For the Children 子どもたちのために ゲーリー・スナイダー<2>
<1>からつづく
ゲーリー・スナイダー (著), Gary Snyder (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真)2013/4/23 新泉社 単行本: 143p
1)ひいきのひいき倒しになるのは嫌だから、まず、スナイダーとか三省、野草社のI氏などへの違和感をメモしておこう。ダイレクトに悪口とか、陰口とか批判とか、言ってもいいのだが、まぁ、違和感というべきか、距離感というべきか、依って立つべき位置の確認をしておきたい。
2)まずスナイダー。かっこいいな~と思う。彼は自分でもかっこいいと思っていると思う。そしてそのことを恥じない。めげない。引っ込まない。それに比して、私なんぞは、かっこいい人にはなりたいのだけど、シャイで、陰に隠れて、自信がない。これでいいのかなぁ、といつも思ってしまう。
3)スナイダーにはいろいろ文句はあるけれど、一番文句があるのは、どうやら三度結婚していること。日本人やら日系の奥さんを、とっかえひっかえ、というイメージさえある。まぁ、硬質な感じの彼の面相からすれば、逆にそのことが陰陽になっているとは言える。
4)あとそうだなぁ、言えるのは、彼はアメリカに育った人だし、私たちより20年も前に生まれてきた人だ、ということ。あるいはね、もうちょっと言うなら、私も1950年代のアメリカにいたんだよね。だけどOn the Roadで交通事故で亡くなった。ハートは一緒だが、私は私なりに、生まれなおすことにした。そこのところに、互いの差異がある。
5)それと、3・11震災後に東北を訪ね、松島をも訪れている。その時に風景が「現代詩手帖」 (2012年7月号 思潮社)に特集されているのだが、私はこれが好きではない。というか、編集が徹底的に悪い。おい、それがアメリカ現代詩のトップの東北の訪問記か、というような内容になっていた。これは、もう一回再読しよう。
6)そして三省だが、古い話では、私が三省の存在を知った1970年代初半において、生活のためとは言え、どうやら大学予備校の講師をしているという話だった。これが、まず大嫌い。こちらは大学を拒否して旅を始めているのに、先達たちが、予備校講師で生活しているとは、何事か、と今でも怒りがある。
7)そして、長じては、いわゆる三省の三つの遺言という奴だが、結局は、自分ができなかったことを、子孫や後輩にやってくれ、というのは無理だろう。そんなこと、自分でやれよ、と言いたい。自分でやれなかったのなら、あきらめろよ、とさえ言いたい。
8)神田川の水を飲めるようにしろだって? そりゃ無理だよ。いまどき、都市を流れる川にそのまま飲料水として使えるように期待するあんたのほうがおかしい。そして、原発をなくせと。言うは易し、行うは難し。私なんぞは、自家発電に挑戦中だが、だからと言って、原発などなくなりゃせんぞ、こりゃ。
9)憲法9条だって、平和憲法だって、いつまで存続するかわからない。ましてや三省のいうごとくグローバルな世界標準になんかならない。いやいつかはなるかも知れない。あと何世紀か何十世紀かしたら・・・・。でも、三省は死んでしまったし、私たちの世代だって、あと何年、何十年生きるか分からない。数十年で、わが世代はすべて死に絶える。それまでは、三省の夢は、まず無理だね。
10)そして思う。東京生まれでありながら、屋久島に引っ込むなんてずるい。東京をなんとかしてほしかったな。その場を借りなければ、三省は三省でなかったのか。あるいは、みんな屋久島に行ってしまえばいい、という訳でもないだろう。残されてあるものがあるではないか。
11)晩年は、アニミズムという言葉で括った三省だが、どうもこれもいただけない。テクノロジーとか科学に対する目が、どうも一元的過ぎる。この辺はスナイダーのほうが、素直だ。ITを取り入れたり、ソーラーシステムをいち早く実用化している。三省にはその目がない。三省の空間なら、男はともかく、女性は嫌がるかもよ。例えばうちの奥さんなんかを説得することはできない。まぁ、ここが三省エピゴーネンになれない、私の最大の理由だが。
12)あと、どうかな、三省の悪口。そうそう、部族仲間の山田塊也(ポン)の「三省教」批判なんてのも、私は面白おかしく読むけどなぁ。ポンもポンだが。これは当然、その信者たちである取り巻きが悪いわけだが、そのような取り巻きを作ってしまう三省のエネルギーの作り方に、何か根本的な瑕疵があるのではないか、とさえ、実は私は思っているのだ。つまり、どうも作られているイメージがいまだに残る。
13)それと、この本や三省の復刻本に力を発揮している野草社のI氏だが、彼にもまた、違和感がいまだに残る。山岸会の特講のインストラクターをしていた、というのがどうも好きではない。その体質が今でも残っているのではないか。その前は、なにやら学生運動やら、出版やら、どこか地下水脈的な妖しさが残る。
14)それと、実体験として不思議に思ったのは、スピリット・オブ・プレイスの時、別の分科会のパネラーだった彼は、Aの分科会が終わったあとに、参加者が違うという設定であったにせよ、Bの分科会で、まったくすっかり同じ基調講演をしたことだった。メモも見ないで、しかも感動的に、身振り手振りで講演をした。
15)たまたまスタッフとして、二つに参加していた私は、私はこれはどうなのかな、と思った。原稿を読むならそれもよし。だが、いかにも思い出したように、まるっきり同じ講演を二度(もっとやっているのかもしれない)やる神経というのが、私にはわからなかった。それって、お芝居じゃん。
16)と、まぁ、思いつくまま、この本の関係者たちに対して、あることないこと、いっちゃもんをつけてみた。もっとあるかもな。でもこれって、私のカタルシス。そして本音。こうして、ひとつのラインを引いておけば、私は無理にこの人たちのエリアに、不必要に引っ張られることもないだろう。
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17)私は、スナイダーも、三省も、I氏も好きだけど、私は当然ながら、スナイダーでも、三省でも、I氏でもない。彼らに啓発されつつ、私は私のプレイスを生きるのである。
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