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2013年7月の24件の記事

2013/07/29

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<2>

<1>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<2>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の中生代。今から2億5000年前から6500万年ほど前まで、この地球上に生命体として闊歩していたダイナソー、恐竜たち。彼らに想いを馳せることは、せいぜい数千年から数万年しか活動履歴を持たない人間という存在を、相対的に矮小化してくれる。

 三億年ほど前は、地球上の大陸は一つにつながっていたという。それをパンゲア大陸という。パンゲア大陸は数億年をかけていわゆる五大陸に分離されていった。そのパンゲアに住んでいたのが、彼らダイナソーたちであった。

 当ブログにおける、「ムー大陸からやって来た天空の龍」は、いつのまにか、「パンゲア大陸からやってきたティラノザウルス」に置き換えられつつある。もちろん意味するところは別々であるが、その存在としての意図する役割は、結局は同じことであろう。すくなくとも「パンゲア大陸の恐竜たち」のほうが、科学的であり、よりリアリティがある。

Photo

 しかしまぁ、スーパーから買ってきたチキンの丸鳥から採集した骨で、20分の1スケールのティラノザウルスの全体骨格模型を作るというのは、どれだけのリアリティと意味があるのだろうか。その名もトイザラスのおもちゃにも、たくさんの恐竜たちが含まれている。せいぜい、私が夢中になっていることは、あのおもちゃ群と何も変わるところはない。

 それでもやっぱり、面白いことは面白い。よりリアリティを醸し出そうとすると、なかなか作業が進まない。頭骨から始めるべきか、腸骨から始めるべきか、あるいは肋骨から始めるべきか。どうせ作るなら、自分でもほれぼれするような出来栄えにしたい。それに、一度作ってしまえば、あとはそうそうまた作るもんでもあるまい。

 ひとつ気になっていることは、このペンブックス「恐竜の世界へ。」の表紙にも描いてあるが、ティラノザウルスだけでは片手落ちだということだ。ティラノザウルスには、対となる翼竜、プテラノドンが必要なようなのである。陰と陽、ふたつあってこそのダイナソー、恐竜の世界のように思えてくる。

 そう思うと、ティラノザウルスの制作もままならないまま、翼竜プテラノドンの材料収集が始まっている。全長12mと言われるティラノザウルスに対するプテラノドンは、諸説あるものの、広げた翼の全幅は、7mとも10mとも言われている。20分の1スケールで作るには、ちょうどよいくらいの大きさであろう。

 ただプテラノドンは、骨格としては、空を飛ぶためにスケルトンのスケルトン、極めて軽量化されているために、骨量が、その全体からすると極めて少ない。つまり、基本的な輪郭だけで、ティラノザウルスほどの迫力がなさそうだ。せいぜい、顔とくちばしをデフォルメする程度が、迫力づくりの限界のようだ。(今後調査を要す)

 思えば、「ティラノ」・ザウルスと、プ・「テラノ」・ドンには、ひとつの単語が挟まっているのではないか。「ティラノ=テラノ」、たぶんこれは「地球」という意味なのではないだろうか。とすると、当ブログにおける第一作「地球ザウルス」と、どこか一脈通じるところも、あるのかもしれない。

 「ムー大陸からやって来た天空の龍」となれば、パンゲア大陸かやってきた翼竜、プテラノドンのイメージを借りることは必須である。ティラノザウルス+プテラノドンこそが、当ブログにおける「龍」のイメージであろう。

<3>につづく

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2013/07/25

「忘れないうちに生前委託しておきます。」 沢田石 信

5

 葬儀は、酒好きだった俺にふさわしく、湿っぽくなく皆で飲んで唄って賑やかにやって下さい(BGMにはできれば俺のCDを流して)。それが願いです。もし病院や施設で危ない状態になっても、決して胃ろう等の、人としての尊厳を愚弄するようなこと(無用な延命措置)は絶対にしないで下さい。健やかに人間らしく死を迎えさせて下さい。

3

 僕は、やれることは若い時からそれこそ十二分にして(親にさせてもらって)、生きることの素晴らしさや出逢いの喜びは完璧に堪能しましたから。生きて香や萌の父親になれて本当に誇らしいです。とりあえず、これまでやれて満足な人生でした。支えてくれた皆にありがとうと本当に御礼を言います。

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 テキトーな生き方でしたが、それなりに充実していました。ちょっと曲がりくねった分、人の百倍位の経験を積めました。みんなのこれからのもっともっとの幸せを祈っています。みんなのこと大好きだったよ。これまでいろいろありがとうございました。あれこれ迷惑かけた方々ごめんね!

6

 ほんの少しの心残りは、二十年若返れたら世界をあっと仰天させられる世界文化評論を書けたのに・・・・という念かな?

 

   平成二十四年七月二日 沢田石 信

 

 追伸 なんか書いていて俺も涙がでてきましたが、これは断じて遺書じゃあないんだからね。今のところ七十二歳位までは、アタマも身体もすっきりした、料理上手な何でも屋のおじいちゃんでいけそうと思っていますから。

2

 この文章は、本人が一年前に娘二人に送ったメールです。
コピーライターとして生きた彼の想いを、皆さまへの感謝の言葉に代えさせていただきます。

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(ご家族からの会葬御礼をお借りしました。 写真 仙台e人会2012/09/07「大黒」にて)

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「弔 辞」 沢田石 信 君へ

 

 

 沢田石。私が初めてあなたにあったのは、1970年の4月20日。沖縄反戦デーのべ平連のデモに参加するため、先輩たちについていった時でした。学校帰りの待ち合わせ場所は、仙台駅前にあった八重洲書房。お互い、まだ高校二年生でした。そこに教科書の入ったカバンを置き、小田実や秋田明大の講演を聞き、その後、フランス・デモに参加したのでした。Photo_2

 

 デモの後に、片平にあった太田さんのロック喫茶店レノンに行って、飲んだアイスコーヒーが忘れられません。あれから、それほど頻繁ではなかったけど、付き合いはずっと続きました。

 

 長身で、ハンサムで、弁舌の立つあなたは、十代から目立つ存在でした。当時、富士山のふもとで行われた大きなロック・フィスティバルに参加した時は、グラビア雑誌のカラーページに取り上げられたほどでした。肩まで垂れたヘアースタイルと、胸のピースマークのペンダントが輝やいていましたね。

 

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 大学進学であなたが東京にいってしまったあと、私は仙台に残っていたので、一時音信不通になったけれども、何年かしてコピーライターとして帰ってきたあとは、仙台の文化状況の中で、あなたの活躍はいつも一歩抜きん出てスマートなものでした。

 

 大きな広告会社から独立して、中央のビル街に事務所を開いた時には本当に驚いたものです。確か会社の名前はイデア・メディア・ブレーンと言いました。イデアも、メディアも、ブレーンも、聞いたことある言葉だけれども、あなたが使うと、どこか違う輝きを帯びます。相変わらずカッコいいなぁ、とあこがれたものでした。

 

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 今から15年ほど前だったでしょうか。仲間うちの一人である波久修が再婚することになり、あなたはその祝賀パーティーを積極的に準備してくれました。仲間内の再会がとても楽しかったので、その後、その時の準備スタッフが中心となって、年に何回か集まって食事会をするようになりました。だから、このところ、あなたとは毎年切れなく会っていたということになります。

 

 ある時、この会に名前をつけようじゃないか、と発案したのはあなたでした。そして、次回の時に、仙台e人会という案を持ってきたのもあなただったし、ホームページを立ち上げることを提案したのもあなたでした。アルファベットの小文字の「e」に「人」という字をつけた「仙台e人会」のネーミングには、実はたくさんの意味が込められていました。もちろん、リーダーシップのあるあなたを私たちは、この仙台e人会の会長として選出したのでした。

 

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 どこまでが遊びで、どこからが仕事でマジなのか、なかなか線引きのできないつながりでしたが、次第にネットワークは広がり、確実にお互いの友情を深めたのでした。出身校も違い、職種もまったく違う個性豊かなキャラクターたちのネットワークを、大きなひとつのつながりにするには、あなたのリーダーシップは欠かせないものでした。

 

ごく最近あなたにあったのは、去年の秋。残念なことに、それは共通の友人であるニュートンこと石川裕人の葬式でのことでした。あまりに早すぎる友人の死を悼み、互いに健康には注意しような、とエール交換したばかりでした。十代で知り合った私たちも、結婚し、子供たちも成長し、いつの間にか、還暦を迎えるようなステージに突入していたのです。

 

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ソーシャル・ネットワークにも積極的だったあなたは、最近、フェイスブックで、話題をひとつ提供していました。それは、私たちがまだ中学生時代、ビートルズが来日した頃に小学館から出版されていた少年雑誌「ボーイズ・ライフ」についてでした。ちょっとマニアックで、短期間しか発行されていなかったので、割と無名ですが、知っている人は知っている、この感覚が何かを刺激するのでした。

 

十代で出会った友人だったけれど、ずっと前からおなじような土壌で育ってきた、共通の文化的価値を、共有してきたことに、あらためて強く感動したのでした。

 

 

 

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 そんなことをネット上で情報交換したのが、あなたとの交流の最後となりました。あなたとはいっぱい話したはずなのに、まだまだ、もっと話していたかった。独特の価値観と広がり、包容力と、先見性。もっともっと刺激を受けていたかったです。あなたが言う、世界をあっと仰天させられる世界文化評論とやらもぜひ読んでみたかった。

 

 今、あなたの訃報を受け、最後のあいさつをしなければならないなんて、思いもよりませんでした。あなたの希望だから、湿っぽくはしませんが、やっぱり私は悲しい。どうやら、あなたの計画では、せめてあと10年、72歳くらいまでは生きるはずだったのではないでしょうか。

 

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 斎場から帰ってくるとき、あなたはピカピカの新品のロールスロイスに乗って戻ってきました。あなたにはロールスロイスが似合っています。でも、本当は、あなたには、生きていてロールスロイスに乗ってほしかったなぁ。

 

 二人のお嬢さんたちも立派に成長し、それぞれに素晴らしい男性と結婚され、あなたは心からほっとしていることでしょう。これからも、まだまだご家族といっしょに、いつまでも共にいたかったはずです。

 

 これからも、残された道子さんや子どもさんたち、ご家族みんなを見守ってください。そしてまた、友人たちとの語らいにも、いつものように参加してください。312002_176160375799695_202088374_n

 

 私たちは、沢田石信(あきら)という友人と出会ったことを感謝しています。そしてその大きな存在を忘れることはありません。どうぞ、安らかにおやすみください。

 

ご冥福をお祈りいたします。    合掌 

 

 

 

 平成25年7月26日  阿部 清孝

 

 

 

 

 

 

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2013/07/24

三宅洋平 選挙フェス 街頭ライブ@仙台

 6月21日の夏至から、当ブログはメンテナンスに入って、結果的に7月の21日までは休んでいたから、本も読まなかったし、積極的にネットもみなかった。ブログもやめようと思っていた。

 テレビは見ていたし、カーラジオも地震速報や天気予報のために聞いていたから、参議院選挙運動中であることは知っていた。でも、今度だけは投票にいくのやめようかな、と思っていた。だってさ、なんも意見通らないもの。

 そんな白けた気分でいたところ、ほんの投票日数日前になって、三宅洋平の選挙用フライヤーが20枚ほど届いた。ふむ、こういう人が立候補しているのね。いろいろ考えて、全国区はこの人の名前を書いた。

 多少はネットで調べたし、これはこれでOKだな、と思った。その選択に間違いはない。

 だけど、本当はここからなんだな。

 洋平はYA!MAN!っていうから好き。そこだけでもすでに95点。

 公約にあたる政策9ヶ条についてはすでに編集日記に書いたけど、それなりに思うところはある。これはどうかなぁ、と思うものもある。でも、それでいい。

 結論から言えば、三つやりたいことがあれば、ブログを復活させようと思っていた。ひとつはチキンの骨でつくる恐竜の世界。ふたつめはは飯沼義勇のホツマの世界。そして、みっつめを探していた私には、緑の党や山本太郎、三宅洋平、この流れがとどめでいいじゃないか、と思えた。

 正直言って、みどりの風と緑の党がどう違うのかすら知らなかった。山本太郎が立候補しているのかどうかさえ、投票日直前まで知らなかった。みどりの風の代表は選挙の敗北を受けて政治から引退するという。

 お前は引退できるからいいなぁ、と誰か首相だったかの政治家が引退する時に、昭和天皇は言ったという。しかしまぁ、国民もまた引退はできないんだよな。国民という括りは好きではないけれど、人間は人間、私は私。私であることを引退はできない。

 山本太郎が当選したから、その「弟分(洋平いわく)」の洋平の役割もやんわりと、これから6年間はあるだろう。緑の党は議席を獲得できなかったから胡散霧消するのだろうか。でも、本当は、これからなんだよ。

 9年前、喜納昌吉が参議院にでることになった時、私は一ヶ月間をぶん投げて、選挙活動をした。仙台でのスタッフは4人+1人しかいなかった。一人はご老体で、一人は政治ゴロみたいな過激派。そして、沖縄帰りの奥さんを貰った友人カップルと私。

 街頭ポスターを張り、チラシを郵送し、団地でポスティングした。駅前の雑踏に目立つ格好で立ち、通行人にチラシを播きながら呼びかけた。ほんとうのことを言うとへとへとだった。意外な知人たちからの反発。ポスターを張る場所を獲得することのむずかしさ。反応のなさ。そして、候補者への疑問。あの時の公約って、結構、かなりめちゃくちゃだった。むしろ三宅洋平のほうがまともだ。

 結局、候補者は仙台にはこなかった。当選後のねぎらいの言葉も、当選者からはなかった。それから6年間、二回ほど国会活動報告を送付してもらったけど、それだけだった。

 6年間経過して、再立候補の際には私には協力要請はなかった。あっても、前回ほどは動かなかっただろう。彼は落選した。そして、選挙や政治にはうんざりした。そのあとの民主党の活躍と凋落には、それなりに関心持ち続けたけど、やはりうんざりだったというしかない。

 三宅洋平が仙台に来た日、私はすぐそばの高層ビルの24階に午後いっぱい閉じ込められていた。3年に一度の仕事用資格更新の日だったので、どうしても抜け出して、そのライブには参加できなかった。でも、三宅洋平は仙台に来た。偉いと思う。

 三宅洋平は、喜納昌吉の「すべての武器を楽器に!」というフレーズを、フライヤーでもスローガンにしている。偉い。9年前だって、これがスローガンだったのだ。でも、すべての武器が楽器になったかな・・・・?

 疑問は山程ある。

 まぁ、投票日は終わったし、あせることはあるまい。しかし、はっきり言えることは、三宅洋平が来なかったら、私のブログはまだまだ復活しなかっただろうし、永遠に復活さえしなかったかもしれない、ということ。

 思えば、チキンの骨で恐竜をつくるのも、神話を頼りに地域を歩きまわり歴史津波からホツマの精神性を再現しようとするのも、スローガンや公約や気になるアーティストたちの言動の断片を集めて、未来像をつくるのも、どこか似ている。出来合いのプラモデルにはない制作の楽しみがある。

 何ができるか分からない。どう作ったらいいか、わからない。最終的なクオリティはどうなのか。でもワクワク感がある。ドキドキする。この辺を探っていくと、なかなか簡単に終わらない。

 簡単に終わらなければ、それをネタに、ブログを続ければいいんじゃない。いい口実になる。

 そんなわけで、私はこの人を支持することにした。選挙終わってからの支持表明なんておかしいかもしれない。でも、彼を応援することは、当ブログの目的ではない。彼に応援されて、自分のブログをつくることが目的なのだ。

 なにをやってますか、って言われて、チキンの骨で恐竜を作ったり、自転車のハブダイナモで自家発電工作してます、って言ったりするように、三宅洋平に挑発されて、ブログを書き続けることにしました、って言うのは、私にとって、そんなに恥ずかしいことではない。

 三宅洋平、よくぞ仙台まで来た。彼が来ることを知らせてくれた友人カップルにも感謝する。山本太郎、当選おめでとう。君の主張に賛成しかねるところもある。東京都民じゃない私はあなたに投票することはなかった。でも、あなたにはあなたにしかできないことがきっとあるはずだ。他の議員なんて、二束三文に見えてしまうような活躍ができるはずだ。

 緑の党(らしきもの)を作ろうとした中沢新一は、まだ生きているだろうか。本当にやる気あるだろうか。緑の党グリーンズジャパンとやらは、今後も活動するだろうか。

 福島は? TPPは? 憲法は?

 当ブログは、当ブログなりに、模索してみよう。これが当ブログ復活の、とりあえずの口実だ。

 

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2013/07/23

沢田石信君 葬儀日程 25日18時通夜 26日11時本葬

沢田石 信 君 葬儀日程

25日(木曜日)13:00 葬儀会館を出棺 葛岡斎場(022-226-2141)で火葬

25日(木曜日)18:00  通夜 仙台東斎場 清月記(022-308-5777)

26日(金曜日)11:00  本葬 仙台東斎場 清月記

本日23日12時12分急病により急逝されました。
なお、ご遺体は、すでに斎場に安置されています。

連絡先
仙台東斎場 清月記 〒981-8002 仙台市泉区南光台南3-7-7
TEL.022-308-5777 FAX.022-252-5771
仙台市地下鉄・旭ヶ丘駅下車/鶴ヶ谷四丁目北バス停より徒歩1分
http://www.seigetsuki.co.jp/hall/higashi/

いつも明るく、積極的にリーダーシップを発揮してくれた故人を偲び、
心よりご冥福をお祈りいたします。 合掌

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訃報第一報 沢田石 信 君(現在多賀城市在住61才) 本日 転倒して頭部打撲とのこと。詳細不明。冥福を祈ります。

  初めてあったのは、1970年の4月20日。沖縄反戦デーのべ平連のデモにみんなで参加した時だった。待ち合わせ場所は、駅前にあった八重洲書房。お互い、まだ高校二年生だった。そこに教科書の入ったカバンを置き、小田実の講演やフランス・デモに参加した。

 その後、片平にあった太田さんの喫茶店レノンに行って、アイスコーヒーを飲んだ。あれからの付き合いで、それほど頻繁ではなかったけど、付き合いはずっと続いた。

 とくにこの20年ほどは、一年に一回の仙台e人会(彼が会長で、名付け親)で、数人の仲間たちとの飲み会が恒例になっていた。

 二人のお嬢さんたちも立派に成長し独立、彼は転居して心機一転したところだったが、やや体調を崩しているという話も聞いた。

 なんにせよ、ここんとこ、私の友人たちは、どんどんいっちゃうなぁ。この男の話はもうすこし聞いていたかったな。石川裕人(ニュートン)の葬式で一緒したのが最後になった。残念。

 冥福を祈ります。 合掌

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「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義<1>


「解き明かされる日本最古の歴史津波」 <1>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト
Total No.3074

飯沼勇義関連リスト

「仙台近郊の歷史資料 第一報」 1953/04 地域社会研究会(東北大学教育教養部内)

「知られざる中世の仙台地方」 1986/11 宝文堂

「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う! 1995/09 宝文堂

「3・11その日を忘れない。」 歴史上の大津波、未来への道しるべ 2011/6 鳥影社

「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!復刻版 2011/09 本田印刷出版部

「解き明かされる日本最古の歴史津波」 2013/03 鳥影社

 とてつもない一冊である。読んでしばらく経過してしまったが、いつまでもメモしないと、読んだ直後の感動が薄れてしまう。断片的だがメモだけは残そう。

 飯沼勇義の4冊目。他にもあるのだろうか。あるのならぜひ読みたい。

 ホツマツタエを基礎としているが、これほど生きたホツマツタエも珍しい。

 角田市熱日高彦神社の持ちあげようは半端じゃない。

 名取平野に存在し、すでに煙滅してしまったとされる直径3~4mの「円墳」に、強いつながりを感じる。

 飯沼史観で行けば、現在の日本の国家観など、ぶち飛んでしまう。それを強い科学的な検証性と、さらにそれを上回る創造的な精神性で、一冊の本にしてしまった。

 この本、どこからどう読み解きはじめるか。めずらしく、この本は、どこからでも、どの角度からでも読み説きはじめることができる。my favorite である。

 フルボ酸鉄についてはよくわからないが、三陸の牡蠣養殖業者の畠山重篤「森は海の恋人」1994/10 北斗出版)を連想させる。明らかに関連しているだろう。

 この本をどう読み解くのか。

 この本がなかったら、もう私は、一か月前のメンテナンス突入のままブログ再開はしなかっただろう。この本を読み解くために、とりあえず、このブログを続けることを決意したとさえ言える。

<2>につづく

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2013/07/22

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS)<1>


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<1>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p
Total No.3073

 どうも、この世界から抜け出すには、たっぷり時間がかかるらしい。自分がこれだけ、この世界にハマるとは思わなかった。

 「チキンの骨で恐竜を作ろう」をいまだに実践中。前回は「地球ザウルス」と名づけた、自分勝手な恐竜「らしきもの」を作ってみただけだが、あっというほどのリアリティに圧倒された。それで、いろいろ調べてみると、もっともっとリアリティを出す工夫が必要だとわかってきた。

 なに、わが地球ザウルスだって、数億年続いた恐竜時代のことを考えれば、進化の過程では、このようなスタイルがなかったとは断定できないはずだが、やはり、実際に発掘された、「科学的」なデータに基づく恐竜づくりが必要であろう。

 恐竜といえば、ティラノザウルスの名前があまりにも有名。私だって(?)知っている。別名T-レックスというニックネームを持っている。でもなぁ、肉食動物だし、北米に多いというのも、いまいち納得いかない。凶暴すぎるというイメージがある。

 そう敬遠してきたティラノザウルスだが、資料がもっとも多いのも事実。チキンの骨で恐竜を作ろうとすれば、まずはティラノザウルスに挑戦してみる必要があるだろう。

 地球ザウルスの欠点はいくつもある。
・頭蓋骨があまりにも杜撰である。
・足元、手元があまりにも杜撰である。
・脊髄の数、骨の向きがめちゃめちゃである。
・体全体のバランスが取れていない。
・脱色できないところは、着色してしまった。
・歯の数がいい加減である。
・腰骨の部分があまりにもいい加減である。(そもそも仕組みがわかっていない)
・などなど

 これらは、なにはともあれ形として作ってしまったから気付いたわけだから、地球ザウルスにはそれなりの存在意義はあるのだが、もっと作りたいと思うのなら、このつぎはそんなにいい加減なことを続けるわけにはいかない。

 とにかく、ここは基本中の基本であるティラノザウルスへの挑戦である。今回始めていることは・・・・。

 ・とにかく骨を集めること。前回のように鶏がらばかりでなく、丸鶏も集め始めた。なんせ、鶏がらには腰骨がない。そもそものシステムがよくわかっていない。丸鶏にも大きさがあり、腰の大きさも当然違ってくる。あるいは、鶏とティラノザウルスにはどこまで類似性が許されるのか。

 ・ティラノザウルスの場合は、とくに、頭蓋骨の部分が全体のイメージを決定する。丁寧にに作り込む必要がある、ということで、まずは木工で立体モデルを作り始めた。
 ・腰骨は現在、ゆっくりと肉片の中から発掘中。

・それといろいろ情報を集めている。その中でもこのペンブックス「恐竜の世界へ。」が秀抜なのは、ティラノザウルスについての情報が多く、全体骨格の側面図と上から見たときの図がキチンときれいに表現されていることだ。本によっては、同じ恐竜でも、作りがまちまちである。ここはこの本を基本として、全長60センチ、高さ30センチ、幅10センチのティラノザウルス制作へ進行することとする。

<2>につづく

 

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2013/07/19

こころでからだの声を聴く<28>

<27>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<28> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

19、断食による解毒

質問:身体の解毒法として、断食を推奨なさいますか? 私は最近、ベジタリアンになりました。
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 断食をすると、身体はもう消化の作業をしなくて済む。その期間、身体は死んだ細胞や毒素の排出に取り組むことができる。それは土曜日や日曜日の休日に、家に帰って日がな一日掃除するのと似ている。1週間ずっと暇なく忙しかったので、あなたは家を掃除できなかった。そこで、1日かけてすべてを掃除する。何も消化するものがないときや、何も食べなかったとき、からだは自分自身の掃除を始める。そのプロセスは自発的に始まり、身体は不要なもの、重荷のように感じられていたものをすべて捨て始める。断食は浄化の手法だ。ときたまであれば、断食はすばらしい---何もせず、食べず、ただ休息する。できるだけたくさん飲物を摂り、ただ休息する。すると、身体は清浄になる。

 ときに、もっと長期の断食が必要だと感じるなら、長期の断食をしてもかまわない---ただし、その間は自分の身体を深く慈しむこと。そして、断食が何かしら身体に害を及ぼすような気がしたら、やめることだ。断食が身体の助けになっていれば、よりエネルギーが充実し、生き生きとして、元気を取り戻し、活力を得る感じがするだろう。これを基準にするといい。衰弱するような感じ、身体が微かに震えるような感じがし始めたら気をつけなさい。もはや断食は浄化ではなく、有害になっている。断食をやめることだ。

 だが、はじめに断食の科学の全般を学んでおいた方がいい。実際に断食をする前に、長らく断食をやってきてすべてに精通している人、問題となるあらゆる症状を知っている人に相談するといい---断食が有害となった場合は何が起こり始めるのか、有害でなかった場合は何が起こるのか。真の浄化が行なわれた断食の後は、一新され、より若く、より清浄で、体重が軽く、より幸せな感じがするだろう。そして身体は、より順調に機能しているだろう。もやは身体は、重荷を降ろしたのだから。ただし、間違った食べ方をしてきた場合にのみ、断食するといい。間違った食べ方をしてこなかったのなら、断食をする必要はない。断食が必要なのは、食習慣によってすでに身体を痛めつけてきた場合だけだ---もっとも、私たちは誰もがそうしている。

 人間は道を失ってしまった。人間のような食べ方をする動物はいない。すべての動物には、好みの食べ物がある。バッファローを庭に連れ出して放したら、彼らは特定の草しか食べない。何でもかんでも食べ続けたりはしない---彼らは好みがうるさい。彼らには、食べ物に関する一定の感覚がある。人間は食べ物に関する感覚を完全に失い、無感覚になっている。人間は何でもかんでも食べ続ける。実のところ、どこかしらで人間に食されていないものを探すのは不可能だろう。ある地ではアリが食べられている。ある地でヘビが食べられている。ある地ではイヌが食べられている。人間はあらゆるものを食べてきた。人間は本当に狂っている。人間は、どれが自分の身体と共鳴し、どれが共鳴しないのかを知らない。完全に混乱している。

 自然なあり方からすると、人間は菜食であるべきだ。なぜなら、身体全体が菜食用につくられているからだ。科学者でさえこの事実をしぶしぶ認めているが、人間の身体の全構造は、人間が菜食であるべきことを示している。人間はサルの子孫であり、サルたちは菜食だ---完全な菜食だ。もしダーウィンの考えが本当なら、人間は菜食であるべきだ。現在、特定の動物の種が、菜食か非菜食かを調べる方法がある。それは腸によるもの、腸の長さによるものだ。非菜食の動物は、腸がとても短い。トラやライオン---彼らの腸はとても短い。なぜなら、肉はすでに消化された食物だからだ。肉を消化するには、腸は長くなくてもいい。消化の作業は、動物によって為されている。今、あなたは動物の肉を食べている。それはすでに消化されている---長い腸は必要はない。人間は、もっとも長い腸を持つ種のひとつだ。つまり、人間は菜食だ。長時間の消化が必要で、たくさんの排泄物がそこに溜まる。それは排出されなければならない。

 菜食なのに肉を食べ続けると、身体に負荷がかかる。東洋では、偉大な瞑想家たち---仏陀やマハヴィーラは、その事実を強調していた。これは非暴力という概念のためではない。それは二次的なものだ。そうではなく、深い瞑想の中に入っていきたいと本気で望むなら、身体は軽く、自然で、流れている必要がある。身体は重荷を降ろす必要がある。一方、非菜食の人の体は、大変な重荷を負っている。

 肉を食べると何身が起こるか、ちょっと観察してごらん。動物を殺すとき、殺される瞬間の動物に何が起こるだろう? もちろん、誰も殺されたいとは思わない。生命は生き延びることを望む。動物は喜んで死ぬわけではない。誰かがあなたを殺したら、あなたも喜んで死にはしないだろう。ライオンがあなたに飛び掛かってあなたを殺したら、あなたのマインドには何が起こるだろう? あながたライオンを殺すときにも同じことがおこる。断末魔の苦しみ、恐怖、死、苦悩、不安、怒り、暴力、悲しみ---これらすべてが動物の身に起こる。全身に暴力、苦悩、断末魔の苦しみが広がる。全身に毒素と毒物が充満する。動物はまったく望まずに死んでいくため、あらゆる腺が毒を分泌する。そして、あなたはその肉を食べる---その肉は、動物が分泌したあらゆる毒を含んでいる。エネルギー全体が有毒だ。そうした毒が、あなたの身体に運ばれる。

 あなたの食べているその肉は、動物の身体の一部だった。それは、その場所で特定の目的を担っていた。動物の身体には、特定の種類の意識が存在している。あなたは動物の意識よりも高い次元にいる。だが、動物の肉を食べると、あなたの身体は最低の次元へ、動物の次元よりも下に落ちる。すると、あなたの意識と身体にギャップが生じる。そして緊張が生じ、不安が生まれる。

 自然なものを食べるといい---あなたにとって自然なものを。果実、木の実、野菜---できるだけたくさん食べなさい。そして、これらは必要以上に食べられないという点が美しい。自然なものは、どれもあなたに満足を与えてくれる。それは、あなたの身体を堪能させ、あなたを十二分に満足させてくれるからだ。あなたは満足感を得る。何かが不自然だと、それは決して満足感を与えてくれない。アイスクリームを食べ続けてごらん。満足したとは決して思えないだろうう。実のところ、食べれば食べるほど、もっと食べたくなる。それは食べ物ではない。あなたのマインドは騙されている。あなたはもはや、身体の必要に応じて食べているのではなく、アイスクリームを味わうためにだけに食べている。舌が支配者になっている。

 舌は支配者になるべきではない。舌は、胃のことをまったく知らず、身体のことをまったく知らない。舌には、食べ物の味を確かめるという特定の目的がある。自然の摂理からして、どの食べ物が身体の---自分の身体のためになるか、どの食べ物が身体のためにならないかを、舌が判断しなければならない。これが舌の唯一の機能だ。舌は門番にすぎない。主人ではない。門番が主人になったら、すべてが混乱してしまう。OSHO p159~163

<29>につづく

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2013/07/16

こころでからだの声を聴く<27>

<26>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<27> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

16、感覚を活性化させる

質問:私は頭を使う仕事をしていて、ほとんどの時間をコンピュータに向かって過ごしています。自分は生き生きしていないと、しばしば感じるのですが。
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 もっと身体の中に入りなさい。あなたの感覚を、もっと生き生きとさせてごらん。もっと愛情をこめて見つめ、もっと心から味わい、もっと心から触れ、もっと心から臭いを感じなさい。感覚をもっともっとはたらかせてごらん。すると突然、頭の中で過剰に動いていたエネルギーが、今度は身体に程よく分散されるのがわかるだろう。

 頭は実に独裁的だ。頭は、あらゆるところからエネルギーを奪い続ける独占者だ。それは、あなたの感覚を殺してしまった。あなたの頭はエネルギーのほぼ80パーセントを奪い取っていて、身体の他の部分には20パーセントしか残されていない。当然、全身は苦しんでいる。そして全身が苦しむと、あなたは苦しむ。なぜなら、あなたが全体として、有機的なまとまりとして機能し、身体の各部と実存が適切なエネルギーの分担を過不足なく受けてこそ、あなたは幸せになれるからだ。すると、あなたはリズミカルに機能し、調和を得る。

 調和、幸福、健康---それらはすべて、ひとつの現象の一部だ。それはすなわち全体になるものだ。あなたが全体であれば、あなたは幸せで、健康で、調和がとれている。

 頭は障害をつくり出している。人々は多くのものを失ってしまった。臭いを感じる能力を喪ってしまったから、臭いを感じることができない。味わう能力も失っている。耳の機能も失ってしまったから、わずかなことしか聞き取れない。人々は、本当の感触とはどんなものかを知らない。肌は死んでいる。肌はやわらかさや感受性を失ってしまった。そして頭は、アドルフ・ヒットラーのように全身を押し潰しながら増長している。頭はどんどん大きくなっている。とんでもないことだ。巨大な頭にとても小さな手足がぶらさがり、人はほとんど風刺画(カリカチュア)になっている。

 だから、感覚を取り戻しなさい。あなたの手で何でもいいからやってごらん。大地と共に、木々と共に、岩と共に、身体と共に、人々と共に、何でもいいからやってごらん。あまり考えずに済むこと、あまり頭を使わなくて済むことを、何でもいいからやってごらん。そして楽しみなさい。すると頭は次第に楽になる。それは頭にとっても良いことだ。なぜなら、頭が荷を過剰に負っているときは、考えても考えられないからだ。悩んでいるマインドが、どうして考えたりできるだろう? 考えるには明晰さが必要だ。考えるには、緊張のないマインドが必要だ。

 逆説的に思えるかもしれないが、考えるには思考のないマインドが必要だ。そうすれば、非常に楽に、直観的に、集中して考えることができる。ただ問題を自分の前に並べるだけで、無思考のマインドはそれを解決し始める。そのとき、あなたは直観を得る。悩まず、ただ洞察することだ。

 マインドが思考という荷物を負い過ぎているとき、あなたは目的もなく考え過ぎてしまう。そんなことをしても何にもならない。あなたの頭の中には何もないのだ。堂々巡りをし、騒音を立てるが、成果はゼロだ。

 エネルギーをあらゆる感覚に振り分けるのは、頭に背くことではない。それは頭のためになる。なぜならバランスがとれ、正しい位置にあるとき、頭はより良く機能するからだ。さもないと、にっちもさっちもいかなくなってしまう。頭の中はひどい交通渋滞で、ほとんどラッシュ・アワーのようだ。二十四時間、絶え間なく続くラッシュ・アワーだ。 

 身体は美しい。身体を用いて行なうことは、すべて美しい。

17、敏感であること

質問:敏感であるとは、どんなことでしょうか?
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 敏感であるとは、あなたが開いていること、あなたの扉が開いていること、あなたが存在と共に脈打つ用意があるということだ。鳥が歌い始めると、敏感な人はすぐ、その歌が自分の実存のもっとも深い核に響くのを感じる。敏感でない人は、それをまったく聞かないか、どこかでただ物音がしているのだろうと思う。歌は彼のハートに染み込まない。カッコーが呼びかけ始める---敏感な人は、カッコーがどこか遠くのマンゴーの茂みからではなく、あたかも自分自身の魂の奥深くから呼びかけているのを感じ取る。それは彼自身の呼びかけとなり、神性への渇望となり、愛する人への渇望となる。その瞬間、観察する者と観察される物はひとつだ。美しい花が咲いているのを見ると、敏感な人は花と共に咲く。花と共に花になる。

 敏感な人は流体であり、流れ、流動している。体験するたびに、彼はそれになる。日没を見ていると、彼は日没になる。夜---暗い夜、美しい静まり返った暗闇を見ていると、彼は暗闇になる。朝になれば、彼は光になる。

 彼は生そのものだ。彼は生をすみずみまで味わう。だから彼は豊かになる。これこそ真の豊かさだ。音楽を聞けば音楽になり、水音を聞けばそのその音になる。そして竹林を風が吹き抜け、竹がざわめくとき、彼はそこから遠く隔たってはいない。彼は竹林の真ん中にいて、その中のひとつだ---彼は一本の竹になっている。

 ある禅師が、竹の絵を描きたいと思っている弟子の一人に言った、「行って、まず竹になるがいい」。彼は名人級の画家で、あらゆる芸術審査をパスしていた---しかも立派な成績で。彼の名前は、すでに有名になり始めていた。だが師は言った、「森へ行き、何年か竹と共に過ごし、竹になるのだ。竹になれた日、戻って来て描くがいい。それ以前ではだめだ。竹が感じていることを内側から知らずに、どうして竹が描けよう? 外側から竹を描けても、そんなものはただの写真だ」

 そして、それが写真と絵画の違いだ。写真は決して絵画にはなり得ない。どれほど巧みに芸術的に撮ったとしても、竹の周辺が反映されたものでしかない。カメラは、魂の中には入れない。

 写真が開発された当初、絵画の世界に大きな脅威が生まれた。今後、絵画はおそらくこれまでの美や、これまでの土台を失うだろうと。なぜなら、写真は日進月歩で発展し、すぐに必要条件を満たすだろうと思われたからだ。その恐れは杞憂だった。実のところ、カメラの発明以降、写真は途方もなく進歩したが、それと同時に絵画は新たな次元、新たな視点、新たな認識を学んだ。絵画はより豊かになった。またそうならねばならなかった。カメラが発明される以前、画家はカメラのような役割をしていた。

 師は言った、「森へ行くがいい」と。そしてでしは出かけ、3年間森の留まり、ありとあらゆる天候のもとで竹と共に過ごした。雨が降っているとき、竹にはある喜びがあり、風が吹いているとき、竹の雰囲気はまた異なった。そして日が照っているときは、もちろん竹の実存の中ですべてが変わっていた。また、カッコーが竹やぶにやって来て鳴き始めると、竹は沈黙したまま呼応していた。弟子は、3年間そこに留まらねばならなかった。

 すると、それが起こった。ある日、それが起こった。彼は竹のそばに座り、自分が何者であるかを忘れた。すると風が吹き始め、彼はそよぎ始めた---竹のように! 後になってやっと、彼は自分が長いこと人間でなかったことを思い出した。彼は竹の魂の中に入り、そして竹の絵を描いた。

 その竹には、写真がとらえることのできない、完全に異なる質がある。写真は美しいかもしれないが、それは死んでいる。その特別な絵画は生きている。なぜなら、竹の魂のあらゆる様相、あらゆる豊かさ、あらゆる雰囲気を表現しているからだ。悲しみがあり、喜びがあり、苦悩があり、恍惚があり、竹の知るすべて、竹の一生の全記憶がそこにある。

 敏感であることは、生の神秘に開いているということだ。より敏感になり、あらゆる非難を捨てなさい。あなたの身体を、まさに扉にしなさい。

18、過食と過小なセックス

質問:関係性が壊れてからというもの、私は食べ過ぎて太ってしまいました。どうしたらバランスを取り戻し、食べる量を減らせるのでしょうか?
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 性エネルギーを正しい方向に向けないと、それは必ず食べ物に執着し始める。食べ物とセックスは両極だ。それらは互いにバランスをとっている。セックスをし過ぎると、食べ物への興味は消える。性欲を抑圧すると、食べ物への興味はほとんど強迫観念のようになる。だから食べ物に関しては、直接的には何もできない。試みれば、必ず困難に陥るだろう。2、3日なら自分に強制して何とかやり遂げられるだろうが、すると問題が戻ってくる。しかも、報復と共に戻ってくる。性エネルギーに取り組む方がいい。

 問題が生じるのは、食べ物の最初の体験と子供への愛情とが、非常に深く結びついているからだ。子供は母親の胸から食べ物をもらい、愛情ももらう。愛情を得たら、子供はミルクのことなど心配しない。母親は、何とかして子供にミルクを飲ませなければならない。愛情を得ていないと、子供は将来のことが心配で、母親の胸を離れない。子供はできるだけたくさんのミルクを飲む必要がある。というのも、母親がいるかどうか確信が持てないからだ。愛情を得たら子供は安心し、心配しなくなる。母親は、必要なときはいつもいてくれる。子供は母親の愛情を信頼できる。しかし母親に愛情が欠けていると、子供は信頼できない。そして、できるだるだけたくさんミルクを飲まなければならない。子供は過食を続ける。

 つまり愛情を得られないと、子供は食べ物に興味を持つようになる。愛情を得ると、子供は食べ物に興味を持たないか、あるいは単に自然な興味を持つだけだ。子供は身体が必要とする分だけを食べる。

 あなたの愛のエネルギーが何らかの理由でブロックされてきた場合、そのブロックされた愛のエネルギーは、食べ物への興味となる。それを変えたいなら、もう少し愛へと入って行き、もっと愛情深くなることだ。自分の身体を愛しなさい。そこから始めるとい。自分の身体を楽しんでごらん。それは美しい現象であり、すばらしい贈り物だ。踊り、歌い、感じ、自分の身体に触れてごらん。

 問題なのは、自分の身体を愛さないなら、あなたは他人に対してもあなたの身体を愛することを許さなくなるという点だ。実のところ、あなたに優しくしようとする人は、変わり者で、馬鹿で、愚かに見えてしまう。それは、あなたが自分の身体を愛せないために、「彼は私に何を見ているのかしら?」と思うからだ。あなたには何も見えない! 自分自身の身体の美しさを見ようとしないかぎり、あなたは他人の愛を受け容れられないだろう。人があなたに好意を抱くこと自体、彼は愚か者以外の何者でもないというしるしだ。

 だから私は言う---自分の身体を愛しなさい。そして愛し、抱きしめ、手を取る機会があったら、逃してはいけない。あなたは驚くだろう。愛の方向へ進み始めると、食べ物の問題は自動的に解決される。愛の中に在ることは、すばらしい体験であり、自分に食べ物を詰め込み続けるのは、とても惨めな体験だ。食べ物は美しくないということではない。吸収できるだけの量を食べてこそ、食べ物は美しい。食べ過ぎは吐き気を催させる。

 愛に関して美しい点がある。それは、決して過剰ということがない点だ。極限まで愛せる人はいない---誰一人として。愛には極限が存在しない。極限まで食べ、物を詰め込むときと違って、愛するとき、あなたは分かち合い、あなたは与える。それは荷を降ろすことだ。与えれば与えるほど、あなたのエネルギーはさらに流れ始める。あなたは川になる。もはや淀んだ水溜りではない。

 それが、あなたのしたことだ---あなたは自分のエネルギーを、淀んだ水溜りにしてしまった。

 壁を壊しなさい! あなたは、愛がもたらしてくれる、愛だけがもたらしてくれる美しいものを、不必要に逃している。その代わりに、この食べ物という問題に苦しんでいるのだ。OSHO p150~158

<28>につづく

 

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こころでからだの声を聴く<26>

<25>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<26> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

14.ひきこもり

質問:ときどき私は、暗い穴の中に隠れていたい気分になります。とくに生理中には。
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 エネルギーには波がある。潮が満ちるときもあれば、引くときもある。満ち潮のときは、関係する、コミュニケーションをとる、開いている、愛する、受け取る、与えるといったことは簡単だ。あなたが満ち潮の状態でなく、エネルギーが引き潮の状態のときは、コミュニケーションをとるのは非常に難しい。ほとんど不可能だ。しかし両方の状態は、来ては過ぎ去る---それらは両方とも生の一部だ。何も間違ってはいない。自然なことだ。だから、それを受け容れることを心がけなさい。

 引き潮の時期に来ていると感じたら、コミュニケーションをとろうとしないこと。開いているよう、自分に強いてはならない。なぜなら、その開く行為は開いていることにならないからだ。それは種子の時期だ。ただ自分自身を閉ざし、独りでいる。その時間を、深い瞑想のために利用しなさい。それは瞑想に好都合なときだ。あなたが満ち潮の状態にいて、エネルギーが流れ、上昇しているなら、それは愛に適したときだ。そのときは関係し、開き、分かち合いなさい。それは収穫のときだ。ただし、一年中そうではあり得ない。たとえ天国でも、天使たちはずっと歌ってはいないそうだ。

 歌が湧き起こってくるなら、歌いなさい。また、すべてが閉じていく感じがするときは、ただ閉じるのを助けなさい。それが自然であるということだ。自然であるとは、必ず二十四時間、開き続けるという意味ではない---あなたは魔法の店ではない。ひとは閉じなければならないときがある。さもないと疲れ、うんざりし、嫌になってしまうだろう。絶えず微笑んでいる必要はない。そんなことをするのは政治家だけだ。そしえ、彼らは世の中でもっとも愚かな人々だ。

 涙が歓迎されるとこもある---涙は歓迎されるべきだ。悲しい気分になるときもある---悲しみは美しい。だから悲しいときは悲しみなさい。幸せなときは幸せでいなさい。真正であるとは、すでに起こっていることに決して背かないということだ。それと共に進み・・・・それを信頼しなさい。蓮の花弁は夜に閉じ、朝になると再び開く---でも、それは自然なプロセスだ。

 今、現代的なマインド---特に若い世代のマインドんは、非常に誤った考えが生まれている。それは、常に開いていて、常に愛情深くあるべきだという考えだ。これは新しい種類の拷問、新しい種類の抑圧であり、新しい形の暴力だ。そんな必要はない。真正な人とは、信頼のおける人のことだ。彼が悲しげなとき、彼は悲しんでいるに違いないという事実を信頼できる。彼は真実の人だ。彼が閉じているなら、それを信頼でき、彼を信用できる。それは瞑想の境地のようなものだ---彼はただ、自分自身の中にいることを望んでいる。外に出たいとは思わない。彼は深い内省の中にいる。それでいい! 彼が微笑んで喋っているなら、彼は関わることを望み、自分の実存から外に出て、分かち合いを望んでいるということだ。そのような人は信頼できる。

 だから、マインドで自分の実存に何かを強制しようとしてはいけない。実存に発言権を持たせ、マインドはただの僕(しもべ)、召使であるべきだ。しかし、マインドはいつも主人になろうとする。私のみるところ、あなたには何も悪いところはない。この生理の期間をただ生きることだ。すると次第に、毎月そうなることがわかるだろう。あなたは、何日かはとても開いていて、何日かは閉じている。

 それは男性よりも女性の方が顕著だ。なぜなら、女性は依然として周期性で生きているからだ。月経のために、女性の科学的性質、身体の化学反応は、28日周期になっている。実は、同じことが男性にも起こるが、それはもっと微妙で、もっと目立たない。

 つい最近、何人かの研究者がつきとめたのだが、男性にも月々の生理のようなものがあるそうだ。でも、出血はないから目に見えない。しかし、女性が毎月4日間はエネルギーの低い状態になるのと同様に、男性も毎月4日間はエネルギーの低い状態になる。男性の場合、この状態はあまり肉体とは関係なく、あまり目立たない。それは精神的なものだ---外面的というより、もっと内面的なものだ。

 しかし身分の気分を追っていくと、それを図式化できるだろう。それをカレンダーに書き留めておくといい。私の感覚では、あなたとあなたの気分は、月に従って推移しているはずだ。だから、月と共にどう変動するか、関聯をちょっと観察するといい。最低でも1、2ヶ月分のカレンダーを作る。すると、自分の状態を予見できるあろう。そうすれば日々の結果うを立てるために、それを利用できる。

 友人と会いたいなら、自分が閉じているときに会ってはいけない。自分が開いているときに合いなさい。だが、それは何も悪いことではない。ただ、自然のプロセスなのだ。

15、心気症

質問:私は病気になるのではないか、絶えず自分の身体を心配しえいます。何かアドバイスをいただけませんか?
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 身体のことを考えすぎると、身体は調子を崩してしまう。そして身体が不調になると、当然ながら余計に身体のことを考えてしまうものだ。それは悪循環になる。

 健康な人、完全に健康な人であっても、自分の胃にちて---さまざまなものをどう消化するか、何が起ころうとしているのか、などを考えだしたら、二十四時間以内に胃は掻き乱されてしまう。そしえ、ひとたび掻き乱されると、さらに胃のことを考えてしまう。つまり、基本的に身体には何も悪いところはないが、まさにその観念が身体を掻き乱してしまうのだ。薬は観念を治せないから助けにならない。こうして、あなたは医者から医者へ、「~療法」から「~療法」へと渡り歩く。しかし、どれもたいして助けにならない。そうした治療が、かえってあなたをいっそう掻き乱すかもしれない。というのも、薬には薬効があるが、薬は観念を治せないからだ。そして、その観念をおいて他に病気は存在しない。

 医者の当てが外れれば外れるほど、あなたはますます身体に執心する。すると、身体を意識するようになる。あなたは自分の身体にとても神経質になる。ほんのわずかな変化、わずかな不調、わずかな不快感でも、あなたはパニックになる。そしてパニックは、身体がますます掻き乱されるのを助長する。

 そこで私の最初の助言は、何かが悪いという観念を捨てることだ。人生を楽しみ始めなさい。

 昔、こんなことがあった・・・・・。

 ある男が、あと6ヶ月以上は生きられないだろうと医者から宣告された。その男は20年もの間、無数の病気を患ってきた。人間に起こり得るすべてのことが、彼に起こっていた。医者はうんざりしていた。そして男はとても裕福だった。男は心気症患者だった。ほとほと疲れ果てて医者は言った。「あなたは助かりませんから、心気症のことは忘れることですね。6ヶ月したら、あなたは死にます。これは確かです。誰もあなたを救えません。生きたいと思っても、あと6ヶ月というところですね」

 もし6ヶ月しか生きられないなら、身体のことを気にかけても仕方ないと男は思った。いずれ死ぬのだ。そして彼は、はじめて意識を変えた。彼は最上の服を誂え、最高級の車を購入し、世界旅行を計画した。彼は、ずっと行きたかったが身体のせいで行けなかった場所にすべて出かけた。世界中を旅行し、ずっと食べたいと思っていたものをすべて食べ、女性と愛を交わし、欲しい物はすべて手にいれた・・・・彼は本当に人生を楽しんだ! 死が近づいたから、躊躇するのは無意味だった。6ヶ月して戻ってくると、彼はこれまでなかったほど健康だった。彼はさらに30年生き、問題は二度と生じなかった!

 要はその意識を落とすことだ。一例として自然療法は効果的だ。というのも、それは真の「療法」ではなく、ただの休息であるからだ。でも、のめり込んではいけない。それは病気だ。自然療法そのものは療法ではない。それはただ身体に休息を与え、自然と調和できるような状況を与えるものだ。それは本能に基づく生理的欲求と調和することであり、医療ではない。自然療法の危険性は、のめり込む可能性があることだ。そして、のめり込むことは病気よりも問題が多い。

 自然療法は多くの人の助けになるが、自然療法に救われた人が、当の自然療法のせいで病気にならずに済むのはごく稀だ。人はとり憑かれてしまう---何を食べるか、何を食べてはいけないか、どこへ行くか、どこへ行ってはいけないか、エコロジーについて・・・・・終始こうしたことを考える。すると、生活は再び困難になる。自然療法にとり憑かれてしまったら、あなたは呼吸できない。というのも、空気中にはたくさんの汚染物質があるからだ。レストランでも食事できない。自然な調理法で食事が作られていないからだ。あなたは自然食しか欲しくないから、これも食べられないし、あれも食べられない。あなたは街中にも住めない。その結果、生活は非常に困難なものとなる。

 常に覚えておきなさい。自然療法はただの休息だ。ときたま何も理由がなくとも毎年自然療法のクリニックへ行き、2、3習慣、あるいは1、2ヶ月、可能なかぎり長く休息するといい。特に理由がなくても行ってごらん---自然、自然食、風呂、サウナ、マッサージをただ楽しむために、ただ喜びのために、純粋に自然療法を体験する喜びのために行く。ただし、自分は病気だという考えは捨てること。そして内なる王者を思い起こしなさい。身体は宮殿にすぎない。OSHO p144~150

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2013/07/15

こころでからだの声を聴く<25>

<24>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<25> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

13:インポテンツ

質問:女性と愛を交わすとき、いつもインポテンツの恐怖が湧き起こるのですが。
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 西洋的な態度は、常に何かを起こし、何かを行なおうとする! しかし「行なう」ことのできない物事がいくつかある。そのところで、西洋はひどく狂奔してしまう!

 睡眠とセックス---これらは「行なう」ことのできないものだ。だから西洋は、睡眠不足つまり不眠症で非常に苦しんでいる。セックスについても、また然りだ。自分は本来あるべきようにセックスを味わっていないのではないかと、誰もが心配している。オーガズムが訪れない、あるいはごく一部でしかない、あるいはオーガズムが熱を帯びていない、あるいは全面的でないというように。また、眠りの質も良くない---夢を見すぎる。何度も目覚めたり、眠りが訪れるまで何時間も待たねばならなかったりする。人々は眠りを誘おうと、ありとあらゆること---精神安定剤、トリック、マントラ、超越瞑想を試みている。

 また、セックスについても心配し過ぎている。まさにその心配、何とかしようとするまさにその努力が問題なのだ。

 セックスは起こるものだ。為すべきものではない。そこで、セックスへの東洋の態度、タントラの態度を学ぶといい。タントラの態度とは、相手に対して愛情に満ちていることだ。計画する必要はない。頭で予行演習する必要もない。特別に何かをする必要はなく、ただ愛に満ち、オープンでいる。お互いのエネルギーで戯れ続けるといい。そして愛を交わし始めるとき、それを大袈裟なものにする必要はない。さもないと、あなたは偽りを装うことにない、相手も同じことになるだろう。彼女は愛情深いふりをし、あなたも愛情深いふりをする・・・・・そして二人とも満足しない! ポーズは不要だ。

 愛を交わすことは、とても静かな祈りだ。それは瞑想だ。それは神聖なもの---聖なるものの中でも、もっとも聖なるものだ。だから、女性と愛を交わしている間は、ごくゆっくり行ない、味わい、そのあらゆる香りを吸収しなさい。ごくゆっくり行なうこと。急がない。急ぐ必要はない。時間はたっぷりある。

 そして愛を交わしている間は、オーガズムのことは忘れなさい。それより、女性と共にリラックスした状態でいること。互いにリラックスしなさい。西洋人のマインドは絶えず考えている---いつオーガズムはやって来るか、どうしたらそれをもっと早くすばらしいものにできるかといったあれこれを。その思考活動が、身体のエネルギーが機能するのを妨げている。それが、身体の独自のやり方を妨げている。マインドは干渉し続ける・・・・。

 相手と共にリラックスしなさい。何も起こらないとしても、何かを起こそうとする必要はない。何も起こらないとしたら、それこそが起こっていることだ・・・・それもまた、すばらしい! オーガズムは毎日のように起こる必要はない。セックスとは、ただ共に在ること、ただ互いの中へ溶け込むことであるべきだ。そうすれば、相手の中にリラックスしながら、30分でも、1時間でも愛を交わし続けることができる。すると、あなたは完全なマインド不在の状態になる。なぜなら、マインドは不要だからだ。マインドが不要なところでは、愛こそ唯一のものだ。そして、それが西洋のまちがっている点だ。西洋は、そこにさえもマインドを持ち込む!

 だから、互いの中にリラックスし、マインドのことは忘れなさい。相手の存在そのものを楽しみ、出会いを楽しみ、その中に我を忘れる。そこから何かを生み出そうとはしない。何もつくり出すものはない。するとある日、谷間のオーガズムがあるだろう。頂上はない。あるのはくつろぎだけだ。しかし、それには独自の頂(いただき)がある。なぜなら深みがあるからだ。ある日、身体は頂上のオーガズムへの引き金を引く。頂上もまた訪れる。あなたは、ただそこにいるだろう。

 ときには谷間があり、ときには頂上がある・・・・それはリズムだ。毎日のように頂上を得ることはできない。頂上しか得ないなら、その頂上はたいしたものではないだろう。頂上は、谷間に行くことによって獲得しなければならない。だから、それは半々だ。ときにそれは谷間のオーガズムであるだろう。そのときは谷間の暗闇の中に、涼しさとやすらぎの中に失われなさい。それが頂上を獲得する方法だ。ある日、エネルギーの準備が整う。それは自ら頂上へと向かう。あなたがそれを連れていくわけではない。どうして、あなたにそんなことができるだろう? あなたは何者なのか? またどうして、そんなことが可能なのか? 谷間にいることによって、エネルギーは蓄積される。頂上は谷間から生まれる。すると、大きなオーガズムがあり、あなたの全存在に悦びが広がる。

 頂上に悦びがあり、谷間にはやすらぎがある。両方とも美しい。だが最終的には、悦びよりもやすらぎの方に価値がある。なぜなら、悦びは刹那的だからだ。頂上には、一瞬より長くは留まれない。頂上とは、非常に小さいピラミッドのようなものを意味する。そこには長く立っていられない。ほんの一瞬いられるだけだ。しかし谷間が訪れたら、そこにはもっと長くいられる。両方を楽しむことが肝腎だ。両方とも何かを届けてくれる。両方とも意味深いものであり、あなたの成長を助けてくれる。

 最終的にはタントラが言うように、谷間のオーガズム頂上よりも遥かにまさる。頂上のオーガズムは成熟していないが、谷間のオーガズムには深い成熟がある。頂上のオーガズムには興奮があり、熱っぽく、情熱的だ。スリルがあるけれども、そのスリルは疲れる。谷間のオーガズムにはスリルはないが、静寂がある。そしてその静寂は、より価値のあるものであり、よりあなたを変容させてくれるものだ。それはニ十四時間、あなたと共に留まる。ひとたび谷間に至ったら、その谷間はあなたに付き従う。頂上は失われるものであり、あなたは疲れ切って眠りに落ちるだろう。谷間は持続する。それは何日間も、あなたにある種の影響を及ぼす。あなたはリラックスして、一体感を抱くだろう。

 両方とも良いものだ。だが、どれひとつ「行なう」ことはできない。ただ、妨げずに許すこと、愛とは一種のくつろぎであり、その中では物事を妨げずに許すことだ。OSHO p140~144

<26>につづく

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2013/07/08

こころでからだの声を聴く<24>

<23>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<24> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

12:不感症

質問:私は性的な問題を抱えています・・・・自分が悪いと思うのですが、男性とセックスするとき、私はいつも楽しんでいるふりをしてしまうのです。
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 人は、ある日セックスを超越しなければならない。だが超越するんは、それを通り抜けることだ。その中に正しく入っていかないなら、セックスを超越するのは難しい。だからセックスを通り抜けることは、超越sることの一部だ。セックスを楽しめない人々は、そうした態度を教えられ、条件づけられてきたのかもしれない。

 世界の至るところで、人間によって人間性が損なわれている---もっともひどく傷つけられた点は、どの人も自分自身にくつろぐことに罪悪感を覚えるよう、教え込まれていることだ・・・・・まるで幸せではいけないかのように。苦しんでいれば万事申し分ないが、幸せなら何かが間違っている。こうして幸せは押し潰され、抑圧されてきた---しかし、弾けんばかりの幸福感に達することがないとしたら、あなたは生の機会をすべて失う。

 人は完全に幸せになるすべを学び、弾けんばかりの幸福感に達するすべを学ぶ必要がある。生はその目的のために存在する。

 確かにセックスは、あなたが弾けるもっとも大きな可能性をもたらしてくれる。セックスは三昧や深い瞑想や祝福を一瞥するためにの、もっとも自然な方法のひとつだ。祝福に至るには別の方法もあるが、それほど自然ではない。セックスは、もっとも自然は方法だ---それは生物的に埋め込まれている。セックスは神からの贈り物だ。だからどの人も、宗教的でも反宗教的でも、ヒンドゥー教徒でもイスラム教徒でも、神の存在を信じようと信じまいと、共産主義者でも無神論者でも、どんな人でも・・・・・。このひとつのことが、超越したもの---身体を超越し、マインドを超越したものへの一瞥を自然な形で与えてくれる。

 そこで女性として心に留め、試みるべきことが三つある。第一に、愛を交わしているときは能動的である。能動的でないなら、あなたの感じている困難が起こりやすく。能動的なら、困難はそう簡単には起こらない。あなたのボーイフレンドに言いなさい---あなたは女性の役をして、私が男性の役をすると。それをゲームにしなさい。彼をもっと受動的にし、あなたはもっと能動的になる。より能動的になると、行為はより熱を帯び、あなたのエネルギーはより集中する---途中でやめるのは難しい。しかし、あなたが能動的なときは、いつでもやめられる。というのも、あなたはほとんど部外者だからだ。あなたは傍観者のようだ。そうではなく、もっと能動的になりなさい。そして、これは一時的な手段にすぎない、ひとたびオーガズミックな体験に到達すると、続ける必要はなくなる---あなたは女性としての、今まで通りの役に戻ればいい。

 では、第二点---愛を交わす前に、一緒に踊りなさい。

 ワイルド・ダンスがいい。大声で歌い、踊り、かけたかったら音楽をかける。部屋に香を焚きなさい。それを入念な儀式にする・・・・・ほとんど宗教的な。

 人々は、段階を経ながら愛を交わすことへ向かおうとしなさい。二人の人間が座っていて、突然、愛を交わし始める。特に女性にとって、それは唐突なことだ。男性にとっては、さほど唐突ではない。というのも、男性のエネルギーは異なり、その性は局部的だからだ。女性の性はもっと全体的だ。全身がそれに巻き込まれる必要がある。だから前戯がないと、女性はその中に深く入っていけない。

 まず踊り、歌い、エネルギーを沸き立たせ、そして能動的なパートナーでありなさい。そして野性的(ワイルド)になる! パターン化してはいけない---ただワイルドになる。愛を交わしている最中に叫びたくなっても、心配しなくていい。歌いたくなっても、心配しなくていい。何か意味不明の言葉を発したくなったら、発しなさい---それはマントラのように働くだろう。

 そして最後に第三点。毎日、朝から晩まで注意を払いなさい---自分の喜びを抑圧しているに違いない他の事柄に。それもすべて変える必要がある。食べるときは、喜んで食べなさい。なぜなら、すべては互いに連結し合っているからだ。踊っているとき、そこに喜びがあるべきだ。瞑想しているときも喜びなさい。人と話しているときも喜び、光り輝き、流れていなさい。道を歩いているときも喜びなさい。私たちはたいてい、自分がどれほど多くのことを逃しているかを知らない。ただ道を歩くというありふれたことでも、おても多くの喜びをもたらす。誰に分かるだろう? 次の日はないかもしれないのだ。明日になったら、道を歩けないかもしれない。明日になったら、太陽を受けてそこにいないかもしれない。そこには風が吹いているが、あなたはいないかもしれない。明日のことなど誰にわかるだろう? これが最後の日かもしれないのだ。だから、あたかもこれが最後になるかのように、常にすべての瞬間を喜びなさい。その全体を経験し、それを完全に搾り取り、何も残さないように。このようにして、人は強烈に情熱的に生きる。そしてセックスは、あなたの全面的な態度の副産物にすぎない。だから、性的体験だけを変えることはできない。すべては互いに連結し合っている。だから、すべてを変えることだ。

 喜びに満ちて食べてごらん! 身体にただ詰め込むために食べ続けてはいけない---楽しんでごらん! それは神聖な事柄だ。歩くことを楽しんでごらん。それは神からの贈り物だ。人は感謝した方がいい。誰かと話しているときは、会話を楽しんでごらん。 

 この瞬間から、表面的にはセックスと無関係なことも楽しみ始めなさい。他のことを楽しんだら、最終的な結果としてあんたはセックスを楽しむだろう。他のことを楽しまないなら、あなたはセックスも楽しまないだろう。

 私の観察によると、セックスへの態度というのは非常に象徴的だ。それは、あなたの人生すべてを表している。だから、セックスを楽しんでいないとしたら、あなたは他のことも楽しんでいないだろう。もしくは、ある程度までしか楽しんでいないだろう。幸福や喜びを恐れる人は、常に多くのことを恐れる。

 この三つのことをやって、3週間後に私に報告しなさい。

 3週間のワイルド・ライフを楽しむ。人間性などすべて忘れ---動物に、純粋な動物になりなさい。すると、あなたは実にたやすく人間になれる。だが動物になるには、さまざまな物事に深く入っていかねばならない。

 真の動物でないなら、真の人間にもなれない。そして真の人間でないなら、神聖な存在にはなれない。

 すべての階層(ヒエラルキー)がある。動物は寺院の土台であり、人げは寺院の壁、神格は屋根だ。そして屋根は、土台がなくては存在できない。屋根があっても壁がなければ、屋根もまた存在できにあ。人間は三階建ての建物だ。一階は動物、二階は人間、三階は神聖だ。だから最初から、まさに一番最初から始めてごらん。そして、土台の石を敷くのだ。OSHO P135~139

<25>へつづく

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こころでからだの声を聴く<23>

<22>よりつづく 

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」<23> ボディ・マインド・バランシング 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次

9、美醜 

質問:私は、自分がとても醜いという感じを抱き続けています。どうも私は、友人や出会う人たちに、私に目を向けるのはイヤだという催眠術をかけているようです。
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 マインドは不必要な問題をつくり続ける。しかしながら、根拠のない問題をつくることが、マインドの機能のすべてだ。そして、ひとたびマインドが問題をつくりだすと、あなたはそれにとらわれ、解決しようとする。解決しようと、してはいけない。ただ、それらに根拠がないことを理解しなさい。完全に的外れなのを理解する---それだけのことだ。何かし始めたら、あなたは問題を容認してしまう。ただ、それが的外れであることを理解しなさい。

 すべての顔が美しい。すべての顔がそれぞれに美しい。すべての顔は異なり、どの顔もユニークだ。実のところ、比較も比較の可能性もない。あなたがこのことを認めたら、あなたは美しくなるだろう。受容を通して、美しさが芽生える。あんた自身が否定し、拒絶したら、あなたは不具になり、醜くなるだろう。さぁ、そこには悪循環がある。

 まず、あなたは拒絶する。あなたは受容しない---すると、あなたは醜くなる。すぐに他人もその醜さを感じ始め、あなたは「そのとおり、それは本当だ。私の考えは筋が通っている」と言う。こうして、あなたは自分自身をさらに拒絶する。これこそ、マインドが自己満足を続けるからくりだ。そして、ひとたびあなたが最初のステップを踏み外すと、すべてマインドが予言したとおりになる。最初のステップとは、自分は自分であるということだ。

 美に基準はない。実のところ、ほぼ5千年にわたって哲学者たちは美を定義しようとしてきた。そして、いまだに定義できていない。なぜなら基準がないからだ。さる人は誰かにとっては美しいが、別の人にとっては美しくない。もっとも美しい女性ですら、ある人にとっては醜く見える。それは完全に個人の選択だ。

 だから基準はない・・・・・そして、服の流行のように基準は変わる。たとえばインドでは、大きな胸と大きな尻をしていない女性は、美しいと思われない。今日の西洋では、大きな尻はほとんど消え失せ、胸もどんどん小さくなってきている。異なる美の概念が生まれている。

 そしてどんな概念であれ、身体はそれを実現する。理解しておくといい、ある国で大きな胸が美しいとみなされると、女性は大きな胸をつくり出す。

 一般に、小説や詩や文学は社会を反映すると言われている。しかし、それは逆向きにも作用する。小説や詩や文学が社会をつくることもあるのだ。ひとたびあなたがある種の想念を抱き、それが人々のマインドに入り込むと、それは作用する。

 この人は美しく、この人は美しくないといった基準はない。それは個人の好みであり、実のところ気まぐれなものだ。しかし、そもそも自分自身を受け容れないとしたら、あなたは誰もあなたのことを受け容れない状況をつくり出している。なぜなら、自分が受け容れないとしたら、他人も受け容れさせないからだ。

 あなたが女性で、ある男性があなたに恋をしたら、あなたはその愛を壊そうとするだろう。あなたは言う、「よくこんな醜い婆さんに恋ができるわね?」と。あるいは、その男性の美意識はかなり奇妙だと思うだろう。自分自身を愛さないなら、他人もあなたを愛せない。だからまず、誰もが自分自身に恋をするといい。

 イエスは言う、「神を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」。それが基本的な教えだ。もし自分自身を愛するなら、あなたは隣人を愛することができるし、神を愛することができる。ただし基本となる戒律は、自分自身を愛せよということだ。

 自分自身を愛し、自分自身に満足していられるなら、あなたは多くの人々を惹きつけるだろう。自分自身を愛する女性は美しいに違いない。美しいはずだ。彼女は自分自身への愛の中から、美を生み出す。彼女は優美で、気品のある人になる。

10、偽りの美しさ、真の美しさ

質問:美しさとは何でしょうか?
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 内面の美こそ、存在する唯一の美しさだ。他の美しさはすべて、皮相なものにすぎない。しばらくは自分を騙せるが、遅かれ早かれ他の美しさは擦り減り、人は完全な醜さの中に取り残される。それは、真の美しさを磨かなかったからだ。真の美しさとは、顔立ちとは関係ない、内面から来る輝きだ。それは目の形とは関係ない。むしろ目をとおして輝き出す光だ。それは身体とは関係ない。むしろ身体を通して波打つ内側の臨在だ。真の美しさは、あなたの実存の核で芽生え、身体に向かって外側へ広がって行く。偽の美しさは、表面にあるだけだ。それはあなたの中に根を持たず、根づいていない。

 覚えておきなさい、人は真の美しさを求め、探求していかねばならない。そして真なるものは永遠であり、持続する。ひとたびそれを見つけたら、あなたは永遠にそれを発見したということだ。一時的なものは時間の浪費にすぎない---一種の夢だ。しばらくは夢に夢中でいられるが、目覚めればたちまち、それはすべて馬鹿げて愚かなものであることがわかるだろう。

11、加齢

質問:助けてください! 私は歳をとっていきます!
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 自分自身の身体に好感を抱くことは、途方もなく人生の助けになる。それはあなたをより健康的に、より全体的にするだろう。多くの人が自分の身体を忘れてしまっている。彼らは身体に無関心になり、身体は服の下に隠し、常に覆いをかけられるべきもので、人目にふれてはならぬもの、卑猥で不純なものだと考える。まったく馬鹿げた考えであり、神経症的な考えだ。

 身体は美しい。身体は、老いも若きも問わず美しい。もちろん、若者には若者なりの美しさがあり、年配者には年配者の美しさがある。 

 若い身体は、より活力に満ちている。年老いた身体は、より知恵がある。それぞれの年代に、独自の美しさがある。それらを比較する必要はない。特に西洋では、老いた身体は実におぞましいという概念ができてしまっている。どういうわけか、生は若さと同じ意味だと考えられているからだ。それは馬鹿げた話だ。その点、東洋の方が優れている。東洋では、生は老いと同じ意味だと考えられている。なぜなら老人はより長く生き、より多くの経験を積み、より多くの愛をそそいできたからだ。老人は人生のさまざまな季節を、浮き沈みを知っている。老人は、青年期を生きたことがある。、若者は、まだ老境を生きてはいない。

 年老いた身体は、あらゆる体験、心の傷、精神的痛手、円熟した体験を通して訪れる品格を備えている。そしてどの年代であれ、ひとたび自分の身体にくつろぎ、悲しみ始めるなら、あなたは突然、身体が再び美しくなるのを感じる。そして、それは内側のさまざまなものを解き放つ。OSHOp130~135

<24>につづく

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2013/07/06

こころでからだの声を聴く<18> 

<17>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<18> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

5、内側から身体を感じる 

質問:私はとても頭でっかちな人間ですが、最近、自分の身体とマインドが、いろいろ変化しました。私は、もっと内側から自分自身を感じるようになっています。ですが今、前の習慣に戻って、万℃に再び支配されるのを恐れています。どうしたら、もっと頭から身体へ移行できるでしょうか?
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 マインドに変化が起こると、必ず身体は即座に影響を受ける。それが真の変化だったら、あなたはきっと身体の奥深くでも、何かが変化しているのを感じるだろう。そして、身体の何かが変化している場合、再びマインドにとらわれるのを恐れる必要はまったく。それは容易ではない。マインドだけが変化し、身体がそれを知らなかったとしたら、マインドは簡単に主導権を握れる。なぜなら、変化は表面に留まるからだ。身体は、あなたの根があるところだ。 

 身体は、あなたが大地に根を張るところだ。マインドは空に伸びる枝と似ている---それは一見すばらしいものに見えるが、すべては大地の暗闇深くに存在する根に依存している。根は自分を人目にさらしたり、姿を現わしたりしない。すこしぶらぶら歩けば、あなたは枝や花を見かけるだろう。しかし、あなたは根には気づかない。 

 枝だけが変化して、根は影響を受けていないとしたら、その変化は長くは続かない。しかし、根に影響が及んでいるなら変化は続くし、そのプロセスが簡単に覆(くつがえ)されるうことはない。だから心配しないでいい。身体に起こっている現象にもっと注意を払い、そして感じていなさい。 

 あなたは、身体の内側を感じている---それは実にすばらしいことだ。身体に無感覚な人は大勢いる。大多数がそうだ。彼らは自分が身体の中にいることを完全に忘れている・・・・・幽霊のようなものだ。 

 身体の中にある自分自身の根を再発見することは、きっと新たな感覚に違いない。というのも、人間は根から完全に切り離されてしまったからだ。 

 身体は何千年にもわたって抑圧されてきた。一方、マインドには主(あるじ)といいう概念が与えられてきた。マインドこそすべてであり、身体は召使にすぎない---実のところ、身体は非難されるものであり、罪のようなものなのだと。 

 自分が身体を持っていることに、羞恥心を抱く人もいる。だから、人々は裸になるのを恐れる。ひとたび裸になったら、あなたはマインドというよりも身体だ。衣服は、身体が存在しないかのような感覚を与えてくれる---顔、頭、目しか存在しない。マインドの全メカニズムは、そこに位置している。だから裸になると、自分が身体であることに突然気づく---そして、それはいい感じがしない。 

 自分の身体の中に留まりなさい。それこそが現実(リアリティ)だ。もっともっと感じてごらん・・・・・。身体が持ち得る、あらゆる繊細さを容認しなさい。それを再び獲得し、再生させ、より多くの変化を許し、身体の存在を感じられるようになりなさい。たとえば、ときどき目を閉じて大地に横たわり、身体で大地を感じる。考えてはいけない、感じてごらん。 

 川に行って、水の中、砂の中に横たわる。太陽を浴びて横たわる。もっと感じてごらん・・・・敏感になってごらん。パンを食べるときは、まず手でそれを感じ、頬に当ててそれを感じ、臭いをかぐ。まず、身体にパンを理解させ、それから味わう・・・・・。目を閉じ、味覚をすみずみまで行き渡らせなさい。急いではいけない。ただ詰め込み続けてもいけない。楽しみ、よく噛みなさい---このパンは、あなたの身体になる。この機械を逃してはならない。このパンは、あなたの身体になり得る。だから、それを受け取り、歓迎してごらん。すると数ヶ月のうちに、あなたはまったく異なる身体になるだろう。 

 これまでとは違うマインド、違う態度で食べ、違う態度で水を飲むなら---そして常により敏感で、繊細であることを心がけるなら---やがてわかるだろう。自分の身体の、さまざまな部分が死んでいたと。あなたは息を吹き返す。あなたは眠れるライオンだった。今やそのライオンが戻ってきて、脚を広げ、身体を伸ばしているかのようだ。あなたは、生命が湧き起こる不思議な感覚を発見するだろう。それは、ほとんど復活に近い。 

6、不眠 

質問:よく眠れません。いつも朝の3時から4時の間に目覚めてしまいます。
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 いつも3時から4時の間に目覚めるのかね? だとしたら、それを瞑想の時間にしなさい。 

 常に、積極的な行為のために機会を利用しなさい。何事にも創造的でありなさい。眠れないのなら、強いて眠る必要はない。そもそも、眠りは強制できないものだ。眠りは、意図して行なえないエネルギーの一つだ。意図的に行なったら、あなたは掻き乱されるだろう。眠りを強制しようと何かしたら、まさにその行為が障害となる。というのも、眠りは行為と逆で、無為の状態であるからだ。だから、何か努力をしたら---たとえばヒツジを数えたり、マントラを繰り返したり、あちらからこちらへ寝返りを打ったり、神の名を呼んで祈り始めたりしたら---そうしたことはすべて、あなたをいっそう目覚めさせる。そんなものは役に立たないが、人々はやり続けている。 

 私のアプローチは完全に異なる。第一に、眠気が去っているということは、あなたの身体が充分に休息していいて、別の欲求があるということだ・・・・。 

 「でも、私は疲れ切っている感じがします」 

 それは、あなたのマインドだ。あなたの身体とは関係ない。よく眠れていないという、まさにその思いがあなたを疲れさせる。本当は睡眠不足なのではない。なぜなら、身体の仕組み、身体の組織には、独自の英知があるからだ。たとえば、あなたが食べているとしよう。すると身体が「もう充分!」と言う。でもあなたは言う「私は痩せていて貧弱だから、もっと食べないと」。それは間違いだ。あなたは、自ら問題をつくり出している。あなたは食べることができる。もう少しばかり強制でき、詰め込める。しかし、身体の組織にはその用意がなく、食物を受け付けないだろう。 

 まったく食べる気がしない日もある。しかしマインドは、食べないなら弱ってしまうぞと言う。1日で弱ってしまう人はいない。身体が食べたくなと感じているなら、それは耳を傾けた方がいい。身体の方がよく弁(わきま)えている。身体には、今食べるのは危険だという本能的な認識がある。たぶん、腸内で何らかの営みが行なわれていて、あなたが食物を取り入れる前に、身体は腸内を掃除したいのだろう。何らかの毒素が入り込んだのかもしれない。あなたはすでに食物を取り込み過ぎ、身体は食物の処理を終えられずにいる。もうこれ以上の仕事は必要ない。さもないと、全メカニズムはパンクし、処理不能になってしまう。だから身体は言う、「食事はいらない、食欲がない」と。食欲がないというのは身体の言葉だが、あなたにとっては象徴(シンボル)にすぎない。身体は言葉を話せない---「ストップ!」とは言えない。食欲がないというのは象徴だ---身体の象徴だ。身体は「食べてはダメ!」と言っている。でもあなたはマインドで、1日に少なくとも2回から3回は食べなければいけない、さもないと弱ってしまうと思っている。そして食べ物を詰め込み続ける。あなたは食欲がないから、偽の食欲をつくり出そうとする。偽の食物をつくり出すためい、食事にもっとスパイスを入れたり、かねがね食事をしたいと思っていた店に行ったりする。あなたは身体を騙そうとしているが、それは愚かなことだ! 

 睡眠についても同じだ。眠りにつき、3時か4時に目が覚めるとしたら、それは身体が休息うをとったということに他ならない。身体の眠りは終わったが、今度はマインドが問題をつくり出している。そこで、そうした時間を活用しなさい。ただ、そこに静かに横たわり、夜の静寂を楽しんでごらん! 眠りが破られて掻き乱されるより、この瞬間を瞑想として楽しむといい。起きる必要はない。ただベッドの上に横たわり、休息する。ただし、耳を傾けなさい・・・・そこには夜の音がある、夜の静寂(しじま)が。車の行き交う音がするが人々はいない---誰もが眠っている。すばらしいことだ! あなたは独りきりで---ほとんど山中にいるかのように---暗闇と共に、人を沈静させる暗闇と共にある。それを楽しみ、その楽しみの中にくつろぎなさい。

 要点がわかるかな? さもないと、あなたは苦しむ---また眠りが破られてしまったと。明日もまた疲れて心労を抱え、緊張と苦悩と危惧があるだろう。これらが、またしもあなたを眠らせない。

 積極的な見方をしなさい。kの時間を活用してごらん。夜や夜の音と波長を合わせ、楽しみなさい! そこには途方もない美しさがある。すると、いつの間にか再び眠りに落ちるだろう・・・・・。だが、それは副産物であり、副産物でしかあり得ない。夜の音に耳を傾けることに没頭すると、あなたは再びゆっくりと眠りの中にすべり込む---どんな意志にもよらずに。

 また、私は眠るために瞑想すべきだと言ってはいない---決して。「~のために」や、「~だから」はない。私は、楽しみなさいと言っているだけだ! すると突然、眠りが起こったことに気づくだろう。しかし、眠りが起こるか否かは重要ではない。眠りが起こればそれでいいし、起こらなくてもまったく申し分ない。ほんの3週間でもそうすれば、疲労はすっかり消え去るだろう。そうれはマインドの産物だ。あなたは朝っぱらから、自分は疲れているという思いを持ち運んでいる。当然、あなたはますます疲れていくだろう。あなたはすべてを恐れ、あらゆる参加を恐れるようになる。すでに疲れているのだから、こんなことをしたらもっと疲れてしまう、というわけだ。あなたは、自分のまわりにノイローゼを生み出している。

 睡眠や食事に関しては、すべての人が異なる生理的欲求を持っている。ある人は8時間眠り、またある人は10時間眠る必要があり、6時間だけでいい人や、ほんの4時間で充分な人もいる。そしてときには、ほんの2、3時間でいい人々もいる。

 私の実父は、3時移行は眠れなかった。11時頃寝るから、せいぜい3、4時間しか眠っていなかったことになる。母はいtjも心配していたが、私は父に、座って瞑想するといいと言った。そこで、彼は3時から座った。それは、彼にとって神聖なるものへの扉となった。何年もの間、彼は3時から7時まで座った・・・・・しかも、ほとんど銅像のようになり、自分の身体を忘れていた。

 それは彼の生涯で、もっとも貴重な経験となった---不眠がそれを授けてくれた。3時までには彼の疲れは消えていた。彼のメカニズム、身体の機能の仕方がそうだったのだ。はじめは彼も眠ろうとしていた。それは苦しいことだった。というのも眠りは訪れず、眠ろうとすると疲れてしまうからだ。朝になる頃には、彼はイライラしていた。もし毎晩のように3、4時間、眠ろうと苦心しても眠りが訪れなかったら、イライラせずにはいられない。しかし、瞑想に出会ってからというもの、イライラはすべて消え去った。しかもその時間は、彼にとってもっとも価値ある時間となった。彼は待ち望むようになった。二十四時間、そのことを思っていた。その時間は、もっともやすらぎに満ちていたからだ。彼は時間を正しく使った。OSHO p114~122

<19>につづく

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こころでからだの声を聴く<17> 

<16からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<17> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

4、ストレスに起因する病気 

質問:私は頻繫に具合が悪くなりますが、自分は頑張りすぎるのと関係があると思います。そのとき私は、もはや自分のセンターとつながっていない感じがし、身体の具合が悪くなるのです。
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 誰もが、自分の身体の機能を理解するといい。自分の身体が許容できる以上のことをしようとしたら、いつか必ず具合が悪くなるだろう。
 

 自分の身体に負荷をかけうには一定の限界があり、それは永久には続かない。あなたはハードに働き過ぎているのかもしれない。他の人にはハード過ぎるようには見えなくても、それは重要ではない。あなたの身体は、そんなに多くは許容できない---休養が必要だ。そして、最終的に結果は等しい。2、3週間働いて2、3週間休むより、毎日の仕事量を半分に減らして、6週間ずっと働く方がいい---簡単な算数だ。 

 自分の身体に負荷をかけるのは、とても危険だ。というのも、それは身体の繊細な部分を、数多く破壊し得るからだ---絶え間なく働き過ぎて疲れ果て、体調を崩し、ベッドに横たわって、すべてを呪うのは破壊的だ。スピードを落し、ゆっくり動きなさい。そして多方面にわたってそうしなさい。たとえば、自分の歩き方をやめてみる。ゆっくり歩き、ゆっくり呼吸し、ゆっくり話す。ゆっくり食べてみる---いつもは20分なら、今度は40分にする。ゆっくり風呂に入ってみる---いつも10分なら、20分にする。そして、あらゆる活動を半分に減らす。 

 問題は、ああんたの仕事だけではない。二十四時間すべてを変えることだ。何をするときも、スピードを半分に落とすといい。生活のパターンとスタイルをすべて変える。ゆっくり話し、読む速度さえも落す。なぜなら、マインドはすべてを特定の方法で行なう傾向があるからだ。 

 働きバチの人は、速く読み、早く話し、早く食べる。それは一種の強迫観念だ。何をしていても速いペースで行なう---たとえ、その必要がなくても。ちょっと朝の散歩に出たら、さっさと歩くだろう。どこへ行くわけでもない。ただの散歩だ。2マイル歩こうが、3マイル歩こうが、何の違いもない。だが、スピードにとりつかれた人は常にせわしない。それは自動的なものだ。自動的、機械的な振る舞いだ。 

 そこで今日から、すべてを半分に減らしなさい。ゆっくり立ち、ゆっくり歩く。すると、それは物事への深い気づきをもたらしてくれる。なぜなら、物事をきわめてゆっくり行なうと---たとえば手をゆっくり動かすと、手の動きによく気づくようになるからだ。手を速く動かすと、あなたは機械的に行なってしまう。 

 ペースを落としたいなら、意識的にペースを落とすことだ。他に方法はない。 

 それは能力の問題ではなく、スピードの問題にすぎない。誰にも自分なりのスピードがある。要は、自分のスピードで動くこと。それがあなたにとって自然だ。それは、能力とは関係ない。あなたは、これだけの動きでも充分に仕事ができる。そかし私が思うに、あなたはもっとできる。ひとたび自分にふさわしいリズムに至れば、あなたはもっと多くのことができるだろう。 

 忙しさにきりきり舞いすることもなく、すべてはスムーズに運び、あなたはより多くのことを達成できる。ゆっくり働く人もいるが、この種の遅さは、結果として独自の質をもたらす。そして実のところ、それらはよりよい質だ。速く働く人は、量的には申し分ない。彼は量的により多くのものを生産できる。しかし質的には、さほど良いとは言えない。ゆっくり働く人は、質的にはより完璧だ。彼の全エネルギーは、質的な次元に入っていく。量は多くないかもしれないが、量は実のところ重要ではない。 

 わずかであっても、本当に美しいことを完璧に近くできるなら、あなたはとても幸せで満ち足りた感じを覚える。多くのことを行なう必要はない。たとえひとつでも行なうことができれば、それはあなたに完全な満足を、充分なものを与えてくれる。あなたの生は満たされる。さもないと、たくさんやり続けていても、何ひとつあなたを満足させるものはなく、すべてがあなたたに吐き気を催させ、あなたを病気にすることもある。そんなことに何の意味があるだろう? 

 基本的なことをいくつか理解するといい。固定的な人間の本性というものは存在しない。人間の本性は数だけある。だから基準などない。ある人は速く走り、ある人はゆっくり歩く。彼らを比較することはできない。二人とも別々であり、完全にユニークで、別個の人間だ。それを思い悩むことはない。比較してはいけない。たとえば、あなたは誰かが眠らず大変なことをしているのを見かける。一方あなたは、少しばかり何かするけれど、眠らずにはいられない。そのためあなたは気が引けて、自分の能力は人並み以下だと考える。 

 だが、彼は何者なのか? なぜ、あなたは自分と彼を比較しようとするのか? あなたはあなた、彼は彼だ。もし、ゆっくりと動くように強いられたら、彼は具合が悪くなるかもしれない。それは彼の本性に背いているからだ。あなたのしていることは、あなたの本性に背いているに違いない---だから、ちょっと自分の本性に耳を傾けてごらん。 

 常に、身体に耳を傾けさなさい。それは囁いている。叫んだりはしない。というのも叫べないからだ。身体はとても小さな囁き声で、あなたにメッセージを送っている。あなたの注意が研ぎ澄まされていれば、それらを理解できるだろう。まった、身体には独自の英知がある。それはマインドよりもずっと深い。マインドは未熟なものでしかない。身体は、マインドなしで何千年も存続してきた。毎度は、遅れて登場したにすぎない。マインドはまだ、あまり多くを知らない。基本的なことはどれも、依然として身体がコントロールしている。マインドに任されてきたのは、不要なものだけだ---すなわち考えること、哲学や神や地獄や政治について考えることだ。 

 もっとも基本的な機能---呼吸、食物の消化、血液の循環は、身体のコントロールのもとに置かれている。一方で、贅沢なことだけがマインドに任されている。 

 だから、身体に耳を傾けなさい。そして、決して比較してはいけない。あなたのような人はこれまで居たことはなかったし、これから先も再び居ることはないだろう。あなたはユニークだ---過去、現在、未来において。だから、誰とも人柄を比較できないし、誰かを模倣することもできない。OSHO P110~114

<18>につづく

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こころでからだの声を聴く<16> 

<15>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<16> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

2.身体から分離した感覚

質問:私は自分の身体が感じられません。どうしたら、もっと接触できるでしょうか?
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 第一は、身体に帰ること。自分の身体とつながっていないとしたら、大地とつながっていないということだ。私たちは根づいておらず、根を持っていない。そして、身体に根づいていなければ、何も行えない---何ひとつ。ひとたび身体に根づけば、すべてが可能になる。

 また、嫉妬、所有欲、そして貪欲といった問題はすべて、根づいていない状態に状態に含まれる。その恐れから独占欲がはたらき、その恐れから誰のことも信用できず、強い嫉妬が訪れる。実のところ、私たちは自分自身のことも信頼できない---それが問題だ。大地に根を持っていないのに、どうして自分自身を信頼できるだろう? 信頼は、あなたが大地に深く根づいたときに訪れる。すると、何がやって来ようとも、あなたはそれに耐え、直面することができる。そして、他人にすがらなくなる---その必要はない。あなたは充分、独り立ちしている。
 

 だから第一のステップは、もっと身体に根づくことだ。もっと身体を感じ、身体を動かすことを楽しみ、朝走ってみるといい。そして、自分の身体を楽しみ、走っているエネルギーを感じる。泳いでもいい。自分の身体、川、そして水の感触を楽しむ。軽く走り、踊り、太陽を浴び、空中でジャンプするのもいい。そして身体を再び歓びに震えさせるのだ。
 まず、こうしてごらん。できるだけたくさん深呼吸をする。ひとたび自分の身体に馴染み、再び自分の身体の中で生きるようになれば、問題は十中八九、消え去るだろう。
 

 これは、人々を自分自身から遠ざけるために社会が用いてきた策略のひとつだ。社会はあなたを身体から切り離してしまった。そのため、あなたは機械の中の幽霊のようになっている。あなたは自分の身体の中にいるけれども、いない---ただ、まわりを浮遊しているだけだ。自分の手に有人の手を取っても、それは死んだ手の中の死んだ手にすぎない---何の感情も、詩情も、喜びもない。たべても、あなたは自分に詰め込むばかりで、味覚は失われている。眩(まばゆ)い存在を見ても、ありのままには見ない---ああんたは冴えない色、灰色、くすんだ色を見る。音楽を聞いても、ただ音がすべっていくだばかりで、音楽は失われている。 

 だから数ヶ月間、何でもいいから、身体に関わることを楽しみなさい---ランニング、ジョギング、遊戯、跳びはねること、踊り、歌、山の中で叫ぶこと。子供時代を呼び覚ましなさい! そうすれば、自分が再び生まれるような感じがし始めるだろう。幼虫が蝶になるときと、まさに同じような感覚を感じるだろう。 

3、肩こり、首の痛み 

質問:私はビジネスマンですが、ビジネスの世界ではひどく肩がこります。医者は、それは心身相関的なものだと言い、鎮痛剤で治そうとするのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

 二・三のことが非常に大きな助けとなるだろう。ひとつはロルフィングまた深層筋マッサージ、もうひとつは針だ。 

 痛みは消えるだろう---心配するには及ばない。いくつかのことを覚えておくといい。ひとつ。カナダの精神分析医であるハンス・セリエ医師は、生涯ひとつの問題について一筋に研究してきた---それはストレスだ。そして彼は、ある深淵な結論に達した。そのひとつは、ストレスは常に悪いものとはかぎらないということだ。ストレスは、すばらしい使い道がある。それは、あながち否定的なものではない。否定的にとらえ、良くないものと見なしたら、問題を生み出すことになる。ストレス自体は踏み石として使うことができ、創造の力にもなり得る。だが一般的に、私たちは長いことストレスは悪いものだと教わってきた。どんな種類のストレスにさらされても、私たちは恐れる。そしてその恐れが、ストレスをさらに強める。状況は改善されない。 

 たとえば、ビジネスの世界にはストレスを生み出している何かがある。この緊張、このストレスを感じた瞬間、そうなってはならないと恐れが生じる---「リラックスしなければ」と。このとき、リラックスしようとしても無駄だ。なぜなら、リラックスできないからだ。実のところ、リラックスする試みは、新たな種類のストレスを生み出す。ストレスはそこにあり、あなたはリラックスしようとするが、できない。だから、あなたは問題を複雑にしている。 

 ストレスがあるときは、それを創造的なエネルギーとして利用しなさい。まず、それを受け容れる。闘う必要はない。受け容れなさい。それは完全に申し分ない。それは「ビジネスがうまくいっていない、何かが間違っている」とか「お前は損をするかもしれない」などと言っているだけだ。ストレスとは、身体が闘う準備をしているしるしに他ならない。このとき、リラックスしようと試みたり、鎮痛剤や鎮静剤をとったりしたら、身体に背くことになる。身体はある状況に挑む用意をしている。何らかの挑戦がある。挑戦を楽しむことだ! 

 たとえ、ときどき夜眠れないことがあっても、心配する必要はない。それを理解し、湧き上がってくるエネルギーを利用しなさい。階段を昇り降りしたり、走ったり、長い散歩に出たり、やりたいこと望んでいることを計画したりするといい。眠ろうと試みるより---それは不可能だ---状況を創造的に使いなさい。エネルギーは、ただこう言っている---身体には問題と闘う準備がある。リラックスしている場合ではないと。リラックスは後でもできる。 

 実のところ、全身全霊でストレスを生きたら、自動的にリラックスが訪れる。あなたが持ちこたえられるのは、さほど長くない。身体は自動的にリラックスする。途中でリラックスしたいと望むと、問題が生まれる。身体は途中でリラックスしたいと望むと、問題が生まれる。身体は途中でリラックスできない。それは、オリンピックのランナーが位置につき、笛や合図を待ち、スタートをきって風のように駆け出すようなものだ。走者はストレスに満ちており、今はリラックスしている場合ではない。鎮静剤などとったら、かれは競技で使いものにならなくなってしまう。あるいは、リラックスして超越瞑想でもしようものなら、すべてに負けてしまう。彼は、自分のストレスを利用しなければならない。ストレスは煮えたぎっており、エネルギーを呼び集めている。彼は、ますますエネルギッシュになり、可能性に溢れてきている。今はこのストレスに同調し、それをエネルギーや燃料として使うべきだ。 

 セリエは、こうした種類のストレスに新しい名前を与えた。彼はそれを多幸感---ユーフォリア(euphoria)のように、ユーストレス(eu-stress)と呼ぶ。それは肯定的なストレスだ。ランナーは、走り終えると深い眠りに落ちる。問題は解決された。もはや問題はまったくない。ストレスは自ずと消え去る。 

 だから、こんなことも試してみなさい。ストレスに満ちた状況のとき、過度の心配したり恐れたりしない。その中に入り、それを闘うために利用する。人は途方もないエネルギーを手にしており、利用すればするほど、さらに多くのエネルギーを手にすることになる。 

 ロルフィングも助けになるだろう。それは、あなたがリラックスするのを助けるのではなく、ただあなたの筋肉構造を変え、あなたをよりエネルギッシュにする。だから、ロルフィングを試してみるといい。 

 ストレスが訪れ、闘いの状況があるとき、できることは何でもしなさい。心から熱烈に、それは没頭する。それを許し、受け容れ、歓迎する。ストレスは良いものだ---それは、あなたが闘う準備を整える。そして、それを解決したら驚くだろう---無上のくつろぎが訪れる。そのくつろぎは、あなたが生みだしたものではない。たぶん、あなたは2、3日眠れず、それから48時間、起きられないだろう。それで申し分ない! 

 私たちは、多くの間違った観念を持ち歩く。たとえば、人は1日8時間、睡眠をとらなければならないといったことだ。それは状況による。睡眠が必要ない状況もある。自分の家が燃えているのに眠ろうとする---さあ、そんなことは不可能だし、そうすべきでもない。さもないと、誰がその火を消すだろう? 家が燃えているときは、他の一切は脇に置かれる。あなたの身体は、とっさに火と闘う準備をする。眠気など感じない。火が消え、一件落着すれば、長い眠りに落ちるかもしれない。それでいい。 

 また、誰もが同じ量の睡眠を必要とするとはかぎらない。3時間、2時間でも充分な人もいるし、4時間、5時間、6時間、8時間、10時間、12時間必要な人もいる。人々は異なる。標準はない。ストレスについても人それぞれだ。 

 世の中には二種類の人たちがいる---ひとつは競走馬とでも呼べるタイプ、もうひとつは亀タイプだ。競走馬タイプが、急ぐことや手早く物事をこなすことを禁じられたら、ストレスが生じるだろう。彼には彼なりのペースが与えられるべきだ。そして、もしあなたが競争馬タイプなら、くつろぎやそうした類のことは忘れてしまいなさい。それらは、あなた向きではない。それらは亀タイプの人向きだ。だから、ただ競争馬でありなさい。それがあなたにとって自然なことだ。そして、亀たちが楽しんでいる喜びに思いを巡らしてはいけない。それは、あなた向きではないのだから。あなたは別の種類の喜びを楽しめる。もし亀が競走馬になろうとしたら、同じ問題を抱えることになるだろう! 

 あなたはビジネスの世界から抜け出すこともできる。それは実にたやすい。マインドは「ビジネスの世界から抜け出せ、そんなことは忘れてしまえ」と言うだろう。だがそうすると、あなたは気分がすぐれなくなる。あなたは、もっとストレスが湧き起こるのを感じるだろう。なぜなら、自分のエネルギーを使っている感じがしないからだ。

 だから、自分の本性を受け容れなさい。あなたは闘士である戦士だ。そうあるべきであり、それがあなたの喜びなのだ。もはや恐れる必要はない。全身全霊でその中に入りなさい。ビジネスの世界と闘い、心から望むことを一つ残らず実行しなさい。結果を恐れることはない。ストレスを受け容れなさい。ひとたびストレスを受け容れたら、それは消え去る。しかもそれだけではなく、あなたはとても幸せになる。なぜなら、あなたはストレスを活用し始めたからだ。それは一種のエネルギーだ。

 あなたが競走馬タイプなら、リラックスしなさいと言う人々に耳をかしてはいけない。それはあなた向きではない。あなたのくつろぎは、重労働をしてはじめて獲得され、訪れる。自分のタイプを理解すること。そうすれば問題はない。あなたは明確な道を辿ることができる。ストレスは、あなたの生きるすべとなるだろう。 OSHO p102~109

<17>につづく

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2013/07/05

こころでからだの声を聴く<14>

<13>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<14> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

第4章 症状と解決法

 身体が自然な行動をしていないと、突然、何らかの不調が噴出する。その病気は友人のようなものだ。それは「正しく行動し、君のやり方を変えるんだ! 君はどこか自然に背こうとしている」と教えてくれている。3、4日、食事をとらないと、目眩がし、お腹が空き、悲しくなるものだ。全身は「食事をとりなさい!」と言っている。身体にはエネルギーが必要だからだ。

 常に覚えておきなさい---エネルギーは中立だ。だからあなたの存在の質は、すべてあなたにかかっている。あなたは幸せな気分になれるし、不幸せな気分にもなれる---それはあなた次第だ。他の誰の責任でもない。
 お腹が空いたら食べなさい。喉が渇いたら飲みなさい。眠くなったら眠りなさい。生理的要求に無理強いをしてはいけない。ただ、少しの間なら無理強いも問題はない。それくらいの自由はある。断食をしたいなら、数日間の断食は可能だ。しかし、ああんたは日毎にどんどん衰弱し、日毎にますます惨めな気分になっていく。呼吸をしたくなければ、数秒間は呼吸を止められる。しかし数秒間だけだ---そのくらいの自由は可能だ。だが、さほど長くない。充分に呼吸ができないと、すぐに窒息して死にそうな感じに襲われる。
 あらゆる苦悩は、あなたがどこか間違っていること、道から外れていることを、あなたに教えるために存在する。早く戻ってきなさい! 真谷耳を傾け、生理的欲求に耳を傾け、内なる存在に耳を傾け始めれば、あなたはどんどん幸せになっていくだろう。生理的欲求によく耳を傾けなさい。
 OSHO p99~101

<15>につづく

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こころでからだの声を聴く<13>

<12>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<13> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆笑ってひとつになる 

 ユーモアはあなたのばらばらな断片をつなぎ、ユーモアはあなたの欠片(かけら)を付け合せ、ひとまとまりにする。観察したことはないだろうか? 豪快に笑うと、突然あらゆる欠片が消え去り、自分がひとつになることを。笑うとき、あなたの魂の身体はひとつだ---それらは共に笑う。考えるとき、あなたの身体と魂は分かれている。泣くとき、あなたの身体と魂はひとつだ---それらは調和のうちに機能している。
 いつも覚えておきなさい、あなたをひとつのまとまりにすることは良いことであり、あなたのためになる。笑うこと、泣くこと、踊ること、歌うこと---それらはどれも、あなたの調和として機能する。頭の中では思考が続き、身体は無数のことをやり続ける---あなたは食べ続け、マインドは考え続けるだろう。これは断片だ。あなたは通りを歩く---身体は歩いており、あなたは考えている。でも、通りのこと、街路樹のこと、太陽のこと、通り過ぎる人々のことを考えているわけではない。他のこと、他の世界のことを考えている。
 でも、笑ってごらん。そしてその笑いが本当に深ければ、それが唇だけでの見せかけの笑いでなければ、突然あなたは、自分の身体と魂が一緒に機能しているのを感じるだろう。それは身体の中だけに留まらず、ああんたの核の最深部にまで達する。それはまさにあなたの実存から湧き起こり、周辺へと広がっていく。あなたは笑いの中でひとつになっている。 

 ニューイングランドのリゾートタウンに、ある男がいた。実に器量の悪い男だったので、彼は町の人間が思いつく、ありとあらゆるからかいの的だった。休暇でリゾートを訪れた整形外科医は、彼の醜さに閉口し、無料で男の顔を変えてあげようと申し出た。「実のところ」彼は言った、「とてつもないことだが、君をニューイングランドでいちばんのハンサムにする整形手術をしてあげよう」
 メスを入れる直前に外科医は言った、「顔お完全に、すっかり変えてほしいかね?」
 「いや」男は答えた、「やり過ぎないでください。この顔が誰なのか、誰がそんなにハンサムなのか、仲間にわかってもらいたいのですからね」 

 これが、エゴのはたらき方だ。あなたは、この顔が誰なのか、誰がそんなに、仲間にわかってもらいたい。こんなに柔和で謙虚な人物は誰なのか、行列の後尾に立っている人物は誰なのか、仲間にわかってもらいたい。たとえその程度でも欲望があるなら、エゴは完全に生きており、成長しているということだ。何ひとつ変わってはいない。全面的な変化こそが、変化だ。 

 サミー・ゴールドバーグは株で多額の金を喪い、悲惨な状態に陥った。彼は医者を訪ねて言った、「先生、先生、手の震えが止まらないんです」
 「はてさて」医者は言った、「酒はたくさん飲むのかね?」
 「飲めません。たいてい、こぼしてしまいます」とサミー。
 「そうか」と医者は言い、サミーを念入りに診察し始めた。終了すると彼は言った、「で、腕がちくちくして、膝が痛み、急に目眩(めまい)の発作に襲われるのかね?」
 「はい、その通りです」とサミーは答えた。
 「そいつは奇妙だ。私も同じだ・・・・・これはどうしたことか!」と医者。
 そして、しばらくノートを調べてから目を上げて言った、「それで、こんなことは以前にもあったかね?」
 「はい、ありました」とサミー。
 「さて、それなら大丈夫」。医者は次の患者お呼ぶブザーを押しながら答えた。
 「また、そうなったということですな!」 

 医者に行ったフレッドが帰って来た。彼はつらそうだった。彼は妻のベッキーに告げた---夜が明ける前に死ぬだろうと医者に言われたと。彼女は彼を抱きしめ、二人は少し泣いた。ベッキーは、早くベットに行って、もう一度愛を交わしましょうと言った。
 ベッキーが寝てしまうまで、二人は愛を交わした。だが、フレッドは眠るのを恐れた。これが自分の地上で最後の夜なのだ。ベッキーがいびきをかいている間、彼は暗闇の中に横たわっていた。
 フレッドは妻の耳元でささやいた、「ベッキー、お願いだ。頼むから、あと一回だけ」。だが、ベッキーはいびきをかき続けていた。
 フレッドは自分の腕時計を見ると、妻の上に身を乗り出し、彼女を強く揺さぶった。「お願いだ、ベッキー。頼むから、あと一度だけ!」
 ベッキーはちらっと彼を見て言った、「フレッド、どうしてそんなに身勝手なの? あなたはいいでしょうけど、私は朝起きなきゃいけないのよ」 

 老人たちは皆、そうしたことを至るところで、どの家庭でもやっている---自分の親族の平安を試すために。 

 サミー・ゴールドバーグは、とても悲しそうだった。妻が病気だったのだ。そこで彼は医者を呼んだ。ゴールドバーグ夫人を診察して、医者はサミーに告げた、「悪い知らせだと思いますが、奥様はあと数時間しか命がありません。手は尽くしたということをご理解なさってください。ご自分を苦しめてはいけませんよ」
 「いいんです、先生」、ゴールドバーグは言った、「私は40年間、苦しんできました。あと数時間ぐらい、どうってことないですよ」 

 ちょっと、健康の定義を思い出してごらん。自分の身体をまったく感じないとき、あなたの身体は健康だ。あなたは、頭痛がしてはじめて自分の身体を感じる。頭痛がしないときは、頭もない---それはとても軽くて重みがない。脚が痛むとき、ああんたには脚がある。痛まないなら、脚は不在だ。身体が健康なとき---私の健康の定義とは、身体の存在をまったく自覚していないということだ。そこにあろうとなかろうと、違いはないということだ。
 そして、健全なマインドについても同じことが当てはまる。常軌を逸したマインドだけが、感じられる。マインドが正常で静かなら、それは感じられない。身体とマインドの両方が静寂の中にあれば、魂はもっと簡単に体験できるだろう---笑いと共に。深刻になる必要はまったくない。 

 サミー・ゴールドバーグは、金のことを心配してひどく憔悴感を覚え、医者に行った。「リラックスすることです」。医者は命じた、「ちょうど2週間前、仕立屋の請求書が払えなくて心配している患者がいましてね。私は彼に、そんなことは忘れてしまいなさいと言いました。今では元気ですよ」
 「知ってます」とゴールバーグ。「私がその仕立て屋なんです」 

 さぁ、さまざまな状況がある・・・・。だが、ちょっと注意していれば、サミー・ゴールドバーグの状況でさえ、あなたは笑うだろう。そうした滑稽な状況は、いたるところで見つかる。生はそんなことであふれている。 

 ある男が、ざっと12人の子供と一緒にバスに乗り込んだ。小柄な老婦人が、みんなあなたの子供なのかと彼に尋ねた。
 「もちろん違います」と男は答えた。「私は避妊薬の営業をしているんですが、この子たちはみんな苦情(クレーム)なんですよ」 

 ちょっとまわりを見回してごらん。そんな状況がたくさん見つかるだろう。それらを楽しむ術(アート)をまなびなさい。 

 ジョーが犬に噛みつかれた。傷が治るまで長いことかかったため、医者に行ったところ、医者は犬を連れてきなさいと命じた。医者が懸念したとおり、犬は狂犬病にかかっていた。「君に免疫血清を投与するのは遅すぎたようだ」と医者はジョーに言った。
 ジョーは医者の机の前に座ると、一心不乱に書き始めた。「たぶん、そんなに悪くないと思うね」と医者は慰めた。「今すぐ遺言状を書く必要はないよ」
 「遺言状を作成しているわけじゃないんです」とジョー。「これから私が噛みつく人たちのリストを書いているんですよ」 

 もし、為すすべもなく気が狂っていくのなら、どうしてチャンスを利用いない? こんな、すばらしいチャンスを・・・・。
 生を楽しみ、そこらじゅうにある出来事の滑稽さを笑いなさい。神に寺院までの道のりの間、ずっと笑っていなさい。充分に笑った人たちは到着してきた。深刻な人たちは、陰気な顔をしながら、いまだにあたりをさまよっている。 

 新米のダグバート医師は、開業医のボーンズ医師とともに、往診の立会いに出かけた。「私は最初の二軒をやるから」とボーンズは言った。「よく見ておいて、次は君がやってみるんだ」
 最初の家で、彼らは疲れきった男に出会った。「うちの女房は、ひどい胃痛なんです」と彼は言った。
 ボーンズ医師は手短に診察すると、四つん這いになってベッドの下を覗き込んだ。「奥さん」とボーンズ。「甘いものやチョコレートの暴食をやめないといけませんね。そうすれば一日で良くなりますよ」。ダクバートがベッドの下をちらっと覗くと、キャンディーの包み紙が床に散らかっていた。
 次の訪問で、彼らは取りみだしたベッキー・ゴールドバーグに出会った。「先生、サミーなんです!」彼女は泣いた。「あの人は昨日一日中ものわすれが激しくて、今日は何度もひっくり返りました。ベッドに寝かせたら、気絶してしまったんです」
 サミーを診察すると、ボーンズは床に躓いてベットの下を見た。「実に簡単な問題ですよ」ボーンズはサミーに言った。「あなたは飲みすぎです!」。新人ダグバート医師がベットの下をこそり覗くと、ジンの空き瓶が7本見つかった。
 三軒目はダグバートの番だった。彼がドアベルを鳴らすと、だいぶ間があってから、興奮した女性が返事をした。
 「ご主人が私たちを呼んだんです」とダグバート。「ご主人によると、今朝あなたは取り乱していたそうで、それで私たちに診察を依頼しあんですよ」
 そして彼らは二階に上がり、女性は横になった。ダグバートは彼女を診察すると、ベットの下を覗き込んだ。「いいでしょう」彼は締めくくった。「乳製品なしダイエットを処方しましょう。そうすれば、よくなりますよ」
 帰りしな、ボーンズは狐につつまれて尋ねた。「どうやって乳製品なしダイエットなんて結論に達したんだい?」
 「それはですね」とダグバート。「あなたの例に従ってベットの下を覗いたんです---そこには牛乳配達夫がいたんですよ!」
 

 スロボヴィアは、夜中に教皇と娼婦酒場でコワルスキーと会い、ビールを一杯やっていた。
 「君のかみさんの料理はどうだい?」コワルスキーが尋ねた。
 「今晩、家に帰ったら」とスロボヴィア。「女房が泣いていたんだ。俺のために焼いたパイを、犬のやつが食っちまったんだと。俺は言ってやったね、『泣くことはない。もう1匹、犬を飼買ってやるよ』ってさ」
 

 「クロップマンさん」 ボーンズ医師は言った。「あなたは重症ですが、私はあなたを治せると思いますよ」
 「先生」 クロップマンは泣いた。「もしそうして下さるのなら、回復した折には、あなたの新しい病院に5千ドル寄付しましょう」
 数ヵ月後、ボーンズは通りでクロップマンと出会った。「ご機嫌いかがですか?」
 「すばらしいです。先生、上々です!」とクロップマン。「こんなに調子がいいことは、これまでありませんでしたよ!」
 「お話しようと思っていたんですが」とボーンズ。「新しい病院のためのお金は、いかがなものでしょう」
 「何をおっしゃってるんです?」 クロップマンは尋ねた。
 「言ってたじゃないですか、具合が良くなったら、新しい病院のために5千ドル寄付するって」と答えるボーンズ。
 「そんなこと言いましたかね?」とクロップマン。「そりゃ、かなり重症だったってことですな!」

 モイシェ・フィンケルステインの妻ルーシーは、夫のベッドでの行為にいつも不平を言っていた。そこでモイシュは医者に行った。ボーンズ医師は、必ずうまくいく奇跡の新薬をいくつか処方した。
 1ヵ月後、モイシュは再びボーンズ医師に会いに来た。「薬はすばらしかったですよ」とモイシュ。「一晩に3回やってます。
 「それはよかったですね」とボーンズはクスクス笑った。「じゃぁ今、奥さんは夜の生活について何と言ってます?」
 「さあ、どうでしょう」とモイシュ。「まだ、家に帰ってないんですよ」

 カリフォルニア、サンタ・バナナの下町の、ある明るい月曜日の朝のこと。新時代の高度な外科を専門とするデキャビテイト医師は、最初の患者がやって来るのを待ちうけていた。デキャビテイト医師は、近代的で最新技術を備え、コンピュータ化され、クロムめっきが施されたオフィスを見渡した。そしてボタンを押すと、彼の最初の患者、ポーキー・ポークが入ってきた。
 「先生!」 包帯で頭を巻かれたポーキーは叫んだ。
 「ああ! 何も言わないでよろしい!」と怒鳴るデキャビテイト医師。「頭だな!」
 「お見事!」と叫ぶポーキー。「どうしてわかったんです?」
 「即座に言い当てられるさ」とデキャビテイト医師は答えた。「この仕事を30年やってきたんだからな!」。医師は、コンピュータのスイッチやボタンをいくつかカチャカチャさせて叫んだ、「疑いなく---君はひどい編頭痛だ」
 「信じられない!」とポーキー。「ずっとそうなんです。治せますか?」
 「いいとも」 コンピュータの画面を調べながら、デキャビテイトは言った。「少々、荒療治かもしれないが、ひとつだけ助けられる方法がある。君の左側の睾丸を除去しよう」
 「そんな! 左側の睾丸ですって?」 ポーキーは叫んだ。「まあ、いいでしょう。この頭痛を止めるためなら、何だってしますよ!」
 そうして1週間後、ポーキー・ポークはよたよたしながら、デキャビテイトの外科医院を出てきた。左側の睾丸は失ったが、新しい人間になったような気分だった。
 「消えたぞ!」 ポーキーは叫んだ。彼は踊ろうとしたが、自分の動きがかなり制限されていることに気づいた。「俺の偏頭痛は消えた!」
 この出来事を祝うため、新しい服を一揃い手に入れようと、ポーキーはモイシェ・フィンケルステインの仕立屋に直行した。
 モイシェはポーキーを一目見るなり言った、「ジャケットのサイズは42号ですね」
 「そのとおり!」 ポーキーは叫んだ。「どうしてわかったんです?」
 「すぐに言い当てられますよ、」とモイシェ。「この仕事を30年やってきたんですから、そして、ズボンのサイズは39号ですね---股下は34インチ」
 「すごい!」 ポーキーは叫んだ。「信じられない。まったくその通りだ!」
 「もちろんですとも」と答えるモイシュ。「ずっとこれをやってきたんですから。それと、あなたの靴のサイズは9.5ですね」
 「信じられない!」と叫ぶポーキー。「まさにその通りだ!」
 「それから、下着のサイズは4号ですね」とモイシェ。
 「いいや!」と答えるポーキー。「違うよ3号だ」
 「それはあり得ませんね」 モイシェはしげしげと眺めながら、ぴしゃりと言った。「下着のサイズは4号でしょう」
 「いや、違うよ」とポーキー。「ずっと3号さ!」
 「いいでしょう」とモイシェ。「3号を着てもかまいません---でも、ひどい偏頭痛になりますよ!」
 OSHO p87~97

<14>につづく

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2013/07/04

こころでからだの声を聴く<12>

<11>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<12> 目次
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1

◆身体の英知を認める 

 身体には大いなる英知がある---それを認めなさい。それをもっと認め、その独自の英知に従いなさい。そして時間があるときは、ただくつろいでごらん。呼吸は、ひとりで続けさせる。干渉してはいけない。私たちの干渉癖は、、かなり深く染み付いていて、干渉せずには呼吸もできないほどだ。呼吸を見守ると、自分が干渉し始めたことに気づくだろう。あなたは深呼吸を始めたり、あるいはもっとゆっくり息を吐き出したりする。干渉する必要はまったくない。いつものように呼吸をしなさい。あなたの身体は、必要なことを熟知している。もっと酸素が必要なら呼吸は増えるだろうし、それほど必要なければ呼吸は減るだろう。 

 それはすべて身体に任せておきなさい! おせっかいを完全にやめること。どこかに緊張を感じるときは、その部分を緩めてごらん。そして、ゆっくりと・・・・まず座って休息しているときに始め、次に何かをしながらやってみるといい。床を掃除したり、台所やオフィスで仕事をしたりしているとき、そのくつろぎを維持しなさい。くつろいだ状態を動きが干渉する必要はない。すると、あなたの活動には美しさが、大いなる美しさがある。だろう。あなたの活動は、瞑想性を帯びるだろう。 

 だが、人々は不必要な努力を続ける。ときに、その努力は自らの障壁であり、その努力は自らがつくり出している問題だ。 

 大吹雪の間、町はとても混乱していた。ムラ・ナスルディンは、太っちょの婦人がタクシーに乗り込むのを助けに行った。突進したり、押し込んだり、氷の上で滑ったりしたあげく、あなたを車に乗せるのは無理なようだと彼は言った。 

 彼女いわく、「乗るですって? 私は降りようとしているのよ!」 

 ただ観察しなさい・・・・押せば逃してしまうような事柄がある。とにかく、川を押してはいけない。また、上流へ進もうとしてはいけない。川は、ひとりでに海に向かって流れている---ちょっとその一部に、その旅の一部になってごらん。それはあなたを究極なるものへと連れて行くだろう。 

 くつろげばわかるし、くつろがなければわからない。くつろぎは、あの大いなる知---光明(エンライトメント)への扉となる。 

◆歓びというシンフォニー 

 実のところ歓びとは、あなたの身体がシンフォニーを奏でていること---身体が音楽的なリズムの内にあることに他ならない。歓びは楽しみとは違う。楽しみは、何か他から得なければならないものだ。歓びとは、ただあなた自身であることだ---生き生きとして、余すところなく躍動し、正気に満ちている。あなたの身体のまわりや、身体の中の、かすかな音楽の気配、シンフォニー---それが歓びだ。身体が流動しているとき、身体が川のように流れているとき、あなたは歓びに満ちていられる。 

 健やかな有機体は、常にオーガズムの頂点に到達することができる。それはオーガズミックだ。それは流動し、流れている。 

 幸せな人が笑うとき、彼はまるで全身が笑うかのように笑う。唇だけ、顔だけの笑いではない。足から頭まで、彼はひとつの完全な有機体として笑う。笑のさざ波が、彼の実存を通してあふれ出る。彼の全生命力は、笑と共に波打つ。それは踊っている。健全な人が悲しむとき、彼は心の底から悲しむ---全身全霊で。健全な人が怒るとき、彼は心の底から怒る---全身全霊で。彼が愛を交わすとき、彼は愛そのものだ---他の何ものでもない。彼が愛を交わすとき、彼はただ愛を交わすのみだ。 

 実のところ、愛を交わすと言うのは正しくない。英語の表現は粗野だ。愛は、交わせるものではないのだから。彼は愛を交わすのではない---彼は愛そのものだ。彼は愛のエネルギーに他ならない。そしてそれが、彼のあらゆる行為におけるやり方だ。歩いているなら、彼はただ歩くエネルギーになっている。そこに歩く人はいない。穴を掘っているなら、ただ掘る行為になっている。 

 健全な人は、ひとつの実態ではなく、ひとつの過程(プロセス)、動的なプロセスだ。もしくは、健全な人は名詞ではなく、動詞のようなものであるとも言える---川(river)ではなく、川となって流れている(revering)。彼は、絶えずあらゆる方向に流れ、あふれ出ている。そして、それを阻止する社会は病んでいる。どんな形であれ、抑制された人は病んで偏っている。全体ではなく、一部がはたらいているだけだ。 

 多くの女性は、オーガズムがどんなものかを知らない。多くの男性は、全面的なオーガズムを知らない。多くの人は局部的なオーガズム、性器のオーガズムにしか達しない---それは性器に限定されている。性器でほんのわずかにさざ波が立ち---それでおしまいだ。それは、全身が渦に巻き込まれ、あなたが深淵の中に失われるときのように、支配的なものではない。一時(いっとき)、時間がとまり、マインドは働かない。一時、あなたは自分が誰なのかわからない。それが全面的なオーガズムだ。 

 人間は不健全で病的だ。それは、社会があらゆる形で人を不具にしてきたからだ。あなたは全身全霊で愛することを許されていない。あなたは怒ることを許されていない。あなたは自分自身であることを許されていない。無数の制限んが押し付けられている。 

 本当に健全になりたいのなら、自分自身への抑制を解くことだ。社会があなたにしてきたすべてを、取り消すことだ。社会は実に罪つくりだ。けれども、それが私たちの唯一の社会だから、今のところ何もできない。それぞれが、この病的な社会で、自分なりの取り組みをするしかない。そして最良の方法は、可能なかぎりさまざまな形で、オーガズミックになることだ。 

 泳ぎに行くなら、泳ぎなさい。ただし、あなたが「泳ぎ(swimming)という動詞になり、名詞が消滅するほどに、全身全霊をこめた存在として泳ぐ。走るなら、走りなさい。すると「ランナー(runner)」ではなく、「走り(running)」になる。オリンピックでは、ランナーがいて、エゴがあって、競争相手がいる・・・・すべて野心的だ。ランナーが存在することなく、ただ走れるなら、その走る行為は禅になる---それは瞑想的になる。踊りなさい、でもダンサーになってはいけない。なぜならダンサーは作為的になり、全身全霊でなくなってしまうからだ。ただ踊り、どこであれ踊りが望むところへ、あなたを連れ去らせなさい。 

 生を是認し、生を信頼しなさい。すると次第に、生はあなたの抑圧をすべて打ち砕くだろう。そしてエネルギーが、妨げられた部分のすみずみに流れ始める。 

 だから何をするにしても、もっと流れになるという秘訣と共に行なってごらん。誰かの手を握るなら、心から握る。ともあれ、あなたは手を握っている。だったら、どうしてこの瞬間を無駄にする? 心から握りなさい! ただの死んだふたつの手がお互いに握り合い、いつ相手が去ってしまうかを心配しているようではいけない。話をするなら、情熱的に話す。さもないと、あなたは相手と自分自身を退屈させてしまうだろう。 

 生は情熱、打ち震える情熱、脈動する情熱、途方もないエネルギーであるべきだ。何事も、だらだら行なってはいけない。そんなことなら、やらないことだ。何かをすべき義務などない。しかし、やりたいと思うことは心から行ないなさい。 

 次第に抑圧はすっかり消えてゆき、あなたの人生が取り戻されるだろう。あなたの身体が取り戻され、あなたのマインドが取り戻される。社会は、身体やマインド---あらゆるものを不具にしてきた。それは定められた選択をあなたに与えてきた。あなたには、ほんのわずかな隙間しか開かれておらず、あなたはその隙間からしか見ることができない。全体を見ることは許されていない。OSHO p82~87

<13>につづく

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2013/07/03

こころでからだの声を聴く<11>

<10>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<11> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆自分に誠実に 

 自分で誠実であることを心がけなさい。それには、どうしたらいいだろう? 三つのことを心に留めておくといい。まず、人の言うこと、あなたに向かってこうありなさいと言うことを聞いてはいけない。常に自分の内なる声、自分がこうありたいと思うものに耳を傾けなさい。さもないと、あなたの一生は無駄になる。 

 あなたのまわりには無数の誘惑がある。そこには商品を売り歩く人が大勢いる。そこはスーパーマーケット、世間だ。誰もが、あなたに商品を売ることに関心がある。全員がセールスマンだ。大勢のセールスマンに耳を傾けていたら、ああんたは頭が変になるだろう。誰の言うことも聞いてはいけない。ただ目を閉じ、内なる声に耳を傾けなさい。それが瞑想というものだ---内なる声に耳を傾けること。これが第一。 

 次に第二点---第一のことを実行してはじめて、第二のことが可能になる。仮面をかぶってはならない。怒りを感じたら怒りなさい。それは危険なことだ。でも、微笑まないこと。なぜなら、それは誠実ではないからだ。しかしあなたは、怒っているときは頬笑みなさいと教えられてきた。すると、あなたの微笑は偽り、仮面になる・・・・単なる唇の運動以外の何ものでもない。ハートは怒りと毒でいっぱいなのに、唇は微笑んでいる---あなたは偽りの現象となる。 

 すると、別のことも生じる。あなたは、微笑みたいときに微笑むことができない。あなたの全メカニズムは逆さまになっている。それは、怒りたかったときに怒らず、憎みたかったときに憎まなかったからだ。今あなたは愛したいが、メカニズムが機能しないことに突然気づく。今あなたは微笑みたいが、それを強いて行わなければならない。本当は、ハートは笑みに満ち、大声で笑いたいのに、あなたは笑うことができない。ハートの中で何かがつかえ、喉の中で何かがつかえている。頬笑みは訪れない。たとえ訪れたにせよ、それはまったく血が通っていない。死んだ微笑だ。あなたは幸せな気持ちにはならない。ワクワクすることもない。あなたのまわりには輝きがない。 

 怒りたいときには怒りなさい。怒るのは、ちっとも悪いことではない。笑いたいなら笑なさい。大声で笑うのは、ちっとも悪いことではない。やがて、自分のシステム全体が機能していることがわかるだろう。それが機能すると、実際にまわりでブーンと音がする。ちょうど、すべてが申し分ないときに、車がブーンと音をたてるように。車を愛するドライバーは、今すべてが順調に機能しており、有機的な調和があることを知る---メカニズムは順調に機能している。あなたにもわかるだろう---人のメカニズムが順調に機能しているときは、その人のまわりでブーンという音が聞こえる。彼は歩くが、その足取りにはダンスがある。彼は話すが、その言葉には詩情が漂う。彼はあなたを見るが、本当の意味で見る。彼のまなざしは、中途半端にあたたかいのではなく、本当にあたたかい。彼があなたに触れるときはは、本当に触れる。彼のエネルギーがあなたの身体に入り込み、生命の流れの伝達が感じられるだろう・・・・。それは、彼のメカニズムが順調に機能しているからだ。 

 仮面をかぶってはいけない。さもないと、あなたのメカニズムに機能不良---凝り固まり(ブロック)が生じるだろう。あなたの身体には、たくさんのブロックがある。怒りを抑圧してきた人は、顎がブロックされる。すべての怒りは顎まで上がってきて、そこで止まる。彼の手は醜くなる。その手には、踊り手の優美な動きがない。その手には、踊り手の優美な動きがない。なぜなら、怒りは指に流れるからだ---そしてブロックされてしまう。覚えておきなさい、怒りが解き放たれるで靴は二つある。ひとつは歯、もうひとつは指だ。動物はみな、怒ると歯で噛みつくか、手で引っ掻く、だから爪と歯は、怒りが解き放たれる二つのポイントだ。 

 怒りをあまりに長く抑圧しているから、人は歯の病気になるのではないか、私は危惧している。多大なエネルギーがあるのに解き放たれないため、歯は悪くなっていく。また、怒りを抑圧する人は過食する。怒っている人は常に過食する。それは、彼らの歯が何らかの運動を必要とするからだ。怒っている人は過度に喫煙する。怒っている人は余計に話をする---彼らは話さないでいられない。それは、何とか少しでもエネルギーを解き放つために、顎が運動を必要とするからだ。また、怒っている人の手は、曲がって醜くなってしまう。エネルギーが解き放たれたら、美しい手になるだろう。 

 何かを抑圧する場合、身体ににはその感情に対する箇所---対応する箇所がある。泣きたくないとしたら、あなたの目は輝きを失う。目には涙が必要だからだ。たまに、あなたは涙を流して泣くことに、すっかり巻き込まれる。あなたの目から涙が流れ始め---あなたの目は清められ、再び爽やかで若々しく清らかになる。だから女性は、より美しい目をしているのだ。彼女たちは、まだ泣くことができる。男性は、もはや生き生きした目をしていない。それは彼らが、男は泣くものではないという間違った信念を持っているからだ。小さな男の子が泣くと、他人だけではなく両親までも、「どうした? おまえは弱虫なのかい?」と言う。 

 何と愚かなことだろう。自然はあなたがた男性と女性に、同じ涙管を与えている。男性は泣くべきではないとしたら、男性には涙腺がなかっただろう。単純な数学だ。なぜ、女性と均等に男性に涙腺があるのか? 目は涙を流し、泣くことを必要としている。そして心から泣き、涙を流せるとしたら、それは実に美しい。 

 覚えておきなさい。心から泣いたり涙を流したりできないとしたら、笑うこともまたできない。なぜなら、それはもう一方の極だからだ。笑える人は、泣くこともできる。泣けない人は、笑えない。そして、ときどき観察したことがあるかもしれないが、子供は大声で長いこと笑っていたかと思うと、泣き始める。それは、ふたつが結びついているからだ。私は、母親が子供に言うのを聞いたことがある、「笑いすぎちゃだめよ、さもないと泣き出しちゃうからね」。それは本当にそのとおりだ。その現象には違いがない---ただ、同じエネルギーが対極に動いているだけだ。 

 第二点は、仮面を使わないこと---どんな代償を払ってでも、誠実であることだ。 

 そして三番目に覚えておくべきことは、真正であること---常に現在にいなさい。あらゆる偽りは、過去から未来からやって来る。過ぎてしまったことは過ぎたこと---それを思い煩ってはいけない。また、それを重荷として背負ってもいけない。さもないと、そのせいであなたは現在に真正でいられない。そして、訪れていないことはまだ訪れない---未来のことを不要に思い煩ってはいけない。さもないと、未来は現在に入り込み、それを滅ぼすだろう。今この時に誠実でありなさい。そうすれば、あなたは真正だ。今ここにあることこそ、真正であることだ。 

◆訪れる生にくつろぐ 

 確かに社会は、あなたに活動や、野心や、スピードや、効率といった訓練を積ませる。くつろいで何もせず、休息する訓練をさせることはない。社会は、あらゆる類の休息を怠惰っであると非難する。狂ったように活動的でないと、そうした人々を非難する。というのも、社会全体が狂ったように活動的で、常にどこかに到達しようとあえいでいるからだ。どこへ到達するのか、はっきり知っている者は一人もいない。しかし、誰もが気をもんでいる---「急げ!」と。 

 道で車を全速力で走らせていた夫婦の話を聞いたことがあう。妻は男に、「ちょっと地図を見せてちょうだい」と繰り返し言っていた。 

 一方、男は言っていた。「静かにしていてくれ。黙るんだ! 運転手は俺だ。行き先なんて、たいしたことじゃない。問題は早く行くことだ。スピードこそ重大なんだ」。どこへ向かっているのか、なぜそこへ行くのか、誰一人として知る者はいない。 

 ジョージ・バーナード・ショウの非常に有名な逸話がある。彼はロンドンからどこかへ旅に出た。検札係がやって来たので、彼はポケットや鞄の中をくまなく探し、スーツケースも開けてみた。すると検札係は言った、「私はあなたのことを存じ上げていますよ。誰もがあなたのことを知っています。あなたはジョージ・バーナード・ショウさんですね。世界に有名な方です。切符はそこにあるにちがいありません。どこに置いたか、お忘れになったんでしょう。ご心配なく。そのままでいいですよ」 

 ジョージ・バーナード・ショウは男に言った、「君は私の問題を知らないんだ。私は、君に見せるためだけに切符を探しているわけではない。自分がどこへ行くのか、知りたいのだ。あの、いまいましい切符め---もしなくなったら、私は迷ってしまう。私が君のために切符を探しているとでも思うかね? 私がどこへ行くのか教えてくれ」 

 検札係は言った、「そりゃ、あんまりですよ。私はあなたの手助けをしようとしただけです。気を悪くなさらないでください。もう少しして駅に着くまでには、たぶん思い出すでしょう。どうして私があなたの行く先を教えられるでしょう?」 

 だが、誰もが同じ状況にある。精神世界の検札係がまわりにいて、「君はどこに行くのかね?」とチェックしていないのはありがたいことだ。さもないと、あなたは何の答も持たず、ただ立ち尽くすだけだろう。あなたはどこかへ行こうとしていた---それは間違いない。あなたは生涯、どこかへ行こうとしてきた。だが、どこへ行こうとしているのか。実は知らない。

 あなたは最終的に墓場に行き着く。それはひとつ確かなことだ。でもそれは、あなたが行くつもりのない場所であり、誰もが行きたがらない場所だ。しかし、すべての人が最後はそこに到着する。それは、すべての列車が至る終着駅だ。切符を持っていないなら、終着駅まで待つといい。すると彼らは言う、「降りてください。列車はもうこれ以上は行きませんよ」

 社会全体は仕事に向かっている。社会は働きすぎだ。社会は、あなたがくつろぎを学ぶことを望まない。だから社会派、幼年期からあなたのマインドに、くつろぎに反する観念を植え付ける。

 私は、一日中くつろぎなさいと言っているわけではない。仕事をし、自分自身のための時間をいくらか見つけなさい。それは、くつろぎの中でこそ見つかる。あなたは驚くだろうが、二十四時間の中で常に1時間と2時間くつろぐことができたら、それは自己への深い洞察を与えてくれるだろう。

 外見的には、それはあなたの行動を変える---あなたは、より穏やかに、静かになるだろう。それは、あなたの仕事の質を変える---それは、より芸術的に、優美になるだろう。いつもよりも、間違えることが減る。それは今、あながた以前よりもまとまり、中心が定まっているからだ。

 くつろぎには奇跡的な力がある。くつろぎは怠惰ではない。外見から見ると、怠け者は何も働いていないかのようだが、彼のマインドはフルスピードで働いている。くつろいだ人というのは---身体がくつろぎ、マインドがくつろぎ、ハートがくつろいでいる---2時間の間、彼はいないも同然だ。この2時間のうちに、彼の身体は回復し、ハートは回復し、知性は回復する。あなたはそれを、彼の仕事の中に見て取るだろう。

 もはや猛進することはないが、彼は敗者ではない。彼は必要もなく四方八方に走らない。行きたい地点へ一直線に進む。そして、為すべきことを行ない、不要なことは行なわない。彼は言うべきことだけを言う。彼の言葉は電報のようになり、彼の動きは優美になり、変えの生は詩になる。

 くつろぎはあなたを変容させ、そのように美しい高みへと、あなたを連れて行くことができる---そして、そのテクニックは実に簡単だ。たいそうなことではない。古い習慣のせいで、数日はそれが難しく思われるだろう。古い習慣を打ち砕くには日数がかかる。

 より深く深くくつろぐにつれ、それは瞑想になる。

 瞑想とは、もっとも深いくつろぎの呼び名だ。OSHO p74~82

<12>につづく

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2013/07/02

こころでからだの声を聴く<10>

<09>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<10> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

第3章 幸福であるための基本条件 

 身体には耳を傾けなさい。身体はあなたの敵ではない。身体が何か言っているときは、そのとおりにしてごらん。なぜなら、身体には独自の英知があるからだ。それを妨げてはいけない。マインドのトリップを続けてはいけない。私は厳格な決まりを教えるのではなく、ただ、あなたに気づきの感覚お与える。自分の身体に耳を傾けてごらん。 

 身体はああんたの友人であり、あなたの敵ではない。その言葉に耳を傾け、その言葉を読み解きなさい。身体という書物の中に入り、ページを操るにつれ、あなたはやがて生の秘密全体に気づくようになるだろう。それは凝縮されて、あなたの身体の中にある。それは数百万倍に拡大されて、世界にあまねく広がっている。だが、それは微小な成分に凝縮され、ああんたの身体の中に存在し、含まれている。 

◆身体とつながる 

 あなたは自分の身体のさまざまなものとつながりをもたず、ただ身体を持ち運んでいる。つながりとは、ふかい感受性という意味だ。あなたは、自分の身体を感じてすらいないだろう。身体を感じるのは、病気のときだけだ。頭痛がすると、あなたは頭を感じる。しかし頭痛がないときは、頭とのつながりはない。脚が痛むと、あなたは脚に気づく。あなたはどこかが不調になったときしか、気づきを持たない。 

 すべて快調であれば、あなたはまったく気づかぬままだ。だが、そのときこそ---すべてが快調であるときこそ、つながれる瞬間なのだ。不調なときは、病気や不具合なものとつながることになる。もはやそこに幸福はない。ちょうど今、あなたに頭がある。すると頭痛が始まって、あなたはつながりを持つ。それは、頭ではなく頭痛とのつながりだ。頭痛がなくて、頭が完全に健やかなときこそ、頭とつながることができる。でも、私たちはその能力をほとんど失ってしまった。問題がないとき、私たちはまったくつながりを持たない。つまり、つながりは緊急手段にすぎない。頭痛がする---何らかの手当てや、何らかの薬が必要で、何かをしなくてはならない。だからあなたはつながりを持ち、何かを行なう。 

 すべて順調なとき、自分の身体とつながるよう試みてごらん。草の上に横たわり、目を閉じ、内側で起こり続けている感覚を感じ、湧き起こる幸福を感じる。川の中に横たわってごらん。水が身体に触れ、すべての細胞が冷やされていく。その冷たさが、いかにひとつひとつの細胞に入り込み、身体の深部に及んでいくか、内側を感じる。身体は深遠な現象だ。自然の軌跡のひとつだ。
 

 太陽のもとに座り、身体に太陽光線を浸透させる。ぬくもりが内側を動き、深部に及んでいくのを感じ、血液細胞に触れてまさに骨に達するのを感じる。太陽は生命であり、まさに源泉だ。目を閉じ、起こっていることをただ感じてごらん。注意深さを保ち、見つめ、楽しみなさい。あなたはやがて、非常に微妙な調和(ハーモニー)に、内側で止むことなく続いている美しい音楽に気づくようになるだろう。そのとき、あなたは身体とつながっている。さもなければ、あなたは死んだ身体を持ち運ぶ。
 

 それは、ちょうどこんなことだ。自分の車を愛する人は、そうでない人とは一風違った車とのつながりや関係がある。自分の車を愛していない人は、運転しながら車を機械(メカニズム)として扱う。しかし車を愛する人は、車の調子の些細な変化や、わずかな音の変化でさえも気づく。何か変化があれば、彼はすぐに気づく。他は誰一人それを聞いてはいない。同乗者もそこに座っているが、聞いていない。だが車を愛する人は、エンジン音のわずかな変化、カチッという音、どんな変化にも気づく。彼は深くつながっている。彼はただ運転しているだけではないし、車はただの機械ではない。むしろ彼は、自分を車の中に拡散させ、しかも車が自分の中に入り込むのを許している。 

 あなたの身体は、機械として扱うこともできる。すると、身体にあまり繊細になる必要はない。身体がさまざまなことを話し続けても、あなたはそれを聞き取らない。なぜなら、あなたは身体とまったくつながっていないからだ。 

 ロシアでは、新しい研究が数十年続けられ、科学者たちはさまざまな結論に至った。ひとつ明らかになった結果がこれだ---病気になる前の6ヶ月間、身体は絶えずあなたに信号を送っている。6ヶ月とは実に長い時間だ! 翌年、病気になるとしたら、今年の半ばから、身体はあなたに信号を送り始める---だが、あなたは信号を受け取らない。あなたは理解しないし、わからない。病気が姿を現してはじめて、あなたは気づく。あるいは、そのときでさえ気づかないかもしれない---あなたが内側に深刻な問題を抱えていることに気づくのは、医者の方が先だ。 

 この研究を何年も指揮してきた人が、実際に発病する前に、病気を検知するファイルとカメラをつくった。彼が言うには、病気が存在するか否か、患者がまったく気づかないうちに病気を治療できる。癌が翌年に発症するとしたら、今すぐ治療できる。肉体には兆候がなくても、身体電気の中では変化が起こる---身体ではなく、身体電気や生体エネルギーの中では変化が起こる。変化は、まず生体エネルギーの中で生じ、次に身体へと伝わる。 

 もし生体エネルギーの層の中で治療できるとしたら、病気は肉体に決して至らない。この研究のおかげで次の世紀には、病気になることも、病院に行くことも不要になるかもしれない。病気は、実際に身体に至る前に治療できる。たださい、機械装置でそれを検知しなくてはならない。あなたには検知できない。でも、あなたはその自分の身体の中で生きている。そこには、つながりがない。あなたは、ヒンドゥー教のサニヤシンや、見者(リシ)、禅僧、仏教僧たちが、自分の死の前にそれを宣言する話をいろいろ聞いたことがあるだろう。そして知ったら驚くだろうが、その宣言は常に死の6ヶ月前になされている---それ以上ではない、常に6ヶ月前だ。多くの聖者たちが自分は死ぬだろうと宣言したが、それはちょうど6ヶ月前だ。それは偶然ではない---その6ヶ月間は意味深い。肉体が死ぬ前に、生体エネルギーが滅び始める。そして、自分の生体エネルギーと深くつながっている人は、今そのエネルギーが収縮し始めたのに気づく。生は拡大であり、死は収縮だ。彼は、生命力が収縮しているのを感じ、自分が6ヶ月以内に死ぬと宣言する。禅僧は、死に方さえも選ぶと知られている---なぜなら、彼らにはわかるからだ。

 昔、こんなことがあった。

 ある禅僧が死に臨んでいた。そこで彼は弟子たちに尋ねた。「どんな姿勢で、どのように死んだらいいか、言っておくれ」

 その男は少々風変りで、ちょっと常軌を逸した、風狂の老人だった。だが、すばらしい人物だった。

 弟子たちは笑い出した。彼はいつも冗談を言っていたから、冗談だろうと思ったのだ。そこで誰かが提案した、「寺の片隅で、立ちながら死ぬというのはどうでしょう」

 男は言った、「しかし、昔ある坊主が立って死んだという話を聞いたことがある。だから、それはよろしくない。何か前例のないことを提案しておくれ」

 そこで誰かが言った、「庭を歩きながら死ぬというのはどうでしょう」

 「中国の誰かが、歩きながら死んだそうだよ」と彼は言った。

 すると、ある人が実に奇抜なアイデアを提案した。「シルアーサナ、つまり頭で立って死ぬというのはいかがでしょう」。頭で立ちながら死んだ人はいないし、頭で立ちながら死ぬのはとても難しい。頭で立ちながらだと、眠ることさえ不可能だ。死ぬなんて難しすぎる。眠ることさえ不可能なのに、ましてや死とは大いなる眠りなのだ。それは不可能だ---h通の眠りですら不可能だ。

 男はその提案を受け容れた。喜んで、「それはいい」と言った。

 誰もが、彼は冗談を言っていたのだと思った。しかし、彼は頭で立った。彼らは心配した---彼は何をしているのだろう? 今、何をしたらいいのだろう? 彼はほとんど死にかけている、と人々は思った。死んだ人間が頭で立っている---そんなことは聞いたこともなかった。彼らは怖くなった。すると誰かが提案した、「近くの僧院に彼の姉がいる。その人はすばらしい尼僧だ。行って彼女を連れて来よう。彼女は姉さんだから、彼をどうにかしてくれるかもしれない。彼女は彼のことをよく知っている」

 姉はやって来た。彼女はやってくると、こう言ったそうだ。「一休」---一休とは、この僧侶の名前だった。「馬鹿なことはおやめ。こんな死に方は無茶ですよ」

 一休は笑った。彼は頭で立っていたのを、ひょいとやめると、「わかりましたよ。ではどんな方法がふさわしいでしょう」と言った。

 彼女は言った、「蓮華坐(パドマアーサナ)、仏陀の姿勢で座って死になさい。こんな死に方は無茶です。おまえはいつも分別のない男だったねぇ---みんな笑うでしょうよ」

 そこでは、彼は仏陀の姿勢で座って死に、姉は立ち去ったと言われている---すばらしい男だ。それにしても、どうやってこれから死ぬと決められたのだろう? しかも姿勢すら選ぶとは! 彼は、生体エネルギーが収縮し始めるのを感じ取ることができたのだ---この感覚は、身体の表面だけでなく、根の部分と深いつながりがあって、はじめて訪れる。

 だからまず、自分の身体にもっと敏感になるようつとめなさい。身体に耳を傾けなさい---それは、さまざまなことを語り続けている。なのに、あなたは頭でっかちだから、まったく耳を傾けない。マインドと身体に葛藤があるときは、たいていマインドよりも身体の方が正しい。なぜなら身体は自然であり、マインドっは社会的だからだ。身体はこの広大な自然に属しており、マインドはあなたの社会、限定された釈迦の、年代、時代に属している。身体は存在に深く根をおろしており、マインドは表面を浮遊しているにすぎない。しかしあなたは、いつもマインドに耳を傾け、身体には耳を傾けない。この長い習慣のせいで、つながりは失われてしまっている。

 あなたには心臓がある。心臓は根だ。しかし、あなたはそれとつながっていない。まず、身体とつながることから始めなさい。やがて、全身が心臓のセンターのまわりで振動しているのに気づくようになるだろう。ちょうど、太陽系全体が太陽のまわりを回っているように。ヒンドゥー教は、心臓を身体の太陽と呼んだ。全身は太陽系であり、心臓のまわりを動いている。心臓が鼓動を始めると、あなたは命を得る。心臓が鼓動を止めると、あなたは死ぬ。心臓は、身体における太陽のような中心だ。それに注意を払いなさい。少しづつ全身に注意を払うようになってはじめて、あなたは注意深くなれる。 OSHO p67~74

<11>につづく

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2013/07/01

こころでからだの声を聴く<09>

<08>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<09> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆至福を意識する 

 普通、マインドはいつも痛みを意識しているが、至福を意識することはない。頭痛がするとき、あなたはそれを意識する。頭痛がないと、頭の件っこうを意識したりはしない。身体が痛むときはそえをお意識するが、身体が完全に健康なときは健康を意識しないものだ。 

 これこそ、なぜあなたがそこまで苦悩を感じるのかの原因だ。私たちの全意識は、痛みを焦点を当てている。私たちは棘ばかりを数える---花の方には、まったく目を向けない。どういうわけか、私たちは棘を選び、花を無視する。もし怪我をして常に痛みがあるなら、驚くには及ばない。そうあって然るべきだ。何らかの生物学的な理由で、そのようになっている。自然は、痛みを避けられるようにするため、あなたに痛みを意識させるよう計らった。それは、埋め込まれたシステムだ。さもなければ、手に火傷を負っていても、あなたはそれを意識しないかもしれない。すると、生き延びるのは困難になる。だから自然は、痛みを意識することを非常に重要で避けられないものにした。だが、自然は、嬉しさや歓びや至福を意識することを、埋め込まれたメカニズムにしなかった。それは学び、鍛練しなければならない。それは、ひとつの技(アート)だ。 

 この瞬間から、自然でないものに気づくことを始めなさい。たとえば、身体が完全に健康だと感じられるとしよう---静かに座り、それを意識しないさ。健康な状態を楽しみなさい。何も悪いことはない---楽しみなさい! それを意識するよう、つとめて努力しなさい。あなたは充分に食べ、あなたの身体は満足し、満たされている---それを意識しなさい。 

 お腹が空いていると、自然はあなたを意識させる。しかし自然には、あなたが満足しているときに、あなたを意識させるシステムがない。それを育てることだ。自然は、それを育てる必要がない。なぜなら、自然が望むのはただ生き延びることだからだ。それ以上のことは贅沢だ。至福は贅沢、最高の贅沢だ。

 そしてこれは、なぜ人々がそこまで苦悩するかについての私の観察だが---人々は見かけほど、本当に苦悩はしてはいない。大きな歓びの瞬間はたくさんある。しかし、それらは過ぎ去る。彼らは、まったくそれに気づかない。彼らの記憶は、痛みと傷でいっぱいのままだ。彼らのマインドは、悪夢でいっぱいのままだ。美しい夢や詩的な光景がないわけではない---それらもまたそこにあるが、注意を払う者がまったくいないのだ。二十四時間のうち、神への感謝を感じるような出来事が数多く起こる。でも、あなたは気にも留めない!

 この瞬間から、それを始めるといい。すると、至福は日毎にますます膨らみ、それに比例して痛みと苦悩がますます萎んでいくことに驚くだろう。そして、生がほとんど祝福(セレブレーション)になる瞬間が訪れる。痛みはほんの時たまで、その痛みもゲームの一部だ。それは困惑させられることもなく、動揺させられることもない、人はそれを受け容れる。

 食後に訪れる満足を楽しんだら、空腹のときにわずかな痛みがあることは自然なことだと知るだろう・・・・それはよいことだ。ぐっすりと眠ると、朝は新鮮で生き生きとして若返った感じがする。一晩眠れなかったら、当然、少々つらい思いをするだろう。だが、それもまたゲームの一部だ。

 私自身の体験では、生は99パーセントの至福と、1パーセントの痛みからできている。けれども人々の生は、99パーセントの痛みと、1パーセントの至福からできている。すべてが逆さまだ。

 楽しみ、歓び、肯定的なもの、花々、苦しみの中における楽しみを、もっと意識するようにしてごらん。 Osho p63~65

<10>につづく

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こころでからだの声を聴く<08>

<07>からつづく

こころでからだの声を聴く
「こころでからだの声を聴く」 ボディ・マインド・バランシング<08> 
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1目次

◆苦悩を手放す 

 苦しみ、懊悩、苦悩を捨てることは簡単なはずだ。それは難しいことではないはずだ。あなたは苦しみたくなどない。だから、その背後には何らかの根深い複雑な問題があるに違いない。その複雑な問題とは、あなたが幸せで、至福に満ち、喜ぶことを、まさに幼児期から許されてこなかったということだ。 

 あなたは深刻であるように強いられてきた。そして、深刻さは悲しみを伴う。あなたは自分で決してやりたくないことをするよう、強いられてきた。あなたは無力で弱く、人に依存していたから、当然、言われたことをしなければならなかった。あなたは嫌々ながら、苦しみながら、深いところでは抵抗しながら、それらを行ってきた。自分の気持ちに反して、あまりにも多くのことが強制されてきたため、次第にひとつのことがはっきりしてきた。つまり、自分の気持ちに反することは正しく、自分の気持ちに沿うことは誤りになるということだ。そして、こうした躾全体によって、常にあなたは悲しみに満ちていた。それは自然なことではない。 

 健康であることが自然であるのと同じように、歓びに満ちているのは自然なことだ。あなたは健康的なときにに医者に行って、「なぜ私は健康なのでしょう?」と尋ねたりはしない。健康については何も質問する必要はない。しかし病気のとき、あなたは「なぜ私は病気なのでしょう? 私の病気の理由、原因は何でしょうか?」とすぐに尋ねる。 

 なぜ苦しんでいるのかと尋ねるのは、まったく正しい。なぜ至福に満ちているのかと尋ねるのは、正しくない。あなたは、理由もなく至福に満ちているのは狂気の沙汰と思われるような、正気を失った社会の中で育てられてきた。まったく何の理由もなく、ただ微笑んでいたら、人々はあなたの顔がどこか緩んでいると思うだろう---いったいなぜ微笑んでいるのか? なぜ、そんなに幸せそうなのか? あなたが「わかりません、ただ幸せなんです」と言えば、彼らはその答えを聞いて、あなたはどこかイカレてしまったのだという考えを強めるだろう。 

 しかし、あなたが苦しんでいるとしたら、なぜ苦しんでいるのかとは誰も尋ねない。苦しんでいるのは自然だ---全員がそうだ。それは何もあなたに特別なことではない。あなたが特殊なことをしているわけではない。 

 この、苦悩は自然で至福は不自然であるという考えは、無意識のうちにあなたの中に住みついている。至福は証明しなければならないが、苦悩は証明がいらない。それは、ゆっくりとあなたの中に沈潜していく---あなたの血の中に、あなたの骨の中に、あなたの髄の中に---それは当然、あなたに反するものなのに。こうして、あなたは精神分裂症的になるよう強いられてきた。本質的に反する強制されてきた。あなたは、自分自身から自分自身ではないものへと、すり替えられてきた。 

 誰もがいるべきでない場所にいて、あるべきでないものになっている---これが人類のあらゆる苦悩をつくり出す。そして、いるべき場所---生まれながらの権利として、いるべき場所にいられないために人は苦しむ。このように、あなたはどんどん自分自身から遠ざかり、家に帰る道を忘れてしまった状態にある。だからどんな所にいようと、あなたはそこが自分の家だと思う---苦悩が家となり、懊悩があなたの本性となっている。苦しみは、病ではなく健康だと認識されている。 

 そして、「この苦悩に満ちた生を捨て、必要もなく携えているこの苦しみを捨てるのだ」と誰かが言うと、非常に重大な疑問が生まれる---「これが私の持っているすべてなのだ! それを捨てらたら、私は誰でもなくなり、事故証明(アイディンティティ)を失ってしまう。少なくとも今のところ、私は何者かでいる---私は苦悩する人、悲しむ人、苦しむ人だ。こうしたすべてを捨てるなら、そのとき、私のアイディンティティとは何か、私とは誰かという疑問が生じるだろう。私は家に帰る道を知らない。あなたは、社会によってつくられた、偽りの家という見せかけを奪ってしまった」 

 裸で通りに立つことを望む人は誰もいない。 

 苦悩している方がましだ---それは苦悩ではあるが、少なくともあなたは何かを着ている。害はない。他の人も皆、同じ種類の服を着ている。それを手に入れられる人にとって、彼らの苦悩は高価だ。それを手に入れられない人は、二重に苦しむ---彼らはお粗末な苦悩の中で生きなければならず、自慢できるものがたいしてない。 

 つまり、苦悩が豊富な人々と、苦悩が乏しい人々がいる。そして苦悩が乏しい人々は、何とかして苦悩が豊富な人々の地位に辿り着こうと懸命だ。タイプはこの二つしかない。 

 第三のタイプは、完全に忘れられてしまっている。第三のものとは、あなたの真実であり、その中に苦悩はない。人が本来備えている本質は、至福だ。 

 至福とは、達成すべきものではない。 

 それはすでにそこにあり、私たちはそれと共に生まれる。 

 私たちがそれを失ったことはない。ただ、遠く離れてしまっただけだ。私たちは自分に背を向けていたのだ。 

 それは私たちのすぐ後ろにある。ちょっと向きを変えれば、大きな革命となる。 

 しかし世の中には、過去生で悪しき行ないをしたから苦しむのだと説く、偽の宗教が蔓延している。どれもナンセンスだ。なぜ存在は、あなたを罰するのに一つ生を持たねばならないのだろう? そんな必要はないと思われる。自然界では、物事はすぐさま起こる。今の生で炎の中に手を入れたら、次の生で火傷するだろうか? 奇妙だ! あなたは、ここで今すぐに火傷を負う。原因と結果を結びついている。隔たりはあり得ない。 

 だが、これらの偽宗教は人々は慰め続ける。「心配はいらない。ただ苦行を行ない、もっと礼拝しなさい。寺院や教会へ行きなさい。すると次の生では苦しまないだろう」。即金のものものは何もないようだ---すべては次の生に持ち越される。そして次の生から戻ってきて、「こいつらは大嘘つきだぞ」と言ってくれる人はいない。 

 宗教とは現金だ、小切手ですらない。 

 さまざまな宗教は、さまざまな戦略を見つけてきた。だが、それらの背後にある理由は同じだ。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、インドの外で生まれた宗教は、「アダムとイヴが罪を犯したから、あなたたちは苦しむのだ」と人々に言う。何千年も昔の最初のカップル・・・・しかも、たいした罪ではない---そんなことなら、あなたは毎日やっている。彼らは、ただリンゴを食べただけだ。そして神は、彼らにリンゴを食べることを禁じていた。 

 問題はリンゴではない。問題は、彼らが服従しなかったことだ。何千年も昔、誰かが神に従わなかった。それで彼は罰せられ、エデンの園から追放され、神の楽園から追放された。なぜ私たちは苦しむのか? ---それは、彼らが私たちの祖先だからだ。 

 事実はまったく違う。それは悪しき行為の問題ではなく、あなたが自分自身や自分の自然な至福から、引き離されてしまっているという問題だ。そしてその宗教も、そんなにやすやすとあなたが至福に満ちることを望まない。さまないと、彼らの精進はどうなるのだろう? 彼らの大変な修行、禁欲的な修行はどうなるだろう? 

 もし私が言うように苦悩を落とすのが簡単だとしたら、こうした偽宗教はすべてで商売(ビジネス)を失う。それは彼らの商売の問題だ。至福はっ非常に困難で---ほとんど不可能で---長く激しい旅の果ての、未来の生における望みでしかない、としておく必要がある。 

 しかし私は自分の威信にかけてあなたに言うが、私の場合、それはいとも簡単に起こった。私もまた多くの過去生を生き、きっとあなたがたの誰よりも多く、悪しき行為を行ってきたはずだ---というのも、私はそれらを悪しき行為とは思っていないからだ。美を鑑賞し、味覚を堪能し、生をより生きやすく、より魅力的にするものすべてに感謝することは、私にとって悪しき行為ではない。

 こうした事柄すべてについて、私はあなたに繊細に、審美的観点から繊細になってほしいと思う。それらはあなたをより人間的にし、あなたの中にさらなる柔和さを生み出し、存在に対するより深い感謝を生み出す。

 そして、それは私にとって理論上の問題ではない。私はただ、扉として無を受け容れただけだ---それを私は瞑想と呼ぶ。それは無の別名にすぎない。そして無が起こった瞬間、あなたは突如として自己と対面し、あらゆる苦悩は消える。

 最初にすることは、あっさり自分自身を笑い飛ばすこと、何と愚かであったかと笑い飛ばすことだ。苦悩は決してなかった。あなたは一方の手でそれをつくり、もう一方の手でそれを打ち砕こうとしていたのだ---そして当然だが、あなたは分裂し、精神分裂症的な状態にあった。

 それは実に簡単で単純なことだ。

 存在の中でもっとも単純なことは、自分自身であることだ。

 それには何の努力もいらない。あなたはすでにそこにいる。

 ただ、ちょっと思い出すこと・・・・社会があなたに押し付けてきた、あらゆる愚かな観念から抜け出すこと。それはヘビが古い皮から抜け出し、決して振り返らないのと同じくらい単純なことだ。それは単なる古い皮であり、それ以上のものではない。

 あなたがそれを理解したら、まさにこの瞬間にもそれは起こり得る。

 なぜなら、まさにこの瞬間、あなたは苦悩や懊悩は存在しないと気づくからだ。

 あなたは沈黙し、無の扉の前に立っている。ほんの一歩内側に入れば、何千もの生にわたってあなたを待っていた、大いなる宝が見つかる。 OSHO p57~63

<09>につづく

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