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2013年6月の54件の記事

2013/06/30

こころでからだの声を聴く<07>

<06>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<07> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆「ねばならない」という幻想 

 私たちの教育全体---家庭、社会、学校、専修学校、大学での教育は、私たちの緊張を作り出している。そして、その根本的な緊張は、あなたがなさねばならないことをしていない、という点にある。 

 これは、生涯あなたにつきまとう。白昼夢のようにあなたについてきて、あなたを悩ませ続ける。決してあなたを休ませてくれず、決してくつろぐことを許さない。あながくつろぐと、それは「何をしてるんだ? くつろいでいてはいけない。何かをしているべきだ」と言う。あなたが何かをしていると、それは「何をしてるんだ? 絶対に少し休まないといけない。さもないと、気が狂ってしまうぞ---おまえはすでに瀬戸際にいる」と言う。 

 あなたが良い行ないをしていると、それは「おまえはバカだな。善行なんて割に合わないぞ。人々はおまえを騙すだろう」と言う。悪い行いをしていると、それは「何をしてるんだ? おまえは地獄行きの準備をしている。苦しむことになるぞ」と言う。それは、決してあなたを休息させてくれない。あなたが何をしても、それはそこにいて、あなたを非難している。 

 この非難する者は、あなたの中に住みついている。これは人類に降りかかった、最大の不幸だ。私たちの内側にいる、この非難する者を排除しないかぎり、私たちは真に人間にはなれないし、真に楽しむこともできず、生の本領である祝祭に加わることもできない。 

 そして今のところ、自分以外は誰もそれを落とせない。これは、あなただけの問題ではない。ほとんど人類すべえの問題だ。どの国に生まれようと、どの宗教に属していようと関係ない---カトリック、共産主義、ヒンドゥ教、イスラム教、ジャイナ教、仏教、あなたがどんなイデオロギーに属していようと関係なく、根本は同じだ。その根本的なものは、あなたに分裂をつくり出そうとする。そのため、ある部分は常に別な部分を非難する。第一の部分に従うと、第二の部分があなたを非難し始める。あなたは内なる葛藤、内戦の中にいる。 

 この内戦を落とすことだ。さもないと、生の美しさや祝福をすべて取り逃すだろう。決して心ゆくまで笑うこともできず、愛することもできず、何に対しても全一(トータル)でいられないだろう。そして全一であってはじめて、人は花開き、春は訪れ、あなたの生は色彩と音楽と詩を帯び始める。  

 全一であってはじめて、突如として神の臨在が自分のまわりに感じられる。しかし皮肉なことに、その分裂はえせ聖者、聖職者、教会によってつくり出されてきたものなのだ。実のところ聖職者こそ、この世でもっとも大きな神の敵だ。 

 私たちは、聖職者をすべて排除しなければならない。彼らこそ、人類の病理の根本的な原因だ。彼らは、あらゆる人を不安にさせてきた。神経症という伝染病を引き起こしてきた。そして神経症はあまりに蔓延しえいるから、私たちはそれを当たり前だと思っている。人生なんてこんなものだ、これが人生というものだと思っている---苦悩、延々と続く苦悩、痛みに満ち、苦悶させる存在、空騒ぎの自叙伝。 

 人生とでも呼べそうなものを眺めれば、そのように見える。なぜなら、そこには一輪の花もなく、ハートには一つの歌もなく、一条の神聖な光もないからだ。 

 全世界の知性的な人々が人生の意味を問うているのも、驚くことではない。「なぜ我々は生きてゆかねばならないのか? なぜ生きてゆくことに憶病なのか? なぜ少しばかりの勇気を奮い起こし、この馬鹿げたことをすべて止められないのか? なぜ自殺できないのか?」 

 世界でこれほど多くの人々が、人生は完全に無意味だと思っていることは、いまだかつてなかった。なぜ、この時代にこんなことが起こったのだろう? 第一に、それはこの時代とは無関係だ。何世紀もの間、少なくとも5千年にわたって聖職者たちが害を及ぼしてきたのだ。今、私たちは決定的な危機に瀕している。 

 それは私たちの仕業ではない。私たちは被害者だ。私たちは歴史の被害者なのだ。もう少し意識的になりたいと望むなら、まず歴史書をすべて焼くことだ。過去は忘れなさい---それは悪夢のようだった。もう一度、ABCから始めなさい---アダムが再び生まれたかのように、自分たちが再びエデンの園にいるかのように始めなさい---無邪気で、穢れなく・・・・。 

 ある男が、いい教会を探していたところ、信者たちが牧師と唱和している小さな教会が見つかった。彼らは言っていた。「私たちは為すべきだったことをしていません。そして、為すべきではなかったことをしてしまいました」 

 男は崩れるように椅子に腰をおろし、安堵のため息をついて独り言をつぶやいた。「ありがたい。少なくとも仲間をみつけたってわけだ」 

 あなたの本性が望むことをしなさい。本来あなたに備わっている質が切望することをしなさい。教典の言うことを聞いてはいけない。自分のハートに耳を傾けなさい。それが私の定める唯一の教典だ。そう、ごく注意深く、意識的に耳を傾けなさい。そうすれば、決して間違えることはない。自分のハートに耳を傾けるなら、あなたは決して分割されない。自分のハートに耳を傾けると、何が正しく何が間違っているか、まったく考えなくても正しい方向の中にいるだろう。 

 だから、新しい人類のための術(アート)のすべては、意識的に、鋭敏に、注意深くハートに耳を傾けるちう秘訣に基づく。どんな手段によってもそれに従い、それが導く所にはどこにでも行きなさい。そう、ときにはそれはあなたが危険へいざなう---でも、そのときは思い出しなさい、そうした危険は、自分が成熟するために必要なのだと。また、ときにそれはあなたを迷わせる---転んでは再び立ち上がることによって、人は力をつけるのだから。このようにして人は統合されていく。 

 だが、外側から強制された規則に従ってはいけない。強制された規則に正しいものはあり得ない。なぜなら規則は、あなたを支配したい人々が捏造するものだから。そう、ときおり光明を得た偉大な人たちも世の中にいた---仏陀、イエス、クリシュナ、モハメッド。彼らが世界に規則を与えたことはない、彼らは愛を与えた。だが、やがて弟子たちが集まり、行動規範を記し始める。ひとたび師(マスター)がいなくなり、ひとたび光が消えて深い闇に包まれると、人々は従うべき特定の規則を求め始める。なぜなら、見えていた光が、もはやそこにないからだ。今や彼らは、規則に依存せざるを得ない。 

 イエスの行ったことは、彼自身のハートのささやきだったが、キリスト教徒たちが行い続けていることは、彼ら自身のハートのささやきではない。彼らは模倣者だ---そして模倣した瞬間、あなたは自らの人間性を侮辱し、あなたの神を侮辱する。 

 決して模倣者であってはならない。常に自分自身(オリジナル)でありなさい。写し(コピー)になってはいけない。しかし、それが全世界で起こっていることだ。コピー、そしてさらに多くのコピー・・・・。 

 自分自身であるなら、生はまさにダンスだ---そして、あなたは自分自身であるように生まれついている。また、二人として同じ人間はいない。だから私の生き方は、あなたの生き方には決してなり得ない。 

 師(マスター)の精神を吸収し、沈黙を吸収し、彼の優美さを学びなさい。彼の実存から、できるだけ多くのものを吸収しなさい。だが、彼を模倣してはいけない。彼の精神を吸収し、彼の愛を飲み干し、彼の慈悲を受け取っていると、あなたは自分のハートのささやきを聞き取れるようになるだろう。そして、それらはささやいている。ハートはとてもひっそりと、小声で話す。叫んだりはしない。 

 教わってきたことは、すべて忘れなさい---「これは正しい、これは間違っている」。生はそんなに固定的ではない。今日は正しいことが、明日には誤っているかもしれない。この瞬間は誤っていることが、次の瞬間には正しいかもしれない。生は整理分類できない。「これは正しい、これは間違っている」と簡単にレッテルを貼ることはできない。生とは、すべての瓶にレベルが貼られ、どれが何であるかわかるようにな薬店ではない。生は謎だ。ある瞬間には、何かが調和しており、それは正しい。別の瞬間には、おびただしい水がガンジス川を流れ下り、もはやそれは現状にそぐわず、間違っている。 

 私にとって正しさの定義とは何か? 存在と調和しているものは正しく、存在と不調和なものは間違っている、ということだ。あなたは、あらゆる瞬間に油断なくあらねばならない。なぜなら、それは瞬間ごとに新たに決められるべきだからだ。何が正しく何が間違っているのか、既成の答に頼ることはできない。 

 生はとても早く流れる---生は劇的に変化するものであり、静止してはいない。生は淀んだ水溜りではなく、ガンジス川のようであり、流れ続けている。ふたつの瞬間の間、それは決して同じではない。だから、この瞬間には正しいことも、次の瞬間には正しくないかもしれない。 

 では、どうしたらいいか? 唯一できることは、人々に気づきを持たせることだ---変化する生に、どう対処るかを自分で決められるように。 

 古い禅の話がある。 

 ライバル同士の寺院がふたつあった。双方のマスターたち---彼らは、えせマスターだったに違いない。本当は聖職者だったに違いない。彼らは、互いに強く反発し合っていたので、決して相手の寺院に目を向けてはならないと、弟子たちに言いきかせていた。 

 それぞれの聖職者には、使いや用事などをして仕える少年がいた。一方の寺院の聖職者は、召使の少年に言いきかせた、「絶対にあちらの少年に声をかけてはいかんぞ。あいつらは危険だ」 

 だが、少年はとはそんなものだ。ある日、彼らは路上で出会い、一方の寺院の少年は、もう一人の少年に尋ねた。「どこへ行くんだい?」 

 もう一人は、「どこであれ。風が連れていく所さ」と答えた。「どこであれ、風が連れていく所だ」と言ったのは、彼が名高い禅の故事を寺院で耳にしていたからに違いない。生粋(きっすい)の道(タオ)の名言だ。 

 だが、一方の少年はとても不愉快に思い、気分を害した。どう答えていいのか、わからなかったからだ。少年は「マスターは、こいつらと口をきいてはいけないと言った。こいつらは本当に危険だ。さて、これはまた何という答えだろう? あいつは私に恥をかかせたんだ」と思い、葛藤と怒りと罪悪感を覚えた。 

 彼はマスターのもとに行き、一部始終を話した。「あいつに話しかけてしまって、申し訳ありません。あなたは正しかったです。あいつらは本当に変わっています。何と言う返事でしょう? 私は「どこへ行くんだい?」と尋ねました---ありふれた形式的な質問です。彼が私と同じように、市場へ行こうとしているのはわかっていました。でも彼は、『どこであれ、風が連れていく所さ』と言ったんです」 

 マスターは言った、「注意したおいたのに、言いつけを守らなかったんだな。では、こうしよう。明日、おまえは再び同じ場所に立つ。そいつが来たら、『どこへ行くんだい?』と尋ねるのだ。するとそいつは、『どこであれ、風が連れていく所さ』と言うだろう。そうしたら、おまえも少し哲学的になる。『君に脚がないとしたら、どうする? 魂は肉体を持たないし、風は魂をどこへも連れていけない!」と言うのだ。これでどうだ?」 

 少年は一晩中それを何度も繰り返し、完璧に準備をした。そして翌朝、とても早くからそこに行き、例の場所に立った。すると、時間どおりにもう一人の少年が再びやって来た。少年はとても嬉しかった。今度は自分が、真の哲学とは何かを示すのだ。少年は尋ねた、「どこへ行くんだい?」。そして待った・・・・ 

 だが、もう一人の少年は言った。「市場へ野菜を買いに行くのさ」 

 さて、彼が学んだ哲学はどう扱ったものだろう?

 生とはそうしたものだ。あなたは準備できない、あなたは用意できない。それこそ生の美しさであり、不可思議さだ。それはいつも不意に現れ、思いもかけず訪れる。もしあなたに眼があるなら、すべての瞬間が驚きであり、既成の答えは決して当てはまらないことがわかるだろう。

 私はあなたに、生の本質的な法則を簡単に教えよう。自己に忠実であり、自らの灯火となり、その光に従うのだ。そうすれば、こうした問題は決して起こらない。そのとき、あなたが行なうことは、すべてを為すべきことだ。また、あなたが行なわないことは、すべて為す必要のないことだ・・・・。

 生と関わる唯一の方法、生に遅れを取らない唯一の方法とは、罪悪感のないハート、無垢なハートを持つことだ。教わってきたこと---何をすべきで、何をすべきでないか---それらはすべて忘れなさい。あなたのために決めてくれる人は、あなた以外に誰もいない。

 あなたのために決めたがる偽善者たちを避けなさい。手順を自分自身の手に取るのだ。自分で決断すること。実のところ、まさにその決断力の中で、あなたの魂が生まれる。あなたのために他の者たちが決めているときは、あなたの魂は眠っていて鈍いままだ。自分自身で決断し始めると、鋭さが芽生える。決断するということはリスクを負うことであり、決断するということは間違えるかもしれないということだ。誰にもわからない。どれがリスクだ。保証はまったくない。

 古いものには保証がある。大勢の人たちが、それに従ってきた。これほど多くの人が正しいと言うのなら、それは正しいに違いない。

 個人になるために必要な、あらゆるリスクを引き受け、そしえ挑戦を受け容れなさい---それがあなたを研ぎ澄まし、あなたに聡明さと知性を与えることができるように。

 真理とは信じる心ではなく、透徹した知性だ。それは、あなたの生の隠れた源泉が燃え立つことであり、意識に光が当てられる体験だ。しかしそれが起こるには、ふさわしいスペースを整えなければならない。そのふさわしいスペースとは、ありのままの自分を受け容れるということだ。何ひとつ否定してはいけない。分裂してはいけない。罪悪感を抱いてはいけない。 OSHO p48~57

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こころでからだの声を聴く<06>

<05>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<06> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

◆身体はあなたの友人 

 あらゆる宗教が、自然と闘えとあなたに教えてきた。自然なものはすべて避難される。 

 あらゆる宗教は言う---なにか不自然なことをしなさい。そのときはじめて生物的、生理的、心理的な囚われ、すなわちあなたを取り巻くあらゆる壁から抜け出せる。だが、自分の身体やマインドやハートと調和するなら、自己を超えることはできない---そのように宗教は言う。それこそ、私があらゆる宗教に反対する店だ。宗教はあなたの実存に有害な種を蒔いた。そのせいで、あなたは身体の中で生きながら、自分の身体を愛していない。 

 身体は70年、80年、90年、100年でもあなたに仕える。科学は、身体に匹敵するような別のメカニズムを発明できていない。その複雑さ、それがあなたのために行ない続けている奇跡・・・・でも、あなたは礼すら言わない。あなたは身体を的として扱うが、身体はあなたの友人なのだ。 

 それは、あなたが目覚めている間も、眠っている間も、ありとあらゆる方法であなたを世話している。眠っているときに蜘蛛が脚を這い始めると、脚はあなたを邪魔せずに蜘蛛を放り出す。脚には独自の小さな脳がある。だから、些細なことなら中枢システムにまで行く必要はない---脳まで行く必要はない。その程度のことなら、脚は独自に行える。蚊に刺されていたら、あなたは手を払ったり、殺したりする。しかも、あなたの眠りは妨げられない。つまり、身体はあなたが眠っている間もあなたを守り、たいていあなたも気づかないことを行っている。手には脳などないt思われているが、手には確かに、ごく小さな脳としか呼ばざるを得ないものがある。おそらく、あなたの身体の各細胞には、小さな脳があるのだろう。そして、あなたの身体には無数の細胞があり、無数の小さな脳がせっせと働いて、絶えず世話をしている。 

 あなたは飲み込んだらどうなるかなど気にかけないで、あらゆる種類のものを食べ続ける。自分が食べているものを、身体のメカニズムや化学反応が消化できるかどうか、身体に尋ねることもない。だが、あなたの内側の化学反応は、ほぼ100年にわたって何とか働き続ける。傷ついた箇所に取って替わる、自動的なシステムがあるのだ。それは損傷のある箇所を取り除き、新しいものをつくり続ける。あなたは何もしなくていい。それは自ずと起こる。身体には、何らかの独自の英知がある。 

 宗教はあなたに語り続ける、「常に闘い、流れに逆らって進みなさい。身体に耳にを傾けてはならない---身体が何を言おうと、正反対のことをするがいい」。ジャイナ教は語る。「身体が飢えている---飢えさせるがいい。身体を飢えさせなさい。身体は、そのように扱われる必要がある」。身体はあなたから何の賃金も受けず、無給で、便宜も計らわれず、ひたすらあなたに仕えている。なのに、ジャイナ教は身体に逆らえと説く。身体が眠りたくなると、ジャイナ教は目覚めたままでいるように努めよと説く。 

 こうしたことは、確実にあなたに強いエゴの力を与える。身体が食べ物を求めると、あなたはノーと言う。「ノー」は身体に対して強い力を持つ。あなたが主人(マスター)だ。あなたは身体を奴隷に貶(おとし)めている---奴隷にするばかりか、身体に口を閉ざすように強制している---「私が決めたことは、何であれ実行されるだろう。おまえは邪魔できないぞ」 

 自分の身体と闘ってはいけない。身体は、あなたの敵ではなくて友人だ。自然からあなたへの贈り物なのだ。身体は自然の一部だ。それは、ありとあらゆつ形で自然とつながっている。あなたは風とつながり、ひの光とつながり、花々の芳香や月の光とつながっている。これこそ、私が奇跡と呼ぶものだ。 

 あなたは存在の一部、一区画だが、個別性をも有している。存在は奇跡をおこなっており、不可能なことを可能にしている。 

 自分の身体と調和しているなら、あなたは自然や存在とも調和しているだろう。だから流れに逆らうのではなく、流れと共に進みなさい。ゆだねていなさい。生をあるがままに起こらしめなさい。何事も強いてはならない---たとえ聖なる書物のためであっても、たとえ聖なる理想のためだとしても。決して、あなたの調和を乱してはならない。 

 調和を保っていること、全体と合体していることよりも価値あることはない。 

 生を敬い、生を尊びなさい。生より神聖なものはないし、生より神々しいものはない。そして、生はたいそうな物事からできているわけではない。宗教界の愚か者たちは、「大きなこをとしなさい」とあなたに言ってきた。だが、生は小さな物事からできている。彼らの策略は明らかだ。彼らはあなたに言う。「大きなことをしなさい。何か偉大なこと、後世に名前が記憶されるようなことをしなさい」。こうしたことは、当然ながらエゴにとっては魅力的だ。エゴは聖職者たちの手先だ。すべての教会やシナゴークや寺院には、一人の手先がいる。すなわちエゴだ。彼らは他の手先は使わない。他には誰もいない。唯一の手先、それがエゴだ---何か偉大なこと、何か大きなことをせよという。 

 私はあなたに言いたい---大きなことや、偉大なことなど何ひとつないと。生はとても小さな物事からできている。だから、いわゆる大きなことに興味を抱くなら、あなたは生を取り逃がすだろう。 

 一杯のお茶をゆっくり飲み、友人と雑談し、朝の散歩に出かけ---でも特別どこに行こうというのではなく、目的も終りも引き返す地点もない、ただ散歩に出かけ、愛する人のために食事を作り、自分のために食事を作る---というのも、あなたは人の身体のことも愛しているからだ---服を洗濯し、床を掃除し、庭に水遣りをする。生は、こうした小さな物事、とても小さな物事からできている。 

 見知らぬ人に挨拶するのは、まったく必要のないことだ。見知らぬ人とは、何の関係もないのだから。だが、見知らぬ人に挨拶できる人は、は何も挨拶ができ、樹にも挨拶ができ、鳥たちに歌いかけることができる。鳥たちは日々歌っているが、あなたは彼らにまったく気を留めたことがない。しかし、いつの日か呼びかけに答えるべきだ。ほんの小さなこと、とても小さなこと・・・・・。 

 生を敬いなさい。その敬意を産物として、あなたは他のものたちの生命を敬い始めるだろう。OSHO P44~48

<07>につづく

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2013/06/29

こころでからだの声を聴く<05>

<04>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<05> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

◆二つの生き方 

 生き方、在り方、知り方には、二通りある---ひとつは努力、意志、エゴによるもの。もうひとつは無努力、存在へのゆだね(レット・ゴー)によるものだ。 

 世界の宗教はすべて最初の方法、すんわち闘うことをを教えてきた---自然と闘い、世界と闘い、自分自身の身体と闘い、マインドと闘う。そうしてはじめて、あなたは真実なるもの、究極なるもの、永遠なるものを成就できる。しかし、この力への志向、このエゴの道、この闘いや争いが完全に失敗だったことは、充分証明されている。何百万年もの間、生の究極の体験を成就した者はほとんどいない。あまりにすくないため、彼らは例外にすぎず、成就の法則を実証するものではない。 

 私は、二番目の方法を教える---存在の流れに逆らうのではなく、それと共に進むのだ。それは、あなたの敵ではない。河と闘って上流へ進もうとする人もいるが、すぐに疲れてしまい、どこにも辿り着かないだろう。河は広大で、彼はちっぽけな部分だ。 

 この広大な損座の中で、あなたは原始よりも小さい。どうして全体を相手に闘うことができるだろう? そうした考え自体、聡明さを欠いている。しかも、あなたは全体によってつくられた。どうして、それがあなたの敵になるだろう? 自然はあなたの母親だ---あなたと敵対などできない。身体はまさにあなたの命であり、あなたと対立することはあり得ない。あなたは絶えず身体と闘っている。あなたが起きているときもあなたに仕え、あなたが寝ているときでさえあなたに仕えている。呼吸を続けているのは誰だろう? あなたはぐっすり眠り、いびきをかいている。あなたの身体には、独自の英知がある。身体は呼吸を続け、心臓は鼓動を続け、あなたなしでも身体は機能し続ける。むしろ、あなたがいないときの方が、より良く機能する。あなたの存在は常に障害だ。それは身体に逆らえと教えてきた人によって、あなたのマインドが条件づけられているためだ。 

 私はあなたに、存在と友達になりなさいと教える。私は、あなたが世間を放棄することを望まない。なぜなら、世間はあなたのものであり、私たちのものだからだ。存在するものは、何ひとつあなたと対立していない。必要なのは、生きる術(アート)を学ぶことだ---放棄のアートではなく、歓喜のアートを。要点は、アートを学ぶということに他ならない。すると、あなたは毒を甘露(ネクター)に変えることができる。 

 さまざまな薬には、毒という言葉が記されているが、科学の専門家の手にかかると、毒は薬となる。それは、あなたを殺すのではなく救ってくれる。 

 自分の身体や自然や世間が、どこか自分と対立していると気づいたら、ひとつ思いだしなさい---それは自分の無知に違いない、それは何か間違った態度に違いないと。あなたは、生きる術(アート)を知らないに違いない。あなたは、存在が自分に対立することなどあり得ないということに気づいていない。あなたはそこから生まれ、その中で生き、それはすべてをあなたに与えてきた。なのに、あなたは感謝すらしていない。逆に、あらゆる宗教はそれを非難せよと、まさに始まりからあなたに教えてきた。 

 生を非難することを説く宗教は有毒だ。それは生に否定的だ---それは死の僕(しもべ)であり、あなたの僕でも、存在の僕でもない。しかし、なぜそのような問題が生まれるのだろうか? 

 こうした宗教は自然に逆らっていた。彼らは、こちらの世界に背を向けなければ、もうひとつの世界、より高次な世界は決して成就できないという論理をつくり上げた。なぜだろう? こちらの世界と、あちらの世界の間に、なぜそんな区別をつくったのか? それには理由がある。 

 この世界が放棄されることなく、全一に生きられるなら、聖職者はお払い箱だ。この世界と闘い、この世界を放棄すべきなら、あなたは自然の本能を抑圧しなければならない。すると当然、あなたは病んだ状態になる。自然に逆らえば、決して健康にも、ひとつのまとまりにもなれない。あなたは常に分割され、精神分裂症的になるだろう。当然ながら、あなたは導き助けてくれる人を求める---聖職者を必要とする。 

 罪の意識があるとき、あなたは自然と教会やモスクやシナゴークへ足を運ぶ---あなたは聖職者や牧師やラビに助けを求める。あなたは深い闇の中にいるからだ---その闇がつくられたのは彼らのせいなのだが、あなたはあまりにも無力なため、庇護してくれる人、手助けをしてくれる人、光を示してくれる人を必要とする。あなたは懸命に求めるあまり、聖職者があなたよりも物事をよく弁(わきま)えているかどうか、あるいは、彼がただの雇い人であるかどうかなど、考えてもみない。 

 あなたの問題は基本的に、自分のいる場所で、自分自身の内側を見ることだ。そして、もしあなたが苦しみ、悩み、心配し、苦悩しているとしたら、何かが人生に欠けていると思うのなら、もし満たされていないとしたら、どこにも何の意味も見出せなくて、ただ死に向かってだらだらと進んでいるとしたら・・・・。闇はますます濃くなり、死は日毎に近づいてくる---今は深遠な神学的問題について語り始めるときだろうか? 今はあなたの在り方を変えるときだ。あなたには時間があまりない。 

 あらゆる宗教が説いてきた手法は、闘う手法だ---それらは、どこにも導かない。生の歓びを損なうばかりだ。この生における楽しいことすべてに毒を注ぐ。それらは、悲しげな人類を生み出してきた。私は愛にあふれ、歌にあふれ、ダンスにあふれる人類を望む。 

 だから、私の手法は第二の手法であることを、よく理解してほしい。第二の手法とは、流れに逆らって上流へ向かってはいけないということ---それは愚かだ。闘うことはできない。なぜなら、自然の流れはあまりにも大きく、あまりにも強いのだから。最良の方法は、死体から学ぶといい。死んでいる人々は、生きている人々が知らない秘密をいくつか知っている。 

 泳ぎ方を知らないと、生きている人は溺れる。これは奇妙なことだ。なぜなら、死んでしまうと再び水面に浮き上がってくるからだ。生きていたときは下降し、死ぬと上昇する。確かに死人は生きている人間が知らないことを知っている。何が起こったのだろう? なぜ川と海は、死人に異なる作用をするのか? 死人は完全にゆだね(レットゴー)の状態にある。泳いですらいない。死人は何もしていない。 

 もっと優れた泳ぎ手は、ただ浮かんでいる。死体のような究極の泳ぎ手は、ただ流れとともに進む。川が導くところへ、どこへでも進む---川は常に海へと注ぐ。どの川も海に注ぐ。だから、自分が聖なる川にいるかどうか、心配する必要はない。神聖であってもなくても、すべての川はやがて海に辿り着くことになっている。あなたはただ、川と共に浮遊し続ける。そして、私はこれを信頼と呼ぶ---どれがどこに導こうとも、それは正しい道に導いてくれるし、正しい目的地に導いてくれると存在を信頼すること。存在は、あなたの敵ではない。自然を信頼しなさい---それがどこへあなたを連れていこうと、そこには我が家(ホーム)があると。 

 全人類が、闘うことではなくリラックスすることを学んだら、困難な努力よりもゆだねる(レットゴー)を学んだら、意識の質は大きく変化するだろう。リラックスした人々は、川の流れと共にただ静かに進む。自分自身の目的地を持たず、エゴを持たずに。 

 そのようにくつろいで浮かんでいたら、エゴは持てない。エゴは努力を要する---あなたは何かをしないといけない。エゴは行為者だ。浮くことで、あなたは無為の人になる。この無為の中であなたは驚くだろう。いかに心配事や苦悩が次第に薄れていくか、そしていかに存在が与えてくれるものに満たされていくかに。 

 スーフィーの神秘家の話をしよう。 

 彼は旅をしていた。彼は毎晩のように存在に感謝していた---「あなたはとても多くのものを与えて下さったのに、私はそれに報いることができませんでした。この先も報いることはできないでしょう」。彼の弟子は少しばかり反感を抱いた。なぜなら、生はときに困難を伴ったからだ。 

 スーフィーの神秘家は、反逆的な人物だった。今回は3日間、食べ物にありつけなかった。というのも、彼らが正統派のイスラム教徒でないという理由で、通りかかった村々は、どこも彼らを拒んだからだ。彼らは、スーフィーの革新的なグループの一員だった。人々は、彼らに、一夜ですら宿を提供しようとしなかった。そこで、彼らは砂漠で眠った。腹は空き、喉も渇いて早3日が過ぎた。夜の祈りのとき、神秘家はまたしても存在に言った。「私はとても感謝しています。あなたはとても多くのことのして下さったのに、私たちはまったくお返しをすることもできないのです」 

 弟子の一人が言った。「ひどすぎますよ。もう3日です。存在が私たちのために何をしてくれたか。お聞かせ願いたいものですね。あなたは存在に何を感謝しているのですか?」 

 老人は笑った。彼は言った、「存在が私たちのために何をしてくれたか、おまえはまだ気づいていないのかね。この3日間は、私にとって実に意義深かった。腹は空き、喉は渇き、宿もなかった。私たちは拒まれ、非難された。石も投げつけられたが、私は自分の内側を見つめていた---怒りは生じなかった。私は存在に感謝している。その贈り物は測り知れない。それらに報いることは決してできない。3日間の餓え、3日間の渇き、3日間の不眠、石を投げる人々・・・・それでも私は、敵意も怒りも憎しみも失意も抱かなかった。それは、あなたの慈悲に違いない、存在が私を支えて下さっているに違いない」

 「この3日間で、実にさまざまなことが明らかになった。もし食事が与えられ、もてなしを受け、宿をあてがわれ、石を投げられなかったとしたら、それは明らかにならなかっただろう---なのにおまえは、私が何を存在に感謝しているのかと尋ねる。たとえ自分が死につつあるときでも、私は存在に感謝するだろう。なぜなら私は知っているからだ---たとえ死においても、生においてもそうだったように、存在は私に神秘を明かすだろうと。死は終わりではなく、まさに生のクライマックスなのだから」

 存在と共に流れることを学びなさい。そうすれば罪悪感も精神的な痛手もないだろう。自分の身体、自然、そして何ものとも闘ってはならない。するとあなたは、やすらぎ、くつろぎ、穏やかになり、落ちつくだろう。

 これは、あなたがより注意深くなり、より気づき、より意識的になることを助ける。それは最終的に究極の覚醒---解脱という大海へと続く。OSHO p37~44

<06>へつづく

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2013/06/28

こころでからだの声を聴く<04>

<03>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<04> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

第2章 生への否定的な条件付けを読み解く

 あなたの唯一の義務は、幸せになることだ。幸せになることを信条としなさい。幸せでないとしたら、あなたのしていることはすべて、どこか間違っていて根本的な変革が必要だ。幸福を選びなさい。

 私は快楽主義者だ。そして、幸福こそ人間が手にすべき唯一の基準だ。

 だから、何かをするときは、常に起こることを見つめていなさい。家にいるようにやすらいで、心穏やかで、くつろいでいるなら、それは正しい。それが基準だ---それ以外のものは基準ではない。あなたにとって正しいことが、他人にとっては正しくないかもしれない。そのことも覚えておきなさい。なぜなら、あなたにとって簡単なことが、他人にとっては簡単ではないかもしれないからだ。その人にとっては、別のことが簡単かもしれない。だから、それに関する普遍的な法則はあり得ない。それぞれが自分で理解するといい。あなたにとっては何が簡単だろう?

◆なぜ私たちは不幸を選んでしまうのか

 これは、人間のもっとも複雑な問題のひとつだ。深く考察する必要がある。しかも、それは机上の問題ではない---あなたに関わる問題だ。常に間違った道を選び、常に悲しみ、落胆し、苦しむことを選んでしまう---これがすべての人の行動様式だ。それには深い理由があるに違いない。そして確かにある。

 第一に、育てられ方が明らかに影響を及ぼしている。不幸だと、あなたはそこから何かを得る---必ず得る。幸福だと必ず失う。

 ごく初期の頃から、鋭敏な子供は区別を感じ取る。悲しげなときは、いつも誰かが同情してくれ、子供は同情を得る。誰もがやさしくしてくれ、彼は愛を得る。そしてさらにすばらしいことに、悲しげなときはいつも見んが親切にしてくれ、注目される。注目は、エゴにとって食べ物のような働きをする。実に酒のような刺激物だ。それはエネルギーを与えてくれ、自分がひとかどの人物になったような気分にさせる。だから人は、注目されることに大きな欲求、大きな欲望を抱くのだ。

 誰もがあなたを見ていれば、あなたは重要になる。誰もあなたを見ていなかったら、あなたはまるで自分がそこにいないかのように、もはや自分は消え、存在しない者であるかのように感じる。人々があなたを見てくれていること、気づかってくれていることが、あなたにエネルギーを与える。

 エゴは関係性の中に存在する。人々があなたに注意を向ければ向けるほど、あなたはさらにエゴを得る。誰もあなたを見なかったら、エゴは消滅する。もし皆があなたのことを完全に忘れてしまったとしたら、どうしてエゴが存在できるだろう? どうやって自分の存在を感じられるだろう? だから結社や、団体や、クラブが必要なのだ。クラブは全世界にある---ロータリー、ライオン、フリーメイソンの支部---クラブや結社は無数にある。これらの結社やクラブが存在するのは、他の方法では注目を得られない人々に、注目を与えるために他ならない。

 ごく初期の頃から、子供は政治を学ぶ。その政治とは、惨めに見えれば同情を受け、誰もが親切にしてくれるというものだ。具合が悪そうだと、あなたは重要になる。病気の子供は横暴になる。家族全員が彼に従わなければならない---彼の言うことが、すべてのルールだ。

 彼が幸せなとき、耳を傾ける人は誰もいない。彼が健康なときは、誰も彼のことを気づかわない。彼がご機嫌なとき、注意を向ける者は一人もいない。ごく初期の頃から、私たちは苦悩や、悲しみや、悲観や、生の暗い側面を選び取り始める。それがひとつの現実だ。

 第二点は、こんなことに関わっている---あなたが幸せで、喜びに満ち、歓喜と至福を感じていると、必ず誰もがあなたに嫉妬する。嫉妬とは、誰もが敵意を抱き、親しげな人は一人もいないということだ。そのとき、全員が敵だ。そこであなたは、皆が自分に敵対しないよう、あまり歓喜にあふれずにいることを身につけてきた---至福を見えぬように、笑わぬように。

 笑っているときの人々を見てごらん。実に計算して笑っている。それは腹の底からの笑いではないし、まさに実存の深みからやって来る笑ではない。彼らはまずあなたを見て、そして判断する・・・・・それから笑う。彼らは一定の範囲内で笑う---あなたが許容する範囲、場違いだと受け取られない範囲、誰も嫉妬しない範囲で。

 微笑ですら政治的だ。笑いは消えてしまった。至福は完全に知られぬところのものとなった。歓喜にいたっては、ほとんど不可能だ。なぜなら、それは許されないものだからだ。あなたが苦悩していたら、誰もあなたのことを気違いだとは思わない。あなたが歓喜にあふれ、踊っていたら、誰もがあなたを気違いだと思うだろう。ダンスは追いやられ、歌うことは許されない。至福に満ちた人---そんな人を見たら、私たちは何かが間違っていると思う。

 これは何という社会だろう? 苦悩していれば、万事申し分ない---社会全体が苦悩しているから、その人は適応している。彼は一員であり、私たちは彼のことを、手に負えなくなった、気が狂ったと考える。彼は私たちには属していない---そして、私たちは嫉妬をおぼえる。

 嫉妬ゆえに、私たちは彼を非難する。嫉妬ゆえに、何とか彼を以前の状態に戻そうとする。私たちは、以前の状態を正常と呼ぶ。精神分析医や精神病院は、人を正常な苦悩の状態にするのを助ける。

 社会は歓喜を容認できない。歓喜はもっとも威力のある革命だ。私は繰り返す---歓喜はもっとも威力のある革命だ。人々が歓喜にあふれるなら、社会全体は変わらねばならないだろう。この社会は、苦悩に基づいているのだから。

 人々が至福に満ちていたら、彼らを戦争へ---ベトナムへ、エジプトへ、イスラエルへと連れて行くことはできない。それは無理だ。至福に満ちた人は、ただ笑って言うだろう---そんなものはナンセンスだ!

 至福に満ちた人々を、金の亡者にすることはできない。彼らは金を貯めることだけに一生を費やしたりしないだろう。死んでいる金と生を交換し、金を貯めて死ぬ---そうして生涯を台なしにするなんて、彼らにしてみれば狂気の沙汰に思える。死ぬとき、金はそこにあるだろう。これはまったく狂気の沙汰だ! しかし、あなたが歓喜にあふれぬうちは、この狂気の沙汰は理解できない。

 人々が歓喜にあふれているなら、この社会のパターン全体を変えなければならない。この社会は苦悩の上に存在している。この社会にとって、苦悩はもっとも大きな投資の対象だ。だから、私たちは子供を育てるが・・・・・ごく初期の頃から苦悩を習得するよう仕向けている。だから、子供たちは常に苦悩を選ぶのだ。

 朝、すべての人にひとつの選択肢がある。朝だけでなくあらゆる瞬間に、苦悩するか幸せでいるかの選択肢がある。あなたはいつも苦しむ方を選ぶ。なぜなら、それは投資だからだ。あなたはいつも苦しみ方を選ぶ。なぜならそれが習慣であり、パターンだからだ。あなたは常にそうしてきた。そうすることに長(た)けている。それは轍(わだち)となってしまった。選ばなければならない瞬間、マインドはすぐさま苦悩へとンがれル。

 苦悩は下り坂で、歓喜は上り坂のように見える。歓喜は、非常に到達しがたいもののように見える---だが、そんなことはない。真実はまったく逆---歓喜は下り坂で、苦悩は上り座かだ。苦悩は非常に達成しがたいものだが、あなたは達成してしまう。あなたは、不可能なことを成し遂げる---なぜなら、苦悩は自然に反しているからだ。誰もが苦しみたくないのに、誰もが苦しんでいる。

 社会はたいそうな仕事をやってきた。教育、文化、文化団体、両親、教師---彼らはたいそうな仕事をやってきた。彼あは歓喜にあふえた創造者から、苦悩に満ちた生き物をつくってきた。子供は皆、歓喜にあふれて生まれる。どの子供も、一人の神として生まれる。そして誰もが狂人として死ぬ。

これが、あながたの課題の全容だ---いかに子供時代を再び手にするか、いかにそれを取り戻すか。再び子供になれるなら、そのとき苦悩はない。子供には苦悩の瞬間がないという意味ではない---苦悩はある。だが、それでも苦悩はない。この点を務めて理解しなさい。

 子供は苦しむこともあるし、悲しむこともある。ある瞬間、深く悲しむが、その悲しみにとても全一(トータル)で、その悲しみとひとつだから分裂がない。悲しみから分離している子供はいない。子供は、悲しみから分離している子供はいない。子供は、悲しみを自分とは別個なもの、分離されたものとしては見ない。子供は悲しんでいる---その中に深く巻き込まれている。そして、悲しみとひとつになるとき、悲しみは悲しみではない。悲しみとひとつになるなら、それは独自の美しささえ備えている。

 だから、子供を見てごらん---穢れのない子供を。子供が怒っているとき、彼の全エネルギーは怒りになる。何ひとつ残されるものはなく、何ひとつ出し惜しみさえるものはない。子供は衝動にかられて怒った---怒りを操作し、制御している者はいない。無心だ。子供は怒りになった---怒っているのではなく、怒りになった。その美しさを見なさい、怒りの開花を。子供は決して醜くは見えない。怒りの中でも子供は美しく見える。より強烈に、よりエネルギッシュに、より生き生きと見える---火山は今にも噴火しそうだ。こんな小さな子供だが、実に強大なエネルギーを持ち、まさに原子力に匹敵するような存在だ---全宇宙が吹き飛ぶほどだ。

 そしてこの怒りのあと、子供は沈黙するだろう。この怒りのあと、子供は深いやすらぎに満ちるだろう。この怒りのあと、子供はリラックスするだろう。私たちは、怒りの中にいるのはとても苦しいことだろうと考えるかもしれない。しかし、子供は苦しんだりしない---子供はそれを楽しんだ。

 何かとひとつになるなら、あなたは至福に満ちる。何かから自分を分離させると、たとえそれが幸福であったとしても、あなたは苦しむ。

 だから、これが鍵だ。エゴとして分離していることは、あらゆる苦悩の土台だ。生がもたらすすべてとひとつになり、それと共に流れる。その中に強烈に全一に没頭するあまり、もはや自分がなくなり、失われてしまっているなら、すべては至福に満ちている。

 選択肢はそこにあるが、あなたは選択肢に気づきもしなかった。ずっと間違ったものを選択し続け、それが収監として染み付いてしまったため、あなたはただ自動的にそれを選んでしまう。選択の余地はない。

 注意することだ。自分が苦しむ方を選んでいるたびに思い出しなさい---これが自分の選択だと。こうした心がけさえも助けになる。これが自分の選択だ、責任は自分にある、そしてこれは自分が自分に対して行っていることだ。これは自分の行為だという留意、すぐに、あなたは違いを感じるだろう。マインドの質が変わってしまうだろう。幸せへと向かう方が簡単になるだろう。

 ひとたび、これは自分の選択だと理解したら、すべてはゲームになる。苦しむのが好きなら、苦しむといい。ただし、それが自分の選択であることを覚えておきなさい。そして不平を言ってはいけない。他人のせいではない。これはあなたのドラマだ。こんな感じを好むなら、苦しむ道を好むなら、苦悩の中で人生を送ることを望むなら、それはあなたの選択であり、あなたのゲームだ。あなたはそれを演じている。うまく演じるがいい!

 苦しまない方法を、人に尋ねに行ってはいけない。それは馬鹿げている。幸せになる方法を、師(マスター)や導師(グル)に尋ねに行ってはいけない。えせグルが存在するのは、あなたが愚かだからだ。あなたは苦悩を生み出し、それを生み出さない方法を人に尋ねに行く。そして、苦悩を生み出し続けている。それは、自分の行ないに注意を払っていないからだ。まさにこの瞬間から試みなさ。幸せになること、至福に満ちることを試みなさい。OSHO p29~37

<05>につづく 

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2013/06/27

こころでからだの声を聴く<03>

<02>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<03> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆身体とマインドのつながり 

 ほとんどの問題は、心身相関的なものだ。というのも、身体とマインドはふたつの別個のものではないからだ。マインドは身体の内側の部分であり、身体はマインドの外側の部分だ。このため、あらゆることは身体で始まり、マインドに入ってくる。あるいはその逆---マインドで始まったものが、身体に入ってくる。そこに区別はなく、水も漏らさぬよう仕切りはない。 

 だから、ほとんどの問題にはふたつの側面があり、マインドを通しても、身体を通しても取り組むことができる。そして、これまではそれが世の中の慣例だったのだが、あらゆる問題は身体に起因すると信じる人々がいる---生理学者、パブロフ派、行動主義者たちだ・・・・・。彼らは身体を扱い、なるほど50パーセントのケースについては成功した。そして科学が発展すれば、もっと成功するだろうという望みを後世に託した。しかし彼らは、50パーセント以上は成功しないだろう。それは、科学の進展とは関係ない。 

 また、あらゆる問題はマインドに起因すると考える人々がいる---それもまた前者と同じように誤りだ。クリスチャン・サイエンスの信者、催眠術師、人を暗示にかける者たち---彼らは皆、問題はマインドに起因すると考える・・・・精神療法士も同様だ。彼らも50パーセントのケースには成功するだろう。彼らはまた、そのうちもっと成功するだろうと考えている。それはナンセンスだ。50パーセント以上は成功できない。それが限界だ。 

 私個人の理解では、ひとつひとつの問題は、両方の側面から同時に取り組むのがいい---両方の視点からの挟み討ちだ。すると、人は100パーセント回復する。科学が完全になれば、それはきっと両方向に働くだろう。 

 まず、身体から始める。身体はマインドの入口---玄関であるからだ。また、身体は粗いものなので、簡単に操れる。まず、積もり積もったあらゆる構造から身体を解放すること。そして同時に、マインドを引き下げていたすべての荷を降ろし、上昇していけるよう、マインドを勇気づけるのだ。 

◆マインドと身体は別個なものではない 

 それを常に心しておきなさい。「生理的プロセス」、「精神的プロセス」なとと言ってはいけない。それはふたつのプロセスではない---ひとつである全体の、ふたつの部分にすぎない。 

 身体は同じエネルギーが個体の状態にあり、マインドは同じエネルギーが流体の状態にあると言える---同じエネルギーだ! だから、たとえ生理的に行う事柄でも、単純に生理的にとらえてはいけない。なぜそれがマインドの変容を促(うなが)すのだろうと、怪しんではいけない。酒を飲むと、マインドはどうなるだろう? 酒はマインドではなく、身体に取り込まれるが、マインドでは何が起こるのだろう? LSDを摂取すると、それはマインドではなく身体に入っていくが、マインドでは何が起こるだろう? 

 あるいは、断食をする場合、断食するのは身体だが、マインドでは何が起こるのだろう? あるいは逆に、性的な想念を想い描くと、身体では何が起こるだろう? 身体はすぐに影響される。マインドでセックスの対象を思い浮かべると、身体は用意をし始める。 

 20世紀初頭のウィリアム・ジェームスの学説は、いかにも不合理なものに見えたが、ある意味で正しかった。彼ともう一人の科学者ランゲが解明した説は、ジェームス=ランゲ説として知られるようになった。普通、私たちは怖がるから逃亡し、逃げるのだと言う。あるいは、怒るから目が赤くなり、敵を殴るのだと言う。だがジェームズとランゲは、まったく逆のことを唱えた。彼らは、逃げるから恐怖を感じるのだと言った。また、目が赤くなり敵を殴るから、怒りを感じるのだと言った。それは正反対なのだと彼らは唱えた。もしそうでないとしたら、目が赤くなく、身体も影響されておらず、ただ単に怒っているときの怒りというものを、ほんの一瞬でも見たいものだ。身体に影響が及ばないように怒ってみてごらん---すると、恐れないことがわかうrだろう。 

 日本では、子供に怒りをコントロールする簡単な手法を教える。怒りを感じたら、怒りに対しては何もせず、深呼吸を始めなさいと教える。やってごらん---すると怒れないだろう。なぜか? 深呼吸をするだけで、なぜ怒れなくなるのだろう?  怒ることは不可能になる。その理由はふたつある。あなたは深呼吸を始めるが、怒りには特定のリズムの呼吸が必要で、そのリズムがないと怒れない。怒りが存在するには、呼吸における特定のリズム、または混沌とした呼吸が必要だ。 

 深呼吸を始めたら、怒りは顔を出せなくなる。意識的に深呼吸していたら、怒りは表に出られない。怒りには異なる呼吸のパターンが必要だ。あなたが行う必要はない。怒りが自分でそうするだろう。深呼吸しながら怒ることはできない。 

 そして第二に、マインドが変わる。怒りを感じているときに深呼吸を始めると、あなたのマインドは怒りから呼吸へと移動する。身体は怒りの状態になく、マインドはその集中力を別のものに移動させている。すると、怒ることはむずかしい。だから、日本人は世界でもっとも抑制のきいた人々なのだ。それは、まさに子供時代からの訓練だ。 

 このような現象を他の土地で見つけるのは難しい。だが日本では、今日においてすら、それが起こっている。日本はまだすます日本的でなくなっているから、そうしたことはどんどん減ってはきている。日本はますます西洋化され、伝統的な手法や作法は失われつつある。だが、それは起こっていたし、今日でもまだ起こっている。 

 私の友人の一人が京都にいた。彼は私に手紙を書いてきた。「今日、すばらしい光景を目にしたのでお伝えします。そして帰国したら、どうしてそんなことが可能なのかお教えください。一人の男が車に当てられました。しかし彼は倒れてから立ち上がると、運転手に礼を言って立ち去りました---運転手に礼を言ったんですよ!」 

 日本では、それは難しいことではない。彼は何回か深呼吸をしたに違いない。だから、そうしたことが可能だったのだ。あなたの態度は別なものに変容され、あなたを殺そうとする人にさえ、あるいはあなたを殺そうとした人に対してさえも感謝できる。 

 生理的なプロセスと心理的なプロセスは、別物ではない。それらはひとつであり、どちらの極から始めても、他方に影響を及ぼし、変化させることができる。

◆人間を全体として治療する

 より良い世界では、身体を治療する職業に従事する人は、それぞれ瞑想するだろう。身体が患っているとき、その裏には何かがあるはずだ。なぜなら、すべては交錯しているからだ。だから、身体を治療するだけでは治らない---その人の全体を治療しないといけない。だが、その全体を覗き込むには、自分の全体を覗き込む必要がある。

 医者はみな瞑想者であるべきだ。さもなければ、真の医者になることはないだろう。学位を持ち、医者を開業する免許を持っているかもしれないが、私から見ればやぶ医者だ。なぜなら、彼は全体としての人間を知らないため、症状しか治療しないからだ。

 ある人には、偏頭痛や頭痛といった特定の症状がある---あなたはそれを治療できる。だが、そもそもなぜその人が偏頭痛になるかについて、内側を深く見つめることはないだろう。ある女性は重荷を背負いすぎ、心労が重なり、気落ちしているのかもしれない。彼女は内側であまりにも委縮しているから、それが痛みをもたらすのかもしれない。ある男性は考え過ぎて、マインドをまったくリラックスさせられないのだろう。そこで症状を治療し、毒や薬によって症状を退治することは可能だ。だが、それは別の場所に現れるだろう。なぜなら、根本的な原因はまったく手付かずのままだからだ。

 治療すべきは症状ではなく、治療すべきは人間だ。そして、人間というものは有機的かつ全体的だ。疾患は足かもしれないが、根本的な原因は頭かもしれない。根本的な原因は頭にあるが、疾患は足にあるかもしれない。なぜなら、人間というものはひとつだからだ・・・・・完全につながっている! 人間の内部では、何ひとつ分断されていない。また、身体はそれ自身の中でつながっているだけでなく、身体はマインドともつながっている。そして、身体とマインド---ソーマとプシュケの両方は、超越した魂につながっている。OSHO p23~28

<04>につづく

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こころでからだの声を聴く<02>

<01>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<02> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

◆身体に耳を傾ける 

 身体に従いなさい。どんなやり方にしろ、決して身体を支配しようとしてはいけない。身体はあなたの礎(いしずえ)だ。ひとたび自分の身体を理解し始めたら、苦悩の99パーセントはあさり消えてしまう。 

 でも、あなたは耳を傾けない---これまでのところ、身体は言う、「やめて! 食べないで!」。あなたは食べ続ける。あなたはマインドの言うことを聞いている。マインドは言う、「これはとても味わい深くておいしい。もうちょっといこう」。あなたは身体の言うことを聞かない。身体は吐き気をもよおし、「やめて! もう充分だよ! 疲れちゃうよ!」と胃が言う。しかしマインドは「味見してみよう・・・・もうちょっとだけ」と言う。あなたは、マインドの言うことを聞き続ける。もし身体の言うことを聞けば、あなたの問題の99パーセントは楽に解消されるだろう。残りの1パーセントは単なるアクシデントであり、真の問題ではない。 

 しかし、ごく幼いころから、私たちは身体から注意をそらされ、身体から引き離されてきた。子どもは空腹で泣いているが、母親は時計を見る。医者は3時間後にしか子供にミルクを与えてはいけないと言ったからだ。彼女は子供を見ていない。子供こそ見るべき本当の時計なのに、彼女は壁時計ばかり見ている。彼女は医者の言うことを聞くが、子供は泣いていて食べ物を求めている。子供は今すぐ食べ物を必要としている。今すぐ食べ物を与えないなら、あなたは子供の注意を身体からそらす。あなたは子供に食べ物を与える代わりに、おしゃぶりを与える。さあ、あなたは騙し、欺いている。あなたは偽物、プラスチックを与え、身体への子供の感受性を惑わし、殺そうとしている。身体の英知は、発言を許されていない。代わりにマインドが介入している。子供はおしゃぶりになだめられ、眠り始める。時計が時間経過したことを告げると、今度は子供にミルクをあげなくてはならない。しかし今、子供はぐっすり眠っている。子供の身体は眠っているのに、医者が今ミルクをあげなさいと言ったから、あなたは子供を起こす。またしても、あなたは子供のリズムを壊してしまう。あなたは、ゆっくりゆっくり子供の存在全体を掻き乱す。やがて、子供は自分の身体の経路をすべて失ってしまう。自分の身体が何を欲しているのか、子供はわからなくなっている---自分の身体が食べることを望んでいるのか否かもわからないし、身体が愛を交わしたがっているかどうかもわからない。すべては外側から、何かに操作されている。彼は「プレイボーイ」誌を見て、愛を交わしているような気分になる。 

 さて、馬鹿げたことだ---これはマインドであり、マインドが信号を送っているにすぎない。その愛は、本物にはならない---ただのくしゃみ、重荷を降ろすこと以外の何ものでもない。それは、まったく愛などではない。どうして愛がマインドを通して起こるだろう? マインドは愛について何も知らない。それは義務になる。あなたは妻を持ち、夫を持ち、愛を交わさなければならない。生真面目に、規則的に、毎晩あなたは愛を交わす。そこにはもはや自発性はない。そしてあなたは心配する。なぜなら、自分はそれに満足していないと感じるようになるからだ。そして別の女性を探し始める。「たぶん、この女性は自分にふさわしい女性ではないのだ。たぶん、魂の伴侶(ソウルメイト)ではない。彼女は私のためにつくられたのではないし、私も彼女のためにつくられたのではない。彼女には気がそそられないのだから」と理屈をつけ始める。 

 女性が問題なのではないし、男性が問題なのでもない。問題は、あなたも身体の中にいないし、彼女も身体の中にいないということだ。身体の中にいるのなら、オーガズムと呼ばれる美しさに気づかぬ人はいないだろう。身体の中にいれば、オーガズミックな体験を通して神の最初の一瞥を知るだろう。身体に耳を傾け、身体に従いなさい。マインドは愚かだが、身体は賢い。そして、もし、身体に深く入っていったら、まさにその深みの中で、自分の魂を見出すだろう。魂は、身体の深みの中にひそんでいる。 

◆身体は奇跡だ 

 身体は途方もなく美しく、また途方もなく複雑だ。身体ほど複雑で精妙なものはない。あなたは身体について何も知らない。ただ。それを鏡の中に見たことがあるだけだ。内側から見たことは一度もない。もし見たことがあれば、それ自体がひとつの宇宙だ。それこそ神秘家たちがいつも言ってきたこと---身体は小宇宙だ。内側から見ると、身体は実に広大だ---無数の細胞があり、ひとつひとつの細胞は独自の生を営んでいる。各細胞は実に巧みに機能しており、それははほとんど驚異的で、不可能で、信じがたく思えるほどだ。 

 私たちが食物を食べると、身体はそれを意識や思考に代える。あらゆる瞬間に奇跡が起こっている。また、ひとつひとつの細胞は実に体系的に、秩序を保ち、内なるキ規律をもって機能している。それはほとんど不可能なことのように見える---無数の細胞があるのだ。あなた一人の身体には、60兆の細胞がある---60兆の魂が。ひとつひとつの細胞は、それ自身の魂を宿している。そして、何と適切に機能していることか! それらは統一性とリズムと調和(ハーモニー)のうちに機能している。また、同じ細胞が眼となり、同じ細胞が皮膚となり、同じ細胞が肝臓や心臓や骨髄やマインドや脳になっている。同じ細胞が変化する---そして特定の目的のための細胞となる。だが、それらは同じ細胞だ。しかも、何と順調に動き、精妙かつ静かに働いていることだろう。 

 その中に分け入り、その神秘の中に深く入っていきなさい。なぜなら、あなたはそこに根を張っているからだ。身体はあなたの大地であり、あなたは身体に根づいている。身体において、あなたの意識は、樹のようなものだ。あなたの思考は果実のようなものだ。あなたの瞑想は、花のようなものだ。だが、あなたは身体に根を張っており、身体がそれを支えている。身体は、あなたの行為のすべてを支えている。あなたが愛すると、身体はあなたを支える。あなたが憎むと、身体はあなたを支える。あなたが誰かを殺したいと思うと、身体はあなたを支える。あなたが誰かを守りたいと思うと、身体はあなたを支える。慈悲、愛、怒り、憎しみ---あらゆる場面において、身体はあなたを支えている。あなたは身体に根を張り、あなたは身体に育まれている。あなたが自分とは何者かを悟り始めるときでさえ、身体はあなたを支えている。  

 身体はあなたの友人であり、敵ではない。その言語に耳を傾け、その言語を読み解き、そして少しずつ身体という書物の中に入り、そのページを繰っていくにつれ、あなたは生の神秘そのものに気づくようになるだろう。それは凝縮した形で、あんたの身体の中に存在している。それは何百万倍にも拡大され、世界にあまねく存在している。 

◆身体の神秘 

 身体の中には、あらゆる神秘---全宇宙にある、あらゆる神秘が宿っている。身体は焦うちゅうだ。身体と宇宙の違いは、量的なものにすぎない。ひとつの原子が物質のあらゆる秘密を備えているように、身体は宇宙のあらゆる秘密を備えている。秘密を探し求めて外側へ行く必用はない。内側に向かえばいい。 

 それから身体を大切にすること。身体に敵対すべきではないし、身体を非難すべきでもない。身体を非難するなら、すでに神を非難したということだ。なぜなら、身体のもっとも深い奥底には、神が住んでいるのだから。神は住処(すみか)として、この身体をいいう家を選んだ。身体を尊び、身体を愛し、あなたの身体を大切にしなさい。 

 いわゆる宗教は、人間と身体の間にさまざまな対立をつくり出してきた。あなたは身体ではないということは真実だが、身体に対抗すべきだという意味ではない。身体は、あなたn友人だ。身体はあなたを地獄に連れて行くこともあるが、天国へも連れて行く。身体は乗物にすぎない。身体は中立だ---あなたがどこへ行きたいと思っても、身体には用意がある。身体は、途方もない複雑さ、美しさ、秩序を備えたメカニズムだ。自分の身体を理解すればするほど、畏怖の念は深まるだろう。では、宇宙全体についてはどうだろう? この小さな身体にさえ、実に多くの奇跡が存在する。だから私は、身体を神聖なるものの寺院と呼ぶ。 

 ひとたび身体に対するあなたの態度が変われば、内側へ向かうものはもっと容易になる。身体があなたに開かれるからだ。身体はあなたが入ってくるのを許し、その秘密を明かし始める。そもそもヨーガの秘密は、すべてこうして知られた。そもそもタオの秘密は、すべてこうして知られた。ヨーガは、死体を解剖することで生まれたのではない。現代医学は、死体とその解剖に基づいている。それは基本的に誤りだ。現代医学は、いまだに生きている身体を理解できていない。死体を解剖するのと、死体について何かを理解するのは、まったく別だ。まして、生きている身体について理解することは、完全に別物だ。現代科学には、生きている身体を理解するすべがない。理解する手立ては、身体をぶつ切りにし、切り開くことだけだ。しかし切った瞬間、それはもはや同じ現象ではなくなっている。茎や木に付いている花を理解するのと、花を切って解剖するのとは、完全に別のことだ。それはもはや同じ現象ではなく、その質は異なっている。 

 アルバート・アインシュタインという存在は、死体に何かを付け加えてできるものでは決してない。 

 ある詩人が死ぬ---身体はそこにあるが、詩はどこにあるだろう? ある天才が死ぬ---身体はそこにあるが、天賦の才はどこにあるあろう? 白痴の身体も、天才の身体も、違いはない。身体を解剖しても、その身体が天才のものか白痴のものか、理解できないだろう。それが神秘家のものか、もしくは生において何の神秘にも気づかなかった人のものか、理解できないだろう。それは不可能だ。なぜなら、あなたは家を調べているだけで、そこに住んでいた存在は、もういないからだ。あなたは、鳥のいなくなった鳥かごを研究しているにすぎない。そして鳥かごの研究は、鳥の研究ではない。それでもなお、身体はその中に神聖なものを含んでいる。 

 確実は方法は、自分の内側に入り、そこから---自分の実存のもっとも中心部に近いところから、自身の身体を見つめることだ。すると、それは途方もない歓びだ・・・・・身体が機能しているのを、動いているのを見るだけのことが。それは宇宙の出来事の中で、もっとも偉大な奇跡だ。OSHO p16~23

<03>につづく

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2013/06/26

こころでからだの声を聴く<01>

<00>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<01> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

第1章 身体の聡明さ 

 西洋医学の考えによると、人間は独立した単位(ユニット)---自然とは別個のものだ。これほど重大な過ちも他にないだろう。人間は自然の一部だ。人間の健康とは、他でもなく自然とともにくつろいでいることだ。 

 西洋の医療は、人間を機械的にとらえている---構造に支障がないところは問題ないというように。人間は有機的なユニットであり、病んだ部分だけを治療すればいいというものではない。病んだ部分とは、他でもなく有機体全体が困難に陥っているということだ。病んだ部分は、そこがいちばん弱いから目につくだけのことだ。 

 病んだ部分を治療すると、効き目があったように見える。だが、今度は別の場所から病気が現れる。あなたは、病んだ部分から病気が現れるのを防いだにすぎない---あなたはそこを強化した。でもあなたは、人間がひとつのまとまりであることを理解していない---人間は病気か健康かのどちらかであり、その中間はない。人間は、ひとまとまりの有機体としてとらえるべきだ。
 

 理解すべき重要な点は、身体は常にあなたに耳を傾ける用意があるということだ---でも、あなたは身体と語り合ったことも、コミュニケーションをとったことも、まったくない。あなたは身体の中にいて、身体を用いてきたが、まったく身体に感謝したことがない。身体は可能なかぎり聡明に、あなたに仕えている---仕え続けている。 

 自然はよく承知している---身体があなたよりも聡明であることを。なぜなら、身体の重要な事柄は何ひとつあなたに任されておらず、身体にゆだねられているからだ。たとえば、呼吸、心臓の鼓動、血液の流れ、食べ物の消化---それらは、あなたにゆだねられていない。さもなければ、あなたはとっくの昔に混乱していただろう。もし、あなたに呼吸がゆだねられたら、あなたは死ぬだろう。生き続ける見込みはない。 

 というのも、しょっちゅう呼吸を忘れてしまうからだ。喧嘩をすれば、呼吸を忘れてしまう。夜、眠るときは、心臓を鼓動させるのを忘れてしまう。 

 いったい、どうやって覚えておくつもりかね? また、消化のシステムがどれほどの働きをしているか、あなたは知っているだろうか? あなたは物を飲み込み続け、自分はたいそう働いていると思っているが、飲み込むことなら誰でもできる。 

 第二次世界大戦中、ある男が喉を貫通する銃弾を受けたことがあった。彼は死ななかったが、喉を通して飲み食いできなくなってしまった。管全体を閉じなければならなかったのだ。そこで医師たちは、彼の胃の脇にパイプ付きの小さな管をつくった。彼は、パイプに食べ物を入れることになった。しかし、そこには何の喜びもなかった。アイスクリームを入れているときでさえ・・・・・彼はとても憤慨していた。 

 彼は言った。「これでは・・・・・味がわからないじゃありませんか」 

 そこで、ある医師が提案した。「こんなふうにやってみなさい。まず食べ物を味わい、それからパイプに入れるのだ」。そして彼は、40年間そのようにした。彼はまず噛んで楽しんでから、食べ物をパイプに入れた。パイプは実にお誂え向きだった。なぜなら、あなたの体内にも、まさにパイプがあるからだ。それは皮膚の下に隠れているにすぎない。この不運な男のパイプは外に出ていた。掃除でも何でもできたから、それはあなたのパイプよりも優れていたと言える。 

 消化の全システムは、奇跡を行っている。小さな消化のシステムが行っていることを、すべて私たちが行うことになったら---食物を血液に変え、あらゆる成分を分別し、その成分を必要とされる場所へ送るには、大きな工場が必要になるだろう。と科学者は言う。ある成分は脳に必要で、血液で脳に運ばなければならない。他のものは別の場所---血液に、耳、骨、皮膚で必要とされる。身体はそのすべてを完璧に70、80、90年にもわたって行なう。でも、あなたはその英知を理解していない。 

◆身体の英知 

 聞いたことがあるかもしれないが、卑金属を黄金に変容させようと試みた錬金術師たちがいた。あなたの身体は、もっと優れたことをしている。あなたが絶えず体内に放り込んでいるあらゆる種類のがらくたを、身体は血液に変容させ、骨に変容させているのだ。血や骨だけでなく、そのがらくたを脳の栄養にも変えている。身体はアイスクリームやコカ・コーラから脳をつくり、その脳はラザフォードや、アルバート・アインシュタインや、仏陀や、ツァラトゥストラや、老子のような人を生み出す。ちょっと、その奇跡を見てごらん! 脳は、小さな頭蓋骨に収まっている非常に小さなものだ・・・・・。脳は、たったひとつでも世界のあらゆる図書館を収容できる。その容量は、ほとんど無限だ。脳はもっとも優れた記憶装置だ。同じ容量のコンピュータを作りたかったら、そのコンピュータを機能させるために何マイルものスペースが必要だろう。そして、科学はこれまで発展してきたが、アイスクリームを血液に変容させることはできていない。科学者たちは試みてきたが、アイスクリームを血液に変容させるのに必要な手掛かりを見つけられずにいる----アイスクリームから脳をつくる! たぶん、そんなことは起こらないだろう。もしくは、たとえ起こったとしても、それは脳を通じて起こるだろう。それもまた、脳の奇跡だ。 

◆身体に語りかける 

 ひとたび自分の身体とコミュニケーションをとり始めたら、事はとても容易になる。身体に無理強いする必要はない。身体を説得するといい。身体と闘う必要はない---それは醜く、暴力的で、攻撃的だ。そしてあらゆる種類の葛藤は、ますます緊張を生み出す。だから、どんな葛藤の中にも留まらないこと---やすらぎを心がけなさい。また、身体は神からのとてもすばらしい贈り物だから、それと闘うことは神を否定することになる。身体は神殿だ・・・・私たちはその中に収まっている。身体は寺院だ。私たちはその中で生きており、トータルに手入れをする必要がある---それは私たちの責任だ。 

 はじめのうちは、少し馬鹿々々しく思うかもしれない。というのも、自分の身体に語りかけるだなんて、私たちは教わったこともないのだから---だが、それを通して奇跡が起こる。私たちが知らないうちに、奇跡はすでに起こっている。私が話すとき、話すにつれて私の手は仕草(ジェスチャー)をする。私はあなたに話している---何かを伝達しているのは、私のマインドだ。私の身体は、それに従う。身体はマインドとの協調関係にある。

 手を挙げたいとき、何かをする必要はない---ただ単純に手をあげるだけだ。手を挙げたいと思うだけで、身体は従う---それは奇跡だ。ところが実のところ、生物学も生理学も、それがどんなふうに起こるのか、いまだに説明できない。なぜなら、思いは思いだからだ。手を挙げたいと思う---これは思いだ。この思いは、どんなふうに手への物理的なメッセージに変容されるのだろう? しかもまったく時間がかからない---ほんのわずかな間合か、ときにはまったく時間差(ギャップ)がない。

 たとえば、私が話すと、私の手は一緒に動き続ける---時間差がない。身体は、まるでマインドと平行して動いているかのようだ。それはとても繊細なことだ---いかに自分の身体に語りかけるかを学ぶといい。すると、多くのことが起こるだろう。p11~p16

<02>へつづく

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2013/06/23

手作り発電(大人の週末工作)、その後

 当ブロブにおける大人の週末工作である、手作り発電プロジェクトも、一段落した。発泡スチロールで作った風力発電用のプロペラは置く場所に困り、ガーデンハウスの天井に張り付つけることとなった。

Hane
 水力発電用の水車も、つりさげ用のオブジェと化しているではないか。大自然の中では余りにも小さいシステムだが、いざ室内に置くとなると、結構なスペース喰いである。

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 太陽光発電のパネルも、連日の熱暑の光を浴びて、別に性能が悪くなっているわけではないが、接着部分がボコボコに歪み始めた。。
Shd

 次なるステップのために、材料を集め始めている。廃棄直前の自転車を見つけては、タイヤに押しつけるシステムのリブダイナモも譲り受け、だいぶ溜まった。いつか、これらが全部同時に発光するシーンを思い浮かべる。

Rbd
 錆びついただいぶ古いものだが、ハブダイナモ付きタイヤを譲り受けて、手回し発電システムを作った。まずはこれが基本だ。これをどのように回すかが、課題なのである。

Tih

 リサイクル廃材だけで、いくらでも工作はできる。これほどまだまだ使えるのに、これらを経費をかけて廃棄しなければならない、という現代文明の、どこかに大きな瑕疵があるのだ。

Lhg
 一応、新品のハブダイナモも準備してある。自転車専門チェーン店で2300円なり。古いものと発電量はそう変わらないだろうが、ここまで投資すると、さあ、もう引き下がることはできないぞ、という気分になる。
Hbd
 100円ショップからは、USB扇風機を購入。210円なり。太陽光パネル・ソーラーチャージライト MA-551だと、3時間半回すことができる。しかし、扇風機として使うのではなく、逆に、このモーターを、発電器として使いたいと目論んでいるのだ。

F210

 ライトを点灯するだけならそれほど問題ではない。これをもっと大きな発電量にして、それらを充電するシステムが、今後の大人の週末工作なのである。それには、ちょとした電子工作も必要になるし、発電器そのものの自作も必要となる。本格的なバッテリーも必要だ。でも単純に投資するのではなく、リサイクル品で格安でつくりたいなぁ、というのが本音だったりする。

Akr

 ここにきて、発電と恐竜に憑依されてしまったのは、なにかわけでもあるのだろうか。何千万年、何億年というサイクルで考えなければならない、かつての地球の主人公・恐竜。そして、現代地球人のもっとも最新の発明、電気。これらが、ひとつの融合の中に溶け込んでいく必用がある。

Cz102

 それもこれも、これから地球の上に生きていくはずのニューマンたちのために。

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2013/06/22

OSHO関連本(講話を除く)リスト

OSHO関連本(講話を除く)リスト 編集中

「新瞑想法入門」

「ア・カップ・オブ・ティー」初期書簡集 スワミ・プレム・プラブッダ/訳 スワミ・アナンド・ソパン/訳 1989/07  めるくまーる

「こころでからだの声を聴く」

「私の愛するインド」

「瞑想---祝祭のアート」

「大いなる挑戦---黄金の未来」

「オレンジ・ブック」

「反逆のスピリット」

「英知の辞典」

「マイウェイ」

「私が愛した本」

「反逆のブッダ」

「黄金の華の秘密」

「隠された神秘」

「愛の錬金術」 上下

「秘教の心理学」

「グレート・チャレンジ」

「知恵の種子」

「死・終りなき生」

「魂の科学」

「探究の詩」

「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」マ・プレム・シュンニョ

「和尚との至高の瞬間(とき)」マ・プレム・マニーシャ

「ニューチャイルド」

「マイトレーヤ」

「ニュー・ウーマン誕生」

「新人類 未来への唯一の希望」

「OSHO:アメリカへの道」

「ゴールデン・チャイルドフッド」光輝の年代 Osho 幼年期を語る

「ゴールド・ナゲッツ」

「タントラ・ライフ」変容のヴィジョン

「OSHO ZEN TAROT」

「狂人ノート」 

「OSHO 21世紀への指導原理」パリトーショ

「夜眠る前に贈る言葉」

「大いなる挑戦---黄金の未来」

「生・愛・笑い」

「生命の歓喜」

「エンライテンメント」ただひとつの変革

「魂への犯罪」聖職者と政治家を語る

「究極の錬金術Ⅱ」

「マスターズ タッチ」サイキック・マッサージ サガプリヤ

「モジュッド」説明できない生を生きた人

「朝の目覚めに贈る言葉」

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2013/06/21

2013年上半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2012年下半期よりつづく

2013年上半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10 

(本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの本の感想に飛びます)

第1位
11

「For the Children 子どもたちのために」
  ゲーリー・スナイダー 2013/04 野草社/ 新泉社

第2位
222222222222

『THE RIVER STORY』~水鏡の中の不思議な世界~
石川裕人・作 2013/02 AZ9ジュニア・アクターズ結成20周年記念公演 宮城県大河原町えずこホール

第3位
33

「悟りのシンクロニシティ」  内なる引き寄せの法則  
リーラ・ラブガーデン (著), プラサード・デイビッド・ワンドレス (著), アルヴィナ・ワンドレス (著), 市場義人 (翻訳) 2013/03 ヒカルランド

第4位
44444444444444444

ウェブで政治を動かす!」 
津田大介  2012/11  朝日新聞出版

第5位
55

「 Kindleセルフパブリッシング入門」 電子書籍でベストセラー作家になろう 
小泉 俊昭  (著) 2013/04 日本実業出版社

第6位
66666666666

「アティーシャの知恵の書」下―チベットの覚者を語る 
OSHO 2013/06 市民出版社

第7位
77

「自分で作るハブダイナモ風力発電 +   」 (大人の週末工作)
川村康文著 2012/11 総合科学出版

第8位
88

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 
村上 春樹  (著) 2013/04 文藝春秋

第9位
99

「スマホ&タブレット 」なるほど便利!くらしで使える
岡嶋裕史他 (NHKテレビテキスト趣味Do楽) NHK出版 2013/03

第10位
101010

「『超保険』進化論」
「超保険」研究会 中崎章夫 2012/12 績文堂出版

次点
Jjj

「Kindle 新・読書術 」すべての本好きに捧げる本
武井一巳 (著) 2013/01 翔泳社

2013年下半期につづく

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2013/06/16

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<46>「Meditation in the Marketplace5」カテゴリについて

<45>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<46>Meditation in the Marketplace5」カテゴリについて

1)このカテゴリで当ブログは一応の終焉を迎えるのか。書かれたのは2013/04/12村上 春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」から、 2013/06/16ゲーリー・スナイダー「For the Children 子どもたちのために」までの二カ月間。

2)「再読したいこのカテゴリこの3冊」は次のとおり。

「自分で作る太陽光発電」(大人の週末工作)
川村康文著 2012/05  総合科学出版

「自分で作るハブダイナモ水力発電」(大人の週末工作)
中村昌広著 2012/07 総合科学出版

「自分で作るハブダイナモ風力発電+」大人の週末工作)
川村康文著 2012/11 総合科学出版

3)この他、「ソーラーチャージライト MA-551」にもハマったし、クリス・マクゴーワン「チキンの骨で恐竜を作ってみよう」 にもハマった。それぞれに結果がでたから、面白かった。 

4)このカテゴリで「Meditation in the Marketplace」は1~5終了となった。

5)このカテゴリで「当ブログが読んだ新刊本ベスト10」2013年上半期まできた。

6)このカテゴリで、Vol.3のNo.1024の満了となった。

7)やめるなら、キリのいいこのチャンスかな。

<47>へつづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「Meditation in the Marketplace5」編

前よりつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「Meditation in the Marketplace5」編 

 


Th_5
「自分で作る太陽光発電」
(大人の週末工作)
川村康文著 2012/05  総合科学出版

Th_6

 

 

Sh
「自分で作るハブダイナモ水力発電」(大人の週末工作)
中村昌広著 2012/07 総合科学出版

 

 

Fh
「自分で作るハブダイナモ風力発電+」(大人の週末工作)
川村康文著 2012/11 総合科学出版

<後>へつづく

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For the Children 子どもたちのために ゲーリー・スナイダー<5>

<4>からつづく 

ゲーリー・スナイダー (著), Gary Snyder (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真)2013/4/23 新泉社 単行本: 143p

子どもたちのために

上昇する
統計の丘、その険しい斜面が
ぼくらの前に横たわる。
すべてが急に
上がっていき、昇っていき、
ぼくらはみんな
落ちていく。

次の世紀
あるいはそのまた次の世紀には
谷間や牧草地があり、
うまくいけば
ぼくらはそこで
みんなで平和に会えるという。

やがてくるこのような頂を越え行くために
きみたちにひとこと、きみたちと
きみたちの子どもたちに-----

離れず
花々から学び
身はかろやかに
   「亀の島」より p88

<6>につづく

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ニューチャイルド OSHO <6>

<5>よりつづく 

Img
「ニューチャイルド 」 <6>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳), スワミ・アトモ・スディープ (翻訳) 1993/01 ニューチャイルドプロジェクト OEJ books 単行本: 324p

私は
一時的なもの、つかの間の、時局的なものには
関心がない
私の関心は永遠なるものだ
そして永遠なるものは
科学や知識には何の関係もない
永遠なるものは
神秘的なるもの、そして無垢なるものに関心がある

どんな偏見も隠し持っていないつぶらな目を開いた
子どものようでありなさい
ただ明晰さをもってみるだけでいい
そうすれば小さな花、草の葉、あるいは日没は
ゴータマ・ブッダが
その光明において見出したのと同じほどの至福を
あなたに、もたらすことだろう
それは対象に依存しない
問題はあなたの解放性だ
知識はあなたを閉じる
それは囲いに、牢屋になる
だが無垢に、あらゆる扉を、すべての窓を開く

陽の光が入り、涼しいそよ風が通り抜ける
花の香織が突然あなたを訪れる
そしてときには、鳥がやってきて歌を歌い
もうひとつの窓を通り抜けて出て行く
無垢こそが唯一の宗教性だ

宗教性は、あなたたちの聖典に依存しない
それは、あなたが
どれほど世間を知っているかに依存しない
それは、あなたがどれくらい
何も映していない、まっさらの鏡になる準備が
できているかにかかっている

完全な成熟、無垢、純真・・・・・

そして、この第2の誕生は、あらゆる扉を開き
探究のためのあらゆる秘密を開く
生は絶えざる冒険になる
一瞬一瞬の興奮に
日毎夜毎の歓喜になる
生が死の中に消え入るのでもなく
昼が夜の闇の中に死滅するのでもない
突然あなたは昼と夜が同じ鳥の両翼
生と死が同じ鳥の両翼であることに気づく

意識の大空すべてが、あなたのものだ
あなたは、キリスト教徒である必要はない
あなたは、ヒンドゥ教徒である必要はない
あなたは、イスラム教徒である必要はない
あなたはただ、子供でなければならないだけだ 
OSHOp301

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「アティーシャの知恵の書」 下―チベットの覚者を語る OSHO

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「アティーシャの知恵の書」 下―チベットの覚者を語る
OSHO 2013/06 市民出版社 単行本: 487p
Vol.3 No.1023★★★★★

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ニューチャイルド OSHO <5>

<4>よりつづく 

Img
「ニューチャイルド 」 <5>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳), スワミ・アトモ・スディープ (翻訳) 1993/01 ニューチャイルドプロジェクト OEJ books 単行本: 324p

遊び心とは、人間の中で最も抑圧されているもののひとつだ
あらゆる社会、文化、文明は、遊び心に反対してきた
なぜなら
遊び心のある人間は、決して深刻にならないからだ
そして人は深刻にならない限り
支配されることはあり得ない
彼に野心を持たせることはできない
彼に権力を、金を、地位を、求めさせることはできない
 

誰の中でも、決して子供は死なない
大人になったからといって、その子は死ぬわけではなく
その子供はそのまま残っている
かつてのあなたは
今でもそのままあなたの中にある
そして最後に息を引き取るまで、あなたの中に存在し続ける
 

だが社会は常に、深刻でない人々を恐れる
深刻でない人々は、金や政治権力に対する野心を持たない
彼らは、むしろ存在を楽しむ
だが存在を楽しむことが
地位をもたらすことはあり得ない
人を権力者にすることはあり得ない
その人のエゴを満たすことはあり得ない
ところが、人間の世界はすべて
エゴという概念のまわりを回っている
遊び心はエゴに反する
----試してみれば気がつくはずだ
ちょっと子供と遊んでみれば
自分のエゴが消えていくのが分かるはずだ
自分が再び、子供になっているのが分かるだろう
それは、あなたについてだけでなく
誰についても言えることだ
 

自分の中の子供を抑圧してきたために
人は自分の子供を抑圧することになる
自分の子供が踊ったり、歌ったり
叫んだり、飛びはねたりするのを許す者はいない
ほんの些細な理由で
----多分、何かが壊れるかもしれないとか
外に飛び出したら雨で服が濡れるというような----
そんな小さなことのために
大いなる霊的資質、遊び心が完全に破壊される
 

従順な子供は、両親にも、教師にも、誰にでも褒められる
そして、いたずらっ子は非難される
その子の遊び心は、まったく何の害もないかもしれないが
そこに反逆の危険があるという理由で、その子は非難される
もし子供が、遊ぶための完全な自由を持って成長し続けたら
その子は反逆者になるだろう
彼は簡単に隷属しようとはしない
彼は、人をころすため、あるいは自分が殺されるために
たやすく軍隊に入ったりはしない
 

反逆的な子供は、反逆的な若者になる
そうなったら、彼に結婚を強制することはできない
彼に特定の職業を押しつけることはできない
そうなったら、両親の満たされなかった欲望と憧れを
成就するように、その子を強制するわけにはいかない
 

反逆的な若者は、自分自身の道を進む
彼は、他の誰の理想に合わせるのでもなく
自らの内奥の願望に従って、自分の生を生きることになる
 

反逆者は、基本的に自然だ
従順な子供は、死んでいるも同然だ
それゆえ、両親は非常に幸せだ
その子が常に支配の下にあるからだ
 

人間は不思議な病にかかっている
人間は他人を支配したい
----他人を支配することで
   自分のエゴが見たされる、自分が特別な者になれる
そして、自分自身もまた他人に支配されたい
----支配されれば、もう自分に責任はないからだ
これらすべての理由のために
遊び心は、最初の最初から窒息させられ、押しつぶされる
 OSHO p259

<6>につづく

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「もしも?」の図鑑 「恐竜の飼い方」 土屋 健 (著), 群馬県立自然史博物館 (監修)


2013/3/19 実業之日本社 単行本(ソフトカバー): 128p
Vol.3 No.1022★★★☆☆

化石の見つけ方

 研究者の人たちは、どうやって化石を見つけているのでしょうか?
 その方向が分かれば、読者のみなさんも化石を見つけることができるかも知れません。

1、化石が見つかる地層を知る
  恐竜をの化石を見つけるのなら、中生代の陸地でできた地層を探す必要があります。地質図や各地の博物館などでそうした情報を得ることができます。

2、その場所から過去に化石が出ているか調べる
  地層を見つけたら、今度は化石の出そうな場所探しです。どんな場所からどのような化石が出ているのかを、本や博物館で調べましょう。

3、その場所に行くことができるのか調べる
  化石が出る場所をふくめて、すべての土地には所有者がいます。化石を掘ってもよいのか、許可を事前にとるようにしましょう。その土地の近所にある博物館を訪ねると、許可について教えてくれる場合があります。

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4、装備を整える
  化石を掘るには準備が必要です。岩石用のハンマー、マジック、ペン、メモ帳、タガネ、ヘルメット(ぼうし)、軍手、ルーペ、長そで、長ズボン、じょうぶなくつ、地形図、化石が割れたときに使う接着ざい、もしあればゴーグル、化石を包んで持ち帰るための新聞紙など、十分な装備と服装を整えます。
 

5、調査計画をたてて行動する
  前もって、調査する場所までどうやって行くか、電車とバスの時間や、どれくらい歩くのかなどを調べておきましょう。調査の日は、その計画に従って行動するようにしましょう。また、地図を参考にしながら、どのようなルートを通って、どこに探しに行くのかという計画をたてましょう。
 

6、必ず2人以上のチームで、おとなといっしょに調査する
  がけの下などの危険な場所を調査することもあります。1人で行かないのはもちろんのこと、おとなといっしょに行動するようにしましょう。

7、足元の石、がけの上の石も探す
  化石はがけの地層の中だけではなく、そこから転がってきた石に入っていることもあります。足もとの石に化石が入っていたら、それがどこから落ちてきたのかを考えてみましょう。さらに、がけの上の石が落ちてくることもあります。そうした石にも注意しながら、根気よく化石を探してください。

8、運良く大きな化石を見つけたら
  まず場所を地形図の上に記録しましょう。その後、掘り出す前に、近くの博物館や大学にれんらくしましょう。プロの研究者の協力を得ることで、化石の価値を落とすことなく掘り出すことができるでしょう。大きな化石の場合は、全面的に研究者にお願いすることになります。
p114「化石の見つけ方」

 

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2013/06/15

ニューチャイルド OSHO <4>

<3>よりつづく 

Img
「ニューチャイルド 」 <4>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳), スワミ・アトモ・スディープ (翻訳) 1993/01 ニューチャイルドプロジェクト OEJ books 単行本: 324p

子供たちが、まったく競争心を持たずに
成長していく手助けをしようと考え始めたとたんに
あなたは間違った道を踏み出している
あなたが何をしようとしているにせよ
子供たちに特定のプログラムを与えることになるからだ
そのプログラムはあなたが与えられたものとは
違っているかもしれない
だがあなたは、やはり子供を条件づけしていることになる
たとえ、この上なく好ましい意図に基づいているとしても
 

木は、誰かが成長の仕方を教えなくても成長し続ける
動物も鉱物も、全存在も、何のプログラムも必要としない
根本的には
プログラムを植えつけるという考え方そのものが
隷属を生み出している
 

そして、人間は何千年もの間
さまざまな名のもとに、隷属する人間を作り出してきた
ひとつの呼び方に飽き飽きすると
すぐに別の呼び方を考えて、名前をつけかえた
その条件づけは、2、3、はプログラムの修正がなされ
ところどころに変えられた箇所があっても
根本的なところは何も変わりはしなかった
 

(略) 

私に言わせれば
親の役目とは、子供が成長するのを助けることではない
子供は、あなたがいなくても成長する
あなたの果たす役目とは
すでに成長しつつあるものを支えてやり
それに滋養を与え、手を貸すことだ
指示を与えてもいけないし
理想像を与えてもいけない
子供たちに何が正しく、何が間違っているかを
教えてはならない
子供自身に、それを経験させるようにしなさい
 

子供たちに対して、あなたにできることはひとつしかない
それは、あなた自身の生を分かちあうことだ
子供たちに、自分もまた
親から条件づけを受けてきたことを話しなさい
特定の理想に従い、特定の制限の中で生きてきたこと
そして、こういった理想や制限のために
すっかり生を無駄にしてしまったことを話しなさい
そして、自分はおまえたちの生を損ないたくない
完全に自由でいてほしいと、話しなさい
 

(略) 

子供たちに、そう伝えるには勇気がいる
父親と母親には、途方もない愛情が必要とされる
「お前たちは、私たちから完全に自由でいなければならない
私たちに従うのではなく
自分自身の知性に基づいて行動しなさい
たとえ道に迷ったとしても
盲従したまま、いつも正しいことをするよりはるかにましだ
自分の考えで行動して間違いを犯し、そこから学ぶほうが
他の人に追従して間違いを犯さないよりはいい
間違いを犯さなかったところで
人に追従する以外に何ひとつ学ぶことにならない
そして、人に追従することは害になるだけだ」
 

これは、あなたに愛があれば、いともたやすいことだ
私に「どうすれば」と訊かないことだ
「どうすれば」という質問は
手順や方法論、テクニックを求めているということだ
だが、愛はテクニックではない
 

子供たちを愛し、彼らが自由であることを楽しみなさい
彼らが間違いを犯すままにさせ
どんな点で間違いを犯したのか
自分で理解できるように手助けしてやりなさい

子供たちに、こう言いなさい
「間違いを犯すことは悪いことじゃない
いくらでも、たくさん間違うといい
それこそが、より多くのことを学び続けるだからだ
だが同じ間違いを何度も繰り返してはいけない
そんなことをしても、馬鹿になるだけのことだ」

結局これは、私から単純な答えを得て済む問題ではない
あなた自身が、瞬間から瞬間へと子供たちとともに生き
些細なことにおいても、彼らに最大限の自由を与え
あなた自身が、答えを見つけ出さなければならない
 OSHOp205

<5>につづく

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カラー版 「恐竜たちの地球」 冨田幸光著


1999/9/29 岩波書店 新書: 228p 
Vol.3 No.1021★★★★☆

Cz112
1)中生代は「恐竜の時代」と呼ばれるが、真の恐竜の出現は三畳紀の後期になってからである。三畳紀後期(約2億3500万~2億0800万年前)は、現在とくらべるとかなり高温で、乾燥した時代であると同時に、季節変化も大きかったようである。大きく三つの気候帯があったといわている。
Cz11

 三畳紀後期は、ぺルム紀からひきつづき超大陸パンゲアの時代で、陸上動物はどこの地域でも比較的似た種類が生息していた。三畳紀中期につづいて多様な主竜形類が繁栄していたが、なかでももう少し進歩した真の主竜類が、リンコサウルス類など原始的なグループにかわって繁栄するようになっていた。

Cz122

 現在のワニに似た体形と生態をもつ植竜類(肉食性)、骨質のよろいをつけたアエトサウルス類(草食性)、大小多様なラウイスクス類(肉食性)などである。p20「三畳紀の恐竜たち」

Cz32

2)ジュラ紀は中生代のまんなかの時代で、約2億0800万年前から1億4500万年前である。その気候は世界的に暖かく、緯度60度付近まで亜熱帯のような気候だったようだが、一部には季節的な乾季があった証拠もある。極地方には氷河はなかったらしい。

Cz21

 パンゲア超大陸が南北に分離を始めたのはジュラ紀の中ごろ(約1億7000万年前)で、ジュラ紀末ごろにはほぼ完全に分離した。したがって、恐竜の南北でのちがいはこのときからはじまったといえる。

Cz132

 北のローラシア大陸のうちヨーロッパは多くの島のようになっており、この島のつらなりが一種の橋のような役目をしたらしく、アフリカと北アメリカとのあいだに恐竜などの動物の行き来があったことが化石から明らかになっている。一方、ゴンドワナ大陸はジュラ紀の終りまで、一つの大きな大陸塊のままだった。p50「ジュラ紀の恐竜たち」

Cz102

3)白亜紀は中生代の時代区分の最後で、約1億4500万~6500万年前である。白亜紀全体としては、全地球的に温暖で、とくに前半では湿度が高く、季節変化は乏しかったようである。赤道付近での気温は現在と大差なかったようだが、高緯度ではずっと暖かったらしい。

Cz52

 その結果、多様な植物やそれを食べる多様な草食動物の進化をうながした。白亜紀の終わりごろには地球全体が一時的に寒冷化し(しかし、現在より温暖)、高緯度地方では動植物の多様性が低下した。

Cz62

 超大陸パンゲアはジュラ紀後半に南北に分離したあと、北のローラシア大陸、南のゴンドワナ大陸はそれぞれ白亜紀を通じて、さらに現在の各大陸に分離をつづけていった。 しかし、ローラシア大陸はあまり大きな変化はなく、比較的緊密な連絡があったようである。

Cz42

 むしろ、北アメリカの中央部が、現在のメキシコ湾から北極海にぬける浅い海におおわれて、北アメリカ大陸が東西に二分されており、その西側の部分がアジアをつながって「アジアメリカ」とよばれる陸塊をつくっていたことが、恐竜の進化に与えた影響が大きい。

Cz82

 ゴンドワナ大陸では、南アメリカとアフリカ、およびオーストラリアと南極がそれぞれ結びつきが強く、少なくとも南アメリカとアフリカは白亜紀の中ごろ(約1億年前)まで陸つづきになっていたことは、いろいろな証拠から明らかである。p122「白亜紀の恐竜たち」

Cz21_3

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ニューチャイルド OSHO <3>

<2>よりつづく 

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「ニューチャイルド 」 <3>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳), スワミ・アトモ・スディープ (翻訳) 1993/01 ニューチャイルドプロジェクト OEJ books 単行本: 324p

”私は創造的になりたいと思います。どうしたらいいでしょうか?”

もう一度、子供になりなさい
それであなたは創造的になれる
子供はみんな想像的だ
創造性には自由が必要だ
----頭(マインド)からの自由
   知識からの自由
   偏見からの自由が・・・・・

想像的な人とは
新しいことを試みることができる人だ
想像的な人間はロボットではない
ロボットは決して想像的にならない
彼らは繰り返すだけだ
だから、もう一度、子供になりなさ

そうすれば
あらゆる子供が、想像的であることに驚くだろう
どこで生まれようと、子供はみんな想像的だ
だが、私たちは子供たいの創造性を許さない
子供たちの創造性を押しつぶし、殺し
激しく非難する
私たちは彼らに、ものごとの正しいやり方を教え始める

いいかね
想像的な人は、いつも間違ったやり方を試し続ける
いつも正しいやり方に従ってやっていたのでは
決して想像的にはならない
正しいやり方とは、他人が発見したやり方だからだ
その正しいやり方をすれば
無論、それで何かをつくることはできるだろう
生産者、製造者にはなれるだろう
技術者にはなれるだろう
だが、決して創造者にはなれない

生産者と創造者の違いとは何か?
生産者はものごとの正しいやり方
ものごとの最も効率のよいやり方を知っている
最小の努力で、より多くの結果を生み出すことができる
彼は生産する人だ

創造者は寄り道をする
ものごとをやるための正しい方法など知らない
だから彼は何度も何度もいろいろな方向を探求し
捜し求め続ける
何度となく誤った方向に進むが
どこに動いても、そのたびに彼は何かを学ぶ
彼はどんどん豊かになる
彼はそれまで誰もやったことがないことをする
ものごとの正しいやり方に従っていたら
そんなことはできなかっただろう 
 OSHO p11 

<4>につづく

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「日本の恐竜図鑑」 じつは恐竜王国日本列島


宇都宮 聡 (著), 川崎 悟司 (著) 2012/2/1 築地書館 単行本 157p
Vol.3 No.1020★★★★☆

1)日本から世界最古級の魚竜 ウタツサウルス(歌津魚竜)Utatsusaurus hagaii 魚竜類 

分類 爬虫類 魚竜目
産地 宮城県本吉郡歌津町(現南三陸町)
地層 稲井層群大沢層
時代 三畳紀前期
体長・特徴 約1.4m。小さい頭部と長い胴体、ほっそりとした鰭(ひれ)をもつ
食性 魚類や頭足類
共産化石 アンモナイト(セラタイト)

 宮城県北部の海岸には、加工して屋根瓦などに使われる粘板岩(スレート)からなる地層が分布している。この薄くはがれる性質をもつ岩中からは、セラタイト(古いタイプのアンモナイト)などの海生動物の化石が見つかる。

 1970年、この粘板岩が分布する歌津の海岸に地質調査に来ていた4人の古生物学者たちが、脊椎動物の化石を発見した。その後、周辺の地層から複数の標本が得られた。研究の結果、それは世界最古級の魚竜化石と判明した。

 魚竜は、三畳紀前期に出現し大繁盛したが、白亜紀中ごろの海洋の酸素欠乏が原因で絶滅した海生爬虫類で、原生のイルカのように、海での生活に適応し、出産も海中に直接子どもを産み落とす卵胎生だった。

 また三畳紀後期には、20mを超えるクジラのような巨大な魚竜も出現している。

 歌津で発見された化石は、その後、新属新種「ウタツサウルス」と命名された。鰭は細長く、胴長で、背鰭(せびれ)、尾鰭(おびれ)はあまり発達しておらず、また陸上での生活の名残と思われる、背骨と後肢をつなぐしっかりした腰の骨をもつなど、魚竜としては原始的な形態を残している。

 南三陸町ではウタツサウルスの化石を算出した地層より新しい地層から、より小型で海生生活に適した形態を持つクダノハマギョリュウも発見されている。

 魚竜の絶滅と家れ変わるように、白亜紀の海の覇権はモササウルスの仲間に移っていく。p140

2)久慈琥珀の中の日本最古のカマキリ化石

 岩手県久慈市周辺に分布する久慈層群は、白亜紀サントニアン期ごろに浅海(せんかい)~陸で堆積したと言われている。

 久慈層群からは、スッポン上科の大きなカメ類や、周蝕頭類と思われる恐竜化石、翼竜類化石などの動物化石が発見されている。当時は温暖な気候で、沼沢地だったようだ。

 しかし、この久慈の名を世界に知らしめているのは、琥珀である。久慈では30kgを超える琥珀の巨大な塊が発見されている。

 久慈琥珀は、白亜紀の南洋スギなどの樹脂(松脂)が化石化したものと言われ、磨くと温かみのある飴色の光沢を放ち、縄文の昔から宝飾品として珍重されてきた。また燻(いぶ)すと独特の高貴な香りを発し、香道で薫陸香(くんのこ)と呼ばれる香の原料となる。

 時として琥珀の中には、十氏に脚を取られたさまざまな動物が一緒に保存され、化石化していることがある。映画「ジュラシック・パーク」は、この琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜のDNAを取り出し、恐竜を再生するというストーリーだったが、久慈琥珀の中にもジュラシック・パークさながらに、鳥(恐竜かも)の羽毛や昆虫たち(シロアリ、ゴキブリ、チャタテムシ、サシガメ、カイガラムシ、甲虫、ユスリカ、オトリバエ、クモ)など、さまざまな生き物が保存されている。

 なかでも出色なのは、カマキリの先祖の化石が発見されえいることだ。体長は14mm。特徴的なのは、得物を捕える鎌のつね根に、現代のカマキリに共通するトゲがあることだ。白亜紀後期は顕花植物が増加し、それに適応して昆虫たちが現代型に移行したと考えられているが、このカマキリ化石はその重要な証拠とされている。おそらく新種だろう。

 カマキリは、その優雅な外見とは裏腹に、ゴキブリやシロアリに近い仲間に分類されている。彼らの共通の祖先は、プロトファスマというヘビトンボに似た外見の昆虫で、海外の石炭紀(約3億6000万~2億9900年前)の地層から化石が発見されている。p76

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ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン 『現代詩手帖』特集 <3>

<2>よりつづく

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「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」<3>
「現代詩手帖」 2012年7月号特集1 思潮社 雑誌
★★★★★

夜話(よばなし) 
 
昔むかし カリフォルニアの冬は、語り部たちの時間だった

きのうは、ほぼ一日中、電気系統の修理にかかりきりだった。
いま使っている発電機、予備の発電機、その前に使っていた発電機
いくつものバッテリーが並んだセット、トレイス社製の大きなインバーター
そしてソーラーパネル----
すべてが止まってしまった----寒い朝の暗闇のなか
昔にもどって、ランプとロウソク、それに薪ストーブ、これはいつでも使える
ホンダのバックアップ用の発電機はサイクルの故障だろうか? インバータの中にあるバルク電荷のトレイがおかしいのか?

プロパンで動く、オナン社製の大きな緑色の発電機、こいつがどうやっても動かない
(まえにエアー・クリーナーが詰まったことがあった。エンジンからオイルが噴き出したせいだ)

(そう、機械はかならず直せるはず----でもその日に予定していた計画は諦めるしかないな----マニュアルとにらめっこだ----その方面に詳しい友人に来てもらおう----お茶を入れて----道具と問題を整理しながらくつろぎ、その日を楽しもう)

ここで暮らしはじめた最初の十五年間は、ランプの生活だった。先住民の時代から根を張る、どでかいブラック・オークの木、その木陰に重たい瓦ぶきの屋根。

ジーグリートの連れ合いの女性で、仕事のパートナーでもあるシュリが、九トントラックに砕石を積んでもうすぐやってくる。冬がくるたびに泥かる道路は、砂利を敷かなければならない。冬の雨と雪解けから道路を守るには、それなりの備えがいる。      道の両側に排水溝を掘らなくては。

一九六二年のこと、ジョアンと一緒に九州を旅したとき、長崎の街を歩いた。目抜き通り、喫茶店、葉を広げた木々、庭は緑でいっぱいだった。
九州のまんなかにある直径二十四キロの巨大なカルデラ、阿蘇山でのこと。長崎のあの時代を生き延びた観光客と出会った。火傷の痕が残っている、つるつるの歪んだ顔。
そして、それから「はだしのゲン」を読んだ。

ぼくは思った。原爆は手に負えない力だ。
そして、それを最初に手にしたいという誘惑・・・・・・。
最初の「世界のボス」になりたい奴がいることも。
いつかはそうなる。 だから私たちの進むべき道を変えなくては、さもなければそこに向かう。

イスラム教徒やキリスト教徒、あるいはユダヤ教徒に、ぼくはなれない。なぜなら「十戒」は倫理的に不十分だからだ。聖書の「汝、殺すなかれ」は、人間以外の命を除外しているから。

どうしてそんなことができるのだろう? この世界を何と考えていたのか?
触覚器を持つクネクネするもの、小さなヒレを持つもの、トゲを持つもの
ヌルヌルした首を持つもの----これはすべて例外----夜に光る目----雪の上の脚あとも。

そして、こうも言っている。「私の前に他の神はない」と----まるで
権力や妬みや嫉妬に凝り固まっているみたいだ。その神とはどんなもの?

いつも心配している神とは?
jたくさんの小さな神々は、自分たちのやり方を始めようと待っているし、自分たちが誰かを知りたがっている。

紀元四世紀の北インドに、タントラ派の女性の導師がいた。その仏教徒はこう言った。
「エホバという西の神、彼はたいしたものですが、あまりに傲慢すぎます。なぜなら
自分が世界の創造主だ
などという馬鹿げたことを考えているからです」
それは世界を後戻りさせる幻想だ。

さて、エネルギーの問題にもどってみよう。オナンの発動機は直せる。予備の予備は諦めよう。次にやるのは鋳鉄製のエンジンがついた予備の発電機、それからラジエイターだ
数世紀にわたる品質保証----ソーラーパネルの数を増やそう----

昔むかし、この地で、直径十メートルの暖かい土のロッジに暮らしていた人たちは
ロウソクの代わりに、松脂のついた細長い木片を燃やした
数世紀の間、冬が来るたびに----
囲炉裏の火とその回りに突き刺した木片が燃えていた----

夜話(よばなし)に、そんなに強い光はいらない。

   二○○九年三月 Stories in the Night    p10 ゲーリー・スナイダー/原成吉訳

<4>につづく

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新版 恐竜の飼いかた教えます ロバート マッシュ 著


Robert Mash (原著), Richard Dawkins (原著), 新妻 昭夫 (翻訳), 山下 恵子 (翻訳), リチャード・ ドーキンス 2009/03 大型本: 96p
Vol.3 No.1019★★★★★

1)恐竜を飼う人のための基本的な道具一式

恐竜を手に入れる前に、そのペットが新しい家で快適に暮らせるよう、基本的な道具をいくつか揃えておかねばならない。

・都会で暮らす恐竜はとりわけ皮膚病にかかりやすいので、治療のために薬剤を噴霧する必要がある。

・大型恐竜の飼い主には、頑丈なスコップが力強い見方となる。

・恐竜を飼おうと思うなら、拘束するための適切な道具を必ず用意しておかねばならない。どんな道具でも抑えきれない場合には、大枚を払って麻酔銃を手元に用意しておくのもやむなし。

・厚手で丈夫な皮手袋は、病気の恐竜に抗生物質を飲ませるときに必要不可欠。

・ヴェロキラプトルやデイノニクスを個人的に飼う人は、腹を切り裂く強力な鉤爪を切ることが法律で義務付けられている。

・大型種は膨大な量の食餌を必要とする。飼ってから困らないよう、あらかじめ心得ておくこと!

・困ったことに、病気の恐竜や抱卵中の恐竜は、たびたび体温を測ってやる必要がある。

・恐竜類のすべては種の取り扱いには、目的に応じた防御用ヘッドギアが絶対に必要だ。

・硬質な毛の上等なブラシがあれば、恐竜の鱗を最高の状態に保つことができる。さまざまなブランドの恐竜用ワックスも出まわっているので、好みのものを選ぶことができるだろう。

・肉食性の恐竜の一部は、新鮮な肉しか食べないことを心にとどめておくべきだ。とりわけ気難しい恐竜は、つねに生き餌を欲しがる。 p10

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2013/06/14

For the Children 子どもたちのために ゲーリー・スナイダー<4>

<3>からつづく 

ゲーリー・スナイダー (著), Gary Snyder (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真)2013/4/23 新泉社 単行本: 143p

 この土地で起こったこと 

----3億年前---- 

初めに海があった----やわらかい砂、泥、泥灰土
   堆積し、圧縮され、熱され、ねじ曲がり
   破砕され、再結晶化し、相互浸透があり、
何度も隆起し、それからまた水底に沈んだ。
やがて溶けた花崗岩のマグマの貫入
   それが深層で冷却され、斑晶ができ
       黄金を含む石英が、亀裂に満ちていく。
 

----8千年前---- 

海底の堆積層が隆起し褶曲する
    花崗岩はその下深く沈んでいく。
幾世紀も続く暖かく静かな雨が
        (暗赤色の熱帯の土壌を作り)
         地表を2マイルも削り
鉱脈がむき出しになって、河床に
    黄金の塊が転がる
      粘板岩と結晶片岩が黄金にからまる
火山灰が流れ落ち 水の流れをせきとめ、
    やがて黄金と砂礫が堆積する。
 

----3百万年前---- 

北へ流れる二つの川がつながって
    長く幅の広い湖となる。
それからそれは傾いて川はふたたび分かれて
    西に流れ
    フェザー、ベア、ユバの流れとなって
          渓谷を切り開いていく。
 

ボンデローサパイン、マンザニータ、黒樫、イチイ
    鹿、コヨーテ、ブルージェイ、灰色リス、
   地リス、狐、尾グロウサギ、
   リングテール、ボブキャット、熊
      がここに住むためにやってきた。
 

----4万年前---- 

そして人間がバスケット・ハットやネットを持ってやってきた
    地下につくった冬の家
    緑に塗ったイチイの弓
    煙たい闇の中で男の子や女の子は
    ご馳走やダンスや歌や物語
 

----125年前---- 

それから白人たちがやってきて古い砂礫や黄金を見つけるために
    大きなホースで水を流して
    木や岩をひっくり返した。
馬、林檎園、トランプ、
ピストルを撃ち合い、教会が建ち、牢屋ができた。

             *        

僕らはこの土地は誰のものか尋ねた、
    そしてどこで税金を払うのかと。
(この土地を20年も使わなかった2人の紳士、
そしてその前は使い古した鉱山の証文を親父からもらった男の未亡人)
こんな権利を急いで押しつけられたこの土地は
    マイドゥ族の支族の
    ニセナンの人々が鹿を狩りドングリを集めた土地ではなかったか?

(その人々は決して話す機会を与えられなかったし、
        自分の名前さえも告げることはできなかった。)
(そしていま誰がグアダルーペ・イダルゴ条約を記憶しているというのだ。)

        土地はそれ自身のもの
        「自我に自我なく、物に自我なし」

      海原のような天空、その渦巻く虚空の中を
                 点滅し
                 ながら
        世界がめぐり
        尻尾をくわえた亀の島が泳いでいる

そしてコーンウォールの鉱夫の子孫のトバイアセン氏が
        郡の税金の査定をする。
(税金とは僕らの身体と精神の産物、
        年ごとの式典に招かれた客、重く味わい深くなった
        太陽の光を称えつつ
肉体と眼とかなり大きな脳を求めて
        食物連鎖を上ってきて、
高みから己の姿を
        振り返り眺めている)。

            いま、

僕らは金の採鉱場の近くに座っている
森の中、焚き火のそばで、
月や惑星や流星を見つめながら----

ぼくたちは誰なの?と息子たちがきいてくる
家で採れた林檎を干しながら
野苺を干しながら、肉の燻製をつくりながら
わら束に矢を放ちながら

空軍のジェット機が北東に向かう、轟音を立て、いつも
夜明けに

あのひとたちは誰なの?と息子たちがたずねる

いつかわかるさ
いかにいきるべきかを
だれがそれをしっているかを

松の木でブルー・ジェイが高い声でなく。

       「亀の島」より  p92

<5>につづく

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恐竜ファイル―先史時代の地球を闊歩した恐竜たちの驚くべき生態120種


リチャード・ムーディ (著), 東 眞理子 (翻訳) 2007/2/2 ネコ・パブリッシング単行本 143p
Vol.3 No.1018★★★★☆

1)「チキンの骨で恐竜を作ってみよう」 を読んでから、実際にチキンの骨を集め、恐竜らしきものを作ってみると、これがすっかりマイブームとして定着した。DVD「ジュラッシクパーク」シリーズも、最初は冷やかしのつもりだったのだが、割とマジになって見ている自分に気づく。

2)恐竜はほとんどの人々にとって地質学(地球の構造を研究する学問)というすばらしい学問に接するための唯一の材料です。自身や火山の噴火や津波も地球の活動を示す現象ですが、恐竜には大人も子供も「うわあ!」と目を輝かせるような魅力があります。p6「はじめに」

3)私もどうやら、この魅力にはまってしまったようだ。

Tz2
4)地球ザウルス2013と名付けた自作のこの模型、どれだけの妥当性があるのだろう。

)「ティラノサウルス」 Tyrannosaurus 

暴君トカゲ 竜盤目 ● 獣脚亜目 ● テタヌラ類 ● 科名:ティラノサウルス科
最初の発見年 1902年 ● 発見地 北米:アメリカ ●全長 約12m ● 体重 4~7t ● 食物 肉 ● 繁殖形態 卵生 ● 時代 白亜紀後期、7000万~6600万年前
 

 つい最近までティラノサウルス・レックスは陸上に生息した史上最大の捕食動物だと考えられていた。カルカロドントサウルスとギガノサウルスとタルポサウルスが発見されたことで、「暴君トカゲの王」の地位は確かに危うくなった。しかし、不思議なことに、巨大な肉食動物の名前を尋ねられて、わたしたちが思い浮かべるのはやはりティラノサウルスである。 

 非常に大きな頭部、強力な顎、獲物の骨をかみ砕く鋸歯のある大きな歯が、この恐竜の典型的な特徴である。頭部の長さは15メートルにおよび、もっとも大きな歯は先端から歯根の底までの長さが30センチもあった。 

 ティラノサウルス・レックスは長らく解説されてきたとおり、化石として発見された生物の中でもっともすぐれた捕食者だった。 

 ニューヨークの自然史博物館とシカゴのフィールド博物館を訪れると、見事な骨格を見ることができる。フィールド博物館にある「スー」はもっとも高価な恐竜である。1977年にニューヨークで開催されたサザビーズのオークションで840万ドルの値がつけられた。

 ニューヨークの複製もシカゴの「スー」も、ティラノサウルスが均整のとれた体をもっていたこと、最高の装甲板を付けた最大の恐竜にとっても恐ろしい敵であったことを伝えてくれる。

 一部の骨に残る大きな傷跡はティラノサウルスが仲間同士で争った結果だろう。ティラノサウルス・レックスは粉まで特大級だった。1998年にカナダのサスカチュワン州で見つかった糞は長さが43センチもあった。 p64

6)うははは、ひとつひとつの恐竜に、これだけのデータがあったとは。名前さえ、ようやくT-レックスとかステゴザウルスなんて聞いたことがあったような気もするが、ひとつひとつ調べて覚えていったら、たしかにこれは、すごい世界が広がってくるなぁ。

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2013/06/13

柳田國男と遠野物語 ~日本および日本人の原風景~ タウンムック<2>

<1>からつづく 

2012/8 徳間書店 ムック: 112p
★★★★★

1)朝早く起きた。朝早くというか、まだ未明だ。廊下の向こうで柱時計が鐘を三つ打った。三時か。はて、座敷童子がでてくるかも、という期待の旅館である。この未明三時という時間帯はどうなのだろう。Tn01

2)部屋に通っているLANを使ってネットでそんなことを調べているうちに、早い朝がやってきた。朝飯をいただいた後は、旅館でゆっくりするつもりでいたが、外の天気があまりにいいので、いつまでも部屋にいることができない。そこそこにチェックアウトする。

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3)すると河童がいる。そうか、遠野は座敷童子の里であるが、河童の里でもあった。水の郷である。旅館でもらった市内観光ガイドを見ながら、近くの施設を回る。どうやら震災で被害があったらしく、どこも施設も最近リニューアルしたとかで、整備が行き届いている。

Tn11
4)これは鹿踊りのかぶりもの。博物館に飾られている。動いている踊りは、前日、釜石観音で見ることができた。宮沢賢治の詩にもでてくる。

Tn32

5)遠野と言えば、昔話でしょう。昔あったずもな、で始まり、どんと晴れで終わる。語り部の叔母さんは、すごいエンターテイメント。遠くからやってきた観光客の突然のリクエストに、アドリブでどんどん答えていく。

Tn4
6)遠野はオシラサマの里でもある。悲しくも不思議なストーリーは、遠野という風土があればこそ、ますますリアリティが増す。オシラサマは、もっともっと広い地域に広がっている信仰だ。

Tn71
7)あちこちで見かけた水車小屋。私はこれに憑かれてしまったようだ。頭の中では、これをどのように手作り水力発電に置き換えるか、そればっかり考えていた。

Tn5

8)最後は、南部曲り家。これはすごいよ。これを見ないと、遠野に来たことにならないね。と、本当は、もう歩き疲れていたのだけど、納得しながら拝観する。まるでお城のような茅葺農家だ。もちろん豪農。これ以上大きい曲り家はなかったという。皇族が訪れたり、映画の撮影現場にもなったそうな。

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『ニッポンの洞窟』 暗闇に息づく神秘を訪ねて<2>

<1>からつづく


「ニッポンの洞窟」暗闇に息づく神秘を訪ねて
イカロスmook 2012/07 イカロス出版 ムック 109p
★★★★☆

1)釜石から遠野に向かう途中に滝観洞(ろうかんどう)という洞窟がある。ドライブマップを見ながら、奥さんが探し出したので、行ってみることにした。私はこういうところがあることは全然知らなかったが、あってもおかしくないだろうなぁ、と感じた。近くには白蓮洞(びゃくれんどう)という姉妹洞窟もあったらしいが、こちらは行かなかった。ちょっと残念。

2)暗い、怖い、おまけに寒い・・・
でも冒険心を満たしてくれる。
そこが「地底の王宮」 洞窟。

全国に存在する洞窟の奥深くで待ち受ける
神々、石像、自然がつくりあげた地底のアート鍾乳洞、
数千年にわたって風と砂が築いた海蝕洞・・・・・・。

「洞窟」には想像を超える世界が広がり、
さまざまな性格と顔を持って迎えてくれる。
それが魅力であり、特徴でもある。

さぁ、まだ見ぬ闇の空間、
光届かぬ地下世界への旅に出かけよう。
 表紙見返し

3)この本に滝観洞もでているかな、と思って再読してみたが、載っていなかった。ということは、全国には、この本に載っていない洞窟はまだまだ存在しているということだろう。ここにリストアップされているのは、一部なのだ。

4)洞窟って、どうしてあのように広い世界を感じさせるのだろう。数百メートルって言ったって、せいぜい、学校の廊下を全部ぐるっと回ったくらいなものだろう。中腰になって、ゆっくり一歩一歩歩いて、一周したり、往復したりしても、せいぜい一時間程度。

5)場合によっては、地底とは言いながら、山の中腹から、上に登っていくような位置にある洞窟もある。決して海抜ゼロメーター以下ではない。

6)そこに広がりを感じるのは、空間の広さではなくて、時間の長さだろう。1年、10年というサイクルではない。江戸時代や奈良時代と言ったタイムスパンでもない。弥生時代でも、縄文時代さえもはるかに超えていく。

7)本当は、どこの自然も、何万年、何十万年、何億年という時間を経過して作られたものだが、その表面は日々変化していく植物に覆われているために、それだけの時間の積み重ねを感じることはない。

8)ところが洞窟は、植物に覆われている部分なんてない。全部むき出しだ。そして、長時間かけて作り上げられた自然の営みの積み重ねが、一瞬にしてみることができる。

9)滝観洞に入るには、ジャンパーと、長くつを借り、ヘルメットを借りなければならない。そして、足元に水が浸入し、頭を天井にぶつけながら、したたり落ちる水滴をかぶりながら、中腰になって進んでいく。

10)途中に、映画「八墓村」の撮影に使われたという場所もある。植物も動物も、ほとんどない。あっても化石だ。手すりがなければ、なかなか奥へとは進めない。それに明かりもあるから、進めるけれど、そうでなかったら、もう、洞窟なんか怖くて怖くて侵入できないだろう。

11)洞窟は神秘的な魅力を秘めている。

日本独特の石灰岩、火山の爆発による熔岩----。
暗黒の洞内は、自然が個性豊かにつくりあげてきた。
洞窟はそこを訪れる人の冒険心を満たしながら、
悠久の歴史をも感じさせてくれる。
 裏表紙

12)やっぱり、おもしろかったね。わずか1時間の冒険だったけど、冒険したーーーー、って気分になる。洞窟があったら、また入ってみたい。

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農家が教える「どぶろくのつくり方」―ワイン、ビール、焼酎、麹・酵母つくりも


農山漁村文化協会= (編集) 2007/12/20 単行本: 191p
Vol.3 No.1017★★★★★

1)遠野に遊んで、ハマってしまったのが、どぶろく、ってやつ。そもそも旅館をネット予約する時に、ひとり一合サービスします、というのが気にいったのだった。

2)いままでも、どぶろくを飲んだことは何回かあった。炭鉱で働いている家族とか、山村の山の頂上の方のお宅とか、比較的、都市から離れ、商業圏から離れ、ほとんど自給自足できそうな環境の人々を訪ねた時にいただいたのだった。

3)かつてはどこでもどぶろくが作れたのに、酒税法とかがあり、いつからか御法度になっていて、どぶろくは光のあたるところで飲んではいけないような、不思議な魅力がある。

4)現在では特区とかあり、作っていい地域があるのかもしれないし、すでにこれは全国的に解禁になっているのかもしれない。

5)遠野では、宿でもキチンとメニューに載っているし、道の駅やお土産品コーナーには、ちゃっとした瓶詰で、商標も「どぶろく」として売られている。四合瓶もあったし、ワンカップもあった。だけど、私は買わなかった。

6)道の駅で「どぶろく」をお土産に買う、ってのは、ちょっとちがうんじゃないか?

7)もうすこし、ひそかに、秘めやかに、どぶろくは作られて、ちょっと人目を忍んで飲む、ってのがいいんじゃぁ、なかろうか。

8)ってんで、奥さんにお願いして、一緒に作ってみることになった。さぁ、いつから始まるかは分からないが、とにかくこんな本が近くの公立図書館にでている限り、非合法ということでもあるまい。それを販売するわけではなく、まぁ、台所での実験、ということであれば、バレることもなかろうし、まぁ、お目こぼしもしてもらえるだろう。

9)だいたい、どぶろくっておいしいんだよね。それに飲み口がいいくせに、度数が大きいので、酔う。

10)うちの奥さんは、材料費とか失敗した場合のことを考えて、結局高いものになるんじゃないかしら、とのたまわる。うん、そうなのかもしれない。ちょっと安手の焼酎でも飲んでいたほうがいいのかも知らん。

11)でも、やってみたくなったんだからしかたないよなぁ。失敗したら失敗したで、ちょっと酸っぱいね、とか、これは飲めないねぇ、などと言いながら、結局飲めばいいじゃんか。発酵はするはずだから。

12)かと言って、体こわしちゃまずいよなぁ。ほどほどにして、まぁ、やってみよう。

 

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For the Children 子どもたちのために ゲーリー・スナイダー<3>

<2>からつづく 

ゲーリー・スナイダー (著), Gary Snyder (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真)2013/4/23 新泉社 単行本: 143p

1)2011年、山里勝己と三島悟から連絡があり、(高野)健三さんの写真と私の詩を一緒に本にして、それを人間世界の手に負えない諸問題と対照させてみてはどうかという提案があった。それはまた、三省を追憶するためのよすがになるものでもあった。それが、いまあなたが手にしている本なのである。 p6ゲーリー・スナイダー「序文」

2)3・11と遭遇し、ようやく初期的混乱から抜け出し、読書でもしようかと思うようになるまで数カ月かかった。そして一番最初に手にしたのはゲーリー・スナイダーだった。

3)私は「手に負えない諸問題」を解決するために、ゲーリー・スナイダーにヒントを求めたといえるだろう。あるいは、ゲーリー・スナイダーしかない、とさえ感じ、彼の中に、逃げたようなものだった。そして、ゲーリーを思い出せば、当然、三省のことも思い出した。

4)「日本人のなかには、部族とナナオとその仲間がカウンターカルチャーであると考えているかもしれません。それは的外れであると言わなくてはならないでしょう。それはわずかな人々です。しかし、日本は変わり、他の社会の影響を受け、世界のカウンターカルチャーは広がりを見せました」と述べ、現在、日本において、原子力発電の継続について懐疑的になっていることや、アメリカで起こっている富裕層に対するデモ活動もカウンターカルチャーであると言っている。「現代詩手帖」 2012年7月号p47特集「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」 高橋綾子「カウンターカルチャーはどこにでもある」

5)しかし、たしかにスナイダーは、二本の足で大地にすくっと立っては見せてはいるが、私は、スナイダーの足にすがって生きていくことはできない。私は私の足で立たねばならないのだ。

6)常にあった、ゲーリー・スナイダー的な「救い」は、本当は、自らの内に見つけなければならないものだった。内なるスナイダーではなく、内なるスナイダー的なもの。それは、私の内なる、真の私たるべき何かなのである。

7)私たちの希望は相互に浸透し合う領域を理解し、私たちがどこにいるかを学び、そうすることによって地球全体を視野に入れたエコロジカルなコスモポリタニズムの生き方を確立することにある。

 そのためには、身軽に、慈悲深く、高潔さを保ちながら心は激しく、「野性の精神」の自らを律するエレガンスをもって生きていきたまえ。 p80「惑星の未来を想像する者たちへ」

8)地球全体を視野に入れたエコロジカルなコスモポリタニズムの生き方を確立すること。なんと簡潔な表現なのだろうか。そして、さらにこれを要約すれば、単に「生き方の確立」とさえ縮めることができるだろう。

9)身軽に、慈悲深く、高潔さを保ちながら心は激しく。それは具体的には、この詩人の生き方にある。「野性の精神」の自らを律するエレガンスをもって生きる。この言葉を言える人は、やはりゲーリー・スナイダーなのだった。

10)私はこの本を手にして、我に帰った部分がある。スナイダーを語るのではなく、スナイダーを通して、自ら内なるものへと回帰する必要があったのだ。スナイダーは、一人の先達、ひとつの鏡とはなってくれる。しかし、歩くのは自分の二本の足だった。

11)この本を読んでいて、三省のことも当然思った。三省は「聖老人」から始まり、アニミズム三部作に集結した。しかし、最近できた「インド巡礼日記」と「ネパール巡礼日記」を、当ブログではまだ完読していないことを思い出した。このもっとも初期的三省の書を読み終わらなければ、当ブログにおける三省の環も完成しないことに気づいた。

12)Vol.3のうちに、この二冊を読み終えることができるだろうか。それを読み終えることは、本当はどういうことを意味しているだろうか。

<4>につづく

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ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン 『現代詩手帖』特集 <2>

<1>よりつづく

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「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」
「現代詩手帖」 2012年7月号特集1 思潮社 雑誌
★★★★★

1)「For the Children 」(2013/04 新泉社)を読み進めるため、この現代詩手帖を読みなおしてみることにした。スナイダーを読み始めたのは「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」(1975/12 社会思想社)からだ。「亀の島」(Turtle Island、1974年)や、「終わりなき山河」(Mountains and Rivers Without End、1996年)などスナイダーの代表作と目される作品は多い。

2)「野生の実践」(The Practice of the Wild、1990年)、「ノー・ネイチャー」(No Nature、1992年)、「惑星の未来を想像する者たちへ」(A Place in Space、1995年)など、まとまった文章も多い。

3)しかし、当ブログとしては、その最も始原的なスタートを「The Back Country」 (奥の国 1967年) においておきたい。そこには、ゲーリーが手掛けた宮沢賢治の英訳があるからだ。

4)そして、もっとも最新のスナイダーの消息とすれば、この現代詩手帖にまとめられた特集がもっとも新しくなるのではないか、と思う。

5)今回、当ブログにおけるVol.3を締めるにあたり、またこの現代詩手帖を読む必要を感じた。正直言って、前回は、ちょっとがっかりし、意気消沈した。ああ、こんなもんかい、現代詩。スナイダーもこんな連中に取り囲まれてかわいそうだな。

6)そう思ったのが正直なところだが、今回読みなおしてみて、最初からあまり期待していなかっただけに、むしろ、前回読み落としていた小さなディティールが、ぐっと生き返ってきているところもあるようだった。

7)息子にはこう指摘されました。「お父さん、一世代遅れでない?」と。私の今の生活は19世紀と21世紀の組み合わせです。薪ストーブを使い、鉄の器具で料理し、斧や鋸といった道具も使っていますが、コンピュータやファックス、プリンター、衛星からのメールを受け取るアンテナもあります。私はそれを理想的なバランスだと考えています。p27「太平洋をつなぐ詩のゆうべ」

8)この詩の集まりは、3・11後に開かれたが、企画されたのはその半年前であり、このような形になったのは、それなりに必然性があった。そこのところが良く理解できていなかったので、私は不満だったのだ。3・11より前に、この集まりでは、「詩」があったのだ。

9)スナイダー 「悪」という言葉は使いません。あまりに二元論的なのです。哲学的、形而上的に言えば、万物のなかに「悪」はないと考えています。あるのは「大いなる無知」と「過ち」だけです。p29同上

10)この想いが、スナイダーのどこか腹の据わった落ち着いた雰囲気につながってくると思う。重要なポイントだ。決して、原発推進派を糾弾したりしない、かといって一貫して脱原発の姿勢を保つスナイダーの基本中の基本に思える。

11)私としては日本のカウンターカルチャーの行方にどのような見解をもっているのか興味があって、そのことを尋ねた。驚くべきことにその答えは、「たぶんカウンターカルチャーという言葉はもはや使われていないと思います」に始まるものだった。

 「日本人のなかには、部族とナナオとその仲間がカウンターカルチャーであると考えているかもしれません。それは的外れであると言わなくてはならないでしょう。それはわずかな人々です。しかし、日本は変わり、他の社会の影響を受け、世界のカウンターカルチャーは広がりを見せました」と述べ、現在、日本において、原子力発電の継続について懐疑的になっていることや、アメリカで起こっている富裕層に対するデモ活動もカウンターカルチャーであると言っている。

 またフェミニズム運動もカウンターカルチャーを経由して拡大したと述べている。カウンターカルチャーが、現代社会における、人間だけでなく、全生命の権利の尊厳を確立する文化的役目を担ってきたことに気づかされた。p47高橋綾子「カウンターカルチャーはどこにでもある」

12)この確信こそ、スナイダーがバランスよく世の中を眺め、自信をもって、ゆったりと生きているように見える根源がありそうだ。

13)私は子どものころ、牛や鶏の世話や庭の手入れに薪割りなど、農家の仕事の一部を任されていました。そして、柵を越えたところの森のなかでも多くの時間を過ごしました。森ではのんびり散歩したり、狩りをしたり、植物採集をしたり、自由に遊ぶことができました。スナイダー「松山への道」 p49城戸朱理「開かれた世界」

14)この部分に共感をしめす、私達の同世代も大いに違いない。ここの文章など、私自身の体験と言ってもおかしくない。このような生活は、ちょっと前までは当たり前の風景だった。たぶん全世界的に標準なのだ。このあたりが、根源的にスナイダーの立っている地平と、自分が立っている地平が、すぐそばでつながっている、と多くの人に感じさせる所以であろう。

15)リップラップ

この言葉をおくのだ
精神のまえに石のように。
       しっかり、両手で
しかるべき場所に、据えるのだ
精神という肉体のまえに
       時空のなかに。
  p23「リップラップ」

16)この雑誌の特集の中でも、何度もこの部分がリフレインされる。精神という肉体、という言葉。

17)スナイダー そうですね。「精神という肉体」と「肉体という精神」この二つの言葉は同義だとも言えます。肉体がなければ精神は存在できないし、ものを考えることもできない。人間は、この「現象としての世界」で学習し、決断し、行動し、区別する。そうやって「考える」ことを学ぶのです。

 だから”精神”とは、その人を取り巻く環境によって出来あがっているもので、”肉体”もまた「現象としての世界」からえたものによって変化を続けるものです。だから”精神”と”肉体”は本来密接に関係しあっているのです。

 この詩は、ある意味でそのメタファーを言うこともできて、物理的な活動は精神がなければいけない。自分たちはときにそれを見過ごしてしまう。認識をきちんとしていないかもしれない、といったことへの喩えです。p23「太平洋をつなぐ詩のゆうべ」

18)3・11という「災害」は、私たちに、ひとつの環境を与えてくれている。そのプレイスに対応する精神、スピリットこそが、今問われている。そして、その精神、スピリットこそが、環境の変化を乗り越えていく。

リップラップ

この言葉をおくのだ
精神のまえに石のように。
       しっかり、両手で
しかるべき場所に、据えるのだ
精神という肉体のまえに
       時空のなかに。

<3>につづく

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2013/06/12

The Back Country 奥の国 Gary Snyder <3>

<2>からつづく 

Gary_snyder
「The Back Country」 奥の国 <3>
Gary Snyder (著) 1968 ペーパーバック: 150p 出版社: New Directions; New版 言語 英語,
★★★★★

1)もし今、ゲーリー・スナイダーから、当ブログの好みで三冊を選ぶなら、次のようになるだろう。

「The Back Country 奥の国」1968

「聖なる地球のつどいかな」 1998/07

「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」 『現代詩手帖』2012年7月号

Gs7

2)The Back Country は、その語感から察することができるように、スナイダーが宮沢賢治に啓発されながら、芭蕉の奥の細道を意識しながら、東北を思って訳出した詩集である。それは、1950年代のことで、スナイダーが、禅や東洋と、アメリカにおけるカウンターカルチャーを併せ持っていた時代の作品である。

3)「聖なる地球のつどいかな」は、三省との対談集ということで、もう、これしかない、という入れ込みがある。「For the Children 子どもたちにために」2013/04)は、この地球のつどいを補完する別冊という位置付けである。

4)そして、現代詩手帖に特集された「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」(2012/07)は、ごく最近のスナイダーの近況ということになるだろう。私はこの特集に、ちょっとがっかりした。

5)しかし、本当にそれは正統な感想だろうか。確かに3・11後に当ブログが一番最初に読み始めたはスナイダーだった。スナイダーに助けて欲しかった。いまこそスナイダーの出番だと思った。しかし、それは、本当だろうか。スナイダーだって、あの3・11の前では、何もできないのではないか。期待するほうが無理だろう。

6)「The Back Country 奥の国」は、イーハトーブの宮沢賢治記念館にも、大きなスナイダーの写真とともに飾ってあった。スナイダーと東北をつなぐ、大きな記念碑だ。

7)本当のこと言って、宮沢賢治だって、3・11の前には何もできない。今、年老いたスナイダーに、何ができるだろう。何をお願いすることができるだろう。

8)ただ、スナイダーのことを考えていると、なにか沸々とした力が湧いてくる。何かスナイダーにして欲しいというのではない。心の中にできた隙間に、ふとそこにスナイダーを入れていると、温かくなる、というだけのことだ。

9)現代詩手帖の特集だけでは情けない。地球のつどいだけでも、どこかむなしい。Back Country があったればこそ、ここに力強いトライアングルが生まれる。

<4>につづく

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新法対応!!ネット選挙のすべて 仕組みから活用法まで 飯田 泰士著

2013/5/18 明石書店 単行本: 228p 
Vol.3 No.1016★★★☆☆

1)インターネット選挙解禁だという。所詮は選挙の宣伝をネットでもできますよ、というだけであって、本当の意味のインターネット利用ではない。

2)民主主義のルールから言えば、ひとり一票の権利を有効に反映するシステムをもっともっと開発できるはずであるが、一挙にそうはならない。

3)だいぶ前だけど、いい機会と思って、一ヶ月間だけ選挙活動をしてみたことがあった。ポスターを貼り、はがきを出し、街頭でチラシを配った。電話でも何人かに話題提供した。

4)参議院の全国区(というのだったかな)だから、結構競合がいて、意外と支援者は伸びなかった。選挙となれば、人々の表情も硬い。

5)幸い、候補者は当選した。

6)でも、それから6年間、あの議員は、なにか私のために働いてくれただろうか。世の中変わっただろうか。改選時に、私は依頼もされなかったから、選挙活動はしなかった。候補者も落選した。

7)でも、だからと言って、世の中いきなり悪くなっているわけでもない。どっちでも、似たようなもんだ。

8)私はこの世に生まれてから、選挙権を持っている時は、すべて投票してきた。時には学校の生徒会の役員にも立候補した。外国に行っている時は、投票できない時もあった。

9)浮動票ではあるが、その時その時、一生懸命考えて投票した。市会議員、県会議員、国会議員、市長、県知事、総選挙も参議院も・・・・。

10)でも、世の中、決して私の思ったふうにはならなかった。私の考えがすべてで無い限り、それは仕方ないのだろうが、たぶん、これは、誰もが思っていることだと思う。みんな、結局は不満を抱えて生きている。

11)ちょと前までは、選挙というシステムがなかった。納税額が少なかったり、女性だったりしたら、投票できない、という時代もあったのだ。現在は20歳以上であれば投票できる。もう少ししたら、18歳以上になるかもしれない。

12)でも、これって、結局、代表者を選ぶだけだから、ひとりひとりの意見が完全に反映されるということにはならない。代表者だって、全部自分の意見が通っているわけではない。

13)将来においては、もっとまともなインターネット活用ができるようになって、もっと正確に人々の声を反映したものになる可能性はある。その仕組みはできているのだから、あとは運用まで、どうやってこぎ着けるかだな。

14)昨年の総選挙は、原発を問うものだった。私のネットワークでは、原発推進なんて奴はいない。全て脱原発だ。もし原発推進なんて奴がいたら、フォローもやめるし、友達でもない。だから、私のブログやSNS、ツイッターもフェイスブックも、脱原発100%だ。

15)だが、世の中、そうはならない。選挙結果は、決して脱原発にならなかった。だから、私はネットは信用していない。一生懸命ネットに脱原発を書いている人もいるが、所詮は、それだけのことだ。世の中、脱原発にはならない。

16)だから、正直言って、私はネット選挙など、ほとんど関心がない。世の中ずるい奴はずるい。悪い奴は悪い。

17)と、いい加減いやになり、ひきこもりたくなるが、でもやっぱり、私は私の意見を言うぞ。ネットにも、必要とあらば自分の意見を書く。推薦したい候補者がいれば、ツイッターだろうが、フェイスブックだろうが、ブログだろうが、フル活用してやる。

18)だけど、それが、どれほど価値あるかは、ほとんど期待はしていないんだよね。

19)この本で分かったことの一つは、普段からネットを使っている人口比率が、高年齢層もだいぶ高くなっているということ。昔は、統計で10代、20代、30代、40代、と来て、あとは50代以上、とひとくくりにされることの多かった高年齢層だが、今や、年配の60代、70代でも、70%代の利用率を誇るようになってきている。さすがに80代になると30%くらいになるが、それでも、いずれ何年かすると、全年齢でネット利用率100%の時代が来るだろう。

20)その日のために、まずはネット解禁おめでとう、と言っておかなければならない。

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Amazon Kindleダイレクト出版 完全ガイド 無料ではじめる電子書籍セルフパブリッシング [Kindle版]


いしたにまさき 境祐司 宮崎綾子著 2013/5 インプレスジャパン  Amazon Services International, Inc
Vol.3 No.1015★★★★☆

1)私はこれがやりたい。類書もすでに何冊か読んでいる。ブログの次はこれだな、と思う。

2)今の私は何かをつくりたい。でも、ダイレクトにKindle出版とならないのは、いつもの私の習い性だ。チキンの骨で恐竜を作ったり、ポータブル太陽光パネルを工作してみたり、廃材で水力発電器や風力発電を作ったりしている。

3)これがなかなか面白い。まだ完成とは言えないので、時間を見て、すこしづつ手を加えていくことになる。

4)そしてそれらが終わったら、さてKindle出版に取り掛かるかな、と思えばそうでもない。つぎなるは、どぶろく作りなのだ。これは先日、遠野を旅した時に宿で出たものだ。これにどうやら惚れてしまったようだ。

5)どぶろくは何回か飲んだころがあるけれど、冬に作るものだと勘違いしていた。その手の本を読むと、どうやら夏は夏で作り方があるらしい。これは奥さんの協力も得ることができそうなので、やりたい。というかすでに始まっているのだが・・・。

6)それをやりつつKindle出版も、と行きたいところだが、どうもそう器用でもないのだ。ひとつのことをやり終えた後じゃないと、なかなか進まない。

7)というか、チキンの骨で恐竜を作る、という奴も、続編をやろうかな、とさえ思っているのだ。鳥型とか、河馬型とか、蛇型とかいろいろある。恐竜なんてやつにこの年になって取りつかれるとは思ってもみなかった。これがまぁ、なんとも面白い。

8)発電だってなかなか奥が深いよ。駆動部分だけじゃなく、発電部分そのものまで作ろうという遠大なプロジェクトである。太陽光発電そのものを作ろうというのだからすごい。そういうマニュアルが現にあるのだ。

9)そして自転車の発電機ハブダイナモなんてもんじゃない、もっと本格的な発電機を手作りすることができるのだ。これに挑戦しないではいられるだろうか。いつかやる。かならずやるぞ。

10)てなことで、Kindle出版もいつのことになるやら、わかりゃしない。といういうかなぁ、他のそれらのことをまとめてKindle本にすればいいじゃん、という発想である。

11)当ブログも間もなくVol.3が終わる。1024冊×3回=三〇〇〇冊以上をすでに読んでメモしているのである。ネタに不足はない。

12)Vol.3で当ブログは終結させようかな、という思いもある。もうブログも十分だ。ブログとしてやりたいことは大体やった。読みたい本も大体一巡した。後は再読モードなのだが、いや待てよ、インプットという読書に対して、アウトプットとしてのブログがあったとするならば、今度はインプットとしてのブログがあって、アウトプットとしてのKindle出版があってもいいじゃないか、と思い直しているところである。

13)つまり、Vol.4として、当ブログが新たな旅を始めるとしたら、それは、Kindle出版というアウトプットがあることが大前提となる。ここが重要なのである。

14)だから、これらKindle出版本をここでは熟読しないが、次なるステップとしてとっておきたい。そして、いざとなったら、ロケットスタートしよう・・・・、なんてね、思ったりしている。

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For the Children 子どもたちのために ゲーリー・スナイダー<2>

<1>からつづく 

ゲーリー・スナイダー (著), Gary Snyder (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真)2013/4/23 新泉社 単行本: 143p

 
1)ひいきのひいき倒しになるのは嫌だから、まず、スナイダーとか三省、野草社のI氏などへの違和感をメモしておこう。ダイレクトに悪口とか、陰口とか批判とか、言ってもいいのだが、まぁ、違和感というべきか、距離感というべきか、依って立つべき位置の確認をしておきたい。
 
2)まずスナイダー。かっこいいな~と思う。彼は自分でもかっこいいと思っていると思う。そしてそのことを恥じない。めげない。引っ込まない。それに比して、私なんぞは、かっこいい人にはなりたいのだけど、シャイで、陰に隠れて、自信がない。これでいいのかなぁ、といつも思ってしまう。
 
3)スナイダーにはいろいろ文句はあるけれど、一番文句があるのは、どうやら三度結婚していること。日本人やら日系の奥さんを、とっかえひっかえ、というイメージさえある。まぁ、硬質な感じの彼の面相からすれば、逆にそのことが陰陽になっているとは言える。
 
4)あとそうだなぁ、言えるのは、彼はアメリカに育った人だし、私たちより20年も前に生まれてきた人だ、ということ。あるいはね、もうちょっと言うなら、私も1950年代のアメリカにいたんだよね。だけどOn the Roadで交通事故で亡くなった。ハートは一緒だが、私は私なりに、生まれなおすことにした。そこのところに、互いの差異がある。
 
5)それと、3・11震災後に東北を訪ね、松島をも訪れている。その時に風景が「現代詩手帖」 (2012年7月号 思潮社)に特集されているのだが、私はこれが好きではない。というか、編集が徹底的に悪い。おい、それがアメリカ現代詩のトップの東北の訪問記か、というような内容になっていた。これは、もう一回再読しよう。
 
6)そして三省だが、古い話では、私が三省の存在を知った1970年代初半において、生活のためとは言え、どうやら大学予備校の講師をしているという話だった。これが、まず大嫌い。こちらは大学を拒否して旅を始めているのに、先達たちが、予備校講師で生活しているとは、何事か、と今でも怒りがある。
 
7)そして、長じては、いわゆる三省の三つの遺言という奴だが、結局は、自分ができなかったことを、子孫や後輩にやってくれ、というのは無理だろう。そんなこと、自分でやれよ、と言いたい。自分でやれなかったのなら、あきらめろよ、とさえ言いたい。
 
8)神田川の水を飲めるようにしろだって? そりゃ無理だよ。いまどき、都市を流れる川にそのまま飲料水として使えるように期待するあんたのほうがおかしい。そして、原発をなくせと。言うは易し、行うは難し。私なんぞは、自家発電に挑戦中だが、だからと言って、原発などなくなりゃせんぞ、こりゃ。
 
9)憲法9条だって、平和憲法だって、いつまで存続するかわからない。ましてや三省のいうごとくグローバルな世界標準になんかならない。いやいつかはなるかも知れない。あと何世紀か何十世紀かしたら・・・・。でも、三省は死んでしまったし、私たちの世代だって、あと何年、何十年生きるか分からない。数十年で、わが世代はすべて死に絶える。それまでは、三省の夢は、まず無理だね。
 
10)そして思う。東京生まれでありながら、屋久島に引っ込むなんてずるい。東京をなんとかしてほしかったな。その場を借りなければ、三省は三省でなかったのか。あるいは、みんな屋久島に行ってしまえばいい、という訳でもないだろう。残されてあるものがあるではないか。
 
11)晩年は、アニミズムという言葉で括った三省だが、どうもこれもいただけない。テクノロジーとか科学に対する目が、どうも一元的過ぎる。この辺はスナイダーのほうが、素直だ。ITを取り入れたり、ソーラーシステムをいち早く実用化している。三省にはその目がない。三省の空間なら、男はともかく、女性は嫌がるかもよ。例えばうちの奥さんなんかを説得することはできない。まぁ、ここが三省エピゴーネンになれない、私の最大の理由だが。
 
12)あと、どうかな、三省の悪口。そうそう、部族仲間の山田塊也(ポン)の「三省教」批判なんてのも、私は面白おかしく読むけどなぁ。ポンもポンだが。これは当然、その信者たちである取り巻きが悪いわけだが、そのような取り巻きを作ってしまう三省のエネルギーの作り方に、何か根本的な瑕疵があるのではないか、とさえ、実は私は思っているのだ。つまり、どうも作られているイメージがいまだに残る。
 
13)それと、この本や三省の復刻本に力を発揮している野草社のI氏だが、彼にもまた、違和感がいまだに残る。山岸会の特講のインストラクターをしていた、というのがどうも好きではない。その体質が今でも残っているのではないか。その前は、なにやら学生運動やら、出版やら、どこか地下水脈的な妖しさが残る。
 
14)それと、実体験として不思議に思ったのは、スピリット・オブ・プレイスの時、別の分科会のパネラーだった彼は、Aの分科会が終わったあとに、参加者が違うという設定であったにせよ、Bの分科会で、まったくすっかり同じ基調講演をしたことだった。メモも見ないで、しかも感動的に、身振り手振りで講演をした。
 
15)たまたまスタッフとして、二つに参加していた私は、私はこれはどうなのかな、と思った。原稿を読むならそれもよし。だが、いかにも思い出したように、まるっきり同じ講演を二度(もっとやっているのかもしれない)やる神経というのが、私にはわからなかった。それって、お芝居じゃん。
 
16)と、まぁ、思いつくまま、この本の関係者たちに対して、あることないこと、いっちゃもんをつけてみた。もっとあるかもな。でもこれって、私のカタルシス。そして本音。こうして、ひとつのラインを引いておけば、私は無理にこの人たちのエリアに、不必要に引っ張られることもないだろう。
.
17)私は、スナイダーも、三省も、I氏も好きだけど、私は当然ながら、スナイダーでも、三省でも、I氏でもない。彼らに啓発されつつ、私は私のプレイスを生きるのである。
 
<3>につづく
 

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柳田國男と遠野物語 ~日本および日本人の原風景~ タウンムック <1> 


2012/8 徳間書店 ムック: 112p
Vol.3 No.1014★★★★★

1)遠野に行ってきた。最初は釜石の知人を訪ねる旅のはずであったが、釜石には適当な宿泊設備が少ないということで、遠野に宿をとることになった。釜石というイメージと、遠野というイメージでは、釜石は近代的な工業都市で、遠野は辺鄙な山村、と思い込んでいたが、実は、大きく違った。

2)釜石は確かに鉱業の発達した沿岸都市ではあるが、今回の3・11による被害の爪痕が大きく、疲弊したままである。それに比較すると、遠野は内陸部にあり、もともとが、近代的に整備された中核都市であるので、商業施設や宿泊施設がキチンと整備されている。

3)ましてや、この数十年、柳田国男の遠野物語をベースとして観光市として整備された現在、遠野は、私のような、つい思い立ったぶらり旅の観光客には、うってつけのスポットになっている。その整備された美しさと、その奥にある禍々しさが、不思議と共存している。それが遠野である。

4)住まいを立って、車でしばらく海岸線を走る。もう何度も足を運んでいるところなので、海岸線もよく見えない高速をただひた走る。石巻を過ぎ、南三陸町を過ぎ、気仙沼を過ぎると、やはりそこは奥の国、東北の路である。

5)いきなり海岸線に、遠くに魚の骨のような建築物が出現。よくよく見ると、そこは陸前高田市であり、あそこに見えるのはいわゆる奇跡の一本松だった。いちど枯死してしまった一本松は、科学的に処理され、同じ場所にモニュメントとして、保存されることになった。その途中である。

Tn1
6)それからまた海岸通りを走り、釜石についた。昼前についたので、釜石大観音を参拝したあと知人と会う予定だったが、その日は、年に一度のお祭りの日ということで、入場料が無料で開放されている他、なんと、その境内で奉納される鹿踊りを拝観することができるのであった。

Tn22

7)知人を呼び寄せ、敷地内を拝観。遠く海を見つめ、ただ黙想する。会食し、市内徘徊をそこそこに、遠野へと向かう。

8)途中、山中にある滝観洞という長さ1キロほどの洞窟を探検する。鍾乳洞とも違う、長い長い細い洞窟だが、起伏に富んでおり、一番奥には、落差が数十メートルもある自然滝が存在する。かなりの異空間である。

Tn3

9)そこからさらに数十分ほど車で走るとそこが遠野であった。道の駅で一息、地元で作られた牛乳で作られたアイスクリームに舌鼓を打ち、土産物コーナーを見て回る。

10)そこから更に駅近くまで走れば、そこが今晩の宿である。すこし早目に入った二階建て日本家屋の宿は、築60年ということで、ほとんど私と同じ年齢であった。あちこちに痛みが感じられるし、そもそも仕組みが古い。だが丁寧に整備されていて、あちこちに猫たちが座っていたりするのが、いかにも遠野らしいというべきか。

Tn4

11)釜石が目的だったので、遠野については、宿に着いてから改めて調べる予定だった。ネット予約して6畳一間と聞いていた割には12畳二間続きの大きな部屋で、窓からの眺めもいい。一番良かったのは、部屋にちゃんとLANケーブルが配線されていることである。(もっともそれを確認してからこの宿を予約したのだった)。

12)まだまばらな宿泊客だが、どうやら一番風呂は私だったようだ。岩ぶろでひと風呂浴び、髭をそる。遠野だから、髭は伸びていたほうがいいかな、とも思ったが、いえいえ、遠野は近代都市。無精ひげよりは、キチンとネクタイでもしたほうがいいかな、とさえ思った。

13)時間きっかりに夕食の席につき、地元産のどぶろくをいただく。奥さんも味見したものの、残りは私が頂いたから、ほぼ二人分を飲んでしまった。これがうまい。それに効く。

14)明日のスケジュールを立てないまま、早々と床についてしまったのだった。

15)思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百あるならん。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。p4柳田国男「遠野物語 序文より」

<2>につづく

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2013/06/11

大沼安史/翻訳 「『超』育児」―潜在能力を壊さない子育て ダニエル グリーンバーグ著


1999/04 一光社 単行本 244p
Vol.3 No.1013★★★☆☆

「『超』学校」「『超』教育」につづく三部作シリーズの三冊目。いわゆる「子育て」論としては、突出していないと思うが、もし、この三部作の中で敢えて再読しようと思うなら、この三冊目がいいかもしれない。

2)私なりに考えている子育ての仕方を、一言でいうとどうなるか?  

 何年か前の私であれば、たぶん「コモンセンス(常識)のアプローチ」と呼んだはずです。今ではよく耳にする言い方ですが、私自身、この表現にしようと思い立ったのはずいぶん、前のことです。しかし、最近になって、これはまずい言い方だと気づいて使うのをやめにしました。 

 それともうひとつ、「ナチュラルなアプローチ」ではどうかなと思ったことがあります。しかし、どうもしっくり来ない。これまた適当な言い方ではないと、最終的に判断したわけです。 

 コモンセンスでもなければナチュラルでもない私の子育てのアプローチ。p13「子育てのアプローチ」

3)普通に使われている言葉だが、ここまでこだわりを持たれると、そしてコモンセンスでもなければナチュラルでもない、などと屁理屈をこねられると、私なんぞは、そもそも「子育て」という言葉自体が間違いなのでないか、とさえ思えてくる。

4)ことわざに「親はなくても子は育つ」とか、「親の背中を見て子どもは育つ」などというのがあり、余りに親が子にこだわりを持つそのこと自体が問題なのではないか、と思う。「背負うた子に教わる」とか、「無い子で苦労はできぬ」とか、親と子は対等でいいのではないだろうか。

5)それとはまったく違った新しい子育てを、私は「個人的な理由」による子育てと呼びたいと思います。それは、ひたすら親の意向、考え方にかかわる子育てです。p38「子を持つ決断」

6)はてさて、これはどうかなぁ。私なんぞは、妊婦でも、妊婦の夫でもないので、かなりこの辺あたりでこの本の趣旨の流れからは離れてしまう。もっとも、これからも孫たちや、周囲の適齢期の人々に生まれてくる子どもたちがいる限り、子育て、孫育てには関心がある。しかし、こういうこだわりはどうなのかなぁ。

7)フロイトは、患者の精神的な問題の根を引き出そうとすると、ときに生後第一年まで遡ることに気づいたのです。問題の根を突き止めると、人生の最初の一年に加えられた心の傷が修復するチャンスが生まれるのです。

 ここから教訓がひとつ導き出されます。もしあなたが赤ちゃんに何かひどいことをしたら、赤ちゃんはいつかきっと思い出す----そう覚悟すべきです。p150「ゼロ歳」

8)これなんか、私には、親になろうとする世代への「強迫」に聞こえてくる。そもそも、赤ちゃんにとって、ナニが「ひどいこと」なのかなんて、わかりゃしない。良かれと思ってやっていることが、ひどいことだったりする。あるいは、親だって、体が大きくなっただけの赤ちゃんなのだ。たまには失敗もする。100点満点の親などいない。そんな妄想を早く捨てるべきだ。

9)フロイトがどう言ったか知らないが、通常は、2~3歳以前までの記憶をたどることはそう簡単ではない。しかし、たまに1歳やゼロ歳までも思い出すことはある。でも本当のことを言えば、ゼロ歳どころか、誕生前や、前世の記憶まで遡ることができるのだ。

10)だから、親は親としてせいいっぱいやればいいことで、100点満点なんて、最初から忘れることだ。60点合格主義でいい。時には40点の赤点スレスレだって、子どもは子どもとして、立派に成長していく。一緒に、子どもと育っていけばいいのだ。

11)私の出発点はシンプルです。赤ちゃんたちを観察してごらんなさい。圧倒的な印象を持たれることでしょう。

 彼(女)らは常に何かをつかもうとしています。いつも遠くへ手を伸ばそうとしている。しっかり見詰め、観察し、様子を見守る。動き回ろうと懸命に努力します。動けるようになったら何でも触れて確かめ、臭いをかいだりします。周りのものを口に入れたりもする。p230「学び」

12)この辺になってくると、私なんぞはOshoのある一節を思いださないではいられない。

13)

・・・・こうしてみるといい
家に小さな子供がいたら
毎日1時間その子の後を追い回してみてごらん
そのほうがブッダを追い回すよりいいし、有効だ
子供をよつんばいで這い回らせ
自分もよつんばいで這い回る
よつんばいで這い回る子供の真似をする
そうすれば、生まれて初めて
新たな生命エネルギーがやってくるのを感じられる
あなたは再び子供になる
子供を見て、その真似をする
子供は部屋の隅々までいき、あらゆるものに触れる
触れるだけでなく
あらゆるものを口に入れ、あらゆるものの匂いを嗅ぐ
子供の後を追い、何でもそのこのする通りにする

あなたもかつては子供だった
そして同じことをやった
子供は感じている
頭でやったり、考えたりしない
何かの匂いを感じると
その匂いを追って部屋の隅までいく
りんごを見ると、その味をみる
あなたもまた、子供のように味わってみるといい

子供がりんごを食べている様子を見てごらん
彼は、それに夢中になっている
世界全体が消え去っている
もはや世界はない、ただりんごだけがある
いや、そのりんごでさえ存在せず
その子もまた存在しない
ただ食べることだけがある
1時間ほど、小さな子供の真似をする
その1時間は実り豊かなものになるだろう
あなたは、ふたたび子供になる

自己防衛は消え去り、鎧は消え去り
あなたは再び子供のように世界を見る
つまり、感覚の側面から見えるようになる
そして、あなたはこう感じる
「自分は感じることができる・・・・・自分は考えてはいない」
その時、あなたはじゅうたんの折り目を楽しむ・・・・・
子供のようにじゅうたんの上を這い回り
その感触や暖かさを楽しむ

無邪気に子供の真似をすることによって
様々なことが子供から学べる
やがて、真の無垢がほとばしり出る
あなたはかつて子供だった、そして
あなたは子供であるとはどういう意味かを知っている
ただそれを忘れてしまっているだけだ
肝心なのは、感覚センターの機能が開始することだ

方法は、まだ他にもたくさんある
それを行なうのに特別な努力はいらない
眠りに入るとき、ベッドを感じ
まくらを感じ、その冷たさを感じる
まくらを相手に、まくらとたわむれる
目を閉じ
エアコンの音や、車の音や、時計の音に、ただ耳を傾ける
レッテルを貼らずに、何もいわない
心を動かさない、ただその感覚の中を生きる

朝になって目覚め、眠りが消え去るのを感じたとき
思考を開始してはいけない
しばらくの間、子供になりなさい・・・・・・
無垢で新鮮な子供に
思考を開始しないこと
これから何をしようか、何時に出社しようか
どの汽車に乗ろうかなどと考えないこと
そういった些細な事には、後でいくらでも時間がある
そのまま、しばらくのあいだ音を聞く
鳥が歌っている、あるいは木々がそよいでいる
子供が泣いている、牛乳配達がやってきて音をたてている
牛乳を注ぐ音がする・・・・・・
およそ、起こるすべてを感じなさい
それに対して敏感になり、オープンでいること
そういったことを自分に起こるままにさせておく
そうすれば、敏感さは成長する

"The Book of the seacret" より March 31, 1973  Osho「ニューチャイルド」p29

14)「超」学校シリーズ3部作は翻訳者追っかけで読み始めたのだった。他にも翻訳者関連の本もいくつかあるが、この分野の追っかけは、そろそろこれで十分なのではないかな。

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大沼安史翻訳 「『超』教育―21世紀教育改革の指針」 ダニエル グリーンバーグ 著

1998/12 一光社 単行本 242p
Vol.3 No.1012★★★★☆

1)「『超』学校」シリーズ三部作の中の、第二作。第一作はアメリカ・マサチューセッツ州東部にあるサドベリー・バレー校の、いわばドキュメンタリーであったのに対し、こちらは、設立者の一人である著者が地元の新聞紙「ミドルセックス・ニューズ」に連載したコラムが一冊になったものであり、いわば評論、あるいは理論、ということになる。

2)それは、グリーンバーグ氏に対する、実の父親の”一喝”から始まった。

 ニューヨークにあるコロンビア大学から物理学の博士号を取得、母校で教えていたグリーンズバーグ氏が教育制度に疑問を感じ、教職を辞してフラミンガムに移り住んで間もないころ、氏の父親が訪ねてきた。

 1965年の秋----。肩を並べ一緒に散歩しながら、いつものように教育批判、学校批判を繰り広げるグリーンバーグ氏に向かって、父親が突然、こう問い返したという。

 「息子よ、どうして私に語ってばかりいるのだ。批判や不満を言うのは、そろそろ止めにしてみないか。その代わり、書いたらいい。自分の考えを書いたらいいい。そして、ほかの人が、それをどう判断するか見るがいい。他人がどういう反応する、見るがいい。そうじゃないかね、ダニエル」

 やがてグリーンバーグ氏が同志とともに新しい学校の設立趣意書を起草し、フラミンガム地区の人々に参加を呼び掛ける最初の種子を蒔いたのは、この父親の一言だったという。「『超』学校」p274「訳者あとがき---解説に代えて」

3)ある意味でこの二冊目は、「批判や不満」で渦巻いている。もし、一冊目を読んでいないとしたら、何を言っているんだこいつ、となりかねなかった。なるほど、これだけ強烈な批判や不満があったればこそ、フリースクールともオルタナティブとも言えない、さらなる「超」スクールを作る必要があったんだな、と納得する。

4)この本においては、随所に、日本の教育システムについて触れているところがある。ほとんどは良い評価を与えている。同じころ、子どもたちに日本の教育を受けさせていた身としては、ややこそばゆいが、えてして、海外に対する評価というものはそういうものになってしまうのだろう。

5)さて、ここで皆さんに、ちょっとした頭の体操をしていただきたいと思います。時間はかかりません。簡単です。でも、驚くべき結果が得られること間違いなし。さあ、それでは始めます。

 楽な椅子に腰かけてください。余計な考え事は頭のなかから追い出してください。そしてリラックス・・・。記憶と判断力を自由に働かせてください。でも、「間違える」ことを恐れないでください。よろしいですか? それでは質問です。

 「あなたが、『古典』とされる小説や詩を最後に読んだのはいつですか?」(ごまかしはなしです。ベストセラーや恋愛小説、ミステリーではなく、「古典」ですよ!) p30「学習・カリキュラム・教育目標」

6)私の場合の最近と言えば、柳田国男「遠野物語」をKindleで読んだかな。でも純粋な小説や詩ではないなぁ。では震災直後に読んだ鴨長明 「方丈記」はどうだろう。でも、現代語訳付きだったから、純粋な古典とは言えないかもしれない。

7)「あなたが最後に長除法や長乗法を使ったのはいつですか?」(桁の大きな数の割り算や掛け算です。計算機を使ったことはカウントに入れないでください)p30同上

8)これはわりとやる。工作をしていると、スケールで寸尺を測り、頭の中で計算をする。2や3で割る時は簡単だが、7とか9とかになってくると、かなり複雑だ。13とか17とかね。鉛筆とスケールを両手に持ちながら、頭の中でやるのだが、結局、あとで電卓で検算することになるのだから、純粋に長除法や長乗法を使ったとは言えないかもしれない。

9)「一次方程式を使ったのはいつですか?」「二次方程式は?」「三角関数はどうでしょう?」(覚えていますか? サイン、コサイン、タンジェント、コータンジェント、セカント、コーセカント・・・・・ えっ、もう忘れたですって?)p31同上

10)最近、太陽光パネルについて、屋根の勾(こう)配の事が話題になった。私は自分の屋根を「五寸勾配」と覚えていてのだが、業者はいやそれほどないという。設計図を見ると、底辺が10に対して、高さが5だから、五寸勾配に違いはないのだが、はて、その角度はいくらになるだろう、と思って、そういえば、こういう時は、タンジェントを使うんだっけ? と、その単語を思い出した。ただ、有効にその計算を使ったわけではない(笑)。

11)「あなたが最後に読書感想文、体験談、物語を書いたのはいつですか?」p31同上

12)読書感想文に関しては、読書ブログを書いている限り、毎日やっていると言える。体験談もまあまあ、プライバシーに及ばない程度にさらっと流している。物語や小説は、得手ではないので、もともと書かない。

13)インディアンがどうやってトウモロコシを育てあの円柱のテント小屋を建てたか、あなたが最後に考えたのはいつですか?」p31同上

14)3・11の直後にエコビレッジ構想の中でトウモロコシも蒔いたし、そこにはティーピーテントもあったから、確かに考えたな。でも、みんなで力を合わせて組み合わせたのではなくて、クレーン車で業者に頼んだ、って聞いたの時は、ちょっとがっかりした。

15)「トーマス・ペインやベンジャミン・フランクリン、ジェームズ・マディソンやウィリアム・ヘンリー・”ティピカヌー”・ハリソンについて考えたのはいつ?」(誰のことだったか調べなければなりませんか?)p31同上

16)最近は、太陽光発電や水力発電、風力発電を、手作りでやろうと、大人の週末工作をしているので、ごくごく最近、ベンジャミン・フランクリンのことを考えたよ。そろそろ次は、凧を上げて、雷が本当に電気なのかどうか調べる時期に来てるかな、なんてね(笑)。

17)・・・・もう、このぐらいでやめにしましょう。切りがありません。続ければ続けるほど、「あれは嘘だったの」という実感が深まるだけです。これから世の中に出て生きていくために絶対必要な現代人必須の基礎知識だから身につけなければならない、と言われて覚えたあれこれが、どれもこれも全く必要なかったのです。私たちは騙されていた!p32同上

18)まぁね。著者が言わんとすることはわかります。しかし、このようなメリハリの利いた本にはよくあることだけど、すこし言葉が走りすぎるんだよね。私はサドベリー・バレー校の卒業生ではないけれど、自分が学校で習ったことが無駄だったとは思わない。

19)英語だって、苦手だったけど、中学三年生程度の英語で外国を歩いても、結構通じるし、自分を表現することもできる。要は表現しよう、という気持ちがあれば大丈夫なんだ。地理も歴史も苦手だったけど、全く基礎として役立たなかったなんてことはない。

20)大事なことは、子どもたちが今、情熱と限りないエネルギー、集中力をもって追い求めている意味ある学びを認めることです。p69同上

21)これはそうだね。

22)教育とは子どもを、社会人として立派に機能する人間に育てることである、という主張に異を唱える人はいないでしょう。ところがこれをどうやって実現するかとなると、とたんに難しくなってしまいます。p82同上

23)著者は、学校や教育というものに、過大な期待をかけ、可能性を見過ぎているのではないだろうか。私なんぞは、学校なんてこの程度だ、教育なんてこの程度だ、と思うから、人間がやるべきことをすべて、学校や教育の現場で実現することなんぞ、所詮不可能だと思うし、ほぼ全く期待していない。

24)教室の画一化を達成するには、基準に合わない子を、何らかの病気と”診断”しなければなりません。”診断”することで初めて、特殊教育の予算が出る仕組みだからです。p206「その他の基本問題」

25)この辺になると微妙な判断が必要となる。意味していることがかなり広範囲に関わり、人によってまちまちの理解となる。まずは、私は教育者でも学校関係者でもないから言えることだけど、学校なんてどうでもいいじゃん。なんだかんだ言いながら、学校というシステムにしがみついているんじゃないかなぁ。私なら、「超」学校、ではなく、「脱」学校、「脱」教育、と言う本の方に魅力を感じる。寺山修司なら言うだろう・・・「書を捨てよ、街に出よ」。それが、いかに詩的な表現であったにせよ、寺山のほうに分がある。私なら寺山のほうに軍配を上げる。

26)いったん規範外の子とレッテルを貼られたら最後です。学校のメインストリーム(主流)に戻ることはできません。p213同上

27)私は優等生とも劣等生ともレッテルを貼られたことはないが(かなり近くまでいったことはどちらもある)、んなことはどうでもいいじゃないかなぁ。結局、この世の中、学校だけでできているわけじゃないし、学校で不良だったのが出世している例は山ほどある。優等生と思われていた連中が、いつの間にかフェードアウトしている例も数限りないよ。学校なんてそんなもんだよ。別にメインストリームになどいる必要はない。

28)答えはかんたん、この国の市民は公共の場で、自分の言いたいことを言い、出版したいことを出版する権利がある、ということです。ただし、ちょっとした制限がついています。他人を誹謗中傷したり、危険に曝したり(例えば、満員の劇場で「火事だーっ」と叫ぶ)してはならない、といった制限が加えられているのです。p199同上

29)この本は、翻訳者つながりで読むことになった。この部分については、翻訳者に言いたい。ネット空間という公共の場で、いくら自分のブログという私的なスペースとは言え、「拡散願」を訴えながら、第三者に危害を加えられていて、場合によっては命にかかわるような表現をしたのだ。その第三者をあたかも特定の存在であるかのようにほのめかしたりした限り、一般には、「満員の劇場で、『火事だーっ』と叫」んだのと同じようなものだ、と理解されてもしかたないだろう。

30)真偽の沙汰は定かではないが、表現に関わる立場なら、相当の覚悟の上でのこととお察しする。

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2013/06/10

自分で作るハブダイナモ風力発電 + (大人の週末工作) 川村康文著<6>

<5>よりつづく

2012/11/26 総合科学出版 単行本(ソフトカバー) 144p

 風力発電用のハブダイナモを注文しているのだが、まだ届かない。でも、よく考えてみれば、手元にある手回し充電器を風力で回転することができるのではないか。

Kw2
 仕組みは至って簡単なものである。とりあえずのプロトタイプだが、これで十分なはずだ。あとは強度とか、安定性を考慮していけばいいのだ。

Kw3

 それにしても、土手でプロペラを回すと、人気者になれる。今日も何人にも声をかけられた。川の堰を管理している土地改良区のおじさんもニコニコ顔でよってきた。いろいろ話していたら、この人、遠い親戚だとわかった(笑)

Kw1

 今日テストして分かったこと。プロペラは強度が必要である。サボニウス型デクノボーがしっかり大地に立たないといけないのと同じように、プロペラが風にシナッていたのではプロペラにいく力が半減する。

 それと、手回し充電器も個性があって、コギングではないが、回転数が上がると負荷を強くするタイプや、60回転/分を要求するもの、120回転/分を要求するものなど、いろいろあるのだった。 この辺の組み合わせも考慮していく必要がある。

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大沼 安史・翻訳  「超」学校―これが21世紀の教育だ <2>

<1>からつづく

ダニエル グリーンバーグ (著), Daniel Greenberg (原著), 大沼 安史 (翻訳) 1996/12 一光社単行本 282p
★★★★★

1)この本、読みとおすのに結構時間がかかった。最初の30ページほど読み進めたところで、止まってしまった。そして、本の成り立ちやスタイルを了解するまですこし時間がかかった。しかし、読み終わってみれば、うん、面白かった、次なる「『超』教育」やら「『超』育児」とは何ぞや、と興味も湧いてくる。少なくとも続巻達を読み進めるのは、これでだいぶ楽になったはず。

2)サドベリー・バレー校は、型にとらわれない時代の先端を行くクールな学校です。決められたコースも、学科もありません。すべては、子どもたちの好奇心に始まり、好奇心に終わります。つまり、子どもたちは時間の流れを我が物としているのです。それは中断することがありません。p90「熱狂、そして流行」

3)紹介文や論文を読むなら、この程度で終わるのであり、ふむふむなるほどね、そんな学校もあるだろう、と次なるものに関心が移っていく。だが、この本、小説とも、ドキュメンタリーとも言えるこの本に長時間つきあってみれば、その言っている意味が、ひとつひとつ形を伴って理解することができる。

4)一段登ったところで、わたしは感動しました。わたしを乗せてくれている枝の見事な美しさに打たれたのです。その力強さと居心地のよさ。あるいは、わたしを包み込む畏れに似た思い・・・・。

 わたしがブナの木を初めて「見た」といったのは、そういうわけだったのです。「見た」と表現するほかない、何かをわたしは感じたのです。

 わたしたち大人はともすれば、自分たちのことを物識りだと思っています。そして、子どもたちは学ばなければならないし、教え込まれるべきだと考えています。が、それこそ、おおきな間違いなのです。p121「年齢ミックス」

5)感動すること、体験すること、挑戦すること、など、加齢とともにどんどん失っていく資質である。子どもたちと過ごす時間は、子どもたちに対する何か、も大切ではあろうが、それ以上の何かを確かに与えてくれる。だから、人は大人になっても「学校」が「好き」なのだ。

6)サドベリー・バレー校の教育の核心にあるのは、子どもたちを格付けしないという、わたしたちのポリシーです。子どもたちを比べたり、設定した基準に照らして評価したりしません。わたしたちにとって、そんな行為は、子どもたちのプライバシーと自己決定権の侵害でしかありません。p149「評価」

7)私はPTAのOBとして、教育委員会の学校評価システムの検討委員の一人であったことがあり、学校そのものをどう評価するのか、ということを考えさせられたことがある。子どもであれ、学校であれ、客観視され、相対化されることは、避けては通れないのだが、そのことが優先し、独り歩きするのは望ましくない。少なくとも、何かの時の参考にとどめるべきである。

8)当時、アメリカ社会は沸騰していました。政治的な大闘争で国は分裂し、怒りと暴力が充満していたのです。学校もまた、その例外ではありませんでした。

 アメリカの至るところで、新しい学校が生まれました。既存の学校では満足できない教師や活動的な父母、あるいはまた政治的なセクト、ときには反逆に立ち上がった学生や生徒がつくった学校です。その多くが「フリースクール」のレッテルを貼られました。

 しばらくすると、それは「オルタナティブ(新しい)・スクール」と呼ばれるようになったのです。そして、呼び名は、教育の本流の外に位置する学校の総称として、今なお使われています。

 サドベリー・バレー校は、こうした「新しい学校」とは出自を異にしています。わたしたちは、広大な歴史的背景と学習理論、アメリカの人間が織りなして来たユニークな経験をバックに、自らの哲学と目標を築き上げたのです。

 1968年という激動の年に学校をオープンするこおとになったのは、巡り合わせに過ぎません。運命のいたずらでサドベリー・バレー校は、マサチューセッツ州の東部地域で当時、唯一、十代の子を受け入れる「新しい学校」となったのです。p153「避雷針」

9)この本を読み始めたのは、翻訳者のブログに紹介があったからであった。この学校を知るよりも、翻訳者のことを知りたかった。この邦訳がでた1996年と言えば、翻訳者は47才くらい。プライバシーは存じ上げないが、一般に、十代の子どもたちの親の世代である。

10)我が家の子供たちも成長の過程にあった。私自身も、子どもたちの成長とともに、町内会青年部、父親の会やPTA、あるいは学校評議員などで、その現場に関わった。すべてがベストという訳ではなかったが、その活動の総体は、私自身ための、二度目の「学校」という感じがした。

11)もうひとつ思うこと。翻訳者の現在(2013年)のパートナーが企画・制作した「『ひとりじゃないよ』~不登校・ひきこもりの子どもと共に」(エルパーク仙台 2001/03)に、この邦訳の情熱が引き継がれていったのだろう、ということ。この小さなリーフレットの中でも、この翻訳者が一文を添えている。

12)このパートナーと、私たちは2010~2011年頃、エコビレッジの可能性を探っていた。そのスペースは、屋久島の山尾三省たちの村と同じ北斜面にあり、同じくらいのスペースだった。アメリカのゲーリー・スナイダーのキッドキッドディジーは、この更に4倍の大きさだという。具体的に与えられたスペースに、よりリアリティを感じたし、夢ももった。

13)実際には、私たちの夢は、3・11によって中断に追い込まれている。福島の東電原発から数十キロ以内にあり、線量がいちいち気になるエリアである。すべての原因を事故に押しつけることはできない。私個人でいえば、いまいち情熱に欠けていた。多少の困難を乗り切るほどのエネルギーが、いまいちない。

14)あの時、仲間たちと山の木々の間の山道を歩きながら、彼女が彼女なりにイメージしていたのは、どんなことだっただろう。きっと、どこかで、このサドベリー・バレー校のことが具体的なイメージとしてあったと想像すると面白い。

15)あのスペースに、アメリカ・マサチューセッツ東部で展開したような動きを期待することは、決して荒唐無稽ではない。いつかは、その花が開く可能性は残してある。

16)ゲーリー・スナイダーの最新刊「For the Children 子どもたちのために」(2013/4 新泉社)を横に置きながら、この本を読み進めた。思うに、スナイダーは大学で教えたりはしているが、決して十代の子どもたちと学びあう「学校」を作ろうとしていたわけではなかった。あるいは三省にしたところで、屋久島に渡る前は大学予備校で講師をして生活をささえ、あるいは晩年には沖縄大学で記念講義もした。しかし、ふたりとも「学校」を作り、運営をしようとしたわけではなかった。

17)もっと大きなくくりで言えば、この世自体が「学校」なのであり、学びの筈なのである。その小分けとして十代のための学校や、大学なども存在するだろう。

18)わたしたちサドベリー・バレー校のスタッフのほとんどが、学校時代、同じような目に遭っています。わたしの場合はとくにひどくて、12年に及ぶ学校生活を通して、教師や学校当局者による気侭な権威の乱用にビクビクしながら暮らしていました。だから、わたしたちスタッフは、決意を固めたのです。サドベリー・バレー校を、そんな学校には決してしないと。p247「自由と正義」

19)「12年に及ぶ学校生活を通して、教師や学校当局者による気侭な権威の乱用にビクビクしながら暮らしていました」という部分に共感する読者も多いに違いない。私もその一人だ。だからこそ、私は「学校」に多くの夢を持っていないが、著者や翻訳者たちは、(たぶん)親として、自分の子どもたちは、そんな学校には行かせたくない、と思ったに違いない。

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2013/06/09

自分で作るハブダイナモ風力発電 + (大人の週末工作) 川村康文著<5>

<4>よりつづく

2012/11/26 総合科学出版 単行本(ソフトカバー) 144p

 はっきり言って、サボニウス型の回り方が気にいらない。そもそもヨーグルトのパックが楕円すぎるのかも知れないが、根本的に回りがわるい。

 それに比すると、プロペラ型は、仰々しいが回りはいい。そこで、すこし大型のものを作ってみることにした。ハブダイナモとまでは行かなくても、震災後に用意しておいた、手回し充電器ぐらいは回してくれるのではないか。

Wt3
 そこで準備したのが、またまたスーパーでもらってきた発砲スチロールの箱と、古いテントの骨組。もう布は破れてしまって、足だけが無用の長物と化している。

Wt2
 さっそく作って河原でテスト。

 まぁまぁの出来である。

 土手をウォーキングしていた、老夫婦と、風力発電を通じてお友達になってしまった(笑)

Wt1

<6>につづく

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For the Children 子どもたちのために ゲーリー・スナイダー<1>


ゲーリー・スナイダー (著), Gary Snyder (著), 山里 勝己 (編集, 翻訳), 高野 建三 (写真)2013/4/23 新泉社 単行本: 143p
Vol.3 No.1024

1)順番でいけばこの本は、当ブログにおけるVol.3の1012冊目ということになるのだが、当ブログは1024冊目でVol.3が終了するので、この本を持って2010/04/13から続いてきたVil.3を終了したい。そのため便宜上、この本を1024冊目、と称することとする。

2)間にあるべき他の12冊もすでにほぼリストアップされている。それらの方向性はまちまちに見えはするが、実はこの本にすべてリンクしていると考えてもおかしくない。あるいは、この本にリンクしているのだ、ということを確認しないと、わずか12冊なのにバラバラで、何を志向しているのかわからなくなるかもしれない。

3)最初はこの本のタイトルを「ゲーリー・スナイダーの世界」にしようという提案があった。しかし私自身はあまり乗り気ではなかった。というのは、(私の多くの詩がそうであるように)この本には女性や子どもたちや犬やトラックやさまざまな道具が存在しているからである。p6「序文」ゲーリー・スナイダー

4)この本のタイトルは、スナイダーの「亀の島」の詩から取られている。

5)子どもたちのために

上昇する
統計の丘、その険しい斜面が
ぼくらの前に横たわる。
すべてが急に
上がっていき、昇っていき、
ぼくらはみんな
落ちていく。

次の世紀
あるいはそのまた次の世紀には
谷間や牧草地があり、
うまくいけば
ぼくらはそこで
みんなで平和に会えるという。

やがてくるこのような頂を越え行くために
きみたちにひとこと、きみたちと
きみたちの子どもたちに-----

離れず
花々から学び
身はかろやかに
   「亀の島」より p88

6)写真がふんだんに含まれている。この本は、ほとんど、一緒に再刊された山尾三省との対談集「聖なる地球のつどいかな」 (野草社+新泉社 2013/4)の続刊である。あるいは、この本があってこそ、かの本は完結する、といってもいいかもしれない。

7)当ブログがこれから10日ほどの間に読む他の10数冊の本は、精神として、すべてこのルーツとつながっている。あるいは、この本と対比させることによって、当ブログの精神性を浮き上がらせたい。

8)この本に書かれていることが全て正しくて、修正の必要がなくて、議論の余地がない、とは思わない。ある部分においては、いささか腹ただしい部分もないではない。しかし、それはそれとして、この本と、当ブログの距離感こそが大切なのであり、当ブログには当ブログが依って立つべきプレイスがあるのである。

9)まずは、この本にであえてよかった。

<2>につづく

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2013/06/08

自分で作るハブダイナモ風力発電 + (大人の週末工作) 川村康文著<4>

<3>よりつづく

2012/11/26 総合科学出版 単行本(ソフトカバー) 144p

 しっかりした台が必要ということだったが、目に入ったのがキャンプテント用のヒモ。四方からヒモを張れば、別に台は必要ないんじゃないか。 それに高いところのほうが風が強いということで下にすこしポールを足してみた。

Wf1
 さらに、微風状態だと、間が持たないので、上のほうに、台所用品で作ったヒコーキ型と回転型の風力計(風車)を乗せてみた。
Wf5

 今日は微風で回りが悪かったが、三つ同時に回ったりすると、結構な見もの。

  基本形は大体これで出来上がった。現在はまだハブダイナモがついていない。接続部分もガムテープで留めてあるだけ。
<5>につづく 

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「自分で作るハブダイナモ水力発電」<6> (大人の週末工作) 中村昌広 (著)

<5>からつづく 


2012/7/4 総合科学出版 単行本(ソフトカバー): 148p

1)カッパワー2号のテスト結果

  羽の形を整え、皿の部分の水漏れ防止を処理した。そして、今まで、イカダ型、ホーバークラフト型、モーターボート型と進化してきた、わがポータブル水力発電システム・カッパワー3号は、ドルフィン型へと変貌した。

Df1

  多少ファットだが、現場でシェイプアップするためにすこし大きく作ってある。ポイントは尾ひれを付けたこと。そして前頭部に水を呼び込みやすいように開口部ぶを大きくした。

De4

  さっそく、お風呂で浸水テスト。お風呂場で遊んでいるうちは、かなりの迫力だが、川にいくと、あらら、大自然はすごい。

Df5

Df2

  あい変わらず急流だが、濁流もある。水流に合わせて、すこし腹部をカットして、回転部分を少し下に落とした。

Df6

 

  さて、問題の回転数は・・・? 数えてみると70回転/分まで上がっている。おう、これはもう実用になる。あるいは、これ以上回転数を上げようとすると、もうこのシステムでは無理なようだ。

Df3

  まずは、これで完成形としよう。あとは、電源系統だが、他の太陽光とか風力とかと一緒に、電子工作を進めようと思う。回転部分としては、これで終り。

 

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2013/06/07

自分で作るハブダイナモ風力発電 + (大人の週末工作) 川村康文著<3>

<2>よりつづく

2012/11/26 総合科学出版 単行本(ソフトカバー) 144p

 そこで、とにかく土台をしっかりさせて、支える軸もがっちりしたものでなければならないと分かった。

Kw3

 さっそくありあわせのパイプで固定し、回転を待った。しかし、自宅周辺では、なかなか良い風が吹かない。玄関先の通路脇だと比較的風通しがいいのだが、玄関先にこの風力発電デクノボー1号を置くと、「喪中」とか「通夜」とかのイメージが湧きやすい(笑)。

Kw11

 そこで、近くの河原へ移動。すると、おお、なんとなんと、高速に回転し始めた。不思議なことに、自宅では軽く回転していたピンポン十字型や、ヨーグルトパッケージ型は、地面におくとほとんど回らない。車の上におくとかなりまわるようになった。

 この写真では、回転の仕組みが良く分からないが、後日、もうすこし分かりやすくメモしておこう。 回転している証拠と言えば、回転部分がねじれているように見えるが、これはiPadのデジカメのせい。

 回転が一秒間に2・5回転くらいしているので、シャッターを押した瞬間に、上から下まで順番に記録していくようだが、その間にも、パネルがどんどん回転しているため、順次位置がずれるのだ。 実際に撮影しようとすると、iPadの画面上でねじれて回っているように見える。実際はねじれていないのだから、面白い。

Kw5

 蛍光灯の傘を羽に用いたシステムは、なんと150回転/分を記録した。感じとしては風速5mくらい。決して強風ではない。これだったら、120回転/分を軽く上回っているので、ハブダイナモの負荷があったとしても、十分定格の出力を得ることができるものと判断する。

 ただし感じとして風速2mくらいだと停止してしまう。回り始めも、やや重い。高いところだと風速が早くなるかもと思い、土盛りの上に移動してみた。これは当たった。十分実用になる回転数である。力もあるので、ハブダイナモはこれで十分回るだろう。

Kw22

 デクノボーは、風の中にすくっと立たなければいけない。風にまけてふらふらしていては発電できない。

           

<4>につづく

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自分で作るハブダイナモ風力発電 + (大人の週末工作) 川村康文著<2>

<1>よりつづく

2012/11/26 総合科学出版 単行本(ソフトカバー) 144p

 今回材料として、まず考えたのは、土台をどうするかという問題。固定式にすると最適な場所とは限らなくなるし、アウトドアで使えない。早い話が物干し台みたいなものがあればいいのだが、移動用のしっかりした土台となると、車のタイヤなんかどうだろう、と考えた。

Dec3
 そもそも車にはパンク時用の予備のタイヤが付いているし、家庭においても、冬タイヤ、夏タイヤ、常にワンセットは、狭い車庫を占領している。こういう時に、働いてもらうのも悪くない。

 支柱はどうするか。これは複数考えられるが、とりあえず、余っていた物干しポールを一本準備した。場合によっては金ノコギリで切る必要がある。

 そして、最後の羽の部分だが、たまたま我が家の資材センター(実は物置)で目についたのが蛍光灯の傘。先日、事務所の天井つけの蛍光灯が壊れたので、ホームセンターから部品ごと買ってきて取り替えたのだった。その時の傘である。

 二本の蛍光管用のため、結構長い。それに幅もある。電気製品として考えた場合は、えっ、こんなに華奢なの、とさえ感じた。しかし、風力発電の羽として考えた場合、強度は十分であるが、金属なので、少し重い。これって、本当に回るだろうか。

Dec1
 そこでとりあえず、二つをガムテープでくっつけて、庭のビワの木にぶら下げてみた。存在感はあるが、どうも回らない。

 そこで、台所用品で作ったプロトタイプを同じ場所に並べてみた。卵パックで作った十字型は、本当に微風でも回り始めた。実に何グラムというくらいの軽さゆえであろう。
Dec2
 ヨーグルトパックで作ったサボニウス型は、回らない。つまり、昨日は回ったわけだから、今日は風が弱いのだ。だから、蛍光管の傘がまわらないのは、風が弱いせいだ、と合点することにする。
 さらに、ビワの木にぶら下げただけの場合、上は固定されているが、下が固定されていないので、回る前に、横に揺れるだけになる。これでは微風であろうが強風であろうが動かないでただ揺れるだけになる可能性がある。
 とにかく、回転部分としてきっちり固定することをまず考えなければならない。
 今回、この風力発電システムに、愛する宮沢賢治に敬意を表し、デクノボー1号と名前をつけた。
<3>につづく 

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自分で作るハブダイナモ風力発電 + (大人の週末工作) 川村康文著<1>

2012/11/26 総合科学出版 単行本(ソフトカバー) 144p
Vol.3 No.1011★★★★★

 
この大人の週末工作シリーズの中には、すでに「自分で作る風力発電」があるが、こちらは、「自分で作るハブダイナモ風力発電+」である。ハブダイナモの文字を見落としてはならないし、「+」の印もなにやら意味深である。

 風力、というとまず頭に浮かぶのは、学校の校庭にあった気象箱の風力計。ピンポンの玉を二つに割ったようなものが、十字に組まれている。このイメージを台所のプラスチックゴミやら引き出しの中の保存品やらで作ってみた。

Kisyo
 風力を受けるところは、卵のパックのふくらみを切り取ったもの。それを団子の串に刺して、ストローで受けて、土台は納豆のパック。これはこれで、風を受けて結構早く回る。しかし、力が弱いかも。

 次に思いつくのは、飛行機型の、いわゆる風力発電してますよ、というイメージそのもののモデル。食材のパックを三本に切ってプロペラにし、串でさしてホッチキスで留めた。ヘッドはペットボトルのキャップ。飛行機の本体は割りばしで、ストローと割りばしを固定する部分は、つまようじ。

Hiko
 飛行機型はかっこいいのでオブジェとしてはいいかもしれないが、発電には向いているだろうか。最近は低周波の問題もとりざたされているし、結構大きなものになってしまいそう。風だって、いつも吹いているわけじゃぁない。

 今回は発電が目的なので、三番目のサボニウス型風車を目指そうと思う。今回使ったのは、本体はヨーグルトの容器。ストローと串。台は相変わらず、納豆のパック。これは、格好はいまいちなのだが、よく回る。それに力もつよそう。

You
 大きさや、設置場所、ポータブル性を持たせるのかどうか、などで、いろいろ考えてみる必要がある。それに材料のリサイクルってのも、実は目的であったりする。

 まずはイメージづくり。

<2>につづく

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2013/06/06

「自分で作る風力発電」 [Kindle版] 中村昌広 (著) 大人の週末工作

2013/6/1 総合科学出版 フォーマット: Kindle版 ファイルサイズ: 9544 KB Amazon Services International, Inc
Vol.3 No.1010★★★★★

1)この大人の週末工作シリーズ、太陽光発電からはじまり、水力発電、そして風力発電と行くらしい。我が家のポータブル・ソーラーはすでに実用化し、今度の週末には水力発電もほぼ実用化の目途がたっている。次は、風力発電である。

2)当ブログとしては、本当は、この大人の週末工作シリーズで、原子力発電までいきたい(笑)のだが、それはブラック・ジョークすぎるだろうか。ガイヤ理論のラブロックや、ホールアース・カタログのスチュアート・ブランドの最近の言説によれば、電話帳くらいのポータブル原発が誰でも持つ時代が来るかもしれないので、その可能性に賭けてみたい気もする。

3)どこかの学生が、ネットで情報を集めて、核爆弾を造ったというから、最後まで可能かどうかはともかく、ネット情報でポータブル原発を週末工作で作る時代が来るかもしれない(もちろん、私は現在の原発システムには大反対である)。

4)この本、この6月にkindle版もでたようだから、かなり人気本なのであろう。

5)しかし、かなり本格的である。プロペラ付きの模型飛行機をイメージする風力発電だが、その回転部分をつくるというだけなら私もついていけるが、この本では、発電機そのものを作ろうというのだから、半端じゃない。

6)著者にとっては、自転車のタイヤについている発電機ハブダイナモでは物足りないのだ(lll゚Д゚)  著者は専門家ではないのだが、ここまでのめり込む。これはもう当ブログの範疇を越えているが、いつかやってみたいと思わせる魅力ある工作である。

7)当ブログでは、すでにホームセンターの自転車コーナーから無償で譲り受けたハブダイナモで水力発電器を鋭意制作中である。完成までの道筋はついた。次は風力発電だとばかり、次のハブダイナモを探索中である。

8)他の自転車屋を数軒回ってみたが、今のところ、ラッキーなことばかり続かない。個数的には流通していない部品ではあるが、自転車で部品としてハブダイナモを取り寄せることもできる。店によって値段はまちまちだが、私は2500円ほどで、次なる風力発電用を注文しておいた。

9)ひとつ、自転車屋を回っていて感じたことがある。私は、どうせ捨てるのだから、無料でくれてもいいだろうと思った。現に、別な自転車センターでも目の前に廃棄用の中古自転車にハブダイナモがついていた。これがほしいと言ったのだが、駄目だった。

10)なぜか。

11)ひとつ、大型自転車センターでは、中古自転車は扱っていない。業として中古品を扱うとすれば、別途警察等に届けを出さなければならないのだ。つまり、中古品を販売すること自体ができないことになっている。

12)次に、じゃぁ、なぜに無料でくれないのか、というと、これもなかなか興味深い現実がある。自転車店では、不要になった自転車を、ただで引き取っているわけではない。500円とかの廃棄料金を得て、客から引き取るのである。だから、責任上、最後まで廃棄処分をしなければならない、ということらしい。

13)ニュースで、廃棄家電製品の横流し、海外流出の話題が出ていた。つまり、あの問題と同じことが起きてしまうのである。

14)私は今回たまたま廃棄自転車のハブダイナモに気づいた訳だが、仕組みを知っている技術者たちなら、廃棄しようとする家電製品から、自らが工作に使えそうな部品を全部取り外して廃棄するだろう。

15)現にドシロートな私でさえ、古いパソコン類を廃棄する時には、使えそうな部分を外して引き取ってもらう。自転車だって、見る人が見れば、再利用可能な部品の塊に見えてくるに違いない。

16)で、現実には、このリサイクル法で縛られている廃棄家電品類の再利用状況はどうなっているのであろうか。有効に分解再利用されているのであれば、いいのだが、万が一、埋め立てだけに使われているのなら、せめて、自転車のハブダイナモだけでも、取り外して、流通して欲しいなぁ、と勝手に思ったのだった。

17)あるいは、このハブダイナモがもっと話題になり、自転車を廃棄しようとする人が、ハブダイナモを取り外して、ネットオークションででも流通させれば、週末工作も楽になるかもしれない。業として中古品を販売するのでなければ、問題ないように思うのだが、どうだろう。

18)いずれにしても、自転車店回りをして、一生懸命働いているスタッフたちの時間を借りて、しかも無償で中古部品をいただいてくる、というのは、いささか恥ずべき行為なのではないか、と思った次第。先日、無償でゲットできたのは、ラッキー中のラッキーと思うことにした。

19)しかし、5~6000円というのは高すぎる。別な大手自転車専門チェーン店では6000円超だった。品番を選ばなければ、部品取り寄せで、カタログ価格2500円前後である。発電工作の中核になる部品なので、このハブダイナモがこの値段なのは、妥当であろう。販売店にも多少とも売り上げになるし、なにしろ新品なのだから、性能も保証つきである。

20)この大人の週末工作シリーズ、2012/11に「自分で作るハブダイナモ風力発電+」という本がでている。当ブログは、そちらをテキストに風力発電器工作をすすめたい。

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2013/06/05

「自分で作るハブダイナモ水力発電」<5> (大人の週末工作) 中村昌広 (著)

<4>からつづく 


2012/7/4 総合科学出版 単行本(ソフトカバー): 148p

1)カッパワー2号のテスト結果

・1号のようにイカダ型だと、水の流れが外に行ってしまうので、両側に敷居のあるホーバークラフト型にしてみた。

Kp222
・本格的に発電を考える時期ではないが、ライトの配線をし、ショートの可能性や耐水性についてテストしてみた。

・ホーバークラフト型は、ハカマが高すぎて、すぐ横転、逆転してしまい、本来の形を維持することが難しかった。そのため、ハカマを切り落として低くし、最終的には、後ろに行けばさらに短くなるモーターボート型とした。

Kp21
・最初、水の影響を考えて、高い位置に設置していたライトは、結局、横揺れを大きくする原因にもなり、転倒の大きな要素となった。そこで、できるだけ低い位置に固定するようにした。

Kp242
・ライトはすぐ水没してしまったので、漏電うんぬんのテストは二の次になった。
Lt
・結果、前回、イカダ型では30回転/分だったものが、今回、50回転/分まで加速された。

2)カッパワー3号へ向けての改善点

・後半部を短くしたので、水流に合わせて蛇行するようになった。最後尾に、舵のような縦板を一本入れると安定するかもしれない。

・そろそろ電源部分をキチンと考える時期にきているので、ライトをもういちど設定し直す必要がある。現在のものは一度破損したものであり、信頼度が薄い。

・回転部分の羽や、植木鉢用皿はキチンと修繕し、水は入らないように完璧を期すべきだろう。

・発砲スチロールでのプロトタイプができつつあるので、次なる木質系のデザインも考えてみよう。

・これほどの急流ではなくて、もっとおだやかな小川などでも実験してみよう。

・川は楽しいが、危険でもある。河童に足をひっぱられそうになった。気を付けよう(笑)。

<6>につづく

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「自分で作るハブダイナモ水力発電」<4> (大人の週末工作) 中村昌広 (著)

<3>からつづく 


2012/7/4 総合科学出版 単行本(ソフトカバー): 148p

Kp5
移動用水力発電器カッパワー1号の改良すべき点

・工作自体の精度がアバウトなので、それぞれの寸尺を高める必要がある。特に回転の羽の部分にムラがあると、回転が阻害される。

・プラスチック材を加工する時に、劣化しているので、単なる穴を空けるだけでも、ワレが生じている。本来、発電機を保護し、空気たまりとして浮きにもなるはずだった鉢物皿に水が入り、重くなったため、これも回転を阻害している可能性がある。

・水受け部分がオープン式なので、これをもっとバケツ方式にしたらどうなのだろう。

・水の流れを作るために、両サイドに横板を入れるのはどうだろう。

Kp10
・フロント部分を水面よりもう少し上げることによって、水車へ呼び込む水の量を増やす。

・そもそもがこのイカダ方式だと水流より早く回ることは出来ないので、上掛け方式などでも動くように考慮していく必要がある。

Kp4
・回転羽は8枚でいいのか。可能であれば、この倍にも設定できる。実験してみる必要はあるだろう。

・本体をもうすこし上にあげて、水流を横からではなく、斜め下から受けるようにしたらどうだろうか。

・これでも発電はしている筈だが、ハブダイナモは交流電気なので、これをいずれは直流にコンバートすることを考える必要がある。
Kp1
・そもそも常設できない移動用、緊急用、アウトドア用であれば、使っていない時もことも考えて、インテリア性も取り入れる必要がある。木質系で造り直して、普段は、置物として、水車小屋風にディスプレイできる、というのはどうだろう。

・充電は、いずれ車載用バッテリーも考えるとしても、現在ある太陽光パネルのリチウムイオンバッテリーに充電する方法も考えてみたい。

<5>につづく

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ゲーリー・スナイダー + 山尾 三省 「聖なる地球のつどいかな 」<4> 山里勝己監修

<3>よりつづく 



2013/4/23 新泉社 単行本: 288pVol.3
No.1009

1)この本は再刊本である。スナイダー山尾三省、二人の対談は1997/03にスナイダーの住まいであるアメリカのキットキットディジーで行われ、翌年、山と渓谷社から刊行された。長らく絶版になっていたのだが、この度、野草社+新泉社から再刊されたのである。

2)当ブログとしては、この本を新刊本として扱い、改めて再読するものである。当ブログもVol.3のNo.1009に及んでいる。定量としているのがNo.1024なので、最終的には、この本がVol.3を締めくくることになるのではないだろうか。

3)いずれにしても、この本が当ブログ7年の中のベスト10の中の一冊になることは間違いない。

4)羽倉玖美子ブログ「地球のつどい」は、この本のタイトルからネーミングされている。

5)私の、3・11後は、ゲーリー・スナイダーから始まった。そしてスナイダーの中のベスト一冊となれば、この本に全部詰まっているとさえ思える。

6)スナイダー 木にしても、石炭、石油にしても、核にしても、みんな太陽熱がもたらしたものなのです。たとえば、もし木を燃やしたとしても、そのエネルギーの年齢はたいした年令ではないんですよ。 

 なぜなら木はごく最近の太陽熱によってもたらされたものだからです。私たちにとても近いんです。過剰なエネルギーを引き起こすことはありません。そして次の時代は、人類が石炭と石油を発見した時代です。石炭や石油は古い太陽の光で作られたものです。 

 それはいたるところに持ち運びができるし、どこでも見つかるし、それによってエンジンを動かすこともできますね。工業の基礎ができるんです。 

 最後に第三の時代というのは、原子力の時代です。原子力エネルギーは宇宙と同じ年令なんですよ。それはもっともコントロールしにくく、もっとも危険なものなんです。 

 ジャックソンは「自分の使うエネルギーの年齢(エネルギーがどれほど古いか)を知っていないといけない」と言ったんです。そしてまた、「いちばん健康な方法というのは我々にもっとも近いエネルギーを使うことだ」と言っているんです。 

山尾 つまり薪ですか? 

スナイダー 薪、太陽熱、水力などですね。 

山尾 みんな最近のものですね。ソーラー・エネルギーなどはいちばん新しい。 

スナイダー そうです。今ここで電気をつければ、ほら、これはたった今、太陽からきたエネルギーなんですよ(スナイダーの家の電気はソーラー・パネルを利用している)。 

山尾 本当に今、生まれたエネルギーですね。面白い。 

スナイダー これは太陽から直接来たものです。あそこにパネルが見えますね。今まさにここに来ているんです。 

山尾 今であるのと同時に「永遠の今」ですね。 

スナイダー そうです、永遠の今。面白い見方ですね。 

山尾 風もありますね。 

スナイダー 潮もあります。 

山尾 潮流ですね。 

スナイダー とにかく、我々はエネルギーとかテクノロジーに反発するべきではないんです。しかしながら私たちは、はっきりと差異というものを認識しながら使うべきだと思います。 

---- 何の差異ですか? 

スナイダー いい道具と悪い道具の差異です。それを認識しながら使うべきですね。 

山尾 改めておうかがいしますが、原子力エネルギーというものをどう思いますか? 

スナイダー たいへんヒドイものですよ! 人間がコントロールできないもの、特に核廃棄物はね。誰もそれをどう処理していいかわからないんですから。 

山尾 人間のキャパシティーを越えてしまっていますね。 

スナイダー そうです。その古代エネルギーはあまりにも古すぎて、あまりにも遠すぎて、私たちからかけ離れているものです。まるでネズミ一匹殺すのに大砲を使うようなものですよ。 

 というのは、原子力発電所を造ってやっていることは何かと言えば、水を沸かしているだけなんですよ。そんなこと薪や石炭でできるんですよ。それだけのことなんです。過剰に高温過ぎるんですよ。だから、一匹のネズミを撃つのに大砲を使うようなものだと言うんです。 

 過剰に高温にして、その過剰な熱を取り扱わなければいけないんです。ただお湯を沸かして、スチームでタービンをまわしているだけ。それだけですよ。それで高熱と放射線が出るんですからたいへん危険なんです。 

山尾 浪費ですね。 

スナイダー 電気をつくるのに原子力を使うのは、あまりにも複雑で危険過ぎます。節電をして、もっと安全で効率的に電気をつくるべきです。そのほうがずっと効率的で健康的ですよ。 

 たとえば冷蔵庫ですが、冷蔵庫はあまり省エネ的ではないんです。今、実験的な冷蔵庫が作られているですが、従来のものよりもほんの少し厚みがあるだけなんですが、三分の一の電力消費ですむ。 

 アメリカ中の冷蔵庫が、もし全部このような効率的なものになったら、現在使われている15の主要電力工場が必要なくなるということです。そのようないろんな例があるんですよ。たとえば夜の街なかの建物で使われている照明ですね。本当にいろんな例があります。 

山尾 そういう意味ではテクノロジーに関しても、いいテクノロジーと危険なテクノロジーをよく見分けていく必用がありますね。 

 ちょうどこちらへ来る前に東海村の動燃再処理工場で爆発事故がありました。それ以前にも日本の美浜原発とか敦賀市の「もんじゅ」、スリーマイルやチェルノブイリなどでもすでに事故が起きていますね。人間が造り出した物から逆に牙をむかれているんですね。 

スナイダー 誰がつけたのか知らないけれど、その発電所を「もんじゅ」と呼んでいる。あれはイヤだね! 文殊は知恵の菩薩なんですよ。 

---- あ、そのもんじゅですか? 

スナイダー そうです。これは馬鹿な問題だね。本当にイヤだねぇ。 

---- ものすごい皮肉ですね。 

スナイダー 皮肉だね。あと「ふげん」。 

---- 普賢菩薩。ありますね。 

スナイダー 文殊と普賢。普賢菩薩は愛の菩薩ですよ。 

山尾 これは歴史に残る名コピーですね。ブラックユーモア。それを名づけた人は20世紀最後の名高いコピーライターじゃないですか? 

スナイダー こういうのはアメリカの原子炉に「イエス」と名づけるのと同じようなことですよ。 

山尾 「イエス」、なるほどね。 

スナイダー いやだねぇ。 

山尾 つまり一般的には原子力エネルギーというのはいちばん新しいエネルギーで、その次が石油だと思われているわけですが、本当は逆で、原子力はいちばん古いエネルギーというわけですね。 

スナイダー 古い太陽のエネルギーがいつ薪に入ったか、いつ石炭に入ったかということを考えると、原子のエネルギーは宇宙のはじまりと同時に入ったわけです。 

---- 原子力に関してですが、それは牙をむいてきたということは、人類は20世紀においてパンドラの箱を開けてしまったということではないんですか? 

スナイダー そうかもしれない。 

山尾 その側面は難しいですね。ゲーリーはどこかで原子力はもっと研究されなければならない、と書いていますよね。ぼくたちは、原子力は手に負えないエネルギーだから禁止すべきだと主張する一方で、すでに排出されてしまっている廃棄物は放っておけば、プルトニウムの毒性の半減期で2万5000年かかるんですから、その毒性を消す科学技術というものの研究もとても大事なことだと思うんです。もうパンドラの箱は開いてしまったのですから。 

スナイダー 箱は開いてしまいましたが、閉めることは可能です。廃棄物処理に関して最大限の努力をすることです。でき得る限りのことをすることです。それが私たちにできる精一杯のことです。 

 東カナダにはローレンシアン・シールドという岩盤があるんですが、何千マイルもあって、たいへん深く、またひじょうに古くてじょうぶな岩盤なんです。その岩の中に閉じ込めておけば、しばらくは安心だという議論が起こっています。 

 アメリカ政府は20年か30年ほど前から、ネバダ州のユカ・フラッツというところに核廃棄物を閉じ込めようという計画をたてていました。しかし資質学者たちは昔は安全だと言っていたんですが、だんだんと安全性が問われるようになってきたんです。 

 そこでネバダの人たちは反対するようになりました。そして次はどこに行こうかと、捨てる場所、置く場所を探しているんです。 

山尾 核のゴミですよね。一般のごみはリサイクル可能ですが、核廃棄物というゴミはリサイクルできないんですよね。 

スナイダー そうです。p222「科学は美の中を歩む」

<5>につづく

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2013/06/04

「自分で作るハブダイナモ水力発電」<3> (大人の週末工作) 中村昌広 (著)

<2>からつづく 


2012/7/4 総合科学出版 単行本(ソフトカバー): 148p

1)遠野は水が豊富で、河童の里でもある。

Ts1
2)あちこちに水車があり、河童もすっかり人里に溶け込んで市民権を得ている。
Ts3_2
3)あらためて水車を見てみると、これだけの水量で、よくこれだけの大きいものを動かしているものだと感心する。

Ts5

4)さて、当ブログの水力発電計画はどうなってしまうのだろう。なんとか少しづつでも前進しなければならない。とにかくスタートした。材料はお手軽に手に入れることができるものばかり。
Za

・ホームセンターからもらった下取り廃棄用自転車から取り外したハブダイナモ(発電機)
・スーパーからもらってきた発泡スチロールの箱
・庭に転がっていた植木ポットの皿 × 2枚
・ガーデンハウスを作ったときに余った雨トイのパイプ
・クリーニング用針金ハンガー
・その他道具箱に残っていたネジ類(締めて材料費0円)

5)固定用は水利権が問題になるので、アウトドアや緊急時の移動用携帯スタイルとする。
Hu
6)近くの河原に行って回転テスト。水量も水流もまずまずだが、回転数は30回転/分。定格出力を得るには、120回転/分が必要だから、まだまだ改良が必要だ。

Sk1
7)このテスト器、遠野の河童にちなんで、カッパワー1号と名付けた。

<4>につづく

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2013/06/03

遠野物語 [Kindle版] 柳田 国男 (著)

フォーマット: Kindle版
ファイルサイズ: 478 KB
紙の本の長さ: 152 ページ
出版社: 知温書房; 1版 (2013/4/10)
販売: Amazon Services International, Inc.
Vol.3 No.1008★★★★★

今夜は、遠野の民宿に泊まっている。築60年というから、私とほぼ同様の年式である。格式の高い日本建築だが、所々に昭和を感じさせる。キチンと修理や整備はされているのだが、どこか前時代的である。

それはまた、遠野にきたことの目的のひとつでもあった。座敷童子でも出て来ないかな、と待っているのだが、まだおでましにならない。いま、廊下の向こうで、柱時計が鐘を三つ打った。そろそろかな。

かんがえてみれば、私の生家など、築300年だったから、築60年など、ほんの若造である。すくなくとも、大正や明治までは遡らない。

昨日は、自宅を立って、三陸海岸を走り、陸前高田の奇跡の一本松に挨拶をし、釜石大観音のしし踊りを堪能し、住田町の滝観洞の700メーターの地下洞窟に潜ってきた。明日は、遠野の町の散策である。

イメージの中の遠野は明治か江戸時代だが、いざやって来て見れば、何のかわらぬ平成の街並みである。レトロ調の民宿の各部屋にもLANが整備されていて、こうしてiPadでブログを更新することができる。

一度はきて見たいと思っていた遠野。近くには民話館もあるらしいし、茅葺の曲がり屋もあるらしい。河童が出るという川もあるらしいが、昨日から、私の頭の中は、手作り水力発電の仕組み作りで一杯になっている。

どうやら、座敷童子のまえに、河童に取り憑かれているのかもしれない。

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2013/06/01

「自分で作るハブダイナモ水力発電」<2> (大人の週末工作) 中村昌広 (著)

<1>からつづく 


2012/7/4 総合科学出版 単行本(ソフトカバー): 148p

1)ということで、周りを見渡してみると、結構発電できそうな場所はある。田植えも終わった時期で、用水もたくさん必要だ。水路の水は多い。

Nx5

Sui1

2)お、これは、というような落差の大きい落水もある。これはどぶ水ではなく、用水が豊富すぎてオーバーフローしているきれいな水だ。

Ne6

3)となれば、次はバッテリーかな、と行きつけのガソリンスタンドに声をかける。廃棄バッテリーもないわけではないが、使えるかどうかわからないよ、というので、とりあえず保留。近くのホームセンターに行ってみる。

4)バッテリーは実に豊富にあり、本当に買うなら、ひと通り勉強する必要がある。数千円から数万円まで、各種ある。そういえば、だいぶ前にホンダバイク・モンキーを手に入れてリストアしたことがあった。あの時のバッテリーは確か6Vで3000円ほどだった。

Battery

5)さて、本番はハブダイナモをどのようにして手にいれるかである。近くの自転車屋を回ってみる。最初は近くのケチ親父の店。70過ぎの親父だが、今でも元気で店を切り盛りしている。中古の現物はすぐに見つかった。ああ、こんなものいつもゴミにして投げているよ、という。じゃぁ、ただでくれるかと思ったら、中古で6000円ときた。パス。この親父、相変わらずケチである。

6)次は、やはり近くのバイク店。若い店主の感じがいい。スポーツ用の自転車なんかを扱っている。現物はなかったが、こちらもいつもはゴミに投げているという。新品は取り寄せなければわからないが、5~6000円はするのではないか、という答え。結構、高飛車である。

7)三番目は、大手自転車専門チェーン店。こちらは単品として新品のハブダイナモがすぐ見つかった。ただし、これは展示用で販売用ではないという。本日はメーカーが休みでいくらで手にはいるか分からないので、週明けに調べて電話をくれることになった。もっとも、15000円程度の自転車にもハブダイナモがついているわけだから、新品でも、そんなに高いはずはない。

8)そして4番目。大型ホームセンターの自転車コーナー。若いスタッフが何人もいそがしそうに働いている。ハブダイナモのことを切り出すと、大手チェーン店と同じような対応。そこで「中古でもいいのだけど」、というと、他のスタッフに「廃車」はあるか、聞いてくれた。

Nx29)そしたら、ありました目の前に。今、新品を買ったお客さんが不要になったので下取りしたばかりの中古車。ポンコツである。ああ、それでいいですよ、と言うとスタッフがものの数分で取り外してくれた。工賃含めていくら位かなぁ、と切り出したら、タダでいいですよ、という答え。ヤッター、4店回ってよかった。ライトもついている。

Nx3_3

Ne1

10)さぁ、これで、一歩前に足を踏み出してしまいましたよ。

<3>につづく

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「自分で作るハブダイナモ水力発電」 <1>(大人の週末工作) 中村昌広 (著)


2012/7/4 総合科学出版 単行本(ソフトカバー): 148p
Vol.3 No.1007★★★★★

1)このシリーズ、太陽光発電から始まり、水力、風力と進むらしい。

2)私たちは、生まれたときから電気のある生活が当たり前のように過ごしてきました。 

 そこへ、2011年3月11日、東日本を襲った、かつて経験したこともない大地震。想像を絶する大惨事となりました。しかし、大惨事はこれにとどまらず、津波から「原子力発電所の爆発事故」まで起こしてしまいました。 

 一時はどうなってしまうのかと、恐怖に震える日々を過ごしました。最も安全でクリーン原子力神話は、このときを境に消えてしまったのです。(中略) 

 未来を背負っていく子供たちに、電気が生まれる仕組みや活用方法を教えることで、電気の大切さも伝えることができるはずです。 

 そして、いざというときに、自分たちの作った電気を活用することができたら、それはどんなに素晴らしいことでしょう。p10~11「電気を手作りしてみませんか」

3)手作り電気というなら、やっぱり最初に頭に浮かぶのは、小さい時から身近かにある自転車の発電器だ。夜になればタイヤに押しつけて、頭を回せばヘッドランプが点灯する。最近は乾電池式もあるようだが、まだまだ実用だろう。

4)小学生だった昭和30年代は、家族も多く、自転車もよく壊れたと見えて、私自身は、なんどもこの自転車発電機を分解して遊んだ記憶がある。まんなかに回転式の磁石がついており、周りにエナメル線を何度も巻きつけたコイルが数個ついている。仕組みとしては至って簡単なものだ。

5)あの磁石は強力で砂鉄を集めるのに役立ったし、エナメル線は結構長くて、ゲルマニウムラジオのアンテナにしたりしたのだった。

6)しかしである。この本では、そのタイヤに押しつけるタイプ(リムダイナモ)ではなく、車軸そのものに組み込まれている「ハブダイナモ」というものを使うのである。聞いたことがあるようだが、どうも身近ではない。それに高価そうだなぁ。

7)と思ったが、そもそも自転車なんてほんの数万円のもの。その中の部品であるからそんなに高価であるはずがない。ネットで調べてみると、ほんの数千円、オークションなどでは中古なら数百円で出品されている。近くの自転車屋さんに行けば、中古の部品などただでくれるかも知れない。

8)もうここまで来ると、あとは水車として回る部分を考えればいいわけだから、仕組みとしては至ってシンプルということになる。即実行まで直結できそうだ。

9)でも、ここからがこの本の本領を発揮するところである。まず、水力発電システムを作ったところで、キチンとした発電量を得ることができるだろうか。そもそもそのシステムを何処に仕掛けるのだろうか。

10)わが家がこの地に転居してきた20数年前は、周辺には田んぼもあり、小さな用水路にちょろちょろ水が流れていたものである。あの水力でも十分発電できるはずだ。だが、もうすべて宅地化して、小川すらない。

11)それともう一つ、水利権というものがある。それぞれの水路には権利がある。水車を作ったからと言って、勝手にあちこち仕掛けることはできないのだ。固定的なシステムを常備するなら、キチンと調べなければいけない。ただ、携帯用でアウトドアなどの用に使うのであれば、大きな問題にはなるまい。

12)使用するバッテリーを12Vと6Vの2種類として、過放電コントローラーを制作します。p99「過放電コントローラーを作ろう」

13)シリーズの「自分で作る太陽光発電」では、充放電コントローラー(チャージコントローラー)は市販のものを使う設計だったが、こちらでは、手作りしようというのである。ただし、ハブダイナモには過充電はないとのことなのだが、その違いを良く理解しないといけない。

14)問題の原発が稼働を停止していても、そこにはまだ原子力発電所は存在しています。廃炉にするだけでも数十年も掛かるといわれています。

 どんなに怒り、どんなに憤りを感じても、そこに人が生活していることも忘れないで欲しいと思います。

 震災瓦礫の処理問題にしても同じことです。問題を抱えた人々と悩みを分かち合うことができないなら、人と共存する道を選べないなら、いくら再生可能な自然エネルギーの活用をと大きな声でいったところで、今までと何が変わるというのでしょう。

 結局、自分だけが良ければそれで良いのかと考えてしまいます。

 自然環境を壊すことなく、自然エネルギーと共存して行こうと考えるなら、まずは人との共存共栄があるべき姿ではないのでしょうか。p140「自然エネルギーは自然との共存」

15)自転車発電器を活用してつくる水力発電器がどれだけ実用になるかは未知数だが、わずかな手間で、自然との共存を考えることができるなら、やってみる価値はありそうだ。

<2>につづく

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