80年代的石川と唐の接点のひとつとしてみることができるかどうか 『唐版 風の又三郎』
「唐十郎全作品集」 〈第4巻〉 戯曲 4 「唐版 風の又三郎」
唐十郎
1979/10 冬樹社 全集
381p
Vol.3 No.0870★★★★☆
1)石川裕人の作風に、唐十郎の影響がどうでているのかを探りに、その手がかりのひとつとして両者の「又三郎」比較をしてみることにした。
2)唐版は、1974年4月から6月にかけ、福岡、広島、大阪、京都、東京、で公演したことになっている。単行本も同時に出版された。仙台公演はなかったようだから、石川はこれを芝居としては見ていないだろう。しかし、単行本としては見ている可能性は十分ある。
3)こちらの全集に収められて出版されたのが1979年だが、全集としては読んでいないのではないだろうか。特に、この時代の石川は演劇から遠ざかりたがっていた。
4)「少女仮面 唐版風の又三郎」として白水社から再刊されるのが1997年。1988年に十月劇場で公演した石川版又三郎は、2000年OCT/PASSの作品となって「20世紀最終版」として公演された。私は芝居としては1988年に見ているが、台本は、この最終版しか読んでいない。、
5)さっと読みかけてみれば、唐版と石川版は、当然のことながら、まったく別な作品だ。唐版はよりコテコテな唐十郎的世界であり、石川版は、どちらからと宮沢賢治のモチーフを多く借りて、賢治が垣間見えるような作品に仕上がっている。
6)唐版の台本に、特権的肉体たちが踊るのだから、なかなかこれはギドギドの状況劇場的ワールドで、もはや手の付けられないアングラ世界だ。かたや、石川版は、賢治が演出したこうなるかもしれないと思うほど、より賢治に寄り添っているように思える。
7)どちらが好きかと自分に問うてみると、これはどちらも好きではあるのだが、当ブログの締めの方向性を考えると、より賢治的世界観に「フェードアウト」していく石川版のほうが好ましいと言える。
8)つまり、石川は唐の後走者として、唐のギトギトラインをさらに暴走する方向にいくのではなく、むしろ賢治のほうに先祖帰りする形で収束をはかっているかに見える。あるいは、そうあってほしいと、一読者、一観客として、願う自分がいる。
9)当ブログは現在、石川裕人の生涯を追いつつ、実はそれを鏡として活用しながら、自分を映して、ひとつの一大絵巻をみようとしているところである。大枠の中で、バラバラになったジグソーパズルを、要所要所からおいていってみている段階で、全体像は、まだおぼろである。でもおぼろではありながらも、すこしづつ実像が立ち上がり始めている、とも言える。
10)特に現在は80年代における「演劇」性と「瞑想」性の分化のポイントを探っているのであり、かなりアバウトながら、唐と石川の「巴里・佐川事件」と「又三郎」の80年代的接点の、あるなしを確認しておけば、それで済む。ここで深追いはしないでおく。
追記) 本日は、石川裕人の納骨の日だった。
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