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2013/06/11

大沼安史/翻訳 「『超』育児」―潜在能力を壊さない子育て ダニエル グリーンバーグ著


1999/04 一光社 単行本 244p
Vol.3 No.1013★★★☆☆

「『超』学校」「『超』教育」につづく三部作シリーズの三冊目。いわゆる「子育て」論としては、突出していないと思うが、もし、この三部作の中で敢えて再読しようと思うなら、この三冊目がいいかもしれない。

2)私なりに考えている子育ての仕方を、一言でいうとどうなるか?  

 何年か前の私であれば、たぶん「コモンセンス(常識)のアプローチ」と呼んだはずです。今ではよく耳にする言い方ですが、私自身、この表現にしようと思い立ったのはずいぶん、前のことです。しかし、最近になって、これはまずい言い方だと気づいて使うのをやめにしました。 

 それともうひとつ、「ナチュラルなアプローチ」ではどうかなと思ったことがあります。しかし、どうもしっくり来ない。これまた適当な言い方ではないと、最終的に判断したわけです。 

 コモンセンスでもなければナチュラルでもない私の子育てのアプローチ。p13「子育てのアプローチ」

3)普通に使われている言葉だが、ここまでこだわりを持たれると、そしてコモンセンスでもなければナチュラルでもない、などと屁理屈をこねられると、私なんぞは、そもそも「子育て」という言葉自体が間違いなのでないか、とさえ思えてくる。

4)ことわざに「親はなくても子は育つ」とか、「親の背中を見て子どもは育つ」などというのがあり、余りに親が子にこだわりを持つそのこと自体が問題なのではないか、と思う。「背負うた子に教わる」とか、「無い子で苦労はできぬ」とか、親と子は対等でいいのではないだろうか。

5)それとはまったく違った新しい子育てを、私は「個人的な理由」による子育てと呼びたいと思います。それは、ひたすら親の意向、考え方にかかわる子育てです。p38「子を持つ決断」

6)はてさて、これはどうかなぁ。私なんぞは、妊婦でも、妊婦の夫でもないので、かなりこの辺あたりでこの本の趣旨の流れからは離れてしまう。もっとも、これからも孫たちや、周囲の適齢期の人々に生まれてくる子どもたちがいる限り、子育て、孫育てには関心がある。しかし、こういうこだわりはどうなのかなぁ。

7)フロイトは、患者の精神的な問題の根を引き出そうとすると、ときに生後第一年まで遡ることに気づいたのです。問題の根を突き止めると、人生の最初の一年に加えられた心の傷が修復するチャンスが生まれるのです。

 ここから教訓がひとつ導き出されます。もしあなたが赤ちゃんに何かひどいことをしたら、赤ちゃんはいつかきっと思い出す----そう覚悟すべきです。p150「ゼロ歳」

8)これなんか、私には、親になろうとする世代への「強迫」に聞こえてくる。そもそも、赤ちゃんにとって、ナニが「ひどいこと」なのかなんて、わかりゃしない。良かれと思ってやっていることが、ひどいことだったりする。あるいは、親だって、体が大きくなっただけの赤ちゃんなのだ。たまには失敗もする。100点満点の親などいない。そんな妄想を早く捨てるべきだ。

9)フロイトがどう言ったか知らないが、通常は、2~3歳以前までの記憶をたどることはそう簡単ではない。しかし、たまに1歳やゼロ歳までも思い出すことはある。でも本当のことを言えば、ゼロ歳どころか、誕生前や、前世の記憶まで遡ることができるのだ。

10)だから、親は親としてせいいっぱいやればいいことで、100点満点なんて、最初から忘れることだ。60点合格主義でいい。時には40点の赤点スレスレだって、子どもは子どもとして、立派に成長していく。一緒に、子どもと育っていけばいいのだ。

11)私の出発点はシンプルです。赤ちゃんたちを観察してごらんなさい。圧倒的な印象を持たれることでしょう。

 彼(女)らは常に何かをつかもうとしています。いつも遠くへ手を伸ばそうとしている。しっかり見詰め、観察し、様子を見守る。動き回ろうと懸命に努力します。動けるようになったら何でも触れて確かめ、臭いをかいだりします。周りのものを口に入れたりもする。p230「学び」

12)この辺になってくると、私なんぞはOshoのある一節を思いださないではいられない。

13)

・・・・こうしてみるといい
家に小さな子供がいたら
毎日1時間その子の後を追い回してみてごらん
そのほうがブッダを追い回すよりいいし、有効だ
子供をよつんばいで這い回らせ
自分もよつんばいで這い回る
よつんばいで這い回る子供の真似をする
そうすれば、生まれて初めて
新たな生命エネルギーがやってくるのを感じられる
あなたは再び子供になる
子供を見て、その真似をする
子供は部屋の隅々までいき、あらゆるものに触れる
触れるだけでなく
あらゆるものを口に入れ、あらゆるものの匂いを嗅ぐ
子供の後を追い、何でもそのこのする通りにする

あなたもかつては子供だった
そして同じことをやった
子供は感じている
頭でやったり、考えたりしない
何かの匂いを感じると
その匂いを追って部屋の隅までいく
りんごを見ると、その味をみる
あなたもまた、子供のように味わってみるといい

子供がりんごを食べている様子を見てごらん
彼は、それに夢中になっている
世界全体が消え去っている
もはや世界はない、ただりんごだけがある
いや、そのりんごでさえ存在せず
その子もまた存在しない
ただ食べることだけがある
1時間ほど、小さな子供の真似をする
その1時間は実り豊かなものになるだろう
あなたは、ふたたび子供になる

自己防衛は消え去り、鎧は消え去り
あなたは再び子供のように世界を見る
つまり、感覚の側面から見えるようになる
そして、あなたはこう感じる
「自分は感じることができる・・・・・自分は考えてはいない」
その時、あなたはじゅうたんの折り目を楽しむ・・・・・
子供のようにじゅうたんの上を這い回り
その感触や暖かさを楽しむ

無邪気に子供の真似をすることによって
様々なことが子供から学べる
やがて、真の無垢がほとばしり出る
あなたはかつて子供だった、そして
あなたは子供であるとはどういう意味かを知っている
ただそれを忘れてしまっているだけだ
肝心なのは、感覚センターの機能が開始することだ

方法は、まだ他にもたくさんある
それを行なうのに特別な努力はいらない
眠りに入るとき、ベッドを感じ
まくらを感じ、その冷たさを感じる
まくらを相手に、まくらとたわむれる
目を閉じ
エアコンの音や、車の音や、時計の音に、ただ耳を傾ける
レッテルを貼らずに、何もいわない
心を動かさない、ただその感覚の中を生きる

朝になって目覚め、眠りが消え去るのを感じたとき
思考を開始してはいけない
しばらくの間、子供になりなさい・・・・・・
無垢で新鮮な子供に
思考を開始しないこと
これから何をしようか、何時に出社しようか
どの汽車に乗ろうかなどと考えないこと
そういった些細な事には、後でいくらでも時間がある
そのまま、しばらくのあいだ音を聞く
鳥が歌っている、あるいは木々がそよいでいる
子供が泣いている、牛乳配達がやってきて音をたてている
牛乳を注ぐ音がする・・・・・・
およそ、起こるすべてを感じなさい
それに対して敏感になり、オープンでいること
そういったことを自分に起こるままにさせておく
そうすれば、敏感さは成長する

"The Book of the seacret" より March 31, 1973  Osho「ニューチャイルド」p29

14)「超」学校シリーズ3部作は翻訳者追っかけで読み始めたのだった。他にも翻訳者関連の本もいくつかあるが、この分野の追っかけは、そろそろこれで十分なのではないかな。

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