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2012/11/06

石川裕人が私淑した「演劇」性の原点 唐十郎 『腰巻お仙 特権的肉体論』 

Koshi3
「腰巻お仙」 特権的肉体論
唐十郎 1968/05 現代思想社 単行本 p277
Vol.3 No.0858★★★★★

1) 昨年、震災で中止になった高校演劇総研は明日から。わしは2日間にわたって「演技術入門」という講座を持つが、前任のIRが適当に付けた講座名をそのまま使っている。ま、なんでもいいんだけど。演技術なんてないんだということをわからせる講座。逆説的入門なのである。 

 そしてテキストに唐十郎「特権的肉体論」を使用。高校演劇では前代未聞かもしれない。わしが高校時代にショックを受けた「状況劇場」を現役高校生に熱く語る!! 演技とはアナーキーな革命であるということを伝える。なんか疲れそうだけど。「石川裕人劇作日記時々好調」2012/07/23

2)唐十郎「特権的肉体論」を検索すると、図書館には2冊ある。「腰巻お仙 特権的肉体論」(現代思想社1968)であり、「特権的肉体論」白水社1997/04)であるが、もともとの「特権的肉体論」そのものは60ページ前後の短い論文である。内容的にはほぼ同じなので、ここは初出の「腰巻お仙」版を参考にする。そして、もし石川が読んでいるとするならば、こちらの1968年版であっただろうと、まずは推測してみる。

3)そして’71年の1月(?)雪の積もった西公園で状況劇場「愛の乞食」(唐十郎作・演出)を観る。色んなところで書いているが、頭を棍棒で殴られたようなショックを覚えた。唐十郎師と状況劇場との出会いがその後の私の人生の針路を決めた。 「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 「第二回 承前その弐

4)といっている限り、この段階でこの「特権的肉体論」を読んでいるとは確定できないが、1980年代に到達するまでには、どこかで決定的にこの本にであっていただろうことは、想像に難くない。

5)さて、この本は、「特権的肉体論」のほかには「腰巻お仙」の「忘却篇」と「義理人情いろはにほけと篇」の脚本がついている。ほとんど、唐の処女作といっていいのだろう戯曲シリーズである。

6)さて、この「特権的肉体論」を2012年において、高校生の演劇人予備軍たちのテキストと使おうという石川裕人は、どれだけの成果をあげることができただろう。60年代中ばには、唐十郎が登場してくる土壌というものがあった。時代は敗戦後の所得倍増から高度成長期へと向かう途上であり、外国との交流さえままならない時代である。そして60年安保や70年安保という政治課題が、社会の中にどんと座っていた時代だ。2012年とはまったく時代がちがう。

7)70年安保で高校生だった石川裕人と、3・11で高校生である「現役」高校生たちに、この情念の坩堝と、肉体的テロリズムさえ内包する唐の美学が本当に通じるだろうか。あるいは、通じさせることに、なにか意味があるのか?

8)実際には、この「特権的肉体論」には、1970年代から80年代にかけて書かれ、時には90年代に書かれたものを含む、「新・特権的肉体論」と、「超・特権的肉体論」という続編があり、それは1997/04に新たに別な本として「特権的肉体論」という一冊になって刊行されている。

9)全体を見渡すのは、そちらにも目を通してからにしようと思う。ただ、ここで思えることは、1988年に唐十郎は状況劇場を解散したとはいえ、この言説を60年代70年代から継続的に、散発的に、雑誌や機関紙、単行本の類に発表しており、それら一連の唐の言動を「特権的肉体論」と総称していた、と見ても構わないだろうと思う。

10)つまり、当ブログ風に3C論でいえば、小学校時代にシナリオ・ライターという「コンテナ」を発見した石川裕人は、高校時代に出会った唐十郎に魅せられ、その演劇(芝居)の「コンテンツ」の主なる部分を彼から学んだ(盗んだ)と言えるだろう。それはやがて、90年代以降、PLAY KEMJI=宮沢賢治という「コンシャスネス」にたどり着こうとするのだが、すくなくとも80年代は、唐のコンテンツ論を十分に借りないことには、石川は、その演劇(芝居)を推進することはできなかった、と仮定しておくことも可能であろう。

11)なにはともあれ、「腰巻お仙」のポスターは横尾忠則が担当している。

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12)もし、私から見た石川裕人における、80年代のミッシング・リンクに唐十郎がドンと構えていたとして、私にとってのOshoとをつなぐ役目としての「Tadanori Yokoo」が存在とするなら、これはなかなか面白い組み合わせになってきた。

13)いずれにせよ、私たちふたりだけではなく、多くの同時代人が、多くの同時性を持って、この地球上にいきてきた、ということは間違いない。

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