『死について』 ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 <2>
「シュタイナー 死について」 <2>
ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 2011/08 春秋社 単行本 282p
★★★☆☆
1)今年一年もいろいろにぎやかな一年であった。正月4日に二人目の孫が生まれ、12月クリスマス後には、40年来の友人を亡くした。生があれば死があるとはいうものの、なんとも目まぐるしい無常なるこの世である。
2)その中でも50年来の友人であった石川裕人を10月に失ったことはやはり大きかった。大きな喪失感と虚脱感に襲われる。
3)門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 一休
4)年末の仕事をかたづけ、休暇で集まった親族の子供たちとともに、「もういくつ寝ると お正月」と唄う。門松や、正月飾りも終えて、餅も届いて、さぁ、お正月なのだが、いまひとつ、沸き立つものがない。
5)こころの中では、増え続ける周囲の新生児たちと、ひとりひとり抜けていく友人たちを、天秤にかけている。これが常ならざるこの世のならいなのだ。生あれば死あり、死あれば、また生もあるに違いない。
6)このシュタイナーの本をまた読みたくなった。前回は3・11後のたくさんの新刊本の中の一冊として認知しただけだったので、時間がある時に、ゆっくりと読みたかった。
7)内容は、まぁいわゆるシュタイナー本なので、多くを期待しているわけではない。しかしまた、大見得切って、真正面に「死について」なんて一冊を出してもらえる人もそうそう多くない。あちこちで講演したシュタイナーの切り張りだが、真理の一端をかいつまんでいるかもしれない、という予感は残る。
8)Oshoはシュタイナーをほとんど取り上げていない。 ブラバッキーを祖とする神智学の後継にして鬼っこ、クリシュナムルティーを最大限に持ち上げながら、ドイツ神智学から、独自の人智学へと進んだシュタイナーについては、けんもほろろ、という状態だ。
9)もっとも、クリシュナムルティーに比するところのシュタイナーの風景は、たしかに見劣りすることは仕方ない。
10)シュタイナー用いるところの、肉体、エーテル体、アストラル体を、あえて、既知、未知、不可知、に対応させて読み込んでみるとき、あえて、不可知なるものを未知なるものとして次元を下げ、さらにさまざまな呼称を与えることによって、既知なるものへと引きづり下ろそうとする姿勢は、必ずしも「美」的とは言い難い。
11)既知なる科学の領域が広がれば広がるほど、未知なる領域も広がり、そして不可知なるものの遙かな「不可知」性はますます深まっていく。永遠に不可知であるからこそ、不可知なのである。不可知であることを理解し、不可知であることを受け入れ、不可知であることに敬服する時、神秘というしかない世界が立ち上がってくる。
12)死について、さまざまな表現を与えることができるだろうが、その不可知性には変わりはない。シュタイナーが、あれやこれやと未知なる領域から既知なる領域へと死を引きづりおろそうと努力しても、それはシュタイナーという個人の葛藤であって、死を科学的にとらえたことにもならないし、いわゆる「神秘学」としてとらえたことにもならない。
13)机と本と坐っている自分とから成る、日常生活の一断面を、できる限り生きいきと心に思い浮かべるのです。本当の魂の眼をこのイメージに向け、本当に集中してこの日常の一断面を繰り返して瞑想するのです。
そういうとき、皆さんはある瞬間から、いつもとは違う何かを感じるようになります。まるで何か生きものを手で握ったかのような感じをもつのです。p210「思考の変容」
14)シュタイナーは百年前の人であり、西洋の聴衆の前で語った人である。人智学という特殊なグループの会員を啓蒙するために語ったのである。そして、この本は、3・11後の日本において、日本人の手によって再編成されたという履歴を持っている。だから、最初からシュタイナーの意図をダイレクトに汲み取れない弊害があるが、それでもなお、シュタイナーの世界には、埋めようとしても、埋めようがないギャップが存在する。
15)只管打坐。道元ならそう一喝するところであろう。西洋と東洋の大きな隔たりを、地球大に埋める仕事をシュタイナーがしたとするなら、それも彼の功績のひとつということになろう。しかし、シュタイナーの世界内には完結しない、根本的な瑕疵が存在する。
16)死は、どのような形であれ、哲学されてしまうのであれば、それは死に到達していないことになる。自らの体験としてしか語り得ない、そして語るに語る言葉さえない、という体験に遭遇してこそ、人は自らの死を知るしかないのである。
17)あっという間に大晦日である。ひとめぐりしてまた新たなる一年が始まる。と思うとともに、めぐってなんかいないじゃないか、ただただずっとここだった、という思いもある。晦日も正月も所詮人間が勝手に決めたことじゃないか。とするならば、生も死も、所詮、勝手に人間が決めたことではないか、ただただずっとここだったじゃないか、という思いにも、限りなく全うな正当性がある。
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