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2013/07/08

こころでからだの声を聴く<24>

<23>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<24> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

12:不感症

質問:私は性的な問題を抱えています・・・・自分が悪いと思うのですが、男性とセックスするとき、私はいつも楽しんでいるふりをしてしまうのです。
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 人は、ある日セックスを超越しなければならない。だが超越するんは、それを通り抜けることだ。その中に正しく入っていかないなら、セックスを超越するのは難しい。だからセックスを通り抜けることは、超越sることの一部だ。セックスを楽しめない人々は、そうした態度を教えられ、条件づけられてきたのかもしれない。

 世界の至るところで、人間によって人間性が損なわれている---もっともひどく傷つけられた点は、どの人も自分自身にくつろぐことに罪悪感を覚えるよう、教え込まれていることだ・・・・・まるで幸せではいけないかのように。苦しんでいれば万事申し分ないが、幸せなら何かが間違っている。こうして幸せは押し潰され、抑圧されてきた---しかし、弾けんばかりの幸福感に達することがないとしたら、あなたは生の機会をすべて失う。

 人は完全に幸せになるすべを学び、弾けんばかりの幸福感に達するすべを学ぶ必要がある。生はその目的のために存在する。

 確かにセックスは、あなたが弾けるもっとも大きな可能性をもたらしてくれる。セックスは三昧や深い瞑想や祝福を一瞥するためにの、もっとも自然な方法のひとつだ。祝福に至るには別の方法もあるが、それほど自然ではない。セックスは、もっとも自然は方法だ---それは生物的に埋め込まれている。セックスは神からの贈り物だ。だからどの人も、宗教的でも反宗教的でも、ヒンドゥー教徒でもイスラム教徒でも、神の存在を信じようと信じまいと、共産主義者でも無神論者でも、どんな人でも・・・・・。このひとつのことが、超越したもの---身体を超越し、マインドを超越したものへの一瞥を自然な形で与えてくれる。

 そこで女性として心に留め、試みるべきことが三つある。第一に、愛を交わしているときは能動的である。能動的でないなら、あなたの感じている困難が起こりやすく。能動的なら、困難はそう簡単には起こらない。あなたのボーイフレンドに言いなさい---あなたは女性の役をして、私が男性の役をすると。それをゲームにしなさい。彼をもっと受動的にし、あなたはもっと能動的になる。より能動的になると、行為はより熱を帯び、あなたのエネルギーはより集中する---途中でやめるのは難しい。しかし、あなたが能動的なときは、いつでもやめられる。というのも、あなたはほとんど部外者だからだ。あなたは傍観者のようだ。そうではなく、もっと能動的になりなさい。そして、これは一時的な手段にすぎない、ひとたびオーガズミックな体験に到達すると、続ける必要はなくなる---あなたは女性としての、今まで通りの役に戻ればいい。

 では、第二点---愛を交わす前に、一緒に踊りなさい。

 ワイルド・ダンスがいい。大声で歌い、踊り、かけたかったら音楽をかける。部屋に香を焚きなさい。それを入念な儀式にする・・・・・ほとんど宗教的な。

 人々は、段階を経ながら愛を交わすことへ向かおうとしなさい。二人の人間が座っていて、突然、愛を交わし始める。特に女性にとって、それは唐突なことだ。男性にとっては、さほど唐突ではない。というのも、男性のエネルギーは異なり、その性は局部的だからだ。女性の性はもっと全体的だ。全身がそれに巻き込まれる必要がある。だから前戯がないと、女性はその中に深く入っていけない。

 まず踊り、歌い、エネルギーを沸き立たせ、そして能動的なパートナーでありなさい。そして野性的(ワイルド)になる! パターン化してはいけない---ただワイルドになる。愛を交わしている最中に叫びたくなっても、心配しなくていい。歌いたくなっても、心配しなくていい。何か意味不明の言葉を発したくなったら、発しなさい---それはマントラのように働くだろう。

 そして最後に第三点。毎日、朝から晩まで注意を払いなさい---自分の喜びを抑圧しているに違いない他の事柄に。それもすべて変える必要がある。食べるときは、喜んで食べなさい。なぜなら、すべては互いに連結し合っているからだ。踊っているとき、そこに喜びがあるべきだ。瞑想しているときも喜びなさい。人と話しているときも喜び、光り輝き、流れていなさい。道を歩いているときも喜びなさい。私たちはたいてい、自分がどれほど多くのことを逃しているかを知らない。ただ道を歩くというありふれたことでも、おても多くの喜びをもたらす。誰に分かるだろう? 次の日はないかもしれないのだ。明日になったら、道を歩けないかもしれない。明日になったら、太陽を受けてそこにいないかもしれない。そこには風が吹いているが、あなたはいないかもしれない。明日のことなど誰にわかるだろう? これが最後の日かもしれないのだ。だから、あたかもこれが最後になるかのように、常にすべての瞬間を喜びなさい。その全体を経験し、それを完全に搾り取り、何も残さないように。このようにして、人は強烈に情熱的に生きる。そしてセックスは、あなたの全面的な態度の副産物にすぎない。だから、性的体験だけを変えることはできない。すべては互いに連結し合っている。だから、すべてを変えることだ。

 喜びに満ちて食べてごらん! 身体にただ詰め込むために食べ続けてはいけない---楽しんでごらん! それは神聖な事柄だ。歩くことを楽しんでごらん。それは神からの贈り物だ。人は感謝した方がいい。誰かと話しているときは、会話を楽しんでごらん。 

 この瞬間から、表面的にはセックスと無関係なことも楽しみ始めなさい。他のことを楽しんだら、最終的な結果としてあんたはセックスを楽しむだろう。他のことを楽しまないなら、あなたはセックスも楽しまないだろう。

 私の観察によると、セックスへの態度というのは非常に象徴的だ。それは、あなたの人生すべてを表している。だから、セックスを楽しんでいないとしたら、あなたは他のことも楽しんでいないだろう。もしくは、ある程度までしか楽しんでいないだろう。幸福や喜びを恐れる人は、常に多くのことを恐れる。

 この三つのことをやって、3週間後に私に報告しなさい。

 3週間のワイルド・ライフを楽しむ。人間性などすべて忘れ---動物に、純粋な動物になりなさい。すると、あなたは実にたやすく人間になれる。だが動物になるには、さまざまな物事に深く入っていかねばならない。

 真の動物でないなら、真の人間にもなれない。そして真の人間でないなら、神聖な存在にはなれない。

 すべての階層(ヒエラルキー)がある。動物は寺院の土台であり、人げは寺院の壁、神格は屋根だ。そして屋根は、土台がなくては存在できない。屋根があっても壁がなければ、屋根もまた存在できにあ。人間は三階建ての建物だ。一階は動物、二階は人間、三階は神聖だ。だから最初から、まさに一番最初から始めてごらん。そして、土台の石を敷くのだ。OSHO P135~139

<25>へつづく

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