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2012年12月の28件の記事

2012/12/31

『死について』 ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 <2>

<1>からつづく

【送料無料】シュタイナー死について
「シュタイナー 死について」 <2>
ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 2011/08 春秋社 単行本 282p
★★★☆☆

1)今年一年もいろいろにぎやかな一年であった。正月4日に二人目の孫が生まれ、12月クリスマス後には、40年来の友人を亡くした。生があれば死があるとはいうものの、なんとも目まぐるしい無常なるこの世である。

2)その中でも50年来の友人であった石川裕人を10月に失ったことはやはり大きかった。大きな喪失感と虚脱感に襲われる。

3)門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし  一休

4)年末の仕事をかたづけ、休暇で集まった親族の子供たちとともに、「もういくつ寝ると お正月」と唄う。門松や、正月飾りも終えて、餅も届いて、さぁ、お正月なのだが、いまひとつ、沸き立つものがない。

5)こころの中では、増え続ける周囲の新生児たちと、ひとりひとり抜けていく友人たちを、天秤にかけている。これが常ならざるこの世のならいなのだ。生あれば死あり、死あれば、また生もあるに違いない。

6)このシュタイナーの本をまた読みたくなった。前回は3・11後のたくさんの新刊本の中の一冊として認知しただけだったので、時間がある時に、ゆっくりと読みたかった。

7)内容は、まぁいわゆるシュタイナー本なので、多くを期待しているわけではない。しかしまた、大見得切って、真正面に「死について」なんて一冊を出してもらえる人もそうそう多くない。あちこちで講演したシュタイナーの切り張りだが、真理の一端をかいつまんでいるかもしれない、という予感は残る。

8)Oshoはシュタイナーをほとんど取り上げていない。 ブラバッキーを祖とする神智学の後継にして鬼っこ、クリシュナムルティーを最大限に持ち上げながら、ドイツ神智学から、独自の人智学へと進んだシュタイナーについては、けんもほろろ、という状態だ。

9)もっとも、クリシュナムルティーに比するところのシュタイナーの風景は、たしかに見劣りすることは仕方ない。

10)シュタイナー用いるところの、肉体、エーテル体、アストラル体を、あえて、既知、未知、不可知、に対応させて読み込んでみるとき、あえて、不可知なるものを未知なるものとして次元を下げ、さらにさまざまな呼称を与えることによって、既知なるものへと引きづり下ろそうとする姿勢は、必ずしも「美」的とは言い難い。

11)既知なる科学の領域が広がれば広がるほど、未知なる領域も広がり、そして不可知なるものの遙かな「不可知」性はますます深まっていく。永遠に不可知であるからこそ、不可知なのである。不可知であることを理解し、不可知であることを受け入れ、不可知であることに敬服する時、神秘というしかない世界が立ち上がってくる。

12)死について、さまざまな表現を与えることができるだろうが、その不可知性には変わりはない。シュタイナーが、あれやこれやと未知なる領域から既知なる領域へと死を引きづりおろそうと努力しても、それはシュタイナーという個人の葛藤であって、死を科学的にとらえたことにもならないし、いわゆる「神秘学」としてとらえたことにもならない。

13)机と本と坐っている自分とから成る、日常生活の一断面を、できる限り生きいきと心に思い浮かべるのです。本当の魂の眼をこのイメージに向け、本当に集中してこの日常の一断面を繰り返して瞑想するのです。

 そういうとき、皆さんはある瞬間から、いつもとは違う何かを感じるようになります。まるで何か生きものを手で握ったかのような感じをもつのです。p210「思考の変容」

14)シュタイナーは百年前の人であり、西洋の聴衆の前で語った人である。人智学という特殊なグループの会員を啓蒙するために語ったのである。そして、この本は、3・11後の日本において、日本人の手によって再編成されたという履歴を持っている。だから、最初からシュタイナーの意図をダイレクトに汲み取れない弊害があるが、それでもなお、シュタイナーの世界には、埋めようとしても、埋めようがないギャップが存在する。

15)只管打坐。道元ならそう一喝するところであろう。西洋と東洋の大きな隔たりを、地球大に埋める仕事をシュタイナーがしたとするなら、それも彼の功績のひとつということになろう。しかし、シュタイナーの世界内には完結しない、根本的な瑕疵が存在する。

16)死は、どのような形であれ、哲学されてしまうのであれば、それは死に到達していないことになる。自らの体験としてしか語り得ない、そして語るに語る言葉さえない、という体験に遭遇してこそ、人は自らの死を知るしかないのである。

17)あっという間に大晦日である。ひとめぐりしてまた新たなる一年が始まる。と思うとともに、めぐってなんかいないじゃないか、ただただずっとここだった、という思いもある。晦日も正月も所詮人間が勝手に決めたことじゃないか。とするならば、生も死も、所詮、勝手に人間が決めたことではないか、ただただずっとここだったじゃないか、という思いにも、限りなく全うな正当性がある。

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2012/12/28

ふたたび、その「演劇」性を問う 『季刊まちりょく』vol.9 仙台市民の文化情報誌

Mati
「季刊まちりょく」vol.9 仙台市民の文化情報誌
仙台市民文化事業団 2012/12/14 A6版 小冊子 p72
Vol.3 No.0900★★★★☆

1)当ブログは、無料ブログサービスと公立図書館の開架コーナー利用の上に成り立っている。誰にでもできるお手軽ソースを基本として、はや7年。新たなる脱皮を意図しつつも、画期的な方向性は見つかっていない。

2)図書館利用とはいうものの、もうすこし価値のある利用法があるのではないか、といつも思う。たまにポスターをみたりビディオを借りてきたりするが、結局は長持ちしない。チラシやフライヤーも持ち帰ってはくるのだが、よく読まずに捨てるものがほとんどだ(制作者の人たち、ごめんなさい)。

3)昨日も、何枚かチラシやらを持ち帰ったが、正直言うと家に持ち帰った瞬間、ゴミになってしまう。この冊子も、ゴミ箱行きになりかけたが、ちょっと待った!

4)なにげに指をかけたページには、Theatre Group"OCT/PASS"Vol.34「方丈の海」の記事が、公演写真とともに4ページに渡って掲載されていたのだ。青森県美術館の長谷川孝治というひとと、伊藤み弥という演出家が、石川裕人に哀悼の辞を送っている。

5)仙台はその意味で希有な存在を失った。ダブルバインドの渦中にいながら必ず最後には「希望」という手垢のついているかもしれないが、私たちにとって不可欠な二文字をずっと示し続けた男を。p23長谷川孝治「変わらないことの強さ」

6)私は彼を知っている。彼は「希望」なんかじゃなかった。50年間もつきあってきたんだもの、彼の強さと、そして、弱さ、だめな部分もよく知っている。そう思って、ふと考えた。私が知っているのは、石川裕人だろうか、ニュートンだろうか。あるいは石川裕二だろうか。

7)葬儀の後の法事の時、親戚の、彼のいとこという婦人とお茶を飲んでいた。私は50年前から、彼の友人です、と自負した。だが彼女は笑った。私たちは、ユー坊の生まれた時から知っているわ。あはは、これには参った。ニュートンというニックネームは広く知られているが、ユー坊といういたずら坊主のことは、ほとんど知られていない。

8)劇作家、演劇人として知られているのは「石川裕人」だ。母親やいとこたちは、ユー坊のことは知っているが、石川裕人のことは、ほとんど知らない。私は、ニュートン、というより、石川裕二という友人を見つめてきたのではないだろうか。そここそが、過不足のない彼のリアリティであったはずだ。

9)自分の死という経験について誰も語り得ないが、しかし彼ならどんな芝居を書くだろうか。そして、彼が書くはずだった、<東北の演劇>とはどんなだろうか、と私は詮方(せんかた)ない想像をしてみる。

 生き残った者はいつだって後悔と祈りと仮定で喪(うしな)った人の空隙を埋めるしかない。彼に匹敵する<モノガタリ>が現れることは、もうないだろう。p25伊藤み弥「あるプロローグ。そして、エピローグ」

10)私たちの世代のスタート地点は、「汝死ぬことを学べ。そうすれば生きることを学ぶだろう」というチベットの死者の書にあったはずである。死を学ぶとは、瞑想のことである。私はそちらの道を選んだ。

11)しかし、彼はその道を選ばず、石川裕人という「演劇」性を選んだ。石川裕二という、リアリティを回避した。つまり「死」を回避しつづけてきた、と私はみているのである。彼の演劇の中に、さらなる「死」が、「自己の死」が演出されていたら、私は彼の変わらぬ観客であり続けていたはずなのだ。

12)彼を、ひとつの<モノガタリ>とみることは、私自身は物足りなく感じる。モノガタリは事実を越えてはいない。彼を越えるモノガタリなど、そもそも私は、期待していない。私がみたかったのは、モノガタリを越えた、彼自身だった。

13)伊東竜俊の葬儀の際、彼の劇団のメンバーと会話をすることができた。「劇団、今後どうするの?」。 「公演日は決まっていませんが、いつか公演すると思います。誰もやめるとは言いださないので・・・・」

14)彼はあの世で、残した劇団員たちのこの言葉をどう受け止めるだろうか。私はあえてこの言葉を過大評価はしない。団員たちは、座長としての彼の死をどう受け止めているだろう。そして、有力な「タニマチ」のひとりであった伊東竜俊の死をどう見つめているだろう。

15)私は、あえて言いたい。見つめるべきは、他者の死ではない。見つめるべきは「私」という自己の死だ。私がずっと彼の演劇を批判的にみてきた理由のひとつはここにある。私の彼についての見方は、彼は「死」を回避して「演劇」に逃げ続けた、というものだ。

16)言葉たらずではあるが、当ブログでも何度か引用してきた言葉群、「演劇」性と「瞑想」性の「差異」はここにある。

17)新生Theatre Group"OCT/PASS"は、Vol.35公演を打つことができるだろうか。私はその公演を見に行くことができるだろうか。そこに私は「瞑想」性をみることができるだろうか。

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「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1<3>

<2>よりつづく 

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「嗚呼!! 水平線幻想」 <3>
伊東竜俊戯曲集1  1980/06   カタルシス社 単行本 372p 

1)伊東竜俊の葬儀に出席してきた。あまりに意外なというべきか、衝撃的というべきか、あるいは「劇」的というべきか。いずれにせよ、彼は享年63歳の人生を閉じたのである。

2)友人が駆るハイブリット・スポーツカーで高速を北上しながら、思い出話に花が咲いた。前日の通夜に参加した別の友人からケータイに連絡が入るなどしながら、次第に情報が立体化してきた。なるほど、彼の人生がすこしづつかいま見えてきた。

3)そもそも互いのプライバシーまで知り合う関係ではなかったが、高校教諭という以外、あまり彼のことを知ることは少なかった。そもそも結婚していたのかどうかさえ知らなかった。

4)式場に近づくにつれて案内の看板が立っている。喪主として福子さんという名前が見えてきた。そういえば今から35年前の彼のステージに立ったとき、確か同じ名前の女優さんがいたのだ。結局彼は彼女と結婚したのだろうか。葬儀が終わる最後の最後までわからなかったが、結論からいえば、あのステージに立ったのは、ふく子さんというひながなの女優さんであり、彼の奥さんになった方は漢字の福子さんなのだという。帰宅してから他の友人の電話で理解した。

5)さらに複雑なのは、あのひめんし劇場に立った女優さんには、別に福田という人もおり、複数の「ふくちゃん」論議で、ハイブリッド・スポーツカーの車内はごちゃんごちゃになった。

6)式場の案内に誘われていくと、田園風景の中に、竜俊の自宅が現れた。瀟洒なおちついたマイホームである。玄関に喪中の知らせが立っていた。なるほど、彼は彼なりに、しっかりと人生を送ったのだ。

7)案内に従って、しばらく進むと真言宗の、不動明王ゆかりの式場についた。神仏混交である。珍しいスタイルだ。彼は自らの最終劇として、この設定を選んだのだ。

8)友人たちの弔辞がつづき、子供たちも送る言葉を述べた。三者三様に語ることは、「酒」と「演劇」のことだった。火葬場から遅れてついた遺骨を待つ間、住職が、寺の由来と故人のプロフィールを語った。その時でさえ、「演劇」と「酒」が話題になった。

9)総勢150名か200名ほどいただろうか、参列者たちの顔にも急逝した故人への哀惜の念が渦巻いた。場所が場所だけに、私には、なぜか水木しげるの登場人物たちにさえ見えてきたが、これはこちらの勝手な想像力のなせるわざだ。

10)喪主挨拶でお話された福子さんのお話でわかったことは、どうやら竜俊は10月15日に最初の体調不良を訴えたようだ。それから通院し、入院し、そして帰らぬ人となった。二ヶ月あまりの闘病だったのだが、ふと、その10月15日とはなんだったのか、振り返ってみていた。

11)なんとその日は石川裕人の葬儀の日ではないか。

12)前日の通夜の席で、私は竜俊と秋亜綺羅氏夫妻と一緒に語りあっていた。そういえば葬儀の日に彼は会場にいただろうか。

13)いずれにせよ、彼はあの日を境に体調を大きく崩したのだ。

14)誰もが連想したことは、結局あのふたりは、あっちに行っても一緒にうまい酒を飲みたかったのだろうな、ということだった。それは本当かどうかはともかく、この世の事実として、二人は相次いで肝臓疾患であの世へ旅立ったということだ。

15)そもそも演劇とは酒がなければやれないのか。運転中の友人に、私は毒づいた。いやぁ~そんなことはないだろう、と友人はいう。ロックミュージッシャンたちがドラッグとの縁を絶ちがたいのに似て、演劇関係者は酒なしではやれないのか。そんなに飲んでどうするというのか。

16)複数の友人たちに毒づいてみたが、答えは、「演劇は酒なしでもやれる」という答えだった。むしろ、うまい酒が飲みたいから演劇をやっている、という答えさえあった。なるほど、逆か。そもそもの酒好きたちが、演劇愛好会を構成している、ということなのか。

17)なにはともあれ、帰り道、車中でまた昔話に花が咲いた。私が雀の森にケリをつけて、東光印刷に就職したこと。そこに現れた社長の甥である竜俊にいきなり役者として舞台に上げられたこと。そして、あのころの縦糸横糸の人間関係たち。

18)今回の弔辞でわかったことは、大学を卒業して教師となって3年目、彼は自らの学校の文化祭を休んで、ひめんし劇場を立ち上げていたことだった。休職願いを出した時、時の教頭は、「伊東先生、若いうちだから、やりたいことをやりなさい」と笑顔で受け取ってくれたという。粋なはからいだったなぁ。

19)竜俊とであったのは、35年前のことだからもうすでに風化し始めているが、竜俊は石川裕人との40年の交友を自慢していた。その話をききながら、石川とは結局50年のつきあいだったことを思いだし、私自身はどこか余裕しゃくしゃくで彼の話を聞いていたものだ。

20)逆に思う。私はこの数年、30年、40年、50年のつきあいの友人知人たちを次々と亡くしている。友人たちが消えていくことは、友人たちとの風景もつぎつぎと消えていくことである。この世にやってきて、私が私であったことは、身近な友人たちに作られてきたことが多かった。懐かしくもありがたく、もったいないとさえ思う。

21)伊東竜俊。学校の同窓先輩にして、勤務先社長の甥、そして我らが劇団ひめんし劇場の座長、劇作家にして総合文芸誌「カタルシス」編集長、伊東竜俊。ありがとう。心よりご冥福を祈ります。 合掌

追伸、そっちに行ったからと言って、あんまり油断して飲み過ぎるなよ。ニュートンにもそう伝えてくれ。

<4>につづく

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2012/12/26

TheaterGroup“OCT/PASS”Vol.32  『風来~風喰らい 人さらい~』 石川裕人・作・構成・演出

Huurai
『風来~風喰らい 人さらい~』 石川裕人作・演出 TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.32 2010/02 上演台本 精華演劇祭 2010 SPRING/SUMMER 参加 113p 石川裕人年表
Vol.3 No.0899★★★★☆

1)そもそも、演劇台本だけで芝居そのものを想像してみようというのは、かなり無理があるようだ。このフライアーと芝居台本をつなげてみると、少しはイメージが湧いてくる。よくよくみると「アングラサーカス」と銘打っている。そうなれば、ますます台本というだけではまったくの片手落ちだ。

2)演劇において、この「作・演出」というのは曲者だ。大体のストーリーがあり、大きな構成は書かれているが、実際の細かいディティールや背景、位置、照明、音楽などは、ほとんど、あるいはまったく台本には書かれていないからだ。すべては「演出家」の頭のなかにある。

3)そもそも「特権的肉体論」という奴は、唐十郎から始まる「あてがき」というシステムで成り立っている。つまり、役者ありきなのだ。具体的な、劇団員である、誰々という「個性」があり、そのキャラクターをどう活かすかを考えて、演劇台本は出来上がっていくのだ。

4)本を読みながらテレビの音声だけ聞いていると、なんだか違和感があるなぁ、と思うときがある。あらためて画面をみてみると、なるほど、この人の、この声質と、この発言なら納得、ということがよくある。肉体と言葉は、微妙にずれていて、なおかつフィットしている。両方があって、さらなる立体感が浮かび上がってくるのだ。

5)これが演劇なら、逆に、このキャラクターなら絶対このセリフはいわないだろう、というような逆の組み合わせもありうるだろう。そのあたりの面白さは、演劇そのものを見ないと感じることはできない。そして、その中に溶け込んでいかないと、更に分からない。

6)ましてや、時間と空間に、一回性で登場する「演劇」性に、あとから上演台本を読んでどうのこうの言うのは、なんだか、あまりにも気恥ずかしい行為である。だが、そうでもしないではいられないほど、後追いをしてみたい、ということもある。

7)今朝も風の強い朝だった。寒波到来である。日本海側は相当な雪になるそうだ。石川裕人100本目となった「ノーチラス」と、3・11後に書かれた102本目「人や銀河や修羅や海胆は」のあいだで、この「風来」は書かれ、上演されている。

8)地、水、火、風。四つあるうちの元素のうち、石川演劇は、どの元素が一番にあっているだろうか。地と火は割と簡単に削除することができる。では水と風、どちらが石川作品のテーマと通じ合うだろうか。

9)両方とも流れる、という意味では、水でも風でもよさそうだ。風の又三郎やこの風来から連想してみれば、石川を「風」の作家としてみることも可能かもしれない。しかし、私には、石川作品とは、水と風の巻き起こす葛藤から出来上がっていると、感じる。

10)「水」は高きところから低きところに流れ続ける。「風」は方向も定めず早さも量にも限りがない。似て非なるものが、この水と風だ。水面にて、突風に巻き込まれて、波立つ波紋。これが石川演劇の本質だったのではないか。

11)人物は「水」であっただろう。作品は「風」を目指した。しかし、風ほどには高く行かなかった。かと行って、大地のごとく動かざる重量感を持っていたとは言い難いし、燃えて燃えて燃え尽きたというほどの情念でもなかった。

12)源鉄 そんな走る意志のないチャリがそんなに大事か?

オマツ お前のようなチャリ製造オタクにはわかるまい。無意味なモノ、非実用的なモノへの偏愛が。上演台本p97

13)演劇という、「無意味なモノ、非実用的なモノへの偏愛」は、水と風との葛藤から来ているように思う。「地」という保守性、「火」という爆発力を、補完しようとする、全体性への希求の中で、結局、石川演劇が進もうとしていたのは「風」の要素が一番強かったのだろう。

14)「風来~風喰らい 人さらい~」。石川晩年にふさわしいテーマであったといえる。

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2012/12/25

相次ぐ訃報・竜俊・お前もか 『総合文芸誌 カタルシス』復刊1号 伊東竜俊編集発行<2>

<1>からつづく 

Kata
「総合文芸誌 カタルシス」復刊1号 <2>
伊東竜俊編集発行 2011/08 カタルシス社・第三次戦後派出版 雑誌 p132 

1)おーい、ほんとうかよ。伊東竜俊の訃報が飛び込んできた。未確認だ。もし間違ってたらごめんよ。26日通夜で、27日が本葬だという。式場は古川あたりのどこか。おいおい、お前ら、酒の飲みすぎだぞ。

2)断片的な情報によれば、演劇仲間が病院を尋ねると、もう病院に彼はいなかったという。入院していたことも知らなかったが、いったい、どういうことになっていたのだろう。

3)石川裕人の葬式の時には、酒臭かったぞ。「ニュートンが死んだのに、飲まないでいられるか」って言ってたけど、本当は、いつも飲んでいたという証言もある。大体において、斎場にくる途中で自転車で転んで、傷だらけだったという話さえある。

4)彼の叔父であり、私が一時お世話になった東光印刷の伊東暁社長も数年前に亡くなったと、彼の口から聞いた。なんとまぁ、人生は短いもんだな。

5)高校の先生を定年退職して、さてまた一旗あげよう、という時期でなかったのか。そのまず第一陣だったのが、「総合文芸誌カタルシス」の「復刊第1号」だったのではなかったのか。

6)石川裕人のブログによれば、たびたび二人は会食を重ねていた。そして石川は一度も支払ったことがないという。石川にとって竜俊はいいタニマチだったのだろうか。

7)1973年の秋に石川が劇団・座敷童子の旗揚げの時に、会場となった仙台ユネスコ会館の管理人をしていたのが伊東だった。それ以来の、長い長い40年の付き合いだった。こいつら、あっちに行っても、また一緒に飲む気にでいるに違いない。本当に仲のいいやつらだった。

8)結局、私としてはあんまり好みじゃないタイトルである「カタルシス」誌が残された。私は、伊東のシナリオで『嗚呼!!水平線幻想』白骨街道爆走篇で、1977年ひめんし劇場の役者として、ステージに立った。石川と伊東という友人たちがいなければ、この生において、私はまったく演劇とは無関係だっただろう。この人たちがいたからこそ、私も、片隅からでも、「演劇」性とやらのことをかいま見ることができた。

9)未確認である。まだ本当なのかどうかわからない。冥福を祈るには、まだ事前チェックが必要だ。

10)それにしても・・・・・

===========追記===========

故・伊東竜俊氏の葬儀日程が届いた。

通夜 12月26日 午後5:00
会場 縁起堂葬祭会館(宮城県遠田郡美里町牛飼字義見塚54)
尚、ご遺体は午後3:00から同会館に安置されているそうです。
TEL 0229-33-2454 

告別式 12月27日 午前11:3 0
会場 神寺 松景院(宮城県遠田郡美里町中埣字町80)
TEL 0229-34-1010 

心からご冥福をお祈りいたします。合掌

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忘れ去られたミッシングリンク 雑誌『時空間』12 <1>

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「時空間」12号 <1>
雀の森の住人たち 1975/11 ガリ版ミニコミ p104
Vol.3 No.0898★★★★☆

1)偉大なる盟友キコリがフェイスブックで「時空間」を取り上げてくれた。他の号は覚えていたし、手元に一冊づつ在庫はあるけれど、この12号のことはすっかり忘れていた。この写真を見て、あ、そういえば、こういう絵も書いたかも知れないと、ふと思い出した。

2)ミルキーウェイ・キャラバンのあった1975年に私は21歳になり、たくさんのことがあった。いろいろありすぎて書ききれない。

3)ひとつには、私たちの雀の森には自宅出産で子供達が生まれ始めた。対関係ができると、どこに共同体の中心があるのか再確認の必要がでてきた。そして生活費をまかなう経済はどうするのかも大きなテーマになったはずである。

4)この年、キャラバンのスタートする前に、雑誌「星の遊行群」の編集上のことでいろいろあった。このことはいつかまとめてキチンと整理しておく必要がある、と思いつつ、なかなか進まない。

5)最近になって、三省ナナオポンなどを再読するにつけ、あの1975年当時の私の葛藤はなんであったのか、と、振り返る。強烈な魅力と、強力な拒否感があったことはまちがいない。

6)こうしていわゆる部族の主要メンバーが亡くなっていってみると、三省のようにアニミズムに回帰することをよしとは思わなかったし、ナナオのように「フーテン」に徹する生き方に強烈な尊敬と魅力を感じつつも、自らのもとすることもなかった。あるいはポンのように確信的ジャンキーであることを素敵だとも思わない。そういうところに私の人生はあった。

7)彼らは私の父親たち、叔父貴たち、兄貴たち、ではあったが、自らの人生の模範とすることはできなかった。しかし、かと言って、自らの範とすべきものもほかに見つけられないでいた。

8)1972年に雀の森の仲間たちと80日間ヒッチハイク日本一周をした。その時、鳥取にあった、東京キッドブラザーズのさくらんぼユートピアに、小学校時代からの友人・元木たけしを訪ねた時、はじめてガリ版刷りの「名前のないしんぶん」をみた。仙台に帰ったあと、「週刊雀の森」を作り出したのは、あきらかに、あのあぱっちの「しんぶん」の影響だった。

9)その延長として作られた雑誌「時空間」は、集まってきた集合性に影響されつつ、結局は、行きどころのない難破船のようなものでしかなかった。その焦燥感は、1975年の雀の森や修羅舎での自宅出産に加速されて、私のこころには、ガラスの破片が刺さりまくっていた。

10)ミルキーウェイキャラバンは、沖縄から始まったが、私は九州の宮崎から遅れて参加した。北上しつつ、仙台まで戻ってきてみれば、もうすでに仲間たちはさらに北にむかいつつあった。ひとり、雀の森に戻って縁側で日向ぼっこをしていると、そばにOshoの「存在の詩」があった。

11)流れにまかせて流れなさい、というメッセージが痛く心に染みた。素晴らしい出来の雑誌だった。プラブッタのセンスには脱帽だ。誰に勧められたわけでもなく、教えられたわけじゃないのに、私は結局、この時、雑誌「時空間」の「廃刊」を決めたのだ。

12)廃刊を決めたあと、北海道まで行ったが、結局は札幌止まりだった。帰りは、あぱっちと一緒だった。函館で「帰郷庵」という喫茶店で、ジョージ秋山の「浮浪雲」の第一巻を読んだ。あまりに感動したので、もらってきてしまった。それを見とがめたあぱっちから、「君はいつもそういうことをするの?」と聞かれて、口ごもった。あ~、恥ずかしい。未だに返却してません。ごめんなさい。

13)そんなこんながあったあとの「時空間」12号である。たぶん、星の遊行群やミルキーウェイキャラバンの総括めいたことが特集されているはずなのだが、もう私のこころは「時空間」にはなかった。だから、この雑誌は、私の意識のどこかでは「見たくない」と思っているに違いない。

14)それにしても、この表紙はなかなか興味深い。あの時、自分はサニヤシンになるともわかっていないし、サイニヤシンがオレンジを着ているともわかっていなかったが、その時点で、現在のマルーンカラーを多用したデザインをしている。

15)浅利式色彩心理診断では、「紫」は「病気」だが、まぁ、そんなことはどうでもよくて、とにかくこの色を使いたかったのだろう。

16)私は、雀の森でもなく、部族でもなく、星の遊行群でさえもない、なにかをもとめはじめていた。それはアメリカのネイティブ・アメリカンだったかもしれないし、日本山妙法寺だったかもしれないし、Oshoだったかもしれない。いずれにしてもなんの確証もなかった。しかし、「終わった」という感覚はあった。

17)このあたりの経緯については、1992年にまとめた「湧き出ずるロータス・スートラ」と併読して見るとき、最初はぼんやりとだが、だんだんとドット数が上がるような、鮮明度が増してくる感覚になる。

18)私は、自分の蔵書としてこの「時空間」12号を持っているだろうか。もうすこし書庫をさがしてみよう。そして、どうしても出てこなかったら、誰か二冊持っているひと、一冊を私にくれないだろうか。

<2>につづく

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2012/12/24

「『超保険』進化論」 <2>

<1>からつづく

「『超保険』進化論」 <2>
「超保険」研究会 中崎章夫 2012/12 績文堂出版 単行本 246p
★★★★☆

1)この10年間、この商品と付き合ってきて、いろいろ思ってきたことが、この本を読んでいると、よくよく思い当たることがある。それだけ、この研究会やら中嶋というホケンジャーナリストなりが、この商品に深く付き合ってきた、ということになるだろう。

2)ウォルター・アイザクソンの「唯一の公式伝記」が本人の希望で作られながら、結構スティーブ・ジョブズの「食えない部分」も真正面から捉えているように、この本もまた、超ホケンの「食えない部分」を決して見逃してはいない。単なる提灯記事でまとめているわけではない。

3)ずっと前、パソコンが本格的にわが業界に導入されることになった時、私は、左手に様々な商品のパンフレット類を置き、右手に長年作ってきた顧客カードを置いて、その間をつなぐものとしてパソコンを目の前においてみた。

4)それから本格的にパソコンがその仕事をするようになったのは、ずっとあとのことだった。でも遅々とした歩みながら、実際にそうなってきた。10年前に超ホケンがスタートする時、パソコンの発達とコンサルティング能力が、この「システム」を成立させた、と言われた。実際、そうだっただろう。

5)そして、今回、「抜本」超ホケンが本格始動するにあたって、パソコンは、クラウド環境に支えられたタブレットへと進化し、いわゆるコンサルティング能力は、コンシェルジュ能力へとより深いレベルを求められていると感じる。

6)この商品と売り手として本格的につきあってきたのは、この10年の間、ほんの数千人から数万人でしかない。エンドユーザーも決して多くない。せいぜい数百万程度の家庭だ。そのプロセスでの「苦労」を広く一般に共有することはなかなかできない。私自身もその思いを共有することはなかなかできなかったが、この本を読んでみると、それらは決して個人的な思いだけではなかったことがよくわかる。

7)そもそも業界の再編により、T社とN社が合併することを契機に、いずれ世界遺産にさえ成長するという宣言のもとに、一企業の「プロジェクトX」としてスタートしたこのシステムは、決して楽な道筋ではなかった。実に波乱にみちたものだった。欠点もあったし、結局は乗り越えられない問題点も数々あった。

8)抜本超になるにあたって、基本的には、最初のスタート地点からの発想の多くのことが捨てられてしまったと思う。それまでのホケンにできなかったことをすべて克服しようという思いでスタートしたはずなのに、結局は、ひとつ、ふたつ、と捨てられ、よりシンプルになってしまえば、もともとの保険とどれだけ違っているのか、という大きな疑問が湧いてくる。

9)そもそも生損一体といいつつ、ほんとうにワンポリシーで受けることなどできていない。ある意味、まやかしである。一緒に計算はしているが、二つの商品を一緒に売り込んでいるだけではないか。

10)会社はこの商品に賭けているといいつつ、実際にはこの商品に全精力を捧げている社員は一部にとどまっていた。販売資格を持っていても、「なんちゃって超」の揶揄した声が聞こえてくるように、本当にこのシステムに賭けている代理店も決して多くなかった。

11)といいつつ、この本で紹介されている有数の代理店をはじめとして、このシステムとともに、新しい地平を開いてきた人々は確かにいる。単なる販売システムではない。実際に「はまってみる」と、そのシステムはとても興味が引かれるものであり、奥深い。

12)私なんぞは、この業界に片足突っ込んで以来、斜に構えた姿勢が未だに取れず、偉大なるフロンティア達に苦言を呈するほどの、なにごともできていない。だから、大口を叩くことはやめておく。ただ、この商品はひとりでは進化できない。タブレット端末があったとしても、それを支えるネット環境やアプリ開発が必須であるように、扱い会社の開発力やフォロー力、そして、顧客層の厚い支持がなければならない。

13)あれから10年、そして「『超保険』解体新書」から8年。たしかにこのシステムは「進化」してきた。希望と可能性を秘めながら、現実の荒波に洗われつつ、また、周囲の環境にも支えられつつ、ここにまだ存在している。

14)私がこの業界に足を踏み入れることになったのも偶然だが、この商品に出会ったのも偶然だった。取っ組み具合はまぁまぁだったが、あまり褒められたものではない。忸怩たる思いも数々してきた。ただ、私がこの商品に出会わなかったら、この業界をもっと甘くみることになったのではないだろうか。この商品を通して、ひとりひとりの人間や家庭と出会い、その人生や歴史を考えてみるのは、とても意義深いものがある。

15)この本、まだ読みかけだが、一気に読んだからと言って何かが一時に得られる本ではない。折に触れて、この数年はこの本に立ち返ってくることが多くなるだろう。なにはともあれ、このような本がでることは、心底とてもうれしい。

つづく・・・・はず

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2012/12/23

ウォルター・アイザクソン『スティーブ・ジョブズⅡ』 <2>

<1>よりつづく


「スティーブ・ジョブズⅡ」 The Exclusive Biography <2>
ウォルター・アイザクソン 井口耕二 2011/10 講談社 単行本 430p

1)ようやくこの「唯一の公式伝記」を読み終わって、フーっと考える。結局ジョブズが残したものは何だったのか。1984年のマッキントッシュに始まって、その「最終形態」としてのタブレットPC。そして、スティーブ・ジョブズという人間の生きた軌跡。その二つが大きく残されている。

2)タブレットPCに関しては、私個人は未だに懐疑的で、好きではない。いずれは誰かがやったことではあるだろうが、ジョブズみたいに、強引にゴリ押しして完成することはなかったのではないだろうか。もっと緩やかな「進化」の中で、もっと周りが関与できる形で進化したのではないか。

3)そういった意味では、私個人は、精神的にはハッカーだが、リナックスを使いこなせるほどの力量はないので、必要に迫られてウィンドウズを使ってきたし、親和性としてはグーグルのアンドロイドのほうが好きになれる。

4)しかし、悠々と一人「森の生活」を営んでいるのではない限り、「マーケットプレイス」で「地球人」として生きる限り、タブレットPCは、目の前の必要品となりつつある。かつてウィンドウズ98あたりがオフィス・オートメーションとして闊歩し、中高年の労働者たちがPCを使えないために(使おうとしなかったために)、次々と職場を追われていった時代に似ている。

5)私自信はタブレットPCを使いこなせないとは思えない。その機能がつまらないとも思わない。ただ、消費と生産で考えれば、私の業務にタブレットPCはベストフィットだとは考えられないと、ずっと思ってきた。だが、わが業界は、最近、このタブレットPC導入に大きく舵を切った。

6)私がマック派にならなかったのは最初からマックが嫌いだったからではない。わが業界がマックを許容しなかったのだ。そもそも、わが業界は、圧倒的な事務量を抱えながら、OA化が遅れた。ネットPCが当たり前になった時代でも、スタンドアロンの専用機を使わせようとした。そんな遅々たる歩みに、いつもイラつきながら、時代遅れのウィンドウズを使ってきた。使わざるを得なかったのだ。

7)今だって、本当は、10何年前のウィンドウズXP機で十分だし、実際にわが業界ではXPで十分満足している職業人達は多い。私自身、そこに埋没していくことも可能であり、ウロウロしていれば、多分、ここで私の職業人生は終わりである。

8)今わが業界がタブレットPCを導入し始めているのは、その業務における「生産」の意味が違ってきているからである。ビル・ゲイツが、かつての「業務」を「PC」に置き換えることに成功して世界一の富豪になったとすれば、ジョブズのタブレットは、現状の「業務」を、別の何かに「変えよう」としている。よくいえばそういうことになる。

9)それが本当かどうか、これから何年か経過してみなければ分からないだろう。でもそんな遠くない。多分数年の間にその結論はでるだろう。ガジェットとしてタブレット端末があったとしても、ネット環境やアプリなどの応援体制が整っていかなければ、意味がない。それが、どうやら爆発前夜にまで到達しているのではないか、とヒシヒシと感じられる。

10)わが業界は、年明けにもタブレットPCに全面的にコミットすることになる。それはアップル=マック派への開放という事実をも意味している。ある意味、ようやくここまできたのである。ただ、タブレットPCが必需品になったとしても、それで「業務」は完結するわけではない。どうしてもキーボード付きのノート(デスクトップ)PCが、メインとしては残らざるを得ない。

11)となれば、ウィンドウズ8のタブレット・モードを使って、オール・イン・ワン的に使うほうがよいのではないか。スライダーや回転式でディスプレイをあたかもタブレット状で使えば、実質的にジョブズのiPadは不要となる。

12)もちろん、こんなことを言ったら、ジョブズは逆上するだろう。その軽やかさ、その一体感、その美しさ、iPadにかなうわけがないではないか。きっとそういう。他のすべてはすべてクソッタレだ。まぁ、今は、そう口汚く罵るジョブズがいた、ということを記憶にとどめておけばいいだろう。

13)もう一つ、ジョブズは、「スティーブ・ジョブズ」という作品を残した。「アップル」という企業もジョブズの「作品」ではあろうが、同時代人として、60年代的カウンターカルチャーを経て、70年代にインドに渡り、80年代の浮き沈み、90年代の復活劇、21世紀になってのイノベーションの連続は、ジョブズの人生を、ひとつの作品として見せてくれる。

14)当ブログの三つの分類、科学、芸術、意識、の中では、彼は「科学」に振り分けられる存在ではあろうが、彼の人生は「芸術」家的な一生だった。そして「意識」への目も、同時代としても、大きく記録されるような可能性も秘めていた。

15)同時代人のひとりとして、わが友人・石川裕人(ニュートン)の人生は「芸術」家としての一生だったと言える。SF的な感覚であろうとも「科学」への目も持っていたし、「意識」への目もなくはなかった。しかし、パソコンやタブレットでは絶対に体験できない「特権的肉体」を持って、総合芸術としての演劇へ献身した。

16)わがマスターOshoは「意識」についてのエキスパートであったが、「科学」へのインターフェイスを備え、常にその表現を「芸術」的にプレゼンするのが常であった。

17)ジョブズ、ニュートン、Osho、この三つの存在を考えた、この一年であった。そして、その統合こそが、当ブログの中心テーマとなるだろう。

18)先日、大型家電店に行って、いろいろ逡巡した挙句、結局、iPadしかない、と結論がでたところへ、仕事の緊急連絡が入った。お買い上げが、一時棚上げになってしまったのだ。これもまた、何かの兆候であるのだろう。いよいよ必要になるのは年開けてからだ。それまで、もう少し、いよいよ悩んでみよう。

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2012/12/22

「『超保険』進化論」 <1>


「『超保険』進化論」 <1>
「超保険」研究会 中崎章夫 2012/12 績文堂出版 単行本 246p
Vol.3 No.0897★★★★☆

1)さてこの一冊とともに「Meditation in the Marketplace」カテゴリの<4>が始まる。 カテゴリと言っても、書き込み記事を108個づつまとめるために経過的つけているタイトルなのであり、どうも最近は、目新しい方向性へ移っていこうとしていないだけで、ここらあたりが一番楽、というべきか。

2)そもそも、「『超保険』解体新書」( 「超保険」研究会 2004/03 績文堂出版)は「Marketplace関連リスト」のなかの「思い入れの三冊」のなかの一冊だった。本当は、こういうテーマを展開しようというカテゴリとしてスタートしたのであった。だが、なかなかそういうふうにはならない。理由はいろいろある。

3)今回の「『超保険』進化論」 は「『超保険』解体新書」(2004/03)の後継である。この9年間で、この超ホケンはどう進化したのだろう。実はまだこの本を手にとっていない。アナウンスはちょっと前にあったが、実際に購入可能になったのは本の数日前だ。

4)この本、ネットでダウンロードもできる。タブレットPCなどで、読むことができるのだ。今日的にそういうスタイルもいいのかな、と躊躇したが、やっぱり一冊の本として手にとって読んだほうがいいと思って注文したばかり。

5)思えば、当ブログは、「ウェブ進化論」(2006/02)に啓発されてスタートしたのだった。あれから早7年。当時のネット状況からかなり進化してきてしまったと言える。

6)当ブログでほかに3回続いているのは「ブッタ達の心理学」。こちらも、当ブログとしては常に念頭に入っているテーマ。だけど、自分の生活がカウンセリングやセラピーで構成されているのでないかぎり、どうも実生活とブログの乖離が始まってしまう。

7)「Meditation in the Marketplace」のなかのMeditationの中身は「ブッタ達の心理学」と言える。では、Marketplaceの中身といえば、カテゴリ名としては「地球人として生きる」がぴったりくる。

8)だから、「森の生活」とか、「チェロキー」とかは、カテゴリ名としては心沸き立つが、生活そのものとのつながりが切れてしまうことが多い。

9)プロジェクト567から、マヤ暦における2012年12月20日までが経過して、3・11やら、友人たちの死に立ち会った。そして、いま、ひとつのスタートが準備されている。

10)なにはともあれ、この本とともに新しいカテゴリを始めよう。

<2>につづく

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2012/12/21

2012年下半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2012年上半期よりつづく

2012年下半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10 

(それぞれの本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの本の感想に飛びます)

第1位 

「日本のエネルギー、これからどうすればいいの?」 中学生の質問箱
小出裕章 2012/05 平凡社
 

第2位

「福島原発事故」原発を今後どうすべきか
小出裕章 2012/04 河合ブックレット 河合文化教育研究所 河合出版
 

第3位

「原発に反対しながら研究をつづける小出裕章さんのおはなし」子どもから大人まで、原発と放射能を考える」副読本
小出裕章/野村保子 2012/04 クレヨンハウス

第4位

「世界が日本のことを考えている」 
3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ
共同通信社 2012/03 太郎次郎社
 

第5位
Houjou_omote_web
「方丈の海」
石川裕人作・演出 TheatreGroup“OCT/PASS” Vol.34 2012/08~09上演 せんだい演劇工房10-BOX box1 石川裕人年表

第6位

「3・11を読む」 千夜千冊番外録
松岡正剛 2012/07 平凡社
 

第7位
Tera
「愛する地球(テラ)に」
 女神は夜明けに舞い降りる 
羽倉玖美子著 2012/11 本の森  
 

第8位

「寅さんとイエス」 
米田彰男 2012/07 筑摩書房  
 

第9位

「インサイド・アップル」
アダム・ラシンスキー 依田卓巳 2012/03 早川書房

第10位

「スティーブ・ジョブズ」 ポプラ社ノンフィクション
パム・ポラック/メグ・ベルヴィソ 2012/01 ポプラ社

次点

「未来への舟」 --草木虫魚の祈り--
おおえまさのり 2012/09 いちえんそう

2013年上半期へつづく

 

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地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<44>「Meditation in the Marketplace3」カテゴリについて

<43>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<44>Meditation in the Marketplace3」カテゴリについて

1)すでにこのカテゴリ名は定番化している。当面はこれで行こう。

2)書かれたのは2012/10/27~2012/12/21まで。

3)このカテゴリこの三冊は次のとおり。

「演出家の仕事①」  六〇年代・アングラ・演劇革命
日本演出者協会/西堂行人(編)  2006/02 れんが書房新社 単行本 p269 

「演出家の仕事②」 戦後新劇 
日本演出家協会 2007/05 れんが書房新社 単行本 390p  

「演出家の仕事③」八〇年代・小劇場演劇の展開
日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社 単行本  305p

4)ほとんどを石川裕人おっかけに費やした。だいぶ彼のことがわかったが、完了したわけではない。まだまだつづきそうだ。

<45>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「Meditation in the Marketplace3」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「Meditation in the Marketplace3」編 


「演出家の仕事①」  六〇年代・アングラ・演劇革命
日本演出者協会/西堂行人(編)  2006/02 れんが書房新社 単行本 p269

Sen
「演出家の仕事②」 戦後新劇 
日本演出家協会 2007/05 れんが書房新社 単行本 390p


「演出家の仕事③」八〇年代・小劇場演劇の展開
日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社 単行本  305p

次につづく

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ウォルター・アイザクソン『スティーブ・ジョブズⅡ』 <1>

<Ⅰ>からつづく


「スティーブ・ジョブズⅡ」 The Exclusive Biography <1>
ウォルター・アイザクソン 井口耕二 2011/10 講談社 単行本 430p
Vol.3 No.0896★★★★☆

1)いいたいことはいろいろある。だけど、今夜は暴発ぎみでうまくまとまらない。あとで編集するつもりで、ランダムにメモしておく。

2)ジョブズがパソコンを生み出したとしたら、その最終形はiPadだった、ということはできるのか。

3)だけど、私はどうもアップル派ではない。

4)キーボードは必要だ。工業デザインにそれほど没入はできない。適当にカッコよければそれでいいんじゃないか。

5)ジョブズの仕事は、ジョブズひとりでやったわけではないし、いずれは誰かがやったことではないか。

6)ということは、ジョブズは最終形ではないと感じる。つまり、ジョブズが頑張ったから、そのような軌跡が残ったけれど、それは唯一の必然性ではなかった。

7)そのような時代を、彼は彼として生きた。そこに共感する人々がいれば、それはそれで幸運なことだと思う。

8)だが、彼の理想形は、必ずしも私の理想形ではない。むしろ、いろいろやかましい。

9)彼の人生は他の書籍ですでに語られていることがほとんどだが、やはりこの上下巻二冊を読まないことには、彼の伝記を読んだよ、ということにはならないのだろう。

10)ジョブズは56歳と7ヶ月生きた。石川裕人は59歳と1ヶ月生きた。みんな私の世代だ。そういえば、Oshoも58歳と1ヶ月生きた。みんな早いなぁ。

<2>につづく

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2012/12/19

このようなターゲットの絞り方もあるのか 『演出家の仕事②』 戦後新劇 

Sen
「演出家の仕事②」 戦後新劇 
日本演出家協会 2007/05 れんが書房新社 単行本 390p
Vol.3 No.0895★★★★☆

1)「演出家の仕事①」 六〇年代・アングラ・演劇革命、「演出家の仕事③」八〇年代・小劇場演劇の展開、この二つに挟まれた②だから、七○年代の演劇をまとめるのかと思ったら、そうではない。テーマは戦後新劇である。

2)そもそも新劇とは何か。日本における能や歌舞伎の伝統演劇に対する、西洋ドラマツルギーの影響下で活動してきた新しい演劇のうねりのことである。時にはコミュニズムに影響を受け、時にはそのプロパガンダにさえ利用され、同義とさえ見られる場合さえあった。

3)当然、第二次世界大戦前からそのような活動はあったわけだが、本書においては、敢えて「戦後新劇」というタイトルを使っている。しかし、ほかの「アングラ」とか「80年代」とかのタイトルと同じように、そこにターゲットを絞り込めているわけではなく、そこにフォーカスしつつ、漠然と周囲をにらみこんでいる、という感じの一冊である。

4)もし、わが畏友・故・石川裕人が演劇人ではなく、また石川が自分のブログで「演出家の仕事③」八〇年代・小劇場演劇の展開を紹介していなかったら、当ブログがこの本を読むことはまったくなかっただろう。

5)また、当ブログが純粋に「新劇」に関心を持つこともかなったに違いない。ましてや「戦後」新劇というようなターゲットの絞り込みすることさえ発想できなかった。あえていうなら、石川裕人が、「演劇」にこだわり、「アングラ」にこだわり、その人生を疾走した意味を問うとするなら、「新劇」というものも理解しておかなければならない、という消極的理由によって、この本を読んだのだった。

6)ましてや、文化庁の人材育成事業助成を受けて編集されたシリーズとは言え、①、②、③、という三部作になっていれば、やはり、この一冊に目を通しておかないわけにはいかなかった。

7)当ブログにおいては、若干、苦痛を感じるような読書であった。演劇関連を読んでいると、ネイティブ・アメリカンの一連の著書を読んでいる時のような戸惑いを感じる。例えば、チベット関連を読むとするならば、いずれはチベット密教に集約されていき、マハムドラーゾクチェンあたりに終着すれば、それで一連の読書は完結する。

8)ところが、ネイティブ・アメリカンのスピリチュアリティを、何事かの集約点に終着させようと思っても、延々と終わりがなく、せいぜいティピー・テントやらスエット・ロッジあたりに象徴を見つける以外に、キリがなくなる。

9)演劇関連を読んでいてもこのような倦怠感を感じる。どこまで行けばいいのか、という終着点がみつからない。アングラにおいては寺山修司や唐十郎あたりを象徴的に扱っておけばいいように、どうやら「新劇」においては、スタニスラフスキー・システムとやらに定点を見つけることができれば、一定の収まりはよくなるようではあるが、どうもそれだけでは、全体を理解できない。

10)貝山(武久) もうひとつ、観点を変えるとね、スタニスラフスキー・システムというのがなぜ生まれてきたかという、その演劇史的な見方があると思うんですよ。

 僕はやっぱりね、ギリシャ劇から始まって、中世の宗教劇やエリザベス朝演劇をとおり、それから近世・近代の演劇につながっていく流れのなかで、必要なメソッドとして生まれてきたのがスタ・システムだというのに共感するんですよね。p171「戦後新劇とは何だったか?」

11)とにかく、当ブログにおいては、いきなり戦後新劇などというターゲットの絞り方は無理で、まず、そもそも「演劇」あるいは「劇」とは何か、というところあたりから学び直さないと、なにがなにやら、よく分からないことになる。

12)ふじた(あさや) 日本の場合は、要するに歌舞伎三百年の歴史があって、そこから枝分かれしていって、演劇そのものが興行形態を含めて歌舞伎の様式性をひきずってきたわけじゃないですか。p171「戦後新劇とは何だったか?」

13)場合によっては、このような日本の伝統芸術の歴史を学びなおさなければならない。

14)戌井(市郎) 歌舞伎の旧派に対して新派。歌舞伎じゃなくてその時代の現代劇をやろうというのが新派。新派の出し物は世相劇から文芸作品「不如帰」とか「金色夜叉」。さるいはお涙頂戴の新派悲劇。

 新派から今度は更に、われわれの先輩たちがヨーロッパかrなお近代演劇を取り入れて、そこで新演劇が生まれる。だから、旧派から新派、新派から新しく新劇といいいうことでしょうね。p231「戦後新劇を語る」

15)ここまで来ると、具体的にそれらの一つ一つを知らない外部の人間にとっては、内部の分かる人にしか分からない、撞着的な言い回しということになるのではないか。

16)ふじた(あさや) 旧劇に対して新しいもの、新しいものと作って、「新」が一つじゃ足りなくて、二つくっつけて「新生新派」になったりね。いろいろしながら新劇っていうのができて、これが一つの流れとなってきて、ここからアングラが分かれてる。更にそれが小劇場にどういう形で引き継がれたか分かりませんけど、とにかく新劇をとりあえず否定する形で外へ出て、そこから見たときに新劇っていう言葉が別の意味を持ったと思うんですよね。p234「戦後新劇を語る」

17)こういう語り方は、まったくドメスティックでガラパゴス的である。こういう説明が、地球大で翻訳されたりしたら、外国の人にはまったく意味がわからないだろう。なんでもかんでも「新」をつけてしまえば、合理性があり、正当性がある、という錯覚は、いい加減にしたほうがいい。

18)通念として、劇団四季は左翼の新劇への反逆といわれる。浅利慶太が左翼の政治運動やうたごえ運動に一時没入したのち、離反して四季を結成したとされ、「演劇の回復のために」にも左翼批判的文言が見られるところから、こうした評価が生まれるのには理由があるけれども、左に対する右の反旗とする評価は、四季の歴史的意義を知らず知らずに賤めるものとなる。p324菅孝行「近代日本演劇史への初期劇団四季の貢献」

19)なにはともあれ、当ブログは、石川裕人を通して「演劇」を語るのであり、彼が高校演劇の段階で「新劇」を拒否したのであれば、同時代的に、当ブログも「新劇」は「拒否」することになる。なにはともあれ、石川本人でさえ読んだかどうかわからない本シリーズのこの「戦後新劇」については、そのような背景があったのだ、という程度に感知できればそれでいいだろう。

20)当ブログにおいては、むしろ、もっと大きく風呂敷を広げて、例えばグルジェフのワークも、演劇グループという形で展開したのであり、小さな「戦後新劇」などにこだわるより、もっと「演劇」の本質のグローバルな広がりのほうに目を向けるべきではないか、とさえ思った。

21)このシリーズは、なかなか貴重である。当ブログがもし、もっと「演劇」性について、長期にわたって追っかけてみたいと思うなら、いずれ再読してみる価値はあるだろう。 

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2012/12/16

再読したいこのカテゴリこの3冊「Meditation in the Marketplace2」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「Meditation in the Marketplace2」編

Isi
「石川裕人劇作日記 時々好調」 日記ブログ 2005/9/1~2012/09/23

20100131_885617
「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 劇作ブログ2010/02/03 ~2010.06.21

Coco
「ココロ♡プレス」宮城県復興支援ブログ 2011/11~2012/10 宮城県震災復興・企画部 震災復興推進課 new-T編

次へつづく

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地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<43>「Meditation in the Marketplace2」編

42>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<43>Meditation in the Marketplace2」カテゴリについて

1)当ブログのタイトルが「地球人スピリット・ジャーナル」に自然と固まっていたことに似て、当ブログのカテゴリは自然に「Meditation in the Marketplace」というところに固まってきてしまった。<1>が<2>に続き、このまま<3><4>と続きそうだ。このままずっとフェードアウトしていっても構わないのではないか、とさえ思う。

2)書かれたのは2012/07/16から2012/10/26までの約100日。フェードアウトしつつあるところへ、10月11日、子供時代からの親友である劇作家・石川裕人が急逝したため、一気に当ブログの予定がブッ飛んでしまった。

3)再読したい三冊は、

「石川裕人劇作日記 時々好調」

「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」

「ココロ♡プレス」宮城県復興支援ブログ 2011/11~2012/10 宮城県震災復興・企画部 震災復興推進課 new-T編

4)実は、上記三つはネット上のサイトであり、本ではない。ただ、ここは、我が畏友・故・石川裕人の冥福を祈り、この三つのサイトを再読することで追悼としたい。

5)当ブログは、1024冊=Volを3回繰り返して、まもなく3000冊を迎える。タイトルも固まってしまった。カテゴリのテーマも固まってしまった。このあたりで、自然に固定してフェードアウトしていくのか、大きく転換する地点を求めるのか。

6)なにはともあれ、あと数カ月のビジョンは見えてきた。

<44>につづく

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『世界が日本のことを考えている』 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ<3> 共同通信社

2>よりつづく 


「世界が日本のことを考えている」 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ <3>
共同通信社 2012/03 太郎次郎社 単行本 271p

1)もういちどこの本を読みたくなった。今度は最初から最後まで一通り読み通した。三度目となれば、全体を通して、とてもわかりやすく、親密な本であることがますますわかってきた。

2)「大災害を生き延びたわれわれもこの世を去らねばならないときが来ます。だからこそ、なくしたもののことばかり考えず、現在に意識を置き人生を築いていかねばならないのです」。いまだ深い傷を抱えるミャンマー南西部デルタ地帯の被災地で、人々を支え続ける3人の僧侶、ウ・プニャ・サラ、アシン・パラ・サミ、ウパニャ・シリが東日本大震災の被災地を思い、語った。p10「人は自分地震を救わねばなりません」

3)この本は、この3人へのインタビューから始まる。

4)2008年5月2日夜から3日にかけ、ミャンマーの最大都市ヤンゴンや南西部エヤワディ管区のイラワジ川大デルタ地帯などを大型サイクロンが直撃した。住民によると、暴風雨により海水が川を伝い、津波のように町や村を襲った。死者・行方不明者は約14万人、被災者は約240万人、被災遺児は数千人から数万人いると見られる。国連食糧農業機関(FAO)は、マングローブ伐採と乱開発が、被害を拡大したとの報告を発表した。p11同上

5)私はたった数年前に起きたこの天災(人災)にどれだけ注意を払っていたことだろう。いや、遠く離れてしまえば、国内の阪神淡路大震災でさえ、リアリティを持って感じることはなかったかもしれない。3・11、今回は身近な、ごくごく近い足元に起きたことだったから、避けるに避けられないこととなってしまった。

6)「あのサイクロンから3年たった今も人々は、喪失の痛みから抜け出せていません。われわれは心と身体を制御できるよう瞑想の方法を教えています。苦しみは過去と未来にばかり思いを置くことから生まれるのです。

 瞑想では、苦しみに意識を集中させるのではなく、生命活動の基本である自分の呼吸に意識を集中させます。心をさまよさせず、現在の自分に集中することを習得するのです。

 これにより、苦しみを完全に忘れることはできませんが、軽減できるようになります。苦痛もまた、永遠ではありません。これが自分を変えるもっともよい方法なのです。

 人は自分自身を救わねばなりません。自分を救うのは自分以外にはないのです。神でもほかの人でもなく、自分自身なのです」(ウ・プニャ・サラ) p17 同上

7)13人に及んでいるインタビューのトップバッターであるこの人々によって、すでに、私が一読者としてこの本から受信すべきことは語り尽くされているのではないだろうか。

8)宗教は言葉だけではなく、行動が伴ってこそ意味を持つのです。善は言葉だけではなく行動を伴って達せられると仏陀はいっています。わたしは僧侶という仕事で奉仕することで、自分自身を救い、心の平安を得ているのです」(ウ・パニャ・シリ) p16同上

9)私は瞑想することによって、自らを救い、カウンセラーという役割で、あるいは日々の仕事で、行動のともなった意味ある活動をし得ているだろうか。

10)「僧侶の仕事は、精神的な痛みを軽減する手助けをすることです。人は、過去の苦しみをすべて忘れてしまうことはできません。現実を受け入れて現在を生き、道徳を守って生きていくことは人生を歩んでいくうえでとても大切なことです。これができれば結果的に亡くなった子供たちを救うことになると、ある母親に話したことがあります」(アシン・パラ・サミ) p17同上

11)ここまでくると定型的な仏教的応答と感じてしまうことになるが、それでも、ミャンマーの被災地という現場にあって、行動をともなう活動をしている僧侶たちの言葉には、計り知れない説得力がある。

12)「・・・40年前の米国やドイツがそうだったように、どの国も減速期を迎えるものです。日本もかつては朝鮮半島、中国の半分、東南アジアを占領し、真珠湾を爆破して米国を攻撃する恐るべき国でした。結局は敗戦に終わりましたが、世界中を驚かせました。

 英国、フランスもかつては世界のまさに頂点にいましたが、今はそうではありません。それでも彼らは依然創造的で賢い人々です。トップでなくなってもよい国をつくっていけるのです」 p212「『希望』のナショナリズム」ベネディクト・アンダーソン

13)人が内面に入るとすれば「瞑想」だろうが、外側で人に対峙するのは「国」なのか、「自然=地球環境」なのか。

14)「・・・・第2次世界大戦のあと、日本は経済再建に成功し、日本人は再び自信を持つようになりました。日本はすべての原子力発電所をチェックし、より安全にするための措置をとるべきだ、とアドバイスします。

 2004年に起きたスマトラ沖地震ではインドにも津波が押し寄せました。だから、インドは地震と津波に耐える原発を設計するようになりました。国家の境遇に見合う技術の開発は、どの国も行っているのです」p191 「科学者は難問に立ち向かえ」アブドル・カラム

15)アブドル・カラムは「インドの核ミサイルの父」と呼ばれる科学者で、2002年から07年までインドの第11代大統領を務めた。1931年生まれだから、Oshoと同じ年にインドで生まれた。電灯もない南部の貧しいイスラム家庭に生まれ、毎朝4時に起きて新聞配達をしながら学校に通った、という。

16)個人的には立志伝中の人であり、素晴らしいライフ・ストーリーを持っていることだろう。しかし、こと核問題については、この本の13人の中では、最右翼である。私個人は、アントニオ・ネグリの「マルチチュード」に惹かれてこの本を手にとったわけだから、まったく対極にある意見であるので、簡単に彼の言説を認めるわけにはいかない。

17)ある調査によれば、あと数十年すると、世界経済ではGNPの順位は、中国、インド、アメリカ、日本、という順番になるという。中国もインドも、「経済」隆興に向かって疾走しているのだ。もし、インドがアメリカや日本を抜いて経済隆興するなら、このアブドル・カラムという人物の仕事は、大いに貢献していることになる。

18)しかし、地球人全体として見た場合、「核」に対する共通認識は、これではまずい。そんな段階はとっくに通り過ぎてしまったのだ。このオムニバス本の中で、この人物のような意見が無視され抹殺されることは好まないが、主流になられては困る。

19)どれだけの日本の言論人、日本の人が、自分の行き方と、現在の世界のあり方とを直接に結ぶ、そのようなあり方を自分の流儀として生きているだろうか。

 わたしが言うのは、もし1メートルの物差しがあるとしたら、どれだけの人が日本で、一方の端のゼロぎりぎりのところと、他方の1メートルギリギリのところの二つを含んで、両手を広げ、自然体で、両端を手に、考えているだろうか、ということである。

 中間の20センチから他方の80センチくらいのところ、日本の社会や政治や経済、文化にあたるあたりを詳しく、深く、考えている人が大半なのではないだろうか。

 日本の言論は、自分に見えない世界の人々への共感と、また社会から見えない自分のない奥のささやかでちっぽけな感情への顧慮の部分で、欠けている。萎れている。

 みんなが似たところにスポットを向け、一方、両端が、暗い。そういうことを、この本に収められた特にアジアとラテンアメリカ、アフリカの政治家、運動家、僧侶、芸術家たちのインタビューから、わたしは、感じる。p267加藤典洋「世界から、そして世界へ」

20)今日は国政選挙である。自らの意見を託するには、どの候補者でも、どの政党でも、納得がいかない。しかし、この選択肢の中から、なにごとかの表現をしなければならない。絶望するには早すぎるだろうが、希望を持ち続けるには、もう時間が少ない。

21)当ブログが、1メートル全体に対して興味を持ち続けることは困難だとしても、加藤いうところの両端20センチのところに対して、「欠けている」とか「萎れている」などと評価されることは好まない。

22)この本はなかなかバランスがいい。そのうち、また手にとってみたくなるだろう。

<4>につづく

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2012/12/15

再読したいこのカテゴリこの3冊「Meditation in the Marketplace1」編

前からつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「Meditation in the Marketplace1」編


「癒しの音を求めて」 宮下富実夫 1999/06 春秋社


「ジョブズ伝説」 アートとコンピュータを融合した男 高木利弘 2011/12 三五館


「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」 <全球時代>の構想力 池田純一 2011/03 講談社

次へつづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」編

前からつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「プレムバヴェシュの孫たちとの対話

Photo
「ベルゼバブの孫への話」 人間の生に対する客観的かつ公平無視なる批判 G・Iグルジェフ

Pon0
「トワイライト・フリークス」 黄昏の対抗文化人たち 山田塊也

Gary_snyder
「The Back Country」 奥の国 Gary Snyder

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再読したいこのカテゴリこの3冊「地球人スピリット宣言草稿」編

前からつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「地球人スピリット宣言草稿

「原発ゼロ世界へ ぜんぶなくす」 京都大学原子炉実験所助教 小出裕章 2012/01 エイシア出版/出版共同販売

Ashi
「足に土―原人・アキラ  須貝 アキラ 追悼集」やまびこ編集室 1998/9 共同編集・発行人間家族編集室


「英語で読み解く賢治の世界」 ロジャ-・パルヴァ-ス/上杉隼人 2008/06 岩波書店

次へつづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「センダード2011」編

前からつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「センダード2011」

宮澤賢治イーハトヴ学事典

「宮澤賢治イーハトヴ学事典」 天沢退二郎・他(編集)  2010/11 弘文堂

【送料無料】郡山遺跡
「郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡」 長島榮一 2009/02 同成社

「スピノザとわたしたち」 アントニオ・ネグリ 2011/11 水声社

次へつづく

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2012/12/14

唯一の公式伝記? ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズⅠ』


「スティーブ・ジョブズⅠ」 The Exclusive Biography
ウォルター・アイザックソン 井口耕二 2011/10 講談社 単行本 445p
Vol.3 No.0894★★★★☆

1)当ブログがジョブズ追っかけをしたのはことし2012年2月~8月頃だった。以前からアップル関係の本も読んではいたし、その後もちらちらと目を通してはいる。だが、集中して追っかけたのは6~7月頃のほんの短期間だった。

2)そのころにリクエストしていた本ではあるが、人気本なので、今頃になってやって来た。「本格的」な一冊である。生前のジョブズが書き手を指定して長期にわたって取材させた唯一の「公式」伝記の決定版だという。

3)当ブログとしては、読むタイミングがちょっとずれてしまったが、やはりこの上下巻二冊には目を通しておかなければなるまい。

4)ストーリーそのものは、他の類本を読んでしまっているので、それほど目新しいところはない。むしろ、あの「完全主義」のジョブズが自分で「つくった」伝記にしては、かなりダークサイドのジョブズが書かれていて、ほほう、と感心する部分もある。

5)しかし、むしろ、「公認」でありながらここまで書かれているとするならば、実際の「本物」はそうとうに「難物」であっただろうことは想像に難くない。実際に人生の中で絡みこんでいたならば、その「現実歪曲フィールド」なるものに、辟易する関係者が多かったことに納得できる。

6)上巻では、生まれから生い立ち、60年代的カウンタカルチャーとの出会い、インドや禅との出会い、そしてアップルコンピュータの成功へと展開する。その後、アップルでの新しいパソコンづくりの葛藤、そしてアップルとの決別、ネクストの立ち上げ、ピクサーの試行錯誤と、そして成功までが書かれている。

7)細かい人間関係のディティールは、取材に基づいているので、より詳しいが、本当にジョブズに関心ある人以外、ちょっと細かすぎるのではないか、と思える程だ。全体が書かれているだけに、むしろ、マックのハードやソフトそのものについて知りたい人や、彼の「スピリチュアル」な面だけを知りたいという向きには、あまり適した本ではない。

8)ただ、この本に目を通しておけば、まずは「ジョブズの伝記」は読んだよ、と言える。でもやっぱり、「アップルを創った怪物」(もうひとりの創業者スティ-ブ・ウォズニアック自伝)とか、ケイレブ・メルビー「ZEN OF STEVE JOBS」とか、「アップルのデザイン」 (ジョブズは“究極”をどう生み出したのか 日経デザイン)とかを、複眼的に読み込まないとスティーブ・ジョブズは見えてこない。

9)一連のピクサーの作品にも目を通してみたところ、当ブログとしても、意見はいろいろある。それはまぁ、下巻にも目を通したあとにまとめることにしよう。

下巻につづく

 

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仏陀の存在を凝視する 『オレンジ・ブック』 OSHOの瞑想テクニック<2>

<1>よりつづく


「オレンジ・ブック」OSHOの瞑想テクニック <2>
OSHO ホーリスティック・セラピー研究所 1984/04 単行本 245P

仏陀の存在を凝視する

 あなたの部屋の中に小さな仏像を置き、いつでも暇なときにその像をただ見るがいい。仏像というのは、ただの肖像としてつくられたものではない。それは瞑想の対象としてつくられた。それは現実の仏陀を描写はしていない。彼はそれに似てはいなかった。それはひとつの隠喩(メタファー)だ。

 仏陀の肉体的な姿を表現するよりは、むしろ彼の内なる慈悲を表現している。彼がそっくり同じ姿、同じ顔立ち、同じ目鼻だちだったということはない。それはまったく肝心な点ではない。それは超現実的なものだ。いわゆる現実を超えた<実在>の何かを伝えている。

 つまり、それはヤントラだ。人は、ただそれを見るだけで瞑想のなかへと落ちて行ける。だからこそ、幾千となく仏像が刻まれた。仏陀ほど多くの彫像をもつ者は他にいない。

 瞑想的な雰囲気をつくりだすためだけに、単独で1万体もの仏像を擁す寺院がいくつもある。どこに目をやろうとも見えるのは仏陀だ。どこもかしこも仏陀の姿、仏陀の存在、その沈黙、その慈悲、閉ざされたその両眼、静穏なその姿態、その均整、その調和----

 それらの仏像は大理石の音楽、石の説法だ。OSHO p177

<3>につづく

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2012/12/11

最初で最後の一冊 『ダイヤモンド・スートラ』 - OSHO 金剛般若経を語る<7>

6>よりつづく

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <7>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739

1)ニュートンが残したOsho本一冊。彼がこの本を読んだのかどうか、どう読んだのかどうかは、いまだによくわからない。書斎の出入り口の一番前の、すぐ目につくところにあったからと言って、彼がこの本を精読していたかどうかもわからない。むしろ、横に詰まれていたから、積読だったのかもしれない。

2)しかし、今となっては、もうそれはどうでもいい。少なくとも彼はOsho本を手にとっていた。3・11で滅茶苦茶になった書斎を片付ける際、この本をとにかく捨てることはしなかった。いつかは読むかもしれない、あるいは再読するかも知れない可能性の中で、この本をそこにおいた。

3)もし私が彼の書斎を訪れることもなく、この本に気がつくことがなかったら、それは単になんの意味もない、単なる一現象にすらにもならなかった。だが、そのことに私は気付き、それはメモされた。

4)もういちど読み直す機会を与えられ、時間をとってゆっくり読んだ。新しい意味が、新しい出会いがあった。古い本でもあり、新しい本でもあった。そしてこの本が1977年に語られ、1986年に翻訳出版されたタイミングも確認した。

5)タターガタとアガタの兼ね合いもわかった。これは2012年の今日読まれるべき本だった。そして、それは、私のための本だった。私はずっとこの本を枕元におきながら、本当にこの本を読んでいただろうか。彼が書斎にこの本を置いていた以上に、私が枕元にずっとこの本を置いていたことが問われなければならない。

6)他の本はもうどうでもいいだろう。彼はこの本を最後の一冊として私にプレゼントしてくれた。そう思える。

7)ありがとう。35年前の今日、この講話はプーナのブッダホールで語られた。今日は12月11日、Oshoの誕生日。Osho ありがとう。

<8>につづく

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2012/12/10

日本演出者協会+西堂行人 『八〇年代・小劇場演劇の展開』 演出家の仕事③<3>

<2>よりつづく 


「八〇年代・小劇場演劇の展開」 <3>
日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社 単行本  305p

1)本シリーズを読むにあたって、「60年代」→アングラ、演劇革命、「80年代」→小劇場の展開、と思い違いをしていたのが、そもそもの過ちであった。あるいは、そのような誤読するような企画制作している編集方針も、ちょっと問題がある。

2)あるいは、「演出家の仕事」というメインタイトルも、やっぱりさらなる「誤読」を導く誘因になっている。ここで語られているのは「演劇」である。時代、あるいは作家や評論家の好みによっては、「芝居」と言われるものの、総論として語られなければならないものが、ここでは、このような「仮の」インデックスをつけて語られているに過ぎないのだ。

3)まず言えることは、「演劇」は演出家だけでは成立しない。作家が必要であり、役者や、時には「劇団」が必要である。「場」が必要であり、「観客」あるいは「参加者」が必要である。この中から、敢えて「選出家」だけを抽出して一シリーズを編もうとしたことは、結果的には「成功」したとは言え、かなり片手落ちの冒険なのだ。

4)サブタイトルもさらに細かく、「60年代」、「アングラ」、「演劇革命」、「80年代」、「小劇場演劇」、とバラバラに解体され、もっと自由に繋ぎなおされる必要があるようだ。

5)つまり、「60年代」というキーワードで語られることは、61年から69年までのことではなく、1965年あたりを中心的に勃発した特徴的指標をさすのであり、それは50年代よりもっと前からの連鎖も意味しており、あるいは、21世紀の今日においても、なお「存在」する何事かに対する「仮の」シンボリズムを意味しているのだ。

6)この言葉群の中から、脱落していくとすれば、まずは「小劇場演劇」という単語だろう。一般的には、「小劇場」という比較用語は、まったくナンセンスで、本質的なことを意味しない。階段の踊り場を最初の「劇場」とした石川裕人にしてみれば、観客が40人も座れるアトリエなどは、「大劇場」であったはずだ。

7)あるいは、どこかもっと大きなスペースで何万人集めようが、それが「劇場」として区切られている限り、無限大につながっている自然界のリアリティの中では、そんなこしらえ物は、すべて「小劇場」でのお芝居ごっこでしかない。

8)それが、この本でもよく「演劇人」が好む「国家」についてであれ、「演劇(芝居)」であるかぎり、それはどこまでも「小劇場」での戯れでしかない。だから、まずはこの単語群の中から、私の好みとしては、この単語が脱落していく。

9)「60年代」、「80年代」、という単語もいかがなものか。そこに漠然とした挟雑物を含有しながら、多くの源泉を含ませようとする「ずるさ」には、まんざら私も加担しないわけではないが、やっぱり弱い。はっきり言って、一千年、二千年の単位で言えば、「60年代」だの「80年代」だのという、仲間内のスラングは、またたくまに胡散無償する。だから、この単語たちともおさらばする。

10)残るは、「アングラ」であり、「演劇革命」である。アングラは「アンダー・グランド」の日本的短縮形だが、50年も経過してみれば、その演劇が「地下」であることにどんな意味があったであろうか。別に逃げ隠れしながら「演劇」していたわけでもあるまい。その芝居を見たから「逮捕」された、なんてことは聞いたことがない。

11)つまりは、「アングラ」も、的確な言葉使いではなく、やはり仲間内のスラングに過ぎない。寺山や唐や、その他の「エピゴーネン」たちによって増量されたとは言え、結局は、表現しきれない「源泉」の挟雑性を指し示そうとしているに過ぎない。わかる者にはわかるだろうが、わからない者にはまったく意味をなさない用語である。いずれは、これもゴミ箱行きの用語である。

12)残るは「演劇革命」である。この単語は「演劇」と「革命」からできている。この二つの単語を恣意的に結びつけたのはこの本の編者・西堂行人の「詩的」センスであろう。演劇は必ずしも革命ならず、革命は必ずしも演劇ならず。

13)しかし、「演劇」にかかわった者たちが、自らの存在意義を主張しようという段になって、わが身かわいさから、そこに「革命」というプラスアルファーがほしかったのだろう。

14)「演」とは、つまりは「役割」を果たすことだろう。「劇」とは「物語(ストーリー)」ということであろう。演じるのは「肉体」であり、「ストーリー」は「劇作家」が作る。つまりは、まずは演劇は「作家」と「役者」によって成り立つ。そして次に「観客」が必要であるが、それは必ずしも演劇専用の「観客」は必要はなく、「演劇的観客」であることを啓蒙される必要は、本質的には必要はない。

15)肉体が肉体であることは別段に革命ではないのだから、その「物語」になんらかの「革命」性があるのかもしれない。しかし、この本で語られていることを再考してみたとしても、必ずしも、演劇台本は「革命」を語っているわけではない。むしろそんな勇ましいことからは遠く離れていたりする。

16)つまりは、この本で用いられている「演劇革命」という単語は、ストーリー性を持った肉体が現前すること自体を「革命」と呼ぼうとしている、ということである。

17)その試みは成功したであろうか。この本がそのような視点を勝ち得たというばかりではなく、いわゆる「60年代」から「80年代」を経由して潮流を形成した、「アングラ」と呼ばれた「小劇場演劇」たちは、「革命」の主体たりえたのか、たりえなかったのか。最終的に、この本はその点を問うている。

18)結論から言えば、当ブログは、演劇は革命の主体足りえなかった、と見る。すくなくとも「60年代」「アングラ」「小劇場演劇」はすでに「80年代」に「革命」性を失っていたことを自己認識していた、と見るしかない。

19)そもそも「革命」とはなにか。新しい「命」が、新しい「革袋」に入れなおされたのか。あるいはレボルーションとして、天動説から地動説へと移行するごとくの、まったくの「劇的」な価値転換re-boltを起こすことができたのか。

20)この点については、当ブログの採点は相当に辛い。そもそも期待もしていなかったし、結果もみていない。そう主張するのはかまわないし、それを阻止しようとも敢えて思わないが、それは君たち、勝手に夢を見ていたにすぎない、と言い捨てるしかない。

21)すくなくともこの「潮流」の中に、大事な友人がひとり漂っていたのだし、このような「潮流」が、すぐ傍を流れていたのだ、ということは認識しておこう。「80年代」において、私は彼を「見失った」と以前書いた。しかし、それは私が、その潮流から遠くはなれてしまったことを意味しない。その潮流が、「私」から離れていったのだ。

22)この本は実に面白い。もし私が「演劇」性を自らの表現に取り入れたいと思うなら、ほとんど必読書となるだろう。ここに展開されている議論の一つ一つが、つっこみどころ満載だ。支線をいくつもつくることができる。

23)しかし、それらは、あるコインの片面でしかない。「演劇」性から「瞑想」性への「往相」があり、「瞑想」性から「演劇」性への「還相」がありうる時、その時こそ、この本に刻まれた「演劇」たちは、「革命」性をおび始めるだろう。だが、それ以前ではない。

<4>につづく

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2012/12/05

日本演出者協会+西堂行人 『八〇年代・小劇場演劇の展開』 演出家の仕事③<2>

<1>よりつづく


「八〇年代・小劇場演劇の展開」 <2>
日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社 単行本  305p

1)この本、面白いかも。年末の師走に入り、新たなる訃報が飛び込み、パソコンが突然クラッシュして使用不能になるなどの、三重苦の中で、読書を続けるのも容易ではない。ましてや、この天下分け目の選挙戦が告示されたなかで、30年前を振り返っていられるか、という思いもある。

2)しかしながら、そういうタイミングだからこそ、のうのうと当ブログはわが境地をいくのである。むしろ、一つの時代を設定して振り返ってみることは、現在のわが身がおかれている地平を再認識するよいきっかけにもなるようだ。

3)この本、シリーズの第三巻になるので、60年代、70年代、80年代、の振り返りとなるものと考えていたが、第二巻は、「戦後新劇」となるのであり、第一巻の「60年代・アングラ・演劇革命」は、必ずしも「60年代」にフォーカスしたものではなかったのだ。つまり、第一巻は60年代、70年代から80年代への橋渡しあたりまでをフォローしているのであった。

4)こちらの「80年代」は、まだ4分の1強まで読み進めたところであり、一冊まるまんま総括することはできないが、ここまでの時点での印象をランダムにメモしておく。

5)この第三巻は、第一巻の「60年代・・」とセットとして、読み方によってはきわめて重要な一冊になる可能性はある。それは読み方だ。「80年代の石川裕人」さがし、という矮小な視点で考えれば、あまり重要な情報源とはならない。すくなくとも巻末の演出家としての紹介以外、本文に彼がでてくるチャンスはなさそうだ。

6)ただ、この本自体は、いわゆる「演劇」性あふるる筆致ではなく、いわゆる社会学的ノンフィクション的スタイルで書かれているので、事実の追認という煩雑な作業はあるが、それを読みこなすことができれば、まことに手ごろな戦後「日本」の思想史・文化史を鳥瞰するよい視点を与えてくれるようだ。

7)石川裕人は、60年代、70年代の自分の「演劇」史をほとんど抹殺した形で、いかにも「80年代」に登場したかに見せているが、実際は、「70年代」の助走こそ、もっと語ってしかるべきだと思う。

8)90年代以降、特に”OCT/PASS"以降の彼は、時代の波に乗って、公共の援助資金などを活用してなんとか「食える」とこまで来ていたようではあるが、それは彼ひとりの状況ではなくて、いわゆる「小劇場」が抱える状況を彼なりに味わっていた、ということだけである。よくも悪くも。

9)バブル期の「80年代」の、たとえば野田秀樹と夢の遊民社の活動に象徴されるような「演劇」性の中で、石川が逡巡していった姿がなんとなく彷彿としてくる。それまで続いていたいわゆる「アングラ」的な「演劇」性が、野田が83年に岸田戯曲賞を受賞し、次第に「変質」していく姿を見て、石川は敢えて自らをなにかの時代のマーケットのニーズに合わせていくことを拒否していたかのようだ。

10)つまり、この時点ですでに70年代、あるいは60年代への回帰、あるいは保守を試みているようだ。この時期の彼の「水の三部作」は、そのような演劇「界」状況の中で、読み解かれる必要があろう。

11)演劇「界」がますます「小状況」化する中で、もともと期待されていた演劇の「革命性」は、次第に80年代において換骨奪胎され、バブル崩壊とともに、90年代以降の「演劇」は、いわゆる「アングラ」的なものから見事に切り離されていった。

12)しかし、そのような90年代的な状況の中を泳ぎきることが、石川個人の固体史としての「演劇」性であってみれば、”OCT/PASS"時代のコンビニ「的」劇作・演出家としての、彼の存在様式は、彼の加齢状況から考えても、ある種、仕方のないこと、現実的なこととしてあっただろう。

13)しかるに、彼はそれをよしとは思っていなかった。晩年になって、「アングラ・サーカス」を提唱し、その「大作」に試みる姿勢を強く見せていたのは、その現れてであろう。そして、その「アングラ」には、いわゆる「60年代」的な芝居状況が暗に想起されているのであり、ここでここに帰るなら、やはり、彼は自らの「60年代的、70年代的」個性をよりしっかりと再認識しておく必要があっただろう。

<3>につづく

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2012/12/02

日本演出者協会+西堂行人 『八〇年代・小劇場演劇の展開』 演出家の仕事③<1>


「八〇年代・小劇場演劇の展開」 <1>
日本演出者協会+西堂行人 2009/10 れんが書房新社 単行本  305p
Vol.3 No.0894★★★☆☆

1)日本演出者協会編集の「演出家の仕事」③が発行された。この巻は80年代・小劇場演劇の展開で、巻末の80年代より活躍する演出家リストに僭越ながらわしもアップされた。書店にて立ち読みしてください。「石川裕人劇作日記時々好調」2009.10.17 Saturday

2)「80年代の石川裕人」、あるいは「80年代石川裕人の「?」を探す旅」、などとターゲットを絞りつつ、この「八〇年代・小劇場演劇の展開」を見逃すわけにはいかない。もちろん80年代に書かれたわけではなく、2000年代後半になって書かれたものであり、必ずしも当時を正確に反映しているとはいえない。

3)石川裕人は巻末の40人ほどの演出家たちと肩を並べて紹介されており、なるほど、このような人々と並び称されるところで活動していたのか、と改めて確認した。使われている写真は、頭にサングラスをして、胸になにやら亀甲のマークのついたTシャツ姿である。一番のお気に入りだったプロフィール写真だそうだ。

4)ただこの本からは、石川がどのように活動したのかは、あまり明確に浮き上がってはこない。他の同時代の演劇人たちを多数追いかけることとなり、当ブログの限られたキャパシティでは、消化不良となる。

5)この本のシリーズは三冊であり、第一作「六〇年代・アングラ・演劇革命」(2006/02)は先日手にとってみた。第二作もあるようだが、今のところはちょと食指が動かない。内部的なマニアックな人びとにとっては貴重な記録と歴史になるかもしれないが、私のような、結果的に演劇音痴になった者にとっては、あまり益するところはない。

6)とにかく、80年代にこのような動きがあり、縦糸としての「石川裕人」が、このような「80年代の演劇」の横糸に彩られていたのだ、ということを確認すれば、今回の読書はそれで足りるだろう。

7)ちなみに、石川がこの日記ブログを書いた2009/10に、自分はなにをしていたのかというと、「私は誰か」というカテゴリのもと、意識から政治、ネットやエネルギー問題など、的の定まらない読書を続けていたようだ。

8)的が定まらないというより、なんでも手を出してみるという、今よりも好奇心があふれていて、むしろ健康な感じもする。今は、ターゲットが絞られすぎているかもな、と思う。とにかく、同時代を生きながら、しかもほんの数キロ離れた住まいにおりながら、人はそれぞれの人生を過ごしているのだな、と改めて確認した。

<2>につづく

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スピリットとアニミズム おおえまさのり『未来への舟』


「未来への舟」 --草木虫魚の祈り--
おおえまさのり 2012/09 いちえんそう 単行本 188p
Vol.3 No.0893★★★★★

1)個人的には石川裕人が残した戯曲集「時の葦舟」を連想するタイトルの本である。1942年生まれの著者は、私たちの世代からすればちょうど一回り上の世代であり、山尾三省や横尾忠則、末永蒼生たちの世代である。兄貴とも、叔父貴とも言える存在である。

2)私たちでさえすでに還暦を迎えようという時期である。著者はすでに古希を迎えられているのだから、もうこれからの一冊一冊は、著者の遺言ともいえるべき存在となっていくだろう。

3)--草木虫魚の祈り--というサブタイトルが示すように、ポスト3・11を受けて、さらにアニミズムへの傾斜が強まった。三省アニミズム三部作を思い出すが、著者は著者なりの、個性、独自性を静かにゆったりと携えている。

4)あちこちに「まちがい探し」を始めたらキリはない。こまかい「差異」はいくつもある。しかし、それは埋められなければならない差異ではなく、むしろ、なんとここまで近似しているのか、と思わせるほどの、小さな、それぞれの個性である。

5)著者は「スピリット」を多用する。魂、いのり、精神、カミ、神秘、聖性、実体のないもの、自然、大いなる神秘、などなどの意味として、万能なキーワードとして使っている。かならずしも合理的ではないが、当ブログ・地球人スピリット・ジャーナルとしては、このようなスピリットという指標の使われ方は好ましいと思える。

6)著者は、当然1991年の「スピリット・オブ・プレイス」にもパネラーとして参加しており、著者にそのレポートも書いている。おおえまさのり、という名前は、私たちの世代には、なくてはならないビッグネームだった。この人のおかげで開かれた地平があり、この人がなかったら、なにかが欠けてしまっていただろうと、素直に思える。

7)先日、この本の出版を記念してパーティが開かれたようだ。彼を指標として生きてきた後輩たちも多いに違いない。この生でも彼はマスターでありえたけれど、もし、もう一生あるのなら、もっと広範な影響力をもつ最新のマスターとなるだろう。生前からそんなことを言うのは失礼だが、なんだかそんな思いが湧いてきた。

8)著者の本は手元に何冊もある。私の知らない著書もたくさんあるに違いない。だが、この著者は、なかなか追っかけの対象にはならなかった。一冊一冊が大きな書物だったので、その一冊を読みきることが大変だった時期がある。もちろん本書のように、きわめて読みやすいものもある。

9)いずれ、著者追っかけのリストを作ってみようと思う。

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