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2013/06/29

こころでからだの声を聴く<05>

<04>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<05> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

◆二つの生き方 

 生き方、在り方、知り方には、二通りある---ひとつは努力、意志、エゴによるもの。もうひとつは無努力、存在へのゆだね(レット・ゴー)によるものだ。 

 世界の宗教はすべて最初の方法、すんわち闘うことをを教えてきた---自然と闘い、世界と闘い、自分自身の身体と闘い、マインドと闘う。そうしてはじめて、あなたは真実なるもの、究極なるもの、永遠なるものを成就できる。しかし、この力への志向、このエゴの道、この闘いや争いが完全に失敗だったことは、充分証明されている。何百万年もの間、生の究極の体験を成就した者はほとんどいない。あまりにすくないため、彼らは例外にすぎず、成就の法則を実証するものではない。 

 私は、二番目の方法を教える---存在の流れに逆らうのではなく、それと共に進むのだ。それは、あなたの敵ではない。河と闘って上流へ進もうとする人もいるが、すぐに疲れてしまい、どこにも辿り着かないだろう。河は広大で、彼はちっぽけな部分だ。 

 この広大な損座の中で、あなたは原始よりも小さい。どうして全体を相手に闘うことができるだろう? そうした考え自体、聡明さを欠いている。しかも、あなたは全体によってつくられた。どうして、それがあなたの敵になるだろう? 自然はあなたの母親だ---あなたと敵対などできない。身体はまさにあなたの命であり、あなたと対立することはあり得ない。あなたは絶えず身体と闘っている。あなたが起きているときもあなたに仕え、あなたが寝ているときでさえあなたに仕えている。呼吸を続けているのは誰だろう? あなたはぐっすり眠り、いびきをかいている。あなたの身体には、独自の英知がある。身体は呼吸を続け、心臓は鼓動を続け、あなたなしでも身体は機能し続ける。むしろ、あなたがいないときの方が、より良く機能する。あなたの存在は常に障害だ。それは身体に逆らえと教えてきた人によって、あなたのマインドが条件づけられているためだ。 

 私はあなたに、存在と友達になりなさいと教える。私は、あなたが世間を放棄することを望まない。なぜなら、世間はあなたのものであり、私たちのものだからだ。存在するものは、何ひとつあなたと対立していない。必要なのは、生きる術(アート)を学ぶことだ---放棄のアートではなく、歓喜のアートを。要点は、アートを学ぶということに他ならない。すると、あなたは毒を甘露(ネクター)に変えることができる。 

 さまざまな薬には、毒という言葉が記されているが、科学の専門家の手にかかると、毒は薬となる。それは、あなたを殺すのではなく救ってくれる。 

 自分の身体や自然や世間が、どこか自分と対立していると気づいたら、ひとつ思いだしなさい---それは自分の無知に違いない、それは何か間違った態度に違いないと。あなたは、生きる術(アート)を知らないに違いない。あなたは、存在が自分に対立することなどあり得ないということに気づいていない。あなたはそこから生まれ、その中で生き、それはすべてをあなたに与えてきた。なのに、あなたは感謝すらしていない。逆に、あらゆる宗教はそれを非難せよと、まさに始まりからあなたに教えてきた。 

 生を非難することを説く宗教は有毒だ。それは生に否定的だ---それは死の僕(しもべ)であり、あなたの僕でも、存在の僕でもない。しかし、なぜそのような問題が生まれるのだろうか? 

 こうした宗教は自然に逆らっていた。彼らは、こちらの世界に背を向けなければ、もうひとつの世界、より高次な世界は決して成就できないという論理をつくり上げた。なぜだろう? こちらの世界と、あちらの世界の間に、なぜそんな区別をつくったのか? それには理由がある。 

 この世界が放棄されることなく、全一に生きられるなら、聖職者はお払い箱だ。この世界と闘い、この世界を放棄すべきなら、あなたは自然の本能を抑圧しなければならない。すると当然、あなたは病んだ状態になる。自然に逆らえば、決して健康にも、ひとつのまとまりにもなれない。あなたは常に分割され、精神分裂症的になるだろう。当然ながら、あなたは導き助けてくれる人を求める---聖職者を必要とする。 

 罪の意識があるとき、あなたは自然と教会やモスクやシナゴークへ足を運ぶ---あなたは聖職者や牧師やラビに助けを求める。あなたは深い闇の中にいるからだ---その闇がつくられたのは彼らのせいなのだが、あなたはあまりにも無力なため、庇護してくれる人、手助けをしてくれる人、光を示してくれる人を必要とする。あなたは懸命に求めるあまり、聖職者があなたよりも物事をよく弁(わきま)えているかどうか、あるいは、彼がただの雇い人であるかどうかなど、考えてもみない。 

 あなたの問題は基本的に、自分のいる場所で、自分自身の内側を見ることだ。そして、もしあなたが苦しみ、悩み、心配し、苦悩しているとしたら、何かが人生に欠けていると思うのなら、もし満たされていないとしたら、どこにも何の意味も見出せなくて、ただ死に向かってだらだらと進んでいるとしたら・・・・。闇はますます濃くなり、死は日毎に近づいてくる---今は深遠な神学的問題について語り始めるときだろうか? 今はあなたの在り方を変えるときだ。あなたには時間があまりない。 

 あらゆる宗教が説いてきた手法は、闘う手法だ---それらは、どこにも導かない。生の歓びを損なうばかりだ。この生における楽しいことすべてに毒を注ぐ。それらは、悲しげな人類を生み出してきた。私は愛にあふれ、歌にあふれ、ダンスにあふれる人類を望む。 

 だから、私の手法は第二の手法であることを、よく理解してほしい。第二の手法とは、流れに逆らって上流へ向かってはいけないということ---それは愚かだ。闘うことはできない。なぜなら、自然の流れはあまりにも大きく、あまりにも強いのだから。最良の方法は、死体から学ぶといい。死んでいる人々は、生きている人々が知らない秘密をいくつか知っている。 

 泳ぎ方を知らないと、生きている人は溺れる。これは奇妙なことだ。なぜなら、死んでしまうと再び水面に浮き上がってくるからだ。生きていたときは下降し、死ぬと上昇する。確かに死人は生きている人間が知らないことを知っている。何が起こったのだろう? なぜ川と海は、死人に異なる作用をするのか? 死人は完全にゆだね(レットゴー)の状態にある。泳いですらいない。死人は何もしていない。 

 もっと優れた泳ぎ手は、ただ浮かんでいる。死体のような究極の泳ぎ手は、ただ流れとともに進む。川が導くところへ、どこへでも進む---川は常に海へと注ぐ。どの川も海に注ぐ。だから、自分が聖なる川にいるかどうか、心配する必要はない。神聖であってもなくても、すべての川はやがて海に辿り着くことになっている。あなたはただ、川と共に浮遊し続ける。そして、私はこれを信頼と呼ぶ---どれがどこに導こうとも、それは正しい道に導いてくれるし、正しい目的地に導いてくれると存在を信頼すること。存在は、あなたの敵ではない。自然を信頼しなさい---それがどこへあなたを連れていこうと、そこには我が家(ホーム)があると。 

 全人類が、闘うことではなくリラックスすることを学んだら、困難な努力よりもゆだねる(レットゴー)を学んだら、意識の質は大きく変化するだろう。リラックスした人々は、川の流れと共にただ静かに進む。自分自身の目的地を持たず、エゴを持たずに。 

 そのようにくつろいで浮かんでいたら、エゴは持てない。エゴは努力を要する---あなたは何かをしないといけない。エゴは行為者だ。浮くことで、あなたは無為の人になる。この無為の中であなたは驚くだろう。いかに心配事や苦悩が次第に薄れていくか、そしていかに存在が与えてくれるものに満たされていくかに。 

 スーフィーの神秘家の話をしよう。 

 彼は旅をしていた。彼は毎晩のように存在に感謝していた---「あなたはとても多くのものを与えて下さったのに、私はそれに報いることができませんでした。この先も報いることはできないでしょう」。彼の弟子は少しばかり反感を抱いた。なぜなら、生はときに困難を伴ったからだ。 

 スーフィーの神秘家は、反逆的な人物だった。今回は3日間、食べ物にありつけなかった。というのも、彼らが正統派のイスラム教徒でないという理由で、通りかかった村々は、どこも彼らを拒んだからだ。彼らは、スーフィーの革新的なグループの一員だった。人々は、彼らに、一夜ですら宿を提供しようとしなかった。そこで、彼らは砂漠で眠った。腹は空き、喉も渇いて早3日が過ぎた。夜の祈りのとき、神秘家はまたしても存在に言った。「私はとても感謝しています。あなたはとても多くのことのして下さったのに、私たちはまったくお返しをすることもできないのです」 

 弟子の一人が言った。「ひどすぎますよ。もう3日です。存在が私たちのために何をしてくれたか。お聞かせ願いたいものですね。あなたは存在に何を感謝しているのですか?」 

 老人は笑った。彼は言った、「存在が私たちのために何をしてくれたか、おまえはまだ気づいていないのかね。この3日間は、私にとって実に意義深かった。腹は空き、喉は渇き、宿もなかった。私たちは拒まれ、非難された。石も投げつけられたが、私は自分の内側を見つめていた---怒りは生じなかった。私は存在に感謝している。その贈り物は測り知れない。それらに報いることは決してできない。3日間の餓え、3日間の渇き、3日間の不眠、石を投げる人々・・・・それでも私は、敵意も怒りも憎しみも失意も抱かなかった。それは、あなたの慈悲に違いない、存在が私を支えて下さっているに違いない」

 「この3日間で、実にさまざまなことが明らかになった。もし食事が与えられ、もてなしを受け、宿をあてがわれ、石を投げられなかったとしたら、それは明らかにならなかっただろう---なのにおまえは、私が何を存在に感謝しているのかと尋ねる。たとえ自分が死につつあるときでも、私は存在に感謝するだろう。なぜなら私は知っているからだ---たとえ死においても、生においてもそうだったように、存在は私に神秘を明かすだろうと。死は終わりではなく、まさに生のクライマックスなのだから」

 存在と共に流れることを学びなさい。そうすれば罪悪感も精神的な痛手もないだろう。自分の身体、自然、そして何ものとも闘ってはならない。するとあなたは、やすらぎ、くつろぎ、穏やかになり、落ちつくだろう。

 これは、あなたがより注意深くなり、より気づき、より意識的になることを助ける。それは最終的に究極の覚醒---解脱という大海へと続く。OSHO p37~44

<06>へつづく

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