大沼 安史・翻訳 「超」学校―これが21世紀の教育だ <2>
<1>からつづく
ダニエル グリーンバーグ (著), Daniel Greenberg (原著), 大沼 安史 (翻訳) 1996/12 一光社単行本 282p
★★★★★
1)この本、読みとおすのに結構時間がかかった。最初の30ページほど読み進めたところで、止まってしまった。そして、本の成り立ちやスタイルを了解するまですこし時間がかかった。しかし、読み終わってみれば、うん、面白かった、次なる「『超』教育」やら「『超』育児」とは何ぞや、と興味も湧いてくる。少なくとも続巻達を読み進めるのは、これでだいぶ楽になったはず。
2)サドベリー・バレー校は、型にとらわれない時代の先端を行くクールな学校です。決められたコースも、学科もありません。すべては、子どもたちの好奇心に始まり、好奇心に終わります。つまり、子どもたちは時間の流れを我が物としているのです。それは中断することがありません。p90「熱狂、そして流行」
3)紹介文や論文を読むなら、この程度で終わるのであり、ふむふむなるほどね、そんな学校もあるだろう、と次なるものに関心が移っていく。だが、この本、小説とも、ドキュメンタリーとも言えるこの本に長時間つきあってみれば、その言っている意味が、ひとつひとつ形を伴って理解することができる。
4)一段登ったところで、わたしは感動しました。わたしを乗せてくれている枝の見事な美しさに打たれたのです。その力強さと居心地のよさ。あるいは、わたしを包み込む畏れに似た思い・・・・。
わたしがブナの木を初めて「見た」といったのは、そういうわけだったのです。「見た」と表現するほかない、何かをわたしは感じたのです。
わたしたち大人はともすれば、自分たちのことを物識りだと思っています。そして、子どもたちは学ばなければならないし、教え込まれるべきだと考えています。が、それこそ、おおきな間違いなのです。p121「年齢ミックス」
5)感動すること、体験すること、挑戦すること、など、加齢とともにどんどん失っていく資質である。子どもたちと過ごす時間は、子どもたちに対する何か、も大切ではあろうが、それ以上の何かを確かに与えてくれる。だから、人は大人になっても「学校」が「好き」なのだ。
6)サドベリー・バレー校の教育の核心にあるのは、子どもたちを格付けしないという、わたしたちのポリシーです。子どもたちを比べたり、設定した基準に照らして評価したりしません。わたしたちにとって、そんな行為は、子どもたちのプライバシーと自己決定権の侵害でしかありません。p149「評価」
7)私はPTAのOBとして、教育委員会の学校評価システムの検討委員の一人であったことがあり、学校そのものをどう評価するのか、ということを考えさせられたことがある。子どもであれ、学校であれ、客観視され、相対化されることは、避けては通れないのだが、そのことが優先し、独り歩きするのは望ましくない。少なくとも、何かの時の参考にとどめるべきである。
8)当時、アメリカ社会は沸騰していました。政治的な大闘争で国は分裂し、怒りと暴力が充満していたのです。学校もまた、その例外ではありませんでした。
アメリカの至るところで、新しい学校が生まれました。既存の学校では満足できない教師や活動的な父母、あるいはまた政治的なセクト、ときには反逆に立ち上がった学生や生徒がつくった学校です。その多くが「フリースクール」のレッテルを貼られました。
しばらくすると、それは「オルタナティブ(新しい)・スクール」と呼ばれるようになったのです。そして、呼び名は、教育の本流の外に位置する学校の総称として、今なお使われています。
サドベリー・バレー校は、こうした「新しい学校」とは出自を異にしています。わたしたちは、広大な歴史的背景と学習理論、アメリカの人間が織りなして来たユニークな経験をバックに、自らの哲学と目標を築き上げたのです。
1968年という激動の年に学校をオープンするこおとになったのは、巡り合わせに過ぎません。運命のいたずらでサドベリー・バレー校は、マサチューセッツ州の東部地域で当時、唯一、十代の子を受け入れる「新しい学校」となったのです。p153「避雷針」
9)この本を読み始めたのは、翻訳者のブログに紹介があったからであった。この学校を知るよりも、翻訳者のことを知りたかった。この邦訳がでた1996年と言えば、翻訳者は47才くらい。プライバシーは存じ上げないが、一般に、十代の子どもたちの親の世代である。
10)我が家の子供たちも成長の過程にあった。私自身も、子どもたちの成長とともに、町内会青年部、父親の会やPTA、あるいは学校評議員などで、その現場に関わった。すべてがベストという訳ではなかったが、その活動の総体は、私自身ための、二度目の「学校」という感じがした。
11)もうひとつ思うこと。翻訳者の現在(2013年)のパートナーが企画・制作した「『ひとりじゃないよ』~不登校・ひきこもりの子どもと共に」(エルパーク仙台 2001/03)に、この邦訳の情熱が引き継がれていったのだろう、ということ。この小さなリーフレットの中でも、この翻訳者が一文を添えている。
12)このパートナーと、私たちは2010~2011年頃、エコビレッジの可能性を探っていた。そのスペースは、屋久島の山尾三省たちの村と同じ北斜面にあり、同じくらいのスペースだった。アメリカのゲーリー・スナイダーのキッドキッドディジーは、この更に4倍の大きさだという。具体的に与えられたスペースに、よりリアリティを感じたし、夢ももった。
13)実際には、私たちの夢は、3・11によって中断に追い込まれている。福島の東電原発から数十キロ以内にあり、線量がいちいち気になるエリアである。すべての原因を事故に押しつけることはできない。私個人でいえば、いまいち情熱に欠けていた。多少の困難を乗り切るほどのエネルギーが、いまいちない。
14)あの時、仲間たちと山の木々の間の山道を歩きながら、彼女が彼女なりにイメージしていたのは、どんなことだっただろう。きっと、どこかで、このサドベリー・バレー校のことが具体的なイメージとしてあったと想像すると面白い。
15)あのスペースに、アメリカ・マサチューセッツ東部で展開したような動きを期待することは、決して荒唐無稽ではない。いつかは、その花が開く可能性は残してある。
16)ゲーリー・スナイダーの最新刊「For the Children 子どもたちのために」(2013/4 新泉社)を横に置きながら、この本を読み進めた。思うに、スナイダーは大学で教えたりはしているが、決して十代の子どもたちと学びあう「学校」を作ろうとしていたわけではなかった。あるいは三省にしたところで、屋久島に渡る前は大学予備校で講師をして生活をささえ、あるいは晩年には沖縄大学で記念講義もした。しかし、ふたりとも「学校」を作り、運営をしようとしたわけではなかった。
17)もっと大きなくくりで言えば、この世自体が「学校」なのであり、学びの筈なのである。その小分けとして十代のための学校や、大学なども存在するだろう。
18)わたしたちサドベリー・バレー校のスタッフのほとんどが、学校時代、同じような目に遭っています。わたしの場合はとくにひどくて、12年に及ぶ学校生活を通して、教師や学校当局者による気侭な権威の乱用にビクビクしながら暮らしていました。だから、わたしたちスタッフは、決意を固めたのです。サドベリー・バレー校を、そんな学校には決してしないと。p247「自由と正義」
19)「12年に及ぶ学校生活を通して、教師や学校当局者による気侭な権威の乱用にビクビクしながら暮らしていました」という部分に共感する読者も多いに違いない。私もその一人だ。だからこそ、私は「学校」に多くの夢を持っていないが、著者や翻訳者たちは、(たぶん)親として、自分の子どもたちは、そんな学校には行かせたくない、と思ったに違いない。
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