このようなターゲットの絞り方もあるのか 『演出家の仕事②』 戦後新劇
「演出家の仕事②」 戦後新劇
日本演出家協会 2007/05 れんが書房新社 単行本 390p
Vol.3 No.0895★★★★☆
1)「演出家の仕事①」 六〇年代・アングラ・演劇革命、「演出家の仕事③」八〇年代・小劇場演劇の展開、この二つに挟まれた②だから、七○年代の演劇をまとめるのかと思ったら、そうではない。テーマは戦後新劇である。
2)そもそも新劇とは何か。日本における能や歌舞伎の伝統演劇に対する、西洋ドラマツルギーの影響下で活動してきた新しい演劇のうねりのことである。時にはコミュニズムに影響を受け、時にはそのプロパガンダにさえ利用され、同義とさえ見られる場合さえあった。
3)当然、第二次世界大戦前からそのような活動はあったわけだが、本書においては、敢えて「戦後新劇」というタイトルを使っている。しかし、ほかの「アングラ」とか「80年代」とかのタイトルと同じように、そこにターゲットを絞り込めているわけではなく、そこにフォーカスしつつ、漠然と周囲をにらみこんでいる、という感じの一冊である。
4)もし、わが畏友・故・石川裕人が演劇人ではなく、また石川が自分のブログで「演出家の仕事③」八〇年代・小劇場演劇の展開を紹介していなかったら、当ブログがこの本を読むことはまったくなかっただろう。
5)また、当ブログが純粋に「新劇」に関心を持つこともかなったに違いない。ましてや「戦後」新劇というようなターゲットの絞り込みすることさえ発想できなかった。あえていうなら、石川裕人が、「演劇」にこだわり、「アングラ」にこだわり、その人生を疾走した意味を問うとするなら、「新劇」というものも理解しておかなければならない、という消極的理由によって、この本を読んだのだった。
6)ましてや、文化庁の人材育成事業助成を受けて編集されたシリーズとは言え、①、②、③、という三部作になっていれば、やはり、この一冊に目を通しておかないわけにはいかなかった。
7)当ブログにおいては、若干、苦痛を感じるような読書であった。演劇関連を読んでいると、ネイティブ・アメリカンの一連の著書を読んでいる時のような戸惑いを感じる。例えば、チベット関連を読むとするならば、いずれはチベット密教に集約されていき、マハムドラーかゾクチェンあたりに終着すれば、それで一連の読書は完結する。
8)ところが、ネイティブ・アメリカンのスピリチュアリティを、何事かの集約点に終着させようと思っても、延々と終わりがなく、せいぜいティピー・テントやらスエット・ロッジあたりに象徴を見つける以外に、キリがなくなる。
9)演劇関連を読んでいてもこのような倦怠感を感じる。どこまで行けばいいのか、という終着点がみつからない。アングラにおいては寺山修司や唐十郎あたりを象徴的に扱っておけばいいように、どうやら「新劇」においては、スタニスラフスキー・システムとやらに定点を見つけることができれば、一定の収まりはよくなるようではあるが、どうもそれだけでは、全体を理解できない。
10)貝山(武久) もうひとつ、観点を変えるとね、スタニスラフスキー・システムというのがなぜ生まれてきたかという、その演劇史的な見方があると思うんですよ。
僕はやっぱりね、ギリシャ劇から始まって、中世の宗教劇やエリザベス朝演劇をとおり、それから近世・近代の演劇につながっていく流れのなかで、必要なメソッドとして生まれてきたのがスタ・システムだというのに共感するんですよね。p171「戦後新劇とは何だったか?」
11)とにかく、当ブログにおいては、いきなり戦後新劇などというターゲットの絞り方は無理で、まず、そもそも「演劇」あるいは「劇」とは何か、というところあたりから学び直さないと、なにがなにやら、よく分からないことになる。
12)ふじた(あさや) 日本の場合は、要するに歌舞伎三百年の歴史があって、そこから枝分かれしていって、演劇そのものが興行形態を含めて歌舞伎の様式性をひきずってきたわけじゃないですか。p171「戦後新劇とは何だったか?」
13)場合によっては、このような日本の伝統芸術の歴史を学びなおさなければならない。
14)戌井(市郎) 歌舞伎の旧派に対して新派。歌舞伎じゃなくてその時代の現代劇をやろうというのが新派。新派の出し物は世相劇から文芸作品「不如帰」とか「金色夜叉」。さるいはお涙頂戴の新派悲劇。
新派から今度は更に、われわれの先輩たちがヨーロッパかrなお近代演劇を取り入れて、そこで新演劇が生まれる。だから、旧派から新派、新派から新しく新劇といいいうことでしょうね。p231「戦後新劇を語る」
15)ここまで来ると、具体的にそれらの一つ一つを知らない外部の人間にとっては、内部の分かる人にしか分からない、撞着的な言い回しということになるのではないか。
16)ふじた(あさや) 旧劇に対して新しいもの、新しいものと作って、「新」が一つじゃ足りなくて、二つくっつけて「新生新派」になったりね。いろいろしながら新劇っていうのができて、これが一つの流れとなってきて、ここからアングラが分かれてる。更にそれが小劇場にどういう形で引き継がれたか分かりませんけど、とにかく新劇をとりあえず否定する形で外へ出て、そこから見たときに新劇っていう言葉が別の意味を持ったと思うんですよね。p234「戦後新劇を語る」
17)こういう語り方は、まったくドメスティックでガラパゴス的である。こういう説明が、地球大で翻訳されたりしたら、外国の人にはまったく意味がわからないだろう。なんでもかんでも「新」をつけてしまえば、合理性があり、正当性がある、という錯覚は、いい加減にしたほうがいい。
18)通念として、劇団四季は左翼の新劇への反逆といわれる。浅利慶太が左翼の政治運動やうたごえ運動に一時没入したのち、離反して四季を結成したとされ、「演劇の回復のために」にも左翼批判的文言が見られるところから、こうした評価が生まれるのには理由があるけれども、左に対する右の反旗とする評価は、四季の歴史的意義を知らず知らずに賤めるものとなる。p324菅孝行「近代日本演劇史への初期劇団四季の貢献」
19)なにはともあれ、当ブログは、石川裕人を通して「演劇」を語るのであり、彼が高校演劇の段階で「新劇」を拒否したのであれば、同時代的に、当ブログも「新劇」は「拒否」することになる。なにはともあれ、石川本人でさえ読んだかどうかわからない本シリーズのこの「戦後新劇」については、そのような背景があったのだ、という程度に感知できればそれでいいだろう。
20)当ブログにおいては、むしろ、もっと大きく風呂敷を広げて、例えばグルジェフのワークも、演劇グループという形で展開したのであり、小さな「戦後新劇」などにこだわるより、もっと「演劇」の本質のグローバルな広がりのほうに目を向けるべきではないか、とさえ思った。
21)このシリーズは、なかなか貴重である。当ブログがもし、もっと「演劇」性について、長期にわたって追っかけてみたいと思うなら、いずれ再読してみる価値はあるだろう。
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