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2013年1月の20件の記事

2013/01/31

できるゼロからはじめる『iPad超入門』


「できるゼロからはじめるiPad超入門 」 新しいiPad/iPad 2対応法
林岳之/白根雅彦 2012/07 インプレスジャパン 単行本 254p
Vol.3 No.0908★★★★☆

1)この本、わずか半年前の出版なのに、私の手元にあるデバイスは、さらに新しくなっている。たしかに細かい部分は違っているが、大きくはそれほど差はないようだ。この手の本に書いてあることは、だいたい直感でわかるよ、とタカをくくっていたが、やはり読んでみないとわからないことも多い。

2)今回解決したのは、すでにパソコンにiTuneで取り込んであったミュージック類を、iPadに同期する方法であった。先日から何回かチャンレンジして、いまいち納得がいかなかったのだが、この本を読んで初めてできた。

3)そもそも製品自体にマニュアル類がついていないので、初期設定の画面しかイメージできないが、このような入門本を読むと、なるほど、実は、こういう画面があるのか、とようやく設定を変えて、自分好みに変更しようという気分になる。

4)そもそも、あまり生活の中に音楽を取り入れていない。別に遠ざかろうとしていたわけではないが、どうもイの一番に音楽、というライフスタイルではない。

5)しかし、せっかくマック・ライフになったのだから、iPadで、ワープロ・表計算、ということもないだろう。ここは、ウィンではいまいち納得のできない「アート」なライフを楽しむのだ。

6)去年あたりに小さなiPodミニをプレゼントしてもらい、それを契機に図書館から借りてきてCDライブラリーを作っておいたのだが、それがそっくりiPadに移転してきた。なるほど、便利。新しい感性の部分が開かれる。

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2013/01/30

『ウェブ進化論』 本当の大変化はこれから始まる 梅田望夫<46>

<45>からつづく

【送料無料】ウェブ進化論
「ウェブ進化論」 本当の大変化はこれから始まる<46>
梅田望夫 2006/02 筑摩書房 新書 249p
★★★★☆

1)「ウェブ進化論」は、当ブログの原点である。ブログ機能を登録しても何も書くことができなかった。半年後にこの本を読むことによって、ブログとしてゆっくりうごきだした。当時のことを考えるととても懐かしい。あれからもう7年も経つのか、とびっくり。それにしても「ウェブ2.0」とはなんだったのだろうか。

2)最近iPadを使い始めて、そういえばこの「ウェブ進化論」には、マックやアップル、スティーブ・ジョブズという単語はでてきたのだろうか、とちょっと不思議な気分になった。そしてまた久しぶりにこの本をぱらぱらめくってみた。

3)例によってのパラパラ読みだから確実ではないが、この本の中では、アップルが登場するのはごくわずか。しかも、まともには、「ウェブ2・0」の中核には据えられていない。

4)グーグルは間違いなく、IBM、DEC、インテル、マイクロソフト、アップルといった、IT産業(昔はコンピュータ産業と言った)にパラダイムシフトを引き起こす「10年に一度現れる特別な企業である。こういうIT産業における破壊的イノベータは、これまで米国からしか現れていなくて、最も新しいグーグルも、ごく自然に米国から生まれただけのことである。p90「グーグル---知の世界を再構成する」

5)手元にある「ジョブズ伝説」 の巻末年表によれば、アメリカで初代iPhoneが発売されたのは2007年6月29日。ジョブズがiPadを発表したのは2010年1月27日になる。梅田望夫の「ウェブ進化論」がでた2006年2月には、アップルはiPodやiTuneと言った、エンターテイメントのほうに偏っていて、梅田の目には、すでに過去の企業と映っていたのかもしれない。

6)アップルの「iチューンズ・ミュージックストア(iTMS)」関係者によると、取り扱っている100万曲を遥かに超える楽曲の中で一回もダウンロードされなかった曲はないらしい。ロングテールは長く連なっており、大ヒット依存のリアル世界とは全く異なる経済原則で事業モデルが成立しはじめている。p101「ロングテールとweb2.0」

7)このような形で紹介はされているのだが、読者としての私自身は、ネットで楽曲をダウンロードして云々というスタイルにはまったく関心がなかったので、完全に見落としていたのだろう。梅田もまた、まだしっかりと、このiTuneの将来性を見届けていた、とは言い難いだろう。

8)「アップルコンピュータが日本でスタートするという事から、日本のマスコミがこのところ、どのサイトが優位で、どのサイトが劣勢になるかといった話や、どのサイトが100万曲を用意したが、このサイトはまだ20万曲しか用意していないとか、そんな話しで持ちきりです。

 でもこういった話題の中に、音楽のにおいがまったくしません。(中略)音楽ビジネスを担う人達が、インターネットの利用の仕方を有料配信のところにだけ焦点を当てている事に、大きな不満を感じています。(中略)「配信」には新しい物を生み出すという思想は何もなく、過去の財産をどの様に運用するかという、まるで金融業者が、お金を取り引きしている様に見えます。」p109同上

9)他人の文章を引用する形ではあるが、婉曲にiTuneなどの台頭に疑問を投げかけている。敢えていうなら、私などはさらにこの意見を強調する立場にいるわけで、だから、長いことマック派にはならなかった、ということでもあった。

10)だが・・・・・、梅田のような経営コンサルタントが「ビジネス」を疑問視したりするのは、どこか「プロ」ではないということになるのではないか。むしろ、ジョブズなどは、激しく「プロ」意識を持っていたがゆえに、力づくで、梅田流の「ウェブ進化論」をぶっ飛ばしてしまったのではないだろうか。

11)「知的生産の道具」と聞けば大抵のものは試してみるということを続けて、かれこれもう30年近くなる。スクラップブック、京大型カードから始まって、ハイパーカードを使うためにアップルのマッキントッシュを買ったり、アウトラインプロセッサを試したり、ブラウザの出始めのときはその上手な活用法を考えたり・・・・・。

 新聞や雑誌から切り抜いた資料のスクラップには、大量のクリアファイルも使った時期があった。日ごろ使うノートや手帳やメモ用紙やポストイットなども、それぞれ何十種類も試した結果、自分の好みを定め、現在に至っている。p165「ブログと総表現社会」

12)このくだりでは完全に、マックは過去の遺物となっている。それこそウェブ1・0の更に前、という紹介の仕方である。ここで梅田が絶賛していた「ブログ」機能もまた、2013年においては、かなり過去の遺物になりつつある。現在の「マス・コラボレーション」と言えば、やはりなんと言ってもツイッターだろうし、フェイスブックである。しかし、「ウェブ進化論」がでた2006年にはまだ、これらの新しいサービスは登場していなかった。

13)ビル・ゲイツ。パーソナルコンピューティングの時代を切り拓いた天才は、1955年に生まれた。大学に入ってまもなく会社を興し、マイクロソフトは1975年に創業された。早いものでゲイツが50歳に、マイクロソフトも30歳になった。p217「ウェブ進化は世代交代によって」

14)2006年にまだまだ将来を見据えていたジョブズがこの文章に触れたら、逆上したに違いない。ゲイツの仕事も大したものだったが、それを上回るのはジョブズ本人だけなのだ、という自負は強烈に持っていただろう。梅田はグーグルやマイクロソフトを持ちあげるあまり、ジョブズとアップルを、少なくともこの本では低く評価し、見逃している。

15)2013年の現在、インターネットは当たり前のインフラとなり、卓上のパソコンなどは、当たり前の家電となっている。あるのがもう当たり前の時代だ。今や、主戦場は、無線LANであり、スマホであり、タブレットである。グーグルのネクサス7や、ウィンドウズ8などのタブレットも善戦しているが、この分野を切り開いたのはアップルだった。特に最晩年のスティーブ・ジョブズは、渾身の力を込めて、この世に最後の華を咲かせた。

16)たしかにアップル製品は、「知的<消費>の道具」という感は否めない。提供されるエンターテイメントには磨きがかかる一方だが、すべてがブラックボックス化して、DIY的感覚は薄れつつある。こしらえられた選択肢のなかの組み合わせを楽しむ程度に押し込められつつあるように思う。

17)スティーブ・ジョブズには「アートとコンピュータを融合した男」という表現が贈られている。そしてまた、ジョブズは禅にも意識を遊ばせ、コンシャスネスをもまた取り込もうとしていた。

18)「ウェブ進化論」という本自体、当時の状況を一つかみにした梅田が、5週間をかけて作り上げた、ひとつの作品だった。一冊の新書としての完成度は高い。だが、すべてが流動的なものであり、また、もともとがひとくくりにはできないものの総称なのであって、「最終形」とはなりえない。2・0があれば、3・0をも想起させてしまうような、脆弱さがある。

19)それに比し、ジョブズが生んだタブレット革命は、ある種の「最終形」を予感させる。iPodからiPhoneときて、iPadまでくれば、かつてマサチューセッツ大のメディアラボでアラン・ケイが走り書きしたダイナブックは、形としては完成してしまったはずなのである。

20)詳しくは知らないが、グーグルのアンドロイドもリナックスベースだし、iOSも確かリナックスベースになったのではなかっただろうか。梅田いうところのウェブ2.0の三本柱の一つであるオープンソースは、ネット社会の基礎として存在感を確かなものしたといえるだろう。しかしながら、ウブンツやリブレ・オフィスと名前が変わったオープン・オフィス・オーグなども、正直言って、時代の先端からすこし遅れつつあるのではないか。タブレットの時代、リナックスは、私のようなエンド・ユーザーからは限りなく遠ざかっているように感じる。

21)そういう意味では、梅田は確かに日本にウェブ2.0を華麗に紹介してくれたが、当時、揶揄的に、あちこちから言われたウェブ<3.0>、今、それは静かに始まりつつあるのではないか。ジョブズがサイエンスとアートを融合したとすれば、これからの地球人社会は、コンシャスネスとの絡みに、さらに関心を持たざるを得なくなるはずである。

<47>につづく

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『現代思想の使い方』 高田明典

Photo
「現代思想の使い方」 
高田明典 2006/10 秀和システム 単行本 303p
Vol.3 No.0907★★★★☆

1)26人の現代思想家、あるいは哲学者たちが紹介されている。そのリストがウィトゲンシュタインで始まり、ネグリで終わる限り、当ブログとしては無視はできない。その他、フロイト、ニーチェ、デリダ、フーコー、ユング、ハイデガー、レヴィナス、フランクル、ドゥルーズ、マルクスなどと言ったおなじみの名前もあれば、この本で初めて知る人物も紹介されている。

2)お、これは面白そう、と手元においては見るが、なかなかこのような総花的な本には手がでない。ひとつひとつのアプローチは面白いし、著者としてはそのように敬遠されることをこそ避けたいのだろうが、読み手のこちらとしては、やっぱりなかなか簡単に読み込むことはできない。

3)それでも巻末に付録としてついている「現代思想を使いこなすための厳選ブックガイド」はためになる。それぞれの人物の著書を数冊に絞って、導入項を作っている。たとえば・・・

4)ウィトゲンシュタイン
「ウィトゲンシュタインはこう考えた---哲学的思考の全軌跡」鬼界彰夫著(講談社2003)
「ウィトゲンシュタイン全集6」大森荘蔵他訳(大修館書店1975)
「ウィトゲンシュタインのパラドックス---規則・私的言語・他人の心」ソール・A・クリビキ著(産業図書1983)
「ウィトゲンシュタインの言語録---クリビキに抗して」コリン・マッギン著(勁草書房1990)
 

ニーチェ
「ニーチェ入門」竹田青嗣(ちくま書房1994)
「ニーチェ全集十一(善悪の彼岸/道徳の系譜)」信太正三訳(ちくま学芸文庫1993)
 

ユング
「ユング心理学入門」河合隼雄(培風館1986)
「こころの構造」江野専次郎訳(日本教文社1970)
「ユング心理学辞典」A・サミュエルズ他訳(創元社1993)
 

ハイデガー
「ハイデガー---存在神秘の哲学」古東哲明著(講談社現代新書2002)
「存在と時間(上・下)」細谷貞雄訳(ちくま学芸文庫1994)

ドゥルーズ
「批評と臨床」守中高明他訳(河出書房2002)
「ドゥルーズ没後10年、入門のために」(河出書房新書2005)
「襞(ひだ)---バロックとライプニッツ」宇野邦一訳(河出書房新社1998)
「スピノザ 実践の哲学」鈴木雅大訳(平凡社1994)

ネグリ
「未来への帰還---ポスト資本主義への道」杉村昌昭訳(インパクト出版会1999)
「マルチチュード(上・下)」幾島幸子訳(日本放送出版協会2005)
「<帝国>」水嶋一憲他訳(以文社2003)

5)一部既読のものもあるし、今後読むかどうかもわからないが、リストだけは作っておこう。このリストは、このリストの順番で読むことを薦めているところが面白い。ドゥルーズについては、「スピノザ 実践の哲学」をぜひ読みたい。ネグリについては、関心ありつつ敬遠しつつあるところだが、興味深い記述があったので、長文だが引用しておく。

6)<帝国>というネグリ=ハートの概念は、指摘されてからまだ間もなく、ネグリ=ハートによって「解決策の一旦」が提示されてはいるものの、どの程度有効であるかはわかりません。では、私たちはこの問題をどう考えていけばよいのでしょうか。

 ネグリ=ハートは、<帝国>のシステムを「内部から崩壊させる」うえで、マルチチュード(衆合=確固たる組織・体制をもたない人の群れ、群衆)の役割を重視しています。<帝国>の力の源泉はマルチチュードそのものであり、前述のように<帝国>の住民の欲望や不安や反感などが「まとまった動きを見せた」時に、それを力として吸い上げ、管理の妥当性を標榜するのがこのシステムの特徴です。したがって、このシステムの「力の源泉」を枯渇させることを目論むのが近道であるということになります。

 その方法は、「個別の価値観を持つ個人が、ある一つの特定の問題に関しては賛成・反対を述べ、必要である場合にはその特定の問題ごとに集まり、そしてその問題が解決したら解散する」というようなイメージです。それは「一人で反対する」もしくは「一人で賛成する」ということです。そのとき、他に反対・賛成する人がいれば、動きをともにしても構いませんし、また、個別の反対を貫いてもよいでしょう。

 しかし「それでは運動として力を持たない」と感じられる向きもあるでしょう。

 端的に言うならば、「運動として力を持つ」ということ自体が、<帝国>のエネルギー源となっているわけであり、「運動として力を持つ」=「<帝国>というシステムに力を与える」ということになってしまうという「巧妙なシステム」をかいくぐらなくてはなりません。そのために重要なのは「水面下で価値を共有すること」であり、「ともに闘う」という活動を広げることであると思われます(決して「地下活動をする」という意味ではありません)。

 スローガンもなく、組織もなく、単に「個別の問題をどうにかする」ということを考えるためだけの活動であるとき、<帝国>というシステムはそれをうまく取り込んで力とすることができなくなります。「一人で考える」ことの集成としての活動のみが、このシステムに対応しうると考えられます。高田p225

7)この部分がこの本の結論部分であってみれば、仮にネグリの正しい理解ではなかったとしても、高田明典1961年生まれ45歳時の「思想」としてみてみるならば、当ブログとしてかなり親和性があると思われる。また、こう理解してこそ、当ブログがこれまで積極的にネグリを読み込んできた理由にもなるのであり、この視点から、ネグリ再読を試みるのも楽しいはずである。

 

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2013/01/29

『やさしく学べるiPad教科書』


「やさしく学べるiPad教科書 」 iPadの使い方がわからない方これからiPadを購入しようと思っている方に最適です。
増田由紀 2012/08 日経BP社 単行本 153p
Vol.3 No.0906★★★☆☆

1)なぜにアンドロイドを選ばなかったか、と言えば、もっぱら、スティーブ・ジョブズに敬意を表して、ということになろう。時代の趨勢で、いつかはタブレットが登場することはわかっていたにせよ、このような形で、ひとつの基本を示すことができたのは、やっぱり彼が偉大だったからだ、と、いまは素直に思う。

2)かつて初代のiMacで思いっきりFDDを削除した時には反感を感じたが(そしていまだにFDを使ってはいるが)、その先見性と思いっきりのよさには敬服する。今回のiPadだって、かなりのことが削られている。いろいろなインターフェイスがないのではないか、と気にはなるが、逆に、そこはだからこそジョブズの心意気が感じられたりする。

3)ウィンドウズ8などは、こうしてみると完全に後追いだ。それに妥協案、折衷案が横行している。気持ち的にはアンドロイドが一押しなのだが、製品としての完成度は低い。ここは、使いにくさも含めて、ジョブズに一票、という気分になった。

4)まずは画面が奇麗だ。美しすぎる。美しさに関して言えば、とても中古ノートPCには、もう戻れない。それに思いっきり薄いのもいい。音もいい。それにお気に入りなのは、通称、風呂のフタ、と言われるスマートカバー。なるほど、いろいろ考えられている。

5)箱から出して、本当に何も入っていないのには驚く。マニュアルなんてない。だいたいどこがスイッチなのかさえ、初心者の私にはわからない。だけど、いろいろいじくっているうちに、大体わかってくる。多少間違った操作をしても、壊れないようだ、という安心感が湧いてくる。

6)今のところ、バッテリーの持ちも満足だ。LTEモバイルルーターの性能やバッテリーも、私的には十分満足だ。これなら、スマホに変えて、常時携帯も可能だ。使っているうちに、もっともっとわかってくるに違いない。

7)納得しなかったのは、サードパーティ別売りの液晶保護カバー。ケータイやスマホと違って、面積が広いので、張るのが大変。どういう風に張っても気泡が入る。せっかくのレティーナが台無しだ。1日2日ガマンしたが、もう駄目だ。一気にへがした。ネットで見る限り、この第4世代の液晶はかなり頑丈という評判だ(ゴリラガラス?)。スマートカバーを付けている限り、カバンに入れて持ち歩いても、こすれ傷ができることはほとんどないだろう。

8)タッチパネルの指の油脂あとが気になるが、これは仕方ないので、常に傍らにハンカチをおくようにして、すぐにふき取ることにした。

9)私はもともと物理キーボード派である。ケータイも、二台のスマホも物理キーボードがついている。だけど、タブレットでは、物理キーボードはやめておこうと思う。せっかくジョブズが、マウスやキーボードを排除したのだから、それを見習おうと思う。

10)となると、自然にタブレットでできることは限られた範囲ということになるが、それはそれで今はいいだろう。いよいよ飽きがきた時点で、それは考えることにしよう。

11)本体にはマニュアルがついていないだけに、この「iPad教科書」のように、いまさら聞けない、サルにもわかるマニュアル本が別売されるのだろう。だが、この本に書かれているようなことはほとんど、自然に自分でわかるようになっている。

12)私自身もまだまだわからないことがいっぱいあるが、ひとつひとつ解決策を探していくのが楽しい。この本で、役立ったのは、セキュリティを高めるためのパスコード(パスワード)の入れ方。これは、仕事で使う限り、絶対必要だが、最初は面倒だから設定しておかなかった。でも、これは必須。このことだけは、この本が役立った。

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iPad、キンドル、ネクサス7、ウィンドウズ8 『どれがいいのか? タブレット』<1>


「どれがいいのか? タブレット 」 iPad、アンドロイド、キンドル、ネクサス7、ウィンドウズ8 <2>
日経PC21 2013年3月号 日経BPマーケティング 雑誌 p150
Vol.3 No.0905★★★★★

1)この雑誌は、10数年前にウィンドウズ95が出たての時代、よく参考にしたものだった。懐かしい一冊と言える。この頃はお世話になることもなくなったし、ふと店頭で見かけたこのタイトルも、個人的にはすでに解決したことなので、一度は通り過ぎたが、はて、自分の結論は正しかったかどうかの検証のために、一冊買い求めた。

2)年末と年始では、私のネット環境は大きく変わった。大きくは3つ。

・長年愛用してきた高級(私にとっては)ノート・ウィン機がぶっ壊れてしまった。
・ガラケー最終形のケータイが機種代を払い終わった。
・仕事用でタブレット購入が必至となりつつあった。

3)ところが、その環境が微妙にずれた。

・何故かぶっ壊れたはずの高級(!)ノートウィン機が復活した。販売店のロング保証ぎりぎりでうるさかったファンが無料(!)で直ってきた。
・立ち上がらなくなっていたOSの支障が、いじくっていたら、なんと自分で直せた。
・オークションで鳥ガラのような同機種を落札し、薄れかけていたキーボードを交換し、コーヒーをぶっかけてシミのついていた液晶ディスプレイも見事交換した。
・つまり、HDDもメモリーも不自由じゃないので、当面は、このノート機で十分イケる!ということになったのである。

4)ケータイについての気持ちも微妙な変化があった。

・本当はケータイとスマホの2台持ちを早く解消したいために、新しいスマホ+WiFiテザリングを検討していた。
・しかし、どうも納得できない。そのテザリングの性能と価格(!)。
・せっかく機種代を払い終えたばかりのガラケー最終形は、WiFiが使えないというだけで、メールもカメラもワンセグも問題はない。スライド式物理キーボードがついていてお気に入りなのだ。
・スマホというだけなら、ほとんど手数料のみでゲットしたアンドロイド・スマホをすでに2機種所有している。これで、親子共有のモバイルWiFiを使えば、外出先で困ることはない。
・なんてったって、機種代を払い終えたケータイを使うのは負担が少なくて気持ちいい。

5)そして、業務用モバイル環境だが、モバイルルーターとスマホがあれば、大体の情報は外出先でもとれるのである。そうタカをくくっていたのだが、実は、タブレットは客先へのプレゼンに必要なのであって、戦略的投資が必要と、強く感じるようになったのである。

6)最初は、ちょうど出がけのウィン8を考えた。だが、どうも製品としては価格が高い。そして、タブレットとPCの二股という奴が納得がいかない。いろいろなディスプレイ・システムがあるが、どうもいまいち実験的製品という感が否めない。

7)モバイル回線は最初からWiFiを考えた、客先でPCも使う可能性を考えると、やはりモバイルルーターしかあり得ない。現在は親子共用で試用期間中であったが、自分用に買い替えなくてはならない。

8)WiFi型iPadはソフトバンクやAUではあつかわない(くなる)らしいので、購入先は大型家電店で、と縛られてきた。そこで家電店に足を入れたところ、こちらの気持ちを察していたように、タブレット+LTEで5000円引きというキャンペーンをやっていた。これで気持ちはほぼ決まってしまったようなものだった。

9)いつまでもどれがいいのか!悩んでいてもしかたない。どこかで結論をださなければならない。とにかく数日後には仕事用の研修に持っていかなくてはならない。いろいろな手続きや、いくつかの誤算はあったものの、まずは今のところはハネムーン期間である。

10)仕事用のパソコンは、過去十数年、大きく縛られてきた。スタンドアローンの専用機、しかもリース契約で、回線さえ押しつけ、という時代が続いたのである。そこでの出費はかなりのものであった。つい、マックやリナックスでも使えるように、ぜひ改良してくれ、と上のほうに大クレームをつけてやったこともあった。

11)しかし、こうして考えると、わが業界も、このタブレットを皮切りに、iOSでも、リナックス(アンドロイド)でも使えるようになったのである。めでたしめでたし。いや、これは本当に画期的なことだと、私は思う。

12)さらに言えば、さまざまな専用アプリをウィン機に入れて、さらにセキュリティをかなりゴテゴテに設定しなければ、仕事用には使えなかったのに、タブレットでは、クラウド環境が整ったので、ほとんどバリアフリーで仕事ができるようになった。これは大きい。

13)もちろん、全てがタブレットで完結するわけではない。オフィスに戻って卓上のPCで処理しなければならない事務もある。しかしタブレット化にともなって、ペーパーレス化がかなり進んだ。一時期はPCが導入されたがゆえに増えてしまっていた紙の使用量だが、今回はかなり本気だ。

14)この年令になってくると、ああなって欲しい、こうなって欲しい、という気持ちはかなり薄らいで、今のままでいいじゃん、という気持ちで充満してしまいがちだ。だが、タブレット化はそういう気持ちをぶっ飛ばすようなイノベーションだ。これはかなり面白いと思う。

15)重厚なデスクトップ機から解放されて、ノート化して、客先に出向こうとしていた矢先、今度は、ノート機の盗難や紛失で、セキュリティ上の問題から、ノートのモバイル化の推進は喜ばれなくなってしまった。勢い、オフィスでノート機を使って仕事をするというスタイルに逆戻りした経緯が、これまでにあった。

16)しかし、ここにきて、タブレットとモバイルWiFiで、仕事環境は一変する可能性がある。顧客層は、すでに同世代からそのジュニア世代に移りつつある。このジュニアマーケットをつかまないと、やる気があっても市場からは追放されてしまうことになるだろう。

17)そういった意味においても、今度の変化は大きい。タブレットで仕事をすることは、若い年代層の目にも、新しく見える。それもこれも、機種だけではなく、仕事用アプリの開発や、LTE回線の拡充が必要なのであるが、これらが複合的にイノベーションを起こしているのは、私的には大歓迎である。多少の投資的出費の覚悟はできている。

<2>につづく

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Osho『死のアート』<5>

<4>よりつづく 

死のアート
「死のアート」 <5>
OSHO /スワミ・ボーディ・マニッシュ 2001/04 市民出版社 単行本 401p

1)今回のは、10日分あるうちの、一日おきのレクチャー部分を最初に読み、あとから、その間に挟まれた5日分のQ&Aの部分を読んだ。こうでもしないと、なかなか一冊読み切ることができない。

2)そう思って、そういえば、レクチャー部分では何が話されたんだろうか、と思いだそうとしたが、すっかり忘れている(笑)。たしか「死」というワードでこの一冊を読み始めたはずなのに、いわゆるところの、葬式などとつながるような「死」については、この本では語られていない。

3)当ブログでは、科学、芸術、意識、という三つのワードを柱にしているのだが、意識という言葉は、便宜上の検索ワードだ。実際は、宗教という単語が来てもいいのだろうし、本当はそうすべきなのだ。

4)ところが、それこそ宗教という単語は、葬式などとすぐにむすびついてしまうような、手あかのついた言葉になってしまっている。俗で、誤解にまみれている。あえて余計な軋轢を避けるために、あえて当ブログでは、意識という単語を援用してきた。

5)しかるに、この本において、Oshoは、実に単刀直入に宗教という単語を使う。いや、この本に限っていたのではなかったかもしれない。死という単語もまたOsho流に使い切るように、Oshoは宗教という言葉を、彼一流の意味に吟味しなおす。いや、むしろ本質的に彼が言っていることが正しいのだ。

6)私は、この生がすべてではないことを知っている。大きな生がその背後に隠れている。隠れているのはこの生の背後。だから、この生に逆らって大きな生を見出すことはできない。あなたは、あくまでも、この生に深く浸って大きな生を探さなくてはならない。

 海には波がある。海は波の背後に隠れている。もし、荒れ狂う波を見てそれを避けるとすれば、海とその深みをも避けることになる。飛び込みなさい。波は海の一部だ。深く潜れば波は消え、深みと海の絶対的な静寂が現れる。p80「失うものは何もない」

7)決してマニアックな興味本位な関心を満たすほどではないにせよ、絶妙なバランスで、エソテリックな事実が、さりげなく開示される。

8)世の古い宗教は、みな抑圧的だった。新しい未来の宗教は、自己表現的なものになる。私は新しい宗教を教える。表現を、生の最も基本的なルールの一つとしなさい。表現したがために苦しむ羽目になったとしても、苦しむがいい、決して敗者にはならない。あなたはその苦しみによって、次第に生を楽しめるように、生の喜びを味わえるようになる。p375「東洋と西洋を越えて」

9)何度も何度も触れているはずのOshoの言葉だが、触れるたびに新しい意味づけがもたらされる。ひょっとすると前回私は何も読まなかったのではないか、とさえ感じる。いったい、なにをどう読んでいるのか、と、自分でも定かではなくなってしまう。

10)当ブログも、大きな意味においては自己表現の一つだ。べつに苦しんでいるわけではないが、であるということは、まだまだ「強烈」な自己表現になっていない、ということなのかもしれない。

11)この本、Oshonの本なのに手元に持っていない。毎回図書館から借りてくる。まぁ、数ある中の何冊かはそういうエピソードがあってもいい。べつに所有しなてくもいい。(英語版は持っているから、日本語を購入するのを急がないのか) でも、きっとまた読みたくなるに違いない。

12)次回はどんな読み方をするだろう。話されたのは1976年。23歳の私がプーナを訪れた前の年のこと。当時の私にもわかることを、今になってようやくわかることと、もっと先にいかないとわからないことも、含まれているようだ。

13)前期と中期と後期、そのようにOshoを分けるとするなら、この本は、前期を終えて、ようやく中期に入ろうとする時期のOshoの講話である。45歳。サニヤスムーブメントをいよいよ本格的に始めようとするマスターワークの、鋭い刃が、キラリと光る。

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2013/01/28

『世界の葬送』 125の国に見る死者のおくり方<2>

<1>よりつづく 

世界の葬送
「世界の葬送」 125の国に見る死者のおくり方 <2>
松涛弘道 / 「世界の葬送」研究会 2009/06 イカロス出版 単行本 166p

1)なぜか、この本を読みたくなった。前回のメモを読みなおすと、感想はそう変わったものではない。今回の読後感をメモしようとすると、前回とほとんど似たようなものになるだけだ。

2)この本を読んでもう2年半近くなるのか。あっという間の間だが、いろいろあった。まず、3・11があった。多くの人びとが死体となった。そして、近頃では、次々と友人たちが逝った。そして、一番は私自身がそれだけ年令を重ね、自分の葬送に、一歩も二歩も近づいた、ということになる。

3)再読してみて、火葬→葬儀→埋葬、というプロセスは決して世界標準ではない、ということが分かった。火葬は世界標準ではないのだ。世界標準で考えれば土葬が多いようだ。ましてやイスラム圏では火葬は厳禁ということである。

4)さらに火葬と言っても、灰になるまで焼くのが世界標準なのであって、日本のように「遺骨」が残るような「技術」が発達したのは、むしろ異様であって、オカルティックでさえあるらしい。

5)現代日本のように「代々墓」も、決して世界標準ではない。125の国がレポートされているが、こうしてみると、125の方法がそれぞれに存在しているようだ。ライフスタイルも精神構造も異なっていれば、それぞれの文化としての葬送が、それぞれのスタイルを持っていることは、当然といえば当然だ。

6)結論として言えば、私は日本にいて、ほとんどが日本の親族や友人たちに送られる限り、日本人としての標準形態で送られることに、なんの不平もない。遺族がある限り、遺族がそれなりに送ってくれるだろう。

7)現在のところ、散骨なども関心はない。墓は必要だろうが、特段に大きな工夫は必要とは思わない。むしろ残された家族が納得のいくような形であれば、それはそれでいいと思う。経済的に極端に負担になるようでも困るし、あまり粗末で、自分たちが恥ずかしいようでも困るだろう。

8)本質的には、私は、無縁仏になっても構わない。家族や親戚に囲まれて暮らしているから、今はそう思うのかもしれない。みんなに忘れ去られて、お盆やお彼岸になっても、誰もお線香をあげてくれなくても、そのこと自体は、特段に悲しいとは思わない。

9)しかし、いるはずの親族や子孫が死に絶えて、焼香したくてもできない、というのでは困る。そういう意味では、私には私なりのふさわしい墓があり、私にふさわしい程度の遺族や子孫があって、それなりに幸せに暮らしてくれている、という証で、私に焼香してくれるのなら、それはそれで、私の墓は役に立っているのではないか、と思う。

10)墓は遺族が建てるものだ、という意見がある。かたや墓は自分が生前につくるものだが、なにもないときに作るべきではない、という意見もある。墓だけではなく、家庭におく仏壇も、縁もないとんでもない時に買うもんではないという人もいるし、いや、心のおきどころとして、いつ買っても構わない、という人もいる。

11)少子化傾向で、すでに親の墓がある人も多いし、むしろ、ふたつみっつの墓を自分で管理しなければならない、という人もいる。代々石に、ふたつもみっつも複数の何々家の墓という文字が躍る時代になっているのかもしれない。

12)現実的には、時代に合わせて、どのような形でも構わない、と私なら思う。あんまり粗末でも困るが、華美になったり、独創的にでありすぎることもない。ごくごく普通でいいと私は思う。

13)法名はどうするか。生前の名前の墓でもいいかもしれないし、サニヤス名でもいいかもしれない。しかし、それは少数派だろう。私の地方では、ましてや私の親族では、生前名やサニヤス名では、ちょっと浮いてしまうだろう。そこそこの法名をつけてもらうのが、子子孫孫にとっては、納得のいく方法だろう。

14)だけど、そのようなことを考えていること自体、幸せなことだろう。遺体を探そうとしても見つからず、人知れず死を迎え、誰にも発見してもらえないこともありうるだろう。戦争で亡くなって、葬送さえしてもらっていない「英霊」たちも、いまだにたくさんある。私はそれでいいのだろうか。

15)たぶん、私はどのような死を迎えることになっても、結局はそれを受け入れるだろう。悲劇的な結末であっても、受け入れるに時間がかかっても、やはりそれを受け入れるだろう。地縛霊などにはなりたくないし、ならないだろう。だけど、いまだからそう言っているだけで、ひょっとすると、とんでもない結末になるのかもしれない。

16)そういう可能性も含めて、このような本を読んでおくのはためになる。すくなくとも、地球上にいる限り、このような範囲で私は送られるだろう。どれもこれも決して「標準」ではないが、どれもこれも受け入れて、受け入れられないものではない。それはそれで、その時、受け入れればいいのだ。

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2013/01/27

ジェームズ・キャメロン 『アバター』


「 アバター 」  
ジェームズ・キャメロン 2009年公開 DVD 162分
Vol.3 No.0904★★★☆☆

1)1月はまだお正月気分なのであろうか。先日何気なくテレビのチャンネルを回したら、この映画をやっていた。一時間も経過したあとなので、すぐ終わるだろうと思ってみていたら、なんとそれから2時間ほど続いた。長編作である。正月特番だったのだろう。

2)いまいち作風が好みではないので、ながら見をしていたのだが、これがなかなか面白い。最初はどういうストーリーの展開だったのだろう、と、図書館からDVDを借りてきて見直すことにした。

3)3時間に及ぶ大作であり、なにやら「タイタニック」(も、まだ見てないが)を越えて世界興業収入歴代1位、ということだから、だいぶヒットした作品に違いない。こういう世界にはもともと若い時から関心は薄い。だいたい、チャンバラが嫌いなのだなぁ。

4)でも、アバターという概念には関心がある。人間の意識と、バーチャルな肉体が、織りなす不思議な展開は、「マトリックス」を見たときも興味津津だったのだが、どうもあのチャンバラで飽きてしまう。どうしてエンターテイメント作品はあんなにチャンバラが好きなのかな。

5)バーチャル・ゲームのセカンドライフは現在どうなっているのだろう。あれはあれで大好きな世界だったが、結局は、来る人があまりに少ないので飽きてしまった。こちらはこちらで、チャンバラが足らなかったのだろうか。

6)ティム・ゲストの「セカンドライフを読む。」(2007/11)を読んだ時、最初に登場してくるのは、体に不自由を持つ子供たちがバーチャルな体を持って、バーチャルな世界で自由に遊ぶシーンだった。なるほど、こういう活躍の方法もあるかと思った。ティムはコミューンで育ったサニヤシンの子供だったが、有名になって数年で亡くなってしまった。

7)意識は意識としてあり、バーチャルな肉体を操る、という設定は、「マトリックス」も「アバター」にも共通する要素だが、セカンドライフにもそういう効用があった。でもよくよく考えてみると、人間の世界はことごとくそういうものなのかもしれない。

8)今回は、自由に着脱はできないにせよ、この肉体とこの環境を与えられて、この生を生きているのだ、と思えないわけではない。そのように相対化できるのであれば、人生そのものをゲームとしてみることも可能であろう。

9)CGもすごい。どこからが実写でどこからがCGなのか、なんてことは、もう私のようなシロートにはまったくわからない。最初の導入部分はやっぱり見ないことにはこの映画の全体像はわからない。

10)ただ、映画のストーリー全体は陳腐なんじゃないか。よくあるストーリーのような気がする。大画面で、すっかりはまりきってみれば別なのかもしれないが、このような映画の異空間には、いまだにのめりこんではいけない。どうも覚めていて、現実のほうが面白いと感じてしまう。

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2013/01/26

『17年目の告白』


「麻原集団事件17年目の告白 」
+有田芳生 2012/12 扶桑社 単行本 325p
Vol.3 No.0903採点不能

1)当ブログは、この本と間にリンクができることを好まない。できればメモしないままに通り過ぎたい。しかしながら、すでに「麻原集団事件関連リスト」として類似本を30数冊を取り上げている以上、この本だけを無視するということにも一貫性がない。

2)とにかく、この本のタイトルは拒否したい。オウムというマントラは、麻原集団とはなんの関係もない。当ブログとしては、「OM MANI PADME HUM一覧」として、このマントラが登場した本をすでに数百冊リストアップしている。

3)福島がフクシマと呼ばれてしまうように、AUMがオウムと呼ばれたときに、悲しい連鎖が発生し、胸が痛む。当ブログは、あの17年前の事件は、麻原集団(狂気)事件とだけ記しておきたい。

4)当ブログは、この集団性には一切関係はない。あえてこの集団に関心があったのは2点においてだけだ。

5)ひとつめの接点は、1988年当時、毎週通っていた在宅カウンセリングのクライエント宅から帰る途中、毎度立ち寄るロードサイドの書店に、なぜかこの集団の書籍がいつも満載になっていたことによる。当時カウンセラーとして複数の人びとの話を聞くことがあり、さまざまな集団性について、しかも内部的なことも聞くことがあった。だから、いろいろあちこちの話題には関心があった。

6)彼らの出版物のまずは滑稽なことは、空中浮遊という写真が何度も繰り返し掲載されていたことだ。これが決定的に、実にアホらしかった。この写真は、近辺の弟子たちが持ち上げて、上から下ろした途中の写真だということが判明したが、そんなことは最初からわかっていなければならない。

7)つぎに、いつのころからか、この男の肩書に最終解脱者という文字がくっついた時だった。この言葉のセンスにはまったく拒否感以外のものは浮かばなかった。あえてその表現されるべき状態を、自分の知っていた単語で言えば「十牛図の十番」であろうが、その境地と、この男が今後船出しようというステージとはまったく異質なものであった。

8)三番目に、あ、こりゃだめだと、完全に否定せざるを得なかったのは、1990年代になってからだと思うが、自分たちの組織を庁やら省やらという「国家組織」に見立てていることを知った時である。

9)奇しくも、これらは仏教でいうところの三宝に対応している。持ち上げられて上から落下している最中の写真をもって自らの存在を誇示しようとする男を「仏」とし、この男の心境を「最終解脱」として据え置くことによって、その周辺に妄想をはびこらせて「法」とした。そして、国家に見立てた組織に無意味な意味づけをした集団を「僧」とした。これだけアホを重ねる集まりもそうそうあるまい。

10)ところがこれだけ、明明白白の虚偽集団なのに、あるいは稀であるからこそ、そのシステムにまんまと引っ掛かる者たちもいたわけである。その代表格なのがこの書籍の著者である。17年が経過しようが、170年が経過しようが、こんな人物の本などアホらしいと思う。

11)二点目の接点とは、事件後、当該集団と、「私たち」がなんらかの類似性があるかのような報道がマスメディアで起こりかけたことである。これは、全国の仲間たちとの連携で、なんとかその虚偽報道は食い止めることができた。

12)その後は、ひたすら無視し続けた。注目したり、解釈したりすることなど、全く無意味だ。

13)その後、21世紀になって、図書館通いを始めてから、この集団性についてたくさんの本がでていることを知った。最初、例の通り無視していたが、暇にまかせて数十冊は読みこんでみた。それも、このブログをスタートさせた後も2006年も押し迫ってからだった。

14)思えば、この本の著者もちょうどそのころ、服役後に集団生活をしていた当該集団から「脱会」しつつあったようだ。現在は別な団体の名を名乗っている。上記で触れた仏法僧についての解釈は、大きく変わっているようだ。

15)特定の絶対者、超越者を中心に据えない、新しい智恵の学びの場であり、入信や入会をしないと救われない、ということを唱えない(p306)という趣旨を述べている。上記の逆手を行っているようでもあるが、逆の逆が真であるのか、ということは必ずしも、この世界では言えない。逆の逆もあり、そのまた逆も、さらにそのまた逆もありうるのであり、汚れた手をひっくり返しただけで、はい、現在の私はこのとおり、というだけでは、とてもまともとは言えない。

16)正直言って、この本を読むことによって得られるものは何もない。

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2013/01/25

『55歳からのフェイスブック入門』 小川和也 <1>


「55歳からのフェイスブック入門 」 もっと広がる!もっと深まる!人と人がつながる豊かな生き方!<1>
小川和也 2012/09 海竜社 単行本 260p
Vol.3 No.0902★★★☆☆

1)玄関をでて右に曲がれば、数キロ先にひとつの図書館があり、左に曲がれば、その数キロ先にも、もうひとつの図書館がある。ふたつの図書館を使い分けることは、けっこうな楽しみであった。

2)3・11でふたつの図書館とも被災し、右側の図書館は数ヶ月で復興して、すでに震災前にも劣らないサービスを展開している。しかし、左側の図書館は、老朽化していた建物自体がダメージを受け、ほとんど図書館サービスをできない状態がつづいていた。

3)先日テレビのニュースで、この左側の図書館が、木造建築で復興したと報道していたので行ってきた。さすがに報道されただけあって久々の来館者たちで賑わっていたが、完全復興というわけにはいかない。とり合えずの仮住まいという程度だ。それでも、各地からの援助によって復興しつつあるのだから、ありがたい、と感謝に耐えない。

4)せっかく行ったのだから、何か借りようと思ったのだが、最近、どうも読書欲が落ちていることと、来館者が多くて、すでに人気本は借りられたあと、ということで、ほんのおつきあい程度レベルの数冊を借りてきた。

5)この「55歳からのフェイスブック入門」も、いまさら読みたい本ではない。本当はタブレット関連を借りたかったのだが、ないので、まぁ昨年の9月発行ということなので「新刊本」に属するものだろうと、こちらを借りてきた。

6)当ブログの流れから考えると、科学→芸術→意識、という流れで、読書のテーマが意識に集中して、いいところまでいくと、科学に戻される、ということが多くあった。瞑想→IT、という流れがどうしてもある。流れというよりは補完関係なのだろう。

7)最近、仕事の流れに押されて、タブレット+LTEモバイルルーターの環境を整えた。本当は、すでにあったスマホ+モバイルWiFiで十分だったのだが、時代の潮流とは恐ろしい。なるほど、スマホにはない活用方法がタブレットにはある。

8)タブレットは、実際に顧客に会うためのツールである。情報を取るだけならパソコンやスマホで十分だ。だけどプレゼンをするならノートパソコンは重厚すぎるし、スマホは軽薄すぎる。タブレットはそこの隙間をたしかに埋めている。

9)フェイスブックなどのSNSは正直飽きている。個人的な人間関係は飽和状態だ。これ以上増やす必要もないし、SNSをやらないからと言って、人間関係が狭くなったり、円滑じゃなくなる、なんてことはない。

10)どこに行っても表現力豊かな人は豊かで、寡黙な人は寡黙のままにとどまることが多い。だから、声なき声もきちんと聞こえるような人間にならないといけない。

11)現在の55歳と言えば、昭和33年あたりの生まれ。インターネットが爆発した1995年にはすでに37歳になっていたわけだから、ネットをもっとも愛するという年代のピークを越えていただろうが、むしろ、そのネット社会を切り開いてきた世代だともいえる。

12)ましてや、ビル・ゲイツや、スティーブ・ジョブズの後輩になるのだ。いまさらインターネットやらSNSでもあるまい、と私なら思う。大体において、これまで消極的な連中は、これからも消極的でしかない。この年令になると、すでに本当にフェードアウト予備軍になっている連中もいるんだなぁ、これが。

13)ニフィティやmixiを越えてフェイスブックに移ってきたわが友人たちは、ほとんど猛者たちが多い。どこ行ってもこいつらは発言するし、元気だ。フェイスブックの次のトレンドが来たってどんどんついていくだろう。70になったって、80になったって、元気であるにちがいない。

14)だけど、その傍らで、声なき声、ネットワークから外れて、存在自体がスタンドアローーーーンになりつつある同世代がどんどん増えているんだよなぁ。こいつらが、フェイスブックなんかやるはずがない。だいたい、ネットに関心がなく、パソコンも持っていない。ケータイ、スマホもお呼びじゃない、という生活に入りつつある。

15)私も正直言って、SNSはうっとうしいと思うことが多い。しょうもない話題が多く、どうでもいいことを聞きたくも見たくもない、と思う。だけど、そうであることを確かめに、結構しょっちゅうSNSを覗きにいく。もともとが好きなんだろうなぁ。

16)最近そろえたタブレット+LTE環境も実は、バーチャルな付き合いを増やしたいわけじゃない。むしろリアルな出会いのツールとして使いたいと思っているのだ。ネットピーク世代の30代の連中とも話題をつないでおきたいし、むしろ、わが世代のところで、さっと取り出して、さっと話題提供できたらいいだろうなぁ、と思う。

17)パソコンだけじゃぁ、なんだかこの頃は重すぎる。スマホじゃ小さすぎる。老眼が進む。このごろ、ようやくスティーブ・ジョブズは偉かったな、と思うようになってきた。確かに彼はITとアートを繋いだ男だった。そして、コンシャスネスだって繋いだのだ。

18)スティーブ・ジョブズも死んじゃったけど、わが友人たちもどんどん死んでいる。私もいつかは逝くだろう。そろそろ墓地のことなども、平気で話題になる世代である。だからこそまた、フェイスブックあたりで旧友を見つけておいて、最後のメッセージを交わしておいたほうがいいのかもなぁ(笑)。

<2>へつづく

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2013/01/23

よみがえる記憶 ガリ版ミニコミ雑誌『時空間』12 <2>

<1>よりつづく

Photo
「時空間」12号
雀の森の住人たち 1975/11 ガリ版ミニコミ 104P

1)盟友・流峰に尋ねたら、苦もなく一冊プレゼントしてくれた。彼とてそんなに多く蔵書しているはずはない。裏ページに自分の名前が書いてあるものをくれたわけだが、ひょっとすると、夫婦それぞれに一冊づつ保管していたものの一冊なのではないか、と推測する。

2)永年忘れていた一冊だが、私がこの実質的な「休刊号」を、忘れたままにしていたかった気分もわかる気がする。あの号を編集しようとしていた時、私の心はすでに雀の森や「時空間」にはなかった。すでに混沌とし始めていたのだ。

3)私は創刊号から「まがじん雑学」というコラムを連載していた。いつもは他にも一文加えていたのだが、この号では「まがじん雑学」しか書いていない。その中には5冊のミニコミの書評が書いてある。その一番目がニューズレター形式の「存在の詩」である。

4)この号で、いしかわ邑人(石川裕人)は、「夢魔のめる篇 連載第3回 奇妙な永遠」を書いているが、これについては次回に回す。他にも高木勤介の「超科学講座 前世」や流峰の「’75CARAVAN独断的総括」など、興味深い記事で満載だが、これらも次回に回す。

5)この号の表紙も私がカッティングシートを切り抜いて、押入れのフスマを外した印刷台で、徹夜でシルクスクリーンで印刷している。21才当時の自分の作品としてはまずまずなのではないか、と思う。

6)1975年当時、Oshoは一部の仲間たちにしか知られていなかった。この当時Oshoについて書かれた書評はほとんどなかったに違いない。その中にあって、わが「まがじん雑学」に登場した一文は、かなり先駆的な紹介であっただろう。

7)あぱっちの「なまえのない新聞」や「DEAD」に触発されて作られた「週刊雀の森」や「時空間」を作り始めた私の青春は、Osho+プラブッダの「存在の詩」でトドメを刺され、一時代が終わった。流峰とプラブッタが同じ高校の同学年生であった、ということも、今となって思えば、それこそ「前世」からの仕組みであったのではないか、とさえ思える。

8)「存在の詩」

 数年来、ぼくらの友達の中からインドに渡って様々な体験をして来たり、人生上の価値観についていささかの転換をし始めた人達が増えて来たが、その人数に比較して、それらの本質を説得力を持って書かれたものはそれ程多くはない。

 瞑想とかトリップについて、グルとかパイロットとか言われるものとの出会いは大切であるし、また貴重な体験であると思われる。そんな意味でみんなに紹介しておきたいのが「存在の詩(うた)」というかなり吟味された雑誌だ。

 オフセット印刷B5版70頁の誌面は、然(ぜん)が昨年12月から5ヶ月間そのもとで暮らしたインド・プーナに住むバグワン・シュリ・ラジネーシというグルとの出会いとその講義、あるいは講義によく引かれる処のチベット仏教タントラの始祖ティロパの詩などに大半を費やされている。

 ラジネーシの説く処の深淵な内容に比して平易な文体で綴られているのでとても分り易い。また動的瞑想法とかクンダリーニ瞑想法と言った特色ある興味深いことどもについても紹介されている。この8月に創刊されて現在2号目であり、これからは月刊ペースで進めるそうで、そのエネルギーに期待されている。

 然(ぜん)とはぼくはまだ一回しか会ったことがないのだけれども、3・4年前にぼくが日本一周トリップをした時の途中だった。当時、彼らは熊本の花園神社(だったと思う)の境内の中で、神にささげる食事という意味の「神饌堂(しんせんどう)」という自然食堂を中心にコレクティブ「虹のブランコ族」を組んでいた。

 ラビシャンカールが流れ香が焚き込まれた床の間にカラスがちょこねんと座っていると云う落ちついたムードも良かったが、そこを目指して階段を登っていく時、目的のいささか古びた二階屋の雨戸に大きな白文字で書かれた”LOVE”が輝いていたのが、印象的だった。

 ここ二・三年ちょっとニュースが途絶えていたのだけれども、また出会えてうれしい。p98「まがじん雑学連載第12回 雑誌らんだむ 阿部清孝」

<3>につづく

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2013/01/16

OSHO『死・終わりなき生』<2>

<1>からつづく


「死・終わりなき生」 OSHO講話録<2>
OSHO 1989/08 講談社 単行本 343p

1)本来は、当ブログとは、ひたすらOshoを読む込むべきブログであるはずなのである。すでに終着点はわかっているのだから。読むべき本もたくさんあり、しかも場合によっては内容さえすでにわかっている。その本たちはすぐ手元に山積みになっている。

2)しかるにこれが「読めない」。読みにくい、ということではない。面白くない、ということではない。読み方を知らない、ということでもない。だが読めない。それはなんだろう、と以前から考えてきたが、そもそもがOshoの「本」は、「読まれる」べきものとして存在しているわけではないのではないか、と思う。

3)敢えていうなら、Oshoの本は「生きられる」必要がある。エンターテイメントとして楽しむべきものでもなく、情報として消費されるものでもなく、知識として整理されるべきものでもなく、観念としてもてあそばれるものでもない。それは「生きられる」必要があるのだ。

4)「死のアート」を半分読みかけつつ、こちらの本も思い出し、手を出してみる。明確に書いてはないがこの本は、1960年代末か70年代初めにOshoが主にインド人の信奉者たちを瞑想へリードしようとして行われたキャンプの講義録だ。テーマにはたしかに「死」が含まれているが、もちろん主テーマはいかに生きるかだ。そして「瞑想」の技術が語られる。Oshoはまだ30代であろう。

5)他者の本においては、可能性のひとつとして書かれていたり、あるいは懐疑的であったり、あるいは否定されていることではあるが、Oshoにおいては「転生」はごく当たり前の基本的な、イロハのイ、一丁目一番地、導入句としてさえ存在している。

6)シュタイナーのようにその「システム」に拘泥するわけでもなく、そのことを知ることを手柄にするようなヘミシンクのようでもなく、その部分にだけ集中して学問するキューブラ・ロスのようでもなく、Oshoにおいては、ごくごく転生はあたりまえのことだ。あるいは、だからこそ、今、ここを生きろ、と強調する。

7)もし殻すなわち肉体と、中身すなわち意識が、今この瞬間に分かれたなら、死は終わる。その距離をつくりだすことによって、あなたは、殻と中身が別々のふたつのものだということを、殻が砕けてもあなたは生き残りつづけることを、<あなた>の崩壊の消滅などといった問題は存在しないことを、知るようになるだろう。

 それでも死は起こる。しかし、それがあなたの内側までに浸透してゆくことはない。----死はあなたの<外側>で起こる。つまり、あなたではないものだけが死ぬということ。あなたそのものは生き残るということだ。

 これこそが瞑想の、サマーディの意味だ。殻を中身から離すすべを学ぶこと。このふたつを分かつことは可能だ。なぜならこのふたつは現に別れているのだから。このふたつを別個のものとして知ることは可能だ。

 なぜならこのふたつは別個のものなのだから。だからこそわたしは、瞑想を自発的な死への参入と呼ぶのだ。そして、喜んで死へおもむく者は、死と出会い、「死はそこに在る。しかし、わたしはまだここにいる」と知るようになる。p22「死とは偽りなり」

8)当ブログには、時折、転生魂・多火手が登場する。それは個体史を越えた、一つらなりの存在の連続体である。決して表面に主人公としては登場しないが、もっとも中心となる主体と言ってもいい。Oshoに挑発されれば、彼をまた前面に押し出そうとする「エゴ」も強まる。

9)しかしながら、要注意である。この講話はたぶんインドの大衆に向かって話しているものである。必ずしもインド人向けに限定しているわけではなかろうが、語り口がインド人マインドに適応しやすいように語られているはずだ。たぶんヒンディー語で語られてもいる。それが英語に訳され、日本に再翻訳されている。

10)別な語り口では、これらが一切合切ひっくり返されることがある。だから、この語り口から、「死」や「転生」を合理化し、整合性を持って「哲学」にしてしまうことは厳禁である。

11)これらの語り口を、まるでライブ音楽を聴くかのように、楽しむしかない。一口味わっては、箸を置き、そのうまさを身にしもわせながら、かおり、雰囲気、リズム、内側、外側、感じ、生き、そしてもう一口ほおばる。そのようにして、Oshoを味わっていくに限る。

12)この本、7話あるが、ようやく1話読んで、ほっと一息、ああ、きょうはごちそうさまでした、と、退散するしかない。

つづく・・・・・

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2013/01/14

『魂とは何か』 さて死んだのは誰なのか<3>

<2>よりつづく

魂とは何か
「魂とは何か」 さて死んだのは誰なのか<3>
池田晶子 /わたくし、つまりNobody 2009/02 トランスビュー  単行本 255p

1)今年は正月早々、再読モードである。どこかで終わりたい、どこかで一区切りしたい、という思いが、過去に書いたメモを振り返えさせる。そして、どうもタイミング悪くて熟読できなかった本や、いずれ精読しようと、初読で終わっていたものを、もう一度読みたいと思わせる。

2)当ブログにおいての、カテゴリ「メタコンシャス 意識を意識する」は一つの極であった。あそこは陰極まって・・・という部分にあたるだろう。そして、陰極まって突入したのが「森の生活」であった。そしてもう一つの極の「マーケットプレイス」へと回帰する。これら陰陽が相融合する姿をとりあえず「Meditation in the Marketplace」と捉え、当ブログの縦横の全体サイズはこれで決定したことになる。

3)いま、<魂>、これについて考え、語りだそうとして、私は深く絶句する。絶句するのを自覚するのだ。
 わからない!
p9「ポスト・オウムの<魂>のために」 

4)今は言葉遣いについては細かくは問わない。しかし、<魂>は、考えることはできないだろう。もちろん<魂>は感じることさえできない。少なくとも形而上的な観念として、あるいは哲学として、合理的な、論理にはなりようがないのだ。

5)当ブログでは池田の<魂>に置き換えて「意識」を使った。意識とは何か、と考えることもできなければ、感じることもできない。そこであえて「意識」を「意識」するという、メタコンシャスを登場させた。これはほとんど「瞑想」と同義なのだが・・・・。

6)結局、意識はいくら意識されても、結局は具象性、具体性から、離脱することはできない。意識は宇宙に充満しているものだとしても、結局、「私」が感知している時空間に満ちている意識が、すべてであると言える。

7)まったくの真空の空間があったとして、そこに一つまみの埃があり、その埃によってこそ、全宇宙空間の存在が証明されるようなもので、何もなければ、そこは空間でもあるわけがないのだ。

8)つまり、「死」において、「私」が認識するこの身体の領域、そして認知される範囲に満ちているものが「意識」なのであり、つまり「魂」と換言することもできる。肉体として「死」に得る「私」が表現するからこそ、「意識」は「魂」として存在し、活動しうるのだ。

9)「意識」もまた、その意味では自明な存在である。それは万象を透過する透明な「地」のようなものである。<魂>はむしろ、その「地」における「図」に当たるのか。「精神」は思考する機能として、これもまた自明である。わからないのは<魂>、この不透明な結節なのだ。これは、思考する精神とは明らかに異質な存在である。精神は魂を思考しようとして思考できない。p33「<魂>の感じ方」 

10)本書の「魂とは何か」というタイトルは編集部が考えたものであろうが、そもそもはこの本の改訂前は「魂を考える」だった。科学や、芸術なら「考える」でもよかっただろう。芸術の一分野としての哲学、とくに彼女の哲学エッセイにおいては、「死」を考えたり、「私」を考えたりするこは、まずはありえただろう。しかし、「魂」の領域は、考えたり、思考したりすることによって理解されたり認知されたりするものではない。あるいは感じたり、五感で捉え得るものではない。

11)本書では「魂」がテーマではあるが、早々とテーマと全うに取り組むことを放棄し、彼女は当ブログでいうところの「マーケットプレイス」(市井)へと戻ってしまう。結論としてはそうならざるを得ないのだが、もうすこし全うに「魂」ととりくまなくてはならないだろう。当ブログ風に言えば、瞑想が必要なのだ。

12)<魂>を「書く」のが、こんなに大変なことだとは思わなかった。率直なところ、甘くみていた。
 <魂>を認識することの難しさに比べれば、<神>を認識するなんてのは、いかほど簡単なことだったか。それは、論理的に考えれば、明瞭な仕方で指示し得る存在だし、また論理を経由しなくとも、少なくとも私にとっては、端的な仕方で直観し得る存在でもある。神は簡単である。しかし、<魂>は難しい。「上がり」の手前で、うごめくもの。
p33同上

13)文学界からは文学ではないと言われ、哲学界からは哲学ではないと言われるのが、彼女の「哲学エッセイ」だという。いわゆる「界」に属さないのであれば、独自の心境に浸っていればいいわけだから、別に、<神>を認識するなんて簡単だ、ということは可能だろう。しかし、<魂>がわからず<神>がわかるというのは、論理矛盾であろう。「クルマ」はわかないけれど、「自動車」ならわかる、と言っているようなもので、言葉の使い手が言葉に振り回されているだけだ。

14)がんでなくても人は死ぬということが、きちんと認識されてさえいるなら、がんであるということと、死ぬということとは、なんら関係がないということも、わかるはずである。在るのは現在だけである。すなわち、死は存在しない。p95「<魂>のインフォームド・コンセント

15)長年飼っていたコリー犬の死にうろたえる彼女である。頭の中で、思考として、哲学として考え続ける「死」と、実際に自らが遭遇する「死」とでは、まったく意味が違う。ケン・ウィルバーがどれほどスピリチュアリティの統一場のようなものを考えようと、「グレース&グリット」に表現されているように、結婚直後の配偶者のがん告知から死に至るプロセスにつきあう時には、その冷徹な知性も役にたたない。

16)逆に言えば、頭の中で「死」を哲学することなど、市井の中で「生きて」あることに比べれば、屁でもない、ということになる。犬の死に、あれほどうろたえるのに、結局は、46歳でがんで亡くなっていく自分を見つめる時、彼女は本当に、がんと死はなんのつながりはない、と思えていただろうか。

17)つまり、「見る」という言い方で言われている意味が、違うのである。目を開けて「見る」ことと、目を閉じて「見る」ことは、同じ「見る」ことではない。目を閉じても見ることができる限り、それは外界を見るためにこの眼球によって「見る」ことではない。

 したがって、その意味では、「脳が見る」という言い方はじつは正確で、眼球によって見ているのではないのだから、脳が見ているとしか言いようがないからである。しかし、眼球によらずに「見る」というのは、いったいどういうことなのか、人類は、この事態を言うための動詞をまだ発明していないというほうが、より正確だと私は思う。p124「何が生きているのか」

18)う~ん、池田晶子、まだまだだな。目を閉じて見るのは、眼球を通じてではないし、もちろん脳が見ているわけではない。そして、目でも脳でもない物が見ている、という「動詞」はすでに、古代から人類は重用してきている。彼女が今回の生でめぐりあわなかっただけである。

19)ヘーゲルに共感を寄せる彼女。正、反、合、の弁証法だけですべての真理を解き明かすことは不可能だ。弁証法そのものを正とし、反・弁証法を対峙させることによって止揚されるものをこそ彼女は見つけるべきだった。

20)私はもう長く、「心理学」というものを敬遠していた。いまにして思うと、いっとう最初に、フロイトに当たったのがいけなかったのだと思う。ただでさえ茫然と捉えどころのない事柄なのに、あんなふうな帳尻の合わせ方はあるまい。p126同上

21)フロイトが自らの世界を閉じた世界にするために捨て去ったものは多く、仮にそれが彼女が高く評価するユングに受けつがれたとしても、彼女自身の目が曇っていれば、誰とであおうが同じことなのだ。「心理学」の体たらくをけなす前に、自らの「意識」の鈍感さをこそ恥ずべきなのだ。

22)ユング心理学を継承発展させたトランスパーソナル心理学も、近年とみに成果をあげているが、成長と統合の「物語」は、非常におさまりがいいぶん、自身の物語性を忘却しやすい、そんなふうにも思える。p129同上

23)トランスパーソナル心理学は、21世紀においては減速しているのではないか。さらなるステージが必要とされている。当ブログはOshoに倣ってそれを「ブッタ達の心理学」と表記しているが、たぶんそれはもう「心理学」ではないのだ。

24)おそらくは、我々の言語アラヤ識それ自身が、自身を自覚化することで無限に生成を重ねていくように・・・・と続くのであろうか。全人類の全歴史を射程に入れて、なおその向こうを望見し、常にそこからこそ我々のこの文化、この現実にかかわろうと立つ氏の姿勢は、それを見る者に、逆に一種の壮大な目眩のようなものを与える。アラヤ識こそが真に生成するものであると知った時、もはや「我々」とはだれのことなのであろうか。p183「情熱の形而上学・・・・井筒俊彦氏」

25)その問い掛けに対応する答えは言葉としては与えられることはないだろう。「私」が誰でもない、と喝破した著者であってみれば、「私たち」とは誰か、を喝破できないはずはない。

26)石川 なぜ魂なの?

池田 魂って言葉が「あった」からです。魂が「あるかないか」、という問い方ではなく、私が私であり、あなたがあなたであるというこのことを、魂という言葉で語ってみたい。「私の多魂」って言い方を人はするけれど、「私」が先なのか、「魂」が先なのか、「私は魂」なのか、ひょっとしたら「魂の私」と言うべきかもしれないとか。不思議じゃないですか。私がどうしてこういうものの感じ方をするのか。石川さんがどうして石川さんなのか。p223「考える不思議、『常識』の不思議」石川好との対談

27)まず、考えようが、感じようが、まずは「わかる」ことの方が先だろうなぁ。それを魂だろうが、精神だろうが、スピリットだろうが、あるいは神だろうが、どのように芸術的に表現しようが、それは自由なことである。実体に名前を自分なりに詩的な名前を付けようと自由だろうが、名前があるからと言って実体がともなってくるわけではない。

28)この本、流れにそって再読してみたが、以前にメモしていた感想とそれほど違った印象はもたなかった。だが、前回4年ほど前に読んだ時とはタイミングが違ったので、当ブログの道行きの反面教師的な指標としては役立ってくれた。すくなくとも、こっちの道じゃないぞ、と。

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2013/01/13

OSHO - The Best of 2012

OSHO - The Best of 2012

 正月早々、メールでこんなページが飛び込んできた。スマホやタブレットなど、いちいち抵抗のあるイノベーションだが、いまやOshoを楽しむのにも、このような形になっているのだなぁ、とあらためて嘆息した。

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池田晶子『死とは何か』 さて死んだのは誰なのか<2>

<1>からつづく

死とは何か
「死とは何か」 さて死んだのは誰なのか<2>
池田晶子 /わたくし、つまりNobody 2009/04 毎日新聞社 単行本 254p

1)池田晶子には単行本・文庫本を含め50ほどの著書がある。その最初が1991年で、2007年に46歳でなくなるまで、年に数冊というハイペースで書いていたことになる。

2)そもそも著者については何も知らなかったし、その後も調べていないが、この「死とは何か」という本が、ほぼ同時に複数の他社から「私とは何か」「魂とは何か」という三部作として、装丁もまったく同じで出た時に、おお、と興味を引かれたのだった。

3)これら三冊の初読の時は、この「何か」という疑問視が気になった。長年、「私は誰か」という公案に慣れ親しんできた身としては、「私とは何か」という問い掛けは、正しい問い掛けではないように感じた。

4)そして、「死とは何か」という問い掛けも、違うのではないか、と感じた。死については、「いかに死ぬか」という問いが正しいと思えたのである。

5)たまたまではないだろうが、敢えて彼女の業績を「死」と「私」と「魂」の三題話でまとめようとしたのは、夫をはじめとするNPOの人びとや編集者たちだっただろうが、うまくここに集約したものだ、と感心した。

6)たぶん、当ブログの関心も、この三つのキーワードに集約することが可能なはずなのである。当ブログのテーマは、科学、芸術、意識である。ここにもうまく対応しているのではないだろうか。

7)「死」については、敢えて「科学」を対応させる。脳死や臨死体験など、死は科学的に照明できるかどうか、というテーマはあるが、実際は、死、私、魂、の三題話の中では、死が一番、科学と整合性がある。つまり、いずれにせよ、すべての「肉体」は「死」を迎えるのは間違いない。もっとも科学的にしやすいはずなのである。

8)それに比したら、「私」や「魂」は、科学ではたどりつかないだろう。「私」と相性がいいのは「芸術」だ。「私」が表現するからこそ「芸術」なのであり、その多様性は、「私」の無数の多様性にうまく対応している。また「芸術」が求めているのは結局は「私」だ。

9)残るは「魂」だが、こちらも残った「意識」に対応させるしかない。「宗教」とか「精神」とか「神秘」とか「心理」とか、他にもふさわしい単語もありそうだが、当ブログでは「意識」という単語を使っている。死=科学、私=芸術、魂=意識、という対応図を見ている限り、池田晶子と当ブログの親和性は、非常に高いといえる。

Ikeda

10)彼女が哲学を学ぶために通った学校で、私もまた心理学や哲学を学んだことがあるわけだから、そんなところから親和性が湧いてきているのかな、と一瞬思ったが、必ずしも、そればかりではなさそうだ。

11)彼女の業績は「哲学エッセイ」という「文芸」ジャンルに便宜上振り分けられている。彼女の文章はわかりやすい。とにかく面倒そうな哲学という奴を、あの美貌で、さりげなく語られると、ついつい引き込まれていってしまうのだ。

12)しかし、それでも初読時にはクレームをつけておいた。私は誰か、いかに死ぬか、という問い掛けに妥当性があるとするならば、さて、魂は、どのようなスタイルで問いかけられるべきであろうか。疑問詞5W1Hのうち、もっともふさわしいのはどれか。

13)まず、Whatは拒否したわけだし、Whoは「私」に譲った。Howは「死」に譲ったのだから、残るは、When、Whyと、Whereしか残っていない。私はこの3つの中からWhereを選んだ。「魂はどこにあるか」。これが問い掛けとして「魂」にとって一番ただしいのではないか。

14)もちろん、魂は心臓にあるとか脳にあるとか言われているが、おそらくこれらは簡単に否定されていくはずなのである。端折って言えば、魂はどこにもない。これが結論だ。「死」なんかない、「私」なんか誰でもない、という結論に合わせれば、「魂」などは「どこにもないのだ」。

15)しかし、どこにもないけれど、いたるところにある、という結論に帰着するはずなのが「魂」なのである。こまかい経過は、ここでは展開しないが、なにはともあれ、そうであるはずなのである。

16)当ブログの過程は、そのカテゴリ名でわかる通り、そのものズバリの「私は誰か」に始まり、「死」の裏返しである「地球人として生きる」を通過し、「意識とは何か」を通り越して、「メタコンシャス・意識を意識する」まで到達していた。

17)もっとも肉体や物質から遠ざかったつもりでいた時に、やおら揺り戻されたのは「森の生活」であった。もちろん、その大きな原因は3・11であったが、その直前から不思議な傾向があったといえる。3・11後も当ブログは「メタコンシャス」路線を突っ走ることは可能だったはずなのであり、今からでも復帰することは可能であろう。

18)しかし、敢えて当ブログは「Meditation in the Marketplace」に戻ってきた。戻ってきたばかりか、ここが定位置とばかり、Vol.4まで重ねて展開することになってしまった。おそらくこれで決まりなのだ。Marketplaceに「死」=科学を見、Meditationに「魂」=意識を見る。そして 「in the」に「私」=芸術を見る。

19)今回、再読するにあたりこの「死とは何か」を「哲学」してみると、「魂」についての論及は少なく、また彼女の「哲学」では、さて、「魂」まで本当に行きつくだろうか、と不満を覚える。もちろん、魂に対する論及が弱いのとなれば、当ブログとしては、その「私」や「死」に対する「哲学」も、必ずしも納得できるものではない、となりかねない。

20)じつのところは宗教にも、死とは何かはわかってはいない。いや正確には、生きている限りの我々誰にも、死のことは絶対にわからないのである。わからないからこそ、それは謎なのだ。精神を捉えてやまない謎なのだ。 

 古代の教祖たちが提示したのは、この謎の存在と意味についてであって、決してその解答ではない。解答可能なものは、謎ではないからだ。これを逆から言えば、なんらかの解答を与えているかのような宗教を、信仰する理由はないということになる。p12「精神を捉えてやまない謎」

21)彼女の「哲学エッセイ」は、このようなスタイルで貫かれているからこそ読みやすく、マスメディアのポピリズムにもうまく対応したといえるだろうが、これでは、「死」と「私」、「科学」と「芸術」までで、「魂」や「意識」には到達することはできない。

22)死ぬとはどういうことなのか。これが私の年来の疑問であった。その裏返しはむろん、生きているとはどういうことか。これを知り、これを納得してからでなければ、人生はいかに生くべきかなど、問いとしてさえあり得ないではないか。p73「こんなふうに考えている」

23)彼女の哲学はここにとどまり、その哲学エッセイはついには「芸術」で終り、魂や、意識というレベルには到達しない。シュタイナーの「死について」やヘミシンクの「死後探索」のような見てきたような「芸術(つくりごと)」にも納得いかないが、池田晶子の小気味よさも、いまいち深まっていかない。

24)「人生とは何であるのか」とは、改めて問うてみると、なんか当たり前で馬鹿みたいですが、まさか、とんでもない。この問いのとんでもなさに気がつかないのは、問いの問い方を誤っているからに違いない。p96「問いの構造」

25)ここでの彼女の直観は正しいであろう。彼女の問い掛けはどこか違っている。問いは問いとしてあり、究極の問いには答えはない。これが正解である。

26)ソクラテス 死ぬとはどういうことなのかわからないから、僕は哲学しているのであって、哲学すれば楽に生きられるかもしれないと思うから哲学しているのではない。p154「あたしは悪妻クサンチッピだ」

27)無知の知。知りえないことがある、ということを知ることこそ、神秘への旅立ちであり、マーケットプレイスへの帰還であるはずである。

28)科学の限界を認識しつつ、しかし宗教に肩入れせず、それらを正確に「考える」ことができるのが「哲学」、その本来の役割なのだ。p180「しごとのデッサン」

29)今回の彼女の生における「哲学エッセイ」は、この辺りに座礁してしまったのだろう。

30)最後になりますけれども、謎、謎を自覚するということに尽きるということ、私は必ずここに戻ってきてしまいます。たとえば、普通我々はあまり気にしないで、私が死んだらという言い方をしますけれども、この場合、時間というものを前提としているわけです。でも、その時間とは何かと考えると、またこれもまた難しい問題がでてきて、過去も未来も現在も観念だということがわかります。p243「存在の謎は、果てしなく」

31)おそらく彼女は、その問いかけを間違ったのである。何事でもWhatで問いかけてしまった。そして答えを期待した。WhoとかHowとか、Whereで問いかけて、しかも答えなど期待しない時、観念などはるかに超越した「実存」が現れたはずなのである。

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2013/01/12

Osho『死のアート』<4>

<3>よりつづく 

死のアート
「死のアート」 <4>
OSHO /スワミ・ボーディ・マニッシュ 2001/04 市民出版社 単行本 401p

1)原題The Art of Dying は 76/10/11~76/10/20 の10日間にインド・ブッダホールで行われた講話。題材はユダヤ密教ハシディズム。実際には、講話とQ&Aが一日交代で行われているので、講話そのものは5日間である。

2)何回か読みなおすにあたって、今回は、この講話部分だけをまず読んでみることにした。いつものことだが、Oshoを読み始めると、なかなか10日分の講話を読みとおすまでに、どこかで引っかかって、なかなか一冊を読みとおすということができない。今回はとにかく全体をまず読みとおそうと思った。

3)Oshoを読むことは私にとっては、通常の「読書」と意味が違ってくる。一冊の本を読んだ、という達成感もあまりないし、なにか知識を得た、という所有欲も満たされない。なにかかにかの公案を渡されて、振り出しに戻る、ということが、たびたび発生する。

4)この本においても、そうだ。過去に何回か読んでいるにも関わらず、またふたたび新しい局面に自分が投げ出されているような、ある意味新鮮な、ある意味不安な環境に陥れられる。

5)あなたが客体の世界にいるなら、私は、「主体を探しなさい。そこに神がいる」と言う。あなたが主体の世界にいるなら、「さあ、越えなさい。神は主体の世界にいない、神は超越している」と言う。やがて人は、捨て続けねばならなくなる、落とし続けねばならなくなる。

 主体も客体もないとき、物も思考もないとき、この世もあの世もないとき、神がいる。物も心もないとき、神がいる。

 神は物でも心でもない。だが、神には物も心もある。神は途方もない逆説であり、絶対的に非論理的であり、論理を越えている。

 木や石で神の像を作ってはならない、観念や知識で神の像を作ってはならない。あらゆる象を溶かしたとき、内ー外、男ー女、性ー死、あらゆる二元性を溶かしたときに残るのが、聖性だ。p344「超越するものと一体になる」

6)彼は、ある時には、神や宗教、という単語を徹底的に排除しておきながら、次の局面では、あっけらかんと、神や宗教という単語や概念を、メタファーとして登場させる。彼の講義から「哲学」を作ることは難しい。難しいというより、不可能だ。生半可に取り組むと、ただただ、次から次と虚構がへがされる。あるいは、上手に取り組んでも、結局、中途半端なメタファーや論理はこなごなに砕ける運命にあるのだ。

7)まず物から思考へ、次に思考から思考者へ。物は科学の世界、思考は芸術の世界、そして思考者は宗教の世界だ。ひたすら内に向かいなさい。第一は、あなたを取り巻いている物、第二は思考。第三は中心、まさにあなたの実存は意識に他ならない。目撃に他ならない。

 物を捨て、思考の中に入る。そしていつかは、思考をも捨てなければならない。するとあなたは、あなたそのものの中にひとり残される。完全にひとりきりになる。

 聖性はその孤独の中にある。その孤独の中に解放が、解脱がある。その孤独の中で、はじめてあなたは真に存在する。p339同上

8)科学→芸術→意識、の図式の別バージョンである。

9)生はどこでも終わらないし、どこでも始まらない。私たちは永遠性の中にいる。私たちは始まりのときからずっとここにいる----始まりというものがあったらの話だが。そして終わりのときまで、ずっとここにいるだろう----終りというものがあったらの話だが、実のところ、いかなる始まりも終りもあり得ない。

 形、体、マインドが変わろうとも、私たちは生なのだ。だが、私たちが「生」と呼んでいるのは特定の肉体やマインドや感情と同一視されたもの、そして「死」と呼んでいるのは、その形や肉体や観念から出ていくことに他ならない。p19「生のあり方」

10)昨年は立て続けに古い友人たちを喪い、すこしは深刻なムードを味わっていたいと思う。新年早々からやりすぎかな、と思う。そんな思いはOshoは一気に吹き飛ばしてしまう。Oshoとともにあっては、深刻なままではいられない。

11)生は技術ではない。科学ですらない。生はアートだ。というより、むしろ、直観と言った方がいいだろう。あなたはそれを感じなくてはならない。生は綱渡りに似ている。p124「綱渡り」

12)何度も読み返した本であるし、どこか他の講義で聴いているはずのフレーズであるはずなのだが、毎回、哲学しようとする思考は、無思考の実存へと押し返される。

13)今日では、あらゆるものが重なり合い、莫大な知識が手に入るようになった。私たちは、「知識爆発」の時代に生きている。この爆発の中でなら、情報を集め、いちも簡単に、いとも手軽に大学者になれる。けれども、あなたには何の変容ももたらさない。p188「所有と実存」

<5>につづく

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2013/01/11

『哲学者たちの死に方』 The Book of Dead Philosophers<6>

<5>よりつづく 
哲学者たちの死に方
「哲学者たちの死に方」 <6
サイモン・クリッチリー (著), 杉本 隆久 (翻訳), 國領佳樹 (翻訳)  2009/8 河出書房新社 単行本: 372p 原書 The Book of Dead Philosophers 2008

1)およそ190人の哲学者たちの、死にまつわるエピソードは、1960年にイギリスに生まれた西洋哲学者サイモン・クリッチーによって書かれ、1975年、1978年生まれの若い日本の研究者たちによって邦訳されている。

2)ソクラテスから始まり、それ以前の哲学者たち、中世のキリスト教的哲学者たち、わずかに中国古典哲学、そしてルネッサンス期の哲学科学者たち、近代の哲学者たち、現代の哲学者たちへと続き、ほとんど「西洋」哲学史の概観が網羅されている。

3)そのほとんどは、名前を初めて聞くような、なじみのない哲学者たちであるが、この書の特徴は、ひとつひとつの記述が細切れに小さいことと、常に彼ら自身の死を取り上げようとしている姿勢である。

4)しかるに、いくら哲学者たちとはいうものの、一読者にとっては「他者の死」に過ぎず、死を学ぶ、という時の死は、結局は他者の死であり、自らの死、ではありえない。もっとも哲学者たちひとりひとりは、自らの死と全うに対峙したのであり、その姿勢は、読者ひとりひとりにとって、自らの死に対峙するための参考になることは当然である。

5)著者はヨーロッパ大陸の哲学者であり、その細かい哲学者列伝には、インド哲学や、中国哲学、あるいは中東圏などの哲学者たちにはほとんど触れていない。だから、全球的な地球人スピリット探究者にとっては、食い足りないばかりか、いわゆる西洋哲学の至らない点も多く見えてくる、というシステムになっている。

6)最近まで当ブログがランダムに読書を続けてきて、科学、芸術、意識、のトリニティを考えた場合、科学は「始まり」、芸術は「続く」、意識は「終り」に対応しているのではないか、という直観を得ている。

7)同時代人たちの死を考えた場合、例えば、スティーブ・ジョブズを「科学者」に無理にでも分類した場合、彼は、新しい何かの「始まり」を信じていた雰囲気を感じる。イノベーション、という掛け声のもと、様々なムーブメントを起こしながらも、結局は2011年に56歳と7ヶ月の人生を閉じた。

8)ジョブズは、始まりを強く意識していただろうが、彼もまた長い闘病の中で、自らの「死」と対峙せざるを得なかった。

9)同時代人としての芸術家、劇作家・石川裕人の死を考えた場合、彼の人生は、つづく、つづく、の創作に費やした一生だった。彼にとっては、次回作こそが最高傑作なのであり、本質的に、今回の作品で「完」にはなりえない、という人生であった。その石川にも、次回作を構想しながら、静かに死は忍び寄った。その時、彼もまた自らの「死」と対峙していたはずである。

10)当ブログにおける「死」についての関心は、他者の死についてではなく、自己の死である。そしてまた、そこにこそ救いが、「終り」があるはずであると直観する。それはあたかも、始まり=A、続く=U、終り=M、となり、まさに阿吽、AUMとなる、この世の真理へと導かれるはずである。

11)西洋哲学に偏っている本書であり、また哲学史的に前近代の部分に多くを割いている構成であり、実際に共感して読める部分はそう多くはない。それでも、スピノザとかウィットゲンシュタインとか、ニーチェ、あるいはハイディガー、エマーソン、フッサール、ラカン、レヴィナス、ドゥルーズ、デリダ、ラッセル、などなど、当ブログですでに触れている哲学者たちへの考察も登場する。

12)ひとつひとつのコメントは、ある意味、いままで知っていた哲学者たちとは違った側面の紹介であり、それを190つないだこの本は、哲学者たち、というより、著者サイモン・クリッチリー本人の「死」に対する考察となるような構成となっている。

13)読み終わってみれば、「哲学者たちの死に方」という邦題がふさわしかったかどうかは定かではないが、このような、ちょっと難解な内容を一気に(といっても一週間かかったが)読ませてしまう効果はあっただろう。

14)前半部分はともかくとして、後半部分、とくに現代哲学者たちのへのコメントは、いずれまた再読したい、と思う。

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2013/01/03

『フクシマは世界を変えたか』 ヨーロッパの脱原発事情 片野優 <2>

<1>からつづく


「フクシマは世界を変えたか」ヨーロッパの脱原発事情<2>
片野優 2012/04 河出書房新社 単行本 295p

1)前回読んだのは半年前。そしてフクシマがあったのは更にその一年以上も前のことだから、2013年1月の現在、各国の事情はそれぞれに更に異なっていることだろう。

2)「世界が日本のことを考えている」3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ(共同通信社 2012/03 太郎次郎社)と、どこか対になっているようで、再読しようと思い立った。

3)第一章は「未来に警鐘を鳴らした欧米の原発事故」であり、フクシマに先立つこと、いかに原発が重大事故を起こし続けてきたかが語られる。

4)第三章は「ヨーロッパで注目の脱原発エネルギー」であり、とくにフクシマとは関係なく、原発という現代の伏魔殿に依存しない方向性の模索がレポートしてある。

5)従って、この本のタイトル「フクシマは世界を変えたか」に直接関係があるのは、第二章の「フクシマの影響とエネルギー政策」の約70ページほどである。ヨーロッパとはいうものの、レポートされているのは、スイス、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、の五国。

6)2034年までに原発廃止を宣言 スイス

チェルノブイリのトラウマ、脱原発宣言 ドイツ

原発に政治生命かけるサルコジ大統領 フランス

フクシマの教訓、事故後に上がった原発支持率 イギリス

国民投票で脱原発・脱ベルルスコーニ イタリア 目次p3

7)フランスはいわずと知れた世界一の原発推進国である。イギリスなどは、逆にフクシマ後に推進派が増えたという。スイスは永久中立国だし、反応は早く、2034年には現在稼働中の原発はすべて廃炉となり、その時点で脱原発が完了する可能性がある。それでも2034年まで待たなければならない。

8)ドイツはすでにチェルノブイリの段階で強い原発アレルギーを抱えたが、とりあえず2022年にはすべての原発が廃炉となる予定だ。イタリアはお国柄ゆえ、本当はどちらにいくのかわからない。

9)当の日本において、3・11後初の国政選挙で問われた原発は、「脱」とか「卒」とか「ゼロ」とか、かまびすしかったが、その結果は、あまりにお粗末なものだった。原発の是非論でいえば、最右翼は小出裕章氏らの原発ゼロこそ、もっとも正当性がある。

10)しかし、日本が仮に原発ゼロになったからと言って世界の原発事情が全て解決するわけでもなく、ましてや本書では問われていないアジア、とくに今後の中国やインドにおける原発計画を知ると、暗雲たる気持ちにならざるをえない。

11)あまりに複雑に絡みすぎた原発事情であり、「あの」フクシマがあったとしても、この日本さえ方向性を決めることができず、どうにもならないようなところに立ち至っている。絶望に満ちた気分になることさえある。

12)当ブログにおける「科学・芸術・意識」のうちの、「科学」で今日的に話題となるのは、情報とエネルギー問題だろう。ネット関連と原発問題は目をそらすわけにはいかない。一度や二度の選挙でどうのこうのと言える問題ではない。

13)今後は「フクシマは日本を変えたか」というテーマで、さらに自分たち自身を見つめ続けなければならない。

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2013/01/02

またまた始まるパソコン選び 『はじめてのWindows8』基本編


「はじめてのWindows8」基本編
戸内順一 2012/11 秀和システム 単稿本 287P
Vol.3 No.0901★★★☆☆

1)年末に愛用のPCがクラッシュした。前夜までは何事もなく使えていたのに、朝起きて見ると、ウィンドウズが起動しない。ハード面よりソフト面らしいのだが、とてもシロートの手に負えるような状態ではなさそうだ。

2)ただ、このPCはバーチャルゲーム・セカンドライフをやろうと購入した機種だから、私としては結構高機能な高価なものだった。ところが購入2年目にして、キーボードにコーヒーをごちそうして、半年間眠っていたという病歴がある。一旦はメーカーからも見放されたが、半年後に完全乾燥したあとは復帰して活躍していたのだ。

3)動いていたとはいうものの、実は、いくつかの不具合はあった。ある種のソフトが立ち上がらなかったり、ファンの音がうるさかった。あれはファンではなく、ひょっとするとハードディスクからの音ではなかったのか、という危惧さえもっている。

4)いつものことながら、PCがクラッシュすると、パニックになる。一瞬、もうどう生きていったらいいかわからない様な気分にすらなる。今回もパニックに陥った。数日から数週間、なんとか動かそうとしたが、どうやら根本的にやられている。

5)年末で忙しいこともあった。5年のメーカーサポートもまだ、年明けまで続いている、ということで、修理は年が明けてからということにしておいた。

6)緊急用には奥様仕様のPCでなんとかしのぐようにはしてあるのだが、いつまでも他人仕様のPCでは使いにくいし、おじゃまでもあろう。さっそく天井上収納から、時代遅れのXP機を下ろしてきて、なんとか急場をしのいだ。なに、XPとはいうものの、WiFiも使えるし、オフィス面でもなんとか互換性がある。動きは緩慢だが、まったく使えないというわけではない。

7)ところで、クラッシュして失われてしまうデータはどうなるのか、ということのほうが心配だが、こちらは、最近のクラウド環境で、基本的な部分には何の影響もない。孫達の画像とかは奥さんのPCにもコピーしてあるので、失われてはいない。

8)メール類もオンラインメールに保管してあるので、元メールは失われることはない。ただ問題は、膨大なOfficeデータ類だ。積年の使い回し定型文の数々は、失われるともったいない。まだまだ使えたのに、とは思うが、まぁ、なければまた作ればいいのだし、何年も使い回していると、いずれ客先にも飽きられる。このあたりで新しく作るのも悪くあるまい。

9)ということで、もうすでに、PC端末に依存する時代ではなくなっていることを再認識した。すでにインターフェイスとしての入出力機能だけになっている。スタンドアロンが当たり前の時代から、ネットワークを通り過ぎて、クラウドが当たり前の時代にすでになっていたのである。

10)さて、それではXP機を使い回していればそれでいいかというと、また次なる時代に突入しているようだ。少なくとも、今回のWin8環境は、XP環境では動かない。大きな違いは、タブレット時代のタッチパネル環境だろう。

11)私個人は、もともとがあまり清潔な生活をしていないので、タッチパネルについた自分の指の油脂がじゃまになって、画像が汚れるのが好きではない。できれば、すり減った、たまにはパンくずなどが挟まったキーボードと、クリアな画面、という組み合わせのほうが好きなのだ。

12)iPadやアンドロイド・タブレットに刺激されたか、Win8は、タッチパネルのタブレット仕様がメインとなる。場合によってはキーボードを隠してタブレットもどきとして使えるようになっている。XP時代から基本的に停止していたWinのイノベーションが、ジョブズのiPadに刺激されるかのように、後追いを始めた。

13)ソニーVAIO Duo 11 のようにスライドしてキーボードと出すモノ、DELLultrabookのような画面だけが空中回転してしまようなモノ、パナソニックのレッツノートAXシリーズのように、画面が360度回転してキーボードを下面にしてしまうモノなど、様々な機種がWin8をインストールしている。ASUSのEeePadシリーズのようにキーボードから画面だけを切り離してしまうモノ(アンドロイド4.0)などもある。

14)どれもがおもしろそうでもあり、根本的になにがイノベーションされているのか、わからない風でもあり、どれもいまいちである。それぞれに新しいタイプだから、機種代も結構する。またまたハードを買わせようという作戦である。

15)結局は、いざという時のためのバックアップを考えて、今までのごく当たり前の格安ラップトップパソコンとWifi仕様のタブレット一枚あれば、業務は足りてしまうだろう。

16)っていうか、本当にタブレットは必要であるのかどうか、は未だに疑問である。ソファに寝っ転がってタブレットをいじっていると、つい居眠りしてしまい、手から滑りおちたタブレットで、数回あごを怪我したという友人の笑える報告もある。台付きのほうが、手がつかれなくていいんじゃない、と思う。

17)客先に行って、プレゼンでタブレットを使うというが、これがまた、PCとタブレット、二つのガジェットを使い回していると、意外と手間がかかり、客先に行ってから動かないことに気がついて、かえって恥をかく、なんてことも、実はあるのだ。

18)PCは世につれ、世はPCにつれ、結局、私などは業界の動きや世間の動きを見ながら、まずまずは・・・・の距離感で、ふわふわ追いかけていくことになるのだろう。だが、初売りで目指す機種を格安でゲット、というところまでターゲットを絞り込めていない。

19)おおお、これはぁ・・・! と叫びたくなるようなガジェットと出会えないかなぁ。なにはともあれ、正月初売りの大型家電店でも覗いてくるか。

===========追記==============

1/10
と、ここまで書いて放置しておいたのだが、完全にあきらめかけて、もう一度制御画面をいじっていたら、なんと、復活した。すごい。

基本はHDDがごちゃごちゃになって、うまくソフト(?)が読み込まれないエラーだったらしい。ディスクチェックをして、自動で修復してくれた。このあたりがまたPCの偉いところだなぁ、と思う。

ファンの音がうるさいのは、もう交換しか方法はないだろうが、まずは、正月早々めでたい! と自分では思う。

=======後日談2========== 結局、パソコンはファンだけをロングサポート期間ギリギリで無料で直ってかえってきた。 そこで同番機種の鶏ガラのような部品取り品をオークションでゲット。数千円でキーボードと液晶パネルを交換した。 メモリーもHDDもまだまだ十分。事務所の中核としてはまだまいける。 ケータイも機種代が終了したスマホ一歩手前のガラケーで十分。 多少、年落ちとはいえ、Wifiスマホは2台あるし、モバイルWifiルーターもある。 万が一に備えて2重ラインを構成しているし、電源も輻輳させている。 この辺で、ちょっと無駄かなと思いつつ、最新タブレットとLTEモバイルルーターを契約した。 最近はやたらと、業務上のタブレット風の吹き方が激しい。 最終的に本当に役立つかどうかは、分からないが、この辺で多少の冒険は必要であろう。

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2013/01/01

『哲学者たちの死に方』 The Book of Dead Philosophers<5>

<4>よりつづく 
哲学者たちの死に方
「哲学者たちの死に方」 <5
サイモン・クリッチリー (著), 杉本 隆久 (翻訳), 國領佳樹 (翻訳)  2009/8 河出書房新社 単行本: 372p 原書 The Book of Dead Philosophers 2008

1)謹賀新年。本年もよろしくお願いいたします。 平成二十五年 元旦

2)さて、今年はどうしようかな。いろいろな抱負を述べるべきなのだろう。希望に満ちた、明るい話題がいいとは思うのだが、年末以来、つきまとわれているのは「死」への関心だ。

3)いままで、毎年毎年、どんな本から正月をスタートしていたのだろう。

4)2012年 「ロード・オブ・ザ・リング」DVD

2011年 「意識のターニングポイント」ーメタ・パラダイムの転換とニューエイジ・ムーヴメントの今後 吉福 伸逸, 松沢 正博 1987/03 泰流社

2010年 「1Q84」 村上春樹 2009/05月 新潮社

2009年 「The OSHO Nothing Book」

2008年 「BS特集 未来への提言」地球温暖化に挑む ~世界のキーパーソンからのメッセージ~総合 1月1日(祝・火) 午後9:40~10:40

2007年 「さよなら、サイレント・ネイビー」地下鉄に乗った同級生 伊東 乾

5)ふむふむ、正月だからと言って、別に明るい希望のありそうなテーマばかりを選んで追っかけていたわけではないようだ。でもそれなりにまとまった、ひとつのテーマ性の強いものを選んでいる。

6)今年は、この本「哲学者たちの死に方」を再読するところからスタートしようと思う。

7)哲学者になるということは、同時にいかに死ぬかを学ぶということである。すなわち死に対する適切な態度を養い始めるということである。p20「序論」

8)別に哲学者になりたいと思って読書ブログを書いているわけではないが、「いかに死ぬかを学び、死に対する適切な態度を養う」ことが「哲学」ならば、当ブログは決して「哲学」と無縁ではない。

9)哲学が死と向き合うために必要な智恵を提供するのは、古代では普通のことであった。それは、哲学者が死をものともせずに直視し、死など何でもないという表明する力を持っているということである。そのような哲学的な死に対して、最初の手本となった人はソクラテスである。p10「序論」

10)はてさて、ソクラテスまでさかのぼってしまうのは大儀なことではあるが、その位の志を立てるには、正月元旦という日は、ふさわしい。

11)今年に2月には、同級生達の還暦の祝いがある。さまざまな人生があれど、還暦と言えば、とりあえず、ひとくぎり。これからさらに一旗あげようとおもっている連中もあるし、はやばやと還暦を待たずに人生を終えた連中もいる。

12)どちらもありの中で、なにはともあれ、今後は「死」とつきあっていくことが、よく「生きる」ことのコツであると心得る。

13)16歳の時は16歳の自分に満足したし、40歳の時は40の自分に満足(せざるをえなかったのだが)した。今は今、還暦を迎えようとしている自分を過不足なく見て、それ以上でも、それ以下でもないことを確認しよう。

14)「死」の意味を初めて問うた体験といえば、それは8歳の時にさかのぼる。6年も入院療養していた父が亡くなった。家族の中には父は存在していなかったので、何かを失う寂しさなどではなかった。ただ漠然と、「死」という意味を考えた。

15)たしかに、この世にさっきまで存在していたはずである父がいなくなるということはどういうことか。すでに私の生活からは6年前から父は姿を消していた。もともといなかったと同じだ。だがその死は、父の死という客観的な喪失感よりも、自分もまた死ぬのだ、という自らの「死」を連想させた。

16)自分が死ぬとはどういうことなのか。私がいないのに、この世が存在するとはどういうことか。私の誕生とともにこの世が現れ、意識の発達とともに拡大し、私が死ねばこの世も終わるのか。あるいは、もともとこの世の永遠の中に、私が存在した瞬間など、あっという間の出来事だったのか。

17)23歳の時に交通事故に遭遇し、一命をとりとめた。ほとんど即死に至るような事故だった。奇跡的に助かった自分は、生きているならインドに行きたいと思った。

18)帰国してまもなく、26歳の時に、癌で余命半年と宣言された。だけど、死ななかった。誤診であったかもしれないし、自らの生命力で復活したのかもしれない。どちらであるにせよ。その時々で、死ぬとは何か、生きるとはなにか、を考えてきた。

19)昨年は次々と旧友たちを亡くした。貴重な今回の生の思い出が失われつつある。いずれはすべてが失われる。せいぜいあと数十年。いやいや次の瞬間、私にも終焉の時がおとずれる可能性はつねにつきまとう。

20)であるがゆえに、生きている、今この瞬間を考える。まもなく1歳になる二人目の孫が、成人するまで私は生きているだろうか。学校を卒業するまで、結婚するまで、いや、ひ孫が生まれるまで、私が生きているということはあるだろうか・・・・、などと、アホなことを延々考え続ける。しかし、それも生あるからこそできることだ。

21)2013年。今年はどんな年になるだろう。年の初めに、この本をテーマにしたことが、年末のころには、どういう感想を持って迎えられることだろう。なにはともあれ、この本から始めてみよう。

<6>につづく

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