石川裕人は唐十郎のエピゴーネンだったのか 『特権的肉体論』
「特権的肉体論」
唐 十郎 1997/05 白水社 単行本 213p 石川裕人年表
Vol.3 No.0859★★★★☆
1)80年代の石川裕人は、70年代的「劇団洪洋社」の「失敗」の体験から、一時は芝居から離れた数年を経たあと、ふたたび、「十月劇場」として復帰することになる。そして、そのあとの「快進撃」は、周囲の注目を浴びることになる。
2)このときの彼の「演劇」性のバックボーンとなるものはなんだったのだろうか。当ブログとしては、これまでの経緯から、それは唐十郎、特にその「特権的肉体論」にあったのではないか、と推測するに至った。
3)こうしてみると、極めてわかりやすい。この図式の中で、石川裕人は80年代を走り抜き、80年代の総括として、90年代前半には、自らの代表作と称することになる「時の葦船」三部作に達する。そう想像してみることも可能であろう。
4)十月劇場時代に書かれた脚本は次のとおりである(未確認)。この中でも、十月劇場用の脚本は絞られてくるが、まずは加速度的に多作化しているように見える。
1981「流星」
1982「ねむれ巴里」
1984「ぼくらは浅き夢みし非情の大河を渡るそよ風のように」 「嘆きのセイレーン・人魚綺譚 」
1985「じ・えるそみーな」 「十月/マクベス」
1986「水都眩想」
1987「ラプソディー」 「虹の彼方に」 「笑いてえ笑」
1988「マクベス」 「又三郎」
1989「ラストショー」 「コメディアンを撃つな!!」 「ラストショー改訂テント版」 「三島由紀夫/近代能楽集・集」 「じ・えるそみーな・~フェリーニへ~」 「モアレ・~映画と気晴らし~」
1990「斎理夜想」 「あでいいんざらいふ」
1991「時の葦舟」
1992「隣の人々 静かな駅」 「ラブレターズ●緘書●世界(あなた)の涯へ」
1993「三部作時の葦舟第2巻 無窮のアリア」
1994「演劇に愛をこめて あの書割りの町」 「月の音 フェリーニさん、おやすみなさい」 「スターマンの憂鬱ー地球人類学入門ー」 「三部作時の葦舟第3巻 さすらいの夏休み」「月の音ー月蝕探偵現るー」
5)さて、唐十郎「特権的肉体論」だが、68年から92年まで発表された文章がランダムにまとめられていて、1997年に出版された本ではあったとしても、このような言説は80年代において、さまざまなメディアや形で発表されていたのだろう。であれば、散発的にせよ、石川裕人がその記事に常にデリケートに対応していたことは想像するに難くない。
6)さて、それでは「特権的肉体論」とは一体なにか、ということになるが、詳しくは後日に譲ろう。すくなくともここでは、役者としての「肉体」を突出させることによって、「新劇」を超えた「アングラ」芝居のドラマツルギーにしよう、ということだ、と仮定しておく。
7)この本は、いままでの文章をまとめたものであり、必ずしも一貫性がないが、「超・特権的肉体論」に含まれている澤野雅樹との対話(をもとに構成)は、一読者としては、私には一番わかりやすかった。
8)ある意味で、「特権的肉体論」は悪い方向に流れていったと言えるかもしれません。例えばアングラという言葉で抱かされてきた典型的なイメージは、状況劇場や天井桟敷の写真を見せられた時に受ける「異形の群れ」という印象です。
そのイメージは、唐、寺山エピゴーネンによって無数に反復され、増幅されてしまった。アングラ・イメージの一人歩きは、遊行民族が定住民族の所に現われ、一芝居うって消えていくという、つまり一滴のお祭り騒ぎを残していくというイメージを、80年代前半に演劇に気触(かぶ)れていた若い人たちに与えていたのかもしれない。澤野雅樹 p193「超・特権的肉体論--それが渡り歩くとき」
9)この部分は、本書の主テーマではないにしろ、80年代の石川裕人を検証するときには、重要な視点だと思える。澤野はつづいて、こうまでいう。
10)理論に基づく解釈に危ないところは確かにあります。体系さえあれば、作品がなくてもいい。すると、わざわざ小説を読んだり、演劇を見る必要がなくなってしまう。例えばすべて精神分析の枠内で把握されてしまうのであれば、演劇も小説もいらないということになるわけです。澤野p204同上
11)こここそ、当ブログとしては気になるところである。澤野は唐との対談の中では、「精神分析」というレベルにとどまっているが、「観客」が「瞑想」まで昇華されてしまったあとでは、「わざわざ小説を読んだり、演劇を見る必要がなくなってしまう」のは、当然のことだと思える。
12)この視点が、80年代における石川裕人と私の「視点」の大きな違いであり、また、当ブログにおける、石川裕人追っかけの現在の重要なポイントである。
13)岸田國士戯曲賞をとった時にもずい分書かれたんですよ。アングラが市民権とりやがったって。ずい分長く続きましたね。新宿の呑み屋でSという役者が、とって十年経つのに、まだ言うんですよ「なんでとったんだ、なんでとったんだ」「あれは分かれ道だったな」って。古典的アウトローみたいなものを僕に求めていたっていうダチ公もいましたし。唐十郎p196 同上
14)唐は1970年「少女仮面」で岸田國士戯曲賞を受賞している。そして1983年には「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞した。
15)石川は1986年(32歳)、「水都幻想」で岸田國士戯曲賞を取るように勧められた。しかし、逡巡した挙句、結局はそれを拒否した。「生意気だった」と石川は自分を評するが、ここが、また彼自身の「分かれ道」であったことを意識していた。
つづく・・・・・だろう
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