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2013/02/23

アントニオ・ネグリ 『未来への帰還』 ポスト資本主義への道<2> 

<1>よりつづく


「未来への帰還」 ポスト資本主義への道 <2>
アントニオ・ネグリ 杉村昌昭/訳 1999/10 インパクト出版会 単行本 124p
★★★★★

1)高田明典は「現代思想の使い方」(2006/10 秀和システム)において、ネグリを読むなら、「<帝国>」「マルチチュード」に先んじて、こちらの「未来への帰還」を読むことを勧めている。「マルチチュード」を読めば「<帝国>」を読まなくてもいい(ちょっと極言的な捉え方だが)、とさえ言い、あるいは「マルチチュード」より、「未来への帰還」を読んだほうがいい(これも極言的捉え方)とまで言っているのだから、むしろ、この「未来への帰還」一冊を読んで、ネグリ「読了」としてしまってもいいかもしれない(いよいよ極言だが)。

2)そう思わせるほど、このコンパクトな一冊に、ネグリの根本的な「種」が詰まっているような一冊である。

3)このわずか124頁のコンパクトな一冊を読んでいて、カリール・ジブラーンの「預言者」を連想した。別に内容が似ているわけではなく、その本の成り立ちというか、ドラマツルギーが、「出」と「入」で、反転はしているが、この際だから、いっぺん、まとめてやろうじゃないか、というところがとても似ている。そしてコンパクトに、凝縮されている。

4)原題は「EXIL」である。ボーカル&ダンス・ユニットの「EXILE(エクザイル)」のほうの意味は知らないが、こちらは「亡命」という意味を持っている。ネグリの年表についてはロベール・マッジオリが書いた「トニ・ネグリ=<悪魔の帰還>」(p101)という短文にうまくまとめられている。何箇所か抜き書きしようかな、と思ったが、それを始めると、10頁まるまんま抜き書きしそうになったので、やめる。いずれ、ウィキペディアなどで類似のリストがあるに違いない。

5)この邦訳がでたのは1999/10。この時点では、ネグリの邦訳は「構成的権力」近代のオルタナティブ(1999/06  松籟社)がでていたくらいで、ほとんど知られていなかったのではないか、と思われる。

6)ジブラーンの「預言者」は、いつか流れついた地から再び預言者が船出するときに、集まってきた村人たちに、最後のお別れの挨拶をする、というドラマツルギーを使っている。

7)ネグリは、左翼的思想家として政治的テロリズムに影響を与えていて、1970年代の政治的事件に関与したとして本国イタリアで起訴され、頃合いをみてフランスに亡命した。そこで14年間教鞭をとったのち、ふたたびイタリアにもどり収監されようとしていた。その時に、ネグリがテレビ番組などで「口語体」で語ったものをまとめたのが、この「未来への帰還」なのである。

8)1970年代的「終わらない過去」に「ケリ」をつけて、「未来」へと飛翔するために、亡命地から「収監」されるために本国に帰還する、という舞台の仕立てかたは、ネグリその人とその思想を、より一層際立たせることに役だったはずである。

9)今日、近代からポストモダンへの転換期にあって、問題は再び多数者=多数性の問題となっている。社会階級が社会階級として形骸化するかぎり、社会階級の組織的自己集中化現象は消滅していく。したがって、われわれは再び個人の集合体というものに直面しているのだが、しかし、この多数者=多数性は以前とは絶対的に異なったものになっている。

 これは知的大衆化の結果としての多数者=多数性である。それはもはや平民とか民衆といった呼び方をすることはできない。なぜなら、それは豊かな多数者=多数性だからである。私は多数者=多数性という用語をスピノザから借用したのだが、それはスピノザが偉大なオランダ共和制という類まれな異例性を背景として思考したからである。p39「多数者=多数性(ムルティトゥード)」

10)この時点では、ムルティトゥードと翻訳されているが、やはり日本語としては覚えにくいと判断したか、のちにはマルチチュードと翻訳されるのが主流になった。

11)私はスピノザのこの用語を使ったのだが、その使い方は、否定的なものとしてとらえられた---ヘーゲルがのちに「獰猛な野」と名付けるところなる否定辞としての、つまり組織し支配すべきものとしての---多数者=多数性という用語を店頭したものである。p40「同上」

12)字義通りに解釈すれば、それなりに理解できる言葉だが、過去に誰かに使われてきた言葉とすれば、それなりに背景を理解していかなければならない。

13)1978年3月16日木曜日、ローマ、ファーニ街。フィアット128が先頭の公用車にぶつかる。二人の男が飛び出しながら護衛たちに発砲し、総裁をすばやく奪い取り、一方では共犯者たちが第二の車に銃撃を加え、他の三人の護衛を射殺する。(以下、つづく) p103ロベール・マッジオリ「トニ・ネグリ=<悪魔の帰還>」

14)ネグリが実際に問われた罪状については、どういう経緯だったか、まじめに追っかけてみる気はないが、少なくとも、その年代には強い関心を持つ。この年代、23歳の私はインドに行ってサニヤシンとなっていたが、日本国内では、例えば加藤三郎が自らの政治的「活動」をおこなっていた。あるいは、当ブログの読書の中では、荒岱介の人生を思い出す。

15)本書は三部構成になっている。第一章「20世紀旧体制との決別」、第二章「ノマド化する世界」、第三章「生の最深部へ」となり、巻末に三者の解説的短文が付属している。ここで、第二章のタイトルに「ノマド」が取り上げられていることに、あらためて興味をひかれる。

16)私の意見では、私が体験した亡命はきわめて単純なものであった。しかし、亡命とプロレタリアのノマディズムは、二つの根底的に異なるものである。p77「亡命」

17)内容もともかくとして、ここでノマドが「ノマディズム」と変化している。そして、「プロレタリア」という用語が堂々と闊歩していることに、びっくりする。著者側からみれば当然のことなのだが、当ブログの中では、ちょっと異様である。

18)この本はコンパクトなので、この本だけに限定してネグリという人の成りと思想を受け止めれば、割とシンプルに全体像を捉えることはできる。

19)愛に唯物的定義、それは共同体の定義であり、寛大さによって広がり、社会的配備を生産する情動的関係の構築ということである。

 愛はカップルや家族に閉じ込められるものではなくて、より広大な共同体に自己を開いていかねばならない。

 愛は状況に応じて知と欲望の共同体を構築しなければならないし、他者に対して建設的にならなければならない。

 愛とは、今日では、自己にしか属していない何かを守ることに閉じこもるあらゆる試みを破壊することなのである。

 愛は固有を共同へと変えるための本質的な鍵であると私は信じている。p90「愛」

20)ここを読んで、「愛」とは何か、をわかる人は、ちょっと特種な人であろう。少なくともネグリは、そのように「信じている」ということである。人にはいろいろな生き方や表現の仕方があるが、ネグリはあくまでも自らの考えを表現する、思想家なり、哲学者、という立場にとどまろうとする人なのだろう。

21)この訳は、呂氏が原文を忠実に訳した文章をもとにして、私が日本の読者にとってなるべくわかりやすくなるようにかなり大胆に手を入れた一種の”超訳”である。p123杉村昌昭訳者あとがき」

22)これで「超訳」なのであるから、原文はかくや、と思われる。しかしながら、「日本人の読者」の中の、さらなる軟弱者の当ブログなどにおいては、さらなる「超々訳」が出現することさえ期待したい。そういった意味では、この一冊は、文頭で述べた高田明典が紹介するように、ネグリをぐっと引きよせて考えることのできる好著だと、私は思う。

 

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