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2012/11/24

科学・芸術・そして宗教? 吉本隆明 『宮沢賢治の世界』

「宮沢賢治の世界 」 
吉本隆明 2012/08  筑摩書房 全集・双書  373p
Vol.3 No.0887★★★★★

1)宮沢賢治も吉本隆明もビックネームである。この本で宮沢賢治を知ろうなんて読者はいないだろう。むしろ、賢治を鏡として、吉本隆明という人が「読まれる」。彼は今年2012年3月に亡くなった。当然3・11も体験したわけで、その後に宮沢賢治が「立ち上がって」きた潮流をみて、その周囲の吉本追随層が、賢治を中心としたこの一冊をまとめたということだろう。

2)吉本は、科学、芸術、宗教、の三位一体を随所に語り、その人間像としてさかんに賢治に投影する。この文脈で言う限り「宗教」という言葉遣いも悪くはないのだが、やはり、結果としては、当ブログが使っているように、科学、芸術、意識、の三位一体と言ったほうが、妥当性があるようだ。

3)吉本は、どこまでも「宗教」という言葉使いをするから、賢治を宗教→国柱会→仏教→法華経→安楽行品、という集約を繰り返していく。実際に賢治その人がそういうベクトルで人生を送ったと仮定したとしても、吉本の「宗教」理解の上に、どうもあらぬ方向へと彷徨いだしてしまうようだ。

4)吉本は麻原集団事件の直後、「尊師麻原は我が弟子にあらず」1995/12 徳間書店)という頓珍漢な本を緊急出版しているが、それはかの事件を「宗教」というキーワードで読み解こうとしたから、どこまでも頓珍漢なまま終わってしまった。

5)もし吉本が、科学、芸術、に並びたつ重要な要素を「意識」と読み変えることができたなら、かの事件の構図は、明々白々に読み解けたはずなのだ。

6)今回も、吉本が、賢治を科学、芸術、「宗教」、の三位一体として読み解こうとするなら、私なら、やはりどこまでも「頓珍漢」な結論に達するしかない、と感じることになる。

7)この本を読んでいて、ふとイメージしたことがある。一枚の便箋のような紙があるとする。「芸術」とは、それをくしゃくしゃと丸めて放り出したようなものではないか。それに対して、「意識」とは、それを引き伸ばし、下のシワがみえなくなるくらいに、まるでアイロンをかけたような状態。とするなら、「科学」とは、ランダムに折り目が縦横についたシワを、系統立てて「キチン」と畳んだ状態。

8)このイメージができたのは、科学→芸術→意識のベクトルを、既知→未知→不可知、というベクトルとして置き換えてみたからだ。既知なる世界がつながったものが「科学」であり、未知なるものは「芸術」として表現されたとしても、次第に既知なるものとなり「科学」化されていく。しかし、「意識」としての不可知なる深淵な世界は、どこまでもつづくのであり、その不可知性ゆえにこそ、「宗教」性は成り立つ、という直感である。

9)この時、吉本のように科学、芸術、「宗教」と、ことさらこの単語を使ってしまうと、すくなくとも当ブログが求めている世界とは大きく隔たっていくように思える。

10)芸術というのは、人に影響を与えることはあるかもしれませんが、つくった人の表現を見て、どういった影響をうけるかというのは全く自由で、それに対して表現した人は口を挟むことはできないのです。

 「お前はぼくの書いた通りの考え方になれ」とはいえないのです。それをいってしまったら、それは、宗教になってしまうのです。p354 吉本「賢治の世界---宮沢賢治百年に因んで」

11)このような文脈で「宗教」を語られたのでは、たまったものではない。

12)どこで日蓮と離れたかというと、<科学>だとおもいます。宗教と科学という結びつきは、日蓮にも、日蓮宗派にも、また、田中智学にもありえないわけです。宗教と科学の関係をつきつめることで、じぶんの法華経理解を深めていった、とても独自な人だといえます。p163吉本「宮沢賢治における宗教と文学---ほんとうの考えとうその考えを分ける(実験の方法)」

13)この部分も納得がいかない。これではまるで、科学と「宗教」は二律背反で、並び立たないような理解となってしまう。

14)宮沢賢治は、法華経の信者です。宗教的人間のほうが、文学的な人間よりも重いのだとかんがえていたとおもいます。ぼくたちは文学的に読むほうが多いのですが、宮沢賢治はそうではないとおもっていたはずです。 

 それで、この人の宗教テーマ、あるいは宗教観は、いってしまえば法華経ですから日蓮宗に属するわけですけれども、ある時期からそういったものを超えているとおもいます。法華経の信者ではありますけれども、必ずしも日蓮宗だとはいえないように、垣根を取り払ったのです。何をかんがえていたかといいますと、一種の普遍宗教なのです。 

 宗派に入っていかない宗教をかんがえていたとおもいます。それは何かといいますと、宗派の宗教は、「俺の宗派のほうがいいんだから俺のほうへ来い」「俺の宗派はお前のところよりよくて、お前のところはダメだ」といった宗派的対立というものが、必ず起こります。p313「いじめと宮沢賢治」

15)本人は「信心」はない、と言っているが、それとしてもこの程度の理解なら、もう吉本隆明という人の本など、もう何も読まなくてもいいな、とさえ思ってしまう。本著は何十年にも渡った吉本の賢治関連の講話の数々を、2012/03に亡くなった吉本が全部生前に手をいれて成り立ったとされる。2012年8月発行の「新刊本」なのであるが、1996年5月に行われたとされるこの「いじめと宮沢賢治」だけは手が入れられていない、とのことである(p368編集後記 小川哲生)。だから、すこし「雑」なのかもしれないが、それにしてもなぁ。これじゃ、わが「地球人スピリット」への道など、完全に閉ざされてしまう。

16)吉本隆明には日本詩人選「宮沢賢治」(1989筑摩書房)がある。そちらにも目を通してから、最終的な吉本評価をしよう。「つくった人の表現を見て、どういった影響をうけるかというのは全く自由で、それに対して表現した人は口を挟むことはできない」(吉本)と言われつつ、だから言う、わけではないのだが、おいおい、それでいいのかよ、という思いはつのる。

 

 

 

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