ウォルター・アイザクソン『スティーブ・ジョブズⅡ』 <2>
「スティーブ・ジョブズⅡ」 The Exclusive Biography <2>
ウォルター・アイザクソン 井口耕二 2011/10 講談社 単行本 430p
★★★★★
1)ようやくこの「唯一の公式伝記」を読み終わって、フーっと考える。結局ジョブズが残したものは何だったのか。1984年のマッキントッシュに始まって、その「最終形態」としてのタブレットPC。そして、スティーブ・ジョブズという人間の生きた軌跡。その二つが大きく残されている。
2)タブレットPCに関しては、私個人は未だに懐疑的で、好きではない。いずれは誰かがやったことではあるだろうが、ジョブズみたいに、強引にゴリ押しして完成することはなかったのではないだろうか。もっと緩やかな「進化」の中で、もっと周りが関与できる形で進化したのではないか。
3)そういった意味では、私個人は、精神的にはハッカーだが、リナックスを使いこなせるほどの力量はないので、必要に迫られてウィンドウズを使ってきたし、親和性としてはグーグルのアンドロイドのほうが好きになれる。
4)しかし、悠々と一人「森の生活」を営んでいるのではない限り、「マーケットプレイス」で「地球人」として生きる限り、タブレットPCは、目の前の必要品となりつつある。かつてウィンドウズ98あたりがオフィス・オートメーションとして闊歩し、中高年の労働者たちがPCを使えないために(使おうとしなかったために)、次々と職場を追われていった時代に似ている。
5)私自信はタブレットPCを使いこなせないとは思えない。その機能がつまらないとも思わない。ただ、消費と生産で考えれば、私の業務にタブレットPCはベストフィットだとは考えられないと、ずっと思ってきた。だが、わが業界は、最近、このタブレットPC導入に大きく舵を切った。
6)私がマック派にならなかったのは最初からマックが嫌いだったからではない。わが業界がマックを許容しなかったのだ。そもそも、わが業界は、圧倒的な事務量を抱えながら、OA化が遅れた。ネットPCが当たり前になった時代でも、スタンドアロンの専用機を使わせようとした。そんな遅々たる歩みに、いつもイラつきながら、時代遅れのウィンドウズを使ってきた。使わざるを得なかったのだ。
7)今だって、本当は、10何年前のウィンドウズXP機で十分だし、実際にわが業界ではXPで十分満足している職業人達は多い。私自身、そこに埋没していくことも可能であり、ウロウロしていれば、多分、ここで私の職業人生は終わりである。
8)今わが業界がタブレットPCを導入し始めているのは、その業務における「生産」の意味が違ってきているからである。ビル・ゲイツが、かつての「業務」を「PC」に置き換えることに成功して世界一の富豪になったとすれば、ジョブズのタブレットは、現状の「業務」を、別の何かに「変えよう」としている。よくいえばそういうことになる。
9)それが本当かどうか、これから何年か経過してみなければ分からないだろう。でもそんな遠くない。多分数年の間にその結論はでるだろう。ガジェットとしてタブレット端末があったとしても、ネット環境やアプリなどの応援体制が整っていかなければ、意味がない。それが、どうやら爆発前夜にまで到達しているのではないか、とヒシヒシと感じられる。
10)わが業界は、年明けにもタブレットPCに全面的にコミットすることになる。それはアップル=マック派への開放という事実をも意味している。ある意味、ようやくここまできたのである。ただ、タブレットPCが必需品になったとしても、それで「業務」は完結するわけではない。どうしてもキーボード付きのノート(デスクトップ)PCが、メインとしては残らざるを得ない。
11)となれば、ウィンドウズ8のタブレット・モードを使って、オール・イン・ワン的に使うほうがよいのではないか。スライダーや回転式でディスプレイをあたかもタブレット状で使えば、実質的にジョブズのiPadは不要となる。
12)もちろん、こんなことを言ったら、ジョブズは逆上するだろう。その軽やかさ、その一体感、その美しさ、iPadにかなうわけがないではないか。きっとそういう。他のすべてはすべてクソッタレだ。まぁ、今は、そう口汚く罵るジョブズがいた、ということを記憶にとどめておけばいいだろう。
13)もう一つ、ジョブズは、「スティーブ・ジョブズ」という作品を残した。「アップル」という企業もジョブズの「作品」ではあろうが、同時代人として、60年代的カウンターカルチャーを経て、70年代にインドに渡り、80年代の浮き沈み、90年代の復活劇、21世紀になってのイノベーションの連続は、ジョブズの人生を、ひとつの作品として見せてくれる。
14)当ブログの三つの分類、科学、芸術、意識、の中では、彼は「科学」に振り分けられる存在ではあろうが、彼の人生は「芸術」家的な一生だった。そして「意識」への目も、同時代としても、大きく記録されるような可能性も秘めていた。
15)同時代人のひとりとして、わが友人・石川裕人(ニュートン)の人生は「芸術」家としての一生だったと言える。SF的な感覚であろうとも「科学」への目も持っていたし、「意識」への目もなくはなかった。しかし、パソコンやタブレットでは絶対に体験できない「特権的肉体」を持って、総合芸術としての演劇へ献身した。
16)わがマスターOshoは「意識」についてのエキスパートであったが、「科学」へのインターフェイスを備え、常にその表現を「芸術」的にプレゼンするのが常であった。
17)ジョブズ、ニュートン、Osho、この三つの存在を考えた、この一年であった。そして、その統合こそが、当ブログの中心テーマとなるだろう。
18)先日、大型家電店に行って、いろいろ逡巡した挙句、結局、iPadしかない、と結論がでたところへ、仕事の緊急連絡が入った。お買い上げが、一時棚上げになってしまったのだ。これもまた、何かの兆候であるのだろう。いよいよ必要になるのは年開けてからだ。それまで、もう少し、いよいよ悩んでみよう。
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