こころでからだの声を聴く<03>
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<03>
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次
◆身体とマインドのつながり
ほとんどの問題は、心身相関的なものだ。というのも、身体とマインドはふたつの別個のものではないからだ。マインドは身体の内側の部分であり、身体はマインドの外側の部分だ。このため、あらゆることは身体で始まり、マインドに入ってくる。あるいはその逆---マインドで始まったものが、身体に入ってくる。そこに区別はなく、水も漏らさぬよう仕切りはない。
だから、ほとんどの問題にはふたつの側面があり、マインドを通しても、身体を通しても取り組むことができる。そして、これまではそれが世の中の慣例だったのだが、あらゆる問題は身体に起因すると信じる人々がいる---生理学者、パブロフ派、行動主義者たちだ・・・・・。彼らは身体を扱い、なるほど50パーセントのケースについては成功した。そして科学が発展すれば、もっと成功するだろうという望みを後世に託した。しかし彼らは、50パーセント以上は成功しないだろう。それは、科学の進展とは関係ない。
また、あらゆる問題はマインドに起因すると考える人々がいる---それもまた前者と同じように誤りだ。クリスチャン・サイエンスの信者、催眠術師、人を暗示にかける者たち---彼らは皆、問題はマインドに起因すると考える・・・・精神療法士も同様だ。彼らも50パーセントのケースには成功するだろう。彼らはまた、そのうちもっと成功するだろうと考えている。それはナンセンスだ。50パーセント以上は成功できない。それが限界だ。
私個人の理解では、ひとつひとつの問題は、両方の側面から同時に取り組むのがいい---両方の視点からの挟み討ちだ。すると、人は100パーセント回復する。科学が完全になれば、それはきっと両方向に働くだろう。
まず、身体から始める。身体はマインドの入口---玄関であるからだ。また、身体は粗いものなので、簡単に操れる。まず、積もり積もったあらゆる構造から身体を解放すること。そして同時に、マインドを引き下げていたすべての荷を降ろし、上昇していけるよう、マインドを勇気づけるのだ。
◆マインドと身体は別個なものではない
それを常に心しておきなさい。「生理的プロセス」、「精神的プロセス」なとと言ってはいけない。それはふたつのプロセスではない---ひとつである全体の、ふたつの部分にすぎない。
身体は同じエネルギーが個体の状態にあり、マインドは同じエネルギーが流体の状態にあると言える---同じエネルギーだ! だから、たとえ生理的に行う事柄でも、単純に生理的にとらえてはいけない。なぜそれがマインドの変容を促(うなが)すのだろうと、怪しんではいけない。酒を飲むと、マインドはどうなるだろう? 酒はマインドではなく、身体に取り込まれるが、マインドでは何が起こるのだろう? LSDを摂取すると、それはマインドではなく身体に入っていくが、マインドでは何が起こるだろう?
あるいは、断食をする場合、断食するのは身体だが、マインドでは何が起こるのだろう? あるいは逆に、性的な想念を想い描くと、身体では何が起こるだろう? 身体はすぐに影響される。マインドでセックスの対象を思い浮かべると、身体は用意をし始める。
20世紀初頭のウィリアム・ジェームスの学説は、いかにも不合理なものに見えたが、ある意味で正しかった。彼ともう一人の科学者ランゲが解明した説は、ジェームス=ランゲ説として知られるようになった。普通、私たちは怖がるから逃亡し、逃げるのだと言う。あるいは、怒るから目が赤くなり、敵を殴るのだと言う。だがジェームズとランゲは、まったく逆のことを唱えた。彼らは、逃げるから恐怖を感じるのだと言った。また、目が赤くなり敵を殴るから、怒りを感じるのだと言った。それは正反対なのだと彼らは唱えた。もしそうでないとしたら、目が赤くなく、身体も影響されておらず、ただ単に怒っているときの怒りというものを、ほんの一瞬でも見たいものだ。身体に影響が及ばないように怒ってみてごらん---すると、恐れないことがわかうrだろう。
日本では、子供に怒りをコントロールする簡単な手法を教える。怒りを感じたら、怒りに対しては何もせず、深呼吸を始めなさいと教える。やってごらん---すると怒れないだろう。なぜか? 深呼吸をするだけで、なぜ怒れなくなるのだろう? 怒ることは不可能になる。その理由はふたつある。あなたは深呼吸を始めるが、怒りには特定のリズムの呼吸が必要で、そのリズムがないと怒れない。怒りが存在するには、呼吸における特定のリズム、または混沌とした呼吸が必要だ。
深呼吸を始めたら、怒りは顔を出せなくなる。意識的に深呼吸していたら、怒りは表に出られない。怒りには異なる呼吸のパターンが必要だ。あなたが行う必要はない。怒りが自分でそうするだろう。深呼吸しながら怒ることはできない。
そして第二に、マインドが変わる。怒りを感じているときに深呼吸を始めると、あなたのマインドは怒りから呼吸へと移動する。身体は怒りの状態になく、マインドはその集中力を別のものに移動させている。すると、怒ることはむずかしい。だから、日本人は世界でもっとも抑制のきいた人々なのだ。それは、まさに子供時代からの訓練だ。
このような現象を他の土地で見つけるのは難しい。だが日本では、今日においてすら、それが起こっている。日本はまだすます日本的でなくなっているから、そうしたことはどんどん減ってはきている。日本はますます西洋化され、伝統的な手法や作法は失われつつある。だが、それは起こっていたし、今日でもまだ起こっている。
私の友人の一人が京都にいた。彼は私に手紙を書いてきた。「今日、すばらしい光景を目にしたのでお伝えします。そして帰国したら、どうしてそんなことが可能なのかお教えください。一人の男が車に当てられました。しかし彼は倒れてから立ち上がると、運転手に礼を言って立ち去りました---運転手に礼を言ったんですよ!」
日本では、それは難しいことではない。彼は何回か深呼吸をしたに違いない。だから、そうしたことが可能だったのだ。あなたの態度は別なものに変容され、あなたを殺そうとする人にさえ、あるいはあなたを殺そうとした人に対してさえも感謝できる。
生理的なプロセスと心理的なプロセスは、別物ではない。それらはひとつであり、どちらの極から始めても、他方に影響を及ぼし、変化させることができる。
◆人間を全体として治療する
より良い世界では、身体を治療する職業に従事する人は、それぞれ瞑想するだろう。身体が患っているとき、その裏には何かがあるはずだ。なぜなら、すべては交錯しているからだ。だから、身体を治療するだけでは治らない---その人の全体を治療しないといけない。だが、その全体を覗き込むには、自分の全体を覗き込む必要がある。
医者はみな瞑想者であるべきだ。さもなければ、真の医者になることはないだろう。学位を持ち、医者を開業する免許を持っているかもしれないが、私から見ればやぶ医者だ。なぜなら、彼は全体としての人間を知らないため、症状しか治療しないからだ。
ある人には、偏頭痛や頭痛といった特定の症状がある---あなたはそれを治療できる。だが、そもそもなぜその人が偏頭痛になるかについて、内側を深く見つめることはないだろう。ある女性は重荷を背負いすぎ、心労が重なり、気落ちしているのかもしれない。彼女は内側であまりにも委縮しているから、それが痛みをもたらすのかもしれない。ある男性は考え過ぎて、マインドをまったくリラックスさせられないのだろう。そこで症状を治療し、毒や薬によって症状を退治することは可能だ。だが、それは別の場所に現れるだろう。なぜなら、根本的な原因はまったく手付かずのままだからだ。
治療すべきは症状ではなく、治療すべきは人間だ。そして、人間というものは有機的かつ全体的だ。疾患は足かもしれないが、根本的な原因は頭かもしれない。根本的な原因は頭にあるが、疾患は足にあるかもしれない。なぜなら、人間というものはひとつだからだ・・・・・完全につながっている! 人間の内部では、何ひとつ分断されていない。また、身体はそれ自身の中でつながっているだけでなく、身体はマインドともつながっている。そして、身体とマインド---ソーマとプシュケの両方は、超越した魂につながっている。OSHO p23~28
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