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2013/01/14

『魂とは何か』 さて死んだのは誰なのか<3>

<2>よりつづく

魂とは何か
「魂とは何か」 さて死んだのは誰なのか<3>
池田晶子 /わたくし、つまりNobody 2009/02 トランスビュー  単行本 255p

1)今年は正月早々、再読モードである。どこかで終わりたい、どこかで一区切りしたい、という思いが、過去に書いたメモを振り返えさせる。そして、どうもタイミング悪くて熟読できなかった本や、いずれ精読しようと、初読で終わっていたものを、もう一度読みたいと思わせる。

2)当ブログにおいての、カテゴリ「メタコンシャス 意識を意識する」は一つの極であった。あそこは陰極まって・・・という部分にあたるだろう。そして、陰極まって突入したのが「森の生活」であった。そしてもう一つの極の「マーケットプレイス」へと回帰する。これら陰陽が相融合する姿をとりあえず「Meditation in the Marketplace」と捉え、当ブログの縦横の全体サイズはこれで決定したことになる。

3)いま、<魂>、これについて考え、語りだそうとして、私は深く絶句する。絶句するのを自覚するのだ。
 わからない!
p9「ポスト・オウムの<魂>のために」 

4)今は言葉遣いについては細かくは問わない。しかし、<魂>は、考えることはできないだろう。もちろん<魂>は感じることさえできない。少なくとも形而上的な観念として、あるいは哲学として、合理的な、論理にはなりようがないのだ。

5)当ブログでは池田の<魂>に置き換えて「意識」を使った。意識とは何か、と考えることもできなければ、感じることもできない。そこであえて「意識」を「意識」するという、メタコンシャスを登場させた。これはほとんど「瞑想」と同義なのだが・・・・。

6)結局、意識はいくら意識されても、結局は具象性、具体性から、離脱することはできない。意識は宇宙に充満しているものだとしても、結局、「私」が感知している時空間に満ちている意識が、すべてであると言える。

7)まったくの真空の空間があったとして、そこに一つまみの埃があり、その埃によってこそ、全宇宙空間の存在が証明されるようなもので、何もなければ、そこは空間でもあるわけがないのだ。

8)つまり、「死」において、「私」が認識するこの身体の領域、そして認知される範囲に満ちているものが「意識」なのであり、つまり「魂」と換言することもできる。肉体として「死」に得る「私」が表現するからこそ、「意識」は「魂」として存在し、活動しうるのだ。

9)「意識」もまた、その意味では自明な存在である。それは万象を透過する透明な「地」のようなものである。<魂>はむしろ、その「地」における「図」に当たるのか。「精神」は思考する機能として、これもまた自明である。わからないのは<魂>、この不透明な結節なのだ。これは、思考する精神とは明らかに異質な存在である。精神は魂を思考しようとして思考できない。p33「<魂>の感じ方」 

10)本書の「魂とは何か」というタイトルは編集部が考えたものであろうが、そもそもはこの本の改訂前は「魂を考える」だった。科学や、芸術なら「考える」でもよかっただろう。芸術の一分野としての哲学、とくに彼女の哲学エッセイにおいては、「死」を考えたり、「私」を考えたりするこは、まずはありえただろう。しかし、「魂」の領域は、考えたり、思考したりすることによって理解されたり認知されたりするものではない。あるいは感じたり、五感で捉え得るものではない。

11)本書では「魂」がテーマではあるが、早々とテーマと全うに取り組むことを放棄し、彼女は当ブログでいうところの「マーケットプレイス」(市井)へと戻ってしまう。結論としてはそうならざるを得ないのだが、もうすこし全うに「魂」ととりくまなくてはならないだろう。当ブログ風に言えば、瞑想が必要なのだ。

12)<魂>を「書く」のが、こんなに大変なことだとは思わなかった。率直なところ、甘くみていた。
 <魂>を認識することの難しさに比べれば、<神>を認識するなんてのは、いかほど簡単なことだったか。それは、論理的に考えれば、明瞭な仕方で指示し得る存在だし、また論理を経由しなくとも、少なくとも私にとっては、端的な仕方で直観し得る存在でもある。神は簡単である。しかし、<魂>は難しい。「上がり」の手前で、うごめくもの。
p33同上

13)文学界からは文学ではないと言われ、哲学界からは哲学ではないと言われるのが、彼女の「哲学エッセイ」だという。いわゆる「界」に属さないのであれば、独自の心境に浸っていればいいわけだから、別に、<神>を認識するなんて簡単だ、ということは可能だろう。しかし、<魂>がわからず<神>がわかるというのは、論理矛盾であろう。「クルマ」はわかないけれど、「自動車」ならわかる、と言っているようなもので、言葉の使い手が言葉に振り回されているだけだ。

14)がんでなくても人は死ぬということが、きちんと認識されてさえいるなら、がんであるということと、死ぬということとは、なんら関係がないということも、わかるはずである。在るのは現在だけである。すなわち、死は存在しない。p95「<魂>のインフォームド・コンセント

15)長年飼っていたコリー犬の死にうろたえる彼女である。頭の中で、思考として、哲学として考え続ける「死」と、実際に自らが遭遇する「死」とでは、まったく意味が違う。ケン・ウィルバーがどれほどスピリチュアリティの統一場のようなものを考えようと、「グレース&グリット」に表現されているように、結婚直後の配偶者のがん告知から死に至るプロセスにつきあう時には、その冷徹な知性も役にたたない。

16)逆に言えば、頭の中で「死」を哲学することなど、市井の中で「生きて」あることに比べれば、屁でもない、ということになる。犬の死に、あれほどうろたえるのに、結局は、46歳でがんで亡くなっていく自分を見つめる時、彼女は本当に、がんと死はなんのつながりはない、と思えていただろうか。

17)つまり、「見る」という言い方で言われている意味が、違うのである。目を開けて「見る」ことと、目を閉じて「見る」ことは、同じ「見る」ことではない。目を閉じても見ることができる限り、それは外界を見るためにこの眼球によって「見る」ことではない。

 したがって、その意味では、「脳が見る」という言い方はじつは正確で、眼球によって見ているのではないのだから、脳が見ているとしか言いようがないからである。しかし、眼球によらずに「見る」というのは、いったいどういうことなのか、人類は、この事態を言うための動詞をまだ発明していないというほうが、より正確だと私は思う。p124「何が生きているのか」

18)う~ん、池田晶子、まだまだだな。目を閉じて見るのは、眼球を通じてではないし、もちろん脳が見ているわけではない。そして、目でも脳でもない物が見ている、という「動詞」はすでに、古代から人類は重用してきている。彼女が今回の生でめぐりあわなかっただけである。

19)ヘーゲルに共感を寄せる彼女。正、反、合、の弁証法だけですべての真理を解き明かすことは不可能だ。弁証法そのものを正とし、反・弁証法を対峙させることによって止揚されるものをこそ彼女は見つけるべきだった。

20)私はもう長く、「心理学」というものを敬遠していた。いまにして思うと、いっとう最初に、フロイトに当たったのがいけなかったのだと思う。ただでさえ茫然と捉えどころのない事柄なのに、あんなふうな帳尻の合わせ方はあるまい。p126同上

21)フロイトが自らの世界を閉じた世界にするために捨て去ったものは多く、仮にそれが彼女が高く評価するユングに受けつがれたとしても、彼女自身の目が曇っていれば、誰とであおうが同じことなのだ。「心理学」の体たらくをけなす前に、自らの「意識」の鈍感さをこそ恥ずべきなのだ。

22)ユング心理学を継承発展させたトランスパーソナル心理学も、近年とみに成果をあげているが、成長と統合の「物語」は、非常におさまりがいいぶん、自身の物語性を忘却しやすい、そんなふうにも思える。p129同上

23)トランスパーソナル心理学は、21世紀においては減速しているのではないか。さらなるステージが必要とされている。当ブログはOshoに倣ってそれを「ブッタ達の心理学」と表記しているが、たぶんそれはもう「心理学」ではないのだ。

24)おそらくは、我々の言語アラヤ識それ自身が、自身を自覚化することで無限に生成を重ねていくように・・・・と続くのであろうか。全人類の全歴史を射程に入れて、なおその向こうを望見し、常にそこからこそ我々のこの文化、この現実にかかわろうと立つ氏の姿勢は、それを見る者に、逆に一種の壮大な目眩のようなものを与える。アラヤ識こそが真に生成するものであると知った時、もはや「我々」とはだれのことなのであろうか。p183「情熱の形而上学・・・・井筒俊彦氏」

25)その問い掛けに対応する答えは言葉としては与えられることはないだろう。「私」が誰でもない、と喝破した著者であってみれば、「私たち」とは誰か、を喝破できないはずはない。

26)石川 なぜ魂なの?

池田 魂って言葉が「あった」からです。魂が「あるかないか」、という問い方ではなく、私が私であり、あなたがあなたであるというこのことを、魂という言葉で語ってみたい。「私の多魂」って言い方を人はするけれど、「私」が先なのか、「魂」が先なのか、「私は魂」なのか、ひょっとしたら「魂の私」と言うべきかもしれないとか。不思議じゃないですか。私がどうしてこういうものの感じ方をするのか。石川さんがどうして石川さんなのか。p223「考える不思議、『常識』の不思議」石川好との対談

27)まず、考えようが、感じようが、まずは「わかる」ことの方が先だろうなぁ。それを魂だろうが、精神だろうが、スピリットだろうが、あるいは神だろうが、どのように芸術的に表現しようが、それは自由なことである。実体に名前を自分なりに詩的な名前を付けようと自由だろうが、名前があるからと言って実体がともなってくるわけではない。

28)この本、流れにそって再読してみたが、以前にメモしていた感想とそれほど違った印象はもたなかった。だが、前回4年ほど前に読んだ時とはタイミングが違ったので、当ブログの道行きの反面教師的な指標としては役立ってくれた。すくなくとも、こっちの道じゃないぞ、と。

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