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2013/08/19

「『眼力』をつける読書術」 吉岡友治<2>

<1>よりつづく


「『眼力』をつける読書術」 <2>
吉岡友治 2009/12 東洋経済新報社 単行本 207p

 初対面の人物から「著述家」という肩書の名刺を頂戴することは珍しい。たぶん私は生涯初めての体験ではなかっただろうか。これに類する名刺を受け取ったことはあったにせよ、それは「自称」であったり、フェイクであったりした。

 しかし、今回はどうやら本物なので、心してその方の「著述物」に触れさせていただいた。何十冊もあるという中の、わずか5冊なので、その一端をようやく見つけた、というところなのだが、実際には、大学のネットワークも含む地元の図書館で読むことができるのは、この5冊で精一杯というところだ。

 一度とにかく目を通し、ようやく再読モードに突入したところだが、時間をおかないうちの再読となると、割と安心して読み進めることができる。自分の守備範囲を大きく超えた情報が盛り込まれていたりするが、それでも、そのショックは二回目なので、すこし落ち着きはらって読み進めることができた。

 通読してまず思うことは、著者は本は購入して読むべきだ、と主張しているところ。私もその説には別に反対ではないのだが、そもそも、自宅に本を置く場所が限られてきてしまったことにより、最近はなるべく本は図書館から借りて読むようにしている。

 というより、図書館から借りるのでなければ、そもそも触れないだろう本も、図書館から借りるということであれば、簡単に読めるということもある。世の中にこのような本もあるのか、とびっくりするのは、新刊本書店では見つけられない本も多いからだ。

 もちろん、たくさんの本を購入するには資金もいる。買ってすぐポイするような本はわざわざ購入する必要はない。著者だって、全ての本を購入しているわけではないだろう。立ち読みしたり、図書館資料を利用しているはずだ。

 人に見られても恥ずかしくない本棚を作る(p184)などという趣味もいかがなものか。もっとも、私も友人知人宅を訪問した時などは、その本棚を覗きこんでしまうほうである。ただそれは部屋数の少ない住居環境だった学生時代や若い時代であって、中年以降になると、書斎などは別にこしらえてあり、いきなり奥の本棚の前にいくことなどはできなくなる。

 私なども、実は漫画や週刊誌、カタログ類が雑然とした部屋に住んでいるのだが、客間には、それなりの蔵書を「飾って」ある。普段は扉がしまっているので見えないが、何かの資料を取り出す「フリ」をして、大きく扉を開けて、「チラ見」させる時がある。(これもいい趣味とは言い難い)

 巻末には「読む力を磨くための読書案内」として40冊ほどの本が紹介されているが、知った名前がずっと続いているが、その中身を読んだ本はほとんどなかった。これらの本にひととおり目を通したあとでないと、著者とは普通に話しができないのではないか、と思ったりする。

 リストの中には著者の本が混在していたりするのはご愛敬だが、ジャック・ケルアック「路上」の紹介あったりして、わが意を得たりと思ったりする部分もある。(もっとも、これはまだ読書中で、当ブログにはまだメモしていない)

 随筆の紹介のひとつとして、本文中に竹内敏晴「日本語のレッスン」(講談社文庫)が提出されている。著者はこの人物を師としているはずなので、この辺りから、重層式に、網をかけて行きたい。

 「行間を読む」のが良いかどうかは、場合によりけりだ。たいていの場合、行間を読み過ぎるとテキトーな理解になってしまう危険性が大きい。もちろん「行間を読む」ことが新しいものを創造するきっかけになることもないとは言えないが、自分の頭の中をのぞき込んでいるだけのことも多い。

 本を読みながら、自分勝手な想像をしているだけなら、わざわざ他人の書いたものに触れる意味はなかろう。むしろ、「行間を読む」技術を身につけるより、書いてあることをそのまま理解する技術を身につけるのが先だろう。p78「大切なところを見分ける小技」

 ふむ~、なるほどね。とにかく行間を読むには、読みこんでいかなくてはならないことは確か。

 キュブラー・ロス「死ぬ瞬間」では、末期癌にかかった50代の妻の話が出てくる。夫は何とか助けたいと思い、手術を希望する。「妻も子どもたちのために生きたいと思っているはずです」。しかし、妻の考えは違う。もう十分に生きた。子どもも育てたし、幸せな家庭も持った。だから、最後は静かに人生を終わりたい。「手術を受けろと言う夫が煩わしい」と。p149「他人を看取るということ」

 先日亡くなった共通の友人の遺書とも言える「生前委託」を思い出さざるを得ない。「人としての尊厳を愚弄するようなこと(無用な延命措置)は絶対にしないで下さい。健やかに人間らしく死を迎えさせて下さい。」というメッセージの、それこそ「行間」を読むつもりで、何回も読み返した。

 一冊の本を読むことで、いろいろ思考する。本の著者と内心で対話する。問題を見つける。それを解決しようと、自分流に断片を書いてみる。そういうサイクルでしか、自分の思考は進まないのだ。ただ、虚空を見つめて、瞑想するだけでは、思考は一歩も先に進まない。p157「読書はカルマである」

 一冊の本を読んでいろいろ思考しているのは、現在の私であるが、最後の一文は納得しかねる。虚空を見つめていて、思考が停止しているとしたなら、それはそうとうに上達しているのではないか、と思われる。実際は、私のような凡夫は、本を読んでは閉じ、開いては読む、という繰り返しの中で、「虚空」に浮かぶ「思考」を整理しないと、突然挫折することがある。私には「瞑想」が必要だ。

 私自身が寝ころんで読むのは、哲学の本。とくに分析系と言われる面倒くさいものが寝ころぶには良い。p161「読書にふさわしい場所を探す」

 私も本を読むのは場所を選ばない方だが、選べるなら、まずは寝ころぶ。寝ころびなら読む読書は、私にとっては一番快適だ。ただ小説のようなストーリー性のあるものは、すぐ眠たくなって眠てしまうのが難。

 読書が最終的に役立つものとしても、目的に直結させる読書はつまらない。むしろ、目的からわざと迂回して味わった気分こそ、後で、「ああ、あの気分が欲しかったんだよな」と思い当たるものだ。p168「本を抱えて旅にでる」

 私が読書を始めた目的はいろいろある。

1)奥さんが小説を読み始めて、夫婦の会話がなくなってきたので、自分も時間を埋めるために図書館通いを始めた。

2)ブログを始めたものの、プライバシーの切り売りはしたくないので、何か適当な材料をあ探していたところ、読書ブログというスタイルに行きついた。

3)今まで読もうと思って読まなかった本が、山ほどあることに気づいた。「読まずに死ねるか」

4)ネット環境が進み、図書館利用がITの進化とともに、実に便利になった。このシステムが何処まで便利なのか、確かめてみたくなった。

5)図書館の、希少本ではなく、一般の開架棚にある本を漁ることによって、世の中の動向を知りたい(という希望はあったが、これはあまりうまくいかなかった。結局、自分の好きな本を読むのが一番)

 大部分の日本人は、そういう意味で、他人と上手に対立するのが下手だ。対立すると、相手を傷つけてしまうと思いこむ。しかし、対立しても共通の基盤をどこかに作っておけば、対立はかえって関係を深める役割をする。p171「意見と情報の交換」

 これは、次に再読しようと思っている「だまされない<議論力>」(2006/08 講談社)に通じるところだが、この辺の「日本人論」には、私なりに意見はある。自我の形成のプロセスが、欧米とは著しく違っている日本人ではあるが、また、欧米のような自我が堅固なのも、はて、未来的な「地球人」的スタイルとしては、どうなのか、と感じている。

 これまで述べてきた「読書」の技法とは、そういう「シンボリック・アナリシス」=情報分析の基本ツールの一つである。ぜひ有効に役立てて、そういうクリエイティブ・クラスの一角を占めていただきたいと思う。創造力/想像力を持って、自分の力で働く場を創出し、社会に貢献する、そういう志を持っていうる社会人にとってこそ、「読む技術」は必須なのである。p200「クリエイティブ・クラスになろう!」

 目的に直結した読書はつまらない、という前言とは矛盾する表現だが、東洋経済の一冊となれば、このような結論で締めることも止むを得ないのだろう。行間から、筆者の真なる心境を察する必要がある。

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