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2013/02/16

アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 『コモンウェルス』 <帝国>を超える革命論<1>


「コモンウェルス(上)」 <帝国>を超える革命論<1>
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2012/12 NHK出版 全集・双書  348p
Vol.3 No.0918★★★☆☆

1)「コモンウェルス」とは何か?---- ますます進行するグローバリゼーションのなかで、国境を越えて私たちに働きかけてくる<帝国>という権力と、それに対抗する多数多様な人びとの集合体=マルチチュード。

 <帝国>が法にのっとって収奪を試みるのも、マルチチュードが生産し、かつ<帝国>と闘うための武器とするのも、<共>という富=コモンウェルスである。

 それはいかにしてつくられ、どのような可能性を秘めるのか。絶対的民主主義を追究する、<帝国>論の完結篇! 表紙見返し

2)おお、かっこいい。これは読まなきゃ、と思う。ネグリ&ハートの最新作である。ましてや、「<帝国>」「マルチチュード」に続く、三部作の「完結篇」という唄い文句である。今、これを読まないで、一体何を読む、とさえ思う。

3)意気揚々と、ページをめくり、あちこちに、多少の聞きかじった単語が出てきてホッとするのもつかの間、次から次と、初体験の単語が続出する。何行かに一度、あるいは何ページかに一度は、付箋を貼って、それなりに理解をし始めているように感じるものの、いつの間にか、自分の興味のない世界に引きづり込まれ、何かの拍子に、ぱたっと本を閉じてしまう。

4)それでもなんとかかんとか3分の1ほどまで読み進めては見る。ふとお茶などを飲みながら、さて、ここまで読んで一体何が頭に残ってる? え? ぜんぜ~~ん。あの表紙見返しに書いてあった宣伝文と「同じこと」が、この本に書いてあるの?

5)やっぱり、今回もだめであろう・・・(落胆)。_| ̄|○


「コモンウェルス(下)」<帝国>を超える革命論
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2012/12 NHK出版 全集・双書  338p
Vol.3 No.0919★★★☆☆

6)中心のないネットワーク上の権力=<帝国>の興隆に対抗し、秩序形成をめざして単独行動に走ったアメリカの試みは、イラク戦争の失敗と金融危機という挫折に終わった。

 残されたのはEUの超国家主義でも中国の派遣主義でもなく、<共(コモンウェルス)>という富にもとづいた、マルチチュードによる民主主義のプロジェクトだった。

 指摘所有という制度とそれを支える法体制を根本から批判し、万人にアクセス可能な資源=<共(コモン)>の豊かな可能性を予見する。

 <共>をめぐる生産はいかにして資本を蝕み、崩壊させるのか?ポスト工業化時代にこそ読まれるべき「革命」の書。 表紙見返し。

7)下巻の宣伝文だって、上巻に劣らず、カッコイー。本当にそういう内容だったら、絶対読みたい。と意気込むのだが、だけどもう、最初から読む気がなくなっている。

8)本当のところを言えば、このところ、哲学やら、現代思想と言われる分野の本を立て続けに手に取っている。面白いことは面白い。興味がないわけではない。読むべき本もある。読めるのなら、読んでおいたほうがいいに決まっている。だが、次々と挫折し続けている。もう、当ブログにメモさえ残すのも気が引けるほどの、惨憺たる読書(挫折)歴が始まってしまった・・・_ノフ○ グッタリ

9)この現象って、当ブログが、リナックスのプログラミングの書物、「Linuxカーネル2.6解読室」(2006/11 ソフトバンククリエイティブ)なんて本を手にとった時の感触にそうとう似ている。読みたい、わかりたい、やってみたい。そうは思うのだが、いかんせん、その様に教育されていない。才能もなければ、仲間もいない。ないないづくしで、結局は、その道の専門家が活躍することを期待する、と、そういう落としどころだった。 

10)つまり、難しい専門的な部分は、その最適な担い手たちに任せて、こちらは応分な成果物をいただければいいのではなかろうか、ということである。いや、別に他人に任せっぱなしということではない。自分なりにできることは、しっかりと分担として受け入れようとは思う。

11)例えばLinuxがいくら好きだからといって、私などは一行たりともそのコードを書くことはできない。どのような仕組みでどう組み立てられていくのかは、まったく分からないし、今から学ぼうと思っても、すでに遅いであろう。でも、だからと言って、私にはLinuxに対して何も出来ないというわけでもない。まずは、自分でLinuxをつかってみることであり、その体験を周囲に話して話題を広げることはできる。あるいは何らかの形でドネーションしたり、何らかのサポートなどが出来るかもしれない。

12)そう言った意味合いにおいて、いわゆるこのネグリ&ハートの「マルチチュード」には、一票を投じてみたいとはおもっているのである。その全容や仔細な点は分からずとも、なんかおもしろそうだな、可能性がありそうだな、ということは表現しておきたい。

13)だが、どうも最近は実態が分かって来たというべきか、違いが分かってきたというべきか、どうもこれって、違うんじゃないか、という感触を得ることも多くなってきた。

14)まず第一に、なんだかんだ言っても結局は廃れたはずのマルクス的共産主義の焼き直しをしているのではないか、ということ。それらの闘争史を何回も読まされると、ちょっとあきがくる。新しい視点から捉え直しているのだ、ああ、そうだったんですかぁ、とは言ってみるものの、どうもアクビがでる。結局は戦いの話であり、戦争の話である。結局はチャンバラの解説をやってるにすぎないのではないか、

15)さらに言えば、 いわゆる「権力」と「被抑圧層」の捉え方って、ぜんぜん、昔の社会運動と変わっていないんじゃないか。あるいは、むしろ、現在の世界的な動きを、昔の動きに連動させて考えようとしているだけなのではないだろうか。

16)そうすれば、過去の「運動」も「無駄」にならないし、現在の「運動」も、すごい「歴史」の中での連携として捉えられることができる。・・・・・だけど、本当か?

17)本著に書かれる「革命」や「民主主義」って、なんだか、古臭くないか?

18)ネグリとハートが構想する革命は、「闘争に次ぐ闘争を通して、各段階におけるシステム均衡をすべて打ち破り、そこから絶えずあふれ出ながら、<共>の民主主義を目指して休むことなく進んでいく」((下)274頁)ものにほかならない。

 むろんそれは、遠い将来に先送りされた出来事への希望にひたることでもなければ、過ぎ去った非日常的な祝祭への郷愁にふけることでもない。

 本書の一節---それを読む者の力能と喜びを増大させるような、美しく力強いパッセージ---を引くなら、「今日、革命はもはや私たちから切り離された未来の出来事として思い描かれるものではなく、現在---ある意味では、すでにその内部に未来を包含した「過剰な」現在---に生きるものでなければならない」((下)74頁)のだ。

 ネグリとハートは<帝国>三部作を通して、そのような「現在」に一貫して関与してきたのであり、また彼らの構想する<共>の革命論は、すでに私たちの「「過剰な」現在」のなかにしっかりと息づいているのである。p304水嶋一憲「解説<共>の革命論」

19)難解な書物を読むことを断念するなら、ダイジェストとか解説などを使ってでも、いちおう内容を把握しておきたい。そういった意味では翻訳者の一人である水嶋の「補足」も参考になる。しかし、これって、別にネグリに言われて初めてわかることなのだろうか。彼を待たなければ、「大衆」は何もできないのか。

20)むしろ、これはすでに「大衆」の動きがあって、それを単にネグリ&ハートが「後から」意味づけているだけに過ぎないのではないか。

21)実際、本書の刊行後、2010年末から、<共>の民主主義を目指して進む、新たな闘争のサイクルが開始されている。チェニジア、エジプトに始まる中東革命の火花は、スペインに飛び火し、「真の民主主義を今こそ!(デモクラシア・レアル・ヤ」を合言葉としつつ、政党による代表制のシステムそのものに異を唱える、「憤激する者たち(インディグラナドス)」の運動を呼び起こした。 

 さらにその動きはギリシャ、イギリスなどへと拡がり、2011年秋には、アメリカ・ニューヨーク市の「ウォール街を占拠せよ(OWS)」運動へとつづいていったのである。3・11以降、日本の各地で発生している反原発デモや占拠運動も---それぞれの特異性を保ちつつ---こうした流れに連なるものだろう。p304水嶋一憲「解説<共>の革命論」

22)これって、なんだか極端に我田引水なのではないか。この本の原著が出たのは2009年であり、その時点で、まさかネグリ&ハートだって、3・11を「予測」などできているわけがない。ましてや「反原発」の動きを、ネグリたちが演出したわけでは当然ない。そのような動きを「マルチチュード」としてネーミングして、一部の「深読み」たちが<共>化することはあるだろうが、それは、単に、古びた「サヨク」達に対する、解説やらリップサービスの一環に過ぎないのではないか。ましてや、アラブの春においてをや。

23)ネグリは、3・11後に「世界が日本のを考えている」(2012/03 太郎次郎社) において、「原子力は「怪物(リバイアサン)」である」という一文を日本へのメッセージとして寄せている。このような、現在進行形の活動はたしかにあるのだろう。

24)ネグリとハートは、このようにバトンを引き継ぐかのごとく連鎖発生した、闘争の新たなサイクルと並走しながら、「宣言」Declaation(2012年)というシンプルな題名のパンフレットをまず電子書籍という形で出版している(NHK出版から刊行予定)。

 そこでは、本書で展開された<共>の革命論をベースに、生きていること・自由・平等・幸福への追求・<共>への自由なアクセスといった不可侵の権利が自明の真理として提示されるとともに、それらの権利を侵害する統治形態は廃絶され、新たな政府が創設されるべきであると言った原理が宣言されている。p305水嶋一憲「解説<共>の革命論」

25)理論化され、執筆され、出版され、翻訳され、さらに出版されるというプロセスに比較したら、確かに電子書籍は圧倒的に早い。確かに同時代性を生きることができるかもしれない。しかし、それでもまだタイムラグはある。まったくの同時性とはいえない。少なくとも、ネグリたちから「指令」を待つようでは、それは、「マルチチュード」とは言えない。

26)本書の主題であり、何度も語られる<共>であるが、それって、正直、どこが目新しいのか、よくわからない。概念としてのコモンウェルネスなど、いままで共同性とか、共同幻想とか言われてきた概念と、どこかダブり、別に新鮮さは感じない。

27)むしろ、概略的に言えば、ネグリが打ち出す概念は、実はネグリのものではなくて、ハートのサポートによるのではないか、と思う。20世紀末の共産主義な社会主義の退潮と時を同じくして、ITの発達によるネットワーク社会が現出した。パソコン文化から、エレクトロニクス・コテッジを通り過ぎ、今や、モバイル・ノマド社会を生み出そうとしている。

28)これらの動きは、いわゆるハッカー文化や、リチャード・ストールマン「フリーソフトウェアと自由な社会」(2003/05 アスキー)、あるいは発展形のLinux文化の動きを敏感に感じ取っている共著者のマイケル・ハートの「入れ知恵」なのではないだろうか。

29)とするなら、ここで彼らが言っている<共>という「実体」はよくわかりやすくなる。つまりはGoogleに代表される「検索」文化の徹底化であるし、IT技術の普及、とりわけインターネットの普及の促進であるし、安価なガジェットを全ての「大衆」に、ってことになるだろう。

30)つまり、単にそれだけではないのか。

31)そう言った新しい「現在」形の動きを捉えきれない旧態化した頭脳に対して、旧サヨク的な言辞を使って、ネグリが一生懸命「解説」しているにすぎないのではないか。

32)とするなら、「<帝国>」や「マルチチュード」という言辞は、すこしく「役立たず」なのではないか、と私には見えてくる。マルチチュードは「ネットワーカー」などという単語に置き換えることができるだろう。「<帝国>」でさえ、グローバル覇権主義と言えないこともない。しかし、ネグリがいうところの、「楽観主義」は、どうも楽観的すぎるのではないか。

33)3・11後に勃発したとされる反原発運動のうねりを揶揄する気はまったくないが、その後の2012年に行われた日本の国政選挙などの結果をみると、あれだけ「マルチチュード」が騒いだのに、あの「結果」かよ、という惨憺たるものだ。

34)アラブの春にしても、冬来たりなば、春遠からじとはいうものの、本当の春を謳歌するまでは、はるかな時間がかかる気配が濃厚である。

35)この書き込み、すこし長すぎた。今日のところの結論を急ごう。

36)ネット社会は秒針分歩で進んでいる。本当のところは誰にもわからない。このわからない「いま」を生き続けていくしか、「かくめい」はない。

37)いわゆるイデオローグ、アジテーター、オルガナイザーの、どれにネグリ&ハートが当てはまるのか知らないが、少なくとも、これらの概念は、旧来のサヨク言辞であり、たぶん、現在進行中の「かくめい」には役立たない。すくなくとも、過去の「サヨク」運動史と連動して理解しようとするのは、ノスタルジアに浸っている一部の好事家たちの仕業でしかない。

38)結局、問題作である。いろいろ言いたいことはある。で、そろそろ出かけなければならないので、今日のところは終り。

<2>につづく

 

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