ジャック・アタリ 『21世紀の歴史』 未来の人類から見た世界<1>
「21世紀の歴史」未来の人類から見た世界<1>
ジャック・アタリ 林昌宏・訳 2008/08 作品社 単行本 347p
Vol.3 No.0933★★★★☆
1)佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ」(2009/07 光文社)のなかに、この本のキモの部分のダイジェストがあり、そのさらに要約の部分を、抜き書きしておいた。あの抜き書きでは物足りなければ、佐々木本を読めばいいし、さらにダメであれば、こちらのハードカバー本を読むしかない。
2)しかしまぁ、このキモの部分を読むだけなら、何もこれだけの厚いハードカバー本を読まなくてもいいように思う。未来の人類から見た世界というサブタイトルなので、少しはSFがかった本かな、と思ったがそうではない。どこまでもノンフィクションめかした評論である。そしてまたアタリ一流の「予言」が散りばめられている。
3)一連のネグリ=ハートの「<帝国>」に類似の概念として「超帝国」が提示されている。であるならば、ということでネグリ=ハートの「マルチチュード」に類似する概念として、「ノマド」が提示されているわけだが、「帝国」論よりは、概念が互にバラけている。
4)ネグリたちのほうは、ホッブズやスピノザ由来の「群衆」というニュアンスを逆手にとっての「逆襲」だが、アタリの「ノマド」は人類古来の「遊牧民」の意味をもたせている。日本においては、遊牧民というより狩猟民族といったほうが親近感があるだろう。
5)ネグリの「マルチチュード」は、ともするとマルクスの「プロレタリアート」の読み替えのようにさえ感じられるが、アタリの「ノマド」は、農耕民族に対する狩猟民族や遊牧民のニュアンスが強く、一元的ではなく、多様な読み替えがされている。
6)ネグリ=ハートの「マルチチュード」は、共著者のアメリカ人のハートの影響、ないし協力で、現在のインターネット社会の特質を、暗に「誤読」するかのように書いてあるのに対し、アタリの「ノマド」は、積極的な意味で、ネット社会の高度モバイル化を、明瞭に指し示している。
7)だから、現在2013年においても「ノマド」や「ノマドワーカー」のような言葉使いが日本社会で、多少流行しているとするなら、このジャック・アタリのこの本の影響がかなり大きいと思われる。
8)ただし、そうであるなら、当然、単に「スタバでエアマック」しているのが「ノマド」という冷やかしは、当然あたらない。現在、進行している「ノマド」現象を、深く、長いスパンで考えるとすれば、このアタリの「予言」には、ひととおり目をとおさなければならないだろう。
9)今後50年先の未来は予測できる。まず、アメリカ帝国による世界支配は、これまでの人類の歴史から見てもわかるように一時的なものにすぎず、2035年よりも前に終焉するであろう。次に、超帝国、超紛争、超民主主義といった三つの未来の波が次々のと押し寄せてくる。最初の二つの波は壊滅的被害をもたらす。そして、最後の波については、読者の皆さんは不可能なものであると思われるかもしれない。
筆者は、この三つの未来が混ざり合って押し寄せてくることを確信している。その証左に、現在においてもすでに、これらが絡み合った状況が散見できる。筆者は2060年ごろに超民主主義が勝利すると信じている。この超民主主義こそが、人類が組織する最高の形式であり、21正規の歴史の原動力となる最後の表現である。つまり、それは<自由>である。p15「21世紀の歴史を概観する」
10)「超帝国」と「<帝国>」、「超紛争」と「戦争」、「超民主主義」と「新しい民主主義」など、アタリとネグリの類似性を指摘することはそう難しいことではないが、だからと言って、安易に楽観的な一元化はできないだろう。
11)そもそも、だいたいにおいて、だれが考えてもだいたいそうなるのだし、それをフランスの思想家が考えようが、イタリアの革命家が考えようが、それほど大きな違いがでてくるとは思えない。ただ、アタリの特性は、このような形で、より図式的に、場合によっては、ほとんど漫画チックに書き出すところにある。とくに年代を区切るところなど、だからこそ受けがいいのだろうが、また、ちょっと眉唾のところでもある。
12)そもそもこの本の原書は2006年にでているのであり、邦訳にあたって改訂はされているだろうにしても、7年後の現在の世界状況をみれば、どれだけアタリの歴史観が「当たり」だったかは、見る人がみれば、はっきりするだろう。
13)「宗教・軍事・市場----人類史を動かしてきた三つの秩序」(28p)などのタイトルに見るように、例えばネグリが、マルチチュードが未来において獲得すべきものとして、自らの「憲法」、「兵器」、「貨幣」をあげるのと同様、ノマドとマルチチュードを二枚重ねにして考察していってみるおもしろさはある。
14)しかし、「超民主主義」にしても「新しい民主主義」にしても、まずこのネーミングからして本当に、「そのこと」を表現し得ているかは、あやしい。少なくとも、明確な答えにはなっていないように思える。アタリがフランスの有名な思想家であり、現実的な政治的ブレーンであったことや、ネグリがイタリアからフランスに亡命していた左翼革命指導者であったことなど、その立場の違いを考慮してみれば、この二人がどこか、お互いに意識しているようにすら感じられる。
15)アタリは、ノマド、超ノマド、邪悪なノマド、下層ノマド、ユビキタス・ノマド、ヴァーチャル・ノマド、オブジェ・ノマド、などなど、さまざまに分類してみせるが、結局は、この「手垢のついた」ノマドを振り捨てて、最終的には別な言葉に置き換える。
16)超民主主義の実現に向けて最前線で活動する人々のことを、筆者は<トランスヒューマン>と呼ぶが、彼らがすでに、収益にとらわれない、そして収益が最終目的ではない<調和重視企業>で活躍している。
トランスヒューマンとは、愛他主義者であり、世界市民である。彼れらは<ノマド>であると同時に定住民でもあり、法に対して平等な存在であり、隣人に対する義務に関しても同様である。
また、彼らは世界に対して慈愛と尊厳の念を抱いている。彼らの活動により、地球規模の制度・機構が誕生し、産業は軌道修正されていく。
こうして産業は、各人のゆとりある暮らしのために必要となる財(もととも重要なものは心地よい時間)や、人類全員にとってゆとりある暮らしのために必要となる共通資本(共同体のインテリジェンス「知性・情報」が重要となる)を発展させていく。p288「民主主義を超える<超民主主義>の出現>」
17)このような文脈で語るなら、なにも未来に向かってトランスヒューマンの出現を期待する必要などない。いまここで、ひとりひとりの私たちが、自ら「トランスヒューマン」であることを、静かに自覚すればそれでいい。それを超人間とか新人類とか、どんな言葉で表現するにせよ、それは、未来の絵に書いた餅である必要はない。
18)未来のある時から、人類は<自由>を獲得する、なんてことはない。今、ここから自由に生きていくしかないのだ。
19)今、当ブログは、いやいやながら(笑)、津田大介「ウェブで政治を動かす」をパラパラとめくろうとしている。ここでいうところの「政治」とは、ネグリやアタリが語ろうとしたこと、あるいは、当ブログがネグリやアタリから読み取ろうとしたことと、同質、同種の課題である、と認識している。
20)もう、始まっているのであり、そして、そのことに「終わり」はない。自由を獲得するのに何十年も待つ、なんてことはできない。また、ほぼ確実なことだが、何十年たっても、「待っている」だけなら「自由」になんてならない。いまを生きていくことが「自由」を獲得する人間本来の生き方であるはずである。
21)この本、邦訳を意識して、日本についてもこまかく書いてある。あるいはアタリの本国であるフランスについても書いてある。ひとつひとつは興味深い評論であり、一考に値する。とくに本文では「保険」について、かなり多出する。この本をまるまんま、「保険」というテーマで読み直してみると面白いかもしれない。
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