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2013/05/19

羽倉 玖美子『愛する地球(テラ)に』 女神は夜明けに舞い降りる<6>

<5>からつづく 

Tera
「愛する地球(テラ)に」 
女神は夜明けに舞い降りる <6>
羽倉玖美子著 2012/12 本の森 単行本 p178

 昼下がりのまどろみの夢の中へ、淡い赤紫色の服を纏った女性のイメージが、突然降りてきた。まだ明るいうちに。

 私はすぐにそのイメージをスケッチブックに描いた。髪を結い上げ、その手には琵琶のような楽器を持っている。次に、その絵を見ていた私に降りてきたのは「サラスヴァティー」ということばだった。そのことばを調べたら、ヒンドゥの女神の名前であり、川の名前だった。

 古代インドには、ヴェーダと呼ばれるインド哲学の文献があり、その中でもっとも古くに書かれた聖典リグ・ヴェーダには、当時の神聖なシンドゥ七大河について書かれている。7つのうちで6つまでは、現在流れている川と重複するが、サラスヴァティーだけは、実在しない伝説の川と考えられてきた。しかし衛星写真などから、インダス川に沿った東側、タール砂漠にその消えてしまった川の痕跡が認められた。さらに、その消えた川の流域から300以上の遺跡が発見された。p38

 その川を神格化した女神サラスヴァティーは、「サラス=水」で「水(湖)を持つもの」「水に富む」の意味があり、水と豊穣の神様である。また、ヴァーティはヴァーチュ(言葉という意味)という女神と同一視され、水の流れの音から転じて、流れるものすべて、ことばや弁舌、知識、音楽の女神となった。4本の手を持ち、ヴィーナという楽器、ヴェーダ聖典、数珠を持った才色兼備の美しい女神の姿として表される。

 インドにおいて、川の水は人を浄化してくれる聖なるものとしてある。ガンジスの沐浴の光景はその信仰の表れだが、普通の川とサラスヴァーティ川の違いは、後者は天からこの地上に流れ落ちて来る川で、それは地球を浄化し天からの恵みを運んでくれる。宇宙(そら)に一番近いヒマールの高き山を源として、水という愛でインドの大地を潤したサラスヴァティー川。リグ・ヴェーダは、高らかに謳いあげる。

 「諸河の中にただ独り、サラスヴァティーはきわだち勝れり。山々より海へ清く流れつつ。広大なる世界の富を知りて、ナフスの族(うから、人類)にグリダと乳をいだしきたれり。」 p39

 サラスヴァティーは日本に渡り、神道や仏教の要素が取り入れられ、七福神の一柱の弁才天、弁天となる。弁才天の化身は蛇や龍とされ、宇賀弁才天として信仰されるようになる。七福神の中に入るのは、近世に入ってからであるが、民間信仰などが付加され、財宝神の性格を持つようになると、「才」の「部分に「財」があてられるようになる。この世でこの目に見える幸福や豊かさの神であり、女性性の象徴とも言える。 

 弁才天が祀られている場所には必ず水がある。祀り方に共通の形があるように見える。円形の池の中に、弁財天の祠がある。そこに至るには橋を渡って行く。離れ島に祀ってあるケースもある。その場合は、海が取り囲んでいる。 

 それを見た時、これはお母さんの子宮の中と思った。子宮は、再生を司る場。橋は参道で、祠を取り囲む水は羊水。○に□である。□は橋や参道だったり、階段や梯子だったりする。私たちの体の仕組みの中にも、大自然の摂理がある。私たちの人生にも大自然のリズムがある。大きなことと目の前の事をフィードバックしながら、死と再生といういのちの流動を、気体・液体・固体という、形を変えて地球に存在する水に重ねたのだろうか。

 ○と□という形は、他の場所にも見つけることができる。ミノアの祭礼の場、カラル遺跡の円形広場、アサナジのキバ、・・・・・そして日本の古墳。プラトンが書き残したアトランティスのイメージもそれに近い。 

 また日本では、弁財天の本当の姿は白蛇とされる。川の流れを蛇に喩えるのは、古代インドの伝統であり、サンスクリット語の「サラスヴァティー=サラスヴァティー・ナディ」は、雌蛇の意味がある。ヨガでの生体エネルギー・クンダリーニのように、水の女神サラスヴァティーは、白蛇のように母なる大地の体を走る。 

 水は、地球に住むいのちにとってかけがいのないもの。私たちの体の70%は水だ。胎児に至っては90%。私たちはそれを汚してしまったのだ。それでも水の愛は深く、その水によって私たちの体は浄化もされる。 

 サラスヴァティーの「サラス」は水の意と書いたが、「サラ」は自己(Sva)についての本質的な知識という意味もあり、彼女はそれを与える女神でもある。彼女はしばしば蓮の花の上に乗った姿で描かれるが、蓮の花は現実的な経験による絶対的な知識でもある。 

 さらさらと流れる川の水の音に、その傍らに住み、その音を聴きながら眠る生活は、どんなものであろう。水という音の真実の中に入り、静かに自己という真実を見つける生活かもしれない。 

 津波という形で水は来た。多くのいのちが空に還って、このことを大自然の大いなる愛と受け取り、乗り越えるには、私たちの思考の立ち位置を高くせねばならないだろう。不幸と思える事を、愛を持って受け入れることが出来た時に、私たちはいのちの源に触れる奇跡を起こすことができるのかもしれない。いのちという存在を、大自然の姿を通して、サラスヴァティーを育んだ古代インドの叡智に学ぶ時なのだろう。p40

 地中深くもぐってしまった女神サラスヴァティーが、夢となって今なぜ、私の意識に現れたのだろうか。p43

 これは、現前に存在する全てのものを肯定し許している態度だ。物事や他者に優劣や善し悪しの評価をせず、ただ心静かに起こっている事象をあるがままに見る。全ての存在を肯定し、許しているということは、その行為をしているその人自身をも肯定し許す。肯定できない、許していない心の地獄を作っているのは、その行為をしているその人自身の価値観やこだわりだからだ。

 ただ見る。子どものように素直に、ただ見る。大人になると、そのことがいかに難しいことなのか。人生の経験で身につけたその人らしさの内に在る不調和を、一枚一枚剥ぎ取る作業は、真ん中にある高次の自己にたどり着く作業でもある。

 それぞれが自分の内の不純を浄化した時に現れる世界は、どんなものだろう。素直にあるがままに世界を受け入れ、世界を愛し愛される関係にそれぞれが安らいでいる。そして、自分の世界と相手の世界が育てるものが、それぞれを更に豊かに変化させる。そんな世界を夢想する。p44

<7>につづく

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