ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン 『現代詩手帖』特集 <2>
「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」
「現代詩手帖」 2012年7月号特集1 思潮社 雑誌
★★★★★
1)「For the Children 」(2013/04 新泉社)を読み進めるため、この現代詩手帖を読みなおしてみることにした。スナイダーを読み始めたのは「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」(1975/12 社会思想社)からだ。「亀の島」(Turtle Island、1974年)や、「終わりなき山河」(Mountains and Rivers Without End、1996年)などスナイダーの代表作と目される作品は多い。
2)「野生の実践」(The Practice of the Wild、1990年)、「ノー・ネイチャー」(No Nature、1992年)、「惑星の未来を想像する者たちへ」(A Place in Space、1995年)など、まとまった文章も多い。
3)しかし、当ブログとしては、その最も始原的なスタートを「The Back Country」 (奥の国 1967年) においておきたい。そこには、ゲーリーが手掛けた宮沢賢治の英訳があるからだ。
4)そして、もっとも最新のスナイダーの消息とすれば、この現代詩手帖にまとめられた特集がもっとも新しくなるのではないか、と思う。
5)今回、当ブログにおけるVol.3を締めるにあたり、またこの現代詩手帖を読む必要を感じた。正直言って、前回は、ちょっとがっかりし、意気消沈した。ああ、こんなもんかい、現代詩。スナイダーもこんな連中に取り囲まれてかわいそうだな。
6)そう思ったのが正直なところだが、今回読みなおしてみて、最初からあまり期待していなかっただけに、むしろ、前回読み落としていた小さなディティールが、ぐっと生き返ってきているところもあるようだった。
7)息子にはこう指摘されました。「お父さん、一世代遅れでない?」と。私の今の生活は19世紀と21世紀の組み合わせです。薪ストーブを使い、鉄の器具で料理し、斧や鋸といった道具も使っていますが、コンピュータやファックス、プリンター、衛星からのメールを受け取るアンテナもあります。私はそれを理想的なバランスだと考えています。p27「太平洋をつなぐ詩のゆうべ」
8)この詩の集まりは、3・11後に開かれたが、企画されたのはその半年前であり、このような形になったのは、それなりに必然性があった。そこのところが良く理解できていなかったので、私は不満だったのだ。3・11より前に、この集まりでは、「詩」があったのだ。
9)スナイダー 「悪」という言葉は使いません。あまりに二元論的なのです。哲学的、形而上的に言えば、万物のなかに「悪」はないと考えています。あるのは「大いなる無知」と「過ち」だけです。p29同上
10)この想いが、スナイダーのどこか腹の据わった落ち着いた雰囲気につながってくると思う。重要なポイントだ。決して、原発推進派を糾弾したりしない、かといって一貫して脱原発の姿勢を保つスナイダーの基本中の基本に思える。
11)私としては日本のカウンターカルチャーの行方にどのような見解をもっているのか興味があって、そのことを尋ねた。驚くべきことにその答えは、「たぶんカウンターカルチャーという言葉はもはや使われていないと思います」に始まるものだった。
「日本人のなかには、部族とナナオとその仲間がカウンターカルチャーであると考えているかもしれません。それは的外れであると言わなくてはならないでしょう。それはわずかな人々です。しかし、日本は変わり、他の社会の影響を受け、世界のカウンターカルチャーは広がりを見せました」と述べ、現在、日本において、原子力発電の継続について懐疑的になっていることや、アメリカで起こっている富裕層に対するデモ活動もカウンターカルチャーであると言っている。
またフェミニズム運動もカウンターカルチャーを経由して拡大したと述べている。カウンターカルチャーが、現代社会における、人間だけでなく、全生命の権利の尊厳を確立する文化的役目を担ってきたことに気づかされた。p47高橋綾子「カウンターカルチャーはどこにでもある」
12)この確信こそ、スナイダーがバランスよく世の中を眺め、自信をもって、ゆったりと生きているように見える根源がありそうだ。
13)私は子どものころ、牛や鶏の世話や庭の手入れに薪割りなど、農家の仕事の一部を任されていました。そして、柵を越えたところの森のなかでも多くの時間を過ごしました。森ではのんびり散歩したり、狩りをしたり、植物採集をしたり、自由に遊ぶことができました。スナイダー「松山への道」 p49城戸朱理「開かれた世界」
14)この部分に共感をしめす、私達の同世代も大いに違いない。ここの文章など、私自身の体験と言ってもおかしくない。このような生活は、ちょっと前までは当たり前の風景だった。たぶん全世界的に標準なのだ。このあたりが、根源的にスナイダーの立っている地平と、自分が立っている地平が、すぐそばでつながっている、と多くの人に感じさせる所以であろう。
15)リップラップ
この言葉をおくのだ
精神のまえに石のように。
しっかり、両手で
しかるべき場所に、据えるのだ
精神という肉体のまえに
時空のなかに。 p23「リップラップ」
16)この雑誌の特集の中でも、何度もこの部分がリフレインされる。精神という肉体、という言葉。
17)スナイダー そうですね。「精神という肉体」と「肉体という精神」この二つの言葉は同義だとも言えます。肉体がなければ精神は存在できないし、ものを考えることもできない。人間は、この「現象としての世界」で学習し、決断し、行動し、区別する。そうやって「考える」ことを学ぶのです。
だから”精神”とは、その人を取り巻く環境によって出来あがっているもので、”肉体”もまた「現象としての世界」からえたものによって変化を続けるものです。だから”精神”と”肉体”は本来密接に関係しあっているのです。
この詩は、ある意味でそのメタファーを言うこともできて、物理的な活動は精神がなければいけない。自分たちはときにそれを見過ごしてしまう。認識をきちんとしていないかもしれない、といったことへの喩えです。p23「太平洋をつなぐ詩のゆうべ」
18)3・11という「災害」は、私たちに、ひとつの環境を与えてくれている。そのプレイスに対応する精神、スピリットこそが、今問われている。そして、その精神、スピリットこそが、環境の変化を乗り越えていく。
リップラップ
この言葉をおくのだ
精神のまえに石のように。
しっかり、両手で
しかるべき場所に、据えるのだ
精神という肉体のまえに
時空のなかに。
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