被災ミュージアム再興事業「国史跡郡山遺跡-みちのくの源流を訪ねて-」
平成25年3月16日(土曜日)から3月24日(日曜日)第1会場 ザ・モール仙台長町店(2階いこいの広場):郡山遺跡出土資料とパネルの展示 入場無料
Vol.3 No.0951★★★★★
1)所用でショッピングモールにいったら、オヤ、何やら遺跡展をやっている。しかも郡山遺跡展だ。これは面白そう。いろいろ聞いたら学芸員さんが詳しく親切におしえてくれた。知りたいことがいっぱいあったので、いったん引き上げ、用事をすましてから、また出かけていった。
2)市のHPにも案内がでていた。パチパチ写真も撮ってきたから、当ブログにもアップしようと思ったが、他の人がすでにアップしていたから、やめておく。だって、ほとんどが同じような写真だ(当たり前か)。
3)だから今晩は、新たに分かったり、気づいたり、間違いだと知ったことだけをランダムにメモしておく。
・第一期官衙の北辺は、必ずしも川の氾濫とかで失われてしまったわけではなく、発掘が進展していない事が原因になっている。
・郡山遺跡は、多分、津波そのものによって破壊されたわけではないだろう。その痕跡としての堆積物は出てこない。
・郡山遺跡ができた頃の「中央」とは藤原京のことである。ウグイス啼くよ794年の平安京の前の都、平城京、さらにそのまえの藤原京である。
・ネットつながりの寮美千子氏達が盛んに情報発信しているのは、平城京の遺跡についてである。
・今回あらためて地図を見てみると、藤原京のあった奈良からみると、確かに郡山遺跡は北東45度にあり、確かに丑寅の方位にある。
・郡山遺跡のあと国府として誕生した多賀城は、さらにその北東45度の延長線上にあり、鬼門としての「東北」を調伏する施設として、風水に基づいて作られた可能性は高い。
・さらに奥にある金華山は、最も3・11に近い島であるが、丑寅の金神として畏れられたということも、言われなきこととも思えなくなる。ただし角度はややずれる。
・今回の震災で、津波は太平洋から二つの川を逆上して郡山付近まで来ている事が認められるので、移転の理由が、津波被災であり、多賀城へ「高台移転」した可能性も容易には否定できない。
・郡山遺跡は、スケール的には、ちょうど藤原京の2分の一であり、つまり、面積では4分の一であった。
・廃寺跡には、巨大石が残されていたとされ、仏塔の中心の柱を支える石であった可能性は高い。
・この地から北西1・5キロの所に、大年次山横穴墓群があり、副葬品などから、郡山遺跡との関連が有力視されている。
・この地より西方に太白山を望むことができる。
・郡山遺跡に先立つこと、安久東遺跡や、中田の戸の内遺跡などが存在している。これらは、仏教伝来直前という時代背景をもっている。
・郡山遺跡の廃寺は、東北にできた最初の仏教寺院の可能性がある。つまり、中央は仏教を持って、東北蝦夷を調伏したという図式になる。
・当時、円墳も各地に出現している。
4)以上、今日のところは、メモのみ。
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