「弔 辞」 沢田石 信 君へ
沢田石。私が初めてあなたにあったのは、1970年の4月20日。沖縄反戦デーのべ平連のデモに参加するため、先輩たちについていった時でした。学校帰りの待ち合わせ場所は、仙台駅前にあった八重洲書房。お互い、まだ高校二年生でした。そこに教科書の入ったカバンを置き、小田実や秋田明大の講演を聞き、その後、フランス・デモに参加したのでした。
デモの後に、片平にあった太田さんのロック喫茶店レノンに行って、飲んだアイスコーヒーが忘れられません。あれから、それほど頻繁ではなかったけど、付き合いはずっと続きました。
長身で、ハンサムで、弁舌の立つあなたは、十代から目立つ存在でした。当時、富士山のふもとで行われた大きなロック・フィスティバルに参加した時は、グラビア雑誌のカラーページに取り上げられたほどでした。肩まで垂れたヘアースタイルと、胸のピースマークのペンダントが輝やいていましたね。
大学進学であなたが東京にいってしまったあと、私は仙台に残っていたので、一時音信不通になったけれども、何年かしてコピーライターとして帰ってきたあとは、仙台の文化状況の中で、あなたの活躍はいつも一歩抜きん出てスマートなものでした。
大きな広告会社から独立して、中央のビル街に事務所を開いた時には本当に驚いたものです。確か会社の名前はイデア・メディア・ブレーンと言いました。イデアも、メディアも、ブレーンも、聞いたことある言葉だけれども、あなたが使うと、どこか違う輝きを帯びます。相変わらずカッコいいなぁ、とあこがれたものでした。
今から15年ほど前だったでしょうか。仲間うちの一人である波久修が再婚することになり、あなたはその祝賀パーティーを積極的に準備してくれました。仲間内の再会がとても楽しかったので、その後、その時の準備スタッフが中心となって、年に何回か集まって食事会をするようになりました。だから、このところ、あなたとは毎年切れなく会っていたということになります。
ある時、この会に名前をつけようじゃないか、と発案したのはあなたでした。そして、次回の時に、仙台e人会という案を持ってきたのもあなただったし、ホームページを立ち上げることを提案したのもあなたでした。アルファベットの小文字の「e」に「人」という字をつけた「仙台e人会」のネーミングには、実はたくさんの意味が込められていました。もちろん、リーダーシップのあるあなたを私たちは、この仙台e人会の会長として選出したのでした。
どこまでが遊びで、どこからが仕事でマジなのか、なかなか線引きのできないつながりでしたが、次第にネットワークは広がり、確実にお互いの友情を深めたのでした。出身校も違い、職種もまったく違う個性豊かなキャラクターたちのネットワークを、大きなひとつのつながりにするには、あなたのリーダーシップは欠かせないものでした。
ごく最近あなたにあったのは、去年の秋。残念なことに、それは共通の友人であるニュートンこと石川裕人の葬式でのことでした。あまりに早すぎる友人の死を悼み、互いに健康には注意しような、とエール交換したばかりでした。十代で知り合った私たちも、結婚し、子供たちも成長し、いつの間にか、還暦を迎えるようなステージに突入していたのです。
ソーシャル・ネットワークにも積極的だったあなたは、最近、フェイスブックで、話題をひとつ提供していました。それは、私たちがまだ中学生時代、ビートルズが来日した頃に小学館から出版されていた少年雑誌「ボーイズ・ライフ」についてでした。ちょっとマニアックで、短期間しか発行されていなかったので、割と無名ですが、知っている人は知っている、この感覚が何かを刺激するのでした。
十代で出会った友人だったけれど、ずっと前からおなじような土壌で育ってきた、共通の文化的価値を、共有してきたことに、あらためて強く感動したのでした。
そんなことをネット上で情報交換したのが、あなたとの交流の最後となりました。あなたとはいっぱい話したはずなのに、まだまだ、もっと話していたかった。独特の価値観と広がり、包容力と、先見性。もっともっと刺激を受けていたかったです。あなたが言う、世界をあっと仰天させられる世界文化評論とやらもぜひ読んでみたかった。
今、あなたの訃報を受け、最後のあいさつをしなければならないなんて、思いもよりませんでした。あなたの希望だから、湿っぽくはしませんが、やっぱり私は悲しい。どうやら、あなたの計画では、せめてあと10年、72歳くらいまでは生きるはずだったのではないでしょうか。
斎場から帰ってくるとき、あなたはピカピカの新品のロールスロイスに乗って戻ってきました。あなたにはロールスロイスが似合っています。でも、本当は、あなたには、生きていてロールスロイスに乗ってほしかったなぁ。
二人のお嬢さんたちも立派に成長し、それぞれに素晴らしい男性と結婚され、あなたは心からほっとしていることでしょう。これからも、まだまだご家族といっしょに、いつまでも共にいたかったはずです。
これからも、残された道子さんや子どもさんたち、ご家族みんなを見守ってください。そしてまた、友人たちとの語らいにも、いつものように参加してください。
私たちは、沢田石信(あきら)という友人と出会ったことを感謝しています。そしてその大きな存在を忘れることはありません。どうぞ、安らかにおやすみください。
ご冥福をお祈りいたします。 合掌
平成25年7月26日 阿部 清孝
| 固定リンク
「26)46億年目の地球」カテゴリの記事
- こころでからだの声を聴く<35>(2013.10.10)
- こころでからだの声を聴く<34>(2013.10.09)
- こころでからだの声を聴く<33>(2013.10.09)
- こころでからだの声を聴く<31>(2013.10.07)
コメント
>小野雅秀さん
ほんとうにびっくりしました。もう少し長生きしてほしかったですね。これからって感じでしたが・・・・。
私達の青春時代の、大事なシンボルの一つを失ってしまいました。
投稿: bhavesh | 2013/11/17 18:58
私は昭和48年卒の仙台一高3年1組の同級生です。11月13日に高校卒業以来初めて東京での同窓会に参加しました。そこで沢田石君の訃報に接し愕然としました。
ここに掲載されている同君の写真を見ても私にはピンときません。
長髪で軍シャツを着てベルボトムのジーンズをはいて新聞部の部室で煙草を吸っている高校生の彼が明らかによみがえります。校内で沖縄返還協定反対のデモをしたこと等懐かしく思います。いつか、また仙台で会えると思っていたのに本当に残念でなりません。
沢田石君の御冥福を心からお祈りします。
投稿: 小野雅秀 | 2013/11/15 16:31