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2013/02/21

宇野邦一 『ドゥルーズ』 群れと結晶


「ドゥルーズ」 群れと結晶 
宇野邦一 2012/02 河出書房新社 全集・双書  254p
Vol.3 No.0923

1)はて、この本をレインボー評価していいだろうか、と自問する。決して内容がわかったわけでもないし、共感するものでもない。しかし、一頁、一頁、次から次へと、最後まで読ませてしまおうとする流れは、やはり、これは感謝しなくてはならない。

2)得てしてこのような本は、最初の読み始めと比べれば、中ほどにきて飽きてしまうものである。いい加減、もうどうでもいいや、と思ってしまう。しかし、この本は、適度なところで、こちらの関心とうまくリンクするように、なにかかにかのエピソードを挟んでくる。そういった意味では、最近読んだ、哲学書やら、現代思想といわれる本のなかでは、良質だった、と思える。

3)群れ=身体と、結晶=時間の哲学が、新しい倫理を問う。日本を代表するドゥルージアンによる、世界で最も美しい、ドゥルーズ的実践。表紙案内

4)この表紙の案内を読んで、私をはじめ、私レベルの私の友人たちは、なにごとかをわかる奴は一人もいない、だろう。少なくとも私はわからない。でも、「日本を代表するドゥルージアン」という言葉には打たれる。だいたい、ドゥルージアン、と言われるほどの潮流がある、ということに感動する。あるいは、日本語で書かれているのに、「世界で最も美しい」とは、なんという表現であろうか。この表現はだれが書いたのだろう。そして、ドゥルーズ的「実践」とは、これいかに?

5)結論としては、最初の最初に一読者として感じた疑問は、この一冊では解決することはなかった。わからないことはわからないままであった。

6)しかし、いくつかのことが、この本において、ようやくわかったことが、いくつかある。

7)ドゥルーズを高く評価した「マルティチュード」の哲学者ネグリは、ドゥルーズがヴィトゲンシュタインに対してまったく警戒的だったのに比べると、むしろヴィットゲンシュタインの言語哲学に対して好意的である。

 言語システムの裂け目や限界を執拗に思考したその言語哲学は、改めて言語の生産性や創造を浮かび上がらせたのだ。p75「記号の宇宙」

8)ヴットゲンシュタインは、当ブログにおいては、今後の再読リストのトップに位置している人物である。この人物に対して、ドゥルーズは警戒的であり、すくなくともアントニオ・ネグリは好意的であった、ということが分かった。

9)スピノザは決して魂よりも身体を優先させたわけではなく、むしろ思考と意識を区別し、意識に与えられる過大な価値を批判したのだ。スピノザとホップスは、結果としてまったく異なる政治的ヴィジョンを作り上げたように見えるが、しかしスピノザの<身体論>は、ホップスの<自然法>の概念と密接に関連しているとドゥルーズは考えた。p119「身体」

10)スピノザについては、ひとつのカテゴリをもうけて読み進めてきた当ブログであるが、杳としてその消息をまだつかめないでいる。しかるにここにおける、スピノザは「思考と意識を区別し」という言説には、大いに得るところが大きい。

11)スピノザは、古代から近代まで綿々と西洋を貫いてきた<自由>とはまったく異なる<自由>を構想していたにちがいない。スピノザの倫理とは、まさに学校で教える「倫理」とも「道徳」とも異なる「野性的異例(アノマリー)」(ネグリ)であった。p121「同上」

12)当ブログは、ふらりと、ごくありていの公立図書館に立ち寄った平凡な現代人が、何気に棚から引き出した本に曳かれながら時間を過ごす、という形態をとっている。その中にあって、いわゆる哲学のコーナーで言えば、ネグリという棒状の一線と、スピノザ、というルーツとしての溜まり水を確認しただけである。これらを、より豊かにするのは、今後の読書にかかっている。そういった意味において、ここにこれらの言説を発見したということは、今後の読書のおおいなる励みになる。

13)確かに情報、記号、コミュニケーション、頭脳の協働、非物質に深くかかわる資本主義は、生産と労働の性質を変え、資本と労働者の関係を変化させ、思考、情動、集団性、公共性も変容させるだろう。イタリアの論者たちの「マルチチュード」の思想にとって、まさにそれはあらたな革命にほかならないけれど、それは何よりもまず新しい抗争の形態でもある。p218「国家と資本のあいだ」

14)当ブログにおいては、柄谷行人「世界共和国へ」(2006/04 岩波書店)の中に見つけて以来、おおざっぱに追っかけてきた、ネグリ&ハートのマルチチュードの世界を、批判的にスキャンしつつ、ここを契機として、もっと広域における哲学や現代思想なる世界へと足を踏み入れてやろう、という野心は、いまだ持ち続けているのである。

15)今後、流れにおいて、この本を再読するかどうかはわからないが、少なくとも、当ブログにおいては、しかも、かなりのおおざっぱな読み方をする当ブログとしては、、今後、機会を捉えて、再読する価値のある一冊とメモしておくことは妥当である。

16)この本の魅力は、ドゥルーズその人というより、その弟子筋であろう宇野邦一という人の、読者層を日本人において、なんとかその関心の糸が切れないように書き進めるセンスに負うところが大きい。最初に表紙にあった表現の、「ドゥルージアン」とか、「実践」とか、いう表現が、読み終わったあとになお、意味を新たにする。

 

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