« 「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1<3> | トップページ | 『死について』 ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 <2> »

2012/12/28

ふたたび、その「演劇」性を問う 『季刊まちりょく』vol.9 仙台市民の文化情報誌

Mati
「季刊まちりょく」vol.9 仙台市民の文化情報誌
仙台市民文化事業団 2012/12/14 A6版 小冊子 p72
Vol.3 No.0900★★★★☆

1)当ブログは、無料ブログサービスと公立図書館の開架コーナー利用の上に成り立っている。誰にでもできるお手軽ソースを基本として、はや7年。新たなる脱皮を意図しつつも、画期的な方向性は見つかっていない。

2)図書館利用とはいうものの、もうすこし価値のある利用法があるのではないか、といつも思う。たまにポスターをみたりビディオを借りてきたりするが、結局は長持ちしない。チラシやフライヤーも持ち帰ってはくるのだが、よく読まずに捨てるものがほとんどだ(制作者の人たち、ごめんなさい)。

3)昨日も、何枚かチラシやらを持ち帰ったが、正直言うと家に持ち帰った瞬間、ゴミになってしまう。この冊子も、ゴミ箱行きになりかけたが、ちょっと待った!

4)なにげに指をかけたページには、Theatre Group"OCT/PASS"Vol.34「方丈の海」の記事が、公演写真とともに4ページに渡って掲載されていたのだ。青森県美術館の長谷川孝治というひとと、伊藤み弥という演出家が、石川裕人に哀悼の辞を送っている。

5)仙台はその意味で希有な存在を失った。ダブルバインドの渦中にいながら必ず最後には「希望」という手垢のついているかもしれないが、私たちにとって不可欠な二文字をずっと示し続けた男を。p23長谷川孝治「変わらないことの強さ」

6)私は彼を知っている。彼は「希望」なんかじゃなかった。50年間もつきあってきたんだもの、彼の強さと、そして、弱さ、だめな部分もよく知っている。そう思って、ふと考えた。私が知っているのは、石川裕人だろうか、ニュートンだろうか。あるいは石川裕二だろうか。

7)葬儀の後の法事の時、親戚の、彼のいとこという婦人とお茶を飲んでいた。私は50年前から、彼の友人です、と自負した。だが彼女は笑った。私たちは、ユー坊の生まれた時から知っているわ。あはは、これには参った。ニュートンというニックネームは広く知られているが、ユー坊といういたずら坊主のことは、ほとんど知られていない。

8)劇作家、演劇人として知られているのは「石川裕人」だ。母親やいとこたちは、ユー坊のことは知っているが、石川裕人のことは、ほとんど知らない。私は、ニュートン、というより、石川裕二という友人を見つめてきたのではないだろうか。そここそが、過不足のない彼のリアリティであったはずだ。

9)自分の死という経験について誰も語り得ないが、しかし彼ならどんな芝居を書くだろうか。そして、彼が書くはずだった、<東北の演劇>とはどんなだろうか、と私は詮方(せんかた)ない想像をしてみる。

 生き残った者はいつだって後悔と祈りと仮定で喪(うしな)った人の空隙を埋めるしかない。彼に匹敵する<モノガタリ>が現れることは、もうないだろう。p25伊藤み弥「あるプロローグ。そして、エピローグ」

10)私たちの世代のスタート地点は、「汝死ぬことを学べ。そうすれば生きることを学ぶだろう」というチベットの死者の書にあったはずである。死を学ぶとは、瞑想のことである。私はそちらの道を選んだ。

11)しかし、彼はその道を選ばず、石川裕人という「演劇」性を選んだ。石川裕二という、リアリティを回避した。つまり「死」を回避しつづけてきた、と私はみているのである。彼の演劇の中に、さらなる「死」が、「自己の死」が演出されていたら、私は彼の変わらぬ観客であり続けていたはずなのだ。

12)彼を、ひとつの<モノガタリ>とみることは、私自身は物足りなく感じる。モノガタリは事実を越えてはいない。彼を越えるモノガタリなど、そもそも私は、期待していない。私がみたかったのは、モノガタリを越えた、彼自身だった。

13)伊東竜俊の葬儀の際、彼の劇団のメンバーと会話をすることができた。「劇団、今後どうするの?」。 「公演日は決まっていませんが、いつか公演すると思います。誰もやめるとは言いださないので・・・・」

14)彼はあの世で、残した劇団員たちのこの言葉をどう受け止めるだろうか。私はあえてこの言葉を過大評価はしない。団員たちは、座長としての彼の死をどう受け止めているだろう。そして、有力な「タニマチ」のひとりであった伊東竜俊の死をどう見つめているだろう。

15)私は、あえて言いたい。見つめるべきは、他者の死ではない。見つめるべきは「私」という自己の死だ。私がずっと彼の演劇を批判的にみてきた理由のひとつはここにある。私の彼についての見方は、彼は「死」を回避して「演劇」に逃げ続けた、というものだ。

16)言葉たらずではあるが、当ブログでも何度か引用してきた言葉群、「演劇」性と「瞑想」性の「差異」はここにある。

17)新生Theatre Group"OCT/PASS"は、Vol.35公演を打つことができるだろうか。私はその公演を見に行くことができるだろうか。そこに私は「瞑想」性をみることができるだろうか。

|

« 「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1<3> | トップページ | 『死について』 ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 <2> »

28)Meditation in the Marketplace4」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1<3> | トップページ | 『死について』 ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 <2> »