<26>よりつづく
「こころでからだの声を聴く」<27> ボディ・マインド・バランシング
OSHO /マ・アナンド・ムグダ 2007/11 市民出版社 単行本 247p 附属資料:CD1 目次
16、感覚を活性化させる
質問:私は頭を使う仕事をしていて、ほとんどの時間をコンピュータに向かって過ごしています。自分は生き生きしていないと、しばしば感じるのですが。
---------------------
もっと身体の中に入りなさい。あなたの感覚を、もっと生き生きとさせてごらん。もっと愛情をこめて見つめ、もっと心から味わい、もっと心から触れ、もっと心から臭いを感じなさい。感覚をもっともっとはたらかせてごらん。すると突然、頭の中で過剰に動いていたエネルギーが、今度は身体に程よく分散されるのがわかるだろう。
頭は実に独裁的だ。頭は、あらゆるところからエネルギーを奪い続ける独占者だ。それは、あなたの感覚を殺してしまった。あなたの頭はエネルギーのほぼ80パーセントを奪い取っていて、身体の他の部分には20パーセントしか残されていない。当然、全身は苦しんでいる。そして全身が苦しむと、あなたは苦しむ。なぜなら、あなたが全体として、有機的なまとまりとして機能し、身体の各部と実存が適切なエネルギーの分担を過不足なく受けてこそ、あなたは幸せになれるからだ。すると、あなたはリズミカルに機能し、調和を得る。
調和、幸福、健康---それらはすべて、ひとつの現象の一部だ。それはすなわち全体になるものだ。あなたが全体であれば、あなたは幸せで、健康で、調和がとれている。
頭は障害をつくり出している。人々は多くのものを失ってしまった。臭いを感じる能力を喪ってしまったから、臭いを感じることができない。味わう能力も失っている。耳の機能も失ってしまったから、わずかなことしか聞き取れない。人々は、本当の感触とはどんなものかを知らない。肌は死んでいる。肌はやわらかさや感受性を失ってしまった。そして頭は、アドルフ・ヒットラーのように全身を押し潰しながら増長している。頭はどんどん大きくなっている。とんでもないことだ。巨大な頭にとても小さな手足がぶらさがり、人はほとんど風刺画(カリカチュア)になっている。
だから、感覚を取り戻しなさい。あなたの手で何でもいいからやってごらん。大地と共に、木々と共に、岩と共に、身体と共に、人々と共に、何でもいいからやってごらん。あまり考えずに済むこと、あまり頭を使わなくて済むことを、何でもいいからやってごらん。そして楽しみなさい。すると頭は次第に楽になる。それは頭にとっても良いことだ。なぜなら、頭が荷を過剰に負っているときは、考えても考えられないからだ。悩んでいるマインドが、どうして考えたりできるだろう? 考えるには明晰さが必要だ。考えるには、緊張のないマインドが必要だ。
逆説的に思えるかもしれないが、考えるには思考のないマインドが必要だ。そうすれば、非常に楽に、直観的に、集中して考えることができる。ただ問題を自分の前に並べるだけで、無思考のマインドはそれを解決し始める。そのとき、あなたは直観を得る。悩まず、ただ洞察することだ。
マインドが思考という荷物を負い過ぎているとき、あなたは目的もなく考え過ぎてしまう。そんなことをしても何にもならない。あなたの頭の中には何もないのだ。堂々巡りをし、騒音を立てるが、成果はゼロだ。
エネルギーをあらゆる感覚に振り分けるのは、頭に背くことではない。それは頭のためになる。なぜならバランスがとれ、正しい位置にあるとき、頭はより良く機能するからだ。さもないと、にっちもさっちもいかなくなってしまう。頭の中はひどい交通渋滞で、ほとんどラッシュ・アワーのようだ。二十四時間、絶え間なく続くラッシュ・アワーだ。
身体は美しい。身体を用いて行なうことは、すべて美しい。
17、敏感であること
質問:敏感であるとは、どんなことでしょうか?
------------------------
敏感であるとは、あなたが開いていること、あなたの扉が開いていること、あなたが存在と共に脈打つ用意があるということだ。鳥が歌い始めると、敏感な人はすぐ、その歌が自分の実存のもっとも深い核に響くのを感じる。敏感でない人は、それをまったく聞かないか、どこかでただ物音がしているのだろうと思う。歌は彼のハートに染み込まない。カッコーが呼びかけ始める---敏感な人は、カッコーがどこか遠くのマンゴーの茂みからではなく、あたかも自分自身の魂の奥深くから呼びかけているのを感じ取る。それは彼自身の呼びかけとなり、神性への渇望となり、愛する人への渇望となる。その瞬間、観察する者と観察される物はひとつだ。美しい花が咲いているのを見ると、敏感な人は花と共に咲く。花と共に花になる。
敏感な人は流体であり、流れ、流動している。体験するたびに、彼はそれになる。日没を見ていると、彼は日没になる。夜---暗い夜、美しい静まり返った暗闇を見ていると、彼は暗闇になる。朝になれば、彼は光になる。
彼は生そのものだ。彼は生をすみずみまで味わう。だから彼は豊かになる。これこそ真の豊かさだ。音楽を聞けば音楽になり、水音を聞けばそのその音になる。そして竹林を風が吹き抜け、竹がざわめくとき、彼はそこから遠く隔たってはいない。彼は竹林の真ん中にいて、その中のひとつだ---彼は一本の竹になっている。
ある禅師が、竹の絵を描きたいと思っている弟子の一人に言った、「行って、まず竹になるがいい」。彼は名人級の画家で、あらゆる芸術審査をパスしていた---しかも立派な成績で。彼の名前は、すでに有名になり始めていた。だが師は言った、「森へ行き、何年か竹と共に過ごし、竹になるのだ。竹になれた日、戻って来て描くがいい。それ以前ではだめだ。竹が感じていることを内側から知らずに、どうして竹が描けよう? 外側から竹を描けても、そんなものはただの写真だ」
そして、それが写真と絵画の違いだ。写真は決して絵画にはなり得ない。どれほど巧みに芸術的に撮ったとしても、竹の周辺が反映されたものでしかない。カメラは、魂の中には入れない。
写真が開発された当初、絵画の世界に大きな脅威が生まれた。今後、絵画はおそらくこれまでの美や、これまでの土台を失うだろうと。なぜなら、写真は日進月歩で発展し、すぐに必要条件を満たすだろうと思われたからだ。その恐れは杞憂だった。実のところ、カメラの発明以降、写真は途方もなく進歩したが、それと同時に絵画は新たな次元、新たな視点、新たな認識を学んだ。絵画はより豊かになった。またそうならねばならなかった。カメラが発明される以前、画家はカメラのような役割をしていた。
師は言った、「森へ行くがいい」と。そしてでしは出かけ、3年間森の留まり、ありとあらゆる天候のもとで竹と共に過ごした。雨が降っているとき、竹にはある喜びがあり、風が吹いているとき、竹の雰囲気はまた異なった。そして日が照っているときは、もちろん竹の実存の中ですべてが変わっていた。また、カッコーが竹やぶにやって来て鳴き始めると、竹は沈黙したまま呼応していた。弟子は、3年間そこに留まらねばならなかった。
すると、それが起こった。ある日、それが起こった。彼は竹のそばに座り、自分が何者であるかを忘れた。すると風が吹き始め、彼はそよぎ始めた---竹のように! 後になってやっと、彼は自分が長いこと人間でなかったことを思い出した。彼は竹の魂の中に入り、そして竹の絵を描いた。
その竹には、写真がとらえることのできない、完全に異なる質がある。写真は美しいかもしれないが、それは死んでいる。その特別な絵画は生きている。なぜなら、竹の魂のあらゆる様相、あらゆる豊かさ、あらゆる雰囲気を表現しているからだ。悲しみがあり、喜びがあり、苦悩があり、恍惚があり、竹の知るすべて、竹の一生の全記憶がそこにある。
敏感であることは、生の神秘に開いているということだ。より敏感になり、あらゆる非難を捨てなさい。あなたの身体を、まさに扉にしなさい。
18、過食と過小なセックス
質問:関係性が壊れてからというもの、私は食べ過ぎて太ってしまいました。どうしたらバランスを取り戻し、食べる量を減らせるのでしょうか?
---------------------------------
性エネルギーを正しい方向に向けないと、それは必ず食べ物に執着し始める。食べ物とセックスは両極だ。それらは互いにバランスをとっている。セックスをし過ぎると、食べ物への興味は消える。性欲を抑圧すると、食べ物への興味はほとんど強迫観念のようになる。だから食べ物に関しては、直接的には何もできない。試みれば、必ず困難に陥るだろう。2、3日なら自分に強制して何とかやり遂げられるだろうが、すると問題が戻ってくる。しかも、報復と共に戻ってくる。性エネルギーに取り組む方がいい。
問題が生じるのは、食べ物の最初の体験と子供への愛情とが、非常に深く結びついているからだ。子供は母親の胸から食べ物をもらい、愛情ももらう。愛情を得たら、子供はミルクのことなど心配しない。母親は、何とかして子供にミルクを飲ませなければならない。愛情を得ていないと、子供は将来のことが心配で、母親の胸を離れない。子供はできるだけたくさんのミルクを飲む必要がある。というのも、母親がいるかどうか確信が持てないからだ。愛情を得たら子供は安心し、心配しなくなる。母親は、必要なときはいつもいてくれる。子供は母親の愛情を信頼できる。しかし母親に愛情が欠けていると、子供は信頼できない。そして、できるだるだけたくさんミルクを飲まなければならない。子供は過食を続ける。
つまり愛情を得られないと、子供は食べ物に興味を持つようになる。愛情を得ると、子供は食べ物に興味を持たないか、あるいは単に自然な興味を持つだけだ。子供は身体が必要とする分だけを食べる。
あなたの愛のエネルギーが何らかの理由でブロックされてきた場合、そのブロックされた愛のエネルギーは、食べ物への興味となる。それを変えたいなら、もう少し愛へと入って行き、もっと愛情深くなることだ。自分の身体を愛しなさい。そこから始めるとい。自分の身体を楽しんでごらん。それは美しい現象であり、すばらしい贈り物だ。踊り、歌い、感じ、自分の身体に触れてごらん。
問題なのは、自分の身体を愛さないなら、あなたは他人に対してもあなたの身体を愛することを許さなくなるという点だ。実のところ、あなたに優しくしようとする人は、変わり者で、馬鹿で、愚かに見えてしまう。それは、あなたが自分の身体を愛せないために、「彼は私に何を見ているのかしら?」と思うからだ。あなたには何も見えない! 自分自身の身体の美しさを見ようとしないかぎり、あなたは他人の愛を受け容れられないだろう。人があなたに好意を抱くこと自体、彼は愚か者以外の何者でもないというしるしだ。
だから私は言う---自分の身体を愛しなさい。そして愛し、抱きしめ、手を取る機会があったら、逃してはいけない。あなたは驚くだろう。愛の方向へ進み始めると、食べ物の問題は自動的に解決される。愛の中に在ることは、すばらしい体験であり、自分に食べ物を詰め込み続けるのは、とても惨めな体験だ。食べ物は美しくないということではない。吸収できるだけの量を食べてこそ、食べ物は美しい。食べ過ぎは吐き気を催させる。
愛に関して美しい点がある。それは、決して過剰ということがない点だ。極限まで愛せる人はいない---誰一人として。愛には極限が存在しない。極限まで食べ、物を詰め込むときと違って、愛するとき、あなたは分かち合い、あなたは与える。それは荷を降ろすことだ。与えれば与えるほど、あなたのエネルギーはさらに流れ始める。あなたは川になる。もはや淀んだ水溜りではない。
それが、あなたのしたことだ---あなたは自分のエネルギーを、淀んだ水溜りにしてしまった。
壁を壊しなさい! あなたは、愛がもたらしてくれる、愛だけがもたらしてくれる美しいものを、不必要に逃している。その代わりに、この食べ物という問題に苦しんでいるのだ。OSHO p150~158
<28>につづく
最近のコメント