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2013年2月の27件の記事

2013/02/28

『電子書籍のつくり方・売り方』 ePub・PDFからAppStoreでの登録・販売まで 小島孝治


「電子書籍のつくり方・売り方 」ePub・PDFからAppStoreでの登録・販売まで
小島孝治 2010/10 日本実業出版社 単行本  172p      
Vol.3 No.0925★★★★☆

1)私がいつも身近に使っている公立図書館は二つあった。3・11においては、二つとも被災し、再び立ち上がるまで時間がかかった。地域の多くの図書館が同じような運命に遭遇したのだからしかたない。

2)ひとつのほうは、数か月で軌道修正できたが、もう一方は、結局、建物自体が立て直しということになった。築50年ほどになる建物なので、しかたないだろう。それを見越して、最近、カナダ政府などからの支援で、木造平屋の図書館が二棟できた。木の香りがする素敵な空間ができあがった。

3)この本は、その図書館が23年2月18日に受け入れたものである。ところがご存じのように、その直後に3・11大震災がやってきたために、一般に利用されることはなかった一冊である。仮の新館が最近、2年ぶりにできて、ようやく、私たちも利用できるようになった。

4)そのような時間的なタイムラグがあるので、すでに内容的には、時代に即したものとは言えなくなっている。

5)電子書籍に関しては2010年が電子書籍元年といわれるように、日々、劇的な変化を遂げた。その中での数カ月というのは非常に長い。本書で説明したKindleへの提供フローなどは、執筆時点では日本語に対応していない中、全体の流れを知ってもらうためにあえて紹介した。

 しかし、この本が出版されることには日本でサービスが開始され、いきなり本書では陳腐化しているかもしれない。またAppStoreやKindleStoreへの登録申請なども、そのつど変わっていき、何度も書き改めなければならなかった。そのたびに「この本を出版する意味はあるのか」とまで、自問自答を繰り返したこともあった。p173「おわりに」

6)じつにおっしゃるとおりで、2013年の2月末時点で読む本としては、確かに時期を外しているし、陳腐化してしまっているのは否めない。だが、逆に言えば、わずか2年半前にはこういう状態だったのだ、ということが分かれば、いかに電子書籍、電子出版の環境が急変しているかが分かる。

7)たまたま友人の友人がごく最近電子出版したといこともあり、ごく身近な話題として電子書籍が登場しつつある。仲間たちのなかにも、関心をもつ人たちが多くなってきた。読み手としてよりも、出版する側として、これらの動きに乗ることができるだろうか。

8)自分のコンテンツを「(電子)書籍」としてオフィシャルに展開していきたい場合は、ISBN番号をとることもできる(たとえばアップルのiBooksで書籍販売する場合など)ので、、迷わず取得しよう。 

 流通している「紙の書籍」の裏表紙をみると、必ずどこかに「ISBN・・・・」と記載されている。また表示されているバーコード(必ず2個ある)は、JANコードいい、書店など出版隆々で使用されているものだ。POSなどで読み込み商品管理などにも活用されている。p123「ISBNはだれでも取得できる」

9)登録費用は10書名分の場合は16800円(税込)、100書名分は28350円(税込) (p127)ということである。

10)その他、この書籍にには、詳しい興味深い案内が数々掲載されているが、最新の類書で再確認しなければならないことがたくさんある。

11)これが電子書籍なら、新しくなったらすぐアップデートを・・・となるわけで、どれだけ気持ちの上で楽だっただろうと振り返る。実は、「紙の書籍」でも増刷のつど、校正ミスはもちろん、改正等も含めて集成をしているわけだが、在庫が多い状態では増刷はできない。

 これが「電子書籍」であれば、在庫をそもそも持たないのだから、手間さえ惜しまなければ、「いつでも最新!」を謳うことができる。 

 ここに一つの落とし穴がある。「紙の書籍」では初版時にだけ最大のパワーをかけ、それ以降はさしたる労力を要しなかった。仮に初版時に90%程度の労力をかけたとすると、それ以降の増刷時には10%程度をかけ、10年もすれば書店から本は消え、後は手間いらずだったのだ。

 しかし、「電子書籍」はそうはいかない。「いつでも最新!」であることを読者に求められる。このため、発刊時に「最新」であることはもとより、何らかの法改正や制度の変更、書式の更新などがあれば、永遠に、そして即座にフォローしつづけなければならない。

 「電子書籍に労力はかからない」と考えるのは、文芸書などの出版では正しいかもしれないが、少なくともビジネス書の分野では、点数が増えれば増えるほど、今まで以上の体制を組まないと維持できないことになる。

 「つくる・売る」の跡の「フォローする」方法も常に意識しつつ、電子書籍の世界に挑戦して欲しい。p173「おわりに」

12)なるほどね。実務に通じている人であるからこそ、細かい目配りがある。

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2013/02/27

「ファイナンシャル・プランナー・マガジン」 Vol.000 Kindle版

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「ファイナンシャル・プランナー・マガジン」 Kindle版
Vol.000(2013年1月号) [Kindle版] 原田真夫 (著), 佐藤龍子 (著), 三浦昌二 (編集), 八鍬兼二 (序文) 出版社: リソル・パブリッシング フォーマット: Kindle版 ファイルサイズ: 467 KB 紙の本の長さ: 25 ページ ; 初版版
Vol.3 No.0924★★★★☆

1)友人が遊びにきた。話し始めてみてば、たくさんの話題があり、あれやこれやのあっと言うまの数時間だった。その雑談のなかに、最近彼の友人が本をだしたという話しが混じりこんだ。へぇ~、どんな本、と聞いたのが、この本だった。

2)ちゃんとアマゾンで紹介はされているが、いわゆる電子出版である。Kindle版であるという。ああ、私はKindleは持っていないからと言うと、いやタブレット端末でもみることができるはずだ、と言う。でもなぁ、限りなくゼロには近いとは言え、99円の値段がついている。支払いがめんどくさそうだな、と思った。

3)それで、ブックマークだけして、別な話題になってしまったのだが、彼が帰ったあと、試してみたら、実に簡単にダウンロードできた。それにKindle版とは言え、Kindleに支払いをするのではなく、アマゾンへの支払いである。いつも使っているカードが表示され、いとも簡単に、この電子書籍を読めるようになってしまったのだった。

4)テクノロジーの進歩は、時に私たちの生活スタイルを一変させることがあります。電子書籍も、そのひとつです。ファイナンシャル・プランナー・マガジンを従来型の紙の書籍・雑誌として発行していたとしたら、価格や流通コストの面で皆様のお手元にお届けすることは難しかったかもしれません。電子出版という新しいテクノロジーは、それらの障害をいとも簡単に打ち破ってくれました。81%「編集後記」

5)本当だ。本当にそう思う。たぶん紙媒体でつくられれば数十ページにはなるだろう小冊子ではあるが、実際に紙媒体で印刷されれば、それなりの値段になるだろう。そして、それは、有料で販売されるだろうか。たぶん、著者たちは、多めに印刷し、手元に在庫の山をかかえながら、結局は、宣伝も兼ねて、「無料」で配ることになるだろう。

6)配っているうちはいいが、そのうち情報も古くなり、季刊紙だから、次の号に差し掛かるころには、デッドストックになってしまう分もでてくるだろう。創刊号の資金を回収できないまま、次の号となり、でも情熱はまだ消えていないので、なんとか続刊を決意し、最初のネタもあったので、3号あたりまでは発行できる。

7)しかし、この手の印刷物は、だいたいそこまでの命なのである。ようやく名前も認知されたかなぁ、と思う間もなく、自然と休刊・廃刊となっていく。いわゆる三号雑誌というやつである。紙媒体の99%はこうなる運命にある。そして、それを見越した上で、最初から創刊できなかったものが、山ほどあるのだ。

8)ところが、この電子出版は、そのような状況を一変させる可能性がでてきた。パソコン時代を通り越して、タブレット時代となり、本やミニコミのようにタブレット端末を持ち運ぶ時代になり、出版物を実に廉価な価格で「購入」し、読む時代がやってきつつある。

9)このマガジンは99円である。高いか安いかは微妙なところだが、読みたい人にとっては、苦になる値段ではない。そして、出版者にとっては、99円とは言え、大きな売り上げとなろう。在庫を抱える必要もないし、誰に読まれたのかも、きっとマーケット情報のフィードバックもあるはずだ。

10)当ブログにおいては、Kindleや電子書籍は、紙媒体で出版されたものを、わざわざタブレットで読むかどうか、ということを考えていた。だとするなら、私なら、身近な公立図書館から借りてくれば、もうKindleは不要、という結論に達していた。

11)しかしながら、最初の最初から、電子出版されれば、読みたいものはダウンロードするだろう。いままで、パソコン上の情報は無料という時代が長かった。でも、雑誌や新聞、単行本などは、別に苦もなくブックスタンドで数百円を出して読み捨てにしている。この間の落差は、けっして小さくない。

12)この狭間を、電子出版が埋めるかもしれない。これは読み手側より、売り手側の大きなチャンスかもしれない。最初から電子出版して利益がでるスタイルが出来上がれば、これからは一気にタブレットで電子出版物を「有料」で読む時代がくるかもしれない。有料と言っても、0円書籍なんてのもある。読み手側に大きく負担になるものではない。

13)はてさて、この「ファイナンシャル・プランナー・マガジン」そのものについてだが、まぁ、内容的には、専門家たちからみれば、それほど「専門的」な内容ではない。一般の人が読んでもなんら理解不能な本ではない。むしろ一般人に読まれることを意識しての創刊であろう。続号に期待したいところである。無料で、一部試し読みもできるはずだ。

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2013/02/25

『ウェブ人間論』 梅田望夫/平野啓一郎 <3>

<2>からつづく  

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「ウェブ人間論」 <3>
梅田望夫/平野啓一郎/対談 2006/12  新潮社 新書  203p
★★★★☆

1)久しぶりにこの本を手に取った。なんと6年ぶりである。そうか、6年が経過したのか。最近「ウェブ進化論」(2006/02 筑摩書房)を再読した。当時の状況が思い出される。こちらはおおよそ7年ぶりであった。

2)「ウェブ人間論」は「ウェブ進化論」の続編である。そういうアナウンスがあったから、かなり期待して待っていた。濃厚な「決定版」のようなものを期待していたのである。しかし、それは見事に裏切られた。数か月の執筆期間を費やして書かれた前著に比べれば、続編は、二日間にわたったとは言え、二人の対談をまとめたもの、という形だった。

3)平野啓一郎という作家についてはまったく未知だったので、そちらの認知にも時間がかかったのだが、若い二人の対談に、あれこれ啓発されるところがあって、あちこち支線に入り込んで調べてはみたが、結局は、「人間論」としては、当ブログとして納得がいくものではなかった。

4)この平野という若い作家が、先日、NHKテレビにでていて、そういえばこんな本もあったよなぁ、と、こちらを再読したのだった。平野は作家なので、別途、小説から彼をせめようとしたが、小説が苦手の当ブログとしては、まだ未読になったままである。いつかは読む。

5)今回、当ブログも一巡して、またこの書を読んで確認しようと思ったのは、一読書子としての当ブログは、結局は読みたいところだけを読み、関心のないところは大きく読み飛ばしているのではないか、という反省からだ。読み飛ばしはいいとして、大事なところを「読み落とし」ているのではないか、という危機感である。

6)特に、最近は、当ブログの中では、大きく、スティーブ・ジョブズとアップルの復権がある。その象徴=アイコンとして、iPadを中心に据えよう、という蠢きさえ、始まっている。そこんとこ、私は、いままで恣意的に読み落としてきたのではないか、という大きな反省がある。

7)結論から言えば、「ウェブ進化論」にしても、「ウェブ人間論」にしても、ジョブズやアップルについても、常に言及している。そのポイントの強弱はあるが、触れられていない、ということはない。私が常に読み落としてきたのである。

8)今あらためて、当ブログにおけるジョブズの復権を体験してみると、当ブログにおける重要なキーパーソンとしてのOshoに匹敵させるには、ジョブズはなかなか好漢なのではないか、ということだ。

9)ここでまた当ブログの悪癖がでて、じゃぁ、当ブログの三コンである、科学、芸術、意識、の中の、どちらがどちらに当てはまるだろう、なんてことを始めてしまった。とするなら、もう一人、誰か登場してもらい、三者三様の立場から考えてみよう、などと思い立った。

10)いろいろ逡巡したあげく、三人目として登場させようと思い立ったのは、石川裕人である。

11)あえて言うなら、科学=ジョブズ、芸術=石川裕人、意識=Osho、と振り分けることも可能であろうが、これには無理がある。人はそれぞれに、この三つの要素をそれなりのバランス配分で持っているのであり、それを恣意的に分割するのは不可能である、と当ブログは最近ようやく気がついた。

12)もし、この「ウェブ人間論」がとても素晴らしい本だったら、当ブログのタイトルは「地球人」という単語に至らなかっただろう。どうもあの人間論がいまいちだったので、では当ブログとしては、暫定的に「地球人」という仮称でもってそのコンセプト枠を確保しておき、内容を探そう、と言うスタイルに、だんだんと落ち着いてきたのだった。

13)最近は、ジャック・アタリの「まぼろしのインターネット」(1998 丸山学芸図書)や、「21世紀の歴史 未来の人類からみた世界」(2008 作品社)などが面白そうだなぁ、と思い始めているが、両方とも小説なので、未読である。たぶん(!)、読んでしまえば、また期待に反して裏切られるのであろうが、少なくとも、この「ウェブ人間論」の後継をいくつかは見つけてきている。

14)実際は、梅田望夫のさらなる後続の著書に目を配ったのだが、まぁ、一括するに、ない物ねだりであった、と総括することができる。

15)しかしながら、いざ今回再読してひととおり読み直してみると、面白い。少なくとも、当ブログにおいて、「チベット密教」と「私が愛した本」の二冊とともに、頑健なトリニティを組んできたのが「ウェブ進化論」であってみれば、この「ウェブ人間論」も、再読する価値そのものはある。

16)ただ、視座を得てはみたものの、読者としての恣意的な読み方があり、勝手な解釈によって、見落としてしまったことが多くあることにも気づく。もちろん、著者たちも、あえて外しているテーマもある。それを鵜呑みにして、これで全体と思っていると、未来において大きな不足をかこつことになる。

17)「ウェブ人間論」というタイトルの本書は、「ウェブ・人間論」と「ウェブ人間・論」との間を往来していると言える。

 ウェブが広く人間にどう影響を及ぼしていくのか、人間はウェブ進化によってどう変容していくのだろうかという意味での「ウェブ・人間論」。 

 グーグル創業者や世界中に散らばらるオープンソース・プログラマーのようなウェブ新世界を創造する最先端の人々、ウェブ進化とシンクロするように新しい生き方を模索する若い世代、そんな「ウェブ人間」を論ずる「ウェブ人間・論」。

 この二つの「論」がクモの巣(ウェブ)の放射状に走る縦糸と同心円を描く横糸になって、本書は織り成されている。そんな視点から改めて本書を眺めていただくのも一興かなと思う。p202 梅田望夫「おわりに」

18)あえていうなら、当ブログは、このたとえの中の前者「ウェブ・人間論」に強い関心を示したのであり、縦糸にばかり興味を持っていた、ということもでできる。

19)そもそも「人間論」としては、当ブログの場合は、Oshoありきである。私はその門弟であり、そのムーブメントのなかにあることをよしとする。だから、「人間論」としては、本当は、Oshoできまりなのである。

20)しかるに、3・11後にジョブズが亡くなることによって、その人と成りにつよく関心を持つようになり、横糸としての「ウェブ人間」としてスティーブ・ジョブズを代表格に思うようになった。その最終的な果実であるiPadを愛でながら、ウェブ全体を考えようとしている。

21)さらにいえば、ここで石川裕人のことを考える。彼はたしかに生涯に渡ってアップルのユーザーではあったが、かならずしも「ウェブ人間」ではない。もちろんである。彼は「演劇人間」であった。私は彼を、私の「人間論」のなかの重要なポイントに位置づけたい。

<4>につづく

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2013/02/24

池田純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』<全球時代>の構想力<5>

<4>よりつづく


「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」 <全球時代>の構想力<5>
池田純一(著) 2011/03 講談社 317P
★★★★★

1)本書はすでに5読目である。スティーブ・ジョブズ追っかけの途中で、当ブログのアンテナに引っかかった一冊であったが、なかなか咀嚼するまで時間がかかった。

2)そもそも、当ブログは、ネット関連でスタートしたにもかかわらず、ネット関連はもう読むまいと、一時決意したのだった。しかしながら、人生というものはままならず、そう決意したのにも関わらず、何度もなんども、ネット関連に引き戻されてくる。

3)今回は、ジョブズのZEN、というモチーフだったが、結局は、禅→アップル→ネット社会、と引き戻された。もう、意図的に、終わったの、関係ないのと、言うべき段階は過ぎているのかもしれない。目の前にやってくるものとは、それなりに関わって、丁寧に見ていく、という必要があろう。

4)最初、この本を手に取った時は、4冊くらいの本の内容があると思った。それだけ多岐にわたる内容を含んでいた。最初はやはり関心があるところだけ読み込み、関連のリンクを追っかけた。次に本としての全体を読み込み、著者なりの意図をつかもうとした。そして自分なりの納得なり、反論なりがでてきて、最終的には、だいぶ読みなれたものとなって、まずまず、この本は読みこんだな、という気分まで持ってきた。

5)もちろん、関心が持ちようのないところもあるし、意見を異にするところもあるが、五読目となると、一冊の本として、味わうことができるようになった。たぶん、これで当分は、いいだろう。

6)この本を書く上で書き手の側のモチベーションとして三つの言葉を想定していた。三つの制約条件といってもいい。そのひとつが一つがnonlinear、ノンリニア=リニアではない、というものだ。(中略)

 三つのモチベーションの残りの二つはrevisitとprovocativeだった。p310 「あとがきに代えて ウェブ時代に本を書くということ」

7)直訳すれば、非直線的、再訪的、議論喚起的、ということになるのだろうが、当ブログにおいては、まさに、「まんまと」著者の手口に乗せられてしまった、ということができるだろう。

8)たしかに本著は直線的ではない。最初4つの本がある、と感じたほど、輻輳したテーマが、渾然と、しかも捻じれの位置にあるようなテーマが同時進行していた。そして、何度か再読しつつ、当ブログの読書歴も振り返るチャンスにもなった。最終的には、スチュアート・ブランドやラブロックなどの言説に対しては、かなりキツクかみつきたくなったので、たしかに議論喚起的であったともいえる。このブランド=ラブロックあたりの原発に対する姿勢については、今後の課題として残っている。

9)ただ、五読してみて、痛感したのは、このような「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」という舞台設計の中で、一人の象徴的な人物を思い浮かべよ、というなら、やはりスティーブ・ジョブズという「存在」をイメージすることが大切だな、ということだった。

10)この本が出版された直後に3・11は勃発し、あるいはスティーブ・ジョブズは56歳と7ヶ月の人生を閉じた。一つの時代が終わったのであり、一つの時代が幕開けしたのだ。

11)私にとっては、このウェブ時代を象徴するのはツイッターのザッカーバーグでもなければ、グーグルのラリー=ペイジでもないだろう。ネット上の新しい潮流には注目しつつも、私ももはや年老いたひとりの前時代的人間でしかない。これからの時代は、これからの人たちが生きていくのだ。ジョブズの死とともに、私の中でも、何かが終わった。そういうことを、この本を読んでいて、つくづく痛感した。

12)なにはともあれ、この本は面白かった。

<6>につづく

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2013/02/23

アントニオ・ネグリ 『未来への帰還』 ポスト資本主義への道<2> 

<1>よりつづく


「未来への帰還」 ポスト資本主義への道 <2>
アントニオ・ネグリ 杉村昌昭/訳 1999/10 インパクト出版会 単行本 124p
★★★★★

1)高田明典は「現代思想の使い方」(2006/10 秀和システム)において、ネグリを読むなら、「<帝国>」「マルチチュード」に先んじて、こちらの「未来への帰還」を読むことを勧めている。「マルチチュード」を読めば「<帝国>」を読まなくてもいい(ちょっと極言的な捉え方だが)、とさえ言い、あるいは「マルチチュード」より、「未来への帰還」を読んだほうがいい(これも極言的捉え方)とまで言っているのだから、むしろ、この「未来への帰還」一冊を読んで、ネグリ「読了」としてしまってもいいかもしれない(いよいよ極言だが)。

2)そう思わせるほど、このコンパクトな一冊に、ネグリの根本的な「種」が詰まっているような一冊である。

3)このわずか124頁のコンパクトな一冊を読んでいて、カリール・ジブラーンの「預言者」を連想した。別に内容が似ているわけではなく、その本の成り立ちというか、ドラマツルギーが、「出」と「入」で、反転はしているが、この際だから、いっぺん、まとめてやろうじゃないか、というところがとても似ている。そしてコンパクトに、凝縮されている。

4)原題は「EXIL」である。ボーカル&ダンス・ユニットの「EXILE(エクザイル)」のほうの意味は知らないが、こちらは「亡命」という意味を持っている。ネグリの年表についてはロベール・マッジオリが書いた「トニ・ネグリ=<悪魔の帰還>」(p101)という短文にうまくまとめられている。何箇所か抜き書きしようかな、と思ったが、それを始めると、10頁まるまんま抜き書きしそうになったので、やめる。いずれ、ウィキペディアなどで類似のリストがあるに違いない。

5)この邦訳がでたのは1999/10。この時点では、ネグリの邦訳は「構成的権力」近代のオルタナティブ(1999/06  松籟社)がでていたくらいで、ほとんど知られていなかったのではないか、と思われる。

6)ジブラーンの「預言者」は、いつか流れついた地から再び預言者が船出するときに、集まってきた村人たちに、最後のお別れの挨拶をする、というドラマツルギーを使っている。

7)ネグリは、左翼的思想家として政治的テロリズムに影響を与えていて、1970年代の政治的事件に関与したとして本国イタリアで起訴され、頃合いをみてフランスに亡命した。そこで14年間教鞭をとったのち、ふたたびイタリアにもどり収監されようとしていた。その時に、ネグリがテレビ番組などで「口語体」で語ったものをまとめたのが、この「未来への帰還」なのである。

8)1970年代的「終わらない過去」に「ケリ」をつけて、「未来」へと飛翔するために、亡命地から「収監」されるために本国に帰還する、という舞台の仕立てかたは、ネグリその人とその思想を、より一層際立たせることに役だったはずである。

9)今日、近代からポストモダンへの転換期にあって、問題は再び多数者=多数性の問題となっている。社会階級が社会階級として形骸化するかぎり、社会階級の組織的自己集中化現象は消滅していく。したがって、われわれは再び個人の集合体というものに直面しているのだが、しかし、この多数者=多数性は以前とは絶対的に異なったものになっている。

 これは知的大衆化の結果としての多数者=多数性である。それはもはや平民とか民衆といった呼び方をすることはできない。なぜなら、それは豊かな多数者=多数性だからである。私は多数者=多数性という用語をスピノザから借用したのだが、それはスピノザが偉大なオランダ共和制という類まれな異例性を背景として思考したからである。p39「多数者=多数性(ムルティトゥード)」

10)この時点では、ムルティトゥードと翻訳されているが、やはり日本語としては覚えにくいと判断したか、のちにはマルチチュードと翻訳されるのが主流になった。

11)私はスピノザのこの用語を使ったのだが、その使い方は、否定的なものとしてとらえられた---ヘーゲルがのちに「獰猛な野」と名付けるところなる否定辞としての、つまり組織し支配すべきものとしての---多数者=多数性という用語を店頭したものである。p40「同上」

12)字義通りに解釈すれば、それなりに理解できる言葉だが、過去に誰かに使われてきた言葉とすれば、それなりに背景を理解していかなければならない。

13)1978年3月16日木曜日、ローマ、ファーニ街。フィアット128が先頭の公用車にぶつかる。二人の男が飛び出しながら護衛たちに発砲し、総裁をすばやく奪い取り、一方では共犯者たちが第二の車に銃撃を加え、他の三人の護衛を射殺する。(以下、つづく) p103ロベール・マッジオリ「トニ・ネグリ=<悪魔の帰還>」

14)ネグリが実際に問われた罪状については、どういう経緯だったか、まじめに追っかけてみる気はないが、少なくとも、その年代には強い関心を持つ。この年代、23歳の私はインドに行ってサニヤシンとなっていたが、日本国内では、例えば加藤三郎が自らの政治的「活動」をおこなっていた。あるいは、当ブログの読書の中では、荒岱介の人生を思い出す。

15)本書は三部構成になっている。第一章「20世紀旧体制との決別」、第二章「ノマド化する世界」、第三章「生の最深部へ」となり、巻末に三者の解説的短文が付属している。ここで、第二章のタイトルに「ノマド」が取り上げられていることに、あらためて興味をひかれる。

16)私の意見では、私が体験した亡命はきわめて単純なものであった。しかし、亡命とプロレタリアのノマディズムは、二つの根底的に異なるものである。p77「亡命」

17)内容もともかくとして、ここでノマドが「ノマディズム」と変化している。そして、「プロレタリア」という用語が堂々と闊歩していることに、びっくりする。著者側からみれば当然のことなのだが、当ブログの中では、ちょっと異様である。

18)この本はコンパクトなので、この本だけに限定してネグリという人の成りと思想を受け止めれば、割とシンプルに全体像を捉えることはできる。

19)愛に唯物的定義、それは共同体の定義であり、寛大さによって広がり、社会的配備を生産する情動的関係の構築ということである。

 愛はカップルや家族に閉じ込められるものではなくて、より広大な共同体に自己を開いていかねばならない。

 愛は状況に応じて知と欲望の共同体を構築しなければならないし、他者に対して建設的にならなければならない。

 愛とは、今日では、自己にしか属していない何かを守ることに閉じこもるあらゆる試みを破壊することなのである。

 愛は固有を共同へと変えるための本質的な鍵であると私は信じている。p90「愛」

20)ここを読んで、「愛」とは何か、をわかる人は、ちょっと特種な人であろう。少なくともネグリは、そのように「信じている」ということである。人にはいろいろな生き方や表現の仕方があるが、ネグリはあくまでも自らの考えを表現する、思想家なり、哲学者、という立場にとどまろうとする人なのだろう。

21)この訳は、呂氏が原文を忠実に訳した文章をもとにして、私が日本の読者にとってなるべくわかりやすくなるようにかなり大胆に手を入れた一種の”超訳”である。p123杉村昌昭訳者あとがき」

22)これで「超訳」なのであるから、原文はかくや、と思われる。しかしながら、「日本人の読者」の中の、さらなる軟弱者の当ブログなどにおいては、さらなる「超々訳」が出現することさえ期待したい。そういった意味では、この一冊は、文頭で述べた高田明典が紹介するように、ネグリをぐっと引きよせて考えることのできる好著だと、私は思う。

 

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2013/02/21

宇野邦一 『ドゥルーズ』 群れと結晶


「ドゥルーズ」 群れと結晶 
宇野邦一 2012/02 河出書房新社 全集・双書  254p
Vol.3 No.0923

1)はて、この本をレインボー評価していいだろうか、と自問する。決して内容がわかったわけでもないし、共感するものでもない。しかし、一頁、一頁、次から次へと、最後まで読ませてしまおうとする流れは、やはり、これは感謝しなくてはならない。

2)得てしてこのような本は、最初の読み始めと比べれば、中ほどにきて飽きてしまうものである。いい加減、もうどうでもいいや、と思ってしまう。しかし、この本は、適度なところで、こちらの関心とうまくリンクするように、なにかかにかのエピソードを挟んでくる。そういった意味では、最近読んだ、哲学書やら、現代思想といわれる本のなかでは、良質だった、と思える。

3)群れ=身体と、結晶=時間の哲学が、新しい倫理を問う。日本を代表するドゥルージアンによる、世界で最も美しい、ドゥルーズ的実践。表紙案内

4)この表紙の案内を読んで、私をはじめ、私レベルの私の友人たちは、なにごとかをわかる奴は一人もいない、だろう。少なくとも私はわからない。でも、「日本を代表するドゥルージアン」という言葉には打たれる。だいたい、ドゥルージアン、と言われるほどの潮流がある、ということに感動する。あるいは、日本語で書かれているのに、「世界で最も美しい」とは、なんという表現であろうか。この表現はだれが書いたのだろう。そして、ドゥルーズ的「実践」とは、これいかに?

5)結論としては、最初の最初に一読者として感じた疑問は、この一冊では解決することはなかった。わからないことはわからないままであった。

6)しかし、いくつかのことが、この本において、ようやくわかったことが、いくつかある。

7)ドゥルーズを高く評価した「マルティチュード」の哲学者ネグリは、ドゥルーズがヴィトゲンシュタインに対してまったく警戒的だったのに比べると、むしろヴィットゲンシュタインの言語哲学に対して好意的である。

 言語システムの裂け目や限界を執拗に思考したその言語哲学は、改めて言語の生産性や創造を浮かび上がらせたのだ。p75「記号の宇宙」

8)ヴットゲンシュタインは、当ブログにおいては、今後の再読リストのトップに位置している人物である。この人物に対して、ドゥルーズは警戒的であり、すくなくともアントニオ・ネグリは好意的であった、ということが分かった。

9)スピノザは決して魂よりも身体を優先させたわけではなく、むしろ思考と意識を区別し、意識に与えられる過大な価値を批判したのだ。スピノザとホップスは、結果としてまったく異なる政治的ヴィジョンを作り上げたように見えるが、しかしスピノザの<身体論>は、ホップスの<自然法>の概念と密接に関連しているとドゥルーズは考えた。p119「身体」

10)スピノザについては、ひとつのカテゴリをもうけて読み進めてきた当ブログであるが、杳としてその消息をまだつかめないでいる。しかるにここにおける、スピノザは「思考と意識を区別し」という言説には、大いに得るところが大きい。

11)スピノザは、古代から近代まで綿々と西洋を貫いてきた<自由>とはまったく異なる<自由>を構想していたにちがいない。スピノザの倫理とは、まさに学校で教える「倫理」とも「道徳」とも異なる「野性的異例(アノマリー)」(ネグリ)であった。p121「同上」

12)当ブログは、ふらりと、ごくありていの公立図書館に立ち寄った平凡な現代人が、何気に棚から引き出した本に曳かれながら時間を過ごす、という形態をとっている。その中にあって、いわゆる哲学のコーナーで言えば、ネグリという棒状の一線と、スピノザ、というルーツとしての溜まり水を確認しただけである。これらを、より豊かにするのは、今後の読書にかかっている。そういった意味において、ここにこれらの言説を発見したということは、今後の読書のおおいなる励みになる。

13)確かに情報、記号、コミュニケーション、頭脳の協働、非物質に深くかかわる資本主義は、生産と労働の性質を変え、資本と労働者の関係を変化させ、思考、情動、集団性、公共性も変容させるだろう。イタリアの論者たちの「マルチチュード」の思想にとって、まさにそれはあらたな革命にほかならないけれど、それは何よりもまず新しい抗争の形態でもある。p218「国家と資本のあいだ」

14)当ブログにおいては、柄谷行人「世界共和国へ」(2006/04 岩波書店)の中に見つけて以来、おおざっぱに追っかけてきた、ネグリ&ハートのマルチチュードの世界を、批判的にスキャンしつつ、ここを契機として、もっと広域における哲学や現代思想なる世界へと足を踏み入れてやろう、という野心は、いまだ持ち続けているのである。

15)今後、流れにおいて、この本を再読するかどうかはわからないが、少なくとも、当ブログにおいては、しかも、かなりのおおざっぱな読み方をする当ブログとしては、、今後、機会を捉えて、再読する価値のある一冊とメモしておくことは妥当である。

16)この本の魅力は、ドゥルーズその人というより、その弟子筋であろう宇野邦一という人の、読者層を日本人において、なんとかその関心の糸が切れないように書き進めるセンスに負うところが大きい。最初に表紙にあった表現の、「ドゥルージアン」とか、「実践」とか、いう表現が、読み終わったあとになお、意味を新たにする。

 

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『ニッポンの洞窟』 暗闇に息づく神秘を訪ねて<1>


「ニッポンの洞窟」暗闇に息づく神秘を訪ねて
イカロスmook 2012/07 イカロス出版 ムック 109p
Vol.3 No.0922★★☆☆☆

1)この本、見てのとおり、タイトル通りの写真集ということになる。「鍾乳洞に熔岩窟 そして海蝕洞---光届かぬ地下世界への招待」。ぬぬぬ、この表紙のタイトルだけで、ガガガーンとくる。

2)「神々も住まう降る木歴史の舞台」、「今も生き続ける信仰と行場」、「自然が作り上げた神秘の景観」、「観光需要を掘り起こす 鉱山跡の再生」、「人間の営為と情熱の跡」。ひとつひとつのタイトルが、なんだか、いつもは隠されている情動を突き動かす。

3)このテーマ、実は、当ブログのスタート時点では大きなテーマの一つであった。訳あって、人知れず、そっと探検してきた。ひとつの地下水のような底流である。それは、当ブログにおいては「アガルタ」というテーマにまとめてきた。

4)しかるに、現在の当ブログにおいては、もはやまったく探検する気はなくなっている。つまり、すでに解決してしまっているのである。

5)端的に言えば、これらのテーマが何事かの暗示を持っていたのは3・11までだった。地下世界、丑寅の金神、地湧の菩薩、無意識の伏水流、レムリア、アガルタ。なんであれ、これらの持っているイメージは、非常に興味深々ではあるが、当ブログでは、ある地点で、その探検は終了してしまった。

6)今は、このような本が存在していることだけ、メモしておこう。

7)しかし、それにしても、この本、誤記が多い。「正誤表」がついているところが、せめての救いだが、かなり重要なところが間違いだらけだ。

<2>につづく

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2013/02/20

『iPadスーパーマニュアル』すべての操作方法・新機能・便利技をかんたん図解 Studioノマド


「iPadスーパーマニュアル」 すべての操作方法・新機能・便利技をかんたん図解
Studioノマド 2011/01 秀和システム 単行本 302p
Vol.3 No.0921★★★★☆      

1)出版の年代から考えれば、この本はiPadでも、第2世代に対応しているのだろう。私の手元にあるiPadは第4世代にあたるだろうから、かならずしもマニュアルとしては合致していない。

2)であっても、概略については、ほとんど影響がなく参考にできるに違いない。

3)本当はこういうマニュアルがある、ということ自体、ジョブズの美学からすれば間違ってるだろう。

4)本体に付帯してあったのは、絵葉書程度の案内一枚だ。スイッチを入れれば、あとはいじっていれば、一人でにわかっていくように設計してあるのがアップル製品、とくにこのタブレットであるはずなのである。

5)そう分かってはいるのだが、いじっていてもなかなか解決しない問題もある。そんな時、役立つかな、と思って、図書館からこの本を借りてきておいた。だけど、あまり見ない。

6)使っていて、あれって思い、この本で調べたが、よくわからないところがあった。結局一晩いじって、翌日になって、結局、最初のスタート地点に戻ってやり直したら、簡単に解決(していた)。とにかく、使って簡単、わかりやすく、それがiPadの、そしてジョブズのポリシーであるはずである。

7)工業製品的には、マニュアルを付帯しないということは、法的に問題があるのかもしれない。「両手を離すと地面に落ちて、足に落とすと、足の指を怪我をする場合がありますw」なんてことを延々と書いておいて、いざとなったら、責任逃れをする、という現代の家電のマニュアルも、いくところまで行ってしまっている。このような思い切りのいいアップル製品は、それなりに見事だと思う。

8)一時期、パソコンVSケータイ、みたいな対立があった。私はどちらも必要なのだが、ケータイは音声通信が主で、通信エリアが広く、音質がよければそれでよかった。それ以上のものを期待していなかった。

9)そのケータイがガラパゴス的に進化し、ガラケーとなり、これにWiFiさえ使えるようにすれば、とにかくスマートフォン(スマホ)になったわけだ。

10)このあたりでiPhoneが登場し、市場を大きく変えた。私自身は、長いこと、結果としてのアンチ・アップル派だったので、スマホはアンドロイドを2台所持している。基本的には不満はなかった。

11)そして、ここにきて、仕事環境に大きくタブレットが登場し、仕事用アプリが対応したので、思いっきりタブレットに仕事が移行しつつある。アンドロイドやiOS、ウィンドウズ8など、いわゆるタブレットが乱立する中で、結果として私が選んだのはiPadだった。

12)一番の理由は、スティーブ・ジョブズに敬意を表して、ということになる。そしてその選択の結果については、今のところ、私はおおいに満足している。

13)1995年は、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、ウィンドウズ95の発売、という三大話で語れる年代だと思う。

14)それに匹敵する形で2011年を語る時、3・11地震津波、東電原発事故、スティーブ・ジョブズの死去、という三大話に集約することができるだろう。

15)すでに2013年になって、アップル神話の陰りが報道される時代になってきている。だが、やはり、ジョブズの功績は大きかったな、と遅ればせながら、痛感する。

16)本書はStudioノマドというプロダクションが著者となっている。当ブログは、このノマドというキーワードを現在追っかけ中である。そんなところは、この本、なんか関連あるかなぁ、と面白く感じる。

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プロメテウスの罠(3)福島原発事故、新たなる真実


「プロメテウスの罠(3)」 福島原発事故、新たなる真実
朝日新聞社 2013/01 朝日新聞社 学研パブリッシング 単行本  294p
Vol.3 No.0921★★☆☆☆

1)知人が取材されていたので、このシリーズが朝日新聞紙上で始まっていたことを知った。その後、「プロメテウスの罠」(2012/03)、「プロメテウスの罠2」(2012/07)として、記事がまとめられて出版された。

2)知人の記事の部分は2に収録されたので、いちおう「検証」のため1・2をチェックした。さて、続いて出たこのシリーズの3、積極的に読むべき本なのであろうか。続いて4は、この3月に出るらしい。

3)この3においては、大きく分ければ、医療関係、除染状況、瓦礫問題、の3つがテーマとなっている。

4)医療関係については、当ブログでも、「南相馬10日間の救命医療」(太田圭祐 2011/12 時事通信社)、「石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命」(久志本成樹・監修 2011/09 アスペクト)などをはじめとして何冊か目を通した。

5)除染問題については、自らガイガーカウンターを購入するなどして、周囲について関心を持つようにした。身に降る火の粉ははらわにゃならぬ。積極的な意味の除染をしなければならないような地域に住んでいるわけではないが、それらの問題を考えなくてはならない、ということがとても悲しい。

6)瓦礫問題では、いろいろな意見が飛び交い、あまり自分の意見をおおっぴらにする気はないが、感じるところはある。すくなくとも、あの瓦礫と言われるもの達の、どの程度までが「瓦礫」なのか。震災で出たゴミの、多くは再利用可能なものに私には見える。

7)いろいろな意見はあるが、もうあまりそれらの問題とひとつひとつがっぷり四つに取り組むと疲れるので、ほどほどにしている。とにかく、ひとりの人間として、目の前にある生活を組み立てていかなくてはならない。

8)これらの乱立する問題とは別に、この本を手にすることによって、マスメディアなり、朝日新聞というものの立つ立場というものを考えた。

9)地域の図書館では、震災図書コーナーを作り、関連した図書や資料を集めているらしい。いずれ年代を経たあと、大きな大事な記録となるだろう。貴重なものがたくさんある。いずれは時間をかけてそれらを「すべて」目を通したくなるかもしれない。

10)新聞はもう何年も読んでいない。たまに知人宅や図書館で必要な部分だけを読むときもあるが、もう、私のライフスタイルの中では、紙の新聞は必需品ではない。

11)仕事をやっていると、「日経」とつく情報網の価値は一定程度ある。どこか「まとも」で、その「視線」の先に、ある一定の統一感がある。混乱したニュースなら、まずはNHKを見る。それから民放で裏情報などを知る。同じように「朝日」とつくと、どこか「まとも」で、「良識派」的であると感じてきた。でも、私の中では、その朝日神話はすでに崩壊しつつある。

12)そもそも「朝日新聞」が、「3・11」を、「取材」する、ということはどういうことだろうか。

13)上のテーマに対置するものは、ひとりの「地球人」が、それぞれの「ライフスタイル」を、日々「生きる」、ということだ。

14)「朝日新聞」という優越性と、「地球人」という普遍性。特殊性としての「3・11」と、日常としての「ライフスタイル」。役割としての「取材」と、根源性としての「生きる」。

15)つたない当ブログではあるが、もし朝日にかぎらずマスメディアに対峙するとするなら、ここにしかポイントはない。このシリーズは、本になるような「貴重」な記録ではあるだろうが、どうも私の「ブログ」を侵食するほどの力がない。

16)どうもこのシリーズは、自らを陰に隠れたレポーターに模すことに徹しすぎていて、こころに響かない。3月には4がでるらしい。流れでもって、私も4をめくってみるだろうが、更になにかを期待することはないだろう。

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2013/02/19

アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 『コモンウェルス』 <帝国>を超える革命論<2>

<1>よりつづく

      
「コモンウェルス(上)」 「(下)」<帝国>を超える革命論<2>
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2012/12 NHK出版 全集・双書  348p 338p

1)ネグリとハートはその三部作を通して、民主主義、自由、愛、幸福、共産主義、革命といった、かつての輝きをとうに失い、今や汚辱に塗(まみ)れながら、嘲笑や冷笑を浴びせられているように見える一連の概念を再考し、それらに新たな力を吹き込もうとしているのである。下巻p300「解説<共>の革命論」

2)なにはともあれ、最後までぱらぱらとめくっては見る。まったく手にとらないではいられないだろう。しかし、手にとったからと言って、はてさて何が得られるだろう。

3)例えば、すでに輝きを喪った、民主主義や共産主義といった言葉を再考し、そこにふたたび新たな力を吹き込もうとするなら、それは概念的な論理のやりくりでなんとかやれそうな気もするが愛や自由、幸福、と言った言葉を概念的に捉えなおすなんてことは、ほとんど不可能なのではないか。

4)それは実際に生きられなければならない。本当は、自由や愛や幸福、なんて言葉さえ、もはや不要なのだ。もし、人間が人間として生きているならば、それこそ自由であるし、幸福であり、おのずと愛があふれていなくてはならない。

5)ましてや革命なんて言葉は、もはや政治的な、左翼的言辞として弄ぶことには、同調しないほうがいいのではないか。「かくめい」や「進化論」など、実に多様な局面で使われる言葉だが、もはや、政治家(とか哲学者や思想家)たちの手からは奪ったほうがいいのではないか。

6)なかでも、本書の最後のパートで集中的に論じられている「革命」という語の評判は、今日きわめて悪い。大義を掲げたラディカルな企ては、結局のところ、破局的な事態に帰着してしまうことになるのだから、革命のような切断を求めるべきではなく、連続的な改革のプロセスに取り組むほかないのだという、現在、支配的な主張はそのひとつの表れだろう。

 またその反対に、革命は即時的かつ絶対的な切断をもたらすものであり、いわば一晩ですべてが変わることになるのだから、私たちはそのような出来事の到来を救世主のように待ち望むしかないという、黙示録的な信仰も根強く存在している。

 しかしネグリとハートは、革命概念をめぐるこうした二者択一----切断なき改革の連続性か、点的で絶対的な切断か、という---をずらしながら、革命的出来事を切断と持続の両面においてとらえること、言いかえれば、新たな変容プロセスを開く歴史的切断として、そのような出来事をとらえることを提案している。下巻p301「同上」

7)ふう~~。「かくめい」って奴は、誰かどこかの思想家なり、哲学者なりの「言葉」から生まれてくるのかなぁ。

8)ネグリとハートは、そうした特異性と同一性の区別を、「愛」という概念---革命と同じく、今や憫笑や冷笑の対象でしかなくなってしまったかに見える概念---と結びつける。同一性にもとづく愛が、<多>を<一>のなかに溶解させ、他なるものを同じものに還元する働きをするとは対照的に、特異性せに基づく愛は、諸々の特異性からある多数多様性を縮減することなく、それらの特異性を合成することを通じて、<共>を構成するのである。下巻p301「同上」

9)ここでは、たしかに言葉では愛が語られているのであろうが、全然ハートには響かない。なにがなんだか、脳みそが腸ねん転を起こしているかのようだ。こんなの、私なんぞは「愛」だとは感じない。

10)この後も、どうやらエコロジーとか3・11とかについて論及されてはいるのだが、哲学とか現代思想という奴に縁がないのか、翻訳が悪いのか、あるいは、こちらの頭脳の機能が低下しているのか(たぶん、このあたりだろう)、とにかく、「頭」にはくるが、「ハート」には全然こない。

11)そんなにボロクソにいうなら、どうして「こんな本」を読んでいるのだろう。

12)なにか、どこかに、なにかのヒントがあるはずである、という期待はあるのだが、そして、いつか理解できて、ともに<共>なる地平に立てるのではないか、という期待はあるのだが、どうも今回も、グラグラしながら、まずはこの本たちを図書館に返却することにする。

<3>につづく

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2013/02/18

『禅と林檎』 スティーブ・ジョブズという生き方 角田泰隆・他


「禅と林檎」 スティーブ・ジョブズという生き方 
角田泰隆 2012/04 宮帯出版社 単行本     223p
Vol.3 No.0920★★★☆☆

1)資料としては貴重な一冊といえるだろうが、読後に、深い感動がない。せっかくのジョブズとZENというテーマながら、なにか、とってつけたような説明文に徹している。つまり、禅者としての、一人の地球人としての「覚悟」のようなものを期待すると、空振りに終わる。

2)これまで、似たようなテーマ本はこの本を含めて三冊読んだ。
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「スティーブ・ジョブズと『禅』」(日経おとなのoff 2012年6月号)、ケイレブ・メルビーのコミック「ZEN OF STEVE JOBS」もいまいちだったが、このこの「禅と林檎」は他書2冊よりましかな、とは思うが決定打にはならない。

4)もちろんこのテーマとなれば、鈴木俊隆「Zen Mind, Beginner's Mind(禅へのいざない)」も外すわけにはいかないが、積極的にジョブズが表現されているわけでもないし、うまく統合されているわけでもない。

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5)今のところは、大変不満ながら、これらの類書のあるやなしやに目を光らせていきたい。

6)「禅と林檎」の長所と短所は同根である。駒沢大学の教員7人が総がかりで書いているために、伝統的な曹洞禅については、断片的ながら間違いは書いていないだろうし、網羅的に紹介されているはずである。

7)しかるに、であるからこそ、伝統禅に引きづり込みすぎていて、ジョブズの魅力が余すことなく紹介されている、という訳にはいかない。どこぞの日本の禅院にあって、土産物コーナーあたりの一冊として鎮座していても、なんの違和感もないだろう。あら、あんな有名な人も座禅していたのね、と、ますます禅の人気は上がるだろう。

8)でもでも、それでいいのか。本当は、私の最近の受け取り方から考えれば、ジョブズのライフワークは、下手すると、伝統禅のひとつやふたつ、ぶっ飛ばしてしまうほどのイノベーションを起こしているのである。つまり、伝統禅の中に、おとなしく、行儀よく収まっているようなジョブズであれば、アップル(林檎)革命なんか起こせなかっただろう。

9)彼の師となる乙川弘文もまた、つまりは日本の伝統禅には飽き足らずアメリカに渡ったはずである。日本の禅院の動きを知っていたからこそ、乙川は、一時ジョブズが日本で出家したい、と申し出た時に、やんわりとそれを戒めたのではなかったか。

10)たまたまジョブズは禅をかじり、そして、さらに「たまたま」世界の偉人のリストにその名を連ねることができた。もし、ジョブズが挫折していたら、日本の伝統禅は彼になど見向きもしなかったのではないだろうか。ジョブズがでていなかったら、乙川など、日本の禅院では話題にすらならなかっただろう。

11)あるいは、たまたまジョブズのスピリチュアリティにヒットしたかに見える禅ではあるが、本当に、最後の最後まで、ジョブズは禅の「理解者」でありえただろうか。ジョブズが多くのヒントを禅から得ていることは間違いないだろう。しかし、安易な禅とジョブズのもたれあいには、どうも違和感を持つ。まだ煮詰められていない、なにか、最終課題が残されているのではないか。

12)この本の、第1部の「ジョブズから学ぶ生き方」に比較すれば、第2部の「日本の禅から世界のZENへ」のほうは、まだしも当ブログの流れににはより即した内容となっている。カウンターカルチャーやZENヒッピーたちに影響を受けたジョブズを一例にしながら、アメリカ(そして西洋)の精神性の変異を捉えている。

13)この本、伝統禅とはいうものの、所詮は道元までで、せいぜい中国禅に道元の足あとを見つけようとしているだけである。禅というなら、ボーディ・ダルマまでたどらなければならないだろうし、インドのマハカーシャッパへのルーツ、そしてゴータマ・ブッタその人にまでさかのぼらなければならない。さらにはブッタ以前についても問われなければ、ジョブズの「禅」は解明されないではないか。

14)逆に、大きな流れを考えればこそ、いま「ジョブズの禅」の現代性、未来性が読みとれてくるのではないか。ジョブズは禅のおかげでアップル文化を作った、だから日本の禅文化は素晴らしい、というような短絡的な結論であるなら、この本は、実に噴飯もの、ということになってしまう。

15)この本の著者たちは、ジョブズと同時代人(あるいはやや後輩)である。伝統に逃げることなく、内部からのイノベーション的生き方をすることこそ、道元の弟子だろうし、ブッタの弟子であろう。そうであってこそ、禅と対比するかたちで「林檎」を語る資格を得るに違いない。

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2013/02/16

アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 『コモンウェルス』 <帝国>を超える革命論<1>


「コモンウェルス(上)」 <帝国>を超える革命論<1>
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2012/12 NHK出版 全集・双書  348p
Vol.3 No.0918★★★☆☆

1)「コモンウェルス」とは何か?---- ますます進行するグローバリゼーションのなかで、国境を越えて私たちに働きかけてくる<帝国>という権力と、それに対抗する多数多様な人びとの集合体=マルチチュード。

 <帝国>が法にのっとって収奪を試みるのも、マルチチュードが生産し、かつ<帝国>と闘うための武器とするのも、<共>という富=コモンウェルスである。

 それはいかにしてつくられ、どのような可能性を秘めるのか。絶対的民主主義を追究する、<帝国>論の完結篇! 表紙見返し

2)おお、かっこいい。これは読まなきゃ、と思う。ネグリ&ハートの最新作である。ましてや、「<帝国>」「マルチチュード」に続く、三部作の「完結篇」という唄い文句である。今、これを読まないで、一体何を読む、とさえ思う。

3)意気揚々と、ページをめくり、あちこちに、多少の聞きかじった単語が出てきてホッとするのもつかの間、次から次と、初体験の単語が続出する。何行かに一度、あるいは何ページかに一度は、付箋を貼って、それなりに理解をし始めているように感じるものの、いつの間にか、自分の興味のない世界に引きづり込まれ、何かの拍子に、ぱたっと本を閉じてしまう。

4)それでもなんとかかんとか3分の1ほどまで読み進めては見る。ふとお茶などを飲みながら、さて、ここまで読んで一体何が頭に残ってる? え? ぜんぜ~~ん。あの表紙見返しに書いてあった宣伝文と「同じこと」が、この本に書いてあるの?

5)やっぱり、今回もだめであろう・・・(落胆)。_| ̄|○


「コモンウェルス(下)」<帝国>を超える革命論
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2012/12 NHK出版 全集・双書  338p
Vol.3 No.0919★★★☆☆

6)中心のないネットワーク上の権力=<帝国>の興隆に対抗し、秩序形成をめざして単独行動に走ったアメリカの試みは、イラク戦争の失敗と金融危機という挫折に終わった。

 残されたのはEUの超国家主義でも中国の派遣主義でもなく、<共(コモンウェルス)>という富にもとづいた、マルチチュードによる民主主義のプロジェクトだった。

 指摘所有という制度とそれを支える法体制を根本から批判し、万人にアクセス可能な資源=<共(コモン)>の豊かな可能性を予見する。

 <共>をめぐる生産はいかにして資本を蝕み、崩壊させるのか?ポスト工業化時代にこそ読まれるべき「革命」の書。 表紙見返し。

7)下巻の宣伝文だって、上巻に劣らず、カッコイー。本当にそういう内容だったら、絶対読みたい。と意気込むのだが、だけどもう、最初から読む気がなくなっている。

8)本当のところを言えば、このところ、哲学やら、現代思想と言われる分野の本を立て続けに手に取っている。面白いことは面白い。興味がないわけではない。読むべき本もある。読めるのなら、読んでおいたほうがいいに決まっている。だが、次々と挫折し続けている。もう、当ブログにメモさえ残すのも気が引けるほどの、惨憺たる読書(挫折)歴が始まってしまった・・・_ノフ○ グッタリ

9)この現象って、当ブログが、リナックスのプログラミングの書物、「Linuxカーネル2.6解読室」(2006/11 ソフトバンククリエイティブ)なんて本を手にとった時の感触にそうとう似ている。読みたい、わかりたい、やってみたい。そうは思うのだが、いかんせん、その様に教育されていない。才能もなければ、仲間もいない。ないないづくしで、結局は、その道の専門家が活躍することを期待する、と、そういう落としどころだった。 

10)つまり、難しい専門的な部分は、その最適な担い手たちに任せて、こちらは応分な成果物をいただければいいのではなかろうか、ということである。いや、別に他人に任せっぱなしということではない。自分なりにできることは、しっかりと分担として受け入れようとは思う。

11)例えばLinuxがいくら好きだからといって、私などは一行たりともそのコードを書くことはできない。どのような仕組みでどう組み立てられていくのかは、まったく分からないし、今から学ぼうと思っても、すでに遅いであろう。でも、だからと言って、私にはLinuxに対して何も出来ないというわけでもない。まずは、自分でLinuxをつかってみることであり、その体験を周囲に話して話題を広げることはできる。あるいは何らかの形でドネーションしたり、何らかのサポートなどが出来るかもしれない。

12)そう言った意味合いにおいて、いわゆるこのネグリ&ハートの「マルチチュード」には、一票を投じてみたいとはおもっているのである。その全容や仔細な点は分からずとも、なんかおもしろそうだな、可能性がありそうだな、ということは表現しておきたい。

13)だが、どうも最近は実態が分かって来たというべきか、違いが分かってきたというべきか、どうもこれって、違うんじゃないか、という感触を得ることも多くなってきた。

14)まず第一に、なんだかんだ言っても結局は廃れたはずのマルクス的共産主義の焼き直しをしているのではないか、ということ。それらの闘争史を何回も読まされると、ちょっとあきがくる。新しい視点から捉え直しているのだ、ああ、そうだったんですかぁ、とは言ってみるものの、どうもアクビがでる。結局は戦いの話であり、戦争の話である。結局はチャンバラの解説をやってるにすぎないのではないか、

15)さらに言えば、 いわゆる「権力」と「被抑圧層」の捉え方って、ぜんぜん、昔の社会運動と変わっていないんじゃないか。あるいは、むしろ、現在の世界的な動きを、昔の動きに連動させて考えようとしているだけなのではないだろうか。

16)そうすれば、過去の「運動」も「無駄」にならないし、現在の「運動」も、すごい「歴史」の中での連携として捉えられることができる。・・・・・だけど、本当か?

17)本著に書かれる「革命」や「民主主義」って、なんだか、古臭くないか?

18)ネグリとハートが構想する革命は、「闘争に次ぐ闘争を通して、各段階におけるシステム均衡をすべて打ち破り、そこから絶えずあふれ出ながら、<共>の民主主義を目指して休むことなく進んでいく」((下)274頁)ものにほかならない。

 むろんそれは、遠い将来に先送りされた出来事への希望にひたることでもなければ、過ぎ去った非日常的な祝祭への郷愁にふけることでもない。

 本書の一節---それを読む者の力能と喜びを増大させるような、美しく力強いパッセージ---を引くなら、「今日、革命はもはや私たちから切り離された未来の出来事として思い描かれるものではなく、現在---ある意味では、すでにその内部に未来を包含した「過剰な」現在---に生きるものでなければならない」((下)74頁)のだ。

 ネグリとハートは<帝国>三部作を通して、そのような「現在」に一貫して関与してきたのであり、また彼らの構想する<共>の革命論は、すでに私たちの「「過剰な」現在」のなかにしっかりと息づいているのである。p304水嶋一憲「解説<共>の革命論」

19)難解な書物を読むことを断念するなら、ダイジェストとか解説などを使ってでも、いちおう内容を把握しておきたい。そういった意味では翻訳者の一人である水嶋の「補足」も参考になる。しかし、これって、別にネグリに言われて初めてわかることなのだろうか。彼を待たなければ、「大衆」は何もできないのか。

20)むしろ、これはすでに「大衆」の動きがあって、それを単にネグリ&ハートが「後から」意味づけているだけに過ぎないのではないか。

21)実際、本書の刊行後、2010年末から、<共>の民主主義を目指して進む、新たな闘争のサイクルが開始されている。チェニジア、エジプトに始まる中東革命の火花は、スペインに飛び火し、「真の民主主義を今こそ!(デモクラシア・レアル・ヤ」を合言葉としつつ、政党による代表制のシステムそのものに異を唱える、「憤激する者たち(インディグラナドス)」の運動を呼び起こした。 

 さらにその動きはギリシャ、イギリスなどへと拡がり、2011年秋には、アメリカ・ニューヨーク市の「ウォール街を占拠せよ(OWS)」運動へとつづいていったのである。3・11以降、日本の各地で発生している反原発デモや占拠運動も---それぞれの特異性を保ちつつ---こうした流れに連なるものだろう。p304水嶋一憲「解説<共>の革命論」

22)これって、なんだか極端に我田引水なのではないか。この本の原著が出たのは2009年であり、その時点で、まさかネグリ&ハートだって、3・11を「予測」などできているわけがない。ましてや「反原発」の動きを、ネグリたちが演出したわけでは当然ない。そのような動きを「マルチチュード」としてネーミングして、一部の「深読み」たちが<共>化することはあるだろうが、それは、単に、古びた「サヨク」達に対する、解説やらリップサービスの一環に過ぎないのではないか。ましてや、アラブの春においてをや。

23)ネグリは、3・11後に「世界が日本のを考えている」(2012/03 太郎次郎社) において、「原子力は「怪物(リバイアサン)」である」という一文を日本へのメッセージとして寄せている。このような、現在進行形の活動はたしかにあるのだろう。

24)ネグリとハートは、このようにバトンを引き継ぐかのごとく連鎖発生した、闘争の新たなサイクルと並走しながら、「宣言」Declaation(2012年)というシンプルな題名のパンフレットをまず電子書籍という形で出版している(NHK出版から刊行予定)。

 そこでは、本書で展開された<共>の革命論をベースに、生きていること・自由・平等・幸福への追求・<共>への自由なアクセスといった不可侵の権利が自明の真理として提示されるとともに、それらの権利を侵害する統治形態は廃絶され、新たな政府が創設されるべきであると言った原理が宣言されている。p305水嶋一憲「解説<共>の革命論」

25)理論化され、執筆され、出版され、翻訳され、さらに出版されるというプロセスに比較したら、確かに電子書籍は圧倒的に早い。確かに同時代性を生きることができるかもしれない。しかし、それでもまだタイムラグはある。まったくの同時性とはいえない。少なくとも、ネグリたちから「指令」を待つようでは、それは、「マルチチュード」とは言えない。

26)本書の主題であり、何度も語られる<共>であるが、それって、正直、どこが目新しいのか、よくわからない。概念としてのコモンウェルネスなど、いままで共同性とか、共同幻想とか言われてきた概念と、どこかダブり、別に新鮮さは感じない。

27)むしろ、概略的に言えば、ネグリが打ち出す概念は、実はネグリのものではなくて、ハートのサポートによるのではないか、と思う。20世紀末の共産主義な社会主義の退潮と時を同じくして、ITの発達によるネットワーク社会が現出した。パソコン文化から、エレクトロニクス・コテッジを通り過ぎ、今や、モバイル・ノマド社会を生み出そうとしている。

28)これらの動きは、いわゆるハッカー文化や、リチャード・ストールマン「フリーソフトウェアと自由な社会」(2003/05 アスキー)、あるいは発展形のLinux文化の動きを敏感に感じ取っている共著者のマイケル・ハートの「入れ知恵」なのではないだろうか。

29)とするなら、ここで彼らが言っている<共>という「実体」はよくわかりやすくなる。つまりはGoogleに代表される「検索」文化の徹底化であるし、IT技術の普及、とりわけインターネットの普及の促進であるし、安価なガジェットを全ての「大衆」に、ってことになるだろう。

30)つまり、単にそれだけではないのか。

31)そう言った新しい「現在」形の動きを捉えきれない旧態化した頭脳に対して、旧サヨク的な言辞を使って、ネグリが一生懸命「解説」しているにすぎないのではないか。

32)とするなら、「<帝国>」や「マルチチュード」という言辞は、すこしく「役立たず」なのではないか、と私には見えてくる。マルチチュードは「ネットワーカー」などという単語に置き換えることができるだろう。「<帝国>」でさえ、グローバル覇権主義と言えないこともない。しかし、ネグリがいうところの、「楽観主義」は、どうも楽観的すぎるのではないか。

33)3・11後に勃発したとされる反原発運動のうねりを揶揄する気はまったくないが、その後の2012年に行われた日本の国政選挙などの結果をみると、あれだけ「マルチチュード」が騒いだのに、あの「結果」かよ、という惨憺たるものだ。

34)アラブの春にしても、冬来たりなば、春遠からじとはいうものの、本当の春を謳歌するまでは、はるかな時間がかかる気配が濃厚である。

35)この書き込み、すこし長すぎた。今日のところの結論を急ごう。

36)ネット社会は秒針分歩で進んでいる。本当のところは誰にもわからない。このわからない「いま」を生き続けていくしか、「かくめい」はない。

37)いわゆるイデオローグ、アジテーター、オルガナイザーの、どれにネグリ&ハートが当てはまるのか知らないが、少なくとも、これらの概念は、旧来のサヨク言辞であり、たぶん、現在進行中の「かくめい」には役立たない。すくなくとも、過去の「サヨク」運動史と連動して理解しようとするのは、ノスタルジアに浸っている一部の好事家たちの仕業でしかない。

38)結局、問題作である。いろいろ言いたいことはある。で、そろそろ出かけなければならないので、今日のところは終り。

<2>につづく

 

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2013/02/14

『ノマドワーカーという生き方』 場所を選ばず雇われないで働く人の戦略と習慣 立花岳志


「ノマドワーカーという生き方」場所を選ばず雇われないで働く人の戦略と習慣
立花岳志 2012/06 東洋経済新報社 単行本 246P
Vol.3 No.0917★★★☆☆

1)こちらは三年半前の佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない」とは違い、わずか半年前の出版だから、まだまだ話題としては旬といえるだろう。だが、ほんの数日前(昨日だったか)NHKテレビ夜の7時半に動画広告で生活する人々がレポートされていた。時代は、日進月歩で、どんどん進化していることは推定できる。

2)こちらの方は、ノマドワーカーとはいうものの、単にブログを書いて、その広告収入で生活している(妻は外に仕事を持っている)ということだから、おなじブログを書いている者としてはグッと興味をそそられる。

3)一定の準備期間を経たあと、41歳で独立した1969年生まれの男性ということで、それなりに社会経験も積み、独立の環境があっての結論なのだから、そういう生き方はあっていいだろう、と思える。積極的にそう思える。

4)ブログのテーマは、アップルの製品と、読書感想と、ランニングによるダイエット、という三大テーマに絞っているようだ。さらには、一般のブログサービスを使わず、自らサーバーを立ち上げているようなので、それなりに意気込みは半端ではない。

5)ましてや、このように本も出し、顔も実名も露出しながらの活動ということなので、それなりのリターンがあることは想像できる。あ、なるほどね、と納得はいく。しかし・・・。

6)よく言われるスタバでエアマックを叩いて、何が偉い、と揶揄されるタイプに、ややもすると入れられてしまうかもしれない。

7)三大テーマに絞ったというのは合点がいく。アップル製品については熱狂的なファンが多いので、その使用体験が多ければ、そのレポートを参照する人は増えるだろう。その関連の図書を読書すれば、これから読もうとしている人には役立つだろう。ダイエット話も、まずまずは人々の関心を惹くだろう。

8)当ブログは比較するほどの何ものもないが、すくなくともアップル製品についてはまったく何も書く事ができないだろうし、これまであまり関心もなかった。読書はおなじテーマであるが、こちらは、あまりにも範囲を広く取りすぎている嫌いがある。ダイエット話は当ブログでもたまにやるが、ランニングではなくウォーキングなので、ちょっと年配向けの内容となる。

9)著者はとにかく訪問者をアップすることを第一義に考えていて、しかも、その広告システムに着目しているようで、なるほど、いわゆるブロガーとして、こういう「行き方」もあるだろう、と納得はする。だが、それが私には「生き方」には思えない。

10)お互い、ノマドといえば、外出する時の鞄の中身が気になるところだが、彼の鞄の中身はけっこう重装備だ。必ずしも軽装とはいえない。ノマドと名乗るかぎり、外出先で仕事を「完結」させることに腐心するだろうし、そのスタイルを際立たせようとしているように見える。

11)当ブログとしては、オフィスの存在は積極的に否定する気はないし、外出先で仕事が完結することを命題としているわけではない。オフィスにいてやらなければならない仕事もあるだろうし、外出先でできることもあろうだろうし、外出先でしかできないこともある。そういった意味においては、動ける領域が増えた、つまり可能性が増えた、というとらえ方である。

12)それぞれの仕事のスタイルがあるわけだし、業種によってまちまちなので、一律にこうだとは言えない。ただ、もう還暦を迎えようとする当ブログにおいては、今までに積み上げてきた仕事のスタイルがあるのであり、いまからさぁ「ノマドワーカー」になろう、という意気込みはない。すくなくとも、著者のような積極的な取り組みは取れない。

13)一般に、このような「ノマド」スタイルが増えていくことには関心がある。そして、それが、どのような意味を持ち、どのような可能性を開き、あるいは、現実的にどこまで実現可能になっているか、ということには多いに関心がある。

14)ここに書いてある彼の「ノマド」ワークは、見る人がみれば、もうすでに時代遅れの部分もあるに違いない。だが、おなじブログを書いている人間として、なるほど、ここまで「進化」させることができるのか、という素直な驚きはある。いつか、当ブログ自身が「進化」しようとするなら、いずれは参考になる部分も多くあるようだ。

15)だが、どうもブログとしては現状に「納得」している上に、いかにブログを「フェードアウト」すべきかを考え始まっている当ブログとしては、いまいちグッドタイミングの読書、とは言い難いようだ。

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「仕事するのにオフィスはいらない」 ノマドワーキングのすすめ 佐々木俊尚<1>


「仕事するのにオフィスはいらない」ノマドワーキングのすすめ<1>
佐々木俊尚 2009/07 光文社 新書 243p
Vol.3 No.0916★★★☆☆

1)この人の本は一時期、全部追いかけていたのだが、ある時期から、まったく追いかけなくなってしまった。理由はいろいろあるが、あまりに量産されることと、新書にまとめられるのが、一度どこかで発表されたものの再録が多くなり、新鮮であるはずの情報がどうも二番煎じのような、中途半端なイメージが漂い始めたからだった。

2)あるいは、当ブログが、科学、芸術、意識、のトリニティの中の「意識」にターゲットを絞っていったからだった。この本はすでに3年半の本である。紹介されているのが、ブラックベリー端末であったり、データ通信カードだったりするところが、今となってはご愛嬌だが、この時代で、「ノマド」を表現し、活用するとすれば、このような形にならざるを得なかったのだろう、と納得できる。

3)この本で表現されているライフスタイルは、2013年においては、必ずしも特殊なものではなく、ある意味、多く取り入れられている。私自身のスタイルも、書かれているほど、これだけバッチリ決まっているわけではないが、取り入れることができるところは全ては取り入れ完了となっている。

4)かつてトフラーの「第三の波」で表現されたエレクトロニック・コテッジは、ごく当たり前のものとなり、そこをはるかに後にしようとしている。それがよいかどうかはともかく、そういう生き方をしようとすれば出来る環境が、ほぼ出揃った、ということができる。

5)だから今回この新書本をめくることで私が新たに得るものは、それほどない。あるとすれば、後半、あるいは巻末 にかかっての、そもそもの「ノマド」論についてであろう。

6)ドゥルーズとガタリは、そういう世界観に異議を申し立てて、そのかわりに「リゾーム」という概念を提案しました。リゾームというのは日本語で言えば「根茎」。土の中で植物の根が絡み合い、網の目のようになっておたがいにつながりあっている様子を想像してみてください。そのようにしてさまざまな異質なもの同士が、自由自在にそしてダイナミックにつながりあいながら、単に上を目指すのではなく、自分の好むさまざまな方向へと根を伸ばして行く、そんなイメージです。p227「ドゥルーズ/ガタリの提唱したノマド」

7)当ブログがようやくノマドというキーワードを意識したのは、松村太郎「タブレット革命」(2010/09 アスキー・メディアワークス)であった。ごくごく最近のことである。そこでドゥルーズの「千のプラトー」を知り、ちょっとめくってみたのだが、超分厚い本なので、今時、この本に取り組む余裕はないなぁ、とため息をついた。

8)ただ、ドゥルーズには昔から食指が動いた。「ドゥルーズの哲学」(小泉義之 2000/05  講談社)もだいぶ前にメモしておいた。「哲学とは何か」ジル・ドゥルーズ /フェリックス・ガタリ 1997/10 河出書房新社)とか、「西田幾多郎の生命哲学」ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考 桧垣立哉 2005/01 講談社)、「現代思想の使い方」(高田明典 2006/10 秀和システム)、「哲学者たちの死に方」(サイモン・クリッチリー 2009/8 河出書房新社)、「ポストモダンの共産主義」(スラヴォイ・ジジェク 2010/07 筑摩書房)、あるいは「死の哲学」(江川隆男 2005/12 河出書房新社)、などなど・・・・ずいぶん、あちこちメモしていたもんだ。

9)ガタリについても、「グーグル・アマゾン化する社会」(森健 2006/09 光文社)、「自由の新たな空間」(フェリクス・ガタリ /アントニオ・ネグリ  2007/6 世界書院)、「『2050年』から環境をデザインする」(日本建築家協会 2007/10 彰国社)、「僕の叔父さん網野善彦」(中沢新一 2004/11 集英社)、「芸術とマルチチュード」(アントニオ・ネグリ 2007/05 月曜社)あたりにも、ちょろちょろと散見される。

10)1980年代には、やはりフランスの思想家でミッテラン大統領の補佐官も務めたジャック・アタリが「21世紀の歴史」(日本語版は作品社刊)という著書でノマドを論じました。 

 この本は「21世紀以降の世界がどうなっていくのかを、歴史書として振り返ってみる」という一風変わった趣向で書かれています。この中でアタリは、2050年ごろには政府や国家や民主主義が破壊され、市場原理によって統一された地球規模の「超帝国」というものが生まれてくると説明しています。 

 そしてこの超帝国を支配するのが、「超ノマド」といわれる人たち。だんだんSFみたいな話になっていますが、とても面白い内容なので、もう少し紹介してみましょう。 

 アタリによれば、ノマドという考えかたが生まれてきたのは20世紀末から21世紀初め---つまりは現在にアメリカの「中心都市」であるカリフォルニアで、ノートパソコンやケータイ、PDA、携帯音楽プレーヤーなどノマド的な生活をサポートする「ノマドオブジェ」が生み出されました。それらのノマドオブジェのもととなる半導体やマイクロプロセッサ、OS、インターネットなどのプラットフォームも、ほとんどがこのカリフォルニアから出現してきています。 

 これはもちろん、現在の話ですね。アタリはこのようにいま生まれてきているノマドが、超帝国の時代の新たな「遊牧民」となっていくと言います。 

 その中でも特別な存在が、超ノマド。(中略) 

 アタリは超ノマドをかなり自由奔放な人たちに描いていて、さらに彼はこう説明します。(中略) 

 そこまでボロクソに書かなくても、と思いますが、アタリはこういう超ノマド層の人たちが、世界的な戦争「超紛争」を巻き起こすと予言しています。 

 一方でこの超ノマドのなかから、環境問題や他者への気づかいなどに敏感な人たちが現れて、地球規模の民主主義の支持者になるそうです。それが「トランスヒューマン」と呼ばれる人たちで、彼らはいつか世界の「超民主主義」をになう人たちになっていくのだと言います。 

 超帝国に超ノマド、そして超民主主義。なんとも「超」のインフレ状態で不思議な未来像ですが、超ノマドになれない人たちはどうなるのでしょうか。

 アタリは、2040年になると、40億人の「定住民」として中産階級が現れると予測しています。つまり超ノマドのようにあちこちに移動しないで、一か所に定住して会社員的生活を送る人たちですね。これがいまの一般的な日本人にいちばん近い層ではないかと思いますが、しかしアタリは「彼らはノマドの再来に悩まされる」と不吉に予測します。

 ノマドの再来とは何でしょうか。(中略) 

 これが中産階級のなれの果ての「バーチャルノマド」だそうです。

 さらに下層階級があります。(中略)

 このようにいったんは「定住民」となったはずの中産階級は、「バーチャルノマド」や「下層ノマド」となって、再びノマド的な生活へとのみ込まれていくのです。

 なんとも陰鬱な暗黒の未来社会で、SFだと思って読めばこの「21世紀の歴史」という本はそれなりに面白いのですが、リアルな予測としては若干「?」という感があるのは否めません。ただ、あちこちに非常に鋭い論考がちりばめられていて、読んでいて非常に参考になります。p229「アタリが描いた『超ノマド』」

11)アタリについては、当ブログでは関連で若干触った程度でほとんどノーマーク。ただ、ここで気になるのはネグリ=ハートの、「<帝国>」と「マルチチュード」との対峙と、ここでアタリが語っている「超帝国」と「ノマド」の関係とは、どのような文脈で読まれるべきなのだろうか、ということ。

12)ジャック・アタリの考えたのノマドは、「国境を越えて移動していく人たち」というイメージです。未来の超帝国の時代になると、国の意味があまりなくなって、国や政府というのは一時的に滞在するノマドたちがくつろいだり、何かを消費したり、商売したりするために滞在するオアシスに過ぎなくなると彼は言います。p235「『物理的に移動し続ける生活』の終り」

13)国境を越えて移動している友人たちも多くなっており、情報や経済はまさにその通りになっている今日である。裸電球と真空管ラジオしかなかった私たち戦後っ子時代から、現在では、デジタルネイティブどころか、モバイルネイティブの時代になりつつある。

14)離れて暮らす孫たちに会うためには、年の何回か行ったり来たり、せいぜい電話で話す程度であったが、いまじゃぁ、毎朝スカイプでおはようと、顔を見ながら結構長い時間、無料で会話できる時代になっている。

15)業務上若い2~30代の人びとと付き合うことも多いが、部屋や自宅に固定電話がないのはごく普通になってきた。こちらも移動しているが、あちらも移動しているのである。昔は、どうしても会いたい時は玄関で待ち伏せなんてこともできたが、今じゃぁ、当人たちが参加しているSNSで、最近の動向をつかんでから、メールするなんてことが日常的になってきた。

16)この本、ノマド「ワーキング」だけを「すすめ」ているが、実際の私たちの生活は、すでにノマド・ライフ時代に突入しているのではないか。スマホ、タブレット、モバイルWiFi、LTEといったものが加速度をかける。そこにどんな可能性があるのか。そこにどんな脆弱性があるのか。

17)久しぶりにこの方の本をめくってみたが、なかなかおもしろかった。

<2>につづく

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2013/02/13

石川裕人作 『THE RIVER STORY』 ~AZ9版「楽しい川辺」~AZ9ジュニア・アクターズ第11回公演

Flyer11
「THE RIVER STORY」 ~AZ9版「楽しい川辺」~
AZ9ジュニア・アクターズ第11回公演 2004/02 宮城県大河原町えずこホール
Vol.3 No.0915★★★★★

1)結成20周年記念公演の『THE RIVER STORY』 を見てきたあとで、はて、これが再演だとすると、初演時はどんなものだったのだろう、と気になり始めた。

2)そもそも、石川裕人の作品リストを追っかける最中に、とくにそのAZ9とやらのリストを作ってみて、本当は、ひとつひとつをチェックしてみようと思っていた。

3)だが、演劇そのものを台本だけから想像するのと同じように、公演記録だけから、演劇そのものをイメージしようというのは、かなり無理がある。特に私のような即物的な俗人には、そのファンタジーを想像するには、最初の最初から限界がある。

4)しかるに、今回20回記念公演の「再演」を見てきた限り、少なくとも11回公演とは、どのようなところがバージョンアップされていたのだろう、ということも、あらためて気になり始めるのである。

5)一見してすぐわかるのは、フライヤーも紹介文もまったく新しくなっているということである。サブタイトルも違っている。それにフライヤーを拡大して、よ~く見ると、当時は子供たちの他に、石川裕人他、全六人の「客演」があったことがわかる。演出の米沢牛(現・渡部ギュウ)までステージに上がっていたようだ。

6)今回は、前回、石川本人が演じた幻燈屋のおじさん役の小畑次郎だけが、純粋な客演だ。だが、実は他にも客演がいて、それがジュニアアクターズのOB、9期生と14期生の先輩格が手伝っている。これはすごいことだと、思う。

7)実際のステージは、18期生、19期生、20期生の30数名が演じているわけだが、その子供たちに交じって、大人としてのOB達が客演しているのである。ああ、10年の歴史とはすごいものだ。このままあと10年も行くと、現役の子供たち以外に、照明や情宣などすべての役割を子供たちとOB・OGたちが担うかもしれない。現に今回は、黒のTシャツに黒のズボンで統一したOB・OGたちが、裏方のスタッフを務めていた。そのうち、作・演出も、ひょっとするとOB・OGたちが務める時代も、くるのかもしれないぞ。

8)これは川の物語。大きな川の上流の小さな小さな川辺とその水辺の物語。

 人と川の生き物たちの物語。 白石川の水源、鏡清水に自然観察にやってきた子どもたち。そこに現れたちょっとレトロがかった子どもたちの一団。その子どもたちはタイムスリップで昭和30年代からやってきたのでした。

 お互いの子どもたちはそのことを知らぬ間に一つの事件が起こります。誤って川に落ちた現代の子どもを助けるために川に飛び込む「時の彼方」からやってきたガキ大将。川辺や水底では様々な生き物たちが一生懸命日々の暮らしをおくっています。それは私たち人間と変わらない営みです。水に落ちた二人の少年はそんな生き物たちの生活をのぞくことになります。それは夢か現実か?幻想的な水の底と活気あふれる水辺で子どもたちと生き物たちの生命が響き合い躍動します。そして子どもたちの出会いと友情と別れの物語であります。

 AZ9版「たのしい川べ」は白石川の物語です。
「AZ9ジュニアアクターズHP」より

9)この案内文を読んで、そうか、これは白石川の物語、だったのか、と気がついた。AZ9(アズナイン)というネーミングは阿武隈川と蔵王連峰の頭文字が基礎となっているが、実際には、この9市町が共有しているのは、白石川のほうなのかもしれない。

10)白石川は蔵王連峰にその水源をもつ一級河川である。それに対し阿武隈川は水源を福島の那須岳にもつとされる。もっとも、白石川は下流の柴田郡槻木あたりで阿武隈川に合流し、太平洋へとたどりつく。

11)主に下流域を行ったり来たりしているような私のような者は、すべて阿武隈川と総称してしまっているが、それでは、地域の人びとしてみれば、ちょっとおおざっぱすぎる、ということになろう。

12)そういえば、ゲーリー・スナイダーの著書ではバイオリージョンということが強調されていた。

13)スナイダー 汚い川のためにダンスをしたり、詩を読んだり、そして音楽を演奏したりもするんです。ちょっとしたことでいいんですよ。こういう活動をアーバン・バイオリージョナリズムと言いますが、いまアーバン・バイオリージョナリズムはたいへん活発です。

 (註)アーバン・バイオリージョナリズム 生態地域主義(生命地域主義)は、行政的に分割された「地域」ではなく、生態系を基礎として分割されたバイオリージョン(生態地域/生命地域)を生活の中心に据えることを提唱する。このような意味では、都市もひとつのバイオリージョンであると見ることができる。p121ゲーリー・スナイダー+山尾三省・対談『聖なる地球のつどいかな』p121「バイオリージョナリズム---流域の思想」より

14)漠然と環境問題や自然保護を考えようとして観念的になりやすいものだが、バイオリージョンは、都市や行政という単位ではなく、自然の体系の中で、環境問題をとらえてみようではないか、という視点である。

15)そう言った意味において、AZ9の9市町が、広域の視点を共有しようとするのは、まさにバイオリージョン的であるといえる。そしてまた、そもそも3・11以降にあたっては、フクシマと県境を接した「県外」の地域ではあるが、実際には放射線の影響は、まさにフクシマと地続きのエリアなのであった。

16)復旧・復興が叫ばれながら、2年を経ても、まさに生き地獄のような現実が、いまだに払拭されていないポスト3・11ではある。それらを克服するために、他罰的に他人を責めてばかりもいられない。本当は、「楽しい川辺」を広げていくことこそが、克服のための道筋になるはずなのである。

17)原発事故の影響は、地域的にはフクシマ周辺、そして、年代的には小さな子どもたちに大きく振りかかるとされている。フクシマからほんの数十キロの地域にすむ子供たちの、これからの未来が、どこまでも輝いているように、心から願わないではいられない。

18)単なる子供たちのお芝居だが、どうも私はいつものクセがでて、深読みの深読みをし始めているようだ。

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2013/02/11

石川裕人・作『THE RIVER STORY』~水鏡の中の不思議な世界~AZ9ジュニア・アクターズ結成20周年記念公演

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「THE RIVER STORY」~水鏡の中の不思議な世界~AZ9ジュニア・アクターズ結成20周年記念公演 2013/2/10~11 宮城県大河原町えずこホール
Vol.3 No.0914

1)AZ9(アズナイン)とはよく付けたものだと思う。誰がつけたのだろう。このネーミングが秀抜だ。Aは阿武隈川を表し、Zは蔵王連峰を表す。9は、その阿武隈川と蔵王連峰を共有する周辺の9市町の連合体を表している。

2)その行政区が共同して、子ども達を育成するための演劇グループを運営している。主体となるのは小学五年生あたりから中一くらいまでなのかな。いずれにしても、宮沢賢治の「風の又三郎」をイメージするような、まさに幼年期から少年期・少女期に移ろうとする子ども達が主体となっている演劇活動である。

3)今年で20年になるという。いくつかの後援もつき、なにやら国からもなんとかいう賞をもらったことがあるらしい。私はまったくこれらの活動を知らなかった。地域もちがったし、関心の行き方もちがっていた。

4)しかし、去年の秋から、今年の、この公演だけは絶対に見逃すまいと思っていた。昨年、石川裕人が亡くなった。というか、本当に、亡くなったのだろうか。私は、それを、まだ確認できていない。とにかく、彼の死に際して、彼の作品リスト群を見直すことによって、初めて、このような活動があることを知ったのである。

5)彼は、大河原町のえずこホールが会場となった1997年から、16回に渡って、このAZ9に演劇シナリオを提供し続けてきた。本当は、今回も、新作を準備していたに違いない。しかし、彼は昨秋、病に倒れた。この「THE RIVER STORY」は、2004年、第11回公演ですでに上演されたものの再演である。

6)石川裕人は、再演を必ずしも好まず、つねに新作を掛けるのを自らの志としていた。それだけ、多作な作家だったと言える。本来なら、3・11を踏まえた上で、なにか、彼なりのメッセージ性のあるシナリオを計画していたのではなかっただろうか。

7)しかし、それはままならなくなった。

8)この演劇、私は、最初の最初から、なんだかウルウルした目で見ていた。二時間という長い時間を、10歳や11歳の子ども達が、本当に演じ切れるものだろうか。だが、終わってみれば、待ち時間も含めた2時間半という時間が、あっという間に過ぎた。

9)私は、物語をダイジェストする能力もないし、批評する能力もない。なにかと比較して、あれやこれやということも、得意でもないし、やりたくもない。徹頭徹尾、この子ども達が主役であるこの演劇は、めくるめくストーリーの展開で、なるほどなるほど、の連続であった。

10)客演の、ご存知、小畑次郎の幻燈屋のオジサンの役は、前回11回公演の時は、石川裕人本人が演じたらしい。演出をずっと手がけてきた渡部ギュウは、最後まで裏方に徹して、子ども達を引き立てつづけた。照明の松崎太郎とか、映像制作の大宮司勇といった人々も、なにやらここいら辺りでは超一流のスタッフ陣らしい。

11)でも、誰がどうというわけではなく、子ども達ひとりひとりのエネルギーが光っていた。あれが演技というものかどうか知らないが、しかし、あれほどまでのストーリーを、ひとりひとりがよく、あの長い台詞を覚えたものだ。そして振り付けもダンスも、とても生き生きしていた。それぞれが、やりたいことをやる、という、そういうエネルギーあふれるものだった。

12)宮城と山形の県境、七ヶ宿金山峠の「鏡清水」のあたりの、新鮮な水が四季を問わずちょろちょろちょろと耐えることなく湧き出ている森の中。

 ある日、地元の小学生たちが野外観察会で訪れます。すると、突然不思議な光の中から昭和の時代の子どもたちが現れ、過去と現代の子どもたちのちぐはぐなやり取りが始まります。それはやがて小競り合いとなり、現代の少年が川に足を滑らせてしまうのです。
 ここからが、不思議な世界の体験の始まりです。
 大きな川の上流の小さな小さな川べとその水底の物語。
 そんな水の中に住むたくさんの生き物たちが水鏡を覗いたみたいに飛び出してきます。
 子どもたちの交流と友情を描きながら、物語は、幻のような夏の一日を描き出していゆきます。
 さあ、あなたも一緒に川の旅に出てみましょう。
(公演パンフレットより)

13)私は特段の演劇ファンでもなければ、よき石川裕人の理解者でもない。たんなる初老のおとこである。面白いものは面白いと思うし、そうでないものは、そうでない、と感じることができる。あえて言うなら、石川裕人の演劇は、どちらかというと難解なのではないか、と思ってきた。あるいは、簡単なものを、難解に、深読みしてみたくなる、クセがあるのである。

14)しかるに、この演劇のストーリーは、実に簡潔で、しかも、どこまでも不思議さが漂う作品のように思われた。

15)たんなる通りすがりの、じいさんの思い込みだが、宮沢賢治が、イーハトーブという世界を描いて、そこに子ども達と遊んだように、石川裕人は、アズナインという、川と山と、そして子ども達に囲まれて、賢治以上に、その世界を満喫していたのではないだろうか。

16)もし、彼の作品が、今後残っていくとするなら、こういう形で残っていくのではないだろうか。あるいは、石川裕人その人が、これからも生き続けるとしたら、きっとこういう形になるのだろう、と思った。孫どころか、子どももいなかった彼だが、肉親以上に、この子ども達を見る目はさらに優しかった。子ども達も、いつかは、そのストーリーに込められた、彼の愛を理解するに違いない。

17)この演劇を見ながら、かたわらの友人の一人として、長いことつきあっていたのに、ああ、私は、彼のいったい何を理解していただろう、と思う。何をやっているかさえ知らなかった上に、そのなかに、どれほどの世界をこめていたのか、そのことをまったく理解できていなかった。また、知ろうともしていなかったのではないか。

18)もちろん、いまでも、よくわかっていないのだが、しかし、すくなくとも16作品の中の、この「THE RIVER STORY」という一作を見ただけでも、これだけ感じるのである。もし、遅ればせながら、他のいくつかの作品をみることができるのなら、もっともっといろいろなことを感じることができるに違いない。

19)年に一回の、今年の公演を見て来たばかりで、こう言うこともなんなのだが、来年は、どういう企画になるのであろうか。新しい別の作家の作品が掛かるのだろうか。それとも、これからは、数ある石川作品のレパートリーの中からの「再演」となるのであろうか。

20)実は、この阿武隈川と蔵王連峰の町々の、いくつかに、知人や身内のなん家族かが住んでいる。小さな子ども達もいる。あの子たちが、縁あって、このAZ9のジュニアアクターズの活動に参加できたら、すばらしいだろうな、と思う。意見を求められたら、今の私なら、絶対賛成するだろう。

21)どこまでもすばらしい作品だった。どこまでも、子ども達が主役の演劇だった。指導した人々、裏方を支えた卒業生の人々、そして、大ホールの観客席を埋めた、多くの大人たち。そして子ども達。みんなが、不思議なストーリーを超えて、ひとつになることができる物語だった。

22)ニュートン、ありがとう。

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2013/02/10

高橋伴明/禅 ZEN 【DVD】 <1>


「禅 ZEN」 <1>
高橋伴明「 禅 ZEN」製作委員会 2008 アミューズソフトエンタテインメント DVD 127分 Vol.3 No.0913★★★★★

1)「『禅』の世界へ」 (日経おとなのoff 2012年6月号)の中のお勧め作品のひとつとしてリストアップされている。日本における曹洞宗の開祖道元禅師の人生を描いた映画である。先日、震災後の図書館のなかのイベントとして上映会も行われていた。

2)3歳で父を、8歳で母を失った。14歳で天台宗門で僧となり道元と名乗る。23歳で博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。28歳で帰国、33歳で京都に道場を開く。44歳で越前国に移転、のちに永平寺と改める。鎌倉などでも教化活動を行い、54歳で没する。

3)清々しい道元禅を実に簡潔に歌い上げている。

4)多くの人が、映画の道元の姿の中に自分を投影することができるようになっている。道元が悟りを開き、道を求めて生き続けることは、道元を愛する人たちが、道を求めて生き続けることと、なんの違いもない。ひとりひとりが、自らの中に仏を見つめ続ける、命のつながりなのである。

このサイトでは、今のところ、2時間超の映画が丸まんま見ることが出来る。

<2>につづく

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「『禅』の世界へ」 日経おとなのoff 2012年6月号<6>

<5>よりつづく 


「『禅』の世界へ」 日経おとなのoff 2012年6月号 <6>
日経おとなのOFF編集部 2012/05 雑誌
★★★★☆

1)とかなんとか言っているうちに、この号、売り切れになってしまった。ネット通販ではすでに入手不能とでているが、あれ、もしかして、自分でも一冊買ったのではなかったっけ?、ってうろ覚え。書棚を探せばあるはずなのだが、(いやないかもしれない)、面倒くさいので、また図書館から借り出した。

2)オークションとか、版元にダイレクトに注文すれば、一冊くらいはなんとかなるだろうが、そこまで執着する力もない。なんだか、不思議な雑誌である。そもそも、どっちみち、この号を入手しても、ずっと違和感が残ってしまうことには変わりはないだろう。

3)すでに半年以上も前の雑誌であるし、すでに何人の手に渡っているものだから、図書館から借り出したものは、それなりに痛みがでている。そもそも雑誌なのだ。このような読まれ方をしてこそ、その本領が発揮されるはずだ、と納得する。

4)最後の最後まで、ずっと残った違和感は、結局は、一読者としての真実の感想なのだと思う。日経、禅、ジョブズ、という大空に輝く大三角形は、書店の店で輝いていたが、いまや、中古の雑誌として、古びてメクレなどができて、それなりに、わびさびさえ感じさせる状態になっているw。

5)何度開いても、内容は最初の印刷されたままだ。雑誌の内容が勝手に変わる訳がない。このトリニティは、とても面白いのだが、結局はこの雑誌の、特集の中にこそ現出したものであって、真の存在として、存在しているものなのかどうか、そこんとこが、結局は、分からずじまいであった。いや、それはまだ「融合」されていない、というのが、当ブログの結論であった。

6)日経は日経としてあり、禅は禅としてある。ジョブズはジョブズであるしかないのだから、結局は、この号においては、数ある選択肢の中の、3つのシンボルを取り上げて、強引に付き合わせてみただけ、ということだったのではなかろうか。

7)日経おとなのOFFのバックナンバーも、バックナンバーを見る限り、あれもこれも、と続いて読む気にはならなかった。この号の持っている可能性を連続的に持っているのではなかった。

8)そういう意味においては、禅の世界もまた、この号からシームレスにその世界へと誘ってくれるものではなかった。それはそれ、刺身のツマというべきか、どちらが刺身で、どちらがツマであるかはともかくとして、赤みの刺身と、緑のパセリの補色対比の鮮やかさだけに目が行って、それは、この号に、瞬間的に現出した、「妖しさ」だったのだろう、と結論づける。

9)その点、ジョブズについてはほとんど何も知らなかった当ブログではあるが、この号を切り口として、どっぷり浸かってしまったといえるだろう。このあとに追っかけた資料は40点以上。挙句の果てに、iPadを一台ご購入ということにあいなった。

10)タブレットを一台入手した、ということに終わらないのが、iPad「革命」である。それは進行中であり、新しい局面の幕開けとなり、いつ終わるともしれない、次世代のステージへと移行してしまったのだった。

11)しかし、よくよく考えてみると、ひとつのことに気がついた。日経、禅、ジョブズのトリニティを考えて、どうも座りが悪かったのだが、このトリニティはバランスが悪かった。実際は、日経、禅、iPadのトリニティとすべきだったのだ。そして、その中心にはスティーブ・ジョブズその人、本人をおくべきだったのだ。

12)雑誌の特集としてのこの号が、最後の最後まで納得できなかったは、結局、このトリニティの受け取り方が悪かったのであり、雑誌の特集としてはありえても、実存としてのトリニティがまったく見えていなかったのではないだろうか。

13)もっというなら、ジョブズにおいてのトリニティがわかったとしても、それは、「私」にとっては外的なものであり、究極のトリニティにはなりえない。私は私なりに、Osho瞑想、日常業務、そしてiPad(あるいはIT環境)のトリニティとして、捉えなおさなければならない。ここは、ジョブズに敬意を表して、シンボルとしてのiPadをおいておくことにしよう。



14)この号には、お勧め本やDVDが何点かあげられている(リストは前回のメモに書いておいた)。ジョン・ケージの「4分33秒」もそのひとつ。

15)なにかと挑発的な一冊だったが、なんとなく出口が見えてきた。

16)ところで、ずっと一つの目標だったトフラーいうところのエレクトロニック・コテッジはすでにSOHOとして現実のものになったが、最近は、スマホやタブレット、そしてモバイルLTEルーターやクラウドの現実化で、ノマドというスタイルがよく語られるようになってきた。このノマドって奴を、これから検討してみようと思っている。

<7>につづく

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2013/02/08

アップルのデザイン ジョブズは“究極”をどう生み出したのか 日経デザイン<2>

<1>からつづく 


「アップルのデザイン」 ジョブズは“究極”をどう生み出したのか <2>
日経デザイン 2012/04 日経BP社/日経BPマーケティン 単行本 199p
★★★★★

1)この本を読んでから半年。私のアップル観やスティーブ・ジョブズ観は大きく変わった。1998年のiMacのトラウマ以来、アップル金太郎飴は、あまりいいイメージではなかったのだが、タブレットの必要性が高まり、iPadを手に入れてから、そのイメージは激変した。いまや、ジョブズ礼賛をもろ手を挙げて歓迎している始末である。

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2)そもそも「スティーブ・ジョブズと『禅』亅(日経おとなのoff 2012年6月号)から始まった、今回の当ブログにおけるジョブズ追っかけだったが、あの号で、京都の禅寺などの紹介ガイドなどがついていて、どうもいまいち我田引水風だなぁ、と感じたものだった。

3)しかし、公式伝記「スティーブ・ジョブズ」(ウォルター・アイザックソン2011/10 )などを読む限り、晩年ジョブズは娘を連れて京都の禅寺などをお忍びで訪問していたようだから、本当に京都の禅寺が好きだったのだろう。

4)この本、さすがにアップルのデザインを云々する一冊だけあり、なかなかきれいな一冊である。随所にセンスを感じさせる配慮があり、きもちのいい一冊である。日経グループの出版社からでているだけあって、文章もなかなか読ませるし、写真や図解もすばらしい。

5)だが、なんだか、この本から文章を取り出す、という作業がどうもできない。したくない、というべきか。

6)パソコンという文化を築いたアップルが、その文化を崩壊させていくんだというその迫力は、やはり凄い。自分がつくった王国を破壊しようとしているんですから。今のアップルの売り上げなんて、ジョブズがつくった利益を生み出す畑のほんの一部でしかありません。まだまだ、これから大きな市場が生まれるでしょうね。p193坂井直樹(コンセプター) 「iCarは生まれるか?」

7)いまさらながら、ジョブズやアップルという企業の迫力を感じる。株価に陰りがあるかのような報道がある今日ではあるが、「アップルのデザイン」に込められた意味を味わいつつ、その価値の偉大さを痛感する。

8)この本、一気に味わい切れない。いずれ、また開いて、ゆっくり味わうことにしよう。

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図解スマートフォン「超」活用法 野口悠紀雄・監修


「図解スマートフォン『超』活用法 」 
野口悠紀雄 ・監修 2011/12 講談社・サイズ:    単行本 128p 
Vol.3 No.0912★★★☆☆

1)日付的にはおととしにでた本ではあるが、実質的には約一年ちょっと前にでた本、という位置づけである。野口悠紀雄の名前が踊るが、「監修」であり、写真やインタビューでは登場するが、必ずしも、彼の著書ということではない。彼のイメージを借りた「図解」本の一冊ということであろう。

2)図解というだけあって、モノクロといえ、たくさんの画像や写真、グラフが満載である。パラパラっとめくるだけで、大体の内容がわかる。

3)「何ができるのか」を知ろう(p26)では、「スマートフォンを」→「持っている」、あるいは→「持ってない」というチャートがあり、階層的に本誌の該当頁を案内するようになっている。私は当然、二台ももっているわけなので、「持っている」→「よく使っている」となり、次は→「クラウド」となる。

4)しかしまぁ、クラウドについても、両手も賛成というわけではないが、プライベート的にも、仕事的にも、それぞれにセキュリティの高いクラウドを設定し終わっているので、特にめずらしい記事はない。

5)師岡(徹):今はいろいろなことがトータルに成熟しはじめているように感じますね。iPhoneやiPadだけあっても、通信環境やクラウドサービスが整っていなえれば、便利には使えない。それに3GやWiMAXやWi-Fiといった通信環境がなければ、クラウドサービスも生きませんから。いろいろな環境が整ってきて、個人レベルでの情報管理は激変しましたよね。いい時代になったなぁと思いますよ。p64「それぞれのcoolな使い方」

6)同感である。私の場合は、とくに仕事上のクラウドと対応アプリが開発されたことが大きい。

7)師岡(徹):「スマホを使いこなそう」なんてよく聞くけれど、自分はそんなこと思ったことないですね。やりたいことをするためにiPhoneやiPadを買って、アプリにお金をはらったりするわけで。p59「それぞれのcoolな使い方」

8)まさに同感である。この本にも、やや方向性のちがったことも書いてあり、私には不要なので、その部分まで使いこなそうとは思わない。むしろ、余計な機能があるよりも、ひとつの可能性として残しておいてくれたらいい。使っているうちに、どんどん拡張できるような機能がいい。しかも、ごく自然に、わかりやすく。

9)師岡(徹):参照マシンとしてはすごいと思う。
榊原(茂人):バッテリーもすごくもつし。
木谷(朋之):iPadは参照にも強いけれど、プレゼンっていうイメージがありますよね。人に見せやすい。
p56「それぞれのcoolな使い方」

10)まさにここも同感。そのためにこそのタブレットなのだ。この本、おおげさに「超」とは書いてあるが、現在のところ、必要な部分は全部使用済み、ということになる。新しい局面になれば、他の記事も「活用」するかもしれないが、それはアプリ関係なので、結局は、もう開かないだろう。

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『iPad vs.キンドル』 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏<2>

<1>よりつづく

iPad vs.キンドル
「iPad vs.キンドル」日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏
西田宗千佳 2010/03 エンターブレイン単行本 238p
★★★★☆

1)この本が出てから3年、当ブログが読んでからでも2年半が経過した。その間に、3・11があり、何人かの友人たちが亡くなった。大きな変化のなかにあるわけだが、その中でもいちばん大きな変化は、すでに、私の手元にiPadがある、ということだろう。さらにいえば、そのiPadのキンドルアプリで、青空文庫を読み始めている、ということである。

2)この本自体は、電子書籍について、長いスパンで書いており、1970年年代初期から、未来の読書事情まで思索している。なおかつ、その推移を支えてきた技術的イノベーションと、マーケットの推移をこまかく列記しているので、このような事業に関わるプロ達にとっても、興味深い一冊であるに違いない。

3)しかるに、当ブログとしては、電子書籍に関する限り、あくまで一読書子、あるいは一読書ブロガーとして以上の関心はもっていない。つまり、自分の日常ライフスタイルにどうかかわるのか、さえ理解できればそれでよい。

4)現実的には、第4世代iPadにアマゾンからiPad用キンドルアプリをダウンロードし、そこから0円(!)のキンドルブックを購入(!)し、出先や電車の中、ベッドサイドで読んでみる、という試行錯誤の最中である。

5)0円キンドルブックと言っても、それは青空文庫がベースになっており、iPadアプリの中には、数百円のアプリを使っていかにも、文庫本をめくる感覚にしてくれるものもあるそうである。そのうち、やってみようとは思っている。

6)現在、この2年ほど必要不可欠となっていたスマホ携帯を使わない実験をしている。スマホの部分をタブレットは埋めることができるかどうか。電話回線や簡単なケータイメールは、昔のガラケー最終形にまかせた上で、パソコンとケータイの間に位置するものとして、タブレットだけでいいかどうか、の実験である。

7)今のところ、私のライフスタイルでは、これで正解のようである。電車に乗ると言ってもそれほど長時間でもなく、また、座れないほどのラッシュアワーにも移動しない。だいたいが座れるほどの環境で、タブレットで読書することは可能であるかどうか。

8)結論からいえば、可能である。まわりを見渡せば、電車内でタブレットを取り出している乗客は少数派である。いないことはないが、飛行場から帰ってくる電車のビジネススタイルのスーツ姿だったりする。

9)そこで、やおら、さもないおじさんがタブレットを取り出して読書をはじめるわけだが、周囲に、別に圧迫を与えるわけでもなく、奇妙な視線を浴びせられることもない。まずまずは風景にとけこみつつある、と自分なりに理解している。

10)スポーツ新聞などを、これみよがしにおっぴろげて、ヌード記事などを晒しているおじさん族よりは、慎ましいものである。

11)タブレットの中を覗かれて、セキュリティに問題はないのか、ということも心配は心配だが、だいたいが現在は、夏目漱石の小説を読んでいるのである。表紙もない、ただただ白黒の文章で、なにを読んでいるかわからないだろうし、ましてや、その内容が、仮に「吾輩は猫である」だ、ということが知れ渡ったとしても、別段に恥ずかしいことでもない。

12)バックライトをやや暗めにして、なおかつ紙面をセピア色モードにすると、ほんとの本を広げているのとほとんど変わらないほどの存在感である。頁をめくるのも、しおりを挟むのも、実に簡単なものだ。バックもジャストサイズの小バックをかかえているだけなので、極めて携帯性に富む。

13)もちろんメールチェックや、SNSの最新状況を確認することにも使うことができる。つり革にすがって片手で立ち読みということはできないが、シートに座っている限りは問題ない。歩きながらも無理だが、電車の到着を待つ間の行列で、さっとiPadを取り出しても、特に違和感はない、と自分は思う。

14)「iPhoneとMacBookの間に”何か”がある」
 同社のCEOのスティーブ・ジョブズ氏はそう語りかけ、噂されてきた商品の名称が「iPad」であることを発表した。
 注目の新製品発表なのだから、さぞもりあがったことだろう・・・・・。そう思うのが当然だろう。
 だが、会場にいた筆者はあっけにとられていた。「攻めるのはそこなのか?」という、拍子抜けした感想を持ったからだ。会場に詰めかけた他のプレス関係者も、似たような印象を持ったようだった。
p92「キンドルのライバル、ソニーとアップル」

15)仕事の関係で、必要に迫られてタブレットを手にした私ではあるが、できれば、タブレットは回避してしまいたかった。他のガジェットで代用できるはずだろう。そう思って敬遠してきた。しかし、いざタブレットを日常の友としてみれば、むしろ、スマホのほうが、どんどん退却していってしまった。

16)仕事のソフトが対応していないため、マックは使えないし、逆に、仕事用であってみれば、iPhoneである必要もない。日常のデスクワークの要としてパソコンがあり、外出先の電話連絡と、簡単なメール環境があれば、ガラケーで十分である。その間を埋めるものとして、スマホは登場したのだが、私の場合は、圧倒的にタブレットのほうが的確であるようだ。

17)iPadは「小説的」というよりも「雑誌」的だ。キンドルやソニーリーダーが「鞄に入っている文庫本」だとすれば、iPadは「ソファー横のマガジンラックの中の雑誌」に似ている。どちらも薄い板型のコンピュータではあるが、その目指すところは相当に異なっているのである。p91「同上」

18)私はむしろ「鞄にはいっている雑誌」としてiPadを持ち歩いている。大きさも、重さも、バッテリーの持ちも、そして機能も、これでいい、ジャストサイズ、と言えるほどに、愛せるようになりそうな予感がしてきた。

19)いずれにせよ、当ブログとしては「新潮文庫20世紀の100冊」(2009/04 新潮社)というリストをアップしておきながら、まったくその読書が進んでいない。今回、このキンドル in iPadで、青空文庫からダウンロードして読んでみるのも、新しい体験になるだろう。もっとも、著作権がキレていない、近年の作品は、このスタイルでは読めないことになるが・・・・・。

20)この本は、長期のスパンで再読される必要がある。以下、特筆しておくべきところ数箇所を抜き書きしておく。

21)アラン・ケイ氏は「パソコンの父」とも呼ばれるこのとのある、パソコンやITの歴史を語る際には必ず登場する計算機科学者だが、中でもその最大の功績は「ダイナブック構想」を生み出したことにある。

 まだ大型コンピュータしかなかった1960年代に、個人向けの「パーソナルコンピュータ」を発想、1972年にその構想を自著の中で「ダイナブック(DynaBook)」と名付けていた。ケイ氏の発想したダイナブック構想には様々な要素があるのだが、その中核になっていたのは、文字や絵、音声などの様々な要素をまとめて扱い、思考能力を高める助けとする「より良い本」としての姿であった。p97「eBookへの長い道」

22)青空文庫は、そういったニーズを持つ人々が自由に利用できる「書籍のデータ」を用意しよう、というボランティア・プロジェクトだ。著作権が切れた作品や、特別に掲載許諾がなされた作品について、ボランティアが紙の本から入力を行い、ルビや仮名遣いなどもできる限り原本に近い形でデータ化して収蔵、ネット上で利用できる「オンライン図書館」となっている。

 アメリカでも、同様の試みが「プロジェクト・グーテンベルグ」という名称で、1971年より勧められており、青空文庫もその影響下にあるものだ。2010年2月現在、約8800作品が収録されており、同趣向で活躍する日本向けのプロジェクトとしては最大の規模となっている。p113「同上」

23)このような形が採られているのは、アメリカにおいてブログが「1つのメディア」として認知されているためだ。日本では日記的なとらえ方をされることも多いが、アメリカの場合、新聞や雑誌と同様に、ブログに記事を公開することで生計を立てる書き手も少なくない。

 ブログの形で運営される「ウェブメディア」も多いし、ジャーナリスト個人が自由に記事を掲載できるメディアとして活用する場合もある。そういったブログは、広告や新聞社・通信社などへの記事配信から収益を得ている場合も多いが、今後はeBook向けの配信も、そこに加わることになる可能性は高い。p146「eBookのビジネスモデルとは~アメリカの場合~」

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2013/02/07

『ハッカーの手口』ソーシャルからサイバー攻撃まで 岡嶋裕史


「ハッカーの手口 」 ソーシャルからサイバー攻撃まで
岡嶋裕史 2012/10 PHP研究所 新書 189p
Vol.3 No.0911★★★★★

1)この人の本は、当ブログとしてすでに6~7冊読んでいるに違いない。しかるに、どうも関連リストまで作って追っかけようとは思わないできた。この人には、どこか華がない。結構地味で、専門的に過ぎる。

2)ところが、それを著者も自覚したのか、あるいはマーケティングの結果を編集者から指摘されたからなのか、今回の著書では、随所に「自虐ギャグ」満載で、しっかり笑いを取ろうとする努力が見られる。「ここで笑わないと、もう、笑うところ、ないですよ」と言わんばかりの、自虐ギャグの連発である。1972年生まれの著者、このところやや親父ギャグが混じりこみ始めたのが、物悲しい。

3)便宜上、「ハッカー」という言葉を使用していますが、ハッカーの原義は「技術に詳しい人」で犯罪者を含意するものではありません。犯罪を行う人は「クラッカ」と呼ぶべきですが、その辺の詳しい説明は本文中で行います。p10「まえがき」

4)日本ではこのあたりの原義については曖昧だ。PHP新書においては、読者数を稼ぐためこのタイトルになったのだろう。それにしても、「手口」はすでに、犯罪者呼ばわりである。「巧(たくみ)の手口」とは言わない。「巧(たくみ)の技(わざ)」であろう。だから、本当はこの書は、「ハッカーの技」か、「クラッカの手口」になるべきであり、本著の趣旨から考えれば「クラッカの手口」となるべきではあっただろう。

5)それにしても、この人の本はためになる。専門家にして大学の教員ということだから、その専門課程の人びとに教えるような内容を、私のようなごくごく一般人にもわかるように書きおろしてくる。

6)先日、「LINE なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか?」という本を読んだ。このネットワークサービスなどは、積極的に、自らの個人情報をどんどんダダ漏れさせているようなもので、丸裸の状態にされている、という感じさえする。

7)ところが、専門家たちにすれば、ましてや本書で言われている「クラッカ」にしてみれば、コンピュータを使ったIT機器であれば、すでにすべてがその脅威にされされている、ということになる。

8)無線LANの親機である無線ルータを買ってくると、「暗号化」をしますか?」とまず聞かれ、暗号化することを決めると、「どの暗号を使いますか?」とたたみ掛けられます。今どきの無線ルータだと出てくる選択肢は次にようになることが多いでしょう。
1、WEP
2、WPA
3、WPA2
 いずれも、無線LANのために開発された暗号の方法なのですが、実はこれ、作られた順に並んでいます。方法として古いほうから、WEP→WPA→WPA2なのです。
 このとき、「一番上にあるから、一番メジャーなのかな」と「1、WEP」をクリックすると大変です。
p121「盗聴攻撃」

9)著者のいうところによれば、暗号はすべて、いずれ解かれてしまうので、古いものはすでに解読法が完成している可能性がある、ということである。つまりセキュリティは最新のものが一番安全だ、ということである。

10)WiFiばやりの昨今である。どこに行っても、複数どころか、二桁のWiFi電波が飛んでいることはめずらしくない。FreeFonのように、最初からセキュリティがかかっていないものもあるが、セキュリティをかけようともしていない野良電波がうようよ飛んでいる。やろうとすれば、そこに自分のスマホを繋いで、ネットにつなぐことなど、ドシロートでさえできる。

11)ところが、技のある巧たちにおいては、ほとんどすべて、なんでもできてしまう、というところがネット社会であるようである。

12)セキュリティというものは本来、利用者に意識させない状態が最も望ましいと言えます。利用者がのほほんとしていても、確実に安全が保証されていればそれがいいのです。何かのシステムを使うたびに、「これ、個人情報の扱いは大丈夫かな」などと心配する世の中は不健全です。p182「次世代攻撃」

13)だいぶ前のこと、改築する前の、子供たちが小学生時代のことだが、帰宅して玄関の鍵がしまっていると、自分が拒絶されたような気分になるのか、機嫌がよくなかった。ところが、すこし時代が経過すると、帰宅して自宅の玄関の鍵が開いてると、「玄関の鍵、開いていたわよ!」と、子ども達から、こちらが怒られるようになった。時代はどんどん移り変わっている。

14)テロリズムでは、戦闘空間でもなんでもないところがいきなり戦域として設定されます。日常の中で急に巻き起こる戦闘です。

 そして、こうした行動に必要なリソースは総力戦→ゲリラ戦→テロリズムの順に小さくなっていきます。極端な話、テロは1人でも実行することが可能でしょう。リソースが小さくてすめばすむほど、その行動を予測することが困難になります。p177「同上」

15)ウィキリークスなどの「活躍」もあり、ひとことには片付けることのできない問題ではあるが、すくなくともネット社会の特性をしっかり理解しつつ、臆病にならずに、その特性を生かした人生を送りたいものである。

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2013/02/06

タブレット 多彩機能で業界はどう変わる?

週刊 東洋経済増刊 生保・損保特集2012版 2012年 10/11号 [雑誌]
「2012年はタブレット”元年” 多彩機能で損保はどう変わる?」 
「週刊東洋経済増刊」生保・損保特集2012版 2012/ 10/11
Vol.3 No.0910★★★★☆

1)臨時増刊とは銘打っているものの、毎年同じ季節になるとでてくる定番本である。毎年でてくるのだから、一定の読者がついているのだろう。かくいう私も毎年、店頭でみつけたら必ず買うのだが、だからと言って、この数年精読した記憶がない。

2)基本的には記事がルーティン化していて、目新しさがない。この号も買ってはみたものの、ああ、雑誌まで買って仕事の延長をしたくないなぁ、と放っておいた。ちょっとウンザリという内容が多いのだ。

3)しかし、年明けて、いよいよタブレットライフが本格化してみれば、記事のあちこちが気になる。特に「徹底比較・損保タブレット端末」(p90~93)なんてあたりの一覧は、いまさらながら興味深々。

4)ズバリ言えば、この号、去年の秋にでた本ではあるが、その時点では、どこも似たりよったりの、どんぐりレースと言っていいだろう。一生懸命取り組んでおりますが、変化はこれからですよ、という予告編的なものだ。

5)一覧表にでているのは、TN社、SJ社、MS社、生保系のAD社、それにBクラスのFK社の5社。

6)TN社は、まずまずのポールポジションを確保していると見える。対応OSもiOSやアンドロイド、ウインドウズ8にも対応している。それに対して、SJ社はウィンドウズ8には対応していないようだ。SM社はなぜかウィンドウズ7。AD社はiPadと遅れてアンドロイドも対応。FK社はiPadだけに対応ということになっている。OS対応を見る限り、TN社は一歩抜きんでているかのようである。

7)導入代理店はTN社が約5000店。SJ社が約2000店、MS社が約1500店、ADが約1300店と続くが、FK社は10店で試行中、と慎ましい。半数以上がTN社であるというところも、一歩リードしているかに見える。ただ、これはあくまでも推測数であろう。

8)対応している種目に関していえば、TN社が自動車、超保険、火災。SJ社とMS社はそれに準じてははいるが、ややおとなしめ。AD社は、生保系につき、ちょっと使い方が違う。FK社は火災のみ。ここでもTN社が一歩も二歩もリードしているかに見える。

9)動画では、SJ社以外は対応しているようだが、活用の程は、明確には比較できない。

10)ところが、電子パンフレットにおいては、300種類以上でMS社とAD社が抜きん出ており、SJ社、TN社がつづき、各社の個性がこの辺でより明確になる。

11)なにもすべて各社の動向を知る必要はなく、自分が関心あるところだけをみて、そこがどのような位置関係にあるかを確認しておけば、それですむ。

12)わが家でもタブレットを導入したのは、このような趨勢にあるために、それに背中を押されてということになる。これがなかったら従来の型落ちウィン機で十分なのである。それに、主力商品がタブレットに対応したのが大きい。

13)すべてはメーカー頼み、というところがなきにしもあらずではあるが、これだけの土俵を与えられていながら、力士が力不足になってはいけない。今後とも「上を目指して精進」しなければならぬであろう。

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2013/02/04

『LINE』なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか?


「LINE」 なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか?
コグレマサト/まつもとあつし 2012/11 マイナビ 新書 231P
Vol.3 No.0909★★★★☆

1)このネットサービスにはまったく気付かないでいたのだが、ある時、SNSの誰かの書き込みにLINEという文字があって、なにやら突然アメリカから電話がきたとか書いてあった。おや、それはどういうことか、とわがスマホで検索し、アプリをダウンロードしてみたのだった。

2)ところがびっくりしたところが、その推薦リストには、私の知り合いの何人かがすでに登録されている。家族や友人もだが、トンデモない角度で、知り合いの息子とか、顧客会社の家族の誰とか、とにかく、変なリストアップだった。

3)幸い家族の一員もすでに登録しており、すぐつないでみて、その経緯を理解したのだった。そのマニュアルとか説明をまったく読み聴きしないで、すぐ「承諾」ボタンを押してしまう習慣がこのところついているが、このLINEに関しては、よくよく検討すべきである、と判断したところである。

4)一番の問題は、すでに携帯端末(私の場合はスマホだったが)に連絡先が登録されている情報が、LINEのクラウドにアップデータされてしまうことである。個人的には、私はこれは重大問題だと思う。仕様書をよく読まなかったのが悪かったのだが、それにしても、そこまでやるか、と思う。

5)私の場合は、つないだスマホは普段のメインのガジェットではなかったので、幸いアップされてしまったデータはごくごく一部にとどまった。だが、逆に考えると、そのごく一部の知り合いたちの、かなりのパーセントの人々がすでにLINEにつないでおり、そして、さらにはここからが問題なのだが、私のデータをアップロードしてしまっていた、ということについてである。

6)マッチング作業があった上で、なお推薦リストが出来上がったのであれば、私のごく一部のリストに対応しただけでこれだけあったのだから、私の全リストをアップロードすれば、どんなことになってしまうか、はかりしれない。実に怖いと思った。

7)家族や数人のごく身近な友人と2~3回交信しただけで、あとは団体や企業の通知サービスを利用していたが、それだけでは私のライフスタイルにはフィットしないので、今は休止状態にしている。

8)LINEのタイムラインが、どのようなポテンシャルを持っているかは未知数ですが、ユーザーベースを考慮すると、FacebookやTwitterを置き換える存在になる可能性はあるのではないでしょうか。p38「世界中で数千万人が熱中するLINE」

9)私の年代では、SNSを利用し活用しているのは少数派だ。アーリーアダプターとして大活躍している友人たちもいないわけではないが、ごく少数派である。どんなサービスがでてきても、いつのまにか、そちらに移行してトップを走っている連中はいる。

10)ネットサービスに関していえば、開発的イノベーターに位置している友人たちはいないこともないが、ほぼゼロ。私は、多数派のアーリーマジョリティかレイトマジョリティという位置にある。一番遅れてやってくるラガードにはできるだけなりたくない、とは思うのだが、LINEに関しては、私はラガードか、不採用者にとどまろうと思っている。

11)・スマートフォン中心でパソコンを普段は使わないような若者が中心
・スタンプを使ったカジュアルでエモーショナルなコミニケーションを好む
・「アドレス帳のマッチング」を通じて毎月500万人以上の増加を続けている 
p82「LINEのメインユーザーはどんな人?」

12)世の中にこのようなサービスが登場しているのだ、ということは認知しておく必要があるが、私はこの「アドレス帳のマッチング」というやつが許せない。それでは、顧客情報のダダ漏れ状態が、常態化してしまうことになる。すくなくとも、私の顧客に、あいつはLINEに無造作に登録するような奴(って、もう登録してしまっているが、もちろん実名ではない)って思われたくない。すくなくともそう思われただけで、私への信頼度が低下する恐れさえある。

13)LINEは2012年10月末時点で、ワールドワイドで7000万人のユーザーを獲得しています。世界で大きく成功している、初の日本発のネットサービスと言ってよいでしょう。振り返ってみると、日本から登場したネットサービスで、これほどまでに世界的な成功を収めているネットサービスというのは見当たりません。p63「世界を捉えた初めての日本のネットサービス」

14)急速に世界に広がっているのは、「アドレス帳のマッチング」の他に、簡便な無料通話とか、スタンプというシステムがあるからだろう。ガラパゴス化している日本のサービスが世界に飛び出していくこと自体は賛成だが、実際に、LINEが世界を網羅する前に、なにか大きなハードルが飛び出すような感じがする。

15)----アドレス帳がアップロードされることが心配だという人もいますが?

 そういうひとは使わなくていいんじゃないですか。スマートフォンがそういう仕様になっているんだから、LINEをちゅうちょする必要はなくて、そういうスマートフォンを売っているのはキャリアですから。

 iモードのときは、一般のアプリプロバイダーがそういうことができるのはマズいだろうということで、僕も制限はしていた。でも、今はみんながスマートフォンがいいと言っているわけですから。スマートフォンって、そういうものなんですから。p210夏野剛「特別インタビュー」

16)これはかなり強引な発言だと、私なら思う。飛行機は墜落するものですから、墜落するのが怖いなら乗らなくていいんじゃないですか、と言っているのと同じようなものだ。添加物が怖いなら、食べなければいいんじゃないですか、そういう意見ですべて切り抜けるのかどうか。個人の問題ではなく、社会全体の問題として考えなくてはならない、と私なら思う。

17----LINEはスマートフォンあってのサービスだと思うんですが、今後、インターネットはスマートフォンベースになるのでしょうか?

 いや、そんなことはないと思いますよ。併存すると思いますね。例えば、iPadの3Gを持つと、逆にスマートフォンはいらないですから。だから、デバイス自体がそんなに重要ではなくなるんじゃないですかね。どのデバイスを使うかはライフスタイルに合わせればいいのではないのですか?p223夏野剛「同上」

18)夏野剛という人、たまにNHKのコメンターなどに登場する人物とお見受けするが、ここではお名前のとおり、かなりの剛球を投げつけているように思う。この本の性格付けに合わせたのだろう。

19)たしかに、パソコンとケータイの間を埋めるものとして、スマホの存在は大きかったけれど、LTE+タブレットを携帯していれば、もうスマホは必要なくなる可能性は高い。「カカオトーク」とか「comm」とかLINEと類似のサービスが跋扈し始めている昨今ではあるが、私は、顧客との安全な通話を確保するために、ガラケー最終形を温存しておいたのは、結果論だが、まずは、正解だったのではないか、と、ひとりごちる。

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2013/02/03

iPad、キンドル、ネクサス7、ウィンドウズ8 『どれがいいのか? タブレット』 <2>

<1>からつづく 


「どれがいいのか? タブレット 」 iPad、アンドロイド、キンドル、ネクサス7、ウィンドウズ8
日経PC21 2013年3月号 日経BPマーケティング 雑誌 p150

1)タブレット各種を、車の種類に当てはめてみた。頑丈でオフロードも攻めたければ四輪駆動車=ウィンドウズ8がいいだろう。もし、経済的でエコ・コンシャスなら、ハイブリット・セダン=アンドロイド。そして、もし、スマートな走り重視なら、スポーツカー=iPad、となるのではないだろうか。

2)ウィンドウズ8は、基本がPC。タブレット風にも使えますよ、というだけでタブレットではない。ガチガチの今までのPCライフを引きずりすぎている。逆にいえば、PC環境を維持したければウィンドウズ8がベスト、ということになる。

3)アンドロイドは、ハイブリッドとみる。どこか新鮮で、未来に対する可能性が忍ばれる。しかし、まだ本来の姿に到達していない。完成形ではない。そう言った意味においては未来志向で、たしかにワクワク感を与えてくれる。

4)それに比して、iPadは、割り切り方の妙に惚れ込めるかどうかにかかってくる。スポーツカーは2シーターだ。4席あるスポーツカーなんて邪道である。ましてや荷物置き場に困る、なんてクレームは最初から受け付けてくれない。あるのは、ひたすら走りの楽しさだ。iPadは、その妙を愛せるかどうかで、大きく評価が変わるに違いない。

5)もちろん車のカテゴリには1ボックスワゴン車というものもあるが、そもそもこれはオールインワン的な考え方で、四畳半的な部屋の拡張とさえ言えるのだから、タブレット的な発想とは大きく隔たるであろう。トラックや作業車と同じく、旧PC環境に甘んじるしかない。

6)バイクのようなものもあるよ、というなら、これはキンドルを当てはめておこう。なんでもできるキンドルなんてのはカテゴリーエラーだ。バイクはひたすら風を切って走ればいいのだから、単機能に徹するに限る。キンドルをタブレット端末にいれるのはまちがいだろう。

7)さて、そうすると、タブレット端末を選択するにあたり、私なら、どの車を選ぶだろうと思案する。4駆もいいなぁ。スポーツカーもいいなぁ。しかし、車を選ぶなら1台しか選べない。もちろん、3台持ちができるならどれもほしい。だが、維持費や、エココンシャスを鑑みれば一台しか持てない。となれば、我が家ではベーシック・ハイブリッド・セダン、という結論をみたのであった。

8)しかるに、タブレット端末の選択にあたり、多分、車を三台所有することに比べたらはるかに容易に三台持ちになれるだろうし、よくよく考えてみれば、もうすでに三台持ちに近い状況になっているのである。三台持つことは可能であるが、電源やソフトのメンテナンスやらで意外と面倒なことは多い。やはり、ここはタブレットも一台、と絞りこむことがいいようだ。

9)まず、である。四駆的なタブレット、とはありえるのか。私はこれはノーといいたい。四駆的なタブレットとはコンセプトエラーであり、タブレットとは呼べない。むしろ四駆的な使い方をするのであれば、旧来のPCを使い切ったほうが賢い選択である。新しい投資はなにもいらない。

10)そういう意味においては、ワンボックス型タブレットというのも奇妙なコンセプトであるので、排除する。2輪バイク的なタブレットとしてキンドルを考えてみる。これはありだが、まったく自分専用の、ひとりの世界である。使い方はそれぞれだが、今回の私は顧客満足度を高めるという意味では、孤高なキンドルもまた選択肢からはずさざるを得ない。

11)さてそれでは、アンドロイドとiPadをどのように差別化するかである。アンドロイドは賢そうであり成長株のようではあるが、それだけに未知数のところがある。当たり外れが大きい。当たればいいが、外れた時の失望感は味わいたくない。ネクサス7は、顧客コンシャスから考えて、画面が小さいから選択肢からはずした。

10)最終的に、私が選んだのは結局、iPadだった。ハイブリット・スポーツカー、というのもあり、スポーツタイプのハイブリッド車というものもある。しかし、どちらもコンセプトとしては曖昧で見切りが足りない。あくまでもお互い「~~風」であって、本物ではない。

11)そう言った意味においては、iPadは本格的なスポーツカーである、と、今の私には見える。iPadミニというものも出たそうであるが、私はこれに賛成しない。「ミニ」というネーミングが悲しい。それは、軽自動車をベースに開発されたスポーツカーに似て、悲哀を感じる。

12)また、iPadにブルートゥース・キーボードをつける、というのも邪道であろう、と今の私は結論づけている。せっかく洗練された本格スポーツカーに、あれこれゴテゴテとエアローパーツをつけているようなもので、精神の幼さが見えてしまう。

13)逆に考えれば、本格スポーツカーとして所有するならiPadは、その要求をすんなりと受け入れてくれる要素をたくさん持っているようだ。音楽や、それぞれのアプリ。画像の秀悦さ。それに、助手席に同乗してくれるであろうはずの顧客のCS度にさまざまに配慮されているところがたくさんある。

14)さて、iPadを使っていくに当たって、私が選んだのはホワイトカラーだった。これがいい。一枚の紙のようで、「私はタブレットです」、という自己主張がない。ごく当たり前に、「そこ」に存在している。だから、本当はカバーをつけたくはなかったが、外に持ち出してノマド風に使いたいのでカバーは、透明なスケルトンにした。せっかくのジョブズが作り上げたトータル・デザインを、できるだけ壊したくなかった。

15)スマートカバーというものもいい。保護シートも張っては見たが、どうしても気泡が入るし、一枚、「間」がある、というのはどうもイカさない。ゴリラガラスのような強度もあるらしいからシートははがした。でも、バックにいれてノマドするにはスマートカバーは絶対だと、わたしは思う。車庫入れする。あるいは、カバーでスポーツカーを夜露から守るような感覚である。

16)このスマートカバーが磁石式で着脱できる、というのもかっこいい。どこかスポーツカーの屋根を自動的に開閉できるような快感がある。スイッチがOnOffするのもなかなか素敵でござんす。

17)なにやら頑丈な革ケースにいれて、システム手帳のように使っている人もいるが、私は賛成できない。iPadは隣の人に触ってもらってなんぼのものだと思う。あるいはそのように使いたい。システム手帳では、なかなか他人は触り難い。渋い顔して、ひとりでスポーツカーを飛ばしているように見える。

18)私のスポーツカーの助手席には、素敵なあの人に乗ってもらいたいと思う。だから、ナマがいい。したがって、当ブログのタブレット選択の結論は、生のiPadということになった。

19)かれこれあって、私のITライフは、4駆としての旧式ウィンPCと、ハイブリッドとしてのアンドロイド・スマホ(二種類もある)、そして走りのためのiPadという私流の「三台持ち」になったのであった。二輪バイク的なキンドル・ライフは、私の場合は、すぐ近くの図書館の優秀なシステムが十分その役割をになってくれている。

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追記2013/02/03
 iPad用のキンドル・アプリをダウンロード、青空文庫で夏目漱石を読み始めた。擬似文庫風でもなければ、画面もテキストモードだけだが、これはこれでキンドル「風」にiPadを使えるということになる。

 画面が発光せず目に優しいというのも魅力的に聞こえるし、電池の持ちが極端に長いとか、蔵書の中には希少本(特に洋書など)があるとのことだから、いずれはキンドルを本格的に検討しなければならない時期が来るかもしれない。

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2013/02/02

『タブレット革命』 iPad登場でわかった“板型PC”の破壊力<2>

<1>からつづく
タブレット革命
「タブレット革命」iPad登場でわかった“板型PC”の破壊力<2>
松村太郎 2010/09 アスキー・メディアワークス単行本 191p
★★★☆☆

1)こちらも2年半ぶりに広げてみた本。林信行「iPadショック」と同様、タイトルは仰々しいが、内容はややおとなしめで、現在となっては、やや陳腐化している部分も多い。

2)実際に普段使っているノートパソコンと同じくらいのキーのサイズと感覚で、打鍵する感触はないのですがほどなくするとブラインドタッチを行うこともできるようになってきました。もちろんこだわって選んだ使い慣れたキーボードに比べるとやや速度は劣るし、使い慣れた漢字変換システムも入っていないために、多少勝手が違うところはあります。

 しかし初めてiPadでワープロを触る、という人にとっては、特に大きな問題があるとは思えません。キーボードが嫌だ、という場合には、Bluetoothキーボードやアップルのキーボード・ドックを使うことで、物理的なキーボードによる文字入力も行えます。こうして、原稿を書く作業については、あまり大きな混乱もなく、意外なほどすんなりとiPadでこなすことができてしまいました。p108「クラウドを操るノマドワーク」

3)これまでのところ、私はiPadでブランドタッチはできていない。まったくのフラットなガラスのうえでは、ホームポジションが全く分からず、さらには、他の指がちょっとだけ触っただけでも過剰反応するので、まずはブランドタッチはできない。

4)さらには、5本指打ちしようとすると、他の指が邪魔になってディスプレイ上のキーが見えない。結局は2本指の「ジャーナリスト打ち」ということになってしまう。これはこれでスピードを確保することはできるが、長文を生産するという意味では適していない。

5)しかしながら、私がタブレットを入手したのは、生産の技術を高めるためではなく、プレゼンの技術を高めるためであったので、顧客の前で入力するのは、ほんの単語か短文で終わるので、まず、出先で物理キーボードを必要とすることはまずはないだろう。

6)長文を書く場合は、オフィスに戻って、落ち着いて、というスタイルになるだろう。その時は、長年使い慣れたノートPCを使えばいいのだ。

7)むしろ驚いたのは、顧客にiPadを見せると、勝手に触りたがることだ。これはPC時代にはありえなかった。他人のPCは触ってはいけない、というタブー意識があった。ところがタブレットのタッチパネルは、どうやら触りたくなるフェロモンを振りまいているようだ。場合によっては、勝手に操作し、勝手に自分でクロージングまでもっていってしまう。

8)自分のワークスタイルのテーマにしていたのが「ノマド」という言葉でした。ノマドとは遊牧民のことで、牧草地などを移動しながら生活する人たちを指します。しかし、この言葉と出会ったのは、大学生の頃、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと、精神分析家フェリックス・ガタリの「千のプラトー」という書物の中に、概念としてのノマドがあったところに遡ります。p124「ノマドワークを自然にこなすクラウド端末」

9)ここでドゥルーズ+ガタリの「千のプラトー」と出会ったのも何かの縁。近日中に読んでみよう。

10)ただ、私の場合は、ノマドと言ったならば、馬を連想するし、私にとっては馬とは自動車ということになる。そして、わがベーシック・ハイブリッド車には、供給用の電源システムのほか、一部Fon/Wifiなども積み込んである。私のノマドは、やはり使い慣れた小型ノートPCということになろう。だから、回線内臓型タブレットではなく、Wifiタブレット+モバイルLTEルーターの組み合わせを選んでおいた。これなら、外でもタブレットやノートPCがより自由に使える。

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2013/02/01

林信行『iPadショック』 iPhoneが切り拓き、iPadが育てる新しいビジネス<2>

<1>からつづく

iPadショック iPhoneが切り拓き、iPadが育てる新しいビジネス
「iPadショック」 iPhoneが切り拓き、iPadが育てる新しいビジネス
林 信行 (著) 2010/5 日経BP社 単行本 232p

1)この本を前回読んでからすでに2年半が経過した。あえて今ようやくこの本を自分の問題として読むことができるようになった。つまりは、この本を検証するタイミングにもなってきたということだろう。

2)この2年半の間にはたくさんの変化があった。大きくいえば、私個人はこの間すでにスマホを2台買い換えて、スマホは生活になくてはならないものになってきたということ。そして、いまタブレットが仕事で絶対的に必要になったということだ。

3)外的には、3・11があり、ジョブズが亡くなり、友人たちが次々になくなっている。ITをとり巻く環境も、モバイルWiFiが当たり前のこととなり、LTEが安価に供給されるようになった。

4)思えば、10数年前のことになるだろうか。小型ノートブックにPHS回線カードをつけて、かなり先駆的なモバイルPCスタイルをつくったことがある。それはひとつの「完成形」であった。しかし、それは長続きはしなかった。まず、回線が遅かった。そして、バッテリーが2時間くらいしかもたなかった。さらにいえば、仕事用のアプリがまったくなっていなかった。

5)挙句のはてに、客先ですぐに立ち上げられるように、事前にスイッチをいれて訪問し、すぐにソフトを立ち上げるようにしていたのだが、移動中にHDDが誤作動してしまい、修理にパソコン一台を買うほどの経費がかかったことさえあった。

6)その後、盗難や紛失の問題もあり、モバイルPCは歓迎されなくなり、目新しさも失われていった。だから、そういうトラウマもあったから、2年前のiPad登場の時にも、実に眉唾の状態であったことはたしかなことなのだ。

7)そして、この本はまだiPad日本登場ぎりぎりのタイミングで出版されている。2013年になって、私の手元にやってきたiPadは4世代目にあたるという。かなりさまざまな改善がされていて、ほとんど「合格」と、私の目には映る。

8)まず合格点から挙げておこう。

・HDDを使っていないので、故障の心配がすくなく、すぐ立ち上がる。
・バッテリーの持ちがいい。多分8時間以上もつだろうが、実用的に電源コード類を持ち運ぶ必要はまったくない。
・外部LTEモバイルルーターを使っているが、こちらも、いまのところエリアも速さも、バッテリーの持ちも合格である。
・アップルには直接は関係ないが、仕事用のアプリが関連会社から提供され、実にこれがいい。
・つまり、普段、オフィスでやっている仕事の大部分が外部や出先でできてしまうのだ。
・画面の良質さ、音質のよさ、操作の利便さは、いうまでもない。

9)もし、私が「森の生活」をするとして、そこで今の仕事を「完結」させられるかどうかを考えれば、ほぼ合格と言えるだろう。だが、まだ試していないこともある。
・印刷して保存すべきものもあるが、iPadとの関連づけるプリンターの検討が必要となろう。これは手元にある取り外した器具類で補完ができる可能性がある。

10)電源の確保も気になるところであるが、車を持ち込むことができるなら、そこから電源を供給するシステムをすでに確保してあり、今後は、大型太陽パネルなど(数万円以上かかる)でより確実なものにする必要があるだろう。ただし、本当に必要かどうかは、今後検討する必要がある。

11)それ以外であれば、あとは他力になるが、仕事用ソフトがよりタブレット型に更に進化してくれることを望むだけだ。

12)さて、当ブログはタブレットで完結するだろうか。現在は自宅のPCから打ち込んでいる。長文となるとさすがに物理キーボードがないと難しい。それ以外にもコピーペーストの問題やら、ブログサイトのアフェリの問題もあり、タブレットでは完結しにくい問題がいくつか残っている。だが、解決策がないわけではない。

13)タブレットには持ち運びできるブルートゥースなどのキーボードがあるので、いざとなれば数千円の出費は覚悟だが、これはむしろ、当ブログのこの冗漫さを反省する意味で、タブレット完結型の書き込みのスタイルに直していく、いいチャンスなのではないか、と思う。物理キーボードの購入は急がないでおく。

14)それと、タブレットにつきもののアプリだが、今は、青空文庫の文章たちを、いかにも「文庫本」スタイルで読めるようなアプリが数百円で提供されているようだ。当ブログにおける「読書」スタイルも大きく変化していく可能性があるし、また、変えたいと思っているのだ。

15)iPadの大きなポテンシャルを信じずに見捨てる人が多ければ、iPadも本書も、5年後にはただのお笑い種になっていることだろう。他方、「やはり、これはすごい」と共鳴してiPadを使ったり、関連ビジネスに取り組んだりする人が増えれば、5年後には、クルマや電灯とはいかないまでも、デジタルカメラや音楽プレイヤーと同じくらいまで普及するかもしれない。p2「まえがき」

16)5年後といわず、2年半後にこのような環境が出現しつつある。すくなくとも、それを信じ、開発に取り組んできた人々に感謝したい。特にわが業界にあって、当時からその先見性に目をつけ、今日のスタートを生み出した開発チームには敬服する。

17)アドビのFlashについては、アップルの独自の対応がある。

18)アップルのスティーブ・ジョブズCEOが2010年4月29日に掲載した公開レターでは、Flashを採用しない別の6つの理由を指摘している。p141「Flashには大きな打撃」

19)以下、長文なので要点だけ箇条書きにしておく。
・Flashはクローズな技術である。
・ネット上のFlash動画は言われるほど多くはない(とアップルは主張する)。
・Flashは古い技術で、Macがクラッシュする大半はFlashが原因で、セキュリティも甘い(同上)。
・Flashは電源ーを浪費し、バッテリーの持ちが悪い(同上)。
・Flashはパソコン上の技術であり、タブレットに対応していないため、タッチパネルを理解していない(同上)。
・Flashはマルチタスクプラットフォームであるがゆえに、他の専用ソフトの質の低下をもtらす(同上)。

20)マック、あるいはジョブズ、あるいはアップル製品の、「切り捨て」感覚には、各自一言あっていい部分ではあるが、アップルユーザーになった限りは、アップルの「哲学」や「思想」を、まずは受け入れてみる必要はある。そして、その意図を感ずれば、一ユーザーになったということより、ひとつのライフスタイルの提供を受けている、という側面を感ずることができる。

21)iPadの開発については、スティーブ・ジョブズCEOが、再三反対していたという噂があった。いくつかの同様の企画が社内でもちあがるが、その度に、ジョブズ氏に一蹴されていたという。しかし、2009年春、ジョブズ氏が病気療養中にかなり完成度の高いプロトタイプを見せられ、そこから一気に計画が動き始めたという。p198「iPadはアップル流の洗練の成果」

22)これはかなり異なことと、と捉える。現在のiPadに至るまでの経緯にさまざまなことがあったことは理解できる。すくなくとも他社においても複数プロジェクトが立ち上がっていたわけだから、その中から抜きん出てくるには、技術やタイミング、そしてマーケットの変動のチャンスを見極めていたことは、察するに値する。

23)かつて「5万円ミニノート完全攻略ガイド」(2009日経トレンディ増刊)という本をメモしたことがあるが、結局はこのジャンルには手がでなかった。ミニノートでなくてもPC自体の価格が低下したことと、どうしてもいわゆるネットブックには、安価なPCという自虐的な「諦め」が必要であった。

24)しかし、現在のタブレット旋風には、そのような後ろ向きな「チープ」感覚はない。むしろ、新しい提案が多く含まれている。

25)ここまで紹介したビジネス活用は、これまでのパソコンでもあった活用法をiPad流に手直ししたものだ。しかし、最後に紹介するのは、iPadならではの活用方法と言える。p173「顧客とのコミュニケーションツールとして使う」

26)業態によりさまざまな活用法があるだろうが、ここまで読んで一番反省したのは、これらのIT機器を、私は、自らの「顧客」のために、どれだけ「活用」できただろうか、ということである。オフィスにおけるオートメーションばかりに目が生き、カスタマー満足がおろそかになっていなかったか。特に今回自分がタブレットを導入した理由はここにこそあるのであり、それこそ意識をCSのほうに、もう一度切り替えなければならないな、とまたまた反省したところである。

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