心があって、女の子たちの顔をまじまじ見たり、手を握ったりするには、なかなか便利なメソッドであったことが学んだ理由でもある(反省)
( ̄Д ̄;; 

6)西洋占星術は、かなり興味深く、かなりの確度で占いをすることができる。これはかなり自信があるし、面白い。Oshoのところの西洋占星術も面白く、その独特の読みは、なるほど、と新しいスピリチュアリティを切り開くような解釈ができる。

7)Oshoのところにはタロット・カードもあり、イーチング・タロットとかネオ・タロットとか、禅タロットなどがあるが、必ずしも、伝統的なカードではない。むしろ、伝統的なタロットカードを完全に塗り替えるカードだ。ただ、そもそもタロットは、一つの世界観をバラバラなカードに分割して持ち運べるようにしたものとされているので、そういう意味では、Oshoタロットも、タロットの本質を受け継いでいると言える。

8)数申はこれからどのような推移をたどって成長していくのか私にはわかりかねるが、新しい世界観を学び始めるのは、それなりに縁が必要だ。

9)易聖と歌われた高島嘉右衛門は、「ことごとく易にしたがえば、易なきがごとし」と言い残している。占いも面白いが、その占術の結果を活用しつつも、自らが最終的に決断するのが正しい占いの愛し方だ。

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科学・芸術・そして宗教? 吉本隆明 『宮沢賢治の世界』

「宮沢賢治の世界 」 
吉本隆明 2012/08  筑摩書房 全集・双書  373p
Vol.3 No.0887★★★★★

1)宮沢賢治も吉本隆明もビックネームである。この本で宮沢賢治を知ろうなんて読者はいないだろう。むしろ、賢治を鏡として、吉本隆明という人が「読まれる」。彼は今年2012年3月に亡くなった。当然3・11も体験したわけで、その後に宮沢賢治が「立ち上がって」きた潮流をみて、その周囲の吉本追随層が、賢治を中心としたこの一冊をまとめたということだろう。

2)吉本は、科学、芸術、宗教、の三位一体を随所に語り、その人間像としてさかんに賢治に投影する。この文脈で言う限り「宗教」という言葉遣いも悪くはないのだが、やはり、結果としては、当ブログが使っているように、科学、芸術、意識、の三位一体と言ったほうが、妥当性があるようだ。

3)吉本は、どこまでも「宗教」という言葉使いをするから、賢治を宗教→国柱会→仏教→法華経→安楽行品、という集約を繰り返していく。実際に賢治その人がそういうベクトルで人生を送ったと仮定したとしても、吉本の「宗教」理解の上に、どうもあらぬ方向へと彷徨いだしてしまうようだ。

4)吉本は麻原集団事件の直後、「尊師麻原は我が弟子にあらず」1995/12 徳間書店)という頓珍漢な本を緊急出版しているが、それはかの事件を「宗教」というキーワードで読み解こうとしたから、どこまでも頓珍漢なまま終わってしまった。

5)もし吉本が、科学、芸術、に並びたつ重要な要素を「意識」と読み変えることができたなら、かの事件の構図は、明々白々に読み解けたはずなのだ。

6)今回も、吉本が、賢治を科学、芸術、「宗教」、の三位一体として読み解こうとするなら、私なら、やはりどこまでも「頓珍漢」な結論に達するしかない、と感じることになる。

7)この本を読んでいて、ふとイメージしたことがある。一枚の便箋のような紙があるとする。「芸術」とは、それをくしゃくしゃと丸めて放り出したようなものではないか。それに対して、「意識」とは、それを引き伸ばし、下のシワがみえなくなるくらいに、まるでアイロンをかけたような状態。とするなら、「科学」とは、ランダムに折り目が縦横についたシワを、系統立てて「キチン」と畳んだ状態。

8)このイメージができたのは、科学→芸術→意識のベクトルを、既知→未知→不可知、というベクトルとして置き換えてみたからだ。既知なる世界がつながったものが「科学」であり、未知なるものは「芸術」として表現されたとしても、次第に既知なるものとなり「科学」化されていく。しかし、「意識」としての不可知なる深淵な世界は、どこまでもつづくのであり、その不可知性ゆえにこそ、「宗教」性は成り立つ、という直感である。

9)この時、吉本のように科学、芸術、「宗教」と、ことさらこの単語を使ってしまうと、すくなくとも当ブログが求めている世界とは大きく隔たっていくように思える。

10)芸術というのは、人に影響を与えることはあるかもしれませんが、つくった人の表現を見て、どういった影響をうけるかというのは全く自由で、それに対して表現した人は口を挟むことはできないのです。

 「お前はぼくの書いた通りの考え方になれ」とはいえないのです。それをいってしまったら、それは、宗教になってしまうのです。p354 吉本「賢治の世界---宮沢賢治百年に因んで」

11)このような文脈で「宗教」を語られたのでは、たまったものではない。

12)どこで日蓮と離れたかというと、<科学>だとおもいます。宗教と科学という結びつきは、日蓮にも、日蓮宗派にも、また、田中智学にもありえないわけです。宗教と科学の関係をつきつめることで、じぶんの法華経理解を深めていった、とても独自な人だといえます。p163吉本「宮沢賢治における宗教と文学---ほんとうの考えとうその考えを分ける(実験の方法)」

13)この部分も納得がいかない。これではまるで、科学と「宗教」は二律背反で、並び立たないような理解となってしまう。

14)宮沢賢治は、法華経の信者です。宗教的人間のほうが、文学的な人間よりも重いのだとかんがえていたとおもいます。ぼくたちは文学的に読むほうが多いのですが、宮沢賢治はそうではないとおもっていたはずです。 

 それで、この人の宗教テーマ、あるいは宗教観は、いってしまえば法華経ですから日蓮宗に属するわけですけれども、ある時期からそういったものを超えているとおもいます。法華経の信者ではありますけれども、必ずしも日蓮宗だとはいえないように、垣根を取り払ったのです。何をかんがえていたかといいますと、一種の普遍宗教なのです。 

 宗派に入っていかない宗教をかんがえていたとおもいます。それは何かといいますと、宗派の宗教は、「俺の宗派のほうがいいんだから俺のほうへ来い」「俺の宗派はお前のところよりよくて、お前のところはダメだ」といった宗派的対立というものが、必ず起こります。p313「いじめと宮沢賢治」

15)本人は「信心」はない、と言っているが、それとしてもこの程度の理解なら、もう吉本隆明という人の本など、もう何も読まなくてもいいな、とさえ思ってしまう。本著は何十年にも渡った吉本の賢治関連の講話の数々を、2012/03に亡くなった吉本が全部生前に手をいれて成り立ったとされる。2012年8月発行の「新刊本」なのであるが、1996年5月に行われたとされるこの「いじめと宮沢賢治」だけは手が入れられていない、とのことである(p368編集後記 小川哲生)。だから、すこし「雑」なのかもしれないが、それにしてもなぁ。これじゃ、わが「地球人スピリット」への道など、完全に閉ざされてしまう。

16)吉本隆明には日本詩人選「宮沢賢治」(1989筑摩書房)がある。そちらにも目を通してから、最終的な吉本評価をしよう。「つくった人の表現を見て、どういった影響をうけるかというのは全く自由で、それに対して表現した人は口を挟むことはできない」(吉本)と言われつつ、だから言う、わけではないのだが、おいおい、それでいいのかよ、という思いはつのる。

 

 

 

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2012/11/23

羽倉玖美子 『ホピの太陽の下へ』 女三人、アリゾナを行く


「ホピの太陽の下へ」 女三人、アリゾナを行く
羽倉玖美子/著 辰巳玲子/協力 2005/06 野草社    新泉社 単行本 244p
Vol.3 No.0886★★★★☆

1)この本もまた、タイトル+サブタイトルを見ただけで、なんとなく内容がわかってしまう。発行は2005/06である。この発行の年月日をみて、なんとなく感慨深いことがある。私はこの本をみて、羨ましいと思った。こういう形で本が作れるんだ、と感動した。その直後に私は、自分でも文章を書こうと思った。だから、その直後に当ブログを登録したのだった。

2)しかし、その後、なんとかブログが実質的にスタートするには6ヵ月間の試行錯誤の連続の期間があった。

3)女三人とは、著者と映画「ホピの予言」監督の連れ合い、そしてその娘。そして旅をしたのは2001年の夏のことである。内容はどことなく小説風なノンフィクション・ライティング。

4)腰巻には北山耕平が推薦文を書いている。

5)ホピの国への旅は巡礼である
 世界のどこからも遠い国。前の世界の記憶をかたくなに守りつづけてきた人たちの暮らすおそろしく美しい大地。ホピの国を訪れることは、すべての人にとってそのまま巡礼の旅なのだ。運命的にホピの国を訪れた2人の女性と1人の少女は偉大なる精霊の力を借りて世界を写し出す鏡を覗き込んだ。この本は、彼女たちのハートを通していまの世界を写し出している。北山耕平
 本誌腰巻

6)これだけ交通手段が発達した時代であり、あちこちを旅するバックパッカーも、巡礼者も多い。しかし、一冊の本にまでまとめようという旅人はそう多くない。本にしようという意図がないと、本にはならないし、本にされることによって、得られるものと、失われるものがある。

7)本書は、その旅があってから、本になるまでさらに数年の月日を要している。文章として起稿することも難しかろうが、書き手として自らのスタイルやら、出版社の準備、編集者との交渉など、とにかく書き手としてのセルモーターを始動させようとした苦労が偲ばれる。

8)「『ひとりじゃないよ』~不登校・ひきこもりの子どもと共に」(2001/03 発行・仙台市市民局男女共同参画課)についで、著者にとっては、この本を生み出すことはさらに大きな努力が必要であっただろう。ここから「数申」(2010/07 本の森)、「愛する地球に」(2012/11 本の森)につながってきたのだ。そして、現在、彼女の次なる出版プロジェクトも進んでいるようだ。

9)今回は、そのことを確認できれば、この本を振り返った意義は達成されたことになる。

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2012/11/22

奥成達 『宮澤賢治、ジャズに出会う』


「宮澤賢治、ジャズに出会う」 
奥成達     2009/06     白水社     単行本     232p
Vol.3 No.0885★★☆☆☆

1)奥成達「宮澤賢治、ジャズに出会う」購入。賢治にはジャズの詩がある。「春と修羅」第二集に収録されている「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ}」である。「石川裕人劇作日記時々好調」2011.12.19 Monday 

2)奥成達の名前は、「瞑想術入門」(山田孝男,影山勲との共著 大陸書房, 1974)で初めて知った。日本の文化状況において、「瞑想」という単語が普通に書店に並び始めたのは、この書が初めてだったのではないだろうか。その後、平岡正明などとの絡みで、奥成達の名前は、私の脳裏に刻まれた。

3)石川裕人の葬儀では、バックにジャズ(としかいえない我がレパートリーの不足が悲しい)が流れていた。これは、葬儀社と家族が相談して、そうしてください、とお願いしたのだ。弔辞でギターをかきむしって歌を歌ったゴトーちゃんは、式場に到着するなり、あれ「ジャズが流れているね」と言った。さすがに音楽的感性のある人たちは、常に敏感に音に反応する。

4)先日参加した「熱日高彦神社創祀壱千九百年記念大祭」では、お神楽ばかりではなく、いくつかの芸能が奉納された。幕間に民謡、雀おどり、ピアノ演奏、などとともに、ディキシージャズバンドの演奏があった。この時のキーボード奏者は、10年前に、一緒に野球部の応援で甲子園にいった音楽の先生、門脇先生だった。

5)当ブログにおけるジャズ関連は、「マイルス・デイヴィスとは誰か」(小川隆夫 /平野啓一郎 2007/09 平凡社)とか「アガルタの凱旋」とかしかなく、あまりにもお寒い。自分が情けなくなる。

6)しかしまぁ、今回は石川裕人おっかけの途中であり、こんな本も彼は読んでいたのだ、ということがわかればそれでよい。

7)それにしても、この本にかぎらず、人にはいろいろな好みがあるものだ。他人の読書ノートなどを追っかけるのは、ほんとに難しいと、いまさらながらに思う。

8)この本は、ジャズと宮沢賢治、どちらつかずの本であるが、奥成達らしく、いろいろな「不良」たちがでてきて、芸術とは、ほんとに「不健全」なものだ、と思ってしまいそうになる(笑)

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羽倉玖美子企画・制作 『ひとりじゃないよ』~不登校・ひきこもりの子どもと共に」<1>

Hitori
「ひとりじゃないよ」 ~不登校・ひきこもりの子どもと共に~ 育て育ちあう私・子ども・パートナー<1>
企画制作・羽倉玖美子/エルパーク仙台 2001/03 発行・仙台市市民局男女共同参画課 単行本 72p
Vol.3 No.0885★★★★☆

1)羽倉 玖美子「愛する地球(テラ)に」 女神は夜明けに舞い降りる-を読み進める上で、まずはこの本があったことを思い出しておくことは大事だろう。かれこれ10年ほど前に、出版企画のコンペのようなものがあったように聞いた。その中で採用されて出来たのがこの本である。72Pとコンパクトなので、ちょっとしたパンフレットのように使える。市の図書館にも収蔵されているので、借り出すことができる。

2)内容は、タイトルやサブタイトルから推測できるような素直なテーマが主軸となっている。カウンセリングについて、親の会、サポートグループ、フリースペースやフリースクールなどについての、実際的な情報にあふれている。発行されてからすでに10年以上が経過しているので、多少は改訂が必要であろうが、方向性についてはこれでいいのだろう。

3)本の森の大沼安史社長や、七ヶ宿の炭焼き・佐藤光夫、写真の加藤哲平など、著者の人脈をフルに活用している雰囲気が伝わってくる。

4)思えば、私はいじめられっ子ではなくて、いじめっ子だと、小さいときは思っていたけれど、今となってみると、意外といじめられっ子だったかもしれない。我が家の子ども達もいじめられたり、不登校になったりはしなかったように思うけれど、実際には、自分のことを考えても、ほんとうのところはどうだったのか定かではない。

5)誰でも、身近な人たちでも、このような境遇になることはつねにありうる。デリケートな心配りが必要だ。

6)私自身もカウンセラーとして子どもの対応をしたこともあり、また学校や職場のカウンセリング・ルームの運営に携わったことがある。守秘義務があり、なかなか公けに話し合うことが難しい問題であるが、このような書籍をきっかけに、まずは自分が、そして身近な人たちが、すこしづつ気づいていくことが大事だ。

7)なにはともあれ、この書籍が彼女が自らの表現物として出版に関わっていく契機となったのかしらん、と見ている。

<2>につづく

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寝かせておくと旨くなる本? 池内紀『二列目の人生 隠れた異才たち』


「二列目の人生 隠れた異才たち 」
池内紀 2003/04   晶文社 単行本 p230   
Vol.3 No.0884★★★★☆

1)24)池内紀「二列目の人生 隠れた異才たち」は今まで全然知らなかった人たちのプロフィールでいっぱいだ。何故二列目かといえば卒業写真などの記念写真になぞらえられている。写真の一列目は先生やクラス委員、優等生などが座るが、二列目から後ろは普通の人々。だが、なにか一癖、二癖持ってる奴らが勢揃い。つまり、南方熊楠が有名なら同じようなことをした大上宇市。ラフカディオ・ハーンにはヴェンセスラオ・デ・モラエス。料理人・北大路魯山人には中谷巳次郎。宮澤賢治と宮城県大河原出身の詩人・尾形亀之助などなど、もう一人の誰某16人が異彩を放って登場する「石川裕人劇作日記時々好調」2007.06.17 Sunday 

2)石川は、この本を出版当時の2003年に購入しているが、四年間積ん読しておいて、2007年になってから読んだようだ。

3)ゆたかな才能と勤勉さ、自ら編み出した方法。全て一列目の人たちに負けないものを持っていたが、貧しさ。チャンスを逃した。世間と妥協しなかった。意固地。世の流れにまかせず自分の世界を大切にした。そんなこんなで二列目の人生を送ることになった人々だが、それは多くの人々の生き方でもある。共感を持って愛おしめる本である。’03年初版の本、買っておいたが今頃読んだ。寝かせておくと旨くなる本がいっぱいある。「石川裕人劇作日記時々好調」2007.06.17 Sunday 寝かせておくと旨くなる本。

4)他人の読書リストにつきあうというのもなかなか難しい。石川の7年間のブログに登場する本の数も数え切れないほどある。一冊一冊感情移入しながら読むにも限界がある。そのような本を読んでいたと確認できればまずまずいいようで、本の存在、本の感触まで確かめるまでに至らないことも多い。

5)それは、「読書ブログ」としての当ブログの反省でもある。自分の記録になったとしても、よそ様に読んでいただくということはただごとではない。まぁ、自分の防備録のようなもんだ。私は私なりに、この本にある期待を持っていた。

6)ここに登場する尾形亀之助は要チェック。石川が最初の劇団名に使った「座敷童子」の命名理由はまだ解明されていない。そのヒントがある可能性がある。当ブログ2012/11/16

7)という目論見を持っていたものの、それはすこし見当違いであったかもしれない。尾形亀之助は作家だ。民俗学者のような存在ではない。青空文庫で、彼の作品は読めるようだ。この人の名前は、ちょうど一年前、大河原町の「佐藤屋プロジェクト」のイベントに誘ってくれた友人に先日教えてもらった。

8)ところで、まったく別次元の話になるが、賢治の文がいきなり引用されていた。そこのところがちょっと気になった。

9)「この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいただきながら、いつも我儘でお心に背きたうとうこんなことになりました。今生で万分の一もつひにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生、又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします・・・・・」本著p156

10)これは賢治が東北砕石に勤めながら東北一円から東京まで足を伸ばしていたころに書いたとされる「遺書」の一部である。

11)石川は、冗談とことわりつつ、自分は賢治の生まれ変わりだ、と公言することがたびたびあった。もし石川が賢治の「次の生」であったとしたら、あの「恩」は返せたのだろうか、と、ふと思う。

12)以上の経緯から、他の15人についての記述は今回割愛する。この本は、私にとってもいつの日か「寝かせておくと旨くなる本」として醸成されるだろうか。

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2012/11/21

羽倉 玖美子『愛する地球(テラ)に』 女神は夜明けに舞い降りる<4>

<3>からつづく 

Tera
「愛する地球(テラ)に」 
女神は夜明けに舞い降りる <4>
羽倉玖美子著 2012/12 本の森 単行本 0178

1)では、すこしづつランダムに内容にアクセスしていってみよう。コンパクトな一冊ながら、著者の熱い思いがせいいっぱい込められているので、実にどこからメモしたらいいのやら。ほんとうは、こういう本は、静かに読んで、静かに胸のうちにしまっておくほうがいいのだが。

2)「アニミズムと言う希望」(2000年 野草社刊)は、30数冊におよぶ三省さんの著書の中で、彼の思想を総論的に代表するものだと思います。羽倉p170「あとがき 思想(おもい)の両翼」

3)当ブログで、すでに「山尾三省関連リスト」で読んでみたものは、約50冊ある。初期詩集や対談、雑誌なども取り上げたからそうなったのであって、たしかに彼の「著書」と限定すれば、30数冊ということになるだろうか。

4)「アニミズムという希望 講演録・琉球大学の五日間」はたしかに名著で、当ブログとしてもレインボー評価している。

5)1999年12~16日の5日間に、琉球大学で行われた集中講義の記録。この講義の段取りをしたのは三省とゲーリー・スナイダーとの対談「聖なる地球のつどいかな」(1998)を企画した山里勝己・琉球大学文学部教授当ブログ2011/07/03

6)1938年10月11日生まれ(天秤座生まれだったか・・。蛇足ながら10月11日は石川裕人の命日でもある)の三省、ちょうど還暦を迎えたタイミングである。ちょうど、この年齢は自らの一生をとりあえずまとめようとする時期であるだろう。この「愛する地球(テラ)に」もまた、著者にとっては還暦のまとめになるだろうし、当ブログの、石川裕人という鏡を借りて、盛んに一生を振り返ろうとしている作業も、似たような動機が底辺に隠されている。

7)発行時期から考えれば、 「カミを詠んだ一茶の俳句 希望としてのアニミズム」』(2000)、「リグ・ヴェーダの智慧 アニミズムの深化のために」(2001)と並ぶ、三省アニミズム三部作としてこの「アニミズムという希望」(1999年の講話)が存在している。当ブログ 同上

8)つまり、三省というひとは、アニミズムの詩人と総括されてもよいと思う。

9)3・11の直後に私が思い出した事は、三省さんが残した「子供達への遺言・妻への遺言」の一文です。羽倉p171「あとがき 思想(おもい)の両翼」

10)この一文は、なかなかデリケートな文章なので、読者はそれぞれ、彼の著書のなかで味わうべきものであろうが、当ブログも何度か触れている。「南の光のなかで」2002/04 野草社)で読み、松岡正剛「3・11を読む」(2012/07 平凡社)を読みながら、また思い出し、全文を引用した。 著者も自分のブログ「地球のつどい」でも何度か引用している。

11) まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。山尾三省p171

12)これはどうなのかなぁ。私が育った50年前の東北の農村地帯のきれいな水でさえ、飲料水としては使っていなかった。口をすすぐとか、食器を洗う程度はできただろうが。三省の夢は大きいけれど、不可能なないものねだりではないだろうか。

13)第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。山尾三省p171

14)原発ゼロは、私たちの必死な願いだが、この日本だけでも難しいのに、「世界」からとなるとさらに荷は重い。三省が自分で生きている間にできなかったことを、残されたものに「遺言」するとは、ちょっと「ヒキョウ」じゃないか(笑)。

15)遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。

 南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。

 われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法第9条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。
山尾三省p172

16)その気持ちはわからないでもないし、いかにも三省らしい「遺言」だが、それは実現可能性のあるプロジェクトになり得るのだろうか。人類が生まれて以来「武力と戦争の永久放棄」が現実のものとなったことはない。

17)積極的には車も使わず、ケータイやパソコンも使わなかったであろう三省。生まれた東京から鹿児島の屋久島に移住して、詩作してすごした三省。そのような人がアニミズムを理想として一生を生きた、ということは理解できるが、他の地域に住む、他の人々にも、同じ理想を共有することは可能であろうか。

18)私が生きている間に、三省がいうようなアニミズムが中心となる世界に、私自身が生きることができる、ということはありうるのだろうか。上の三つの遺言だって、正直なところ、この数十年で可能だと言える人は少ないだろう。

19)でも、一個の人間としてこの世に生まれたかぎり、上の三つの理想が実現できなかったから、賢治いうところの「ほんとうのさいわい」に達することはできなかった、ということはない。

20)ゴータマ・ブッタは、自らの部族が滅ぼされることがあったとしても、人間として最高の開花をしたという。イエス・キリストは、自らの身を滅ぼされたとしても、その精神において、人間として最高の境地に達したという。

21)当ブログでは、初期山尾三省のインド・ネパール巡礼日記を読み始めているところである。この本がこの時期において出版されることには大いに意義を感じる。この本があってこそ三省という円環が閉じられる。上のアニミズム三部作がもっとも後期に出されたからといて、それを三省最高の境地と見ることはできない。

22)三省さんの内側からの紡ぎ出されることばは、私の人生を飛ぶ片翼でした。何かあれば、その著書の中から自分を支えてくれることばを見つけて、力としたものでした。
 もう一つの翼は、青木やよひさんのエコロジカル・フェミニズムです。
羽倉 p192「思想(おもい)の両翼」

23)青木について全く知らなかったということではないが、当ブログでは一冊も読んでいない。それは、自分がエコロジーに関心がないわけでもなく、フェミニストでもない、ということではない。ただ、女性である著者と、男性である私とでは、論理と感性におのずと個体性がある。

24)ネイティブ・ピーポーについては、当ブログでは、まったくアプローチしてこなかったわけではないが、追いかけ不足である。当ブログが終了するまでに、それをもっと引き寄せることができるかどうかは定かではない。また、それが必要不可欠なのかどうかも、まだ見極めていない。

25)外側から教え込まれた虚構に気づき、その人らしく生きたのが山尾三省さんであり、青木やよひさんでした。羽倉p173「同上」

26)なにはともあれ、著者がまえがきとあとがきで、この両名の名前を明示して「両翼」と呼んでいることを確認すれば、まずは、この書を読む大きな手がかりとなる。

<5>につづく

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お経っておもしろいんだけど 伊藤比呂美「読み解き『般若心経』」


「読み解き『般若心経』」 

伊藤比呂美 2010/01 朝日新聞出版  単行本  214p
Vol.3 No.0883★★★★☆

1)葬儀、火葬のときは冷たい雨が降っていたが、昨日父の四十九日と納骨は春の日差しだった。これで一段落。父も約束の場所に眠りについた。

 伊藤比呂美「読み解き 般若心経」読了。作者自身の親の死に目の体験から掘り起こし読み解いたお経の数々。お経そのものより彼女の体験が身に迫る。老親のデッサンはまるでうちの親を見ているようだ。そうか、どこも同じ空か。深く納得した。 「いつか死ぬ、それまで生きる」深く軽く良い本に出会った。「石川裕人劇作日記時々好調」2010.03.15 Monday 

2)思えば、この「劇作日記」が始まった2005年9月以降、義父(2005/09)、義母、愛犬くろ丸(2009/06)、あべひげ(2009/12)、父(2010/01)、などを失っていく。こまかく拾っていくと、もっと多く著名人などの死に対しても敏感な反応を示している。

3)当ブログでも「般若心経」については、何冊かメモしてきた。でも、特にこの一冊ということにはならないだろう。彼がこの本を手にとったのは、ちょうどお父さんが亡くなり、そのときちょうどこの本が新刊ででていた、というタイミングが大きかったに違いない。

4)「老親のデッサンはまるでうちの親を見ているようだ。」ということだから、そういうイメージで読めば、なるほど、そういうことだったのか、とも思う。

5)年が改まったらぱたぱたと身近で人が死んだ。新年とは、そういうものらしい。まず、前夫の父親が死んだ。前舅という、浅からぬ因縁の人であった。伊藤p115

 実は、若い頃に、買い求めて、読んでみたことがある。宮沢賢治が、法華経の熱狂的な読者だと知ったからだ。伊藤p141

 高校の三年間、あちこちに学生運動の火はくすぶっていたけれど、すでになんにもおこらなくなっており、いたって平和になっており、平和であることにひけ目に焦りを感じていたわれわれは、世間からは三無主義と呼ばれていた。伊藤p189

 お経っておもしろいんだけど、ときどきそういうのが出てきて、ときどき荒唐無稽になり、ファンタジーがかってくる。指輪物語やナルニアならともかく、そういうものを宗教としてマジメに読もうっていうのはやっぱちょっと・・・・・と思っちゃうあたしである(だからー、信心はないのだと、何回も申し上げておりますです)。伊藤p201

6)伊藤は1955年生まれだから、1953年生まれの石川とはほぼ同世代。周りの人間関係がどんどん高齢化して、「死」も近付いてきているところは似ていたかも。

7)本日は、石川裕人、亡くなって六七日(42日目)。墓前に焼香に行くつもりだが、ひとつ般若心経も読んでみようかな。

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2012/11/20

一勝もできない最高のチーム 「遥かなる甲子園 」VHS


「遥かなる甲子園 」
監督/大澤豊 原作:小野卓司/山本おさむ/戸部良也 出演者/ 三浦友和/田中美佐子/植木等/小川真由美 制作年 1990年 ビデオ 収録時間 103分
Vol.3 No.0882

1)石川裕人作「遥かなり甲子園」つながりで、このビデオがあることを発見した。何も期待しないまま、予備知識もなく見た。いやはやよかった。よかったなぁ。

2)この高校は、彼の台本にでてくる辺非理高校や、私がP会長やっていた県立高校のように、甲子園には行ったわけじゃない。沖縄・北城ろう学校。耳が不自由な生徒たちが、自分たちで野球部をつくって、とにかく試合がやれるとこまで成長していくドラマだ。

3)試合が成立しても、6回コールドでいつも負けてしまう。最後の最後、県大会で、9回までいくが、結局3ー4で負けてしまう。遥かなる甲子園。一勝もできない野球部だが、こんなに感動を呼ぶ野球部もない。実話を元にしたフィクションということだ。

4)1990年の作品だから、もう20年以上も前の映画だった。どんな経緯であれ、この映画をみることができてよかった。感動的だった。

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共同幻想としての地球空洞説 「寺山修司幻想劇集」 <2>

<1>からつづく 


「寺山修司幻想劇集 」 <2>
寺山修司     2005/09 平凡社  全集・双書 437p

1)「寺山修司幻想劇集」購入。1983年に刊行された「寺山修司戯曲集」全3巻のうちの1巻で「レミング」「身毒丸」「地球空洞説」「盲人書簡」「疫病流行記」「阿呆舟」「奴婢訓」。この1冊で寺山の真骨頂が堪能できる。寺山初心者も全集が高くて買えなかった愚生のような者もこれはお得な本。平凡社ライブラリー9月の新刊。「石川裕人劇作日記時々好調」2005年 9月28日 (水).......模様替え。」 

2)唐十郎を生涯の師と私淑した石川裕人だったが、この短い間の日記の中に寺山修司の名前を見つけてほっとした。実際には寺山+唐+αというのがほんとうだろうが、まずは象徴的には、特権的肉体論であろうし、テント公演であろうし、アングラだろうし、たしかに唐のほうが「サービス」はよかったかも。

3)なにはともあれ、石川推薦のこの一冊を取り寄せてみてから、じつは、以前、私もこの一冊についてコメントを加えていたことがわかった。この一冊ならやっぱり「地球空洞説」だろうな、と思っていたが、やはり2009.01.31の日記でも、ここだった。3・11的な共同幻想としてこの幻想は、当ブログのカテゴリのひとつである「アガルタ」へとつながっていくものである。

4)前回はどんな流れでこの本をめくったのだったのだろうか。放り込まれていたのは「バックヤード」というカテゴリの中だった。つまり、バラバラになってしまった記事をアトランダムに入れておいたものだ。

5)寺山は好きだが、「演劇」性に欠ける私には、結局ここからの発展形はないのだろう。今回も石川裕人つながりでこの本にたどりついたはいいが、ここから奥に入り込むことはない。

6)石川にしても、短歌などの定型詩に異彩を発揮した寺山とは、作風がちょっと違ったかもしれない。それにネフローゼとかいう病いに取り付かれていた寺山は1983年に亡くなってしまう。1980年代にいよいよ自らの「演劇」性を発揮しようという段階だった石川にとっては、寺山はちょっと早く行き過ぎた先達であっただろう。

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石川裕人劇作の円環を閉じる 『演出家の仕事』 六〇年代・アングラ・演劇革命/日本演出者協会/西堂行人<1>


「演出家の仕事」 六〇年代・アングラ・演劇革命 <1>
日本演出者協会/西堂行人(編)  2006/02 れんが書房新社 単行本 p269
Vol.3 No.0881 ★★★★☆

1)「演出家の仕事 60年代・アングラ・演劇革命」日本演出者協会+西堂行人と「昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫」という本を購入。どちらもいぶし銀のようで現在に直結するテーマを扱っている。(中略)そして実際今現在の愚生を作ったとも言える出会い、寺山修司さんと東由由多加さん。まだ17歳くらいのガキの頃、一緒にこたつ囲んで芝居の話、家出の話、ロック・ミュージカルの話など尽きることなく話しをした。

 話しをしたのは彼らで愚生はずっと聞き入っていたのだが、寺山さんが例の口調で愚生にこう言った。「あのね、顔の大きい人は座長になれるよ。」あのまま寺山さんの所、天井桟敷に家出してたら今頃どうなっていたのかねえ。東京キッド・ブラザーズまではたどりついたのだが…。修業時代の面白い話しはいっぱいくさるほどある。また今度。でも本の方は元気のない時のビタミン剤のような本だなあ。「石川裕人劇作日記時々好調」2006年 5月16日 (火).......「アングラ芝居検証本。」

2)この本はすでに6年以上も前の本である。現在のところ三巻まででているようだ。今回はこまかくは読まなかったが、3・11後の2012年になっても、石川裕人は、これからやりたいこととして、「アングラ・サーカス」を語っているので、彼にとっては、アングラは先祖帰りであり、また彼がすでに肉体を離れてしまったことを考えれば、ひとつの円環が閉じられる部分に存在している重要なポイントということになろう。

3)石川は、何度も、「中学校時代は楽しくなかった」と語っているが、彼の中学校時代は、1966/04~1969/03の間。じつは、この時代こそが、この本に書かれている「六〇年代・アングラ・演劇革命」の時代でもある。東北の田舎に通う中学生にとってはアクセスしがたい文化状況であった。だが、いずれにせよ、70年、71年と、自分の臭覚でこの文化状況へとアクセスしていくことになる。

4)日本演出者協会編集の「演出家の仕事」③が発行された。この巻は80年代・小劇場演劇の展開で、巻末の80年代より活躍する演出家リストに僭越ながらわしもアップされた。書店にて立ち読みしてください。「石川裕人劇作日記時々好調」2009.10.17 Saturday

5)残念ながら、この「演出家の仕事③八〇年代・小劇場演劇の展開 2009/10日本演出者協会 )は近隣の図書館には入っていない。しかし、当ブログとしては、80年代の石川裕人追っかけ上から考えれば、必読書の書である。近日中になんとかしようと思う。

<2>につづく

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2012/11/19

PLAY KENJI 西成彦 『新編 森のゲリラ』 宮澤賢治


「新編 森のゲリラ宮澤賢治」
西成彦 2004/05 平凡社 全集・双書 268p
Vol.3 No.0880 ★★★☆☆

1)西成彦「森のゲリラ 宮澤賢治」読了。賢治の作品を読んでうすうす感じていたのは戦争、非常事態への思いだったが、それを解き明かしてくれた。帝国主義戦争・ファシズムに巻き込まれた人間の心情をもう既に書いてしまっていたという指摘は慧眼。次の戯曲「ザウェル」では動物管理センター(遺棄された動物たちの収容所)からの視点を取ろうと思っていたので、刺激的なインスパイアだった。「石川裕人劇作日記2006年 7月10日 (月).......『森のゲリラ』。 」

2)と、石川裕人のこの書に対する評価は高い。「帝国主義戦争・ファシズムに巻き込まれた人間の心情をもう既に書いてしまっていたという指摘」ということなのだが、当ブログでは、そこのところはまったく頓着しない。

3)もちろん、賢治が日蓮主義を唱える田中智学の国柱会に心酔していたという事実は残っているようだが、結果としてダイレクトに国柱会と関わる影響が作品に見られるかといえば、それはあまりないのではないか、というイメージを当ブログは持っている。

4)宮澤賢治は、旅行者でも民俗学者でもなく、考古学者だった。四次元空間の中をひとは休みなく移動している。四次元空間の中で停止することは不可能だ。宮澤賢治が移動する作家であったといえるのは、このような意味においてであり、東北の辺境性を離脱し、コスモポリタンたるために移動するような作家たちと、コスモポリタンであるというよりも、むしろコスミックと形容した方がふさわしい宮澤賢治とを、けっして同列に扱うわけにはいかないのである。p23「東北文学論」

5)コスモポリタンという用語は現在あまり多用されないが、当ブログにおける「地球人」とはどう違うのか、いつかは検討して見る必要があろう。

6)ネネムの所属する「ばけもの」世界には、あのザシキワラシもまた住みついている。「遠野物語」を通して広く知られることになった日本版妖精のザシキワラシだ。ところが、ネネムたちの世界では、「妄りに人の居ない座敷の中に出現して、箒の音を発した為に、その音に愕(おど)ろいて一寸のぞいて見た子供が気絶した」というごく些細ないきがかりから、二十二歳のザシキワラシに「明らかな出現罪」が適用される。p89「新山人文学論」

7)文脈をまったく無視してメモしておくけれど、石川裕人が一番最初に立ち上げた劇団名は「劇団座敷童子」だった。どうしてその名前になったのか、いままでのところまだ、みつけていない。聞いてもみなかった。

8)赤間(啓之) じつは最近、宮澤賢治を題材にしたスーパーファミコンを借りてやったんです。それは「イーハトーヴォ物語」といって、宮澤賢治がなくした七つの手帳をいろいろな情報を頼りに見つけてくると最後は宮澤賢治さんに会えるというロールプレイングゲームなんですけれども、情報をもたらす存在がそのソフトの中では特権化されている。その選びかたがじつにはまりすぎていて、竃猫とレオーノ・キューストなです。猫の事務所とかレオーノ・キューストが勤めている博物館とかは、風の便りのネットワークのひとつのサーバーというべき装置でしょう。p246「赤間啓之との対話」

10)いまどきスーファミなんてあるんだろうか(ちんぷんかんぷん)。でもなかなか面白そうだな、これこそPLAY KENJIだ。石川裕人のPLAY KENJIシリーズの世界も、この世界なのかもしれない。

11)この本は1997年に出された「森のゲリラ 宮澤賢治」の改訂版なので、いつかその二冊を並べてゆっくり読み比べるときもくるだろう。

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ほんとうのさいわいとさとり 千葉一幹『銀河鉄道の夜』しあわせさがし


『銀河鉄道の夜』 しあわせさがし
千葉一幹 2005/07   みすず書房     全集・双書     142p
Vol.3 No.0879★★★★★

1)次の公演はPlay KENJIである。宮澤賢治の作品を換骨奪胎するシリーズでファンが多い。賢治の研究書は数多あり、それを読むも読まないも愚生の賢治論であり、演劇論でもある。

 千葉一幹「銀河鉄道の夜しあわせさがし」。次が「銀鉄」ものなので読んでいるが、どこかで読んだような論で新しさは感じない。全く新しい地平から賢治を捉えることは可能だろうか? 愚生は研究者じゃないから手柄を立てるつもりはないし、その任でもない。だから無責任にやれる。「石川裕人劇作日記」「2006年 6月21日 (水).......沸々と不埒に。」

2)ということで、石川裕人と自分との間の距離をより縮めるために、この本を読んでみる。当ブログで読んだ本も、すでに賢治の作品や賢治論を含め100冊になんなんとしている。もちろん十分ではないが、すでに自分なりのイメージをもつことは出来始めている。

3)読書家のAは最近賢治を読み出したとか。彼なりの賢治像を作り上げるだろう。 「石川裕人劇作日記」2011.10.30 Sunday 

4)と彼は言い残してくれた。私なりの「賢治像」は、ひとまずできた。しかし、それはまだ最終的な決定版にはなっていないようだ。ひとまず仮に想定した賢治像は、次から次へと建て替えられ、塗り替えられ、変貌を遂げ続けている。あるいは、この固定的ではなく、可変性をどこまでも維持しようとしている賢治こそが、多くの人を引きつけてやまない魅力なのかもしれない。

5)さて、この本は「銀河鉄道の夜」をテキストとして賢治の「しあわせさがし」を論じる。

6)賢治の作品の多くは、生前未発表のものでした。「銀河鉄道の夜」もそうです。そうした未発表の多くが、きちんと清書されたものではありませんでした。なかには、ある作品を書いた紙の裏に別の作品が書かれてあったりして、校訂は、どの用紙がどこの用紙の次に来るのかといったことから始めねばなりませんでした。そうした大変根気のいる作業の結果、賢治の「銀河鉄道の夜」には、四つのヴァージョン(一次稿から四次稿まで)があることがわかったのです。p45「神なき世界へ」

7)石川裕人が、てらいや謙遜をこめて「賢治の作品を換骨奪胎する」と称してPLAY KENJIシリーズを重ねていたのは、むべなるかなという気がする。

8)賢治のイーハトーブ---羅須地人協会---デクノボー。それに対する、OSHOのブッダフィールド---ラジニーシプーラム---ゾルバ・ザ・ブッダ。いずれも幻想的だ。とてもこの世のものとは思えない、とてつもない企てである。

 しかるに、両者ともに、多くの共感者を得て、例えば、花巻の宮沢賢治記念館として残り、かたや、プーナのOSHOコミューンとして、その命脈を保っているのは面白い。 当ブログ「OSHO:アメリカへの道<9>」 2012/05/02

9)最近の私は、この比喩の対して、石川裕人の演劇---"OCT/PASS"---ニュートン、というトリニティをつなげてみるのも面白いかな、と思い始めている。ここでのニュートンとは石川のニックネームではあるが、もっと一般名詞化できるのではないか、と思い始めている。

10)いずれにせよ、当ブログは賢治の中に「地球人スピリット」を見るのであり、賢治の「農民芸術概論綱要」「地球人スピリット宣言草稿」とさえ読み替えてしまうのである。

11)彼らの発言は、もっともなように思われます。が、カムパネルラもかほるたちも、死んだのですから、自己の生を投げ出すことはほんとうに幸せといえるのか、疑問が残ります。

 あるいは、これは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という「農民芸術概論」の思想を具体化するものだとも考えられます。しかし、全体の幸福のために、個人の生命を犠牲を要求するような思想に賢治が肯定的な姿勢をとっていたとするならば、これはかなり問題のあることです。p109「自己犠牲」

12)この問題については、十牛図の十番を当ブログの解決としている。

13)私の門の中では、千人の賢者たちも私を知らない。私の庭の美しさは目に見えないのだ。どうして祖師たちの足跡など探し求めることがあるだろう? 酒瓶をさげて市場にでかけ、杖を持って家に戻る。私が酒屋やマーケットを訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう。 Osho「究極の旅」p449 

14)「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の焦燥に対し、十牛図の十番は「個人が幸福にならないうちは世界ぜんたいの幸福はあり得ない」という反語で返す。

15)「私が酒屋やマーケットを訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう。」というのは、目からなにかのパワーを発射して、人々を悟らせてしまう、という意味ではない。そもそもが、この世にあるもので悟っていないものなどあるだろうか、という意味なのである。この世にある、目に見えるものすべてが悟っている、世界全体は既に悟っていた、という心境を、十牛図の十番は語る。

16)それでは、賢治のいう「世界ぜんたいの幸福」と「目をとめる誰もが悟」ることとはどのような違いがあるだろう。当ブログは等質のものと見ている。しかし、「修羅として」の賢治は、十牛図の十番まではまだ旅していないので、問いかけ、働きかけ、が続けられているのだ。

17)ジョバンニは、そう力強く決意を語った直後で「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」と呟いてしまいます。カムパネルラは、ジョバンニのその疑問に対し、力なく「わからない」としか答えられません。

 なぜなら、カムパネルラはザネリのためにすでに命を投げ出してしまっていたからです。その勇気ある死は、賞賛に値するものです。しかしまた、カムパネルラの母らにとっては辛い経験でした。したがって、その死は「みんなの幸」につながるものではなかったのです。p119「自己犠牲」

18)劇作家石川裕人が最後の力をふりしぼって「方丈の海」を書き上げ、自分の命と交換に上演活動を貫徹したとしたら、それは自己犠牲と言えるだろうか。もし、限定的に、この「銀河鉄道の夜」のカムパネルラとジョバンニに、彼と私を当てはめて考えるなら、彼はやっぱり自己犠牲を払ったカムパネルラに見えてくる。そして、私には「残された母らにとって」の辛い経験がまざまざと見えてしまう。残された劇団員たちの悲嘆をみるにつけてもそう思う。

19)結果論だが、だから私は「方丈の海」を石川裕人最高の作品とは見ない。むしろ偏りを残した「つづく」だった、と思える。

20)自己犠牲そのものが、ある問題を抱え込んだ行為であることになります。したがって、ザネリのために身を挺したカムパネルラの行為も、単純に肯定できない面があることになります。

 このようなところにも、賢治が、カムパネルラではなく、ジョバンニをもっとも遠くまで行くものとしたことの根拠を見いだせるわけです。p125「自己犠牲」

21)石川は上で引用したように、劇作家として賢治を読む。そして必ずしもこの本に同意しない。

22)どこかで読んだような論で新しさは感じない。全く新しい地平から賢治を捉えることは可能だろうか? 愚生は研究者じゃないから手柄を立てるつもりはないし、その任でもない。だから無責任にやれる。。「石川裕人劇作日記」「2006年 6月21日 (水).......沸々と不埒に。」 

23)当ブログもまた賢治研究者でもないし、演劇作家でもないので、必ずしもこの本に「新しさ」を求めるものではない。むしろ、ひとりの「地球人」としてこの本に接するとき、この賢治理解を通して、多くのことに気づくことになる。すくなくとも、石川のこの本に対する読後感より、当ブログのほうがこの本の評価は高い。

24)彼のブログ「劇作日記時々好調」を読むと、最後の最晩年に至っても、彼に会いたがってくる人たちとの会食を立ちきれないでいる場面が多く見えている。これは、賢治が亡くなる直前まで、病身を押して、農民の肥料相談に正座して応じていた姿とダブってくる。

25)誰かを愛することは、別の誰かを愛さないことになる。では、愛を否定すればよいのでしょうか。そうではありません。しかし、すべてのものへ愛を注ぐという博愛というのも、おかしい。愛とは、そもそも個別的なものに向けられたものだからです。その人が、かけがえのない、と思われるからこそ、愛するに値するのです。とすれば、そもそも博愛というのは、画餅になってしまう。p128「自己犠牲」

26)この辺の疑問と重なるのが、最近読み始めた羽倉玖美子「愛する地球(テラ)に」に対する当ブログの逡巡である。

27)ここで、個別的な愛をすべての人間に注ぐということが求められます。もっと言えば、賢治の最愛の妹トシのように愛するということです。賢治が見出した答えは、そいうところにあったと考えられます。p128「同上」

28)ここでは単行本としてうまく「逃げた」が、賢治自体は、ほんとうにそううまく「逃げる」ことはできただろうか。

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羽倉 玖美子『愛する地球(テラ)に』 女神は夜明けに舞い降りる<3>

<2>からつづく 

Tera
「愛する地球(テラ)に」 
女神は夜明けに舞い降りる <3>
羽倉玖美子著 2012/12 本の森 単行本 p178

1)当ブログは、自分が自分に書いているものである。最寄りの公立図書館の開架図書をめくって、その時に自分の中から湧いてきたものをメモしている。

2)ブログを始めるに当たって、まずタイトルをつける必要があった。ごく当たり前に「私のブログ」(仮称)として始めた。半年間の模索期間のあと、残ったのは3つの言葉だった。

3)「地球人」。それは日本でも東北でもなかった。それは、自分の足元にあった。頭の上に空があるように、足の下には大地としての地球があった。ここがまずは自分の生きている場所なのだ。二つ目に「スピリット」。心、マインド、精神、心理、魂。私という存在の中心はなにか、という問いかけだ。そして「ジャーナル」。

4)ブログ・ジャーナリズムというものが、もしあるとするならば、そこに期待した。当ブログのタイトルは「地球人スピリット・ジャーナル」になった。

3)「3・11」と「フクシマ」を新しい時代の啓示と受け止め、地球人としての精神性(スピリット)の目覚めの時。 腰巻の紹介文から

4)このコピーに心踊った。地球を愛するというのはどういうことなのだろう。「愛する地球(テラ)に」というタイトルは、なにか他の作品が下敷きになっているかもしれない。当ブログの主題にもどるためには、この本はよいきっかけになりそうだ。

<4>につづく

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2012/11/18

全身全霊で歩む演劇道 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <11 >

<10>からつづく 

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <11>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★

1)よーく考えてみると、歌は老成していたが芝居はバカ者(若者)たちの祭りだった。
 わしがシンガーソングライターを諦めたのはバカ者たちの祭りにのめり込んだせいもあるが、妙な老成感に嫌気がさしたからだった。2012.01.07 Saturday  
 

2)う~ん、これは重要な発言だなぁ。ハイティーンから20歳くらいまでの感覚だろう。彼はたしかにギターを弾いていたし、唄も歌っていた。いずれにせよ、表現者であろうとしたことはたしか。劇中歌もつくっていたから、演劇のほうがより総合的であったのだろう。  

3)ここでいうところのシンガーソングライターとはいわゆるフォークのことだろう。ロックンロールなら、バカ者(若者)たちの祭りということはいえただろう。細かくは分類できないが、象徴的にいえば、この時の老成とはドラックカルチャーに影響されており、バカ者たちは酒文化に影響されていたのではないか。  

4)かなりの飛躍だが、彼が演劇を選び、結局は酒を生涯の友としたことは、演劇をつくりつづける原動力にもなっただろうし、自ら体調をくずす原因をつくったとも言えるだろう。この人から酒を取り上げたら、演劇はつくれなかったのだろうか。  

5)「ポランの広場」 宮沢賢治  

つめくさの花の咲く晩に
ポランの広場の夏まつり
ポランの広場の夏のまつり
酒を呑まずに水を呑む
そんなやつら がでかけて来ると
ポランの広場も朝になる
ポランの広場も白っぱくれる

つめくさの花のかほる夜は
ポランの広場の夏まつ り
ポランの広場の夏のまつり
酒くせのわるい山猫が
黄色のシャツで出かけてくると
ポランの広場に雨がふる
ポランの広場に雨が落ちる

6)酒くせのわるい奴だったとも思わないし(それはむしろ私への評価だ)、酒を呑まずに水を呑め、とまでは言わないが(そんなこと私に言える訳がない)、なにか酒との付き合い方に、もうひとつ工夫が必要だったのではないか(それは私の課題でもある)。  

7)当ブログのどこかで、反演劇、超演劇について考察をはじめようとしているけれど、彼にとって、「演劇」に対する、「反」とか「超」とかはどうなっていたのだろう。もし、彼がこの作業をいずれの時点かにおいて開始したら、彼の、この「老成」という単語の扱い方が少なからず、変わったのではないだろうか。  

8)今年、2012年の正月に、彼はこの日記を書いていたのだ。老成しろ、とまでは言わないが、どこかに「完」を忍ばせる世代に到達していたことを、もっと感じるべきだったのではないか。  

9)昨日O鍼灸院に行ってツボに鍼を打ってもらった反動だったのか、昨夜ものすごい熱が出た。いや実際は平熱なんだけど、体が火照る、北ホテル。顔はポッポ、いかぽっぽ。(中略)   

 こんな時は無理して起きてないで布団で寝ているようにというO先生の言うことを聞いて、やらなければならないこと山積だが、完全にそれを忘れ昼飯を挟んで(食欲はあるんだこれが)午後3時頃までぐっすり眠ったら、幾分すっきりしてきた。咳もそんなに出なくなったような気がする。2012.01.09 Monday   

10)ああ、かなり無理がたたってるなぁ。  

11)ココロプレス』new-T 最新エントリー
12月19日(月)残った資格証明書 鎌田浩一郎さん(仙台)
        22日(木)淡々とそしてきっちりと 亘理いちごっこ(亘理)
          ごっつぉするぞ いちご農家・渡辺正敏さん(山元町)
2012.01.09 Monday  

12)この「ごっつぉするぞ」の渡辺さんは、ニュートンからの申し出で、私が紹介した親戚だった。  

13)どうも「方丈の海」の上演が野外では出来なさそうな案配になってきた。 公有地=公園は仮設劇場に対して厳しくなってきている。おまけに周辺住宅からの騒音苦情問題とクリアしなければならないハードルが高い。  

  どっか旅公演で1日、2日くらいのテント興行ならなんとかなるだろうが、仙台は拠点である。拠点で1日2日というのはあまりに情けない。 わしらはロングランを基本にやってきた。 ということで、「方丈の海」公演会場は「ノーチラス」で使った卸町の倉庫になる可能性大。2012.01.24 Tuesday   

14)なるほど、そういうことだったのか。最初野外として企画されているのに、それが実現できないとは。しかし、彼の体力を考えると、野外公演自体、無理だったのではないか。   

15)昨年12月にココロプレスで取材させていただいた山元町のイチゴ農家の渡辺正俊さんから友人を通してイチゴをいただきました。

 あの時、イチゴが採れたらお世話になった方々に「ごっつぉしたい」とおっしゃっていた。しかし、津波被害を乗り越えて採れた初のイチゴ、感動的だなあ。ありがたくいただきます。2012.02.02 Thursday
16)渡辺さんからは4パックいただき、2パックづつ、彼と分けたのだった。

Ichi

17)「雨ニモマケズ」を遺した賢治精神から、私たちは今、何を学び、如何に働き、どのように生きたらいいのか?沢山の犠牲者への鎮魂の祈りを込めて、新しい文明の創造を語り合いましょう。」という開催の言葉。2012.02.18 Saturday

18)仙台文学館における宮沢賢治イーハトーブセンターとの共催イベント・パネルディスカッションに出演している。

19)3者それぞれの分野から賢治に迫ったけど、富山さん、加藤さんそれぞれ専門性が高く、わしの話が一番わかりやく受け取られたかも知れない。子ども時分の賢治との出会いから始め、なぜ賢治作品を芝居にするようになったのか?震災後どんな思いで賢治作品と向き合ったのか、「雨ニモマケズ」朗読批判などを20分話す。

 わしへの質問も多くて、「賢治は何故今の時期受け容れられているのでしょう?」「東北弁で芝居をしないのですか?して欲しい」などなど、(中略)そして収穫は花巻イーハトーブセンターでの上演の可能性が見えてきた。資料を送って下さいとのこと。うまく日程など合えば今年秋に、いよいよ賢治さんのお膝元公演ということになるかもしれない。2012.02.19 Sunday

20)いろいろな新しい可能性が見えてきた段階だった。

21)小学三年生か四年生の頃、石川少年は徒歩で3キロほど通学していた。往復6キロですな。ある時、帰りの道中でうんこを催してきたのでとある藪の中に入り、用を足した。うんこというのものは大人になった今でもそうだが、大体規則的にするようになる。次の日もその場所にさしかかると催してきた。次の日も、そして次の日もである。なんか、その藪を見ただけでしたくなるような条件反射もあったのかもしれない。

 それが、どのくらい続いたのか今となってはよくわからないが、三日四日ではなかった。ある日、やっぱり催してきて藪の中のプライベートトイレへ向かうと、既にそこには老婆がいてうんこか小さい方をしていた。わしはろうばい(狼狽)し、後ずさって戻った。そして、その規則的に続いた藪うんこはぴったり止まった。「野ぐそ」 2012.02.28 Tuesday

21)これが彼のニックネームに連なっていくのかもしれない。

22)中山平温泉は仙庄館への取材だったが、行きたいところがあった。同じ中山平温泉の「星の湯」である。名前がいいでしょう?この温泉にはもう今から30年以上前に色々お世話になった。当時の都市コミューン活動の合宿。髪の長い連中、ドロップアウトした連中、ヒッピームーブメントの名残り、さまざまな連中が自炊しながら宿泊した。2012.03.02 Friday

23)結局、彼とは青春時代をすっかり共有しているんだなぁ。彼もいつまでも忘れていなかった。この「星の湯」は1974年に合宿することになり、私が電話帳で県内の宿泊設備を電話で調べて、けっきょく、一番やすい湯治場を見つけたのだった。私も震災後行ってきた。旧館は、新館の下のほうにまだ残っている。すでに朽ちているが。

24)絵永けい、昨晩緊急入院しました。個人病院に普段着で行ったまま救急病院へ、そして救急車で総合病院へ転院しました。あまりいい状態ではありません。2012.03.08 Thursday

25)私はあまり他の人のブログを覗くほうではないので、こういう事態は克明に知るころはなかった。個人情報なので、むしろ距離をおいていたとも言える。それにしても、彼ら夫婦にとっては、本当にたいへんな一年だったなぁ。

26)かくいう「ココロプレス」も昨日で幕を閉じた。震災後、各地で頑張る方々を取材して回ったが、身にしみてためになった。この震災がわたしたちの心にどれだけの傷を残し、その傷からどのように恢復しようともがいているのか現場にはいって話をしてみないと本当のところはわからないものだ。2012.03.27 Tuesday

27)この企画はけっきょく4月に復活することになる。彼にとってはとてもためになっただろう。しかし、より体に影響を受けることになったことは確かだ。

28) 中学3年生だったな、友達のまことくんと一緒に映画を見に行ったのは。最初「猿の惑星」(もちろん第1作目の)を見ようと思っていたのだが、急遽わしのリクエストが勝ち、なんだか妙に感動的な映画を見てしまった。その映画はタイトルも忘れちまった。(中略)そのまことくんはわしの初期時代の劇団に参加して1回だけ舞台に立った。秀才だった彼も今頃どうしているものか。同窓会にも顔を見せない。2012.03.31 Saturday

29)これは、ハナタレまっこ、のことだ。蓄膿症なのか、いつも大笑いして鼻ちょうちんをつくってた。彼もまたニュートンの舞台に立ったのだっただろうか。私はすっかり忘れている。来年2月には、同級会の還暦祝いがある。まっこも来るかもしれない。来たら、話しておくよ。

つづく・・・・かも、

追記、これ以降、最後まで目を通したが、もうリアルすぎて、こちらのブログに転記するような内容ではない。いつかは、コメントするかもしれないが、すこし時間をあけよう。率直に言って、彼は、「方丈の海」と、自分の命を交換してしまったようなイメージがある。なにはともあれ、冥福を祈る! 合掌!

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人や銀河や修羅や海胆は 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <10 >

<9>からつづく

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <10>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★

1)悪友Aとは高校生の時一緒に黒テントやシアター夜行館を観に行った。もう40年前か。思えば遠くまで来たなあ。Aは早速自分のブログ「地球人スピリットジャーナル」に芝居の感想を書いてくれた。読書家のAは最近賢治を読み出したとか。彼なりの賢治像を作り上げるだろう。 2011.10.30 Sunday 

2)実に共感である。特に演劇一筋できたニュートンにとっては「思えば遠くまできたなあ。」とは実感であろう。ほんとに遠くまできた。しかし、私からすると、これがちょっとちがう。彼は「つづく」「つづく」の連続で、決して「完」とすることはなかった。再演やリフレーンすら拒否しつづけ、新境地へ挑みつづけた。

3)ところがどうだろう。そういった意味では、私は二度の臨死体験を20代で経験しながら、「完」、「完」、「完」と、締めくくりを求めてきたのではなかっただろうか。だが、逆に私は私の「完」を成就することができなかった。

4)今回の人生においては、彼は59年一ヶ月を一期として「完」を迎えたのである。私は、二度も失いつつあった命を拾い直しながら、いまだ「つづく」に一縷の望みを託している、という事態である。一体これはどうしたこのなのか。事実は事実として受け入れなければならない。

5)彼は、私なりの賢治像を作り上げるだろう、と優しい言葉をかけてくれている。たしかに100冊以上の「本」を読んだ今では、私なりの印象を宮沢賢治にもっているのはたしかなことだ。

6)しかし、あえていうなら、自分なりの賢治像からさらに「瞑想」性へと飛翔しようという方向性よりも、むしろ、賢治像という「演劇」性をたよりにしながら、大地に舞い降りるというベクトルのほうに重きがあるようだ。

7)まったくの未完の試みながら、「地球人スピリット宣言草稿」において、当ブログは、賢治の「農民芸術概論綱要」との相互親和性を高めようとしてみた。その試みに手応えはあったが、時間をつめて急いで成果を求めるべきではない、と理解した。

8)なにはともあれ、ここは、当ブログのキモなので、急がずにじっくり楽しんでいく。

9) とある方の引きで新しい仕事を始める。宮城県の震災復興関連広報事業というもの。震災から復興する宮城県民の方々の姿をルポし、ブログに書き込んでいく。スタッフは10名弱だろうか、一人一人がエリアを持ちルポをして回る。わしの担当エリアは東松島以南各地。このブログは11/14からスタート予定。そのブログは始まったらお知らせします。筆名もハンドルネームになるかもしれない。2011.11.08 Tuesday

10)と、ここで「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス」に入っていく。

11)見た目はなんともなく、健康(だと自分では思っている)だが、検査をすると様々な数値が上がっているので酒を控えだしたのは「まんざら」公演の翌日から。飲まない日、酒1合だけの日、ビールのみの日等々。禁酒ではなく節酒している。そうしたら夜寝る前の読書が進む。深夜トイレに立つこともなくなり、朝起きのもうろう感もなく、体も軽い。もう他の人の一生分いや二生分くらい呑んだからそろそろ潮時かとも思うのだが、日本酒の緑色の瓶に新酒のラベルなど貼ってあるとうわばみの血が騒ぐ。よーしよしよし、どうどうどう。2011.11.15 Tuesday

12)「もう他の人の一生分いや二生分くらい呑んだ」という自覚があったことはわかった。どうやらこの酒が彼の命を縮めた原因のひとつだったのではないか、と推測する。好きなことやって、好きなものを食して、好きな寿命を生きたニュートンは幸せな男であるとは思うが、老いたお母さんをおいて逝ってしまったのは親不孝であった。

13)山元町で「人や銀河や修羅や海胆は」を上演したとき10年以上ぶりにわしの芝居を観てくれた旧友のA氏が己がブログ「地球人スピリット・ジャーナル」(http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/ )で戯曲集「時の葦舟」を取り上げてくれた。それはいいんだけど、わしの幼少の頃の学芸会の記念写真が掲載されているのにはびっくりした。ええ!?この写真見たことないような、あるような。中央の猿(孫悟空)がわしだす。これで孫悟空をやったのがきっかけで、孫悟空あるいは「西遊記」を芝居でやってみたいとずっと思っているのだが、まだやれていない。というか、変奏曲として「時の葦舟」三部作があることが判った!!

 他にもわしの芝居人生の黎明期が彼のその頃とクロスして書かれている。ありがとう。2011.11.17 Thursday

14)いえいえどういたしまして。ニュートンは書くだけ書いてきたから、いろいろわかったが、こちらは「沈黙」を通してきたから、けっこう書く事はけっこう溜まっているよ。葬式のあとにもずいぶん書いたぞ。ニュートンが生きていたら、どんな感想を返信してきたかな。

15)だけど、彼が残した作品は数限りない。こちらにとっては、彼はまだ生きている。すくなくとも私が生きている間は、彼の姿が私の中から消えることはない。私は、いつものとおり、けっこう批判精神では負けていないから、これからますます石川裕人「批判」を徹底的に展開するかもよ(爆)。

16)あすと長町仮設住宅集会所は熱かった。温度のことではない。お客さんの熱気がすごかった。芝居を観たいという欲求が上演地のどこよりも勝っていたかもしれない。娯楽に飢えているのだろうか?みんなで一緒に笑ったり、泣いたり、話したりする時間に飢えているのかもしれない。皆さん、大いに楽しんでいたようだ。良かった。本当に良かった。

 今回のツアーで芝居の原点を垣間見た。それは今後の芝居創りに大きく反映されるだろう。要は心だ。心の交歓だ。気取りを捨てた無一物の心で立ち向かおう。

 来年また秋に”Play Kenji"の新作♯7を持って被災地を巡りたいと考えています。またその時にお目にかかりましょう。 

 集会所入り口。暖かい日だった。仮設住宅では断熱材を施こす工事が真っ盛りだった。会場にはたまきちゃん、長官(いつも差し入れありがとうございます)、来年テスト入団する横山真くん、旧友のA氏(早速自分のブログ「地球人スピリットジャーナル」に昨日のドキュメントを書いてくれた)の姿が。

 そして、復興支援メディア隊のジェイソン・スコット・フォードさんが上演を撮影、わしのインタビューと共にユーチューブで全世界配信するようです。 打ち上げは久しぶりに劇団員全員が揃って大盛り上がり。 さて、昼過ぎから今度は30日の文化庁派遣事業の稽古。こっちも賢治モノ。「賢治さんと遊ぼう」です。2011.11.27 Sunday

17)山元町の体育館より狭いプレハブの会場だったが、アコーディオンで「ポランの広場」を弾きながら、プレハブハウスの家々の列から列へ、芝居開幕を触れ歩く劇団の唄に、ついほろりときたいた。開幕前から、あたしゃ、涙をポロリとやっていた。

18) 本日、宮城県復興応援ブログ「ココロプレス」がスタートしました。リンクから入って下さい。とりあえず11月分のみ掲載です。13名の取材陣が今か今かとエントリーしていたのでスタートから記事満載。

 で、わしは石川裕人でもNewtonでもなくnew-Tというハンドルネームです。  ということでブログ2本立てでやっていくわけだけど、こっちのブログの方が書きやすいのは当然。ですます調というのもストレスが溜まる。2011.12.12 Monday

19)彼はnew-Tのハンドルネームで70の記事を書いている。 いつかはネット上から削除されてしまう可能性が高いので、だれかITに詳しい人は、この記事をキチンと記録しておく必要があると思う。

20)奥成達「宮澤賢治、ジャズに出会う」購入。賢治にはジャズの詩がある。「春と修羅」第二集に収録されている「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ}」である。2011.12.19 Monday

21)へぇ、「宮澤賢治、ジャズに出会う」。こんな本もあるのか。図書館にもあるようなので、さっそく予約。

22)ARC>T年末企画参加「人や銀河や修羅や海胆は」無事終わりました。そしてこれが最終公演でした。5月に稽古を初めて8カ月。長いつきあいになった芝居でした。そして大事に大事に育ててきた芝居でした。被災地のお客さんからは励ましの言葉をいただいたり、立場が逆だろうというシーンもありました

 この経験は今後のわたしたちの芝居に生かされるでしょう。この現場に立ち会っていただいたすべての観客の皆さまに御礼です。そしてこの長い演劇行に同行した劇団員のみんなと土屋悠太郎さんに感謝です。出産・子育て休団する片倉久美子、お疲れさんでした。今回をもって退団する海田水美にもありがとう。宮澤賢治さん、むちゃくちゃやりましたが、ゆるしてください。また、むちゃやりますけど。2011.12.25 Sunday

<11>につづく

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3・11歴史の転回点 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <9>

<8>からつづく 

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <9>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★

1)3・11。

2)

311_2
 多分、これから3/11以前以降という風に言われるようになるだろう。歴史は転回点なのだと思う。色んな意味で成長が望めなくなった時代を襲ったこの大災厄はわたしたちに価値観の転換を迫っている。

 それを望まなくてもわたしたちはこの未曾有の大災厄の生き証人になってしまった。そしてわたしは芝居者のはしくれである。芝居は昔からこのような事象を後世に伝えてきた。人間の本質を伝えるのに芝居は最高最大のメディアだ。なにごとかをしなければならない。それはなにか?2011.03.18 Friday

3)ここからはかなり生々しい。フラッシュバックも起こるので、要所要所だけをスキャンしていくことにする。

4) 「それはいい。けれども僕がやろう。僕は今年もう六十三なのだ。ここで死ぬなら全く本望というものだ。」(中略)

 それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。 すっかり支度ができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。

 そしてその次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖くなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。 宮澤賢治「グスコーブドリの伝記」より 2011.03.22 Tuesday

5) 宮澤賢治が昭和三陸地震を経験したのは1933年、亡くなる年だった。宛先不明の書簡が残っている。「お葉書再度までありがとう存じます。地震は野原の方には被害なく海岸は津波のため実に悲惨なことになっている。」賢治全集を開いて調べたが、この地震津波の影響下にあると思われる作品は無い。「朝に就いての童話的構図」がこの年に書かれているが、全く関係ない。賢治は何回も何回も改稿を繰り返す人だったので「朝に」もこの年の初稿かどうかはわからない。書簡の半年後、賢治は亡くなった。 2011.04.10 Sunday

6) 戯曲集「三部作 時の葦舟」のWeb販売が始まりました。このブログの右のバナーからでも”OCT/PASS"HPからもお買い求め出来ます。こんな時になんですが、是非どうぞ。初めて読んだ方々からは面白かったという感想が寄せられています。2011.04.19 Tuesday

7) 次回公演の議題へと。次回は”Play Kenjiシリーズ・リバイバル。記念すべき第1作の「見える幽霊」(1996年)を改訂して上演。そして全公演無料、お後の投げ銭興行!!仙台(錦町公園?)、えずこホール平戸間、古川(会場未定)、秋保(ほうねん座さん企画イベント参加)、瀧澤寺の5カ所、ほとんど野外公演。7月初旬~8月初旬の予定です。なお、シンプルユニットなのでご希望とあればあなたの町にも参上します。2011.04.20 Wednesday

8)PlayKenji♯6「人や銀河や修羅や海胆は」「見える幽霊」の改訂版だったのか。

9)”OCT/PASS"の次回公演のタイトルを決める。「人や銀河や修羅や海胆は」”Play Kenji"♯6。勿論賢治の「春と修羅」の「わたくしといふ現象は」で始まる序の中に出てくる一節。大テーマは「祈り」です。賢治が終生己が心から離れなかった修羅とは「祈り」だと思う。祈ることしか出来なかったでくのぼうが宮澤賢治なのです。2011.04.26 Tuesday

10)開演前には南東の空に虹が出た。

Saiun_22011.05.03 Tuesday

11)これは虹じゃない。彩雲だ。私の中では、これは地震雲だと感じている。

12)タイトルは「人や銀河や修羅や海胆は」である。この海胆だが、昨日の会議でこれをほやとかなまことか勘違いしている劇団員がいた。うーむ、読めないか?正解は「うに」である。雲丹という書き方もあり、寿司屋なんかでは雲丹がポピュラーかもしれぬが、れっきとして「うに」なのです。

 しかし、賢治さんのすごいところは人間と銀河と海胆を同列にしてしまうところである。銀河の中に人間と海胆という生物を生かし、それを己が修羅でくくるという入れ子というか、力業というか、詩人の魂ここにあり!!なのだ。

 人や銀河や修羅や海胆は宇宙塵を食べ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが それらも畢竟こころのひとつの風物です  

 種明かしをすれば、上のような詩句にまとめられてしまう。生真面目な悲観と雄大な楽天が賢治の心に同居している。2011.05.11 Wednesday

13)TVでローカルの情報番組を見ていたら太白区長町に蛸薬師という神社があるらしく、おまけに同じ敷地には舞台八幡神社もある。舞台八幡さまのあることは知っていて、いつかはお参りにと思っていたのだが、同じ敷地に蛸薬師があることは知らなかった。まるでわしら劇団の守り本尊ではないか?蛸=”OCT/PASS"(本来はOctopusだけど)の舞台だよ。

 「人や銀河や…」の奉納芝居をやらしてもらおうかな?近々お参りに行ってみることにする。2011.05.19 Thursday

14)この蛸薬師はなかなか曲者だよ。

15)1611年の慶長津波でも仙台平野は一帯が冠水。津波は現在の太白区長町4丁目周辺まで押し寄せ、薬師如来をまつる「蛸薬師」の由来にもなった。飯沼 勇義 「 3・11その日を忘れない」(2011/6 鳥影社)20p 「仙台平野に巨大津波」

16)昨日書いた蛸薬師、舞台八幡神社に通院の帰り道、早速行ったよ。いやはや本当にありました。小さな神楽舞台もある。今回の”Play Kenji"も十分にやれる敷地の広さ。社務所のおばちゃんとちょっと話し込み、上演の可能性の手応えも感じた。お守りも買ってくる。

 蛸薬師のいわれは、昔々の大津波がこの内陸部まで押し寄せ、蛸がご本尊にくっついていたということだそうです。2011.05.20 Friday

17)旧友・悪友、伊東竜俊が自ら主宰する総合文芸誌「カタルシス」を10数年ぶりに刊行するというので原稿を書いている。まずはその再刊にエールを送りたい。再刊の理由はこの大震災にあるという。大震災後をどう生きるべきか、文芸家としての気概が見える。ああ見えて意外と気骨があるのだ。2011.06.02 Thursday

18)この「カタルシス」誌、オーダーしてから3週間経過するのにまだこない。

19)「人や銀河や修羅や海胆は」はストーリー芝居ではなく、短篇の積み重ねだからなんとか稽古はしのげる。そして、この芝居の核心部分の稽古に入った。賢治が親しんだ死の世界のパノラマである。賢治が生み、そして死なせた登場人物たちと賢治が出会うシーン。「なめとこ山の熊」の淵沢小十郎と熊、「よだかの星」のよだか、「ひかりの素足」の楢夫、「グスコーブドリの伝記」のブドリが自分の死を語り、諦念する。諦念だが賢治への感謝も忘れない。そんなシーンである。2011.06.03 Friday

20) 三億円あったら?わしは迷わず劇場を創る。三億円で出来るかどうかわからないが、その金額内で出来る劇場を創り、1年中芝居をやっていたい。2011.09.19 Monday

21)「ねむれ巴里」('82年)は佐川一政パリ人肉嗜食を題材にしたが、唐さんは「佐川君からの手紙」という小説を書いた。後に「ご注意あそばせ」という戯曲になっている。これも小説になることを知らずに戯曲を書いた。その他にも唐さんと色々似通ったことを書くのは、多分わしの思考が修業時代の唐さん中毒によって、以前として唐シフトになっていることが考えられる。光栄なんですが。綺想の世界に遊ぶと唐シフトになると思われる2011.10.05 Wednesday

22))十月劇場第二作ねむれ巴里」('82年)と唐十郎の小説「佐川君からの手紙」('82年)になにほどかの関連あるか、といぶかっていた当ブログであるが、これはほぼ同時にそれぞれ二作家によって書かれたのであり、シンクロニシティというべきであろう。

23) 夜は黒テント「窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ」を観る。作は亡くなった山元清多さん。(あれ?山元さんと山元町、昨日は山元Dayだったのか)作家の眼の付け所がよーくわかる一篇。「人や銀河や修羅や海胆は」との相似点、異相が見える。

 そして相変わらずの斎藤晴彦さん。軽妙洒脱とはこの方のためにあるような熟語です。アングラ小劇場芝居を観て歩いた渥美清が共演を望んだという唯一の役者が晴彦さんです。終演後に挨拶もなんなので(わし自身がそれをされるのが嫌いなので)即引き上げてきたが、ご健康と成功をお祈りします。2011.10.27 Thursday

24)この芝居の時点でようやく、彼と私の時間軸と空間軸が再クロスする。だがこの黒テント公演については、私はヒネた口調で酷評している。

25)山元町公民館大ホールで「人や銀河や修羅や海胆は」沿岸被災地出前ツアー最終公演。地震で天井が落ちてダクトなどがむき出しになっている。ポストモダン的風景?みなみなどいっぱいバトンがあって照明が吊りやすいと思っていた。

 山元町文化協会さんの肝いりでお客さんは120名超。老若男女あらゆる世代の方に観ていただきました。山元町在住の昔からの友人Sさんや中学時代からの悪友Aも来てくれた。

 悪友Aとは高校生の時一緒に黒テントやシアター夜行館を観に行った。もう40年前か。思えば遠くまで来たなあ。Aは早速自分のブログ「地球人スピリットジャーナル」に芝居の感想を書いてくれた。読書家のAは最近賢治を読み出したとか。彼なりの賢治像を作り上げるだろう。

 上演もほんとうにラスト、結構強い地震に見舞われた。『春と修羅』の群読中である。有機交流電灯のひとつの青い照明がゆらゆらゆらゆら明滅した瞬間だった。これぞ芝居!!2011.10.30 Sunday

26)私はこのタイミングでこの芝居を見なかったら、一生涯、劇作家石川裕人を見逃し、誤解したままだっただろう。彼と一緒に高校生の時にみた「黒テント」をはるかに凌駕していた。感動のレベルでは、一生涯の間にみた私の観劇歴の中で、堂々のベスト1である。

27)これぞ芝居!! と、私も膝を打った。今思い出しても、涙が流れる。

<10>につづく

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背中まで迫ってきていた3・11 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <8>

7>からつづく 

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <8>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★

1)わしも60歳になったら「ニュートン祭」でもやるか。2009.01.09 Friday

2)やってほしかったな。ところで、ニュートンという名前の命名主HN君は、昨日の同級会の幹事会で聞いたところ、同級会の集まりには一度も出席していなかったらしい。小学校のどの時期にそういうエピソードがあったのか、聞きたいと思っているのだが。

3)家人は清志郎のファンだ。昨夜遅く家人の友達からメールが入って、それでわしも知るところとなったが、58歳、早過ぎる。
 合唱、合掌。

 昨日血圧が高くて稽古を休んだ。わしも気をつけねば、と思うも、やったれ!!とも思う。長くチマチマ生きながらえるより、短くてもぶっとく生きたいと思う。でも、56年も生きてきたんだから長いといえば長いし、中途半端な年齢だ。
2009.05.03 Sunday

4)なにをかいわんや。

5)日本演出者協会編集の「演出家の仕事」③が発行された。この巻は80年代・小劇場演劇の展開で、巻末の80年代より活躍する演出家リストに僭越ながらわしもアップされた。書店にて立ち読みしてください。2009.10.17 Saturday

6)最初見失ったと思った80年代の石川裕人だが、ここまで当ブログでおっかけてくると、かなり明瞭になりつつある。80年代・小劇場演劇の展開」は、その推定を補強してくれるものとなるかもしれない。今手元には「演出家の仕事」①(にあたるもの)がある。

7)今年中に20冊の本を読むことを課したが、実は熟読・精読しなければ20冊なんてあっという間に読める。そりゃそうだろうって飛ばし読みでもないのがわしの読書法。どういう読み方かというと、同じテーマの本を10冊なら10冊一斉に読んでいく。ざっとページをめくっていくうちに気になるワードが目に飛び込んでくる。そこを細心に読んでいく。気になれば付箋を貼る。こうやっていくうちに全体像がなんとなく浮かび上がる。そこからどうしても気になった本1,2冊は精読する。ここでもう一度読まなければならない本に当たれば全く新しい本に手をつける。まるでブックローラー作戦である。2009.12.16 Wednesday

8)これは当ブログもだいたい同じ。「松岡正剛などには鼻で笑われるだろう。」とも言ってはいるが、「きちんと読む本も勿論あるんですよ。」というところも同じ。

9)2年越しの大仕事、HP"OCT/PASS"の劇団の軌跡がやっとコンプリートした。ライヒお疲れさんでした。’95年の旗揚げ公演からのチラシ、舞台写真が掲載されています。どうぞご覧ください。2010.02.01 Monday

10)この「上演作品紹介」わりと以前からあるのかと思っていたが、この2年ほど前の仕事だったんですね。ライヒさんの仕事なのか。

11)「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」連載開始しました。HPバナーかこのブログのリンクからどうぞからどうぞ。不定期連載です。2010.02.03 Wednesday

12)二年半前スタートか。準備させられていたようなもんだな。当ブログでもひととおり目を通した。細かくは今後追っかけを継続する予定。

13)「劇作風雲録」第三回もUPしました!!2010.02.15 Monday

14)ここで私の名前と私がつくったチケットの画像が紹介されている。

15)。アルトーの「演劇と形而上学」にもろ影響を受けた戯曲である。「もし、演劇がわれわれの抑圧に、生を与えるためのものなら、一種の恐るべき詩が、奇怪な行為の数々によって表現されるだろう。」今この本を取り出してみると鉛筆で括弧を書き、線を引っ張り、多くの書き込みがある。この本は唐十郎師の「腰巻お仙」内の「特権的肉体論」と共にこの時代の私のバイブルだった。2010.02.15 Monday

16)すでにこの18歳の時から唐十郎「腰巻お仙」内の「特権的肉体論」を読んでいたわけだ。

17)この2010/02/15前後に、私は家族とぞろぞろと埼玉の「ジョン・レノン・ミュージアム」に行ったり、Oshoの「秘教の心理学」やケン・ウィルバー「インテグラル・スピリチュアリティ」を読んでいたのだった。あの頃、ニュートンは、私のことを思い出していたのだ。

18)椎根和「平凡パンチの三島由紀夫」読了。当初三島のゴシップや裏話がどんどん出てくるので軽い読み物かと進むうち、ユング、プルースト、フロイト、ウォーホルなどの系列から三島の行動原理を探るという結構になり自決の謎へ言及するというアクロバティックな構成の本。新奇なことはないが、三島の謎は解明されない。解明されなくていいのだけれど。2010.03.09 Tuesday

19)「平凡パンチの三島由紀夫」を当ブログで読んだのは2008/6/29。先行すること1年ちょっと。ここで気になるのは、石川の三島観。遺作となった「方丈の海」は、三島の遺作「豊饒の海」にかけていると思うが、その謎解きは、まだ始まっていない。

20)葬儀、火葬のときは冷たい雨が降っていたが、昨日父の四十九日と納骨は春の日差しだった。これで一段落。父も約束の場所に眠りについた。

 伊藤比呂美読み解き 般若心経」読了。作者自身の親の死に目の体験から掘り起こし読み解いたお経の数々。お経そのものより彼女の体験が身に迫る。老親のデッサンはまるでうちの親を見ているようだ。そうか、どこも同じ空か。深く納得した。  「いつか死ぬ、それまで生きる」深く軽く良い本に出会った。2010.03.15 Monday 

21)迫り来るXデー。般若心経とかの話になれば、こちらの好みも細かくなるが、供養である。この本も近日中に目を通してみよう。

22) 「ノーチラス」を書きながら思いつくままに頭の栄養として様々な本の断片を食いちぎる。アーサー・ミラー「南回帰線」、ドストエフスキー「地下室の手記」、ロートレアモン「マルドロールの歌」、この中に「大落語論」も入れよう。2010.03.17 Wednesday

23)ドストエフスキー「地下室の手記」は当ブログでは2009/07/25にメモしている。精読したとはとてもいえないので、いずれ、まためくってみよう。

24)昨日のぎっくり腰は昨今の腰痛とは一線を画す痛みと苦しさで遂に治療院へと。実は旧友・悪友が院長なので気易いが、なかなかここまでひどくなることはないのでご無沙汰していた。運転して行った家人ももちろん旧知。そんなつもりもなかった家人も一緒に治療を受ける。

 わしは腹筋への電気マッサージ(というのか?)、背中への電気マッサージと針治療。これですぐさま治るわけはないが、帰るときには1メートルを1秒くらいで歩けるようにはなった。

 「ノーチラス」は書くことも出来ない。しかし、口述筆記という手があると閃いた。  ところで治療院の院長は「劇作風雲録」の「十月劇場」の写真などでお馴染みのO氏である。最近酒をぴったり止めたとか、昔は二人で二升なんてざらで、酒屋を起こして酒買ってきたものだった。あの頃一生分の酒を呑んでしまったはずなのに、わしはまだ意地汚く酒を呑んでいる。2010.04.07 Wednesday

25)この二人は10代からの付きあいで、私もここに絡み込む。この時に、ニュートンも酒をきっぱりやめときゃなぁ、と思う。・・・・・といいつつ、 O氏(サキ)には私も「酒をやめろ」と言われている。だが、やめることができない。やはり他人のことは言えない。結局、酒を早々と切り上げたO氏(サキ)が一番長生きすることになるのであろうかしらん。

26)本日もO治療院に行く。そしたら級友・旧友・悪友のA氏が先客(とは言わないか)でベッドに横たわっていた。同病です。気持ち安らぐ治療が終わってO先生も入って3人で歓談。二人はどう思っているかわからないが、この二人は親友と呼べる人たちだ。A氏の結婚式の司会をしたお返しにA氏にはわしの葬儀委員長を任せることにしている。ま、それは冗談のような本当のような話だけど、久しぶりに気の置けない二人と話すことが出来て楽しい午前中だった。2010.04.10 Saturday

27)あらら、こんなことまで書いてある。A氏とは、もちろん私のこと。ほんとあの頃は私も腰を痛めっぱなしだったよ。寄る年波には勝てないね、お互い。「A氏の結婚式の司会をしたお返しにA氏にはわしの葬儀委員長を任せることにしている。」って、これは私が言い出した冗談だったが、結局それに似たようなことになってしまった。

28)葬儀委員長とはおこがましいが、とにかく、無事葬式は終わって、まもなく六七日、四十九日、百ヶ日と続いいていく。待ってておくれ、いつかは私も行く道でありんす。だが、あんたのやり残した仕事をかたづけなくては、とてもそちらに行く気にはなれん。断固、まだまだいかないぞ(決意表明)。

29)「ノーチラス」台本印刷が終わり、家人が持ち帰ってきた。表紙入れると122ページの厚さ。ぎっちりと綺想、妄想の世界が描かれている。1971年の処女戯曲から40年の集大成だと思う。この40年間、100本戯曲に書いてきたテーマはやはり一徹一貫していることが証明されたような気がする。2010.05.09 Sunday

30)100本の戯曲のテーマが一徹一貫しているかどうかは、私には分からない。しかし、ニュートン=石川裕人がシナリオ・ライター(劇作家・演出家)として、「一徹一貫」して生きたことは、私が生き証人となって証言する(って人は私以外にもいっぱいいるだろうな)。演雅一道居士に恥じない、一本道であった。

31)芝居に死す。劇作家として本望の生き方だと思う。2010.05.11 Tuesday

32)ここまで言い切る男に、切り返す言葉など、私にはない。

33)つかこうへいさんが亡くなった。One and Onlyとはこの人のことを言うのではないか?70年代後期から80年代初頭にかけて演劇シーンはつかこうへいと共に動いた。この人の作品をやった大学劇研や小劇団は数多くあったが、どれひとつとして面白いものを観たことがない。つか戯曲はつかこうへいしにしかやれない特権的なテキストだった。享年62歳。まだまだだよなあ。2010.07.13 Tuesday

34)ここまで無視し続けてきたが、この1年くらい、誰かが亡くなったという記事が他出している。忌野清志郎、井上ひさし、藤井黎仙台元市長、そしてお父さん、奥さんのお父さん、お母さんなど。本人がどんどん高齢化しているのだから、周囲も同じことなのだろうが、そういうことに敏感にならざるを得ない老境に入りつつあったということだろう。ということは、この私も同じことだが。

35)お盆。葛岡にお墓参り、二寺三基。 そのあと、くろ丸の遺灰を海に還した仙台港へ。帰宅して今度は父が入るお寺へ、ここは車で3分もあれば行ける近所。今日はわしをこの世界に導いてくれたE先生のお墓参りをしようと思っている。ここも車で5分圏内。お盆、心がしんとする貴重な日だ。2010.08.14 Saturday

36)ここでE先生とは小学校4年のときの担任、越前千恵子先生。 ことあるごとにでてくる。この 『石川裕人劇作日記 時々好調』がスタートした地点では、宮沢賢治がけっこうでていたが、だんだん唐十郎が多くなって、やがて越前先生のことがでてくるようになった。どんどん小さい時へ逆行しているようだ。

37)それにしても、けっこうマメにお墓参りしているね。これは意外だった。もっと「不信心」かと思っていた(笑)。私もけっこうお墓参りしているけど、自分のブログにはほとんど書いたことはない。何か察するものがあったのかしらん。

38)谷啓さんが亡くなった。わしの精神風土をつくってくれた子ども時代のヒーローの一人だった。何気なくつけたBSでドーモ君をやっていて、うさじいの声が谷さんだった。合掌。2010.09.12 Sunday

39)またまたでてきた訃報ニュース。けっこう敏感になっているね。

40)友人のブログをしばらくぶりに開いたら入院中の病院からだった。病名は白血病。驚いた。1週間分の入院日記を読む。あっという間の診断、入院だったようだ。涙がこぼれてきた。

 彼とはバカやっていた若い頃に同居していたことがある。うちの芝居の照明をやってくれたこともある。センシティブな奴で、いい写真を撮る。早速メールを出そうとしたが、わしのメールアドレスが不正アドレスということではねられてしまう。どういうこと?  わしのブログを読んでいるかも知れないのでここに記します。

 ご無沙汰ですね。アイの写真が見たくてブログのぞいてました。なにせうちで去年まで飼っていたくろ丸とそっくりだったもんで。そしたら今回の入院のことを知りました。びっくりです。貴君本人が一番びっくりしているでしょうけど。わしも3年前に1週間ばかり入院しました。早期発見早期治療のおかげで未だに元気です。定期的に通院して検査を受けていますよ。色々考えることあるでしょうが、今は治療に専念してください。大丈夫、絶対大丈夫!! 2010.11.01 Monday

41)これは以前、M坊の名前ででてきたミー坊のこと。2011/02に亡くなった。

42)闘病中だったミー坊が昨日午前7時20分に亡くなった。「風来」が終わったら彼からの宿題をまとめるつもりだったのに、未完になってしまった。春になったら訪ねていこうとも思っていたのに。悔しい。自分が一番悔しいだろう。前日までブログも書いていたのにそういえば「時の葦舟」第1巻「絆の都」の照明やバラシも手伝ってくれたっけ。

 「風来」をミー坊に捧げるつもりで残りステージを丁寧に創っていこうさよなら、君の斜に構えた笑顔をいつまでも忘れない。合掌 2011.02.11 Friday

43)って、おなじみのO鍼灸院へ。彼もミー坊とは旧知の仲。告別式では弔辞を読んだ一人。医者に行けと進言したのも彼だ。そしてミー坊は翌月入院。闘病4ヶ月だった。

 告別式にはわしとミー坊と一緒に暮らしたこともあるGちゃんも大雪の秋田湯沢から来ていたとか。会いたかった。芝居は親の死に目にも会えないと、良く言うが、本当にそうだなあ。
 鍼を打ってもらい、張っていた腰が回復した。大阪行くまであと1,2回行っておくか。2011.02.15 Tuesday

44)芝居のことがたくさん書いてあるのに、ついつい、こんなとこばかり拾い読みしてしまう。G(ゴトー)ちゃんは、ニュートンの葬儀の時にはギターをかきむしって唄を弔辞として捧げた。Gちゃんにしてみれば、ほんのちょっとの間にM(ミー)坊とニュートンの二人を失ったことになる。もちろん、それは私やO(サキ)とて同じこと。

45)亡くなってから1ヶ月、やっとミー坊にお線香を上げることが出来た。家には奥さんとひとつぶだねのさくらちゃん、そしてお父さんが。

昨年11月から始まった往復メールのミー坊のコメントを奥さんとさくらちゃんに読んでもらいたくて持って行った。あと、戯曲集とね。彼は「絆の都」を手伝ってくれている。

 色々思い出話に花が咲いたけど、ミー坊、たぶんわしらのそばにいただろう。2011.03.10 Thursday
46)その時、運命の3・11が背中まで迫ってきた。

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迫り来る予感 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <7>

<6>からつづく 

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「石川裕人劇作日記 時々好調」 <7>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★

1)愚生26年前の戯曲(初演は25年前)「流星」を他力舎の上演で観る。まかせっぱなしでテキレジの一つも出来なかったので恥ずかしくも心配な舞台でもあった。
 思い起こせば29歳の時、みんな若かった。そして芝居は趣味でいいやと思って旗揚げした「十月劇場」の第1回公演。これぞストレート芝居というくらいがむしゃらにやったことが記憶に残っている。お客の受けなど気にせず突っ走った。他力舎の舞台はほとんどベテランの域に達した役者を配して、おおように、気張らず、力の入れ方をコントロールしてやってるからこちらも構えずに観ることが出来た。笑えた。そうかこの年になってやるとこの戯曲も生き返るんだな。
 客席にはちらほらと「十月」旗揚げメンバーもいて同窓会ムード。なごやかないい芝居だった。
2007.11.03 Saturday

2)他の劇団への書き下ろしというだけではなく、過去の石川作品の再演ということも発生してくる。特にこの記念碑的な十月劇場立ち上げ作品の再演はうれしかっただろう。

3)昨日の日記に書き忘れたことをひとつ。「流星」のネタは実際あった話です。全国の天文ファンのアイドルとして活躍したアストロ犬チロという犬がいたんです。ネットで「アストロ犬チロ」で検索すると出てきます。「星になったチロ」というタイトルで児童書としても発行されている。2007.11.04 Sunday

4)のちのち重要なキーワードになるかもしれない。

5)思い起こせば’75年、劇団洪洋社の旗揚げ公演「月は満月」。次いで’82年、十月劇場の第2回公演「ねむれ巴里」’84年第3回公演「嘆きのセイレーン」この年番外公演「突然、嵐のごとく」と都合4本の芝居を白鳥ホールで打った。で、その当時のままなのだった。場末の古い映画館のような、公会堂のような、階下からは焼き魚のような生活臭。なにかここだけ時間から置き忘れられた空き地、あるいは子宮のような。そんな感慨にふけりながら開演を待った。家人は「月は満月」の時の主演女優、デトチリチンするところだったらしい。そんな思い出を話してくれた。2007.12.01 Saturday

6)白鳥ホールもなつかしいな。今でも使われているのか。

7) 昨日はスタッフラボ試演会「遙かなり甲子園」を観る。’01年11月「石川裕人戯曲短篇集 わからないこと」の中の1本として上演。責任がないと思い切り楽しめるなあ。って、書いたのはわしなんですけどね。役者が楽しんでたのが良かった。何かやりたくてうずうずしてるのが手に取るようにわかった。2007.12.17 Monday

8)「遙かなり甲子園」は不思議な因縁を感じる作品。1990年の「遥かなる甲子園」というビデオがあったので借りてきた。近日中にみてみよう。

9)さて、今年もやって参りましたこの季節。昨年初めて観た映画(映画館・DVD・BS放送)を新旧問わず選出するという偏向著しい映画備忘録。良かった映画10本、なんじゃこりゃ映画2本です。昨年は109本観た。こんなに観てるって実感なかったのだが、暇だったのねえ。なお、ランキングではなく観た順番です。(中略)

 今年はどんな映画と出会えるやら楽しみだなあ。で、芝居はほとんど観てないのね。去年10本くらいじゃないだろうか。自分のフィールドは冷たい。というか、他の芝居は全てライバルになっちゃうから観てると疲れることが多いんだよね。2008.01.06 Sunday

10)彼なりの生活の指針が垣間見える。

11)その頃、愚生の実家ではお母さんの亡くなった時間あたり玄関チャイムと電話が一緒に鳴ったのだそうだ。玄関には誰もおらず、電話は2,3回鳴って切れたのだという。これは愚生のおかんが後で語った。

 で、今日は午前中にお墓参りに行ってきた。冬空の下で墓地は閑散としていて、「千の風になって」を朗々と歌ってきた。
2008.01.18 Friday

12)今週水曜は彼の六七日(42日目)。お墓の前で「千の風になって」を歌ってみようかな。お互い、明日は我が身だな。

13)十月劇場時代の’88年に「又三郎」という戯曲を書いた。かなり集中して書いた。夜寝るのも惜しんで書いたような気がするが、登場人物が早く書いてくれと待っているのだった。役者への宛書きで書いていたからその役者の顔が出てきたというわけではない。自分のイメージのキャラクターが愚生に毎朝語りかけてきたのだった。それは愚生を励まし勇気も与えてくれた。それはまさしく神懸かりだった。愚生は単に登場人物とワープロ(その当時は)のキーボードをつなぐコネクターだったような気がする。
 確かに今書いている「少年の腕」は書き進むスピードは早いようだ。でも「又三郎」や「時の三部作」のようにコネクターになっているわけではない。劇作家という視点で見ている確固とした主体がある。この主体と登場人物と劇世界が融溶するときなにものかが降りてくるのか?どれだけ自分の書く世界に没入するかが降りてくるものを決めるようでもある。
2008.02.06 Wednesday

14)興味深い記述。

15) お彼岸のお墓参りを老親と家人とでする。葛岡と死んでもいないのに老親のお墓のある名取の2カ所。しかし、もう15年も前に来たるべき時のためにお墓を用意するという死生観がどうもいまいちわからない。リアリティがないのだね。まあ自分たちが初めて入るということもあるにはあるんだろうが。
 愚生など死んだら風葬でも構わないと思っている。遺言にはそう書いておこう。死んだらどうなってしまうものか誰にもわからないわけだし、わからないからこそ恐怖ということもあり、わからないからこそしたいようにさせてくれということもある。
2008.03.19 Wednesday

16)風葬にはならなかった。被災した名取の火葬場で火葬され、4年半後にこのお墓に入る事になる。お父さんも、2年前に納骨されていた。いずれ誰もがいく世界ではあるが。

17)わしの年金が消えていた。年金特別便は届いていた。これは年金が消えている疑いのある人にだけ来るやつで、それをよく見もせず放っておいた。最近、年金問題を扱うテレビを見ていたら、そういえばわしも真面目に会社勤めをしていた時期があったなあと思い出し、特別便を開いて調べたら、やっぱりその時期の厚生年金が消えていた。あちゃー、消えた年金ホルダーはわしかい?2008.05.01 Thursday

18)77ヵ月分の厚生年金が消えていた、というのもひどい話だが、それを受け取らずに逝っちゃうというのも悔しいなぁ。

19)受付のところにいると色んな方から「ブログ読んでるでー」と肥えをかけられる、いや声をかけられる。公演始まる1ヶ月前位から現在まで俄然アクセス数が増え、今は1日平均250を肥え、違うってば、250を超え400を超す日もある。燐光群の制作・古元さんも読んでいるとか。2008.06.05 Thursday

20)このころになると、きっちり読まれることを意識して書いてるね。情宣としてのブログの役目を果たしている、とも言える。

21)地震ですよ。さすが地震国ですな。本命の宮城県沖地震をうっちゃって内陸型地震です。それもけっこう被害甚大。なんか本命はどうなるのか心配だな。子分の大暴れに、おらあこんなもんじゃねえよなんて上田吉次郎のようにウハウハ呼吸を荒くして笑ってるのかもしれない。2008.06.14 Saturday

22)たしかに、ウハウハ笑っていた奴がいた。

23)わたしは山形県生まれだ。48号線を山形に向かい関山トンネルをくぐって5kmほど走ると左手に盆地が見える。かつて下悪戸という地名のなにか謎めいた地縁を感じるような場所である。小学生の頃、夏休みになると10日くらい、必ずこの生家に泊まって遊び呆けた。年上の従兄弟がいたし、同年代の遊び仲間がいっぱいいたから退屈した事が無かった。黄金の夏をこの生家で過ごした。
 ほとんどが仙台近辺で暮らしていて宮城県出身といってもいいのだが、わたしはこの場所で生まれたことにこだわりを持っている。それは少年時代の宝物のような思い出がこの生家に詰まっているからだと思う。劇作する動因がこの山形の片田舎の辺鄙な場所にある。
 今回親の用事で6年ぶりに訪れたが、いつ行ってもそのたたずまいは変わらない。一瞬のうちに少年時代にタイムスリップする希有で大事な場所だ。
2008.06.18 Wednesday

24)「ほとんどが仙台近辺で暮らしていて宮城県出身といってもいい」と本人が自覚(自白?)しているのだから、もうそれでいい。仙台より、お母さんの実家がある山形のほうがイメージが湧いたんだな。彼は従弟たちから「ユー坊」と呼ばれていたらしい。

25)改めて思うのはこの日本の演劇界で唐十郎をしか認めない自分だった。これはファン心理ではない。種種雑多な演劇の流派の中で人間の本質を突いているのは唐十郎のみであると思えるからだ。そのエピゴーネンとしてついていきますというのも癪なのでわしなりの芝居をやっているが、先達は追随を許さない。2008.07.14 Monday

26)やはり石川を唐エピゴーネンというのは失礼になるだろうが、ギリギリの位置に立っているのは間違いない。しかし、石川は追随そのものが難しいと感じている。

29)昨夜は「狂人教育」前宣伝のためのトークライブ「アングラ人生40年を語る」のために来仙した流山寺祥さんを囲んで宴会。於あべひげ。
 氏は60歳、わしより5歳上。氏の話を聞いていたらアングラ芝居への傾斜は全く同じ道筋であることがわかった。5歳遅れの流山寺氏がわし。兄貴たる所以である。しかし、マシンガントーク、休むこと無く1時間40分。終わっての宴会でもマシンガンは炸裂しっぱなし。すごいオヤジである。お体大切に。わしも氏の背中を追いかけながら頑張ります。
2008.08.07 Thursday

30)流山寺祥は自分のブログに石川裕人追悼文を書いている。「仙台の劇漢が逝った。」

31)治療のため3週間くらい入院しないか?と言われギクッ!!最近担当医氏も意地悪いことを忍ばせる。酒をやめるか入院か、ということを言外に匂わせてきたが、勿論入院なんて嫌だし、酒を控えますと答える。2008.08.20 Wednesday

32)ここで入院したほうがよかったかもな。身にしみて応えただろう。って、明日は我が身。他人事ではない。

33)このブログもいつの間にか1000回になっていた。そして今日が1001回。千一夜物語ですな。まず、こんなに続くとは思っていなかったので自分でも驚いている。自分の本性がまだわかっていないということでしょう。大体が劇団のHPも薦められながら一切受け付けなかった時期もある。ましてや個人日記を公開するブログなんて気持ち悪がっていた自分が、始めてみれば1000回も。そして「10万件もアクセス」。これにはブログに対する警戒心というものがあって、心情タラタラクタクタのブログは書かないと決めた。そして読者からのレスポンスも受け付けない方法を設定した。だからこのブログはわしからの一方通行になる。つまり無責任に書けることを前提にして成り立っているからこんなに続いたのだろうと思う。なんか別な書き方は無いものかと探っているのだけれど、まあいいやこれからもよろしく読んでやってください。2008.11.01 Saturday

34)ブログを続けることの意義を彼なりに模索し続けている。1000回で10万アクセス。3年2ヵ月で1000回、ということは、ほぼ当ブログと同じようなペースではあるが・・。

<8>へつづく

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2012/11/17

 『 童貞としての宮沢賢治』押野武志<1>


「 童貞としての宮沢賢治」 <1>
押野武志 2003/04/01 ちくま新書 新書 p221
Vol.3 No.0878★★★☆☆

1)ニュートンの書斎には全集や研究書とともに、さまざまな賢治論があった。ブログにも書いていた。

2)押野武志「童貞としての宮沢賢治」読了。タイトルはスキャンダラスだが、まっとうな賢治論。生涯童貞と言われた賢治だが、何故そう思えるのか作品から追っていく。
実生活ではなく作品から探るという方法論は潔い。しかし、賢治という人、近親相姦的関係、同性愛への傾き、マザコン、ロリータ、多形倒錯、春画収集家などなど、様々な顔が見えてくるのだが、どうも他者とのコミュニケーション不全を囲っていたように思える。現在こういう人は結構世の中にいっぱいいて、賢治は先駆的存在だった。「石川裕人劇作日記2006/07/03」

3)ということで、この本にも目を通すことに。

4)ニュートンが生涯一滴も精液を漏らさなかったことを例に出して、ここでも、性欲のためにエネルギーを消費するのはつまらないと言ったという。賢治の父の従弟の関登久也によれば、賢治との話がたまたま性欲ということに及び、ハヴェロック・エリスの著書を原書で読んだりしているから、性に関する話になると賢治の方がよっぽど上手で、性欲を自分で満足させる方法も知っているが、たまたまそういうことをしないだけの話だという。p034「童貞がなぜ問題にされるのか」

5)まぎらわしいが、ここにでてくるのは、もちろん石川裕人のニックネームとしてのニュートンのことではない(笑)。万有引力を発見したイギリスの物理学者アイザック・ニュートンについてである。この部分を石川裕人本人はどんな気分で読んだだろう。

6)オナニーさえしたことのないニュートンを賢治は手本としたわけだが、その背景には当時のオナニー有害論があった。p035同上

7)アイザック・ニュートンを手本とした宮沢賢治が、20年後に転生して、ニュートンというニックネームで生きていた、というストーリーを作り上げることも、演劇脚本の中でなら作り上げることも可能であろう。もちろん、石川裕人は童貞ではなかったし、禁欲的でもなかった。ただ、わりと奥手で、それほど達者ではなかったと推測することは可能である。。

8)たしかに、エリスはキリスト、ニュートン、ベートーベン、カントなどの名を挙げ、古くから天才に童貞や独身者が多くいたことを認めてはいる。キリストは言うまでもなく童貞である(異論もあるが)。賢治が模範としたニュートンが本当に精液をもらしたことがなかったかどうかはわからないが、生涯童貞であったことは確からしい。(中略)

 先の天才四人にしてもエリスはひどいことを言っている。聖書の中にはキリストが性的抑制の模範とは言えないような実例は少なからずあるし、ニュートンの晩年は精神錯乱状態だったし、ベートーベンは徹頭徹尾心身ともに病んだ病者であり、カントも生涯病身者で、要するに彼らのすばらしい才能を別にすればひどい生涯であったと言わんばかりだ。p065「文学者たちはいかに性欲と戦ったのか」

8)この本は、まともな賢治研究書なので、けっきょくは、他の本と同列に真面目に読み込まれるべきではあるが、ここは石川裕人つながりなので、ここあたりを切り取っておけば、当ブログとしては、いまのところ十分だ。

9)Oshoには「From Sex to Super Consciousness」というタイトルの講話があるほどで、性の抑圧をよいものとはしていない。生体エネルギーについては、それに蓋をしてしまえば、創造的な力も生まれない、ということになる。

10)それにしても「毛穴の皮油まで晒された作家は史上、賢治だけではないか」とまで評される賢治である(「宮澤賢治と幻の恋人 澤田キヌを追って」澤村修治) 。下半身をまさぐられることぐらいは覚悟のうえか。

<2>につづく  

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2012/11/16

『愛する地球(テラ)に』 女神は夜明けに舞い降りる 羽倉 玖美子<2>

<1>からつづく 

Tera
「愛する地球(テラ)に」 
女神は夜明けに舞い降りる <2>
羽倉玖美子著 2012/12 本の森 単行本 p178

1)届きました。割とコンパクトな装丁の中に、現在の彼女の想いがズッシリと込められた、一冊である。内容的には想定どおり、いつもの彼女の言動を一冊にまとめればこうなるのだろう、という感じ。

2)彼女にとって山尾三省は重要だ。それは当ブログにとっても同じこと。三省の近刊「「ネパール巡礼日記」(三省ライブラリー2/野草社2012/04 )は当ブログ読書、現在進行形。インドやネパール・チベットも深い。ホピの予言も彼女にとっては重い。当ブログにとっては、別な角度から重い。あの地は前世とつながる。

3)その他、いろいろある。ゆっくり検証していこう。まずはラブロックの「ガイア仮説」p86はいかがなものか。当ブログの調査によれば、「ガイア仮説」「ガイア理論」になり、「ガイアの復讐」(2006/10 中央公論新社)となった。

4)「アース・ホールド・カタログ」のスチュアート・ブランドの「地球の論点」(2011/06 英治出版)にも、「悪影響」を与えている。

5)環境保護主義の友人の多くは、私が原子力発電を強く支持することに驚き、最近宗旨替えをしたのかと思うようだ。 

 しかし私の最初の著書「地球生命圏---ガイアの科学」(1979年。邦訳はスワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第二章と、次の著書「ガイアの時代」(1988年。スワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第七章を読めば、そうでないことがわかる。「ガイアの復讐」(2006/10 中央公論新社)p159  ジェ-ムズ・ラヴロック 「核分裂エネルギー」

6)他人の言説に依拠することはむずかしい。どこでどう意匠替えされるかわからない。彼は立派な原発推進派である。強力といってもいい。松岡正剛も「3・11を読む」(2012/07 平凡社)で、その「転向」をあやぶみ、なにかの勘違いだろう、とさえ切り捨てている。

7)トランスパーソナル心理学者としてスタニラフ・グロフ考案のワークについての考察(p113)についても、無批判的には受け入れることはできない。と、まあ目についたところから入ったが、どんな事柄であれ、どんな人物であれ、表から見ることもできれば、裏からみることもできる。

8)女神は夜明けに舞い降りる。これは、直感として、正しい。これはもう直感の世界である。直感であるかぎり、客観的に説明したりすることはできない。直感なのである。この本は、読者として、私が、自らを再確認するフォーマットとして利用することができる。

9)当ブログには当ブログなりのビジョンがある。この本を飲み込むことで、この本を理解しよう。そう消化することで、この本の価値は何倍にもなる。すべては読み手としての自分にかかっている。

<3>につづく

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唐も寺山そして劇団も大事 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <6>

<5>からつづく 

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <6>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★

1)2006/0/.01 にサイトが新しくなったのだが、一ヶ月が3ページに渡っていることに気がつかず、2011/03/11午前中までさかのぼってしまった。残り、3分の2を元に戻って見直してみる。

2)この日記も1年になった。ほぼ毎日600字から800字平均で書いている。文章修行のつもりで、できるだけ簡潔にまとめることに気をつかっている。1年目を期にレイアウトを変えてみた。2006.09.01 Friday

3)当ブログも文章修行のつもりであることはおなじだが、「簡潔にまとめる」ことには失敗していて、いつもダラダラと長くなる傾向にある。

4)高山文彦「麻原彰晃の誕生」読了。麻原の死刑確定を受けて買い置きしていたのを読んだ。前にも書いたが、愚生も非常に興味を持った人物で芝居にもした。それは現在の日本社会の陥穽を撃つ力があの男にはあると思ったからで、誤解を恐れずに書けば革命家だと思っていた。

 ところがどっこい、弟子を庇おうともせず、精神障害者のふりをして現在を迎えた。この本を読むと麻原の詐欺師人生が手に取るようにわかる。一時それに乗せられた愚生も、山崎哲も、中沢新一も、職さえ失った宗教学者(名前は忘れた)も、あの日本思想界の巨人・吉本隆明さえも、あいつの手玉に取られていたことがはっきりした。あいつのことを擁護してしまった。死刑制度は廃止して欲しいので、あいつには生きてもらって、生きるより辛い修行を課せば目が覚めるかもしれない。そして勘だけど、ホリエモンとライブドアはオウムに似ている。似ていた、か。

 もう一冊、高取英「寺山修司」。寺山の側近とも言われた人の回想録。彼にしか書けないゴシップ的なエピソード満載で楽しめた。寺山は来年俎上に乗せたいんだけど、気宇広大でどうなるかなあ。2006.09.19 Tuesday

5)「麻原彰晃の誕生」については、何度か書いた。「誤解を恐れずに書けば革命家だと思っていた。」と書いているが、この人物については、私および当ブログは、最初の最初から完全否定である。ホリエモンについての考察はまあまあ、グレーだった。高取英「寺山修司」は後日読んでみよう。

6)午後一からNHKシナリオ・コンクールの最終審査、そしてフォーラムで「太陽」を見て帰ってきたら、小学校当時の先生の訃報のファクス。

 T先生は愚生が芝居や書き物をして暮らすようになったきっかけを作ってくれた方です。
小学4年の時の担任で、授業で人形劇の台本を書いて上演したらすごく褒めてくれて「ゆうちゃんはシナリオライターになれるね」と言われた。ところがシナリオライターとはどういう事かも知らず、家に帰り母親に聞いたら「ライター(火をつけるやつ)の一種じゃねえか」とバカ丸出しの答え。なんで人間がライターになんなくちゃならねえんだよ。と辞書を引いたら出ていた。元々母親に聞いたのが間違いだったわけだが。

 こういうことをやり始めるようになって、色んなところでT先生との出会いを話したり、文章に書いてきて、「河北新報」に掲載されたときは東京在住の先生のご主人が何十部か購入したらしい。東京公演の時にもアゴラ劇場に足を運んでいただいた。3年前の11月の同級会でお目にかかったのが最後になってしまった。いつもお会いするとにっこり微笑んで「元気?」「あなたはやっぱりこの道に入る人だったのよ」と言ってくださった。

 あの時「シナリオライターってなんですか?」って聞けなかったのは、先生があまりに美人で声もかけられなかったからなんです。ご冥福をお祈りします。2006.10.11 Wednesday恩師の訃報。

7)越前(武田)千恵子先生については、当ブログでも書いた。この時ファクスを送ったのは私。

8)碧空。一昨日書いたT先生の告別式。お墓は名取にありお骨もそのお寺に埋葬された。東京在住ながら名取に良く帰りたがっていたと喪主のご主人の話だった。お身内の方から挨拶をされ、これも一昨日書いた愚生の新聞記事を切り抜き、財布に入れてくださっていたようだ。碧空は先生によく似合います。先生さようなら。そしてありがとうございました。2006.10.13 Friday

9)当ブログでは、石川裕人理解の第一は、この越前(武田)千恵子先生の影響だと考えている。

10) 手書き日記。これはもう20年くらいつけている。手書きはきっちり本音を書いている。この日記はそう言う意味では虚偽日記かもしれないが、後で読むと面白いクロニクルになっている。2007.01.05 Friday

11)2005年の段階では17年間と書いているので、1988年あたり。ちょうどワープロを導入したあたりだから、ワープロで書いているのかと思ったが、「手書き」であるらしい。もし、後年、石川裕人「研究」が進むとしたら、重要な記録となるだろうw

12)どうやら昨年7月にNHK FMからOAされた拙作「ミック、俺も男だ!」がNHKオーディオドラマ奨励賞佳作を受賞したようです。NHK局内全国のドラマ班のディレクターによる選考なのでかなり点は辛いようで、そのなかで奨励賞無し、佳作3本に入ったと言うこと。ま、個人賞というよりドラマ自体への賞なのだが、なんにしてもシナリオを書かせていただき光栄です。2007.01.09 Tuesday

13)「無冠」を誇った石川だが、別に無冠を目指していたわけでもないだろうから、まずはめでたい。

14)冬さんさようなら。ってタイトルの演目を小学校3年生の時に学芸会でやった。愚生の役は冬の王様、今日の仙台始め北日本の天候のようにいつまでも居座る冬の王様が春の女王に王座を譲って退位するというような話だったかな?って、昔のことなので詳しいことは覚えていない。

 それより思い出すのは台詞を全然覚えなかったこと。うちの小学校では3年生から芝居はアフレコだった。なんでそうだったのかはわからないが、それに安心してしまって覚えなくても何とかなると思ったんだね。勿論本番はなんとかこなしたんだろうけど、あれ以来台詞を完璧に入れて舞台に臨むということがなくなった。おまけに自分で書いてるものだから余計覚えなくなった。これでは一生懸命やってる共演者に申し訳たたない。2007.03.12 Monday

15)へぇ~、そうだったのか。因縁の小学校3年の学芸会である。狐や鏡がでてきて、私は村の子ども3に後退した記憶がかすかに残っているのだが、毎回話しているうちに作話になってしまっているかもしれない。

16)「十月劇場」時代の上演ビデオをDVD化しようと実家から持ってきた。’84年第3回公演「嘆きのセイレーン」盛岡公演から’94年の「十月劇場」最終公演「月の音○月蝕探偵現る」までの23作品50本以上。石川裕人事務所での伝説的公演「あでいいんざらいふ」と「隣の人々 静かな駅」など。全てレア物の映像である。カビが発生しているビデオテープもあり、果たしてどんな映像になっているのか怖い。

 上演ビデオはほとんど見ないのだが、貴重な記録がカビごときで潰えてしまうのもしのびなくDVDにダビングしようという気になった。
2007.03.19 Monday

17)これも貴重な資料なので、機会があればいつか拝見したいと思うが、実際に全部見るのは無理だろう。セレクトして何本かはぜひ見てみたい。

18)一昨日持ってきた「十月劇場」時代のVHSビデオからDVDへのダビングを開始。といっても1日1作品のペースでしょう。今日は’84年の東北演劇祭・盛岡「嘆きのセイレーン」ー人魚綺譚ー。ダビングしながらちらちら見たんだけど、イヤー!!面白いなあ。この戯曲はもろ唐十郎の影響下にあった時期の作品で、書いたのは遡ること70年代後半。「十月」の前身劇団の頃に上演できなかったやつ。しぶとく上演の機会を狙っていてやっと陽の目を見たのだった。

 テント向けに書かれたもので、プールを作り水を使っている。仙台はかの白鳥ビル7Fにプールに水を張った。洩れたら下の住居スペースに影響ありの危うい公演だった。「未知座小劇場」の打上花火が見に来て「ビルに水を張るなんて、あんたらバカやない?」って言われたっけなあ。しかし、この芝居は絶賛で全国の演劇人との交流のきっかけを作った。そしてここから愚生の芝居人生は速度を上げることになる。2007.03.21 Wednesday

19)やはり、80年代の石川を支えたのは唐十郎だ、という当ブログの推測は証明されたようなものだ。「この戯曲はもろ唐十郎の影響下にあった時期の作品で、書いたのは遡ること70年代後半。」 劇団洪洋社で実演できなかった作品が、ここで水の三部作として復活したことになるのだろう。

20)ちょっとお休み。諸般の事情により、明日から1週間ほど日記を休みます。ちょっとした蟄居幽閉ですね。収監?1週間じゃ出てこられないでしょう。缶詰?5月になるとあるかもしれない。旅行?行きたい。国内でいいから。大体旅行なら行動自由でしょうが。地獄の研修?今からそんなことやりたくない。2007.04.10 Tuesday

21)ここで肝細胞癌の一回目の手術を受けた。

22)劇団活動は維持がネックである。メンバーが居着かなくなったら終わりでそのためには次から次と新しいことを考え、引き留めなくてはならない苦労がある。おまけに稽古場を構えていればなにかをしなければならない。最近、そのどっちからも自由になろうとしている自分を感じる。後退的ではないが、"OCT/PASS"に無理して新人を入れようとも思わない。今いるメンバー でやれることの最大値を目指そうとしている。2007.06.07 Thursday

23)劇団経営の苦労が忍ばれる。

24)池内紀「二列目の人生 隠れた異才たち」は今まで全然知らなかった人たちのプロフィールでいっぱいだ。何故二列目かといえば卒業写真などの記念写真になぞらえられている。写真の一列目は先生やクラス委員、優等生などが座るが、二列目から後ろは普通の人々。だが、なにか一癖、二癖持ってる奴らが勢揃い。つまり、南方熊楠が有名なら同じようなことをした大上宇市。ラフカディオ・ハーンにはヴェンセスラオ・デ・モラエス。料理人・北大路魯山人には中谷巳次郎。宮澤賢治と宮城県大河原出身の詩人・尾形亀之助などなど、もう一人の誰某16人が異彩を放って登場する。2007.06.17 Sunday 

25)ここに登場する尾形亀之助は要チェック。石川が最初の劇団名に使った「座敷童子」の命名理由はまだ解明されていない。そのヒントがある可能性がある。

26)「唐十郎の劇世界」扇田昭彦。「寺山修司と生きて」田中未知。奇しくも両巨頭の事を書いた本2冊届く。唐さんと扇田さんの友情に裏打ちされた本であると劇評家の西堂行人さんが評していたが、寺山さんにとっての田中さん、長年の伴走者としての二人の思いがいっぱい詰まった本のようだ。2007.07.03 Tuesday

27)当ブログとしては、もうこの両巨頭についての本までは追いかけきれないと思う。

28)「流星」は十月劇場旗揚げの馬鹿馬鹿しいスラップスティック・コメディである。’82年2月初演3月までの毎週日曜日に知り合いの居酒屋で上演した。それまで約3年芝居から遠のいていて、もう芝居をやることもないんだろうと思っていたが、ひょんなことから再起した作品で、再起しても深追いはやめようと思っていたのだが、ああ、深追いして現在に至る。2007.09.16 Sunday

29)この「流星」は、まだ十分追っかけきれていないが、分水嶺にたつ一本の記念樹であることは間違いない。

30)愚生は全然霊感が無い。母親は霊媒体質でお葬式とか墓参りとかも数珠とか持ってバリアを張らないと霊に取り憑かれて寝込んだりする人なのだが、これ遺伝しなくて良かったとつくづく思う。でもそういう能力を開発するとお金の取れる霊能者ということになるんだろう。2007.10.02 Tuesday

31)微妙な発言。たしかにお母さんも似たような話をしていた。

32)田中未知「寺山修司と生きて」読了。寺山に秘書として、マネージャーとして、看護人として、そして天井桟敷では制作として照明家として16年間付き添った田中さん執念の寺山弁護論。巷に寺山本は溢れている。そのどれもが寺山の真実を書いておらず、誤解と偏見に充ち満ちているというのが書き出したきっかけという。
 田中さん自身のことを書くことによって寺山修司が焙り出されてくるという仕掛け。そして弁護人は時に検察官にもなる。寺山の母・はつと寺山最後の主治医には舌鋒鋭く迫る。特にはつの章は気持ち悪くなるくらいの迫力ではつ本人に迫る。奇形の母親である。
 しかし寺山という人は優柔不断、優しい人であったのだなあ。だから17歳くらいだった愚生にも気軽に話しかけてくれたわけだね。逆算するとその当時寺山さんは35歳くらいか。今時あんな器の大きな35歳はいないだろうな。
 寺山好きな人は必読の書。
2007.10.21 Sunday

33)お互いあれから40年以上も生きたね。ニュートンにとっては唐十郎も寺山修司も恩師だな。

<7>につづく

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3・11までのカウントダウン 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <5>

<4>からつづく 

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <5>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
★★★★★

1)K臓に腫瘍が出来、つまり癌なんですが、早期発見の処置なので大丈夫でしょう。腫瘍を電磁波で焼き切るという先端医療=焼灼術というのを受けまして、内視鏡で見ながら腫瘍を焼いていくわけです。術に入る前偶然針を見てしまってブルってしまいました。動けなくなってしまいました。(中略)

 まずは元の状態に戻りました。これからは我がK臓をいたわってやろうと思います。多分酒は年に数回くらいしか飲まなくなりますが、酒の代わりに酔えるものを編み出そうとただ今思案中です。2007.04.17 Tuesday

2)5年前だったなぁ。これですっかり断酒したものと思っていたのだが。

3)退院後初めての外来へ。2時間待ちですよ。茂木健一郎「脳と仮想」を読んで待ち時間をつぶす。血液検査とCT撮って検査結果は6月末。多分大丈夫だろう。2007.05.23Wednesday

4)当ブログでも一時期茂木健一郎を追いかけたが、今は完全に覚めた。当ブログが「脳と仮想」を読んだのは2009/07。二年遅れ。

5)年齢は現在のままなのに中学校の同級生達が集まって卒業式を開くのだという。だから学生服を着て記念写真を撮るらしい。まずは一人一人撮るので「イシカワ、お前は席次が早いからすぐ用意しろ」と幹事のサエキが騒いでる。ところがここに来たときから便意を催している。それも大きい方。慌ててトイレを探す。2007.05.26 Saturday

6)この幹事のサエキってのは、前回<4>の写真の最前列左から二番目。

7)9月以降11月までの間、唐十郎師と対談する企画があったが、唐さんのあまりの多忙さに1日たりとも仙台に来られないと言うことでお流れになってしまった。非常!!に残念それにしても唐さん、この秋は自分の関係する芝居が3本ラインナップされているようだ。愚生も師を追わねば!!2007.06.22 Friday

8)それは残念。この企画、結局実現しなかったのだろうか。

9)このブログも安定した読者を得ているようで1日平均150件~200件のアクセスです。面白いものを書くことと、書く責任両面あって毎日結構楽しんでます。これからもどうぞよろしく。2007.12.31 Monday

10)二年前ほどに直接口頭で聞いた時は、一日600件ほどと話していた。このブログのことだったのか、他の劇作風雲録などとの合算だったのか。ページビューか訪問者数かでだいぶちがうが、決して少なくもないが、多くもないイメージ。

11)少なくとも愚生は芝居をやり続けるために生計を立てるのに困っているのだ。じゃあ芝居やめりゃいいじゃないってことではない。我々にはどんな職業・なりわいをしていても自分の思想信条を貫く自由と権利がある。大きくいえば生存権だ。既得権益や利権でガッポガッポ金が入ってくる奴らには巷でどれだけ人々が苦しんでるかなんて想像できる感性がない。2008.01.30 Wednesday

12)他人の懐具合など余人の測り知れるところではないが、この文面では、なるほど楽ではなさそうだな。(こちらもだが・・・)

13)高校1年生とのときの志望は日大芸術学部の映画学科だったが、当時の大学紛争の激化と学費がべらぼうに高くて親に相談する事も出来なかった。学園紛争とは縁のない高校だったが服装自由化と検閲制度廃止などで運動を開始。教師ににらまれていた。

 映画と読書に明け暮れる毎日、全国的に盛り上がっていたのは今でいえばブログだろうか、ガリ版のミニコミを発行し、これが「朝日ジャーナル」の特集に紹介され色んな人たちとネットワークが出来る。そうこうしているうちに東京キッド・ブラザーズを知り、彼らの自主上映運動に関係し、仙台での上映にこぎつけた。

 そのとき仙台で寺山修司と東由多加と出会う。これがきっかけで東京でのキッドの公演を手伝う。今考えてみるとこの出会いが芝居の道を決定づけたのだろうが、このときはそんなことは知る由もなかった。高校を卒業し1年後「演劇場座敷童子」を旗揚げしても、まだ芝居を続けようとは思っていなかった。ただ芝居の毒は既に身体中に回っていたのだろうね。2008.06.27 Friday

14)やっぱり「朝日ジャーナル」ミニコミ特集の件、書いていたね。日大芸術学部志望だったのか。あの時代は、みんなドロップアウトがカッコよかったからなぁ。とくにかくまぁ、59年と一ヶ月、ごくろうさまでした。

15)「おくりびと」がアカデミー賞を獲ったねえ。いがったいがった。でも未見なんだよねえ。(中略)わしも山形出身ですが、あんな丁寧な作法の納棺儀式は見たことがない。生家はクリスチャンだし。関係ないか。あれ、「生家はクリスチャン」っていいタイトルだな。2009.02.25 Wednesday

16)当ブログで「おくりびと」を見たのは2009/05。町内会の寿会の企画。近所のご老人たちと一緒だった。母親の「生家はクリスチャン」ってのはホント。ニュートンの曽祖父が埼玉あたりに行って巡査になった時、洗礼を受けて山形に帰ってきたらしい。彼のお母さんから聞いた。近所でもめずらしいらしい。ただし、お母さん自身はクリスチャンという意識はなく、法華経などをニュートンの仏前にあげている。ニュートン自身もクリスチャンってことはないだろう。

17)2009/03から、私のブログは新しいサイトへと引越しをした。楽天→ニフティ。

18)次回の戯曲を書くために資料を読んでいる。と言ってもジュール・ベルヌの「海底2万リーグ」再読ですが。次回戯曲100本達成作「ノーチラス」は自ずと知れた上記原作に出てくる超潜水艦の名前。中学生の時読んだやつではない完全版を読み始めた。これがエンタメ的に面白すぎ!!少年の頃の血湧き肉躍る思いを追体験している。2009.11.23 Monday

19)ベルヌ 「海底二万里」はごくごく最近読んだ。しかもうちの子ども達が小さい時に読んだ絵本。石川版「ノーチラス」の上演台本を読んだあとにだ。

20)数年前、あべひげで撮ってもらったあべさんとのツーショットを探したがデータがぶっ飛んでしまっていたんだった。いい写真だったのに。(中略) 

 あべさん、あんた早いよ。どうせ2012年にはみんな死んじゃうんだから、そこまで待ってても良かったのに。逝き急ぎだよ。合掌、合掌、合掌、いくら合掌してもしたりない。2009.12.22 Tuesday 

21)といいつつ、ほんとに自分も2012年に逝っちゃったよ、この人。

22)予告している「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」の表紙をライヒに作ってもらっている。第1稿は既に上がってきている。これが大笑いの代物。笑えるが、家人は猿の惑星みたいだということでこのプラン却下。決定したらこのボツ写真も公開しよう。やっぱ雷蔵でしょう。でもなあ、昔伊達政宗役をやったが、どうみてもバカ殿にしか見えないという事実の前に二の足も踏む。さて、風雲録、今月中には第1回をアップできるように頑張ります。2010.01.21 Thursday

23)このあたりから準備していたんだな。

24)というわけで「劇作風雲録」も毎週UPしているわけだが、昔の資料見ながら様々なことが思い出される。そのときいたメンバーの消息が気になる。芝居人生で最も波の大きい季節、1988年。「又三郎」で私たちは大きな賭けに出た。退路を断って旅に出た。個人的にはアパートの家賃を溜めたままで夜逃げのように旅に出たのである。

 旅に出たメンバーほとんどがそうだった。バイトを長期間休み、あるいは辞め、決死の旅に出た。この潔さがよかったのだと思う。今でもこの「又三郎」の旅があったから色んなことに耐えられるような気がする。ちっちゃなるつぼの中の芝居状況なんて屁でもない。ガツンと行け、せこい芝居やるな。雄々しく行け、世界の芝居に負けるな。こんなことを改めて胸に期す「又三郎」をめぐる第八回劇作風雲録です。2010.03.22 Monday

25)単純に代表作としての「又三郎」を探している当ブログだが、本人たちは必死の覚悟だったんだなぁ。

26)見上げると部屋の三方がこのように天井までの本棚になっている。来るべき宮城県沖地震の時には本に埋もれて確実に死ぬだろう。頭部だけ剣道の防具を着けて寝れば大丈夫か。2010.08.28 Saturday

27)あの天井まで本の積まれた書斎に3日ほど寝て、4日目には二階で寝たそうだ。そして3・11が起きて、あの時あそこで寝ていたら、本当に死んでいただろうというのは、最近のお母さんの弁。本が全部おちたらしい。

28)昨日10年以上ぶりで旧友のGTちゃんから電話が来た。現在闘病中のM坊と三人で同居(今でいうシェア)していたことがある。もう30年以上前「劇団洪洋社」の頃だ。当時の乱痴気騒ぎの話は書き出せばきりがないほどあるので、いずれ書くことにして。

 GTちゃんのとこから猫をもらってきたこともある。秋田の湯沢からもらい猫をして雪道夜道をソロソロ帰ってきたことを今でも鮮明に思い出す。音信が途絶えて10年以上経つが、今回のM坊のことを手紙で伝えたのだった。

 もう、10年のブランクなんて無かったように、気づいたら1時間も話していた。電話嫌いのわしにとっての1時間の通話は記録!!ですな。なにか時の経過なんてあって無きが如くのような気がするなあ。2010.11.23 Tuesday

29)M坊も、震災前一ヶ月に亡くなってしまった。GTちゃんはニュートンの葬式でギターをかきむしって唄を歌った。

30)生を選べずに生まれてきた私たちは死も選べない。一昨日一周忌の法事を済ませた父は老衰だった。とりわけ大きな病気もしなかった父のような死に方が一番いいような気もするが、わしにそんな最期があるかどうかもわからない。全てはなるがままを受け入れようと思ってはいるが。

 この雑誌に「エンディングノート」の付録がある。最期を迎えるためのメモ帳のようなものだが、これが巷では売れているらしい。みんな自分の死を自らのこととして想うようになったんだな。2010.11.30 Tuesday

31)もって瞑すべし。

32)あと10年、わし生きてるだろうか?いや本当にこの歳になると考えるんですよ。だって10年後、67歳ですよ。一体どんな生活しているものやら、芝居だってもしかしたらもうやっていないかもしれない。2010.12.25 Saturday

33)たしかなる未来など、誰にもわからない。

34)テーマは「生と死」。子どもたちがこのテーマの芝居をやることはさほど難しくは無いと思う。ただ、死は遠いものだろう。実感として捉えることは難しい。だからバーチャルな意識になる。しかし、シニア世代にとっての死は身近な存在だ。メンバーの中にも「明日死ぬかも知れないから」とか「一度倒れて死んだようなものだ」とか達観の方がいた。遠近感が子どもと格段に違う。

 そんな方々が天国へ向かう列車「銀河鉄道」の物語を身近に親身になったり、笑い飛ばしたり、冷静に判断したりしながら5ヶ月の旅をした。稽古の旅そのものがわが事である現場こそ芝居をやる醍醐味でもあろう。2011.01.25 Tuesday

35)坂上二郎さんが亡くなった。芝居の原点が唐十郎師なら、お笑いエンターテインメント指向の原点はコント55号だ。2011.03.11 Friday10:39 

35)これが3・11当日の直前のかきこみとなる。

<6>につづく

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2012/11/15

唐十郎と宮沢賢治で読み解く石川裕人 『石川裕人劇作日記 時々好調』<4>

<3>からつづく 

Newton
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <4>
石川裕人 2005/09~2012/09 Vol.3 石川裕人年表
★★★★★

1)昨夜の「情熱大陸」は唐十郎。相変わらずいい意味で狂っている。毎年唐の誕生日には自宅でパーティが開催されるらしく、そこではかつての戯曲が役者達によって演じられている。大久保鷹もいた。それを見ている唐の目は異様に光っていて、そして涙さえ流している。とてつもない没入だ。
稽古場は自宅にあり、8畳間くらいしかないかもしれない。稽古は広ければいいってものじゃない、密度だよ、熱だよ。稽古が終わって16:00。唐はメンバーにこう言った。「ちょっと飲もうか」稽古が終わってすぐ飲める体勢といい、すぐ鍋を囲んでという雰囲気、いいなあ!!唐の若さはこういう原動力があるからかもしれない。狭くてもいいから、稽古場また持とうかな。
唐・状況劇場の「愛の乞食」に出会わなければ芝居をしていなかったかもしれない愚生の灯台でもある巨大な師、お元気で。
2006年 5月 8日 (月).......唐十郎。」

2)あん時も一緒に見に行ったよね。二人共高校生だった。私しゃ演劇人ではなかったからそれほど人生は変わらなかったけど、ニュートンにしたら、どでかいことだったんだな。

3)唐十郎「劇的痙攣」。小林信彦「地獄の読書録」。篠山紀信「作家の仕事場」。「2006年 5月10日 (水).......公演まで3週間。 」

4)「劇的痙攣」は明日あたりから読む予定。6年半遅れ。って、唐十郎は、私のリストにはもともとなかったからなぁ。ニュートンを追悼する意味でようやく読み始めたところ。

5)めっきり酒も弱くなり、5合以上呑むと次の日はずだらである。昨日の居酒屋の宴会もうまい地酒が揃っていたので次から次と呑み、家に帰っても焼酎を呑み、今日は起きてはいるが廃人一歩手前。石川廃人なんてね。廃人というのは大げさだが、本を開く気力がないのを廃人だと思っている。読書が健康のバロメーターかもしれない。もちろん稽古の時間くらいまでには回復しましたよ。で、稽古が終わって家に帰ってまた呑み始めた。懲りない体。酒はうまいが体がまずい。うまいと感じる体が何故悪いのだろう?こんなに酒がうまいのに肝臓が悪い。まずくて体を悪くするのならわかるが、旨い酒を呑んで体が悪くなるのが解せない。これ、煙草も同じだね。「2006年 5月15日 (月).......石川廃人。 」

6)あんたはずいぶん呑んだね。酒を飲まなきゃ、演劇やれないのかな。

7)「演出家の仕事 60年代・アングラ・演劇革命」日本演出者協会+西堂行人と「昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫」という本を購入。どちらもいぶし銀のようで現在に直結するテーマを扱っている。(中略)そして実際今現在の愚生を作ったとも言える出会い、寺山修司さんと東由由多加さん。まだ17歳くらいのガキの頃、一緒にこたつ囲んで芝居の話、家出の話、ロック・ミュージカルの話など尽きることなく話しをした。

 話しをしたのは彼らで愚生はずっと聞き入っていたのだが、寺山さんが例の口調で愚生にこう言った。「あのね、顔の大きい人は座長になれるよ。」あのまま寺山さんの所、天井桟敷に家出してたら今頃どうなっていたのかねえ。東京キッド・ブラザーズまではたどりついたのだが…。修業時代の面白い話しはいっぱいくさるほどある。また今度。でも本の方は元気のない時のビタミン剤のような本だなあ。「2006年 5月16日 (火).......アングラ芝居検証本。」

8)「演出家の仕事 60年代・アングラ・演劇革命」、この本も明日あたりから読み始める。6年半遅れ。例の寺山・東との会食の場には私はいなかったが、例の「朝日ジャーナル」ミニコミ特集1971/03/26がきっかけだと思うから、私も関係者のひとりということになろう。もっとも、私は72年6月頃に、ヒッチハイク日本一周の最中に、青森県民会館の天井桟敷の公演に潜り込んで、寺山や九条や佐々木英明やシーザー、友川かずきなどと飲んで宿舎にとめてもらったのだった。わはは。でも演劇人にはやっぱりならなかった。縁がないんだな。

9)今日も終演後、酒盛りが始まった。無事を祝っての御神酒である。無事を祝って、祈って15日間御神酒の日々が続く。遠来の友が来るし、しばらくぶりの顔とも会える。これを御神酒無くして過ごせるかってんでぇ!!って、なんで江戸っ子なの?「2006年 6月 1日 (木).......御神酒の日々、開ける。」

10)あ~あ、また飲むの。

11)5月の初旬から読み始めて途中で止まっていた「カラマーゾフの兄弟」をまず読み倒さねば。ほぼ2週間ぶりに上巻のページ(まだ上巻なのだ)を開いたが、圧倒的なパワーの世界に引きずり込まれる。もう少しで中巻。夏休みの読書感想文の課題図書を読んでるような、今日の仙台の天気である。「2006年 6月19日 (月).......充電しなければ。」 

12)「カラマーゾフの兄弟」を当ブログで読んだのは2009/08。二年二ヶ月遅れ。なかなか面白い構図になっていたね。

13)次の公演はPlay KENJIである。宮澤賢治の作品を換骨奪胎するシリーズでファンが多い。賢治の研究書は数多あり、それを読むも読まないも愚生の賢治論であり、演劇論でもある。
 千葉一幹「銀河鉄道の夜しあわせさがし」。次が「銀鉄」ものなので読んでいるが、どこかで読んだような論で新しさは感じない。全く新しい地平から賢治を捉えることは可能だろうか?愚生は研究者じゃないから手柄を立てるつもりはないし、その任でもない。だから無責任にやれる。
「2006年 6月21日 (水).......沸々と不埒に。」

14)「ザウエル」~犬の銀河 星下の一群~PLAY KENJI♯5を準備中だったのだろう。「銀河鉄道の夜しあわせさがし」は未読だから、近日中に取り寄せて読むことにしよう。

15)ちょっとの間酒を断つことにする。誰も愚生を誘うなよ。「2006年 7月 1日 (土).......今年の半分が終わった。」

16)そうそう、そのほうがいいよ。ちょっとの間、なんて言わずに、ここで断酒できれば、あんたはもっと長生きしたよ。

17)押野武志「童貞としての宮沢賢治」読了。タイトルはスキャンダラスだが、まっとうな賢治論。生涯童貞と言われた賢治だが、何故そう思えるのか作品から追っていく。
実生活ではなく作品から探るという方法論は潔い。しかし、賢治という人、近親相姦的関係、同性愛への傾き、マザコン、ロリータ、多形倒錯、春画収集家などなど、様々な顔が見えてくるのだが、どうも他者とのコミュニケーション不全を囲っていたように思える。現在こういう人は結構世の中にいっぱいいて、賢治は先駆的存在だった。
2006年 7月 3日 (月).......「『童貞としての賢治』」

18)この本も君の書斎のちょうど真正面の目の高さにあったから、すぐに気がついた。そうか、この時に読んだんだな。当ブログ未読、近日予定。

19)で、愚生は高校卒業してドロップアウトした時点で上昇志向は捨ててしまった。今考えてみるとすごい早い離脱だけど、世が世なら修行僧なんだろうね。いまだに世のなんたるかがわからない虚け者なので修行の日々はいつまでも続くのでしょうが。「2006年 7月 8日 (土).......修行するぞ。 」

20)長い長い59年と一ヶ月の旅だったが、あの頃の1・2年が大きな転機だったね。いやぁ、ニュートンはニュートンらしい飛行ルートを通って、高く高く飛翔したと思うよ。

21)西成彦「森のゲリラ 宮澤賢治」読了。賢治の作品を読んでうすうす感じていたのは戦争、非常事態への思いだったが、それを解き明かしてくれた。帝国主義戦争・ファシズムに巻き込まれた人間の心情をもう既に書いてしまっていたという指摘は慧眼。次の戯曲「ザウェル」では動物管理センター(遺棄された動物たちの収容所)からの視点を取ろうと思っていたので、刺激的なインスパイアだった。「2006年 7月10日 (月).......『森のゲリラ』。 」

22)この本も当ブログ未読。近日予定。

23)8月6.7.8日は仙台七夕、全国的にも有名なお祭り。毎年この8日になると思い出すことがある。穴があったら入りたい、穴が無いなら掘ってでも入りたい、そんな大馬鹿な思い出、思い出は重いでえ。仙台市民会館大ホール、立ち入りならぬのお達しが出るくらいの乱痴気騒ぎの一部始終を初めて公開。

 それはもう約30年前の夏。その頃愚生はヒッピーまがいの生活をおくっていた。当時こういうことをやっていた人間は全国に散らばっていながらもネットワークが確立していた。驚くべきことだけどパソコンもメールもファクスでさえその当時は無かった。電話さえダイアル式だよ。でも全国ネットがあったのだ。その仙台ステーションに関係していた。

 「雀の森」という名前だったが、名前はとりあえず場所の呼称だったように思う。なんと二間のアパートに全国から様々な人間が集った。政治活動家、映画人、旅人(いたんだよこういう人が)、薬草栽培家(危ない)、ミュージシャン、何もしない奴(今で言うプータロー)、労働組合幹部等々。そこでの付き合いが今現在の愚生の考えの立脚点だと確信できる。当時は芝居はやっていたが、別にどうなっても良かった。

 で、仙台で夏祭りをやろうということになったのだ。その夏、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが日本に来るという情報をつかんだ東京組がコンサートをやれるかもしれないということを言ってきた。なに!?レノンのコンサート?それを仙台で?あっという間に話はふくらんだ。書いている内に恥ずかしくなってきた、というよりよくそんな話しに乗ったもんだという贖罪。詐欺です、全て。今初めて謝ります。レノンが来ると言って協賛を貰ったナショナル・テクニクス。ナショナルの命運をかけてすごいPAを用意してくれた。

 そして当日、勿論レノンはおろかノレンさえくぐれず。演奏したのは大学のアマチュアバンド。なんでこんなバンドがやることになったのか全然覚えていないのだが、そのメンバーの中には後で著名になる考古学者や一緒にやることになる役者も含まれていた。だが全国からやってきたヒッピー連がそのバンドを面白くないと言ってこきおろし、喧嘩は始まる、愛の交歓が始まる、ほぼアナーキー状態。そうこうしてるうちになだれ込んできた七夕ぼんぼり軍団。七夕の飾りを手に持ち歌うは踊るわ裸になるわ。もう手のつけられないことになった。

 おまけに当日の申し込み責任者は愚生で会館関係者から追われる始末。「石川という者はどこにいる?」逃げる逃げる!!チャップリンの映画のように会館の中を早足で逃げた。かくて市民会館出入り禁止。そのあと、愚生らは「カーニバル」ベースキャンプの牛越橋たもとのテントに戻って終わらないライブをやったんだった。パトカーは連日来たけど、別に誰も捕まる者もなく、ミニ・ウッドストック牛越だった。あの頃の連中今なにしてんのかなあ?
考えてみると耐えられないほどの面白さ、そして青春っていうほんの一時の痛みと輝きがみんなあった。社会も、関係も、大きな世界もあんまり病んでいなかった。

 ここに書き切れないほどの真情あふるる軽薄さは書かなければならないなあ。誰も書いていないこと。心の底深く沈んでいく大切なことを書きたくなってきた。「2006年 8月 8日 (火).......七夕の大馬鹿 Uoo!!」

24)これは1974年の夏のこと。この当時のことを書くのはニュートンか私しかいないだろう。体験した人は多いが、書き手がいない。それにしても、この次の年の「星の遊行群・ミルキーウェイキャラバン」からは、ニュートンの名前が消えていたような気がする。何か心境に変化があったかな、と思う。

25)ここでブログのサイトが変わって、現在のものになる。---------

26)結婚記念日でした。
といっても式場で大がかりなことをやったわけではなく、籍を入れた記念日。17Thです。中途半端やなあ!!
「2006.10.28 Saturday」

27)ということは、1989年10月28日入籍ということだね。さっそく年表に加筆。

28)伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」 2006.11.17 Friday

29)当ブログでこの本を読んだのは2006/12。一ヶ月遅れ。まぁ、ほぼ同時。

30)仙台の戯曲賞の審査もしているが、ほんと時の運というか、審査員との相性というか。劇作家の中には戯曲賞の審査員に合わせて書く人もいるらしい。賞を取るための傾向と対策なのだろうが、そこまでして取りたいもんかねえ。寺山修司のような無冠の帝王もいる。村上春樹のように賞なんて考えたことがない、読者が私の賞です。と言うのもクサイけど、どっかから思いもかけずくれる賞っていうのが一番いいような気がする。
そして賞に輝かなくても愚生の作はOAされているし、芝居は多くのお客さんに観てもらっている。要はこの仕事、持続することが大事なんだと思う。
2006.11.23 Thursday

31)同感。

32)打ち上げでIQ150の方々と懇談。IQの旗揚げメンバーの中にな、なんと愚生の作った初期劇団「洪洋社」の芝居を観てる人がいた。もう30年も前である。IQが旗揚げしなければ入団していたかもしれないということだった。

 その劇団にはIQの核・茅根利安君(現在はフリー)も在籍したことがあり、当時で10000円もの団費だけ払い続け、1回も舞台に立つことなく劇団は解散したのだった。それを反面教師として彼は丹野久美子さんや井伏銀太郎氏らとIQ150を旗揚げしたのである。

 そして愚生は極度の人間不信と芝居嫌いになり、3年間ほど芝居を一切観なかった。再起して今に至るだが、もう芝居から足を洗っていてもおかしくないブランクの時期だったなあ。

 なんで再起出来たのかって?それはヒミツである。酔って口が軽くなっている時に君だけに語ってやろう。
2007.01.21 Sunday

33)当ブログは、そのヒミツには唐十郎が絡んでいると推測している。

34)愚生もあだ名とのつきあいが40年以上にもなる。小学校の時つけられたあだ名が今でも流通していて、メールの差出人告知はあだ名である。(劇団員やらごく親しい人だけ)これは非常に珍しいケースではなかろうか?

 でも、劇団員の中には愚生をあだ名で呼べない人もいる。ま、最初から継母を「お母さん」と呼べないようなものだろうが、その呼べない2割の劇団員はなかなかに貴重なメンバーである。集団の中で座長と自分、他のメンバーと自分との関係のスタンスを取ろうとしているんだろう。

 そうだなあ、大体新人は1年以内に愚生をあだ名で呼べないと、そのまま石川さんとかゆうじんさんとかになるようだ。そして初めて愚生をあだ名で呼ぶときの彼ら彼女らの表情がすごいもぞこいんだよね。

 でも、愚生は自分のあだ名を気に入っている。よくぞつけたり林信夫。
2007.01.24 Wednesday

34)当ブログにおいても「ニュートンの名前の由来について」なんてことをメモしておいた。それにしてもその命名主が林信夫なんて書かれても、このつながりをわかる人物はそう多くあるまい(笑)。彼がつけたのか。なるほど。今度同級会で会ったら確認してみよう。

1963
 大王の右隣が石川裕人、大王の左隣が私。最前列の一番左側で槍を持っているのが林信夫。小学4年生の学芸会「孫悟空」

35)よーく考えてみると、興味のある戯曲は唐十郎しかないのではないか?色々な戯曲を再読してきて、やっぱりそんな風にも思われるので「唐十郎のト書きの風景」になるかも知れません。

 ということで唐十郎の言葉「舞台に立つ人が、市民としてのアイデンティティを客席とキャッチボールしあいながら、自分自身の社会的存在感を確認するという演劇がずっと続くようだったら、僕は芝居なんかやっていないと思う。」さすがである!!
2007.01.27 Saturday

36)どこまでも唐十郎が好きだったんだなぁ。

<5>につづく

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ブログと読書を付き合わせてみる 『石川裕人劇作日記 時々好調』<3>

<2>からつづく 

Newton
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <3>
石川裕人 2005/09~2012/09 Vol.3 石川裕人年表
★★★★★

1)1日家を空けるうちに、注文していた分厚い本2冊届いていた。
A・マングェル「世界文学に見る架空地名大事典」550P。遅ればせながら、A・ネグリ&M・ハート「帝国」580P。これは今年中に読んでおきたい。
石川2005年10月 7日 (金).......クタクタ。」

2)彼亡きあとの書斎をチラッと覗かせてもらった。割と小ぶりな本が並んでいるなかに、キチンとネグリ&ハート「帝国」「マルチチュード」(10/30の日記に登場している)が並んでいたのには驚いた。私が夢中になったのは、彼より一年遅れて2006/09。ただ、すごく面白いのだけど、結局は、当ブログのラインではないな、という結論に達している。

3)自分が書くというより、何者かが降りてくるということがある。絶対自分の力だけではないものが作用しているような気がする。初めてそれを感じたのは’88年の「又三郎」という台本だった。(中略)そして常に誰かに書かされているようだった。むち打たれてではなく、優しく慰撫されるように書くことに寄り添ってもらった。あれは賢治さんだったんだろうか?と、今でも思うことがある。石川「2005年10月19日 (水).......降りて来るもの。 」

4)ふむふむ、なるほどね。

5)宮城野図書館企画「夜の図書館で遊ぼ!」出演。吾如何にして劇作家になりしかを読書遍歴を通して語っていくという我ながら楽しい催しだった。約1時間少年期~芝居を始めたきっかけ~幻想文学というおおまかに三本柱を立て、図書館のフロアを参加者とまわりながら進行。
 1 「銀河鉄道の夜」との出会い。絵永けいのリーディング 2 「特権的肉体論」唐十郎、芝居を始めたきっかけ。愚生と絵永による「唐版風の又三郎」ドラマ・リーディング 3 幻想文学は私のガソリン。書庫にて絵永の「砂の本」(ボルヘス)リーディング。
石川「2005年11月19日 (土).......夜の図書館で遊ぼ!」

6)ほとんど現在につながってくる企画だね。

7)森達也「悪役レスラーは笑う」懐かしのグレート東郷のルポルタージュ。読みたい本が次々と机の上に積まれて行く。「2005年11月24日 (木).......音楽の駆け込み寺。」

8)ほとんど出版と同時に購入している。当ブログこの本を読んだのは2007/08になってから。二年遅れだ。彼も好きだな。

9)昼間のNHK「スタジオパーク」を録画して稽古が終わって帰宅して見る。唐十郎がゲスト。65歳。相変わらず何かに取り憑かれたような眼をして早口で喋りまくるその姿は健在。自分の創った大嘘をあれだけ恥ずかし気もなく雄弁に語る人がいるだろうか。面白いなあ。「2005年11月30日 (水).......唐十郎を見る。」

10)さすが、私淑していただけのことはある。

11)来年2月、3月の市民向け講座「宮澤賢治に親しむ」の打ち合わせに通称タイハックルに行く。定員30名を超える応募者があるようで、賢治人気もすごいものだ。それも高齢者が多い。賢治の詩も、童話も大人になればなるほど身に染みてくるような気がする。決して子どものために書かれた童話ではない。あの童話群を読んだり、聞かせられたりして賢治を好きになる子どもの将来が逆に不安だ。愚生も本格的に読み始めたのは20歳代を越してからで、それまでは忌避していた。何故かと言えば賢治の童話によって死に導かれようとしたからなのだが。2005年12月22日 (木).......今日はカザフスタンの映画。」

12)彼の賢治観がすこしわかる。

13)昨日の映画のベストセレクションに関して追記。年間91本見ているのは多いのか少ないのか判らないが、毎年このくらいの本数見ている。芝居が忙しくないと結構見ていて一昨年は130本を越えた。「2006年 1月 3日 (火).......あっという間に三が日も終わる。」

14)年間130本は多いだろう。私なんぞは生涯で130本くらいしか見ていないんではないかな(笑)。

15)全然関係ない話になるが、日高見の純米吟醸精米度50は旨いなあ!!肝臓が生き返るような気がする。これ呑めば呑むほどに肝機能が良くなる酒じゃないの?「2006年 1月 3日 (火).......あっという間に三が日も終わる。」

16)んなことはないだろう。肝臓悪くしたのは、自業自得だな。

17)高山文彦「麻原彰晃の誕生」。クレージーキャッツHONDARA盤。「2006年 2月25日 (土).......夢。」

18)当ブログがこの本を読んだのは、2007/03。一年遅れ。そもそも、この当時、私はほとんど本を読んでいない。

19)3月1日は高校の卒業式だ。思い出すなあ、将来なんか何もなかった3月1日。大学行くわけでもなく、就職するわけでもないドロップアウトした小僧がその当時なんと呼ばれていたかというと、とりあえずフーテン、ヒッピー。自分の居場所を求める人間にその当時キャッチタイトルはなかった。だから良かった。俺は何にも規定されていないと思った。プータローとかアルバイターとか、ニートなんては、最近の言葉。そして現在完全に規定されている。規定されてもそれを打ち破っていけばいいんだけど、今の小僧ども、どうだろう?
風が強い日の卒業式、君が代にただ一人起立をせず帰宅した家であがた森魚の「乙女の浪漫」と友部正人の「にんじん」というLPを涙ながらに聞きながら愚生は現在に至る道に、その一歩を踏み出したのだった。なんて長い道のりだったのだろう!!
「2006年 3月 1日 (水).......3月1日になると思い出す。」

20)あのあと、あなたは私たちの雀の森にやってきて同居することになったのだった。ごくろうさんでした。あなたは立派な人生を生きた。もっとも純粋に、志を全うした。一友人として誇りに思います。

21)毎月1回の定期検診日。先月の血液検査の結果、酒を控えると全ての数値が下がっている。なるほど原因はやはり酒であったか、なんて分かり切っていたことなんだけど、今まで酒を控えて、それも10日以上の断酒日なんてなかったから、酒と数値の関係がいまいち不分明だった。これで判明したわけで、よし、来月まで2週間から3週間の断酒を決行しよう。出来れば…、と書いた脇から決心は揺らいでいる。「2006年 3月14日 (火).......出産間近。」

22)だろう。酒はあんたの命を縮めたな。この2006/3/14から、ようやく私のブログが開始する。その前にも試験的にいろいろ書いては消していた。良いきっかけとなったのは梅田望夫「ウェブ進化論」だった。

23)オウム真理教(現アレフ)の麻原彰晃の死刑がやや確定したというニュース。’95年にオウム事件と宗教の闇を真っ向から取り上げた愚生としてはオウム真理教と麻原は未だにアポリアである。雄弁な教祖としてこの社会、歴史、日本人、宗教、世界を縦横に裁判の場で語ってくれると期待したのだが、どうもそんな人物では無く、巨大な俗物だったようだ。関わったとされる事件の死者27人。その人々のためにも必死で語るべきだった。本当のところはまた闇の中に葬られることになるのだろうか?「2006年 3月27日 (月).......「テアトロブース」最終回。」  

24)あの「教祖のオウム 金糸雀のマスク」 現代浮世草紙集 第三話 1995/11は、当ブログにおいては、最低の評価である。私には「宗教の闇を真っ向から取り上げた」とはとても思えなかった。

25)この1週間の購入書籍。鶴見俊輔座談「日本人とは何だろうか」。S・ウィンチェスター「博士と狂人」。斎藤憐「劇作は愉し」(劇作家協会からの贈呈)「シアターアーツ」’06年春号。村上春樹「意味がなければスゥイングはない」。「桂枝雀爆笑コレクション5」。
ちょろちょろちょろちょろ増える本に比べて読了本は1週間で3,4冊か?
2006年 4月13日 (木).......エルパ問題意見交換会。」

26)村上春樹「意味がなければスゥイングはない」を当ブログが読んだのは2010/01。4年7ヵ月遅れ。当時はほとんど本を読んでいなかったが、「読了本は1週間で3,4冊か?」なら、現在の当ブログのほうが多いかも。

27)仙台文学館は愚生にとってはお馴染みの所だ。劇団もここで去年・一昨年と上演しているし、好きな空間だ。「2006年 4月23日 (日).......光太郎朗読」

28)私は前を通りかかったことがあるだけ。中に入ったことはまだない。2004/  83本目「センダードの広場」PlayKENJI♯3仙台文学館篇の情報を求めて、近日中に行ってみようと思っている。

29)この前から今日までの購入書籍。半藤一利「昭和史 戦後篇」。柄谷行人「世界共和国へ」。見田宗介「社会学入門」。「2006年 4月30日 (日).......ゴールデンウィークだそうで。」

30)当ブログが「世界共和国へ」「社会学入門」をよんだのは2006/9~10で5か月遅れ。彼は新刊を次から次へと購入しているようだが、当ブログは、図書館の棚からみつけるのだから、この程度のタイムラグはしかたないか。彼は彼で、積ん読も多いようだし。

<4>につづく 

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素晴らしき同時代性 樋口良澄『唐十郎論』 逆襲する言葉と肉体


「唐十郎論 」 逆襲する言葉と肉体
樋口良澄   2012/01  未知谷 単行本  218p
Vol.3 No.0877★★★★★

1)素晴らしい一冊。本来であれば、この本はレインボー評価しなければならない。しかし、この本をレインボー評価すると、当ブログ全体があらぬ方向に進んでいってしまようで怖い。ここはひとつの鏡、ひとつの反面教師、ひとつの傍証として読んでしまうに限る。

2)それにしても、この本を石川裕人は読んだであろうか。あとがきの日時が2012年12月とあったので、絶対読んでいないと確信したが、実はこの日時は誤植であると、あとで気がついた。出版は2012/01だから、唐十郎に私淑する石川は、この本を読まなかったはずはない、と思い直した。

3)すくなくとも、80年代石川の十月劇場の活動の裏には唐十郎がいたはずだという推測のもとに、さまざまな問いかけをつくっておいたが、そのほとんどの問いに対する答えがこの本の中にある、といっても過言ではない。答えそのものがなくても、答えへの道筋が準備してある。

・舞踏と演劇
・唐十郎と寺山修司との絡み
・肉体について
・テントについて
・小劇場について
・アングラについて
・反演劇、超演劇について
・唐十郎と宮沢賢治について
・革命戦線と演劇について
・唐十郎にとって「私とは何か」 
・演劇と小説
・80年代、90年代について
・3・11後の演劇の方向性 などなど

4)再読を要す。

 

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『宮沢賢治の心を読む(Ⅱ) 』草山万兎 <3>

<2>よりつづく 


「宮沢賢治の心を読む(2)」 <3>
草山万兎 2012/07 童話屋 単行本 189p    
Vol.3 No.0876★★★★★

1)草山万兎は霊長類学者、児童文学作家で理学博士である河合雅雄のペンネーム。それだけに、賢治の植物や動物などの項目についての説明がすごい。

2)コンパクトな文庫本サイズだがハードカバーの豪華本。今回配本に収録されたのは、「どんぐりと山猫」、「狼森と笊森、盗森」、「さるのこしかけ」、「林の底」、「洞熊学校を卒業した三人」の五篇。 科学者らしい解説がなかなか鋭く、貴重。

)「日本の国土の七割近くは、山地です。山地は、低い山で人間の生活にとり入れられている里山と、その奥の高い山からなる奥山に分けられます。奥山へは、普通猟師や木樵など山仕事をする人が入るだけで、一般の人はあまり近よりません。奥山は神々や仏様がおられる所dえ、信仰の霊山なのです。草山p21

4)人里、里山、奥山の分類は見事。賢治の世界には、奥山の動物たちはほとんど出てこない、というところが興味深い。

5)夕方は外にいてはいけない、とお父さんに言われています。夕方は逢魔が時と言われ、闇が迫るにしたがって天と地がつながり、天の魔と地の妖怪が仲よく跋扈する妖しい一時なのです。子どもが外にいると、子とり(子さらい)にさらわれ、サーカス団に売られてしまうよ、と聞かされています。草山p106

6)空間と時間の切り取り方が見事で、さすがだな、と思った。

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2012/11/14

ほんとうに必要なのはどの肉体論だろう 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 <2>

<1>からつづく 


「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 <2>
増田俊也 2011/09 新潮社 単行本 701p

1)この本は面白い。ヒットしているわけがわかる。木村政彦側について、徹底的にノンフィクション・ライティングで、力道山とのプロレス巌流島戦を追う。実に執拗だ。これまでの当ブログでの力道山追っかけを凌駕する内容だ。

2)だけどふと思う。今、当ブログは、このような肉体論を何時間も読書していいのだろうか。もっと当ブログにふさわしい肉体論があるのではないか。

3)と思って、今手元にある「肉体(身体)論」を三つ並べてみた。




Niku_3


増田俊也 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

唐 十郎 「特権的肉体論」

OSHO   「こころでからだの声を聴く」

4)プロレスは、演劇というより八百長だ。ブックという試合運行表によって勝敗は最初から決まっているショーだ。そこに命をかける男たち。リアルといえばリアルだが、そこに安住することはできない。

5)かたや、石川裕人追っかけの最中にでてきた唐十郎、その特権的肉体論は、役者たちの肉体に支えられた演劇論だ。結局、観客という要素を必要とする表現であり、芸術としての存在基盤があいまいだ、とさえ思う。

6)さて、私が必要としているのは、瞑想へとつながる肉体(身体)論。やっぱりOshoが私には一番リラックスできる。でもなぁ、なかなか、この通り実行できないという悩みもある。

7)この対比で並べてみるのも面白い。身体のための身体。芸術のための身体。意識のための身体。すこしづつ、当ブログの今後の方向性がみえてくる。

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酒と賢治の日々 『石川裕人劇作日記 時々好調』<2>

<1>からつづく 

Newton
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <2>
石川裕人 2005/09~2012/09 Vol.3 石川裕人年表
Vol.3 No.0875★★★★★

1)彼は2005/09からブログ日記を付け始めたようだ。これ以前のものもあるかもしれないが、まずはこの年代が、私にとっては、極めて興味深い。実は、私もまた、この自分のブログ(以前の楽天ブログ)を同じ2005/09に登録したからである。ちょうどこの時期、ブログが話題になってもいたのだろう。

2)日記はもう17年もつけている。(略)ネット上の日記は偽装日記でもある。そんなつもりで書いていけば隠微日記のように長続きするかもしれない。おまけにこれは劇作日記である。嘘八百書く戯曲をもう一皮嘘で塗り固めようというのだ。なにが本当でなにが嘘なのか自分でもわからなくなってくれば大正解。「2005年 9月 1日 (木).......今日からつけはじめます。」

3)私のほうは、ブログを登録したものの、まったく一行も書けなかった。それはそうだろう。私は日記などほぼつけたこともなく、彼が17年間もつけたという日記の期間はほぼ「無言」ですごしてきたようなものだ。その沈黙を破るきっかけとなったのは梅田望夫の「ウェブ進化論」を読んだこと。それは2006/03になっていたのだから、ほぼ半年間どこから切り出すか右往左往していたということになる。

4)他人の日記など、小っ恥ずかしくて読めたものではないが、彼の場合は「偽装日記」であり、劇作のサブノートだと思えば、助けになる。思えば私のブログも「日記」にも「偽装日記」にもならなかった。あくまで「読書ブログ」と規定した。プライベートなことは推測されないように、慎重に回避している。

5)9月になってしまった。今月はPlay KENJI「修羅ニモマケズ」の公演月である。しかしながら稽古の進捗状況が芳しくなく、四苦八苦している。「2005年 9月 1日 (木).同上」

6)当ブログにおいては、なにげなく通り過ぎていく「修羅ニモマケズ」である。読書ブログとしては、あっけらかんとすぎていく一場面ではあるが、創作者、表現者たちにとっては、ひとつひとつが生活の日々である。それぞれの作品の重みを、あらためて思い知る。

7)高橋哲哉「国家と犠牲」購入。古田日出男「ベルカ、吠えないのか?」読書継続中。
12月公演「パペット・マシーン」ネタ本「ユビュ王」熟読。構成への手がかりを探す。
「2005年 9月 1日 (木).同上」

8)これらの読書リストでは、当ブログとしてはまったく食指が動かず。この時点で、彼はどのあたりを歩いているのか、わからない。そもそも、今後、彼との読書でクロスする地点というものがあるのだろうか。

9)今日、妻の父上が亡くなった。
生前は愚生がやっている芝居のことに興味を持っていただいた。元々技術畑の方で、中島飛行機工場、零戦を作っていたのだ。その零戦は少年時代の愚生のあこがれでもあったから色んな話をした。専門的なことを聞くことが出来て嬉しかった
「2005年 9月 2日 (金).......義父の死。」

10)いきなりここから始まるか。この義父にはもう一つ支線があって、当ブログとして、いつスタートするか逡巡しているところだ。この人は中島飛行機で零戦を作っていたのか。なにはともあれご冥福をお祈りいたします。合掌

11)遅ればせながらというのか、満を持してというのか、めでたく"OCT/PASS"のホームページが本日オープンした。2005年 9月 9日 (金).......ホームページ公開。」

12)そういう時代であったのだろう。

13)今日はさわやかな天気だった。こんな天気の中で「修羅ニモマケズ」を上演できたら最高。しかし、今回噂の雨男が役者で入っている。2年前Play KENJI「センダードの広場」を仙台文学館の野外で上演したのだが、台風が来ていて前日は大雨。ほぼ野外での上演をあきらめていた。しかし、その噂の男から「明日は用事で行けません」という連絡が入ったとたん台風が逸れたのだった。当日は役者が熱中症で具合が悪くなるくらいのピーカン!!これは本当にあった怖い話です。彼が真実の雨男かどうか今回の公演で明らかになる。噂だけであってほしいけど。2005年 9月 9日 (金).同上」

14)現在、当ブログのPLAY KENJIシリーズ全6作追っかけでは、この「センダードの広場」の台本だけがみつからない。このような断片情報が残っているだけでも貴重である。

15)ぼろぼろずたずたになりながら劇団員全員が危機感を募らせながら稽古を積んできた。楽しい芝居になると思う。賢治さん独特のユーモア感覚とすれ違っているかもしれないが、「修羅ニモマケズ」は愚生の賢治観だ。そして劇団員のみんなが色んな意味で賢治さんを好きになってくれているのがわかる。難しいこと抜きで賢治さんと遊んでみよう。2005年 9月14日 (水).......ゲネプロ。」

16)当ブログとしては、石川裕人を、越前千恵子→唐十郎→宮沢賢治、という形で収束させたいと考えている。彼の賢治に関するメモは重要である。日記の端々にでてくる本のタイトルは、興味深くはあるが、今は飛ばして行く。

17)「修羅ニモマケズ」初演のえずこホールに入った。夕方から10pmまで約5時間で照明・音響の仕込みと、テクリハ、役者の導線、立ち位置までまるで乗り打ちのようなタイトなスケジュール。(中略)
 えずこ野外劇場にはちょっとしたプールがあり、川西の野外劇場の裏手には古墳があり、仙台文学館には造られた小川がある。えずこから始まる今回のツアーはどうやら壮大な水の物語、「銀河鉄道の夜」の旅なのかもしれない。銀河の旅の途中、白鳥の停車場・プリオシン海岸で出会う考古学の先生は発掘をしていた。川西の古墳にも何かが埋まっているはず。
「2005年 9月16日 (金).......劇場(こや)入り。」

18)ひとつひとつが興味深い記述だが、この調子でいくと何時になったらこの日記を読み終えることになるのかわからない。およそ80数ヶ月の日記である。一日に一ヶ月分を読んでいったとしても、80日以上かかることになる(どふぇ~)。

19)そんなこんなで本日52歳になりました。いやいやこんなになるまで芝居をやっていようとは!!(中略)時の流れを感じるとともに、めぐりめぐって今回も賢治の芝居中に誕生日を迎えるという暗合に驚いている。
 そして21日は宮澤賢治の命日でもあるのです。1933年(昭和8年)でした。それから20年後愚生が生まれたというわけで「賢治の生まれ変わり」などとほざいていたわけですね。ああ、恥ずかしい。
「2005年 9月21日 (水).......本日誕生日。」

20)彼が賢治の生まれ変わりかどうかはともかくとして、賢治は石川裕人を読み解く重要なキーワードではある。

21)医者には酒を止められている。やんわりとした言い方だが、これ以上呑んでもいいけど自己責任だかんね、というような言い回し。
 二十年前は酒をいくら呑んだ後でも台本が書けた。我ながらあきれる。今はもう絶対無理。呑んだら脳細胞がこたこたである。
「2005年 9月23日 (金).......お天気祭り。」

22)結果論として酒は彼の命取りになったと思う。演劇界は酒を断ち切ることができないのか。酒がなければ作ることも見ることもできないのか。私もけっこう酒好きではあるのだが、私はこの点では、まじめに演劇「界」を批判したい。

23)「修羅ニモマケズ」色々あったが幕を閉じた。一時は本当に上演できるのかと思うくらいへこんだこともあったが、出来てみれば笑みがこぼれる芝居、恩寵のようにこぼれ落ちる光のような芝居になった。これも賜物のような賢治作品のおかげだろう。みんな賢治が好きなんだなあ。もっとやりたいというみんなの思いは再演という形で取っておきましょう。2005年 9月26日 (月).......お疲れさまでした。」

24)一作一作がこの調子で出来上がっていったんだな。

25)昨年の9/21から通院していて、かっこよく言えば主治医がいる。先生は当時200を越えていた愚生の血圧を現在正常な値にしてくれた。この先生が芝居好きで前回の「オーウェルによろしく」は奥さんと、今回の「修羅ニモマケズ」は川西に家族連れで見に来てくれた。(中略)

 この先生にかかってから確実に血圧は下がり、肝臓も違う病院を紹介されチェイスしている。しかし、懲りない自分がいる。病の元凶がわかっているのにそれを決定的に断てない。でも煙草は止めたんだよ。しかし酒がやめられないんだこれが。そんなことは先生もお見通しなんだろうけど、強い強制力で断酒を勧めたりしない。結局は自分がどうしたいかだものね。(中略)

 で、これは今日の通院で知ったことなのだけれど、彼の本籍は花巻で、お祖母さんに当たる方が幼い頃の宮澤賢治を知っているという。なんという暗合だろう!!
2005年 9月27日 (火).......通院の日。」

26)今となってはあれこれ言ってもしかたないが、肉体を抜きには語れない演劇なのに、なんで酒をやめられなかったかな。

27)「寺山修司幻想劇集」購入。1983年に刊行された「寺山修司戯曲集」全3巻のうちの1巻で「レミング」「身毒丸」「地球空洞説」「盲人書簡」「疫病流行記」「阿呆舟」「奴婢訓」。この1冊で寺山の真骨頂が堪能できる。寺山初心者も全集が高くて買えなかった愚生のような者もこれはお得な本。平凡社ライブラリー9月の新刊。「2005年 9月28日 (水).......模様替え。」

28)ここで寺山の名前がでてほっとする。弔辞では唐よりも寺山のほうが大事なように言ってしまって、すこし反省していたのだが、実はどちらも重要なんだよね。私は個人的には寺山のほうが好き。

29)家人が出張仕事で家にいないのをいいことに、前々から気になっていた焼鳥屋にでかける。一人で呑むとあっという間に全てが終わる。うまい焼き鳥、うまい芋焼酎で満足。一人酒は好きだ。店の親方がうるさいとたまったもんじゃないけど。一人静かに呑みたいんだということをわかってくれる飲み屋が少なくなってきたような気もする。「2005年 9月30日 (金).......今日は好調?」

30)けっこう酒が好きだったんだなぁ。今日は彼が亡くなってから五七日(つまり35日目)。先日納骨されて、親父さんと一緒の墓にいる。花と線香をあげようと思っていたが、彼にはワンカップ酒のほうが似合うかもな。

<3>につづく

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2012/11/13

唐十郎との対談だがちょっと見当はずれ 『芸術ウソつかない』 横尾忠則対談集


「芸術ウソつかない」 横尾忠則対談集
横尾忠則・唐十郎他 2001/09 平凡社 単行本 p252
Vol.3 No.0874
★★☆☆☆

1) 80年代における石川裕人に対する唐十郎の影響力をさぐってみる。そして、唐とOshoの距離の隔たりの中に、横尾を入れてみたらどうだろう、という、実に単純な発想で、この本をめくってみた。

2)この本は、横尾が15人の人間と対談したものがまとめられているが、唐との対談は10ページほど。全体的に上滑りな、いわゆる横尾調の対談だけに、現在当ブログで進行しているような、ちょっとシリアスな論調とは波長が合わない。他の人々との対談も、おもしろくないわけではないのだが、割愛する。

3)---寺山(修司)さんがやってたラジオに僕が出た時、紹介してもらったんですよね。64・5年ですよ。その時のこと、横尾さんはどこかに「合った瞬間にこの男とあまり長い付き合いしない方がいいなと思った」って書かれた(笑)。

横尾---そう思ったの。右翼の少年っていうかね、合い口を隠していてもおかしくないような殺気を感じた。しかも演劇やってる人だよって。僕が苦手なのは一に詩人。次が演劇人。p92「ふたりが出会った日」

4)この言葉使いで、寺山--唐--横尾の、トリニティの位置関係がわかる。

5)横尾---あの時は芝居のちゃんとしたコンセプトを持っていなかったんですよね。僕と話しながら、僕を媒介にしながら、インスピレーション入ってったんじゃないの?

---タイトルと野外でやるということだけは決まっていたんです、セット代わりに、公衆便所で三分ごとに水がジャージャー流れるのを音楽にして、照明はないから自転車をこいでる人間が二人いて(笑)。そういう条件だけで「腰巻お仙」とは「日本列島をひとつの子宮体というか母のものだとすれば、これはもうひとつの日本列島を象徴するものであります」と(笑)p94「同上」

6)この調子でやられると、もんどりうってしまうので、ほどほどにする。この本は2001/09にでたものだが、この対談は1998/08とされる。私は大の横尾ファンだが、読書ブログとしての当ブログに登場しないわけがわかったような気がする。

7)自分の表現を読書ブログと限定してしまっている現在の自分が間違っているのかもしれない。横尾が好きなのに、横尾が登場しないこのブログ、どこか欠陥があるようだ。

8)私の試みは、唐十郎→横尾忠則→Osho、というベクトルなのだが、もちろん逆のベクトルも存在する。「演劇」性から「瞑想」性への足がかりを、どのように作るか、それは当ブログならではの課題である。

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『愛する地球(テラ)に』 女神は夜明けに舞い降りる 羽倉玖美子<1> 

Tera
「愛する地球(テラ)に」 
女神は夜明けに舞い降りる <1>
羽倉玖美子著 2012/12 本の森 単行本  
Vol.3 No.0873

1)おや、なにげなくヒットしたページにこんなコメントが。

2)「3.11」「フクシマ」・・・困難の時代に求められるのは、「地球人」としての精神性(スピリット)。「本の森」 HP

3)近日刊行予定となっているが、よくよくみると、ああ、やっぱり彼女の本だった。書いている最中とは聞いていたが、なるほど、こういう本になりましたね。それにしても、困難の時代に求められるのは、「地球人」としての精神性(スピリット)、とはいいですね。

4)地球人スピリット・ジャーナルを標榜する当ブログとしては、一瞬パクられたかな(爆)と思ったが、いえいえ、いまやこの単語は一般名詞です。もっともっと当たり前の、基本的な言葉、生き方、思想にならなければならない。

5)とはいいつつ、この当たり前のことがよくわかっていないのは、当ブログがあちこち彷徨を繰り返しているのを見てもお分かりのとおりである。

6)「3.11」「フクシマ」・・・困難の時代に求められるのは、「地球人」としての精神性(スピリット)

誰しもの心の奥底に眠るはずの、かけがえのないものを呼び覚ますカギは何だろう。

ネパール、チベット、沖縄、アリゾナ・・・いのちが花ひらき、人々が恵み合い、共に生きる世界を旅した著者は、そこで何を見、何を感じたのか。
古代ギリシャ人、中国雲南省の少数民族を含め、「母系」「身の丈に合う経済」「自由な学び」「創造と責任」などをキーワードに、 これからの時代を生きるヒントを探る!

きっと道がある!
いのちが花ひらき、恵み合い、共に生きる世界が
「3.11」と「フクシマ」を新しい時代の啓示と受け止め、
地球人としての精神性(スピリット)の目覚めの時。
「本の森」HP

7)ふむふむ、なるほどね。彼女の本は、これで4冊目か5冊目になるのだろうか。いままでも何度か紹介するチャンスがあったのだが、身近な人の本を紹介するのは、どこか気恥ずかしい気分になる。(これは私固有の感性だろうか)。石川裕人についても、なかなか紹介するチャンスがなかった。彼が亡くなって、あわててブログいっぱいに広げているようなザマである。

8)目次]

■第一章 女神は夜明けに舞い降りる

I.クレタの女神
1.いのちを産む奇跡/2.女神の時代/3.ミノア文明の終息

II.サラスヴァティーの水 ことばのチカラ
1.祈りの国 インド、ネパール/2.サラスヴァティー文明/3.水の神 音の神/4.あるがままに/ 5.母なるチカラ シャクティー/6.ことばのチカラ

III.女が男を守るクニ
1.イザイホー 女神が神に変わるとき/2.完結した共同体 久高島/3.沖縄の女神たち

IV.高き山澄んだ水の傍らに
1.日本の女性解放運動と母系制/2.摩梭人の母系社会/3.いのちをつなげる社会システム

V.祈り
1.母なる地球/2.一瞬の光/3.文字を持たない文化/4.スパイダーウーマンの夢 
「本の森」 HP

9)これはちょっとした哲学の本だな。彼女がいままで学んできたことの集大成というべきか。

10)■第二章 星を継ぐ子どもたちに

I.未来への種子 いのちを生む・育てる
1.出生時・幼児期の体験/2.陰と陽・女性と男性のエネルギー

II.養育すること・学びあうこと
1.子育て/2.こころを駆り立てる競争意識/3.本来の力を取り戻す・自由意志と創造と責任 4.個、この稀有なもの、そして恐怖/5.それぞれの力を引き出す

III.地球の民としての暮らし
1.「いのち」という視点/2.必用という需要 身の丈に合った経済システム/3.互恵・私たちのクニ
 「本の森」 HP

11)私は子育てが終わった段階だが、さっそく孫たちが生まれ、これからのことを、孫たちの成長タイムスケジュールとともに考えることが多い。この第二章は重要なポイントとなりますね。

12)さっそくオーダーしておいたけど、そのうち読めるようになるだろう。読んだらまたコメントすることにしよう。多くの人が手にとって読んでくれますように。

<2>につづく

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高齢者俳優養成企画AgingAttack!!『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<5>

<4>よりつづく 

20100131_885617
「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <5>
石川裕人ブログ 石川裕人年表

1)劇作103本のうち、1971年の劇団座敷童子旗揚げから劇団洪洋社を経て、13年間続いた十月劇場解散の1994年まで24年間で、書かれた台本は43本。約年2本弱のペース。1995年からスタートした"OCT/PASS"は2012年まで継続しており、この18年の間に書かれた台本は60本、ということになる。年3本以上にペースアップしている。実に2倍に増加している。

2)当ブロブでは現在ようやく1981~1994年の十月劇場時代のバックボーンとして唐十郎を探し当てたところまでたどりついたところである。今後は、"OCT/PASS"時代の膨大な記録をもうすこし細かくみていこうと思っている段階だ。

3)この18年間を理解するには、まずは"OCT/PASS"本体で公演された34本を追いかける必要がある。だが、その前に、細かい支線をすこし理解しておきたい。そう思ってまずは気になったのが、小学生向けのジュニアアクターズ「AZ9(アズナイン)」への書き下ろし16本である。これらはネット上でも多少の情報はとれるので、全体をもうすこし追っかけることが可能であろう。

4)そしてこの子供向け演劇に対峙する形で存在しているだろうと思っていた、高齢者向け演劇「エイジング・アタック」だが、検索してみると、それほど多くの演目はない。

5)そしてこの(1997)年、高齢者俳優養成企画AgingAttack!!を始動させた。石川「劇作風雲録 第十四回 とんだバブル。」 2010/05/10

6)かならずしも公演のためのコースではなかったのかもしれないが、台本も書かれている。

7)57本目「むかし、海のそばで」97年に始動させたAgingAttack!!第1回公演のための戯曲。この企画自体全国から注目を浴びた。結構大変な作業だったがその分達成感も大きかった。石川「同上」  2010/05/10

8)なにやら「むかし、海のそばで」というタイトルも意味深だが、今は深追いをしない。

65本目「つれづれ叛乱物語」AgingAttack!!の第2回公演戯曲(上演は2000年)。AgingAttack!!は第1回公演が大好評で女性も加わりメンバーは倍以上に増えた。終の棲家をテーマにして老人だけの住むアパート立ち退き騒動を描いたコメディ。これには”OCT/PASS"メンバーも大挙出演、世代間交流舞台としても話題を呼んだ。

 しかし、AgingAttack!!プロジェクトは早すぎた企画と惜しまれつつこれをもって終了した。ただ、メンバー有志が新しい劇団をつくって活動を続けている。そして私は今年(2010年)から仙台市主催企画のシニア劇団構想に参画指導することになった。10年ぶりにシニア世代と芝居作りをすることになるが、私自身がシニア世代のとば口に立っていることを自覚しながらの挑戦になる。石川「劇作風雲録 第十五回 21世紀を目前に。」 2010/05/17

10)ということは、エイジング・アタックというプロジェクトは97~2000年の短期間に消えていったということになるのだろうか。高齢者を相手の指導はなかなか難しかったというパートナーの感想も聞いている。

11)’03年は79本目「阿房病棟」から始まった。名取文化会館主催の「名取突GEKI祭」2003プロデュース公演への書き下ろし。劇団やんまのメンバー3名、そして”OCT/PASS"から絵永けい、長谷野勇希。ゲストに小畑次郎さんというキャスト。この名取市民参加メンバーから次につながる活動を、と期待を込めて創ったが、あれから7年名取市はまだ文化空隙地区。前市長が遺した文化会館だけが堂々たる偉容を誇っている。石川「劇作風雲録 第十八回 ”OCT/PASS"に書かなかった2004年。」2010/06/07

12)彼の住まいがある名取市へのアプローチも散見される。どれだけの狙いが的中したのか、劇作者としての手応えはどれほどのものであったのか、後日、別立てでおっかけてみたい。今回のポスト3・11における閖上へのアプローチと合わせて考えてみると興味深い。

13)いずれにせよ、当ブログでは、この高齢者俳優養成企画「エイジング・アタック」の3本は、石川裕人の大いなる試みとして、ジュニアアクターズ「AZ9」への想いと併記して考えていきたい。

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ニュートンの遺言として 『宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス』<3>

<2>よりつづく

Coco
「宮城県復興支援ブログ ココロ♡プレス <3>
new-T(石川裕人) 2011/11/10~2012/10/13 宮城県震災復興・企画部 震災復興推進課 石川裕人年表

1)早いもので、石川裕人急逝の報に接してから、1ヵ月が経過した。11日に家族や劇団員に見守られて名取市の吉祥寺への納骨も終わり、残された私たちも、すこしづつ気分を切り替えていかなければならない時期になってきた。

2)思い出せば、10月10日あたりで当ブログは松岡正剛「3・11を読む」を追っかけ、山尾三省「インド・ネパール巡礼日記」を振り返り、宮井一郎の「漱石の世界」を掘り起こそうとしていた。 あれから一ヶ月。ずいぶんと遠い旅にでていたように思う。

3)石川裕人は多くの人に愛された。多くの人が彼の急逝を惜しんだ。ご家族の心痛はいかばかりかと思う。そして、お母さんとお話をするとき、ニュートンはお母さんには割りと最近の活動を語っていなかったのではないか、と感じるようになった。

4)私とて、実際の彼のプライベートな活動を細かくは知らない。彼のことを教えてあげるには、この「ココロ♡プレス」の彼の記事をプリントアウトしてあげることもいいのかな、と思った。しかしそうする前に自分でひととおり読んでみなければ、と気がついた。

5)約20人強の書き手のうち、彼は量としては二番目に多い70本の記事を書いている。約一年間に70本だから、平均すると月5~6本、毎週毎週書き続けていたことになる。ブログという形式から、必ずしも読みやすいとは言えないし、操作が重いので、さて、どのくらいの人に読まれていたのだろう、と思うが、ニュートンの最後の言葉が綴られていると思うと、貴重な、遺言のように思えてくる。

6)わたしは震災後、東北のために芝居を書きやり続けていくことを強く思った人間です。石川「東北からの声 東北の現在 (青森)」2012/01/23日

7)彼はこのブログの中でも、重ねてこの決意を語りつづけている。

8)宮沢賢治は生前、明治三陸大津波と昭和三陸大津波の2つの大きな津波を経験しています。
 今回の震災後、多くの人々が賢治の詩や童話に助けられたと語ります。賢治の作品世界には治癒力があります。その力にわたしたちは惹きつけられるのかもしれません。
石川「宮沢賢治からのメッセージ (仙台市)」 2012/02/06

9)正確には、賢治は明治三陸大津波の年に生まれたが、その地震そのものを「体験」しているとはいえないだろう。あるいは昭和津波の年になくなったが、こちらも、本当の意味でのその災害の悲惨さを「体験」したとはいえない。彼の作品も特に津波に触れたというものはほとんどない。しかし、そのタイミングの奇遇さは、なにかを暗示的に語っているようでもある。

10)当ブログもまた、賢治ワールドに惹かれ、賢治的治癒力に引き寄せられるものである。

11)賢治作品を劇化することにかけてのオーソリティだと思われたのでしょうか。うう、荷が重い。石川「同上」

12)ニュートンの劇空間が今後どのように展開していったのか、今となっては語ることができなくなってしまったが、もし賢治作品の劇化がつづいていったとするならば、私個人としては、きわめて好ましいものと思ったはずである。

13)総合芸術である演劇への参加を通して、仙南圏域の将来の文化活動を担う人材を育成することと、豊かなコミュニティ作りがこの事業の目的です。石川(AZ9ジュニア・アクターズについて)2012/01/29

14)子ども達のために彼が書き残したシナリオが、今後どのように花咲いていくのだろうか。

15)子どもたちは物事を深く考えているように思います。それは時に大人をしのぐ洞察に満ちていることもあり、わたしたちは子どもから多くのことを学びます。それがこれだけ16年間16本の戯曲を書いてこられた要因でもあります。わたしたち大人は昔子どもだったことを思い出す必要があるんです。石川(AZ9ジュニア・アクターズについて)2012/01/29

16)彼も、子どものようなやわらかいこころを持ち続けた人間だった。

17)わたしは昨年5月に宮城県と岩手県の被災地6カ所の子どもたちへ向けて、7月から11月はわたし達の劇団で県内10カ所の上演活動を行いました。震災後、ほぼすぐの被災地への巡演はわたし自身が立ち直る企画でもありました。

 子ども達は真剣に見てくれましたし、付き添いで一緒のお母さん達にも楽しんでいただけたようです。ただ、仮設住宅のそばで上演したにもかかわらず避難している方々はほとんど足を運んでくれませんでした。そんな時期でした。
石川「震災から1年の思い。(宮城県内各地)」 2012/05/26

18)ポスト3・11として、演劇人の彼は、自分に何ができるのか問いかけ続けた。

19)10月から始めた石巻日和山公園、東松島図書館、山元町中央公民館、七ヶ浜国際村野外ステージ、あすと長町仮設住宅集会所と被災地と避難する方々へのまさしく出前芝居でした。石巻のランドマークである高台の日和山公園から見えるのは津波に襲われた街の跡。山元町中央公民館から遠く見える海沿いの町はほとんどが流されてしまいました。

 わざわざ足を運んでいただいたお客さんが、その上演場所で地元の方々と久々の出会いをしている風景が至る所で見られたのです。これが劇場というものではないかと思いました。劇場はあるものではなく、そこに出来上がるものなのです。中心にいるのは人です。人のいるところへ出かける演劇。あすと長町仮設住宅集会所での上演も、そんな試みでした。石川「同上」 2012/05/26

20)私は観客としてその中の一部でしかなかったが、見ていて私も本当にそう思った。

21)演劇には力があると認識する貴重な経験をさせてもらった震災後激動の8カ月でした。わたしに、今後東北のために芝居をやっていこうと決意させた8カ月でもありました。

 人間は芸術を何故求めるのか?それは心の問題です。荒廃した心に慈雨の如く降り注ぐのが音楽、美術、演劇、映画、文学です。演劇だけのことを言えば、演劇の歴史が3000年というだけで肯けていただけるのではないでしょうか? 天災、戦争、苦難の歴史を演劇は語り、記述してきたのです。
 しかし、芸術は震災直後即効力を発揮するものではありません。瓦礫の中で人は生きるだけで精一杯です。今現在、やっと人々は芸術を求めるようになってきたと思えます。それは復興の槌音と共に微かにではありますが、徐々に力強くなってきているようです。芸術の灯りは被災したわたしたちの心の奥に確かに灯り、わたしたちに寄り添うために準備を完了しています。

 
「ココロプレス」でわたしは強く静かに歩み始めた人たちを今後も追いかけます。そして舞台芸術の話題も満載でお送りしますよ。石川「同上」 2012/05/26

22)今となっては、残された者たちへの、熱い期待のメッセージとなってしまった。

23)「大張物産センターなんでもや」は平成15年12月オープン。地域を守る高齢者向けコミュニティ店として大張地区の住民出資型店舗として開設されました。石川「笑顔で立ち向かう (丸森町)」 2012/07/18

24)いやはや近くの棚田まで取材している。実は義妹が近くに嫁いでいるんだよなぁ。私もよく通う地区だ。

25) 震災後、多くの東北の演劇人は言葉を失いました。自分が紡ぎ出していた言葉を津波に持って行かれてしまったのです。わたしも例に漏れず、震災からしばらくの間、躁と鬱を行ったり来たりの状態でした。『ココロプレス』でも前にも書いたことがありますが、昨年被災された方々を前にして芝居を上演しながらわたしは回復してきたのです。それは劇団のメンバーも同じでした。石川「TheatreGroup"OCT/PASS"公演vol.34『方丈の海』」について」2012/07/08

26)さらに今、石川を失った劇団のメンバーたちはどんな心境だろう。

27)山元町はさわやか福祉財団の提唱するコンパクトシティ構想の実現を目標にしているようです。コンパクトシティ構想とは、「その町に住んで本当に良かった」と思える地域包括ケアの町の完成形とも言える町です。石川「コンパクトシティ構想 (山元町)」 2012/07/30

28)60年も生きた石川裕人の人生を、志半ばとか、早すぎたとか、言いたくはない。彼は十分な時間を与えられ、十分生きたはずである。そう思いたい。でも、これだけの多くのテーマを前にしながら、この世から去っていかなければならない者の心境とは、いかばかりなものであろうか。それは、昨年亡くなった加藤哲夫にも言えることだろう。

29)あらためて故人たちの冥福をお祈りいたします。合掌

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2012/11/12

『よみがえる日本語』 ことばのみなもと「ヲシテ」  青木純雄他<1>


「よみがえる日本語」 ことばのみなもと「ヲシテ」<1>
青木純雄・平岡憲人・著 池田満・監修 2009/05 明治書院 単行本    366p 
Vol.3 No.0872★★★★☆

1)贈本である。贈ってくださった方に感謝申し上げます。

2)ヲシテ文献とはなにか。ホツマツタエやミカサフミ、フトマニなどの、日本古来の文字で書かれた文書があることは以前より聞いてはいたが、新たにヲシテなる文書が現れたのであろうか、と身構えてしまい、なかなか開くことはできなかった。

3)でも、ようやくその気になって開いてみれば、ヲシテとは、そのホツマツタエやミカサフミ、フトマニなどの文書が書かれた文字そのものの名前であった。ホツマツタエなどを補強する協力なメソッドなのである。

4)ともするとトンデモ領域に闖入しかねない研究だ。一般図書館の開架図書を中心に読んでいる当ブログとしては、ややグレーゾーンかな、と思ったが、いえいえどうして、キチンと最寄りの図書館にも収蔵されている一般書である。

5)そもそも「秀真伝」と書いてホツマツタエと読ませるのは、ヲシテ文字から考えると間違いである。そして、また横書きで理解しようというのも邪道である。さらにまた、キチンとヲシテ文字で書き読みしないと、本来の意味はわからない、ということになってしまう。

6)ではヲシテ文字はどんなものかというと、このワープロの時代、文字そのものが書けないではないか、と思うのだが、すでに独自にフォントが開発されていて、ワープロの中に取り込めるらしい。これはまたすごい進化だと思う。

7)当ブログにおいても、ヲシテ専用フォントをつかい、縦書きでホツマツタエなどを理解しようとする時代がくるのだろうか。

8)当ブログにおいては、真実は言葉では表せない、という立場をとっている。だから、どんな文字や体系であっても、表現不可能、している。したがって、真実は真実として単独としてあり、言語は言語として道具にとどまる、と考えている。

9)当ブログでは1500単語でコミュニケーションしようという簡易英語=グロービッシュにも関心を持っている。要は互いのコミュニケーションとして原則的で基礎的な意思が疎通しあうのであれば、それで足りるとする考えに共鳴できる。

10)そのような背景からエスペラント語などにも興味はあるが、実際には普及していない。通常使われている言語として地球上でもっとも多いのはスペイン語だろうが、地域的に偏りがある。地球共通語としては英語が一番近道だろう。

11)このような地球言語への道を背景にしながら、ここでヲシテ文字を学ぶ、ということは、また違った意味合いを持っている。ヲシテを私たちの日常のコミュニケーションに役立てようというわけではなく、古代への探求の乗り物にしようというのがヲシテ研究である。

12)古事記・日本書紀以前のこの列島には、当然長い文化歴史があるのであり、表層の外来文化を取り除いた形で、深い層へと降りていこうというのがヲシテ研究だ。そこには、日本列島への深い信頼があるし、古代へのこだわりがある。古代よりもさらに深い超古代といってもいいのかもしれない。

13)しかし、と、私ならここで思う。一方的な古代崇拝だけでは、道は開けない。現代の、現在進行形で、しかもこれから起きてくることどもへのオープンな態度もまた、地球人スピリット探索には大切な姿勢だと思う。もちろん、未来志向だけでも一方に偏っているのは当然のことだが。

14)ここはバランスが必要なようだ。かつてヲシテで書かれた「真実」があった可能性を受け入れつつ、未来において「真実」が語られる可能性を信じつつ、現在を「真実」としていきて行く道を模索していかなかればならない。

15)繰り返せば、言葉は真実ではない。言葉で指し示される「真実」はあるかもしれないが、真実を生きるのは言葉ではない。真実を生きているのは、いま、ここにいる、わたしでなければいけない。

16)ともすれば日常生活の中で、忘れてしまいそうになる真実への道だが、このような形でオシテ研究にふれることによって、日々の生活に、覚醒の光がはいってくるとするならば、この本をいただいて、幾ベージかを読ませていただいた効果があった、ということになるだろう。

<2>につづく

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まだまだつづく原発ゼロへの長い道 小出裕章他「『最悪』」の核施設 六ヶ所再処理工場」


「六ヶ所再処理工場」 「最悪」の核施設場
小出裕章・渡辺満久・明石昇二郎 2012/08 集英社 新書 189p
Vol.3 No.0871★★★★☆

1)小出裕章の一連の著書のうち、特に「六ヶ所再処理工場」に特化して書かれた一冊。渡辺がシュミレーションを書き、明石が活断層について検証する。

2)科学者ならず、原発における責任ある立場でもない身としては、このような情報をいくら読んでも、どうにもならない、という焦燥感がつのる。

3)六カ所村には20年前に一度行ったきりだ。あの当時からあれだけ騒がれていて、いまだに解決しないのだから、いかに問題の根が深いかわかる。

4)青森の現地の人に聞くと、意外と賛否両論だ。現地での現金収入が少ない。ひとつの建築現場が増えたと思えば、関係者にとっては嬉しい要素であるはずなのだ。

5)しかし、その建物の実態は・・? 本書では「最悪」と書かれている。本書を読む限りその通りだと思う。

6)フクシマさえ、もうどうにもならないところにきているのに、これ以上、なにかあったら、ほんとたいへんです。

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80年代的石川と唐の接点のひとつとしてみることができるかどうか 『唐版 風の又三郎』

Kara
「唐十郎全作品集」 〈第4巻〉 戯曲 4 「唐版 風の又三郎」
唐十郎 1979/10 冬樹社 全集 381p
Vol.3 No.0870★★★★☆

1)石川裕人の作風に、唐十郎の影響がどうでているのかを探りに、その手がかりのひとつとして両者の「又三郎」比較をしてみることにした。

2)唐版は、1974年4月から6月にかけ、福岡、広島、大阪、京都、東京、で公演したことになっている。単行本も同時に出版された。仙台公演はなかったようだから、石川はこれを芝居としては見ていないだろう。しかし、単行本としては見ている可能性は十分ある。

3)こちらの全集に収められて出版されたのが1979年だが、全集としては読んでいないのではないだろうか。特に、この時代の石川は演劇から遠ざかりたがっていた。

4)「少女仮面 唐版風の又三郎」として白水社から再刊されるのが1997年。1988年に十月劇場で公演した石川版又三郎は、2000年OCT/PASSの作品となって「20世紀最終版」として公演された。私は芝居としては1988年に見ているが、台本は、この最終版しか読んでいない。、

5)さっと読みかけてみれば、唐版と石川版は、当然のことながら、まったく別な作品だ。唐版はよりコテコテな唐十郎的世界であり、石川版は、どちらからと宮沢賢治のモチーフを多く借りて、賢治が垣間見えるような作品に仕上がっている。

6)唐版の台本に、特権的肉体たちが踊るのだから、なかなかこれはギドギドの状況劇場的ワールドで、もはや手の付けられないアングラ世界だ。かたや、石川版は、賢治が演出したこうなるかもしれないと思うほど、より賢治に寄り添っているように思える。

7)どちらが好きかと自分に問うてみると、これはどちらも好きではあるのだが、当ブログの締めの方向性を考えると、より賢治的世界観に「フェードアウト」していく石川版のほうが好ましいと言える。

8)つまり、石川は唐の後走者として、唐のギトギトラインをさらに暴走する方向にいくのではなく、むしろ賢治のほうに先祖帰りする形で収束をはかっているかに見える。あるいは、そうあってほしいと、一読者、一観客として、願う自分がいる。

9)当ブログは現在、石川裕人の生涯を追いつつ、実はそれを鏡として活用しながら、自分を映して、ひとつの一大絵巻をみようとしているところである。大枠の中で、バラバラになったジグソーパズルを、要所要所からおいていってみている段階で、全体像は、まだおぼろである。でもおぼろではありながらも、すこしづつ実像が立ち上がり始めている、とも言える。

10)特に現在は80年代における「演劇」性と「瞑想」性の分化のポイントを探っているのであり、かなりアバウトながら、唐と石川の「巴里・佐川事件」と「又三郎」の80年代的接点の、あるなしを確認しておけば、それで済む。ここで深追いはしないでおく。

追記) 本日は、石川裕人の納骨の日だった。

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2012/11/11

「演劇」性への再スタートとなったか 唐十郎 『佐川君からの手紙』 舞踏会の手帖

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「佐川君からの手紙」 舞踏会の手帖 
唐十郎 1983/01 河出書房新社 単行本 176p
Vol.3 No.0869★★★☆☆

1)石川裕人が1978年に劇団洪洋社を解散後、芝居とは一切関わりのない「2~3年」をすごしたあとに、ふたたび十月劇場として再スタートしたのは、唐十郎の存在が大きかったと思われる。そして、十月劇場時代の第二作目(1982年)の佐川一政パリ人肉嗜食事件を題材にした「ねむれ巴里」と、この唐十郎「佐川君からの手紙」の関連を探ってみることは、その関係の深さを浮き彫りにしてくれるのではないか。そう思って探り出してみると、これが割と図星であるようだ。

2)パリ人肉事件(パリじんにくじけん)は、1981年(昭和56年)、フランスで起こった猟奇殺人事件である。犯人である日本人留学生、佐川一政が知人女性を射殺し、死姦後にその肉を食べたというもの。Wikipediaより

3)佐川は女性の遺体を遺棄しようとしているところを目撃されて逮捕され、犯行を自供したが、取調べにおける「昔、腹膜炎をやった」という発言を通訳が「脳膜炎」と誤訳したことから、精神鑑定の結果、心身喪失状態での犯行と判断され、不起訴処分となった。その後、アンリ・コラン精神病院に措置入院されたが、この最中にこの人肉事件の映画化の話が持ち上がる。佐川は劇作家の唐十郎に依頼するも、唐は佐川が望んでいなかった小説版「佐川君からの手紙」(『文藝』1982年11月号)で第88回芥川賞を受賞する。Wikipediaより

4)年代的にはほぼぴったりだ。石川「ねむれ巴里」の台本をまだ読んでいないのでなんともいえないが、当時、社会的に大きな話題となり、唐がこの事件に大きな関心を示していたことを、マスメディアを通じて、石川は知っていただろう。

5)あるいは、すくなくとも、同時代的に、ひとつの事件に同じような関心を寄せた、ふたりの劇作家がいた、ということは間違いない。

6)こちらの唐の「小説」を読む限り、小説というよりむしろノンフィクション・ライティングに近く、唐なりに膨らませて、装飾過剰ぎみに書いてはいるが、フィクションより事実のほうが先行していたということができる。

7)思えば、1973年に唐十郎が責任編集した雑誌「ドラキュラ」や、1976年に出版された季刊誌「月下の一群」(海潮社 唐十郎)などの影響下で、1976年「ラジカルシアター座敷童子」旗揚げとして「月は満月 バンパイア異聞」が書かれたということもできよう。

8)さて、翻って考えるに、この年代は日本の「精神世界の本」が開花してくる時代である。Osho「存在の詩」がミニコミの形から、単行本としてめるくまーる社から1977年に出版されたあと、クリシュナムルティ「自我の終焉 絶対自由への道 」が1980/08に出て、G・I・グルジェフの注目すべき人々との出会い」が1981/12に出るなど、続々とでてくるスピリチュアル系は一大ブームとなり、ムーブメントといえる状況にさえ拡大していく。 

9)めるくまーる社、工作舎、平河出版といった新興の小出版社が一連の「精神世界の本」を繰り出す中、これら「演劇」界の人々は、どのような思いで、この流れを見つめていたことだろう。

10)かくいう私は、これらの奔流に流されつつも、たったひとつOshoへと回帰していくわけで、必ずしも多くの本を読んでいたわけではないが、「演劇」関連の本はほとんど読んでいない。雑誌や情報誌などの断片的な記事にさえ、心は動かなくなっていく。

11)そんな中にあって、石川裕人は、精神世界のマスター探しのような感覚で、唐十郎が繰り出すフェロモンを嗅ぎだしつづけていたのではないか。平岡正明のような人でさえ、わが師・大山倍達、などといっていた時代である。だれもが、「師」をもつことがモダニズム的にもてはやされていた時代ではあった。

12)このような時代背景の中に、のちの麻原彰晃もいたのだし、この80年代的「精神的バブル時代」が、やがては90年代前半の精神世界の猟奇性をも生み出していた、ということも看過できないことではある。

13)いずれにせよ、1970年代てき「革命」性、あるいは「文化」性は、1980年を境に、「瞑想」性と、「演劇」性に、大きく分化していった、ということもできる。

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2012/11/10

演劇という「非日常」を抱えた生活者たち 河北新報 『芝居ができる 十月劇場の5ヵ月』

<1>よりつづく 

Aria
「無窮のアリア」 「時の葦舟」三部作第2巻 古代編 <2>
石川裕人作・演出 1993/08~09公演 テント公演 石川裕人年表

1)1993/04/30から09/29まで、毎週金曜日に「河北新報」に連載された「無窮のアリア」の練習・制作・公演・打ち上げ過程をルポした記事。石川裕人の長い演劇活動の中でも、他にはこのような企画はそうそうなかっただろう。とても貴重な記録となっている。

2)昨日、図書館で河北新報データベースというものを使ったら、実に簡単にでてきた。無料で誰でも30分間使用できる。だが、23回連載記事というと、30分間ではゆっくり読めないので、一枚10円でプリントアウトしてきて自宅で読むことになった。

3)読んでみてすぐ気がついたことは、とにかくまだみんな若いということだ。筆頭の石川裕人は39歳で、その他30代の「確信派」団員は何人かいるが、あとは20代の前半。時には10代の団員もいる。まだまだ若い。若いエネルギーがみなぎっていることは本当に素晴らしい。

4)しかし、各所に生活のある「日常」と、演劇活動という「非日常」の軋轢に悩んでいるところが随所に表出してくる。看板役者のひとり米澤牛(のちの渡部ギュウ)が仕事との両立に悩んで、仕事のほうをやめる。また、もうひとりの看板役者小畑二郎は、この「無窮のアリア」を最後に「十月劇場」を退団することを決意するシーンがでてくる。若い役者たちにバトンタッチする時期がきているという自覚からだ。

5)あきらかに80年代的な十月劇場の終焉期が近付いていることはまちがいない。高度成長期の70年代、バブル期の80年代は遠く過ぎ去り、バブル崩壊後のデフレスパイラルがどんどん進行していた。走ってきた役者たちも、自らの「生活」を真剣に考えなくてはならない時期になっていた。

6)すでに39歳になっていた石川裕人は、ある種、確信犯だから、困ったなら困っただ、という腹の座り方をしていただろう。彼ら夫婦の間には子供はいなかったから、私のような子持ちとは次第に距離ができていったが、同時代人の葛藤も十分理解できただろう。

7)彼にしたところで、とにかく演劇で食えるシステムをつくらなければだめだ、ということを痛感していたに違いない。だからこその十月劇場の解散だし、次なる"OCT/PASS"への模索だった。テント公演も、これ(「時の舟」三部作)で終わりだ、と覚悟していた。

8)当ブログは現在、80年代の石川=十月劇場を、唐十郎との関連で追っかけ中だが、もはや、ひとつひとつの関連性の追求は十分なのではないか、とさえ思う。今後は、ポスト十月劇場としての"OCT/PASS"の歴史、そして、今日の「劇作家・石川裕人」という実存へ迫るプロセスへはいっていく時期にきていると思う。

9)それにしても、"OCT/PASS"という20年を経ながら、なおアングラを語り、唐十郎を語る石川裕人を知る時、この「時の葦舟」当時の「完成度」とは一体なんであったのか、と思う。

10)それは、ある意味、私がいろいろ関わった企画の中で1991年の国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」を懐かしむ感性と似ているかもしれない。ここのところはいずれ、じっくり検証してみなくてはなるまい。

11)なにはともあれ、このような記事が残っているのは、石川友人のもうひとつの勲章である。図書館のデータベースを使うと、もっと彼の勲章を探し出すことができるかもしれない。そのうちやってみよう。

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封印していた同時代性 『唐十郎 紅テント・ルネサンス!』


「唐十郎 紅テント・ルネサンス!」 KAWADE道の手帖
唐十郎・寺山修司他 2006/04 河出書房新社  ムック 191P
Vol.3 No.0868★★★★★

1)本来ならこの本もレインボー評価すべき一冊ではあるが、このところ乱発しすぎなので、ちょっと控えめに評価しておく。面白いのだけれど、こちらの方向に当ブログが方向転換していくのは好ましくない。

2)この本に完全に感応する力は残っている。眠っていた、あるいは封印していた感性が呼び起こされる。自分のなかのなにかがルネサンスを起こすことがわかる。これはどうしようもない同時代性の宿命である。

3)20ページ近くに渡って、唐十郎と寺山修司の対談が収録されている。「肉体論」。もちろん古いものの収録で、対談は1976年当時。だから、すこしピンボケではあるが、唐と寺山のそれぞれの立ち位置というものが、より明確になる。

4)石川裕人の師は、なぜに寺山ではなくて、唐だったのだろう、と、極めて単純な質問を持っていたのだが、この本において、ようやくわかった気がする。寺山はもうとっくの昔になくなってしまっていたし、テント公演をしなかった。唐は寺山からの評価でテント公演を思いつき多くの追随者を出した。それに2012年の現在でも、唐は現役だ。

5)追っかけするつもりはないのだが、今後なんだか唐十郎関連がちょびちょび増えていきそうなので、リストだけ作っておく。

唐十郎関連リスト 

「腰巻お仙 特権的肉体論」 1968/05 現代思想社

「唐版 風の又三郎」 1974年公演 1979/10 冬樹社 全作品集に所蔵

「佐川君からの手紙」 1983/01 河出書房新社

「特権的肉体論」1997/05 白水社

「芸術ウソつかない」 横尾忠則対談集 2001/09 平凡社

「唐十郎 紅テント・ルネサンス!」 2006/04 河出書房新社

「唐十郎論」 逆襲する言葉と肉体 樋口良澄   2012/01  未知谷

「唐十郎 わが青春浮浪伝」2012/04  日本図書センター

 

 

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ザッカーバーグの青春グラフィティー DVD『ソーシャル・ネットワーク』


「ソーシャル・ネットワーク」 
ジェシー・アイゼンバーグ ソニーピクチャーズエンタテインメント 2010年公開 DVD 収録時間    120分
Vol.3 No.0867★★☆☆☆

1)フェイスブックの創設者ザッカーバーグを描いた作品だが、若者や大学を主に描いてあり、どこか青春グラフティー的で、まもなく還暦をむかえる身としては、いまいち入り込めない。

2)ソーシャル・ワーキングは、別にフェイスブックが登場しなくても、別なサービスでつづいていっただろうし、いずれは、これもまた捨てられることになる。一時的な覇者ではあるが、この世界にのめりこむことはできない。

3)ソーシャル・ワーキングは必然であろうが、私個人としてはフェイスブックの上手な使い手ではない。また今後も積極的に関与する予定はない。

4)ただ、昨日、図書館にいって、過去の新聞記事を探す時に、実に簡単にデータベースで検索できた喜びを思い出すとき、今後は、世界中の情報や人物と、簡単にこのようにつながり得る時代がくるのだ、とはっきりわかった。

5)だから、ものごとは、インターネットを介する情報網があることを前提に進んでいくのだから、あとは結局のこされるものは、スピリチュアリティである、という想いを強くした。

 

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2012/11/09

時代の縦糸に絡み込む多彩な横糸たち 『無窮のアリア』 「時の葦舟」三部作第2巻 古代編

Aria
「無窮のアリア」 「時の葦舟」三部作第2巻 古代編 <1>
石川裕人作・演出 1993/08~09公演 テント公演 
Vol.3 No.0867★★★★★

1)この「無窮のアリア」の稽古入りから打ち上げまでの5ヶ月を「河北新報」が全23回連載で記事にしてくれたのは壮快だった。石川裕人「劇作風雲録」 2010/10/04

2)この記事を読んでみたいと思った。しかし、すでに20年前の記事でもあるし、膨大な資料の中から探すのも大変だなぁ、と敬遠していた。でも、ここまできて、やっぱり読みたい、と重い腰を上げた。

3)さっそく近くの図書館にいって尋ねたところ、もうしわけなさそうな顔ですぐに断られた。新聞のバックナンバーのストックは最近の2年間分くらいしかないという。でも、河北新報なら、データベースを使えますよ、という。ええ、そんなのあるの??? しかも無料で誰でも使える。1991以降のデータがストックしてあるらしい。

4)さっそく専用の端末の前に座って、「十月劇場 無窮のアリア」と入力して検索した。そしたら、あっけらかんと、すぐにこの連載記事23回分がでてきた。

Kd

5)すごい。めちゃ簡単。毎回写真つき23回分の記事だから、通読すると、ほとんど一冊の本を読むのと同じくらいの文量がある。このシステムを使って、"OCT/PASS"を検索したら、きっともっと出てくるだろう。だが、このシステムを使えるのは一人30分まで。プリントアウトすると、一枚10円の有料となる。

6)この記事で石川裕人は39歳と紹介されている。若~~い。そりゃそうだよな、20年前のことだもの。他の登場人物たちも19だの、20何歳だのと、とにかくみんな若い。さすがに新聞記者が書いた連載記事だから読み応えがある。入場者数とか、人間関係の機微とか、なかなかいろとりどりだ。

7)「時の葦舟」の脚本を読んだって、結局演劇としてのできはわからない。なにも、一観客として、裏方のことまでわかる必要はないけれど、演劇に夢中になる人たちが、なにに夢中になっているかが、だんだんわかってくる。縦糸に絡み込む、多彩な横糸たちだ。

8)いろいろなエピソードがあるのは、なにもこの作品だけではないだろう。いくら脚本を読めたからと言って、その演劇をわかったつもりになってはいけない。重々キモに命じておこう。

<2>につづく

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十月劇場を乱舞した特権的肉体たち 『唐十郎 わが青春浮浪伝』


『唐十郎』 わが青春浮浪伝 人間の記録 no.197
唐十郎(著) 2012/04  日本図書センター 単行本  227P
Vol.3 No.0866★★★☆☆

1)石川裕人の、80年代バックボーンを支えたのは、当ブログとしては唐十郎「特権的肉体論」である、と仮定した。

2)石川裕人を簡潔にまとめるとすると、こうなる。小学4年の時に担任の越前千恵子先生から聞いたシナリオ・ライターという職業に夢をもち、高校生の時に見た紅テントに襲撃を受け、唐十郎の「特権的肉体論」に影響を受ける形で劇作を展開した。脚本を書き、団員を集め、アトリエを保持し、テント公演を続ける中で、次第に宮沢賢治の作品群に惹かれ、賢治いうところの「ほんとうのさいわいとはなんだろう」というテーマに行き着いた。

3)かなり乱暴だが、そうなる。では、唐十郎とは一体なんだったのだろう。

4)唐十郎について、当ブログで、この段階で深追いする気はない。すでに処女作に近い「腰巻お仙」と、1970~90年代の短編をまとめた「特権的肉体論」をめくったので、では、唐十郎の最新本は、ということで一冊選んだのがこの本だった。

5)しかし、実際には1983年に講談社からでた本の再刊本だった。つまり80年代的唐十郎の世界である。今回は「人間の記録」シリーズの中の一冊として収容された。

6)したがって、、大久保鷹、十貫寺梅軒、四谷シモン、不破万作、李麗仙、根津甚八、といった往年の紅テントの名優たちとのエピソードが次々出てくる。これに「特権的肉体論」に出ていた麿赤児などを加えると、実に肉感的な役者たちが目白押しとなる。

7)70年代から80年代にかけて、とくに自らのドラマツルギーを確定し、アトリエや銀猫テントを設定し得た石川裕人が、自らの演劇(芝居)の中に、唐につらなる役者陣として、自らの団員(役者)たちに、「特権的肉体」派を求めたことは、想像に難くない。

8)となると、80年代的十月劇場の演目を、もうすこし選別し、より特権的肉体論的な演目を絞りこまなければならない。

9)80年代十月劇場の特権的肉体論を求めてのリストアップ (思案・模索・校正中)

1981「流星」(十月劇場旗揚げ・神田食品倉庫2階が稽古場。小畑次郎他)
1982「ねむれ巴里」(佐川パリ人肉嗜食事件をモチーフ、唐十郎「佐川君からの手紙」=1983年芥川賞=の影響あるか)
1984「嘆きのセイレーン・人魚綺譚 」(水の三部作・第一弾)(ビルの中にプールを作る。テント公演への欲求がつのる)
1985「じ・えるそみーな」 十月劇場アトリエ(仙台市定禅寺通り)柿落とし公演作
   
「翔人綺想」(米澤牛スタッフとして入団)
   
「十月/マクベス」
1986「水都眩想」(水の三部作・第二弾)(風の旅団からテントを借りた。劇評家・衛紀生から岸田戯曲賞を取ろうと言われた。)
1987
「虹の彼方に」水の物語三部作最終篇) (自前の<銀猫テント>での旅公演)
1988「マクベス」」(資金稼ぎのための学校公演上演戯曲)
   「又三郎」(代表作のひとつ。2ヶ月半のテント旅公演。ここからワープロを導入した)
1989「ラストショー」(寒河江映画劇場のために書き下ろし)「改訂テント版」あり
   「ラストショー改訂テント版」  「じ・えるそみーな・~フェリーニへ~」 モアレ・~映画と気晴らし~」 (三連作だった)  
1991「絆の都」三部作時の葦舟第1巻 未来篇 2年ぶりにテント芝居。
1992「ラブレターズ●緘書●世界(あなた)の涯へ」河原町稽古場=のちのオクトパス・スタジオ杮落とし公演)
1993「無窮のアリア」 三部作時の葦舟第2巻 古代篇 (テント公演。芝居人生最大のセットを組んだ。稽古入りから打ち上げまでの5ヶ月を「河北新報」が全23回連載記事)
1994「月の音 フェリーニさん、おやすみなさい」(劇団新人のための書き下ろし)
   
「三部作時の葦舟第3巻 さすらいの夏休み」(東北テントツアー敢行)

10)もうすこし絞りこむことが可能だろう。いずれにせよ、80年代的十月劇場の特権的肉体論的演劇は、すでに80年代末に終わっていて、90年代に持ち越された「時の葦船」三部作は、その集大成ということになる。そして、石川唯一の公刊された戯曲集としてまとめられていることを考えれば、80年代をもっとも、自らの演劇人生の「華」と考えていた、と推定することはできる。

11)唐十郎の影響を考える場合、1982年の「ねむれ巴里」は重要なポイントに存在している。1988年の「又三郎」も、確か唐十郎に同名の作品があるはずである。また、生涯三部作を三つ書いたとする石川の「水の三部作」も重要だ。

12)もうひとつの三部作はまだ見つけていないが、1989年の「三連作」が、その三部作、となるのであろうか。とするなら、これはこれで重要である。

13)多彩な役者陣やスタッフたちだが、十月劇場立ち上げメンバーだった小畑次郎や、1985年にスタッフとして入団してくる米澤牛(のちの渡部ギュウ)などの動向が、十月劇場のダイナミズムを生み出していた。

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2012/11/08

演劇が事実を超える時 石川裕人『わからないこと』(戯曲短篇集) 「遥かなり甲子園」「兆し」「わからないこと」

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「わからないこと」(戯曲短篇集) 「遥かなり甲子園」「兆し」「わからないこと」
石川裕人作・演出 2001/11 " OCT/PASS"スタジオ 上演台本34p+37p+21p石川裕人年表
Vol.3 No.0865★★★★★

1)「遥かなり甲子園」。この作品はいまだに納得がいかない。何度か再演されたようであり、なんらかの形で情報が漏れてきて、その度に、なんだか茶化されたような気になってきた。ごくごく最近まで。

2)しかし、最近、石川裕人追っかけをしてみて、初めて事実を知り、実は唖然となってしまっている。

3)東北の宮城と山形と秋田の県境あたりに辺非理という村があると聞く。行った訳ではないのでどういう村かはわからないが、おおよそ東北の寒村のイメージ通りだと思っていい。決して椰子の木などない。

 このお話は数年前この村で起こったことをさも見てきたように芝居にしたものである。だから勿論信憑性はない。上演台本p1

4)いえいえトンデモない。ものすごく信憑性があるのである。

5)ラジオ 「さてあと一人打ち取れば甲子園です。夢に見たでありましょう全国高校野球児達のあこがれの舞台。ピッチャー勢後投げた、打った。内野フライだ。セカンド肥田快晴の上空に白球をとらえた、取った!! 辺非理高校県大会初優勝!! 部員9名、奇跡の甲子園です!!」

沼倉(PTA会長) 校長!!
物草(辺非理高校校長) 嘘だべ!! 
上演台本2p

6)私は2002年某県立高校のPTA会長をしていた。そして、本当に県大会を制覇して、野球部が甲子園に行ったのだ。

7)沼倉 まあそうなあ、きみおちゃん、ざっくばらんに聞くけどよ。大体幾らくらいかかるもんだ?
具多良(辺非理高校野球部監督) 種と除草剤、肥料と、
沼倉 おめえのとこの農業の必要経費聞いてんじゃねえ、甲子園に行く費用だ。
具多良 んだが、
沼倉 んだ。
具多良 甲子園までの往復旅費、宿賃、食費、高野連のお偉方の接待費、
笊森(事務員)あの、
沼倉 なんだ?
笊森 甲子園ってのはどこにあるんだ?
 上演台本p13

8)私たちの県では、長いこと、二大私立高校が春夏の甲子園出場を果たしており、たまに公立高校が出てもごくわずかな市立高校だけに限られていた。県立高校として野球部が甲子園に行くのは、実に50年ぶりだったのである。県の教育委員会としても、どのように甲子園に送り出すのか、知っている職員はひとりもいなかった。

9)時の関係者の動揺はまさに、この芝居の脚本のようなドタバタ劇が展開されていたのだ。夏の甲子園に対して、この芝居が書かれたのは冬。まぁ、よくも茶化してこんな芝居を書いてくれたもんだ、と、思っていた。図星とは言え、なんとも気持ちがいいものではない。だから、ますます石川裕人の演劇が嫌いになった(笑)。

10)ああ、しかし、それは私側の大いなる誤解だったようだ。何回も資料をひっくり返してみたのだが、私たちの高校野球部が甲子園に行ったのは2002年の夏だったが、この芝居が書かれたのは、なんと、その半年後ではなく、半年前の2001年冬のことだったのだ。

11)つまり、演劇のほうが先で、事実があとだった。つまり、この芝居は、予言劇!ということになる。ああ、びっくりした。校長、P会長、監督、事務員、4人だけのお芝居。まぁ、大体がお察しの通りの展開だった。短編だから、後半部分については書いていないが、まぁ、さすがにすごい洞察力、といまさらながらに、ああ驚いた。彼が書いた脚本に踊らされていたような気さえする。

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宮沢賢治コンシャスへの道 石川裕人『ザウエル』~犬の銀河 星下の一群~PLAY KENJI♯5

Za
「ザウエル」~犬の銀河 星下の一群~PLAY KENJI♯5
石川裕人作・演出 2006/12 TheatreONE LIFE他 再演2007/02 上演台本p50 石川裕人年表
Vol.3 No.0864

1)ところでザウエルってなんだっけ?

)「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒のようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくるよ。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ」宮沢賢治「銀河鉄道の夜・他」(講談社文庫p268

3)銀河鉄道の夜となると、ジョバンニとカンパネルラとザネリくらいしか覚えていないが、実は、ザウエルという犬もちゃんと登場していたのだった。この演劇の登場「人物」は8匹の犬。石川裕人のPLAY KENJIシリーズは、宮沢賢治作品の換骨奪胎を狙っている。

4)たくさんの賢治作品と、賢治自身の人生が渾然となって押し寄せてくる。その原材料を使って、石川裕人は、さまざまな料理をこしらえる。これがなかなか面白い。

5)石川裕人にとっての、当ブログでいうところの「3C」はなんだろう。まず、小学校四年生の時に担任になった越前千恵子先生によって、シナリオ・ライターというコンテナがあることを教えられ、高校生の時に出会った唐十郎の紅テントから「特権的肉体論」というコンテンツを学び、宮沢賢治というコンシャスネスを目指した、とみることは楽しい。

6)なにはともあれ、当ブログでの現在進行形は、そのようになっている。

7)PLAY KENJIシリーズは全6作あり、♯3の「センダードの森」(仙台文学館版)はいまのところ台本がまだ見つからない。それを見ないことには最終的なことはいえないが、6作が6作とも、全部つながっているとみることは可能だ。

8)彼は、次なるPLAY KENJI♯7は「科学者としての宮沢賢治」を描いてみたい、と抱負を語っていたが、その希望は満たされないまま終わった。

9)賢治と石川裕人は、どこの時点でであっていたのであろう。作品としては、1988年、彼にとっては26本目の「又三郎」あたりとなるのではないだろうか。この作品は、2000年になって、67本目の「又三郎 20世紀最終版」として再演されている。

10)犬6 ジョバンニ君
犬1 (振り向き)カンパネルラのお父さん、
犬6 カンパネルラが水に落ちました。
犬1 え!? ザウエル、
犬8 (頷く)
犬6 もう落ちてから一時間、駄目でしょう。
犬1 そんな、おれ探しにいきます。
犬6 ジョバンニ君、
犬1 はい?
犬6 あんな子だったけど友達でいてくれてありがとう。 
上演台本p46"

11)もし自分をジョバンニに例えるとするならば、ニュートンは(石川裕人)は、川におちたザネリを助けようとして水にはいり、自ら流されて命を落としたカンパネルラにみえてくる。そして、賢治にとってのカンパネルラが妹トシだったとしたら、あの慟哭は、私の、ニュートンに対する心情と同一化していってしまうことになる。

12)彼は5月ころに、自分で自分の葬儀を主宰する夢を見ている。そういう意味では、今回のニュートンの死は、私自身にとっては、私自身の死でさえあるような気さえする。

13)犬1 カンパネルラ、ほんとうのさいわいって一体なんだろう?
犬2 おれ、わからない。
犬1 おれたちしっかりやろうねえ。
犬2 あ、あそこ石炭袋だよ。空の孔だ。
犬1 おれ、もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいを探しに行く。
犬2 ああ、きっと行くよ。あそこの野原はなんてきれいなんだろう。みんな集まってるねえ。あそこがほんとうの天上なんだ。
犬1 カンパネルラ、おれたち一緒に行こう。
犬たち ザウエル、ついてきて!! いっしょに汽車に乗ろう!! 
上演台本p50

14)賢治における、ほんとうのさいわい、ってやつを、石川裕人にとってのコンシャスネス、ってことにしておく。

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書き残された作品群 石川裕人『修羅ニモマケズ』 PLAY KENJI♯4

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「修羅ニモマケズ」 PLAY KENJI♯4
石川裕人作・演出 2005/09 仙台市文学館他で上演 上演台本 57p 石川裕人年表
Vol.3 No.0863★★★★★

1)変なタイトルだなぁ、と私なら思う。だいぶ前、1985年の頃だったが、「モラトリアムの時代」とかいう本をだした小此木啓吾という心理学者を、地元のDICTカウンセリング研究所が呼んで講演をしてもらったことがある。その時、主催者側が出したタイトルは「モラトリアムからの脱出」。講演台の後ろに、デカデカと演目が張り出された。

2)ところが、名前を呼ばれ紹介されて登場した小此木は、自己紹介もそそくさとして、すぐ、この演題について延べ、「モラトリアムについてお話はしますが、そこから脱出することをお話をするわけでもなく、脱出すべきものとしてモラトリアムを取り上げるつもりはない」と語り、すぐにこの掲示物を下げるように指示したのだった。

3)彼は戦時中に学徒動員で戦地に駆り出された同世代の青春をみていて、モラトリアムでいることなどできなかった。いまの青年はモラトリアムができるということは、あるいみ素晴らしいことである、と述べた。

4)私もまた「修羅」には「負けてはならない」という発想はない。作者もそうなのかもしれない。ただ、語感としては、「修羅」と「ニモマケズ」とくれば、ああ、これは宮沢賢治の関連の演劇なのだな、とピンとくるので、そういう意味では優れたタイトルなのだろう。あるいは、このタイトル自体で、すでにひとつの問題提起をしているのかもしれない。

5)賢治にとっての修羅 

 修羅という言葉の響きは怖い。生き地獄のやな意味合いにも取れるし、ぬぐってもぬぐっても消えない自分の痕跡、まるであの洗っても洗っても取れないマクベス夫人の血のようでもある。

 賢治は多分生まれたときから死ぬまで自分の中に修羅をかこっていた。あるいはかこっていなければあのような作品群は書き得なかったのかもしれない。

 偉大な作家たちの業というか性というか、修羅をかこわなければ、飼い慣らさなければ暴れ者、無頼の徒で終わってしまうところを賢治は耐えた。驚くべき精神性で耐え抜いた。ストイック(禁欲)、ストレンジ(異貌)、スーパーネーチャー(超天性)これが賢治のかこった修羅ではないだろうか。

 賢治の才能(超天性)はこの狭い島国をすでにはみ出し(異貌)ていた。そのはみ出したものをなんとか禁欲した。

 賢治作品を換骨奪胎して新たな光を当てるPLAY KENJIシリーズ最新作はそんな賢治の修羅三題話を下敷きに、修羅の原点、妹トシとの関係を再考してみたい。

 トシがいなかったら賢治は詩を童話をあんなに書き残しただろうか? 石川裕人 公演パンフレットより

6)数多くのテーマで書かれた石川裕人の戯曲に触れるとき、彼もまたなぜあれほどまでにたくさんの作品を書き残したのだろう、と思う。劇作100本目となった「ノーチラス」の上演台本のまえがきで彼は書いている。

7)劇作がなければ今頃詐欺師として牢獄と娑婆を行ったり来たりの人生を送っていたのは確実だ。石川

8)ここまでの石川裕人の中の「修羅」を私はいままで知ることなしにつきあってきた。ただ、彼が宮沢賢治に触れるとき、私は一番共感でき、また、彼の演劇から宮沢賢治を学ぶことができた。とするなら、賢治の修羅は、彼の修羅ともつならなり、また、私の修羅ともつらなっていたのかもしれない。それはまだ明確になっていないに過ぎず、石川裕人を通しての自分探しは、結局、共通項としての「修羅」へと続いていくのかもしれない。

9)けんちゃん トシ?
シグナレス え?
けんちゃん あなたはトシではないのですか?
シグナレス トシ? そう呼ばれていたことがあるかもしれません。
けんちゃん 顔も声もトシそのものなんだけど、
      じゃあトシさんだろう。
けんちゃん でもどこか違うような気もする。
猫      どっちなんだよ? すいませんねぇ、ほんとに手のかかるやつで、
シグナレス すいません、わたしも覚えていなくて、
      いやいやそれより、あの青い星、どこかで見たことがあるんですけど、
シグナレス 地球です。
猫      地球って、地球かい?
シグナレス そう、地球。
      じゃあここはどこなの?
シグナレス 地球の鏡の星、
      はああん?
シグナレス さあ、扉をどかしましょう。
 台本p48

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「社会派」演劇を超えて 石川裕人『夜を、散る』 現代浮世草紙集 第六話

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「夜を、散る」 現代浮世草紙集 第六話
石川裕人作・演出 1999/11 OCT/PASSスタジオ 上演台本 p78 石川裕人年表
Vol.3 No.0862★★★☆☆

1)テーマは臓器移植。時代は1999年11月に公演された演劇ではあるが時代は6年後の2005年11月、場所は、東北医科大学病院特別室(上演台本p1)と設定されている。病院名はもちろん架空のものである。現代浮世草紙集シリーズはこの第六話をして終了する。

2)もちろん、作者が存命であれば、いずれは復活するチャンスはあっただろうが、今となっては、この6作目で完結した、と判断することにする。

3)この時代、すでに、高齢者向けのエイジング・アタック・シリーズの指導や、子供向けのAZ9(アズナイン)ジュニアアクターズへの脚本提供がスタートしており、その「社会派」傾向は、それらの新しい要素の中に溶け込んでいった、と推測することも可能だ。

4)この時代になると、台本があって、役者を探し、劇場を探す、という作業は、実は逆転していただろう。まずはOCT/PASSスタジオがあり、多少の出入りがありながら、劇団と役者たちがいる。

5)その場所と、関係者のキャラクターを念頭に置きながら、脚本を書き進めるという「あて書き」が当然化していただろう。だから、本来は、芝居そのものを見ないと、作・演出者の、本当の意図は理解できないことになる。

6)ただ、テーマを臓器移植などの「社会」問題においているかぎり、私「演劇」ではなく、一般化しやすいテーマであり、他の役者、他の劇団によって再演されても大丈夫なようなつくりになっているのではないだろうか。

7)松枝 君は牧師になりたくなかったのか?
梅本 オルガン習ってた頃は、このまま親父の跡を継ぐのかなあって思ってましたけど、
竹林 和田アキ子好きの兄貴はどうしたんだ?
梅本 お寺の住職になりました。
松枝 なに?
竹林 親父がキリスト教で長男は仏教か、
梅本 それもチベット仏教です。いわゆるラマ教って言うやつ。
松枝 なんだか複雑な家庭だな。
梅本 家のの中はほとんど宗教戦争状態でしたね。
竹林 まだ、イスラム原理主義じゃなくてよかったな。
梅本 おふくろが、
竹林 まさか、
梅本 民間神道で、
松枝 なんだ、民間神道って、
梅本 狐付きとか、玄関の方位が悪いとか、水子がついてるとか、
松枝 お祓いして直すやつか、
梅本 教祖なんです。
竹林 お前の家は悩み深い家だな。
松枝 よくお前だけノーマルに生きてこられたな。
梅本 どうですかね、ノーマルってどういうことなのかわからないですから、
竹林 ノーマルってのは平々凡々たる市民生活を送る俺たちみたいな方々を言うんだよ。
梅本 この仕事・・・・、ノーマルなんですか? 経験もない僕が言うのもなんですが、人間の臓器を運ぶ仕事ってかなり特殊でアブノーマルなんじゃないでしょうか? かなり精神的にしっかりしていないと持たないような気がするんです。
(後略) 上演台本p35

8)思えば、臓器移植問題も、さまざまなテーマとリンクしているものだと思う。最近知ったことだが、石川裕人が自らの「出身地」としている山形県東根市のお母さんの生家は、三代前からキリスト教を信奉していたらしい。その地方でもめずらしいという。

9)その他、葬儀後のお母さんとの雑談の中でいろいろ知ったこともあるが、いずれにせよ、石川裕人が、小さい時から、どこか「転校生」的で、まるで「風の又三郎」的雰囲気につつまれていたのは、このような根深い精神風土が背景にあったからかもしれない。

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時代と社会とそして何? 石川裕人作・演出 『1997年のマルタ』 現代浮世草紙集第五話

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「1997年のマルタ」現代浮世草紙集 第五話
石川裕人作・演出 1997/03~05 駒場アゴラ劇場他で公演 上演台本 p86 石川裕人年表
Vol.3 No.0861★★★☆☆

1)もうこの辺になると、なにをどう捉えたらよいかということが実に曖昧になってくる。現代浮世草紙集シリーズの第五話ではありながら、他の作品とどのような共通項があるのか、何を目指しているのかは、台本や断片的な記録を見ただけでは、わからない。

2)このポスターはなんとも素晴らしいなぁ、と思いつつ、前後のシリーズに関連性があるのだろうか、と疑問に思う。会場も、仙台、東京、横浜、大阪、盛岡などで公演されており、場所や観客、会場の設定、役者などの構成で、ひとつひとつこの公演が、全部違った作品になっていたと推測することも可能だ。

3)テーマはどうやら細菌兵器。病原微生物や七三一部隊のことなどが、背景として混然となって登場する。「ミドリ十字と七三一部隊」(1996)などが参考文献(p86)として挙げられているから、薬害エイズが社会問題化していたのかもしれない。

4)1997年といえば、私なぞは、どんな年だったのかさえ、よく覚えていない。1995年のあの惨劇をなんとかやり過ごし、パソコンやインターネットの時代を迎え、マイホームを建ててローンをやりくりし、小中学生になった子どもたちに手を焼いていたころだ。仕事だって、決してうまくいっていなかった。

5)そういえば、彼がここで細菌問題を取り上げたのは、あの麻原集団事件のサリンや細菌兵器開発の情報の延長線上にあったのかもしれない。舞台設定は「ベルリン」だが、はてさて、このような演目が、観客たちにどのように見られていたのかは、いまのところ当ブログには判断つかない。

6)ルイズ いいかい!? 全住民に伝えるんだ。「マルタになってたまるか!!」
おっさん あいよ!! 「マルタになってたまるか!!」
 サイレンが響き始める。
 上演台本 p84

7)明らかに何かを働きかけている演劇だ。何かを叫んでいる。でも、それは何?

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2012/11/07

TheatreGroup”OCT/PASS”は十月劇場を超えたのか 石川裕人『素晴らしい日曜日』現代浮世草紙集Vol.1 

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「素晴らしい日曜日」現代浮世草紙集Vol.1  
石川裕人作・演出 1995/03 TheatreGroup”OCT/PASS”スタジオ スタジオ 上演台本 p71  石川裕人年表
Vol.3 No.0860★★★☆☆

1)1971年からの「劇団座敷童子」、1976年からの「劇団洪洋社」、そして1981年に立ち上げた「十月劇場」を通り過ぎ、TheatreGroup”OCT/PASS”を立ち上げたのは1995年になってからだった。十月劇場を超えるという意味で付けられた、ある意味ナンセンスなネーミングだが、さて、石川裕人にとって、”OCT/PASS”は十月劇場を超えることができたのだろうか。

2)脚本100本目に「ノーチラス」 を上梓した上で、あえて一冊目の脚本集と出すとき、彼が選んだのは、とうの昔に「パス」したはずの、十月劇場での最後の作品となった「時の葦舟」三部作だった。

3)彼は十月劇場をどのように総括し、どこにその瑕疵を認め、どのように克服しようとしたのだろうか。そして、その結果はどうであったのだろうか。

4)当ブログとしては、いままでの追っかけの経緯から、80年代の石川裕人を唐十郎「特権的肉体論」の強い影響下にあった作風であったと見、時には、80年代的「唐十郎エピゴーネン」とさえ揶揄される範囲をさまよっていた、という可能性を完全否定するところまでは行っていない。

5)特権的肉体論によって起立する役者たちとともにつくった「アングラ・サーカス」に一応のピリオドをうって、彼が向かったのは、まずは「社会派演劇」だった(と仮定してみる)。

6)女3 レンタル家族っていうものなんですよ。
男3 なんだいそりゃ、
女3 家族を貸してくれるですよ。
男3 え?家族を貸す?
   上演台本p3

7)”OCT/PASS”の第一作にして、現代浮世草紙集シリーズのVol.1は、「素晴らしい日曜日」。現代の家族のありようを鋭くえぐる、というテーマであったと推測される。ときあたかも、1975年の3月、オウム真理教事件の情報が溢れかえる中での一ヶ月のロングランとなった。

8)このシリーズの第3作が、1995年の12月の、オウム真理教事件を「皮肉った」作品、「教祖の鸚鵡 金糸雀のマスク」だったことを考える時、「現代浮世」をスキャンすることの難しさに、もんどり返ったのではないか、と私は思う。

9)女2 (スッt笑いやみ)「ある朝、グレーゴール・ザムザが何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で、一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。」
男1 (・・・な、なんだ・・・?) 
上演台本p58

10)時代は、カフカの「変身」をはるかに凌駕するほどの、とてつもない異境へと移っていた。しかし、それでも、石川裕人は十月劇場を超えるべく「現代浮世草紙集」シリーズで、異形の遊行劇団というあり方から、定住の市民派劇団に「変身」しようとしていた。
 

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石川裕人は唐十郎のエピゴーネンだったのか 『特権的肉体論』

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特権的肉体論」 
唐 十郎 1997/05 白水社 単行本 213p  石川裕人年表
Vol.3 No.0859★★★★☆

1)80年代の石川裕人は、70年代的「劇団洪洋社」の「失敗」の体験から、一時は芝居から離れた数年を経たあと、ふたたび、「十月劇場」として復帰することになる。そして、そのあとの「快進撃」は、周囲の注目を浴びることになる。

2)このときの彼の「演劇」性のバックボーンとなるものはなんだったのだろうか。当ブログとしては、これまでの経緯から、それは唐十郎、特にその「特権的肉体論」にあったのではないか、と推測するに至った。

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3)こうしてみると、極めてわかりやすい。この図式の中で、石川裕人は80年代を走り抜き、80年代の総括として、90年代前半には、自らの代表作と称することになる「時の葦船」三部作に達する。そう想像してみることも可能であろう。

4)十月劇場時代に書かれた脚本は次のとおりである(未確認)。この中でも、十月劇場用の脚本は絞られてくるが、まずは加速度的に多作化しているように見える。

1981「流星」
1982「ねむれ巴里」
1984「ぼくらは浅き夢みし非情の大河を渡るそよ風のように」 「嘆きのセイレーン・人魚綺譚 」
1985「じ・えるそみーな」 「十月/マクベス」
1986「水都眩想」
1987「ラプソディー」 「虹の彼方に」 「笑いてえ笑」
1988「マクベス」 「又三郎」
1989「ラストショー」 「コメディアンを撃つな!!」 「ラストショー改訂テント版」 「三島由紀夫/近代能楽集・集」 「じ・えるそみーな・~フェリーニへ~」 「モアレ・~映画と気晴らし~」 
1990「斎理夜想」 「あでいいんざらいふ」 
1991
「時の葦舟」 
1992「隣の人々 静かな駅」 「ラブレターズ●緘書●世界(あなた)の涯へ」
1993「三部作時の葦舟第2巻 無窮のアリア」
1994「演劇に愛をこめて あの書割りの町」 「月の音 フェリーニさん、おやすみなさい」 「スターマンの憂鬱ー地球人類学入門ー」 「三部作時の葦舟第3巻 さすらいの夏休み」「月の音ー月蝕探偵現るー」

5)さて、唐十郎「特権的肉体論」だが、68年から92年まで発表された文章がランダムにまとめられていて、1997年に出版された本ではあったとしても、このような言説は80年代において、さまざまなメディアや形で発表されていたのだろう。であれば、散発的にせよ、石川裕人がその記事に常にデリケートに対応していたことは想像するに難くない。

6)さて、それでは「特権的肉体論」とは一体なにか、ということになるが、詳しくは後日に譲ろう。すくなくともここでは、役者としての「肉体」を突出させることによって、「新劇」を超えた「アングラ」芝居のドラマツルギーにしよう、ということだ、と仮定しておく。

7)この本は、いままでの文章をまとめたものであり、必ずしも一貫性がないが、「超・特権的肉体論」に含まれている澤野雅樹との対話(をもとに構成)は、一読者としては、私には一番わかりやすかった。

8)ある意味で、「特権的肉体論」は悪い方向に流れていったと言えるかもしれません。例えばアングラという言葉で抱かされてきた典型的なイメージは、状況劇場や天井桟敷の写真を見せられた時に受ける「異形の群れ」という印象です。

 そのイメージは、唐、寺山エピゴーネンによって無数に反復され、増幅されてしまった。アングラ・イメージの一人歩きは、遊行民族が定住民族の所に現われ、一芝居うって消えていくという、つまり一滴のお祭り騒ぎを残していくというイメージを、80年代前半に演劇に気触(かぶ)れていた若い人たちに与えていたのかもしれない。澤野雅樹 p193「超・特権的肉体論--それが渡り歩くとき」

9)この部分は、本書の主テーマではないにしろ、80年代の石川裕人を検証するときには、重要な視点だと思える。澤野はつづいて、こうまでいう。

10)理論に基づく解釈に危ないところは確かにあります。体系さえあれば、作品がなくてもいい。すると、わざわざ小説を読んだり、演劇を見る必要がなくなってしまう。例えばすべて精神分析の枠内で把握されてしまうのであれば、演劇も小説もいらないということになるわけです。澤野p204同上

11)こここそ、当ブログとしては気になるところである。澤野は唐との対談の中では、「精神分析」というレベルにとどまっているが、「観客」が「瞑想」まで昇華されてしまったあとでは、「わざわざ小説を読んだり、演劇を見る必要がなくなってしまう」のは、当然のことだと思える。

12)この視点が、80年代における石川裕人と私の「視点」の大きな違いであり、また、当ブログにおける、石川裕人追っかけの現在の重要なポイントである。

13)岸田國士戯曲賞をとった時にもずい分書かれたんですよ。アングラが市民権とりやがったって。ずい分長く続きましたね。新宿の呑み屋でSという役者が、とって十年経つのに、まだ言うんですよ「なんでとったんだ、なんでとったんだ」「あれは分かれ道だったな」って。古典的アウトローみたいなものを僕に求めていたっていうダチ公もいましたし。唐十郎p196 同上

14)唐は1970年「少女仮面」で岸田國士戯曲賞を受賞している。そして1983年には「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞した。

15)石川は1986年(32歳)、「水都幻想」で岸田國士戯曲賞を取るように勧められた。しかし、逡巡した挙句、結局はそれを拒否した。「生意気だった」と石川は自分を評するが、ここが、また彼自身の「分かれ道」であったことを意識していた。

つづく・・・・・だろう

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2012/11/06

石川裕人が私淑した「演劇」性の原点 唐十郎 『腰巻お仙 特権的肉体論』 

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「腰巻お仙」 特権的肉体論
唐十郎 1968/05 現代思想社 単行本 p277
Vol.3 No.0858★★★★★

1) 昨年、震災で中止になった高校演劇総研は明日から。わしは2日間にわたって「演技術入門」という講座を持つが、前任のIRが適当に付けた講座名をそのまま使っている。ま、なんでもいいんだけど。演技術なんてないんだということをわからせる講座。逆説的入門なのである。 

 そしてテキストに唐十郎「特権的肉体論」を使用。高校演劇では前代未聞かもしれない。わしが高校時代にショックを受けた「状況劇場」を現役高校生に熱く語る!! 演技とはアナーキーな革命であるということを伝える。なんか疲れそうだけど。「石川裕人劇作日記時々好調」2012/07/23

2)唐十郎「特権的肉体論」を検索すると、図書館には2冊ある。「腰巻お仙 特権的肉体論」(現代思想社1968)であり、「特権的肉体論」白水社1997/04)であるが、もともとの「特権的肉体論」そのものは60ページ前後の短い論文である。内容的にはほぼ同じなので、ここは初出の「腰巻お仙」版を参考にする。そして、もし石川が読んでいるとするならば、こちらの1968年版であっただろうと、まずは推測してみる。

3)そして’71年の1月(?)雪の積もった西公園で状況劇場「愛の乞食」(唐十郎作・演出)を観る。色んなところで書いているが、頭を棍棒で殴られたようなショックを覚えた。唐十郎師と状況劇場との出会いがその後の私の人生の針路を決めた。 「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 「第二回 承前その弐

4)といっている限り、この段階でこの「特権的肉体論」を読んでいるとは確定できないが、1980年代に到達するまでには、どこかで決定的にこの本にであっていただろうことは、想像に難くない。

5)さて、この本は、「特権的肉体論」のほかには「腰巻お仙」の「忘却篇」と「義理人情いろはにほけと篇」の脚本がついている。ほとんど、唐の処女作といっていいのだろう戯曲シリーズである。

6)さて、この「特権的肉体論」を2012年において、高校生の演劇人予備軍たちのテキストと使おうという石川裕人は、どれだけの成果をあげることができただろう。60年代中ばには、唐十郎が登場してくる土壌というものがあった。時代は敗戦後の所得倍増から高度成長期へと向かう途上であり、外国との交流さえままならない時代である。そして60年安保や70年安保という政治課題が、社会の中にどんと座っていた時代だ。2012年とはまったく時代がちがう。

7)70年安保で高校生だった石川裕人と、3・11で高校生である「現役」高校生たちに、この情念の坩堝と、肉体的テロリズムさえ内包する唐の美学が本当に通じるだろうか。あるいは、通じさせることに、なにか意味があるのか?

8)実際には、この「特権的肉体論」には、1970年代から80年代にかけて書かれ、時には90年代に書かれたものを含む、「新・特権的肉体論」と、「超・特権的肉体論」という続編があり、それは1997/04に新たに別な本として「特権的肉体論」という一冊になって刊行されている。

9)全体を見渡すのは、そちらにも目を通してからにしようと思う。ただ、ここで思えることは、1988年に唐十郎は状況劇場を解散したとはいえ、この言説を60年代70年代から継続的に、散発的に、雑誌や機関紙、単行本の類に発表しており、それら一連の唐の言動を「特権的肉体論」と総称していた、と見ても構わないだろうと思う。

10)つまり、当ブログ風に3C論でいえば、小学校時代にシナリオ・ライターという「コンテナ」を発見した石川裕人は、高校時代に出会った唐十郎に魅せられ、その演劇(芝居)の「コンテンツ」の主なる部分を彼から学んだ(盗んだ)と言えるだろう。それはやがて、90年代以降、PLAY KEMJI=宮沢賢治という「コンシャスネス」にたどり着こうとするのだが、すくなくとも80年代は、唐のコンテンツ論を十分に借りないことには、石川は、その演劇(芝居)を推進することはできなかった、と仮定しておくことも可能であろう。

11)なにはともあれ、「腰巻お仙」のポスターは横尾忠則が担当している。

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12)もし、私から見た石川裕人における、80年代のミッシング・リンクに唐十郎がドンと構えていたとして、私にとってのOshoとをつなぐ役目としての「Tadanori Yokoo」が存在とするなら、これはなかなか面白い組み合わせになってきた。

13)いずれにせよ、私たちふたりだけではなく、多くの同時代人が、多くの同時性を持って、この地球上にいきてきた、ということは間違いない。

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80年代石川裕人の傍証的縦糸として 伊東竜俊編集発行『カタルシス』総合文芸誌Vol.10

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「カタルシス」総合文芸誌Vol.10
伊東竜俊編集発行 1994/06 カタルシス社 自費出版雑誌 p36
Vol.3 No.0857★★★☆☆

1)劇団オクトパスの通販コーナーにに伊東竜俊編集発行「総合文芸誌 カタルシス」復刊1号、がある。そして、そこに「石川裕人震災後初の怒りの鉄筆『新白痴』掲載。これが石川裕人が言いたかった本当のことだ!!」とあるかぎり、気にならない訳はない。

2)さっそくオーダーしたのだが、どうも反応が鈍い、劇団の機能が現在どうなっているのかは私にはわからないが、入手不可能なものまでを深追いしよう、というのは当ブログの姿勢ではない。ごく当たり前に、一般図書館の開架コーナーにある本を中心に読むというスタンスであってみれば、なにはともあれ、いま自宅まで借りてきて読める範囲のものを読書しておくしかない。近隣の図書館からは、まずはこの号だけが簡単に借りることができた。あとバックナンバーはあることはあるが、「郷土資料」として館外不出になっている。

3)この雑誌は、「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1と兄妹関係にあり、私が唯一舞台にあがった「白骨街道爆走篇」にもつながってくるキーポイントに存在している。

4)カタルシス、というタイトルは、私たちが瞑想に入る時、内側のガラクタやカタルシスを外側に放り投げて、可能な限り内側の空間を獲得する、という文脈から考えれば、あまり感心したタイトルではない。むしろ、短絡的には、カタルシスとしての文芸ならば、それらはすべてガラクタであり、取るに足らない、というイメージさえできあがる。

5)まぁ、そこまで酷評しないにせよ、また、ひとつひとつが貴重な文献であったとしても、今は石川裕人おっかけの最中でもあり、石川が直接書いていなければ、特段に取り上げる内容はない、と一応判断しておく。

6)ただ、77年に上演された芝居が伊東によって書かれ、2012年においてこの雑誌の復刊一号に石川が寄稿しているかぎり、この雑誌が「80年代石川裕人の『?』を探す旅」の縦糸のひとつとして存在していたことを、まずはメモしておこう。

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2012/11/05

80年代石川裕人の「?」を探す旅 OSHO:アメリカへの道<11>  

<10>よりつづく


「OSHO:アメリカへの道」 <11>砂漠の実験都市・ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相
マックス・ブレッカー /「Osho:アメリカへの道」プロジェクト 2005/10 和尚アートユニティ /めるくまーる 単行本 552p

1)石川裕人とのこの50年のふれあいを振り返ってみることは、結局は自分自身を振り返ってみることであり、石川裕人という視点を借りて、この自分自身を再構築してみる試みでもある。

2)小学生からハイティーンまではそれなりに距離も近いので、それほど難しくはないが、20歳代、30歳代となってくると、互いの視線の違いが、次第に明確になってくる。

3)特に現在、当ブログが直面しているのは、「失われた80年代」である。私の側から見れば、70年代の末期を伊東竜俊戯曲集1「嗚呼!! 水平線幻想」(1977/09公演)に託すことは可能である。確かに75年にOsho「存在の詩」に触れ、すでにミニコミ「時空間」を廃刊を決意し、インドへ行くための準備中ではあったが、まだ、実態はよくわからなかった。

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4)私は私なりに自分の縁をデリケートに手繰り寄せながら、それでもまだあの演劇に参加した時はまだOshoのサニヤシンになることは決定していたわけではない。かたや、この時、彼は、劇団洪洋社として自分たちのアトリエを作ったのに、結局は自作を公演できないでいた。この時代、互いの位置はそれなりに手探りの範囲にはいっていた。

5)そして、90年代の初期を象徴するものとして、私の側からは、敢えて国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」(1991/11)を提出しておきたい。もちろん、こちらももうすこし細かく検討し続ける必要がある。しかし、この地点で、二人の立ち位置の違いがより明確になる。

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6)80年代のミッシングリンクに架けようとすれば、私の側からはこの2冊が、彼との相違点を明確にするためには、重要な二冊となる。これに対応するとすれば、彼の側からは、70年代の末の象徴として洪洋社公演「ビギン・ザ・バック」(自安降魔可魔・作演出)と、90年代の象徴としての石川裕人「時の葦舟」三部作(1991~94年公演)あたりが重要なポイントとなるだろう。

7)そして、「嗚呼!! 水平線幻想」「スピリット・オブ・プレイス」との間におくとすれば、私の側からは、この「アメリカへの道」をおいてみたい。たしかにこの本は訳あって邦訳は2005/10に発行されているが、そこにレポートされているのは、1980年代の中頃のことである。あえて1985年ということもできるだろう。

8)ここに提出した数冊の本たちは、必ずしも内容が問題なのではない。そこから連携していく、いくつかの物事の連なりこそ着目すべきものである。あえていうと以下のような図式になる。

80
9)そして、この図式を彼の80年代として作成した場合、さて、どういうことになるだろう。

80210)いまのところ、この80年代の彼を象徴する一冊というものを見つけ兼ねている。もちろん、彼自身の作品、ということもありうるだろうが、ひょっとすると、彼が演劇上の生涯の師として私淑した唐十郎あたりの一冊がくるのかもしれない。

11)たしかに80年代のOshoについて、彼は見失っているだろう(あるいは無関心だった)し、たしかに私の80年代は、演劇や唐十郎などは、まったく見えなくなっていた。

12)さて、その唐十郎に手がかりを求めようとすると、たくさんの資料が登場する。関連リストだけで150ほどあり、その中でも唐十郎の著作としてのリストも100にもおよぶ。地元の図書館だけでもこれだけあるのだ。今から全部追いかけることはちょっと息がつまる。

13)そこで、せめて、石川裕人(ニュートン)が、そのブログや記録の中に唐についてのコメントを残しているとすれば、それを手がかりに、この80年代の石川裕人の「?」を探す旅にでてみるのも面白いはずである。

<12>へとつづく

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『ナイト・オブ・シタール』  シタールの音色で、心癒されるひとときを 仙台ホルトヨガスタジオ by ATASA『魂の詩(Song of Samadhi)』<2>

<1>よりつづく

Ata
「魂の詩(Song of Samadhi)」
ATASA  収録曲数:10 曲 ジャンル:ORIENT CD  コンサート:2012年11月4日仙台ホルトヨガスタジオ
Vol.3 No.0856

1)駅から徒歩10数分のヨガスタジオ。ビルの二階でけっこうひろい。普段からヨガで使っているので、すでに環境はできている。ただし、ここを会場としてレンタルしたために、CDプレイヤーがないとか、照明がほしい位置にないとか、決してコンサートホール用にはできていない。だが、それがかえってよかったようだ。

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2)アタサとは1987年のプーナ以来だから、なんと25年ぶり。え? 本当? そんなに時間が経ちましたかね? お互いあんまり変わらないね。でも、彼は、ずっと旅をして、音の作り手、音の受け手として、磨きをかけてきた。

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3)集まった聴衆は30人ほど。昔からの友人や、ひょんなきっかけで知り合った人。今回のレイヤーに惹かれてやってきた人、タイマッサージの青年、老若男女、珍しいシタールの音楽に聴き入った。

4)二部では、なにやら「四万十ゴン太」とかいう、アタサの別キャラでギターでの演奏もあり、静かになったり、笑ったり。なかなか素敵な、忘れられない夜になりました。Oshoがきていたね。

5)そういえば、うちにもシタールがあったなぁ。もう30年も前のことだが、インドからかえってきたサニヤシンの友人から譲ってもらったものだった。ずっど大事にしまってきたのだが、今夜を機会にと、我が家のキッズルーム兼瞑想ルームにシタールを出してみることにした。

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6)そして、さっそくアタサのCD「魂の詩」を流すと、なんだか、プーナのサマディとつながったような感じがした。アタサに感謝。集まった人々に感謝。そして、スタッフのみなさま、ありがとうございました。貴重な体験をいたしました。

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2012/11/04

「科学」性と「演劇」性 高木仁三郎『宮澤賢治をめぐる冒険』水や光や風のエコロジー


「宮澤賢治をめぐる冒険」水や光や風のエコロジー 新装版
高木仁三郎 2011/10 七つ森書館 単行本 152p  (原著1995/04 社会思想社刊 p156 絵・高頭祥八)を読んだ
Vol.3No.0855

1)本読も、と読んだのは高木仁三郎「宮沢賢治をめぐる冒険」。言わずと知れた亡き反原発科学者の賢治をめぐる講演録。

賢治を科学者と見なして同様な思いを語っている。
賢治は原子力をどう見るだろうか?
賢治の生きた世の中にはまだ原子力は無かったから想像でしかないが、当初原子力を素晴らしさを論じ、知れば知るほどこれは生物界の天敵だと思うに至るのではないかな?
手塚治虫も当初原子力の優位を描いたが「鉄腕アトム」のラストをグスコーブドリに似せることになった。
科学は人間の未来を輝かしく開くが、研究を重ねると絶望の未来をしか開かないこともわかってくる。
原子力がそうなのは素人でもわかることになった。
”Play Kenji"の最新版はサイエンティスト賢治を描いてみたいと思っている。「石川裕人劇作日記時々好調」2012/07/15

2)この高木仁三郎の一冊は、どこを読んでもすばらしい。どこをどう切り取ろうということさえもできない。できれば、このコンパクトな一冊を全文、当ブログに転記したいくらいだ。

3)この一冊を、すくなくとも、ニュートンは亡くなる3ヶ月前に読んでいる。そして、「方丈の海」の上演が終わったら、近いうちに科学者としての賢治を書こうと思った。そのPLAY KENJI「♯7」は、結局は日の目をみなかったのだが、彼一流の「つづく」は、結局、私たち残された者たちの課題になった、とも言える。

4)宮澤賢治、高木仁三郎、石川裕人、といった命のつながりを見ていると、当ブログにおいて、やや揶揄的に取り扱ってきた裕人の「つづく」ではあるが、ここにきて、ぐっと別な意味あいがあるようにさえ、思えてくる。

5)
環境問題という言葉があります。私も環境問題にかかわっていますし、環境問題という言葉はいま、はやりです。使わないわけではありませんが、私は本当は環境問題という言葉は使いたくありません。(中略)
 そうではなくて、自然の大きな全体というのがあって、人間はそれに取り巻かれた一員でしかないんです。人間があって環境があるのではない。全体があって、その一部に、点のような存在として人間がある。そういう全体というのが、賢治の書きたかった自然であると思います。
原著p51高木「賢治をめぐる水の世界」1992/05 群馬県での講演から

6)科学、芸術、意識、この三つを並べた場合、外側を研究する科学と、内側を探求する意識は、対極にある。そして、その二つをつなぐのが芸術である。だから、当ブログが最近ぐるぐるまわりしている、「演劇」性と「意識」性は、この二つだけの考察では、少し不足しているということになる。ここに「科学」性も当然取り入れなくてはならないし、それを取り入れてこそ、より「芸術」性と「意識」性の意味合いが際立ってくるはずである。

7)
羅須地人協会の世間の評価については私はあまり知りませんが、多少本を買い求めて読んでみる限りでは、たいてい結果から見れば、あれは挫折だったと書かれていますよね。(中略)

 僕のいまのような見方からすれば、それは彼の試行錯誤、彼の実験の一環であった。彼は実験と言わなかったかもしれないけれども、私はそういう文脈の中で受けとることができるのです。一種の実験であったと。そうなるとこれは決して、失敗とか成功とか挫折とかいう言葉で表現するべきことではありません。
原著p129高木「科学者としての賢治」1987/09 宮澤賢治記念館での講演から

8)以前、当ブログでは、この羅須地人協会とOshoのコミューンの
比較検討したことがあった。

9)
賢治の羅須地人協会の期間も実に短いものだった。その理想とはうらはらに、必ずしも実効がともなった実験とは言い難い。スケールはまったく違うが、ここで羅須地人協会とラジニーシプーラムの比較関連を考えておくのは面白い。 

 賢治のイーハトーブ---羅須地人協会---デクノボー。それに対する、OSHOのブッダフィールド---ラジニーシプーラム---ゾルバ・ザ・ブッダ。いずれも幻想的だ。とてもこの世のものとは思えない、とてつもない企てである。

 しかるに、両者ともに、多くの共感者を得て、例えば、花巻の宮沢賢治記念館として残り、かたや、プーナのOSHOコミューンとして、その命脈を保っているのは面白い。

 そして、ここにおいて、このふたつの動きを思い出したのは、3・11後の復興復旧という、村や街、都市再建の計画が乱立するなかにおいてだった。当ブログ「OSHO:アメリカへの道<9>」 2012/05/02

10)当ブログにおける大きなテーマのひとつは、Oshoであるし、その「意識(瞑想)」性である。ここをはずすわけにはいかないし、私の「つづく」は結局、そこにいかにつながり続けているか、ということである。

11)ミッシングリンクとしての、ニュートンと私の間に広がる「80年代」に、大きく縦糸を掛けるとすれば、私の側からは、このOshoとその80年代のアメリカのオレゴンにおけるコミューンという「実験都市」に触れないわけにはいかない。

12)ひとり、大切な友人であるところの石川裕人(ニュートン)を失って、彼を追悼することだけが、当ブログの目的であってはならない。彼が「つづく」としたところの、そのビジョンを、私は私なりに、どう共有化して、どう自らのテーマとして捉え直し、どう「実験」し、どう「実践」していけるのか。そこをこそ見つめていきたい。

 

 

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2012/11/03

金網デスマッチとアングラ・サーカス 増田俊也 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 <1>


「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 <1>
増田俊也 2011/09 新潮社 単行本 701p
Vol.3No.0854 ★★★☆☆

1)この本のタイトルは、当ブログにおけるこのタイミングとしては、いかにも唐突な感じがする。しかしながら、本当はそうでもない。当ブログではすでに力道山おっかけを4年ほど前に完了しており、約20冊ほどに目を通している。

2)そのきっかけはOshoのロールスロイスを追っかけていた時に、「力道山のロールスロイス」(1982/06 グランプリ出版)という本があることに気づいたことだった。入手しにくい本ではあったけれど、なかなか面白い本だった。

3)そして、当ブログとしては、この二台に、ビートルズのロールスロイスを加え、三台のいわれについての比較などをして、遊んでいた。

4)そんないきさつがあり、新刊本リストにこの力道山関係の本があったので、数ヶ月前にリクエストしておいたのだが、人気本なので、ようやく今頃になって、私の番になったということである。

5)そんなわけで、ようやく辿りついた本ではあるが、なんと701ページという分厚い本である。しかも、この本のタイトルから分かるように、力道山との試合に「負けた」木村政彦の弟子筋のルサンチマンがこもりにこもった一冊である。さて、当ブログで、どこまで読み込むかは難しいところだが、新しく当ブログの力道山関連リストに加えておくことはやぶさかではない。

6)と、ここまできて、そういえば、石川裕人の演劇リストの中に「周辺事態の卍固め」(1999年公演)という演目があったことを思い出した。けっこう、みんなプロレス、って好きなんだなぁ。

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7)どんな内容の芝居だったのかは、今後チャンスがあれば、またトレースするとして、もうひとつ石川裕人関連で感じたことがあった。

8)今回のテキスト、唐さんの「役者の抬頭」の中に、こういうフレーズがある。

<例えば、今、大事変でも起こって君のペンがなくなっても、君のカメラが失われても、君がまだ生きているならば、肉体だけは残っているだろう。その時、ただ一本の火さえあれば始まるのは演劇なのだ。>
 

このフレーズの中にわたしらが震災後に被災地を回り始めた原点がある。それを高校生諸君に見てもらいたかった。芝居は無一物でも出来るということを示したかった。「石川裕人劇作日記時々好調」2012/07/25

9)ここで、石川は「芝居は無一物で出来る」と自負している。でも本当だろうか。たしかに70年代の初期においては、彼の演劇はほとんど「無一物」の突撃演劇だった。しかし、70年代を経て、80年代に突入したところで、彼の演劇は、どんどん大型化した。

10)例えるなら、最初、草っぱらで取っ組み合いで戯れていたのに、だんだんとリングが必要となり、次第にショーアップして、シナリオができあがり、最後は、反則技などを通り越して、金網デスマッチまでいってしまっていたのではないだろうか。

11)テント興行というキャラバン隊の演劇団と化した80年代の石川率いる「十月劇場」は、まさに金網デスマッチだったのではないか。

12)そして、その重さに耐え兼ねて、90年代以降の彼はその十月劇場を超えるために、もっとコンパクトはオクトパスへと移行していったのではないか。

13)しかし、晩年、彼は結局、彼いうところの「アングラ・サーカス」という「金網デスマッチ」へと回帰しようとしていた気配がある。

14)演劇とは、無一物でもできるといいつつ、結局、舞台や、キャラバン、大道具という「有物」を使わざるを得なかった彼の「演劇」性は、「瞑想」性へと昇華することを拒否していたかに見える。

15)もし、本当に彼が無一物の演劇を目指したのなら、それは必然的に「瞑想」性へとたどりついたのではないか。そこに彼はいくことができなかったのではないか。と、そういう仮説を残しておく。

16)そして、それから、この「木村政彦は~」を、本当に読むかどうかを、すこし考えてみよう。

<2>につづく

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定番化したCGワールド 『 トイ・ストーリー3』


「 トイ・ストーリー3」
ディズニー+ピクサー 2010/07 DVD
Vol.3No.0853 ★★★☆☆

1)スティーブ・ジョブズ追っかけついでに始まったピクサー追っかけも、これで全13作を見終わったことになる。4ヶ月前に始める時は、これら全部を図書館借りることができるかどうか、いや、あるかどうかさえわからなかったのに、さすが人気シリーズである。時間はかかかったけど、全部在庫していた、ということだ。

2)ただ、偶然、ディズニーとも、ピクサーとも知らずに、一番最初に「トイ・ストーリー」第一作を見た時の感動は遠く薄れ、ピクサーのCGワールドも、ごく当たり前の世界にみえてきてしまった。

3)2001製の「アトランティス」なども、このくらい高度のCGに仕上がったら、もっとよかったかもな。いずれにしても、どんどんエンターテイメント化していって、ある種の「参加」意識がなくなってしまった。


4)途中、寝不足でウトウトしてしまったから、全部見たわけではないが、いずれ孫たちとこのDVDをみる時がくるかもしれないから、そんな時のために、すこしストーリーも飛び飛び覚えのほうがいいように思う。って、勝手なことを考えていた。

5)なにが一番よかったかな。ピクサーとスティーブ・ジョブズとの関連で見ていたから、「ルイスと未来泥棒」2007が一番おもしろかった。「カーズ」2006第一作も衝撃だった。「カールじいさんの空飛ぶ家」2009も、「じいさん」という意味では一番近かったが、すこし活躍しすぎた。いずれにしても、よくできた世界だった。

6)こういう世界の創出に、私たちの世代のひとりであるスティーブ・ジョブズが貢献していたのだ、ということを確認した。

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内なる発見 『アトランティス/失われた帝国』


「アトランティス/失われた帝国」
ディズニー 2001年公開 DVD 95分
Vol.3No.0852 ★★★☆☆

1)「ノーチラス」つながりで、こっちも見てみることに。2001年公開の映画だが、時代設定は1914年。制作過程もなかなか興味深いが、やっぱり子供騙し的でスピリチュアリティとしては深みがない。ディズニー作品としても、決して傑作の部類とはいえないのではないだろうか。

2)アトランティスをみつけようすれば、それは、失われた帝国として外側に探検してはいけない。それではたんなるファンタジーになってしまうし、フィクションになってしまう。映画だと、さらにエンターテイメントになりさがり、人はむしろ妄想の中におちていってしまう。

3)わしは全く霊感がない。
だから怪談だの怖い話が好きなのだと思う。 「石川裕人劇作日記時々好調」 2012/05/04

4)ここになんらかのヒントがある。私は霊感があると自称することはないが、まったくないとは思わない。「だから」怪談だの、怖い話を、別段好きではない。自らの直感、インスピレーションに切り開かれてきた地平がある。

5) 昨日私劇と書いたのは私小説に対応させたものだ。

散文ならいざ知らず、芝居は<私>の迷路に入り込んではいけない。「石川裕人劇作日記時々好調」2012/05/01

6)ここにもポイントがある。彼は「演劇」性にこだわった。だから、「私」を取り囲む外側に留意することが多くなってしまった。もし「瞑想」性へと入っていくなら、まず「私」の中にはいっていく必要がある。ここに決定的な方向性の違いがある。

7)アトランティスであろうとノーチラスであろうと、外側に求め、外側に作ろうとすれば、それは見つからない、つくりえない、ということになる。もし、内側にいるなら、すでにそこにノーチラスがあり、アトランティスがあったことにきづくことになる。

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「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1 <2>

<1>よりつづく 

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「嗚呼!! 水平線幻想」 <2>
伊東竜俊戯曲集1  1980/06   カタルシス社 単行本 372p 
Vol.3No.0851 ★★★☆☆

1)探してみればあるもんだ。これが今回の私の人生の中で、唯一演劇のステージに立った時の脚本集。石川裕人は戯曲を100本書いてようやく一冊の本をだしたのだが、伊東竜俊は、処女作の戯曲で単行本をだした。強者である。

2)伊東は「カタルシス社」という団体名で同人誌(総合文芸誌と称している)も発行している。

3)ミッシングリンクとしての「80年代」に、「演劇」性と「瞑想」性の縦糸を張るとしたら、私の側からは、この本は不可欠ということになる。


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4)このチラシで、私の演劇上の名前は、真平せぇこぉ、だったとあらためて認識した。そして、この伊東竜俊戯曲集で、私の役は、どうやら「青瀬川源平(ベロ出し三郎又はジョージ・ハリスンある時は客A)」であったらしいことも知った。

5)ただ、台本どおりのセリフを覚えた記憶がないので、だいぶダイジェストされたストーリーになっていたのだろう。

6)青瀬川 「1977年3月10日、桜の花の花が北上してくる、その最前線を桜前線と呼ぶが、その桜前線が今日沖縄県糸満市の上空を超えました。ということは桜もまた、この日の本の国を目指して前進を続けているということになる。桜前線は・・・・~~(以下延々とつづくので、カット!)」p49

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7)このセリフの出だし部分はなんとなく覚えている。でも、もっとしっかり覚えているのは、劇中歌として使われた「記念樹」。

8)なにがどこでどうつながっているのか、私にはさっぱりわからなかったが、今回、またこの戯曲集を手にとっても、やっぱりなにがなんだか、わからん、というのが正直な気持ち。やっぱり、私には演劇的センスはないようだ(涙・・・・あるいは笑)

9) 「記念樹」

(1) 桜の苗が 大きく育つ頃
僕らはみんな 大人になるんだ 
あいつとこいつ あなたと私 
真赤な頬っぺは しているが

(2)日照りのときも 冷たい雪の日も
負けたら駄目だぜ 僕らの夢は
いつでもお前と 仲良しこよし
空までぐんぐん のびてゆく


10)映像もレトロだが、曲調も超レトロだ。もちろんこの芝居が上演された1977年でさえ、これらは超レトロだった。わざとそういう情況設定をしたんだな。

11)青瀬川 大衆諸君!! 本日ここに結集されたァ、全てのプロレタリアート、大衆諸君!! 我が桜前線革命派から熱い、熱い、ジャマイカの熱風に似た熱い連帯のあいさつを送らして頂きまーす。本日、本日目前でなされたワイザツと市民主義のさらなる葛藤はァ、いづれにせよ、いづれにせよ、我が桜前線が荷うであろう、国民的課題である。すなわちィー、・・・・(あとうんたらかんたらやたらと長いのでカーット)p52

12)この時、右翼だか左翼だか知らないが、そんな青年の役をしたのをよく覚えている。ステージに立つのはそれなりに快感なのだが、あの時、なにごとかに目覚めていれば、私もまた「演劇」性人生を送ったかもしれない。しかしながら、私の人生はそうならなかった。私の中で、「瞑想」性が、着実に芽を出し、成長していたのだ。

13)この本、東光印刷で印刷している。懐かしい。伊東暁社長は、伊東竜俊の叔父にあたる。数年前に亡くなられたらしい。ご冥福をお祈りいたします。合掌

14)35年前に、植えた、私たちの桜の苗は、もう、立派な大木になっているはずだよなぁ、俊クン・・・?

<3>につづく

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2012/11/02

歌い踊るひとりの地球人として 小出裕章『この国は原発事故から何を学んだのか』


「この国は原発事故から何を学んだのか」
小出裕章 2012/09  幻冬舎ルネッサンス 新書 222p
Vol.3No.0850 ★★★★★

1)小出氏の本は首尾一貫しているので、どの本を一冊取り上げても、ほぼ内容の基本は同じである。語りかける対象や発行された年月によって、データが更新されていたりはするが、根本思想はなにひとつ変わっていない。

2)この本はその中でも、氏の著書の中でも最新の部類に入り、3・11から一年半が経過して、その間の言行録を編集者が整理したもの(らしい)だから、まとまり具合はなおさらいい。

3)「この国は原発事故から何を学んだのか」という問いがあるとすれば、ここの「国」をどう読むかで回答は違ってくる。「国」に住む「国民」ひとりひとりは何を学んだのか、といえば、ここで氏が語っているような内容を学んだのである。あるいは学ばなくてはならない。

4)だが、もし「国」を、「国」という行政、「国」という組織、「国」という権力、と読むのなら、この「国」は、少なくとも、この本で指摘されているようなことを、ほとんど(なにひとつ)学ばなかったのでないか、という強烈な指摘が含まれている。

5)つまり、ここに「権力」と「人間」との大きな乖離が示されている。

6)ただこのタイトルに難をつけるとうるならば、「国」と限定してしまっていることである。氏の活動が、一貫していることはすばらしいことであるし、「国民」のひとりとして、まだまだ大いに学び、自分ができることを「行動」しなければならないと思う。

7)しかしながら、私や当ブログのテーマは、「国」というところにポイントをおいていない。「地球」というところにおいている。そして、ひとつ「原発」を考えればいいと思っているわけでもない。そこからいかに「スピリチュアリティ」へと昇華していくのか、に関心がある。

8)氏が宮沢賢治の「グスコーブドリ」(p145)を取り上げ、「農民芸術概論綱要」(P16)をとりあげつつ、精神性について語りながら、宗教には無縁である、と言い切ってしまう時、終始一貫して「原発」に取り組んできた氏の頑なまでの意志力を感じ、敬服しつつも、そこに何事かの隙間を見つけ、自らの存在意義をみつけようとする自分がいる。

9)現在、当ブログにおいては、劇作家・石川裕人の死去にともなって追悼の意をこめてその表現物たちを追っかけ中である。その中に1971/03/26の「朝日ジャーナル」増刊号ミニコミ特集の中に、高校時代の私や石川の幼きミニコミと並んで、「のりひび」もまた、宮城県からの9紙の中に含まれていることに意義深いものを感じる。

10)、「全国原子力化学技術者連合仙台支部、東北大反公害闘争委員会、仙台市東北大工学部内・女川原発実力阻止」 これが「のりひび」の紹介文である。この機関紙については、「原発のないふるさとを」(小出裕章土井淑平共著  2012/02批評社)の中で、当時の機関紙の写真つきで紹介されている。当時から氏は一貫して、叫びつづけてきたのだった。

11)私は原子力の専門家として、原子力に反対しています。原子力については皆さんより詳しいと思いますが、その代わり、お米の作り方も魚の捕り方も知らず、職人さんのように物を作る力も、絵を描いたり、詩を書いたり、歌ったり、踊ったりすることもできません。

 皆さんは原子力の専門家ではないかもしれませんが、それぞれの生活の場においては専門家であると思います。その力を存分に発揮していただければと思います。p214小出「自分なりの取り組み方で、できることから。

12)ご謙遜を、と思いつつも、まったくその通りだなぁ、と思う。できるところから、自分の足元から見つめていかなくてはならない。そう思いつつも、私なら、小出氏も「絵を描いたり、詩を書いたり、歌ったり、踊ったり」するべきだと思う。あるいはできる方であるし、それこそが、「国」や「国民」を超えた、地球に生きる地球人ひとりひとりの新しい生き方だと思う。

13)科学と、芸術と、意識。この三つの要素をバランスよく一個の人間に配分すること。あるいは統合すること。そのことを、当ブログの目標としたい。
 

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いまだ再開せず 『石川裕人劇作日記 時々好調』 <1>

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 <1>
石川裕人 2006/08~2012/09 jugemブログ 石川裕人年表
Vol.3No.0849★★★★★

1)三七日が過ぎた。そろそろニュートンの話題から離れようかな、と思う気持ちと、いやいや四十九日まで続けよう、という気持ちとないまぜになる。彼にとってはどうでもいいことだろうが。

2)そもそも、私自身がどうもまだすっきりしない。彼の全体像がまだまだみえてこないのだ。

3)彼の劇作100(+α)本のこともサラっとわかった。復興支援ブログ「ココロ♡プレス」に書いていたことも、サラーっと目を通した。児童劇団AZ9ジュニアアクターズについても、すこしづつ理解しているところ。

4)でも一番肝心なニュートン自身のブログにはまだ目を通していなかった。前からその存在を知ってはいたのだが、どうも気がすすまなかった。

5)今夜目を通せたのは、275ページある分のほんの9ページほど。現在から過去へさかのぼっていくので、読みにくいが、人間が過去世を思い出すときは、こういう形になるそうだから、これもやむを得ないだろう。

6)賢治。

喪主になって自分の葬儀を執り行う夢を見る。
夢ならではのシュールな展開だけど、疲れてんのかなあ。 次から次と変な夢を見た。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/07/15

7)10月15日の自分のお葬式のちょうど3ヶ月前の日の日記である。この頃、最後の公演となった「方丈の海」に全身全霊を打ち込んでいる感じ。

8)”Play Kenji"の最新版はサイエンティスト賢治を描いてみたいと思っている。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/07/15

9)これもまた奴一流の「つづく」になってしまった。

10)未定。

いつもは次回公演の予告などを当日パンフレットに掲載するためにでっちあげたり、既に決まっていたりするのだが、次回は何も決まっていない。

それだけ「方丈の海」に全精力を使って台本を書き下ろし、現在も格闘している。

これはうちのメンバーみんなそうだと思う。

 考えてみれば、現在取り組んでいる芝居も終わっていないのに次回予告なんて出来るわけはないのだよね。全精力使ってねえのか? 
 そういうことでわしは「方丈の海」が終わってからじっくりポスト「方丈の海」を考えます。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/08/01

11)結局、劇作一本目以来、ずっと「つづく」で予告編を書き続けてきた彼は、最後の最後で「つづく」を書けないところまできていた。

12)吃逆

1時間くらい前から吃逆(しゃっくり)が止まらない。
驚かすと止まるとか言われているが、今は仕事場に一人なのでどうしようもない。
あれ?止まったような。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/07/26

13)自分でも体調の変化には気がついていたはずなんだがな。

14)挨拶。

10年間稽古場でお借りしていた瀧澤寺さんに区切りの挨拶に伺う。
2002年に旧”OCT/PASS"スタジオのビル新築によって稽古場を撤退。
その年に瀧澤寺さんをお借りし、早速その年の12月に地下ホールで公演を打たせていただいた。
以来10年瀧澤寺さんで創った芝居は13本にのぼる。
今回の「方丈の海」が第34回公演なので4割を創造してきた。
大体はその地下ホールが稽古場だったが、ここには舞台があり、エアコンはあるわ、音は気にしなくていいわ、時間も無制限だった。
たまに法事で残った料理のお裾分けや大量のお菓子や野菜の配給もあった。
ちゃきちゃきしたお母さんとのんびりした若和尚さんには本当にお世話になった。
昨年の「人や銀河や修羅や海胆は」瀧澤寺公演で瀧澤寺さんに今までの御礼が出来たのかも知れない。
本当にお世話になりました。
合掌。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/07/31

15)龍沢寺が稽古場になっていたのは知っていたが、これだけ恵まれた環境だったとは知らなかった。これだけお寺さんにお世話になったのだから、すこしは仏道心というものに目覚めていたのだろうか。

16)徒然。

姪が今年の12月に結婚することになり、夫になる人を紹介しに来訪した。
彼は震災津波で両親を喪ってしまった。
名取の農家では農法などで結構有名なお父さんだったらしい。
犬好きで明るい、しっかりした将来ビジョンを持った青年だった。
こっちが爪の垢を煎じてもらいたいくらいだな。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/08/16

17)この青年のことは私も知っていた。火葬場でも一緒だった。

18)初日。

今年の3月1日に稽古に入った「方丈の海」は、1週間も経たない3月7日に絵永の緊急入院。急遽劇団メンバーと公募で参加が決まった高橋綾さんとSさんとで会議を行い、絵永の退院まで延期を決めた。
3月11日、千賀ゆう子さんの企画で東京リーディング。
この段階で台本は半分しかできていなかった。
4月4日、絵永退院。
一旦ダウンした台本への集中力が無くなり、台本を脱稿したのは5月10日。
稽古再開は5月16日だった。
「方丈の海」は半年かかって初日を迎えた。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/08/31

19)どうしてそこまで演劇をやらなくてはならなかったのか。

20)拍手。 
昨日は金沢の「劇団新人類人猿」の若山さん、劇評誌”TheaterArts” 副編集長の新野さん、そしてタロジロ南極コンビに伊東竜俊という酒癖エキセントリック・トリオが来襲、打ち上げ会場を我が領土のように行き交っていた。
わし、本日検査だったので昨夜から午前中絶飲絶食ということで、打ち上げでは借りてきた猫のように静かにしていた。こういう時に限って酒飲みが襲来するのだ。「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/09/04

21)演劇のことはよくわからない。しかし、私はこの演劇「界」の酒好きの傾向はなんとかならないのかな、と思うときがある。

22)休筆。
明日からしばらくの間、「劇作日記」をお休みします。
再開は10月中旬になると思います。
それではみなさま、お元気で。 「石川裕人劇作日記 時々好調」2012/09/23

23)時の経つのは早い。すでに10月の中旬もすぎて、11月になった。だけど、まだこのブログは再開されていない。

<2>につづく

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ベルヌ 『海底二万里』

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「海底二万里」
ベルヌ 1983/02 講談社 大型本 国際児童版 世界の名作5
Vol.3No.0848★★★★☆

1)石川裕人「ノーチラス-我らが深き水底の蒼穹」の台本を机の上にあげておいたら、これにネモ船長はでてくるの?、と奥さんが聞いてきた。あれ、それってなに? たしかに「羅臼剛毅=キャプテンネモ」って、主人公らしき人物はでてくるようだよ。

2)そういえば、ノーチラスって、ロシアかどっかの潜水艦だと思っていたが、実は小説だったんだな。どうやら、我が家にもむかしからこの本があったらしい。子ども達が小さい時読んだ本だった。う~ん、相変わらず、私は文学的素養がない。

3)アナロクス教授とネモ船長の話は有名な話なのだ。この話を知らないことには、石川版「ノーチラス」もよくわからない、ということになるのだろう。なんせ、この話が下敷きになっているわけだからな。

4)ネモ船長! まったくふしぎな人物である。かれはいったいなにものなのだろう。世をすねた天才か。それとも政治革命で国を追われた科学者か・・・・。いずれにしても、わたしのいのちは、あの男の手ににぎられているのだ。8章「黒潮」

5)この本、リアルな絵がたっぷり入っていて、イメージ豊かである。さすがに国際児童版世界の名作シリーズだ。ノーチラスが「ナウチルス号」となっているところが、ご愛嬌だが。

6)これは、インド洋にしかいないとくべつなたこで、むかしは、ナウチルス(おうむ貝)などとよばれていた。だが、おうむ貝というのはまちがいで、今日では、アルゴノート、つまり、ふねだことよばれるようになっている。14章「しんじゅ貝」

7)そうか、ノーチラスとはおうむ貝のことなのか。

8)ネモ船長は後にクルーの多くを失い、孤島の洞窟にノーチラス号を隠し隠居をはじめたが、漂着したアメリカ人数人に自分の所業を語ると死去。ノーチラス号は遺言どおりネモ船長の棺として、彼らによって洞窟の底へと沈められた。ウィキペディア「ノーチラス号」 

9)ニュートンが100本目の劇作として「ノーチラス」が書いて、そこに自画像を見たとして、それがもし彼の棺として洞窟の底へと沈められたとしたら、あまりにもなにかが符合しすぎるのではないか。

10)ネモ船長はさけんだ。
「わたしが自分だけのために財宝をあつめているとおおもいですか。わたしが、これをよいことにつかわないとだれがいいました。この地球上に、くるしめられている人、おさえつけられている民族、なくさめやふくしゅうをまつ人がいることをわたしがしらないとでもいわれるのか」
16章「船長の黄金」

11)ジュール・ヴェルヌは1828~1905に生きた人。今から百数十年前にこんな小説が書かれていたなんて信じられない。さすがSFの父と呼ばれるだけのことはある。

12)するとネモ船長は、石のかけらをひろい、黒い大きな岩にこう書きつけたのである。
「アトランティス」
 アトランティス! 大西洋にあって、ギリシャ人たちのさいしょの戦争のあいてだったという、あのいいつたえの土地。ここがそのアトランティスだというのか。

 こうしてわたしは、なんともふしぎな運命にみちびかれて、その何千年もむかしの伝説の大陸の上をあるいたのだった。 17章「きえた大陸」

13)虚実がないまぜとなって、物語は進行する。

14)この物語には、うそもなければ、大げさなところもまったくない。それは、いまでこそ近づきがたいが、いつかは科学の進歩が人間に未来をきりひらいてくれるにちがいない世界についての、忠実な物語である。

 人はこれを信じてくれるだろうか。それはわからないが、そんなことはどうでもいいのだ。とにかくわたしには、それをものがたる権利がある。なにしろわたしは、ここ十か月以内に、実に海底二万里(やく八万キロ)の旅行をなしとげたのだ。

 だが、それにしても、あのナウチルス号はどうなったのだろう。大うずまきの圧力にたえられただろうか。ネモ船長はいまもいきているのだろうか。 24「むすび」

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2012/11/01

ピクサー『カールじいさんの空飛ぶ家』


「カールじいさんの空飛ぶ家」
ピクサー作品 2009年公開 ウォルト ディズニー スタジオ ホーム エンターテイメント DVD 96分 ピクサー関連リスト
Vol.3No.0847★★★★★

1)4ヶ月前にピクサーおっかけをしていて、その時にリクエストしていたDVDだが、人気があって、ようやくこのタイミングで私の番がきたようだ。期待どおり、なかなかすばらしい人生を感じさせる心あたたまるストーリーには仕上がっている。が、どうも、多くの世代の受けを狙っているので、まもなく還暦をむかえるじいさんの一人としては、ちょっとストーリーに余計な部分もある。だからレインボー評価にはしなかった。

2)考えてみれば、この78歳のカールじいさんと、往年の冒険家にして、世をすねて秘境に隠遁したチャールズ・マンツの設定は、ある意味、「海底二万里」のアロナクス教授とネモ船長との関係に似ていなくもない。あるいは、男ふたりを登場させるという意味では、ニュートンと自分の関係と見立ててみることも可能である。

3)もちろん、どちらがどちらの役をやるかは微妙なところだが、今夏のニュートンおっかけの場合、私はカールじいさんやアロナクス教授であり、ニュートンは冒険家チャールズ・マンツかネモ船長ということになるだろう。もちろん、場合によっては、この役割は逆転する。あるいは、この二つの役割は、ひとりの人間の裏表、ということもできる。

4)劇作家・石川裕人といってしまうと、どうも裃をきたようで居心地が悪い。何本かの記事は石川裕人で書いてみたけれど、結局私にとっての彼はニュートンでしかない。ニュートン、という呼びかけで書くと、筆がすすむ。特に「魔」の80年代は、石川裕人として書くと、彼はもう私のものではない。

5)逆に考えてみると、80年代は彼は石川裕人のイメージを固定していく時代だったが、私もまたOshoサニヤシンBhaveshとしてのイメージを固定していく日々だった。だから、彼から見た場合は、やはり裃をつけた(というよりマラをさげた、といったほうがいいかも)Bhaveshは、一定程度認めつつも、距離感を感じた時代だったのかもしれない。

6)だからここは、彼をニュートンに引き戻すとするなら、私もまた「せーこー」にもどらなくてはならないのだろう。彼にとって私はBhaveshではない。彼にそう呼ばれたことは一回もない。せーこーはせーこーだ。私もまたまっさならな子どもじだいに戻る必要があるようだ。

7)逆説的ではあるが、ここはこうしないと、魔の80年代を乗り切っていくことはできない。

8)カールじいさんと少年ラッセルの空飛ぶ冒険は、むかし見た「素晴しき風船旅行」にも似た設定ではあるが、またひとひねりしてある。ちょっとひねりすぎたかな。わたしはじいさんのひとりとして、ノーマルなストーリーのほうがつきやすい、と思う。

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きかんしゃトーマス入門編 ソドー島ツアーへようこそ!


「きかんしゃトーマス入門編」 ソドー島ツアーへようこそ!
羽多野渉 2009/09/16 ポニーキャニオン DVD1枚 35分 
Vol.3 No.0846★★★☆☆

1)うちの孫たちはまだ1歳未満と2歳未満。AZ9ジュニアアクターズに参加できる小学校4年生になるまでまだまだかかる。下の子はようやくアンパンマンに目覚めようとしているところで、上の子はようやく、きかんしゃトーマスに目覚めつつあるところだ。

2)で、きかんしゃトーマス、ってなんだっけ、と新米じいさんはDVDを見てお勉強。なるほどな、全体としてはこうなっていたのか。

3)ソドー島、トーマスのしせん、エドワードのしせん、ダックのしせん、、こうざんてつどう、トップハム・ハット卿、などなど・・・

4)ふむふむ、ここまで舞台設定ができていれば、それなりにドラマはどんどん作れるね。

5)それにしても、3歳や5歳になれば、これだけの内容をわかるようになるのだろうか。

6)孫たちと遊ぼうと思うと、それなりに手間はかかるなぁ。ひとつひとつ覚えなきゃ。

7)思えば、きかんしゃトーマスがあってこその、銀河鉄道だからなぁ。

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