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2013年8月の29件の記事

2013/08/31

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<9>

<8>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<9>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 わがトリケラトプスの頭骨はほぼ出来上がった。もともとは木質系でプロトタイプを作り、それを元にチキンの骨で作りなおす予定であった。だが、木質系の出来がよいことと、そもそも、チキンの骨を材質とはするものの、ほとんど彫刻の世界になるので、チキンの骨にこだわる意味を失った。

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 やはり、ここまで来ると、頭骨だけでは満足できず、全体骨格モデルを作りたくなる。さて、これからの問題は、そもそも余りのチキンの骨でもう一体、という企画であったのだが、骨は足りるのか?ということだ。

Trc1

 一番足りないのは、脊椎。本来であれば、もう一体チキン丸鳥を食べる必要があるだろうが、もう、それはしたくない。できれば、現在の手持ちの骨で間に合わせたい。

Trc2

 となると、あとは、これを作り上げる気力が問題だ。そろそろ切り上げようというタイミングなのに、このザマである。夏休みが終わるのに、当ブログの恐竜フィーバーはまだ終わらない。

<10>につづく

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2013/08/29

「ことばが劈(ひら)かれるとき 」 竹内 敏晴 <1>

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「ことばが劈かれるとき」<1>
竹内 敏晴 (著) 1975/08 思想の科学社 単行本: 278ページ
Total No.3087 ★★★★☆

 吉岡友治氏(Yと略記)という人の近著の存在を確認し、多少なりとも深く降りて行こうと試みにあたって、Yが「師」と仰いでいるらしき人物の存在も確認しておかなくてはならない。この本の著者がその人である。

 例によって、この本の著者については、ほとんど何も知らない。名前と、わずかのプロフィールを知るだけである。なぜそうであるのかは、自分でも興味あるところだが、いずれは分かってくるであろう。詳細は後段に譲る。

 さて、私にも師と仰ぐ人物がいる。いわずと知れたOshoのことだが、Yと私の両者において、「師」の意味しているところが、まったく同じことなのかどうかは、今のところ定かではない。また、ここにおいて、Yの師を持ちだすことで、互いの師を比較検討しようなどという意図は当然ながら、まったくない。

 もっと言うなら、本当は、他者としての弟子や師のことなどについて、本質的にはまったく関心はないのだ。

 ある共通の友人の葬儀にあたり、友人として弔辞を述べる役割を仰せつかったYと私、二人のそれぞれの独立した人間として、その共通項は一体どこにあったのか。あるいはなかったのか。ほとんど同じ年月にこの世に生を受け、同じ友人を介しながら繋がっていたとは言え、還暦を迎えた老域に到達して、ようやく知り得た存在である。ある意味、一期一会と言える。

 私は、私の自分の師に会うことによって、その人生を決定づけられた。彼なくして私の人生はなかったと言えるし、またそのような存在として特別視してきた。または、彼とめぐり合うことこそ私の宿命であっただろうし、彼とめぐり合うように生きてきていたともいえる。

 逆に言うと、同じような年代に生きながら、Yが竹内という人に師事しながら、私はなぜに竹内という人とめぐり合わなかったのか、にも興味ある。あるいは、YはなぜにOshoに「師事」しなかったのか、にも興味があるのである。

 ここにおいて、私がまったく竹内という人を知らなかったというわけでもなく、YがOshoをまったく知らなかった、というわけでもない、ということが、不思議の大前提になる。互いに、互いの師にめぐり合うチャンスは十分にあったのである。しかるにおいて、Yは竹内を師とし、私はOshoを師とした。

 Yは、若い時代にインドを旅し、また生涯においてアジアを初め広く世界を旅しているらしいので、当然若い時代からOshoを知っているらしい。私もまた、近くの大学の教授として在籍していた竹内の名前を知らないはずはない。どこかで、なにかがクロスしたら、私とYは、互いの師を取り換えっこしていた可能性は、ゼロとは言えない。

 もう一つ気になるキーワードは「演劇」である。竹内は演劇のジャンルで語られるらしい。図書館を検索してみると、いみじくも当ブログで最近触れた「演出家の仕事」 六〇年代・アングラ・演劇革命/日本演出者協会/西堂行人(2006/02 れんが書房新社)がヒットする。このあたりも何事かを暗示しているように、現在の私には思える。

 石川裕人を初め、伊東竜俊という身近な「演劇人」を喪った今、もう一人の友人の逝去において、さらにまた登場した「演劇」というキーワードに、何事かの重きを感じざるを得ない。

 正直言って、今まで何度も当ブログで述べてきたけれども、私個人は演劇というジャンルは得手ではない。避ければ避けて通れるジャンルである。しかるに、なぜにこれほどまでに、私の人生に登場するキーワードなのであろうか。その辺も気になるのである。(これは私たちの時代性なのか? あるいは人生上の重要な要素なのか?)

 それともうひとつ。竹内には「からだ」と「ことば」というキーワードがある。当ブログにおいて、図書館から借りだした本、約3000冊に目を通した段階で、ブログ存続を逡巡するあまり、思考停止のプロセスとして、Oshoの「こころでからだの声を聴く」(2007/11 市民出版社)の全文転写を始めているところだった(自分では現代流写経と思っているのだがw)。

 竹内が「からだ」と「ことば」をひらき、Oshoが「からだ」と「こころ」を語る時、その「からだ」にはどのような共通項があるだろう。あるいは、竹内の「ことば」とOshoの「こころ」には通じるものがあるだろうか。

 さらに言えば、これらの論旨の向こうに見え隠れするはずのスピリチュアリティ=「たましい」は、いったいどういうことになっているのだろう。これら一般のことどもに、なにやら興味惹かれる。

 ついでのついでだが、竹内には木田元との対話「待つしかない、か。 二十一世紀身体と哲学」(春風社2003/02)や、メルロ=ポンティについての言説が残されているらしい。これらひとつひとつが、当ブログとして追っかけてみる価値が大いにあると思える。

 以上、なにはともあれ、著者については何にも知らない段階で、とりあえずの思い込みだけをメモしておく。本質的にはこれら全体が鏡となってくれて、わが身を検証する手掛かりになってくれそうな予感にひかれての善光寺参りである。

<2>につづく

 

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2013/08/27

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<8>

<7>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<8>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 さて、トリケラトプス。どんなことになってしまうのだろう。なにはともあれ、木材でプロトタイプを作ってみる。全体7~9mのトリケラトプスの20分の1スケールとなると、頭骨だけでも半端じゃない。

Tri1
 おい、ホントにこんなにデカイのだろうか。同じティラノサウルスやプテラノドンの木質プロトタイプと並べてみる。

Tri2
 デカイ。スケールを間違ったのではないだろうか、と思う。ティラノサウルスやプテラノドンの頭骨だって、チキンの骨を掻き集めてつくるのは、そう容易なことではない。このトリケラトプスの頭骨は、もはやチキンの骨を遥かに超えてしまっているのではないか。

Tri3
 そもそもの発想が、余ったチキンの骨でトリケラトプスでも作ってみようか、という軽いノリだった。ところがこれじゃぁ、大幅にチキンを喰い増して、大量の骨を調達しなければならないのではないだろうか。ああ、なんだか、今となっては、ティラノサウルスがカワユく見えてくる。

<9>につづく

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「世の中がわかる『○○主義』の基礎知識」 吉岡 友治 <2>

<1>よりつづく  


吉岡 友治  (著) 2007/07 PHP研究所 新書: 248ページ

 よくよく考えてみれば、主義やイズムって、それほど大事なことだろうか。日和見主義とか、現場主義とか、一穴主義とか、なんだか、笑える主義も結構ある。資本主義とか、共産主義とか、社会主義、主体主義など、なにやら難しそうな主義もあることはあるが、本当は、すべて笑える対象なのではないだろうか。

 自分たちの成長過程においては、主義なんてよりも、もっと細かく「党派」や「セクト」を選ばなくてはならない時代からスタートした。自らを何かの「思想」や「主義」、「組織」や「団体」にあてはめなくてはならない時代もあったのだ。

 だから、まずは、その時代性を見直すところからスタートしたのが、私や私たちの世代の背景だっただろう。

 世界的なイズムと言えば、資本主義や共産主義というだけでなく、ブッディズムやヒンドゥーイズム、タオイズムなどの宗教性についてのほうがもっと大きなシバリとして存在している。クリスチャニティとかムスリムなど、イズムとは付いていないが、まぁ、似たようなものだ。

 ところで、一般に仏教はブッディズムと訳されているけれど、これって本当はおかしい。ゴータマ・ブッタが到達した境地は、イズムなんかではない。なにかの傾向性を外から見ればそう見えないこともないかもしれないが、これは形容矛盾している。

 私の人生でいえば、「ラジニーシズム」というエピソードは、なかなか良い経験だった。今から30年ほど前の体験ではあるが、人生の中で一度体験しておくのも面白い。仔細は省くが、結局、私たちは「主義」や「イズム」に逃げ込んではいけないと思う。

 ひとつのパターンを受け容れルーティン化した人生を生きることは、サボりであろう。日々新しい人生を生きる姿勢が必要だ。瞬間瞬間を生きることこそが人生の目的だ。

 世の中を、あれこれレッテルを付けまくって理解しようとするのは、それはそれだが、それって、本当の理解になるのか。もう一歩突っ込んだ了解が必要となるはずなのだが。

つづく・・・かも

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2013/08/24

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<7>

<6>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<7>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 当ブログにおけるプテラノドン制作プロジェクトもようやく最終組み立てまできた。後はじっくり仕上げることにしよう。

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 それにしても、スケールを20分の1に統一した場合、60センチのティラノサウルスに対して、45センチのプテラノドンでは、いかにも分が悪いと思っていたが、どうしてどうして、そんなことはない。

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 その自由性、その可動範囲の広さで言えば、まさに空の覇者の名にふさわしく、大地の王者ティラノサウルスに、見事に対峙し切っている。

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 さて、この辺で切り上げようかなと思っているのだが、どうもチキンの骨が中途半端に余っている。これなら、あともう一体くらいなら、恐竜をつくれそうだ。はて、次に作成するとするなら、ナニがいいだろう。

 プテラノドンに対抗した翼竜ケツアルコアトルズにも挑戦したいし、本家アパトザウルスにも未練が残っている。最大級の大きさを誇ったプラキオサウルスなど大型恐竜にも興味がある。スーパーサウルスなどはその巨体は30メーターを誇ったというから、20分の1スケールで作ったとしても、1メーター50センチ!! これは骨量が足らない過ぎるから、再考を要す。

 この辺で妥協するとなると、次なるは、草食獣の人気者トリケラトプスあたりが、順当であろうか。体長約7メートルということだから、やや小ぶり、これならいけそうかもな、・・・・なんて考え始まっている自分が恐ろしい。

<8>につづく

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「解き明かされる日本最古の歴史津波」 飯沼勇義 <2>

<1>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト

 当ブログにおける極めて重要な一冊。これから、この本をナビゲーターとして、身近な郷土史の世界へと入り込んで行こうと思う。

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 名取の植松築は、現在、名取が丘という。ここに東北最大規模の威容を誇る雷神山古墳(前方後円墳)があり、この古墳の西方、直線距離にして約500メートルにある50メートルの丘陵の頂きに「清水峯神社」という古式・縁起の深い謎の神社がある。

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 ここには、古代から江戸時代まで何回も書きかえられた「清水峯神社由来書」といわれる書がある。この中で、この地域から名取の北域に疾病が流(は)やったため毎日祈りを続け、遂には鹿島の神々と八幡の神々と交わり疫病退散の祈願をし、神々のお託宣があったのだろうか、貞観12年(「貞観津波」の翌年)、播州証浦廣峯本邑(現・兵庫県)から牛頭天王(ごずてんのう)社の分霊を清水峯神社に合祀した。そして、その祈りの願いが神々に届き、忽ち疾病が退散した、と書かれている。

 

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 こうした伝承には、必ず真実の歴史がある。ここに秘められている祈りによる疫病退散とは、死者直前の人々、そして死者の霊を葬うための儀式は、決められた山岳で火葬することで、天へ導く祈りとなって人々を葬ってきた。要するに、疾病退散は祈りという火祭り行司を司る人々、神々に仕える人たちによって行なわれてきたという時代的背景がここにあった。

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 出雲地方にも牛頭天王が祭祀されている。
 西暦660~690年の[仙台沿岸地震]で仙台郡山の大官衙が消滅し、かわって岩沼へ武隈館をつくった。
p160「[貞観津波]と清水峯神社伝説」

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 飯沼史観は独特である。著者がなかったら、この地のことなど、何も知らないで、一生を終ったかもしれない。不思議を不思議なまま、茫洋として老いて行ったに違いない。飯沼史観があればこそ、さまざまなひとつひとつのパーツが一体となして、全体像を現わしはじめる。

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 いつもは何も考えずに通り過ぎてしまう通りではあるが、著者の言説に触れて、ようやく、私はこの神社の存在に気づき、その本当の意味を知り始めた。

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 忘れてしまった、というよりは、忘れるように仕組まれてきたのだ。忘却というシステムと、確実な記録というシステムの二つが、確実に作動している。

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 たった一つのジグソーパズルのパーツからでは全体像を見ることはできないが、例えば、何億年前と言えど、岩石の中から現れる古代生物の化石であるならば、大腿骨ひとつ、歯茎骨ひとつで、その生物の生きていた時代が類推される。

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 まさにパンドラの箱、まさに伏魔殿の扉が、いま開かれんとするかのような、胸のときめきを覚える。

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<3>につづく

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2013/08/21

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<6>

<5>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<6>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 さて、わがプテラノドンは、どうなってしまうだろう。

Pt1

 所詮は、針金とビニールと木端で組み立ててはみたものの、ティラノサウルスのリアリティに「対峙」することは難しい。

Pt9

 「プテラノドン」というキーワードで検索した画像の中のたった一つの小さなサンプルを、全幅45センチに拡大して、それに当てはめただけで、細かいところがよくわからない。

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 ところが、キーワードを「pteranodon」に代えてみると、かなりの好ましい画像がたくさんでてきた。

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 いっぱいあるが、どれもこれも、「決定打」とならないのがつらい。これらすべてを総合して、手元に残っているチキンの骨で、なにはともあれ、次のステージへと向かってみようか。

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 骨量はなんとか間に合うようだな。

Pt30

 となると、次なる問題点は

1)より正しい骨格図の決定

2)さて、どこから始めるか

3)針金を入れるのか入れないのか

というあたりになるだろう。

<7>につづく

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「鳥類学者 無謀にも恐竜を語る」 川上和人

Total No.3086 ★★★★☆

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 ティラノサウルスに対峙するのは、プテラノドンではなく、ケツアルコアトルスのほうが同時代的だし、スケールも大きいのではないか、そう思って資料を探すのだが、そう多くはない。

Pt7

 巨大とされるケツァルコアトルスでは、翼の一部の骨しか見つかっておらず、体サイズはあくまでも推定にすぎず、実際には飛行可能性が疑われることのないサイズだったかもしれない。p107「鳥は大空の覇者となった」


Pt1

 なんだぁ、そうだったのか。翼竜の代表とするには、ケツアルコアトルスは不完全ということになる。やっぱり、ここはティラノサウルスに対峙するのは、プテラノドン、ということが一番すっきりするようだ。

Pt9

 一応、簡易なモデルを作ってみるが、ここから、チキンの骨で全体骨格モデルを作る、というところまで、行けるだろうか?

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2013/08/19

「だまされない<議論力>」 吉岡友治<2>

<1> よりつづく 


「だまされない〈議論力〉」 <2>
吉岡友治 2006/08 講談社 新書  237p

 私もどちらかと言えば、理屈っぽくて、自分なりの意見を持たないと落ち着かないし、なにかことあると、ひとこと発言だけはしておこうとしてきたほうだ。だが、その姿勢はずっと一貫していたか、と言われれば、それはまったく違うと思う。

 かれこれ36年前に、23歳でOshoの元に辿り着いた私は、そのアシュラムの中で、センタリングという遊びに満ちたグループワークショップを受けたことがある。その中での「ゲーム」に「イエス・ノー」ゲーム(というネーミングだったかは定かではない)があった。

 三人がひと組となり、二人が対面して座る。もう一人は側面に座って、行司のような役割を果たす。対面した二人は、一つのテーマについて「議論」を行なう。議論と言っても、それぞれの役割が決まっていて、一人は「イエス」の立場から、そのテーマについて良いことばかり、思いつくまま主張し続ける。もう一方は「ノー」の立場から、そのテーマの否定的な面ばかりを批判し、罵倒し続けるというゲームである。

 そもそもが、テーマそのものが直前に言われるのであり、しかも「イエス」「ノー」の立場は単に割り振られるだけで、自分の本当に普段から思っている意見ではない。ただ、「あるテーマ」について、「イエス」か「ノー」を言い続けるのだ。

 これを3分間(だったか5分か10分だったか忘れた)語り続けるのである。相手の意見など聞かずに自分は一方的に話し続けるのだ。しかし、それほどそのテーマに対しての意見を言い続けられるはずはない。ちょっと言い淀んだりすると、相手の反対意見が聞こえてきて、それも当然だな、などと納得して聞いていたりすると、行司役の第三者目が、こちらの膝を叩いて、しゃべり続けるように促す、というゲームである。

 これはゲームであり、どちらが正しいとか間違っている、というものではない。そしてまた議論が必要であるとかないとか、という主題でもない。つまりは、「議論」全体が、ゲームとして「一笑」できればいいわけである。

 出されるテーマは、「マネー」、「セックス」、「サニヤス(Oshoの弟子になるシステム)」などであった。もし、現代日本であれば、さしづめ、「原発」、「TTP」、「消費税」などをテーマに選んで、このゲームをやったら、いろいろ意見をいうことができるだろう。「憲法改正」などもいいかも知れない。

 先ごろ参議院選挙に立候補したミュージシャン三宅洋平のような人は、アイヌの話しあい方式を持ちだして、みんなで「チャランケ」しようと呼びかけたが、上のような政治的話し合いが、チャランケ=議論で、みんなが納得するような方向へ決着するのなら、なかなかいいシステムだとは思う。でも、そういうことがかなり難しいから、みんな政治には無関心になってしまうことが多いのだと思う(私などもなんだか無力感を味わっている)。

 本当は議論はエキサイティングなゲームである。ルールがきちんとあって、それに従って対決すると、結果として優劣が見えてくる。話している相手、またはその話を聞いている人が、「説得」されるからである。「うーん、なるほど」と腑に落ちる。それで次の行動がすっきりと決められる。p4「まえがき」

 だったらいいのにね。

 私は予備校や主宰しているインターネット講座で、大学・大学院受験者や社会人のために小論文の書き方を教える仕事を続けている。p6同上

 というような環境の中でなら、なるほどいわゆる「議論」も有効に働くという実感を持てるかもしれない。しかし、現実社会はどうなのか。日本社会ばかりではなく、国際社会、世界全体において、「議論」は本当に「腑に落ちる」ような結論を常に導いているだろうか。

 演出家の竹内敏晴はあるところで、「癒されるということはあるかもしれないが、癒すということはない」と書いていた。p23「『癒す』とはどういう状態か?」

 竹内敏晴氏については、いずれ当ブログでも、追っかけてみよう(遅きに失しているが)。

 ヴィトゲンシュタインではないが、「語り得ぬことに対しては、沈黙する」態度こそが、誠実かつ倫理的なのだ。p62「解釈は一つと限らない」 

 ヴィトゲンシュタインについては、当ブログでも不十分ながら、追っかけをしている。「議論」よりも、ここで言われるところの「沈黙」のほうに価値を見出すことも多いにあり得る。雄弁は銀、沈黙は金。

 「神秘と欲望の構造--対比の向こうに何がある?」p119あたりでは、中沢新一の「チベットのモーツアルト」を引き合いにだして、結構こきおろしている。中沢新一についても、当ブログでそれなりに追っかけてきたが、私もまた彼の「論理」には「だまされ」きれないほうだ。いつも眉つばになってしまう。

 木田元「哲学以外」などについても論及されている。(136p) 木田は面白い。

 ソクラテス ねぇ、君。この世で一番大切なものは何だろうね?

 若者 そんなものは決まっていますよ。お金です。p180「ソクラテスの方法」

 ここでの問答も面白く読んだ。私も若い時(20歳ころ)、本当にこの質問を周囲にしたことがある。その時、母親は、「金に決まっている」と言った。早くに病死した父亡きあとに、三人の子供を育て来た母親にとって、夢見がちな末っ子が、早く現実的になってほしかったのかもしれない。

 その母親の弟である造園業をしていた叔父にも同じ質問をしてみた。「学校時代に『誠実』が一番大事だ、という風に教わったが、今でも、それは本当だと思う」と語った。

 母親の父である祖父にも聞いてみた。祖父は一笑して、「なんだそんなことも分からないのか」とたしなめた上で、「それは自未得度先度他だ」と教えてくれた。道元「正法眼蔵」の中の一節とされる。自らが渡る前に、まず他人を渡せ」という意味だと言う。私の疑問は、これが「正解」ということになっている。

1、議論とは問題、解決、根拠の三つの要素からなる
2、解決は明瞭に書き、なるべく文章のトップに持ってくる
3、段落は、言いたいこと(ポイント)とそれを裏付ける証拠(サポート)から構成される 
p223「ささいな議論から根本の問題へ」

 著者と私の「議論」は、さて、深まっていくだろうか。まずルール作りにやや非協力的な私がいる。この不埒な対論者を、著者はどのように御してくれるだろう?

 巻末には「さらに<議論力>を鍛える読書案内」がついていて、30冊ほどの本が紹介されている。その中に竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」(ちくま文庫)も含まれている。

 我が師竹内敏晴の身体論。人それぞれである身体の中にも、普遍的な「望ましい方向」を見つけられる方法。吉岡p234

 この本あたりから、次のステップを狙いたい。

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「『眼力』をつける読書術」 吉岡友治<2>

<1>よりつづく


「『眼力』をつける読書術」 <2>
吉岡友治 2009/12 東洋経済新報社 単行本 207p

 初対面の人物から「著述家」という肩書の名刺を頂戴することは珍しい。たぶん私は生涯初めての体験ではなかっただろうか。これに類する名刺を受け取ったことはあったにせよ、それは「自称」であったり、フェイクであったりした。

 しかし、今回はどうやら本物なので、心してその方の「著述物」に触れさせていただいた。何十冊もあるという中の、わずか5冊なので、その一端をようやく見つけた、というところなのだが、実際には、大学のネットワークも含む地元の図書館で読むことができるのは、この5冊で精一杯というところだ。

 一度とにかく目を通し、ようやく再読モードに突入したところだが、時間をおかないうちの再読となると、割と安心して読み進めることができる。自分の守備範囲を大きく超えた情報が盛り込まれていたりするが、それでも、そのショックは二回目なので、すこし落ち着きはらって読み進めることができた。

 通読してまず思うことは、著者は本は購入して読むべきだ、と主張しているところ。私もその説には別に反対ではないのだが、そもそも、自宅に本を置く場所が限られてきてしまったことにより、最近はなるべく本は図書館から借りて読むようにしている。

 というより、図書館から借りるのでなければ、そもそも触れないだろう本も、図書館から借りるということであれば、簡単に読めるということもある。世の中にこのような本もあるのか、とびっくりするのは、新刊本書店では見つけられない本も多いからだ。

 もちろん、たくさんの本を購入するには資金もいる。買ってすぐポイするような本はわざわざ購入する必要はない。著者だって、全ての本を購入しているわけではないだろう。立ち読みしたり、図書館資料を利用しているはずだ。

 人に見られても恥ずかしくない本棚を作る(p184)などという趣味もいかがなものか。もっとも、私も友人知人宅を訪問した時などは、その本棚を覗きこんでしまうほうである。ただそれは部屋数の少ない住居環境だった学生時代や若い時代であって、中年以降になると、書斎などは別にこしらえてあり、いきなり奥の本棚の前にいくことなどはできなくなる。

 私なども、実は漫画や週刊誌、カタログ類が雑然とした部屋に住んでいるのだが、客間には、それなりの蔵書を「飾って」ある。普段は扉がしまっているので見えないが、何かの資料を取り出す「フリ」をして、大きく扉を開けて、「チラ見」させる時がある。(これもいい趣味とは言い難い)

 巻末には「読む力を磨くための読書案内」として40冊ほどの本が紹介されているが、知った名前がずっと続いているが、その中身を読んだ本はほとんどなかった。これらの本にひととおり目を通したあとでないと、著者とは普通に話しができないのではないか、と思ったりする。

 リストの中には著者の本が混在していたりするのはご愛敬だが、ジャック・ケルアック「路上」の紹介あったりして、わが意を得たりと思ったりする部分もある。(もっとも、これはまだ読書中で、当ブログにはまだメモしていない)

 随筆の紹介のひとつとして、本文中に竹内敏晴「日本語のレッスン」(講談社文庫)が提出されている。著者はこの人物を師としているはずなので、この辺りから、重層式に、網をかけて行きたい。

 「行間を読む」のが良いかどうかは、場合によりけりだ。たいていの場合、行間を読み過ぎるとテキトーな理解になってしまう危険性が大きい。もちろん「行間を読む」ことが新しいものを創造するきっかけになることもないとは言えないが、自分の頭の中をのぞき込んでいるだけのことも多い。

 本を読みながら、自分勝手な想像をしているだけなら、わざわざ他人の書いたものに触れる意味はなかろう。むしろ、「行間を読む」技術を身につけるより、書いてあることをそのまま理解する技術を身につけるのが先だろう。p78「大切なところを見分ける小技」

 ふむ~、なるほどね。とにかく行間を読むには、読みこんでいかなくてはならないことは確か。

 キュブラー・ロス「死ぬ瞬間」では、末期癌にかかった50代の妻の話が出てくる。夫は何とか助けたいと思い、手術を希望する。「妻も子どもたちのために生きたいと思っているはずです」。しかし、妻の考えは違う。もう十分に生きた。子どもも育てたし、幸せな家庭も持った。だから、最後は静かに人生を終わりたい。「手術を受けろと言う夫が煩わしい」と。p149「他人を看取るということ」

 先日亡くなった共通の友人の遺書とも言える「生前委託」を思い出さざるを得ない。「人としての尊厳を愚弄するようなこと(無用な延命措置)は絶対にしないで下さい。健やかに人間らしく死を迎えさせて下さい。」というメッセージの、それこそ「行間」を読むつもりで、何回も読み返した。

 一冊の本を読むことで、いろいろ思考する。本の著者と内心で対話する。問題を見つける。それを解決しようと、自分流に断片を書いてみる。そういうサイクルでしか、自分の思考は進まないのだ。ただ、虚空を見つめて、瞑想するだけでは、思考は一歩も先に進まない。p157「読書はカルマである」

 一冊の本を読んでいろいろ思考しているのは、現在の私であるが、最後の一文は納得しかねる。虚空を見つめていて、思考が停止しているとしたなら、それはそうとうに上達しているのではないか、と思われる。実際は、私のような凡夫は、本を読んでは閉じ、開いては読む、という繰り返しの中で、「虚空」に浮かぶ「思考」を整理しないと、突然挫折することがある。私には「瞑想」が必要だ。

 私自身が寝ころんで読むのは、哲学の本。とくに分析系と言われる面倒くさいものが寝ころぶには良い。p161「読書にふさわしい場所を探す」

 私も本を読むのは場所を選ばない方だが、選べるなら、まずは寝ころぶ。寝ころびなら読む読書は、私にとっては一番快適だ。ただ小説のようなストーリー性のあるものは、すぐ眠たくなって眠てしまうのが難。

 読書が最終的に役立つものとしても、目的に直結させる読書はつまらない。むしろ、目的からわざと迂回して味わった気分こそ、後で、「ああ、あの気分が欲しかったんだよな」と思い当たるものだ。p168「本を抱えて旅にでる」

 私が読書を始めた目的はいろいろある。

1)奥さんが小説を読み始めて、夫婦の会話がなくなってきたので、自分も時間を埋めるために図書館通いを始めた。

2)ブログを始めたものの、プライバシーの切り売りはしたくないので、何か適当な材料をあ探していたところ、読書ブログというスタイルに行きついた。

3)今まで読もうと思って読まなかった本が、山ほどあることに気づいた。「読まずに死ねるか」

4)ネット環境が進み、図書館利用がITの進化とともに、実に便利になった。このシステムが何処まで便利なのか、確かめてみたくなった。

5)図書館の、希少本ではなく、一般の開架棚にある本を漁ることによって、世の中の動向を知りたい(という希望はあったが、これはあまりうまくいかなかった。結局、自分の好きな本を読むのが一番)

 大部分の日本人は、そういう意味で、他人と上手に対立するのが下手だ。対立すると、相手を傷つけてしまうと思いこむ。しかし、対立しても共通の基盤をどこかに作っておけば、対立はかえって関係を深める役割をする。p171「意見と情報の交換」

 これは、次に再読しようと思っている「だまされない<議論力>」(2006/08 講談社)に通じるところだが、この辺の「日本人論」には、私なりに意見はある。自我の形成のプロセスが、欧米とは著しく違っている日本人ではあるが、また、欧米のような自我が堅固なのも、はて、未来的な「地球人」的スタイルとしては、どうなのか、と感じている。

 これまで述べてきた「読書」の技法とは、そういう「シンボリック・アナリシス」=情報分析の基本ツールの一つである。ぜひ有効に役立てて、そういうクリエイティブ・クラスの一角を占めていただきたいと思う。創造力/想像力を持って、自分の力で働く場を創出し、社会に貢献する、そういう志を持っていうる社会人にとってこそ、「読む技術」は必須なのである。p200「クリエイティブ・クラスになろう!」

 目的に直結した読書はつまらない、という前言とは矛盾する表現だが、東洋経済の一冊となれば、このような結論で締めることも止むを得ないのだろう。行間から、筆者の真なる心境を察する必要がある。

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「東大入試に学ぶロジカルライティング」 吉岡友治


「東大入試に学ぶロジカルライティング」
吉岡友治 2011/06 筑摩書房  新書  267p
Total No.3085 ★★★★☆

 吉岡友治関連リスト 

「だまされない<議論力>」(2006/08 講談社) 

「世の中がわかる『○○主義』の基礎知識」(2007/07 PHP研究所)

「『眼力』をつける読書術」 (2009/12 東洋経済新報社)

「東大入試に学ぶロジカルライティング」(2011/06 筑摩書房)

「いい文章には型がある」(2013/03 PHP研究所)

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 さて、この本まで来ると、一般的に著者の近著とされる5冊が出揃ったことになる。「東大」も「入試」も、当ブログとは縁遠いが、「ロジカルライティング」という奴も、はるか遠くに仰ぎ見る、という始末である。

 世に「義理と人情、ハカリにかけりゃ、義理が重たいこの世界」という言葉があるが、「論理と感性、ハカリにかけりゃ、論理が重たい受験の世界」とでもなってしまうだろうか。

 高校生や、法律や経済関連の受験生を中心とした読者層を狙った本であれば、まぁ、そういう結論は当然であろうが、これを一般人であり、また老齢に達したわが身が読むとすれば、どのようなところにアクセスポイントを見つければいいだろうか。

 わが家の子供たちの受験期もとうに過ぎ去り、受験や試験もほぼ無縁の時代に突入しているのだ。わずかに生まれたばかりの幼き孫たちの受験に準備するなんて、それじゃぁ、いかにも馬鹿じじいになってしまうので、これもまた違う。

 せいぜい、当ブログの表現に寄与すべき点を教えていただくこと程度が、この本の活用方法か。

 ただ、著者側から言えば、こちらの方が本職なのであり、彼を評するなら、これらの一連の「受験本」が存在していることは、強く意識しておかなければならないだろう。

 さて、この5冊を並べたところで、どの順番を再読することにしようか。一番手っ取り早いのは、「『眼力』をつける読書術」あたりから始めることだろうか。当ブログが読書ブログであるなら、読書術もかなり近い。著者の本を再読・精読する、ということも必要であろうが、著者が師と仰いでいる(であろう)竹内敏晴氏の一連の表現も視野に入れていく必用があろう。

 私は一度、竹内氏の講演会に参加したことがある。しかし残念ながら、その時は急用が入り、終演まじかに、満員の会場の後ろにようやく入り込んだ程度で、内容そのものについては、よく聞くことができなかった。

 それ以来、竹内氏の存在は気にはなってきたのだが、当ブログにおいても、まったく1ページも読みこんでいない。

 なぜそうなのだったのかは、それなり理由があるのだが(つまりこころとからだ、止まりのところが、ちょっとなぁ)、それは、こちらの誤解や不理解が原因である可能性もあるので、すこしづつ、そちらも「読書」しながら、この著者の世界に、もうちょっと踏み行ってみたい。

つづく ・・・・

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「木の実の恐竜と小動物」-自然素材で作る 自然素材工作編集部


「木の実の恐竜と小動物」 -自然素材で作る
自然素材工作編集部 2007/10 誠文堂新光社 大型 p95
Total No.3084 ★★☆☆☆

 この本の表紙においても、ティラノサウルスと、子どもとは言えプテラノドンが同空間に存在している。この二者はもうステロタイプとして、セットで語られることが通常化しているのだろう。

 この本、自然素材工作編集部による自然素材で作る恐竜たちが紹介されている。これなら、里山を散歩することも楽しみだし、公園までの道のりだってワクワクするに違いない。いえいえわが家の決して広いとは言えない庭でさえ、その素材の多くを見つけることができるだろう。

 庭などなくたって、わが家の台所の中にもたくさんの素材が転がっているに違いない。木の実や豆類やナッツ類、果物の皮や乾燥物だって、良く見りゃ、魅力的な恐竜の素材となる。私なんぞは、ゴミ箱をあさったり、プラスチックゴミの中から、きっと何体かの恐竜を作ってみたくなるだろう。

 しかしだ。そこまで来ると、もう何でもありで、ぬいぐるみだろうが、工作だろうが、イラストだろうが、もともとの「科学的」な恐竜の姿など、無きも同様ではないか。ここはやはり、リアリティにこだわりたい。

 となれば、やはりチキンの骨は、素材としては一番すぐれているように思われるし、ケツアルコアトルスのほうが、大きさ的にも、チキンの骨を流用しやすい。

 ただ残念ながら、この本にも、ケツアルコアトルスの情報は皆無である。

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「世の中がわかる『○○主義』の基礎知識」 吉岡 友治 <1>


吉岡 友治  (著) 2007/07 PHP研究所 新書: 248ページ
Total No.3083 ★★★★★

 著者の本としては当ブログ4冊目。あともう一冊「東大入試に学ぶロジカルライティング」(2011/06 ちくま新書)が残るだけだが、タイトルから類推するに、これまでの4冊に比較すれば、かなり傾向の違った一冊になるだろう。身近な図書館に所蔵されている著者の本は、大学ネットワークを含めてこの5冊なので、とりあえず5冊目まで、ソーカツ的に論ずるのは控えておこう。

 そもそもこのかたの社会的な存在(つまり職業)としては、予備校の先生ということになるのだろうが、もう一歩進んで、偏差値の高い大学や司法試験やMBAにおける小論文指南ということであり、なおかつ勤務しているのではなく、自ら「学校」を主宰しているようなのだ。

 こういう存在で、ちょっと思い出すのは小浜逸郎という人。この人は当ブログが始まったばっかりの時に友人の紹介で読み始めてみたのもの、いまいち最後まで納得できなかった。通常当ブログでは、ひとまとまりになると「関連リスト」としてリンクを張っておくのだが、初期的なこともあってか、まだ関連リストも作っていなかった(近日中につくろう)。

 小浜の場合、「塾」であり、むしろ小中学生あいての塾だったかもしれない。小浜の「塾」と、吉岡の「学校」ではまったくレベルが違っており、同列には語れないかもしれない。

 それでも、この二人になにか共通するものを感じるとしたら、両者とも世の中の「広く」見ているということ。そしてそれぞれに対する「一家言」を持っている、ということである。どんな話題に対しても、コメントを求めるなら、軽く応じてくれそうな気配を感じる。

 しかしながら、その「広さ」と「軽さ」の中に、なにか「塾」や「学校」的であり、実務的、実際的、現場的な、切実感が薄いと思わせる何かがある。そして、マルチに対応していそうでいて、結局は絶対平面に全てを同列になど並べることなどできるわけじゃないので、どこかに歪みができ、またそれは湾曲となり、ややゆるやかに歪んだ円や、球体を形成するようになり、結局、著者たちは、その表面にはおらず、その円や球体の内部にいる、ということになる。私なんぞは、その語られている内容より、語っている人そのものに関心を持ったりするので、読み方も自分なりに工夫する必要を感じる。

 こちらのこの本の著者も、自らを何々主義、何々イズムと強く主張はしていないので、ここで語られているすべての「主義」や「イズム」はゆるやかに(あるいは部分的に)否定されていることになる。

 そもそも、「神秘体験」を大げさに吹聴する宗教はろくなものはない。儀式や祭儀の中で、人間は簡単に日常感覚を失う。それどころか、自分が自分であるという感覚さえ忘れてしまう。一定の身体的テクニックを使えば、夢遊状態や脱自状態になるのは難しいことではないのだ。

 たとえば、手を上に挙げたまま、十五分間ハッハッと思いきり息をおはきながら、ジャンプをしつづける。そうすれば、(その現れ方は人によって違うが・・・・)目の前に鮮やかな現像が見えることが多い。身体に過大な負荷を与えることで、「神秘体験」はある程度誰にでも起こるのだ。幻覚物質を使えばほぼ自動的だ。こういう「神秘体験」をことさらのように尊重する向きがある。そのテクニックは意外に簡単なのである。p213「『神秘体験』は簡単に起こる」

 この部分は「スピリチュアリズム」や「グルイズム」との関連の中で語られる部分であるが、一読者としては、付箋を貼っておかなければならない部分である。

 例えば、この「身体に過大に負荷を与えるテクニック」は、著者が在籍したであろう竹内敏晴演劇研究所のテクニックかもしれないし、また他の系譜に属する瞑想法であったりするかもしれない。「誰にでも起こる」ということだから、著者も当然実験ないし体験していることだろう。

 私なんぞは、この文脈から連想するのは、Oshoの代表的瞑想法「ダイナミック・メディテーション」だ。そもそもがチベットに伝えられてきた瞑想法がベースになっているかのように語られる時もあるが、確かではない。ほとんどがOshoのオリジナルと解釈してもそれほど無理はない。

 さて、著者の解説と、私の、やや類似した体験をすり合わせておけば、いくつかの違いが明確となる。

 まず、私は「手を上に挙げたまま、15分間ハッハッと思いきり息をはきながら、ジャンプをしつづける」ことは難しい。やって見れば分かるが、それほど体を鍛錬してきていない私なんぞには15分間は無理である。せいぜい10分間である。(しかもハッハッではなく、「HOO! HOO!」(フー! フー!)であるが)

 しかもその10分間を、いきなりスタートしてもできない。前段で、激しい呼吸の10分間と、内面の感情を外側に出す10分間のカタルシスのステージがないと、できない。このプロセスにおいてなら、私は何度も10分間、ジャンプしてきた体験がある。(しかも付け加えておけば、この後に、15分間のストップと最後の踊りの15分間がセットになった1時間の体験においてである。)

 そして(という接続詞は著者は重要ではないと言っておられるが)、私はこのジャンプ中に「現像が見える」ことはまずない。「現れ方は人によって違う」とのことだが、著者はその中でそのような体験をしているのかもしれない。

 少なくとも、10分間ジャンプすること自体が、かなりの行ないなので、「現像」なんぞ見ている暇はない。とにかくジャンプするしかない。そもそも、「神秘体験」をするために「ジャンプする」なんて、なんだか、どこかおかしい。

 そして、この本の文脈の中で語られる「神秘」についても、私には私なりに異論がある。簡単に言っておけば、なにかこの世ならざるものを見たり聞いたりすることが「神秘」なのではなく、この世なるものを、この世なるものとして直視できることこそが神秘なのである。なにかの現像を見ているのは、一般に、人が普段の日常生活においてなのであって、むしろ、それらをふっ切って、じかに起きていることを直視することこそ神秘と言えるのではないだろうか。

 ちょこっと引っかかったから引用しておいたが、この本もまたアクセスポイント、あるいは突っ込みどころ満載である。また、この方の著書シリーズをきっかけに、再読や確認しておきたいこともたくさんでてきた。

 まずは、もうすこし全体をつかんでから、著者全体の再読モードに入ろうと思う。

<2>につづく

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「スーパーリアル恐竜大図鑑」―精密なCG・イラストで代表的な32種を徹底解説 富田京一監修


「スーパーリアル恐竜大図鑑」―精密なCG・イラストで代表的な32種を徹底解説
富田 京一 (監修) 2007/07 成美堂出版 大型本 127ページ
Total No.3082 ★★☆☆☆ 

 スーパーリアルというタイトルに惹かれて借りだしてみたものの、他所に比較して、特段にリアルとは言い難い。そもそも、化石から類推する生態なので、それが本当にリアルなのか、なんて実証しようがない。つまりはイラストがうまく書いてあるだけである。

 お目当ての翼竜類についても、ほとんど収獲ゼロであった。

 そもそも、当ブログにおけるティラノサウルスに対峙させるための翼竜は、プテラノドンでは「役不足」なのではないだろうか。大きさも十分ではないし、進化の時代性も約1000万年ほど食い違っている。

 1000万年である。およそ6500万年前に絶滅したティラノサウルスと、8000万年ほど前に生息していたとされるプテラノドンでは、進化の年代に大きなずれがある。

 1000年のずれは人間界においては大きな違いであるが、平安時代の人間と現代人を比較されるのは、ちょっと困る。ところが、恐竜たちにとっては1000万年である。1000年の1万倍の年月。私なんぞにはほとんど想像できない。これらを同列にすること自体、ちょっと間違っているのだ。

 ティラノサウルスに対応させるべきは、プテラノドンではなくて、ケツアルコアトルズでなくてはならないのではないか。ふ~、恐竜の名前って、どうしてこうも難しいのだろう。私なんぞは、この名前を思い出すコツとして「血圧」を連想するようにしている。

 ケツアルコアトルズは、6500万年前にティラノサウルスと同時期に生息していた可能性があり、また、同時に小惑星激突の衝撃で絶滅した可能性もある。お互いに、いわゆる進化の最終過程と言えるのかもしれない。

 そしてまた、当ブログにおける「チキンの骨で恐竜を作ろう」プロジェクトにおいて、最大9mとされるプテラノドンより、12mあるいは最大18mもあったとされるケツアルコアトルズの方が、チキンの骨を流用しやすく、また、すでにできてしまった20分の1スケールのティラノサウルスの仇敵として、大きさ的にも対峙しやすいのではないか。

 今後は、ケツアルコアトルズ(ふ~、覚えるのがせいいっぱい。すぐ忘れそう)についての情報を集めてみようと思う。

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「だまされない<議論力>」 吉岡友治 <1>


「だまされない〈議論力〉」 <1>
吉岡友治 2006/08 講談社 新書  237p
Total No.3081 ★★★★★

 さて、次なる本は、この「だまされない<議論力>」と、「世の中がわかる『○○主義』の基礎知識」(2007/07  PHP研究所)である。「議論」と「主義」、どちらを先に読むことにしようか。これは、ニワトリが先という「主義」と、卵が先という「主義」の「議論」にも似ているかもな。

 共通の友人の通夜の席で同席した時、彼は小論文の指導が専門だと話し、インドにもたびたび行っているとも話していた。私も名刺を渡しながら仕事を説明し、また、若い時分からインドのOshoサニヤシンであることを話した。

 その時、彼の目が、そうあのティラノザウルスの目を連想するような彼の目が、キラリと光ったように感じた。口元には、親しげな笑みがあったけど・・・。

 私がOshoサニヤシンになったのはいまから36年前、23歳の時だった。Oshoは、そのイニシエーションの席で、私にこう言った。「議論をしている人たちに神が宿ることはない。感性を通じて神にいたりなさい」。(このことは前にも書いたし、そのうち再度書くつもり)。

 この時、インド人のOshoが使った単語は「アーギュメント」であり、この本の著者がいうところの「議論」とは、同じことなのかどうかは、定かではない。

 日本人の私は、議論といえば、論争とか、激論とか、言い争い、などのイメージがあり、著者がいうように、正しい「議論」ばかりが行われているとは感じていない。それがいいのかどうかの自分の意見は、後段に譲る。

 さて、もう1つの「主義」ってやつもどうなのだろう。つまりは「イズム」であろうが、なんでもイズムを付ければ、なにか深みがあって、哲学的なイメージがでてくる感じは確かにする。この言葉の尋常ならざる使い方があるのだ、と気づいたのは中学生のころだっただろうか。新聞広告にホンダ自動車が「ホンダイズム」ということを標榜していた。

 高校生の頃、たしか「週刊プレイボーイ」誌に「ヒロイズム」という特集があったことも覚えている。ヒローイズムではなく、「拾イズム」なのだ。つまり粗大ゴミにでた貴重な家具類などを「拾ってきて」立派に再生して生活を豊かにしようという「ライフスタイル」についてなのである。

 ことほど左様に、それからはありとあらゆる「イズム」という言葉にさらされてきたが、まぁ一番やっかいだったのは一時Oshoムーブメントが「ラジニーシズム」と称したことがあったことである。ほんの短期間だったにせよ、この件においても「イズム」という言葉の使い方には、敏感にならざるを得ない体質となっている。

 さて、ニワトリが先か、卵が先か、ということだが、人間はそもそも「主義者」として生まれてくるわけではないだろう。生まれて来てコミュニケーションをしているうちに、時には「議論」となり、自らの思考形態が「凝り固まって」から、「主義」となるのだろうから、今回は、まずは「議論」のほうから先に読んでみることにした。

 もっとも「主義」と「主義」が「議論」しても、それこそ消耗だけということにもなりかねず、それでは著者もこの混ざる状況に巻き込まれるだけだろう。著者は、これらの言葉を全体として、もっと柔らかいタッチで扱っていると、思う、ことにする。

 この間、著者が校長を務める小論文指南の学校についてのサイトや、彼自身が撮影した神保町とバリ島の写真を中心としたブログを見たりしているうちに、なんと幅広い「教養」の持ち主であろうか、と半ばあきれているところである。

 この本についても、いろいろと思うところある。アクセスすべきポイントというべきか、突っ込みどころは満載である。ネタにはことかかない。しかしまあ、もうすこし共通土俵も掃き清めないと、それこそ「議論」的なことも起きなければ、互いの「主義」性も見えてこないだろう。

 手元にあるもう二冊の著者の本にも、軽く目を通したあと、全5冊としてから、すこしゆっくり熟読(できるかなぁ)してみたいと思う。

<2>につづく

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2013/08/18

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<5>

<4>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<3>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 さて、プテラノドンだが、ハンガーや工具類を見ていても、どこかプテラノドンに見えてくるのだから、いよいよ憑依されていると言えるかも知れない。

Hang1
 いろいろ探して見るのだが、適当な全体骨格図をまだ見つけることができない。せいぜい、小さなこの画像くらいしかない。

Put1

 本来であれば、この骨格図を全幅45cmに拡大し、余ったチキンの骨類で全幅9mの20分の1のモデルを作りたいのだが、なかなか、この軽量感をだすことはむずかしそうだ。

Bone1

 もう、ここは仕方ないので、まずはハンガーの針金だけで、作ってみる。
Bwur

 そもそもハンガーは、空中に浮かんでいるもの。プテラノドンの軽量感や浮遊感を表すには、ハンガーはうってつけだろう。

Bur2n

 これに本来であれば、なにか羽の部分に張りたいところだが、どうだろうか。

Gul1

 古いストッキングを奥さんに譲ってもらい、伸ばして張る、なんてアイディアもあるが・・・・。

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 単なる針金だけとは言え、じっくり見ていると、それなりの雰囲気がでてくる。

Batle1

 形としては、ティラノザウルスとプテラノドンの対決、という図式はできあがった。もっともこの両雄、生息していた時代は1000万年ほどずれているので、実際には対決したことはないはずだ。

<6>へつづく

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2013/08/17

「『眼力』をつける読書術」 吉岡友治 <1>


「『眼力』をつける読書術」 <1>
吉岡友治 2009/12 東洋経済新報社 単行本 207p
Total No.3080 ★★★★★

 当ブログとしては著者二冊目の本。前回の「いい文章には型がある」(2013/03 PHP研究所)と並べてみれば、「読み」と「書き」が揃ったことになり、さしずめ「読書ブログ」を標榜する当ブログなどは、これで十分に参考になるようなものである。

 しかるに、どうも納得しかねる部分も多い。二冊目となれば、重複する引用文(例えば、川端康成の「伊豆の踊子」とか、林芙美子「放浪記」や産経ニュース掲載のマリファナについてのコラム、あるいはフローベールの小説「ボヴァリー夫人」などについて)から推察すれば、それなりの著者の好みや定番メニューというものが見えてこないこともない。

 当ブログのおける「読書」は、実は、読書が先にあるのではなく、「図書館利用」が先にある。だから、本は購入して読むべきだという著者における「読書」の意味とはまったく違ってくる可能性がある。

 そしてその読書のアウトプットとしての「ブログ」があるのであり、(いや、ブログ機能が先にあり、その機能を利用するために「読書」を利用したというのが正しいか)、この本でいうところの「読書術」とは、かなり意味合いが違ってきそうである。

 良い本を読み、良い文章を書く、というだけでは「ブログ」にはならないし、そもそも、そこに論点はないだろう。自分なりのポジションなりオピニオンなりを持たないと(つうか、読書をしていると、自然とそれを持たざるを得なくなると思うが)、閑散とした不人気ブログとは言え、長期間続けることはできない。

 あるいは、時には、「わざと」本や著者を「悪しざま」に評価し、ネタを持続するというテクニックもないと、書いている自分でも飽きてくる。だから、この本と、当ブログを今すぐ直結して、どうのこうのとは言えない。「読み」と「書き」と、それから何かある。

 著者にはいくつも他書があり、たまたま(ってわけじゃぁないが)、私の手元には今、「だまされない<議論力>」(2006/08 講談社)や、「世の中がわかる『○○主義』の基礎知識」 (2007/07  PHP研究所)なんて本もあるので、それらにも目を通してから、再度、この本に戻ってくるのも、悪くあるまい。

 亡くなった友人の通夜で初めてであった時、私の連れはさらにもう一人の古い(しかも一番身近に住んでいて交流が多い)友人だった。彼があとから、この著者を評して表現するに、「ひさびさにすごい目をした男に会った」と。

 眼鏡の奥に確かに目はあったと思うが、そうだっかなぁ。「いや、すごい。ひさびさっていうか、ひょっとすると、あんなに目に力がある男とは初めて会ったかもしれない」。 と、私の連れは会場を後にしてからつぶやいた。

 たしかになぁ。目つきが悪い(すみません)。出会いからによっては、こんな男とは友人や知人になりたいと思わないかもしれない。私が一介のセールスマンで、「こんにちは」なんて、ドアツードアで訪問して、でてきた男に、こんな目で睨まれたら、う~ん、ちょっと困る。すぐ隣の家に向かう、というより、もうその町内はあきらめて、次の町にすぐ移動するかもしれない(例えばの話だけど)。

 あるいは、電車で座った席のちょうど向かい側から、この男がずっとこちらを見ていたとしたら、目的地に着く前に、手前の駅で降りてしまう(なんてことはないだろう)、なんて想像してしまうほどだ。

 著者は若い時分(いや、今もかも)、演劇活動をしていたようだから、ひょっとすると何かの映画にでもでてくるとしたら、やくざ映画がぴったりだろう。いや高倉健ほどの配役ではなくても、例えば月曜テレビドラマ定番「水戸黄門」あたりででてきても、決して「善玉」ではないだろう。

 長身で細身、あの目つきは、そうだなぁ、地方の悪代官よりも、もっとニヒルで非道な感じさえする(再び、すみません)。道中をさまよう素浪人というには「気」が入りすぎている。まぁ、言って見れば、「密命」を帯びている「殺し屋」ってところだろうか。

Su7

 そういえば、わが愛すべきティラノサウルスSueの目と何か通じるところがあるのではないか。と、庭のリゾートで、「チキンの骨でティラノサウルスを作ろう」プロジェクト進行中に、思った。

<2>につづく

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「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<4>

<3>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<3>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 大人の週末工作、あるいは夏休み自由研究プロジェクトも、その名に恥じず、なんとか夏休みのうちに終了しそうだ。

Su1_2

 若干のこまかい仕上げは必要となるが、あまり手を入れずに、荒々しいままのほうが、リアリティがあるのではないか。

Su2

 スケールは20分の1。おおよその大きさや骨の数、位置、などなど、今回のプロジェクトでは、自分の可能な範囲では、できることをした。(細かい疑問点はかずかずあるが・・・)

Su3

 頭骨だって、スケールの割には迫力があるじゃん。今回は、まぁまぁ、納得。

Su4

 全体のプロポーションはかなり崩れているが、今後、眺めているうちに、自然と全体に一体性が出てくるだろう。微調整が必要だね。

Su5

 表から見ても、裏から見ても、制作者としては、まずまず惚れ惚れする出来栄えだ。

 Su6

 ティラノサウルスSueの記憶と共に、ひと夏のページが過ぎ去っていく。

<5>につづく

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2013/08/14

「いい文章には型がある」 吉岡 友治

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「いい文章には型がある」
吉岡 友治 (著) 2013/03 PHP研究所 新書 208ページ
Total No.3079 ★★★★★

  最近、古い友人たちが次々に亡くなっていく。もっと年配者たちに言わせれば、このようなことは、10年周期で起こるらしい。60歳、70歳、80歳、そして90歳と、固まりになって、友人知人の葬儀が続くという。

さて、私の場合はどうであろうか。たしかに、続くときは続く。近親者の葬儀が続く時、後から数えてみると、1年足らずの間に7回続くのである。人間界の転生は、グループで行われることもあるらしく、一つのグループが連鎖反応のように雪崩をおこすように、消えて行く。

   このところ、私は、2回、友人の葬儀で弔辞を読んだ。一人は小学生からの同級生で、あとの一人は高校時代からのつながりである。弔辞を読む役割はそう多くないので、彼らは私という人生において、かけがいのない、極めて大事な友人たちであったということになる。

さてこの本の著者は、ごく最近亡くなった友人の葬儀の時に、まず一人目の友人として弔辞をあげた人物である。高校時代からの友人だというから、付き合っていた期間は私とほぼ同じ45年間ほど。私はこの人を存じ上げていなかったが、一人の友人を介して2次のつながりで、このような方とずっと以前からネットワークが形成されていたということになる。

  彼は、大学を卒業後、進学も就職もしなかったという。時代は1970年代中半である。私もまた、高校卒業後、進学も就職もしなかった。何だか、どこか似ている気がしないでもないが、あちらは天下の東大卒業後の話であり、その後やがては、シカゴ大学とかに「進学」されたのだから、地方の進学校リストの片割れにかろうじてひっかかっているような高校の卒業生である私などとは比較にならない。

  しかし、初対面でありながら、どこか深い親近感を感じたのは、もちろん古い友人の取り持つ縁があったにせよ、同じ時代を同じ世代として生きてきたという共通の基盤があったからだろう。そして、彼もまた若くしてインドを旅したということだから、いずれは何処かで触れ合う縁があったということになろう。(彼はバリに別荘を持っているらしい)

  文筆業として著者には40冊ほどの著書がある。出身地である地元の図書館には5冊所蔵されていた。この本はそのうちの最新刊となる。

若くして竹内俊晴演劇研究所に関わりを持った著者は、一時岸田戯曲賞を目指したこともあったようだ。この本は、手っ取り早く言えば、受験生のための小論文の書き方指南、と言えそうだ。かつては代々木ゼミナールの教壇に10年以上立っていたということだから、当たらずとも遠からず、にちがいない。

 この本、ベタなタイトルで、とっつきにくいかな、と最初はおもったが、どうしてどうして、洒脱で気が利いていて、今風であり、引用文などから察するに、著者は当然のことながら幅広い教養の持主である。 

文章には、主張型、ストーリー型、直感型、の三つの型があるという。早い話が、科学的論文、小説などの文学作品、自由な随筆やエッセイ、という3パターンをイメージするとわかりやすい。

 この分類を当ブログ流の3コン論としてとらえなおして見るのも面白い。コンテナとしての科学論文、コンテンツとしての文学的アート、コンシャスネスとしての神秘的(?)エッセイ。 

そもそもがこの本は、文章の書き方指南な訳だから、この本自体はコンテンツとしてのアートに関わるところが主題であろう。

 「いい文章」にめぐりあうことは楽しいことだが、カウンセラーとして訓練を受けた私などにしてみれば、人の表現物は必ずしも「いい文章」ばかりとはいかない。むしろ表現されず、本人に自覚さえされていない本質を見抜かなくてはならないこともしばしばである。

著者には他の著書も多い。他の本にも触れたあと、またこの本にも戻ってきてみよう。

 今日は近くの菩提寺に行って、盆供養の卒塔婆を受け取ってきた。友人は亡くなって間も無く、まだ三七日が経過したばかりだ。初盆というには、あまりにも早すぎるが、故人を思い出しつつ、今では一次つながりになった方の著書を開いて見るのも、なかなか意味深い。 

つづく・・・・予定

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2013/08/13

「ティラノサウルス」小田 隆/作絵

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「ティラノサウルス」

小田 隆/作絵  真鍋 真/監修 2005/03 金の星社 大型本: 51ページ 
Total No.3078 ★★★★★

 当ブログにおける、大人の週末工作、あるいは夏休みの自由研究「チキンの骨でテラノサウルスを作ろう」プロジェクトは、はて、どこまで進んだであろう。

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 前回の「地球ザウルス」と、遠目にはあまり変わらない状態だが、実は大いに違う。実際の資料をもとに、かなりリアリティを込めて制作しているのである。骨の数、向き、それぞれの骨のパーツと位置、20分の1スケールだから、12mの「スー」は60センチの全体骨格モデルとなる予定である。

 一番の売りは頭骨であるだろうから、今回はかなり手を入れた。実際には決定版というものもなく、学術的研究もまた不完全なまま進行中であるだろうから、まあ、こちらも、それなりの精密度で先を急ごうと思う。

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 先を急ごうと思う理由は、このティラノサウルスの次に、プテラノドンの全体骨格モデルを作ろうと思っているからだ。およそ7~9mのプテラノドンは20分の1スケールで言えば、35センチから45センチ程度、それほど難しくはなさそうだが、その材料を集めるのが難しそう。少なくともチキンの骨だけ、というわけにはいかないのではないか(今後検討を要する)。

 しかし、なぜにプテラノドンなのであろうか。この本はイラストが中心になっている本だが、細部にわたって精密である。制作上、とても参考になる。この本のイラストの中にも、非常に印象的にティラノサウルスとプテラノドンが対比してある(p22)。

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 聞けば、プテラノドンは翼竜であり、翼竜一般は「恐竜」とは見なされていないという。骨盤の形や進化のプロセスによって、大きく分離されているのだが、それではなぜに、これほどまでにティラノサウルスとプテラノドンは互いを補完するように掲示され、並び称されるのであろうか。

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 なにをして、人はここまでティラノサウルスとプテラノドンを対峙させようとするのだろうか。

 Pen Books「恐竜の世界へ。」 では、「アフターマン」(1980年)などの著書のあるドゥーガル・ディクソンが紹介されている。当ブログにおいても、何冊か取り寄せてぱらぱらめくってみたが、極めて興味深い部分があった。深く読み込んだわけではないので精確ではないが(そのうち、やはり、読んでみよう)、人間の空想性というよりは、存在の「創造性」というにふさわしいインスピレーションである。

 つまり、いくつかの生物進化の過程において、他の種が死滅すると、他の生物系統が、その「空欄」を埋めようとする、ということらしい。つまり、爬虫類や哺乳類、恐竜類が、それぞれに似た系統の進化をそれぞれにしている、ということらしい。

 つまりだ、私がここで言いたいのは、空にはやっぱり、なにか飛翔物は必要なのだ、ということだ。それが鳥類であろうと、翼竜であろうと、あるいは昆虫であろうと、爬虫類であろうと、とにかく、なにかが「飛ばなければならない」のだ。

 そもそも、「恐竜」が科学的に証明されたのはこの数百年のことであろう。そのはるか昔から、人類は、「龍」を想起してきた。そこには、なにか「龍らしき」ものがどうしても必要だったのだ。人類がそれを想起する前に、存在ははるか昔に、具体的に「恐竜」たちを、人類などよりはるかに長く「存在」させていた。

 そもそも「恐竜」についての情報が人類のどこかに潜んでいて、「龍=ドラゴン」がどうしても人類の創造性の中に現れざるを得なかったのではないか。それがようやく「科学的」に発掘され、系統づけられるようになってきた。

 ティラノサウルス VS プテラノドンの対峙を考えていると、東洋に古代からあるイメージ龍虎の闘い、を連想する。虎には、どうしても龍が必要なのであろうし、龍もまた虎を必要とするのだろう。

 さて、ティラノサウルスとプテラノドンでは、「恐竜」とされているのはティラノサウルスのほうだが、龍虎で言えば、当然、空を飛翔するものこそが「龍」なのである。脱線ついでに言えば、当ブログとして追究すべきなのは、ティラノサウルスではなくて、むしろ、プテラノドンなのでないか。

 地球が「球」なのは、中空に浮かんでいるからである。浮かんでいる空間の広がりは、その「球」に比較することさえ不可能なくらいの広がりがある。大地とは言うものの、せいぜい、宇宙の中のたった一つの星の表面にすぎない。下降する、根づくエネルギーは、せいぜい、ちいさな星の中心へと向かう求心力にすぎない。それに比較すれば、無限大にひろがる「空」に飛翔するということは、無限大へ向けての爆発力なのである。

 翼竜とはいえ、あるいは鳥類とはいえ、空高く飛んだからと言って、地球の重力圏を振り切って上昇していったわけでもないし、その表面の空気層を滑空しているにすぎない。無限大に飛翔することなどできない。それは「かもめのジョナサン」でも同じこと。重力を振り切って、地球圏から脱出している、という意味では、現在の地球人のほうがはるかに進化している。

 ここで、より明確にしておきたいのは、とにかく、存在はすべてを準備しているということだ。なにかの「空欄」があれば、他の何かの手段を使ってでも埋めるだろう、ということ。「ムーからやってきた天空の龍」を、「パンゲア大陸からやってきたティラノザウルス」という言葉に置き換えた場合、そのティラノサウルスは、本当は天空を飛ばなければならないだろう。

 もっとも、この単語群自体めちゃくちゃである。ティラノサウルスは白亜紀の生物であり、その頃にはすでにパンゲア大陸は分離し始まっていた筈であり、これでは、いろいろと矛盾に含んだ単語群になってしまっている。

 いずれにせよだ。ここで問題なのは、ティラノサウルスでもなければ、プテラノドンでもない。天空へ飛翔する「龍」的なものについてなのだ。もし、そこに恐竜もなければ、翼竜もない、その状態で、存在はいったいそこに何を準備していたのだろうか。

 以上は、カッターナイフやピンセットをいじりながら、勝手に頭に浮かんできた思念をメモしたものである。後日、もう少しブラッシングしよう。ここには、当ブログとしての大事なミッシングリンクが隠されているように思える、のだが。

 

 

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2013/08/12

「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線<3>

<2>よりつづく


「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)<3>
 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 単行本・ムック 140p

 夏休みの自由研究「チキンの骨でティラノサウルスを作ろう」プロジェクトは、遅々として進まない。一番の理由は、夏休みに一歳児、二歳児の孫たちが遊びにきて、じいさんは彼らと遊んでいるほうが楽しい、ということにある。

 しかもプロジェクトのステージが細かい作業に突入しているのだ。チキンを買うとか、煮るとか、食べるとか、骨を取り出す、なんて作業なら、孫たちの目の前でもできそうなものだが、話しはもっと込み入り始めている。

 ティラノサウルスだから、まずは頭骨が気になる。アパルトザウルスなら頭骨の比重も少ないし、適当に創作して「アバウト」ザウルスとして処理もできるが、T-Rex様はそうはいかない。

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 20分の1スケールだから、それほど細かくはできないが、それでも、いろいろ調べていけば、ひとつひとつが気になってくる。

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 最終的には、この歯茎に爪楊枝で作った歯を上下40本埋め込むことになる。この作業もなかなかデリカシーを要する。

 それでも頭骨なら、後から修正も効くし、最終的に取り付ければいいことだ。最も手始めに考えなければならないことは、支えの針金を何本にするかだ。後足だけで歩行したティラノザウルスだけにできれば一本の針金で固定したい。

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 となれば、このTの字の接点は針金をねじ曲げたばかりではなく、ハンダで溶接しなければならないのではないか。そもそも、ハンガー針金のビニール被膜は付けておいたほうが、長期的にはさびないし、骨への影響はすくないのではないか。(この画像の頭骨の部分は、木製の試作モデル)

 仮に一本針金固定となった場合、どの脊椎にさすのか。腸骨のちょうど中心になる部分であろうが、そうなると、今度はバラバラに集めてきた60個ほどの脊椎の、精確な並べ替えを行わなければならない。

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 この順列がなんとも悩ましい。そもそもが数羽のチキンの総和だが、ひとつひとつが個性を主張する。大きさ、向き、上部の突起、下部の血道弓、そしてもともとはくっついていた肋骨をうまく元通りに復元できるかどうかが大問題である。

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 さらには、チキンの肋骨は胸骨側からもう一本の肋骨が伸びて軟骨で接続されているが、ティラノザウルスの肋骨は、一本一本が長い。だから、チキンの肋骨を、胸骨側の補助肋骨と接続して、あたかも一本のように偽装しなければならないのだ。片側12本、全部で24本だけだから、いざとなればそう難しそうでもないが、想いを決めるまで時間がかかる。

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 脊椎の部分も、なにはとあれ中心骨を決めればそれでいいわけだ。ところが、その周辺骨である座骨や恥骨は一体どのように脊椎や腸骨と接続しているのだろう。チキンの腰をよく見比べても、分からないことが多い。

Photo_10

 座骨や恥骨そのものを形として作りこむことは、残った骨を使えばそう難しいことではなさそうだ。

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 あと細かいところは、じっくり作り込めばいいだろう。

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 足先の中足骨や趾骨は、結局後回しだが、まぁ、作れないこともないだろう。まぁ、ここまでは、夏休みの自由研究としては進んだというわけだ。

 さて、完成までどのくらいかかるだろう。夏休み中に終わるのだろうか・・・・・?

<4>につづく

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2013/08/11

「Sue スー」  史上最大のティラノサウルス発掘 ピ-タ-・ラ-ソン他 <3>

<2>からつづく

ピ-タ-・ラ-ソン&クリスティン・ドナン著 冨田幸光監訳 池田比佐子訳  2005/03 朝日新聞出版 単行本 464p

 結局、著者と著者の研究所は有罪となり、スーを発見し、発掘し、学術調査をしたにもかわらず金銭的にはマイナスとなった。スーの所有権は土地の所有者だった個人のものとなり、ザザビーオークションに委託されることになった。1997年10月、スーは836万ドル(およそ10億円)で、マクドナルドとディズニーによって落札された。

 後半3分の1のほぼ半分は、その裁判劇の終末の報告であり、最終部分においては、なぜ6500万年前に恐竜の時代は終わったのか、という考察に至る。

 さまざまな推論がなされたものの、地球外からの飛来物が地球全体に大きな影響を及ぼし、当時の生命体の4分の3は絶滅した、ということが、科学的に証明され、現在では定説化している。

 恐竜→ティラノサウルス→スー、というプロセスで読み進めたこの本だったが、話題はスーにとどまらず、現在の地球上の生物である人間たちの物語となった。そして、恐竜一般の分布図におよび、その絶滅原因に思案はおよび、返す刀で、絶滅に「瀕する」人類への警告へと展開しつつあった。

 巻末には貴重な資料が付録として50ページ弱が展開されている。分かったことは、現在のところ「決定版」ともいうべきティラノサウルスは存在しておらず、すべてにおいて曖昧性が残っている、ということだった。

 チキンの骨で恐竜を作ろう、というプロジェクトにおいて、細部に渡れば、さまざまな疑問が湧きあがり、この部分はどうなっているのかという疑問は次々起こってくるが、ある程度のところまで行けば、あとは、それぞれの想像に任されている、ということになろう。

 ところで、途中で気づいていたとはいうものの、プテラノドンなどの総称である翼竜類はどうやら「恐竜」には属していないらしい。現代地球の鳥たちは恐竜の子孫であるということにされているが、つまりそれはプテラノドンなどの翼竜の子孫ではないということでもある。つまり、プテラノドンなどの方が現在の鳥類に近いということになる。

 だから、チキンの骨でティラノザウルスの骨格モデルを作ろう、というプロジェクトにいささか以上の正当性があるとしても、チキンの骨から翼竜プテラノドンを作ろう、というプロジェクトは、どこかで挫折する可能性がある。特に腰骨あたりや脚などについてであろう。

 となると、恐竜の中にその「飛翔性」を求めるとするならば、翼竜類を追いかけるよりも、ティラノザウルスや他の地上の恐竜類の中の鳥類への進化のプロセスやその可能性、あるいは因果性を精査していくことのほうが大事、ということになるのかも知れない。

 当ブログにおける「天空に現れた龍」とは、翼竜でもなければ、鳥でもなく、また当然恐竜でもない。恐竜の中にある「進化の可能性」ということになれば、話題の局面をいささか以上に切り替えていく必要性があるようだ。

 

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「嗚呼!! 水平線幻想」 伊東竜俊戯曲集1<4>

<3>よりつづく 

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「嗚呼!! 水平線幻想」 <4>
伊東竜俊戯曲集1 1980/06 カタルシス社 単行本 372p 
 

 当ブログとしてはめずらしく、ひとつの記事に三つの書き込みがあった。身元不明の誹謗中傷的な内容は、当ブログとしては必ずしも歓迎はしていないし、2ch的展開は、いささか体力を消耗するので、普段はありがたく受け取るのみで、即レスは避けている。

 今回もそうしようかなとも思ったし、すでに何度か異なった場所の書いておいた内容だが、これを機会に自分なりにまとめておくのも悪くないかな、と若干のレスらしきものをメモしておく。

 嗚呼水平線幻想ってかなり前に出版されてますね。でも右翼的のような左翼的な作品でした。昔持っていましたがごみ箱へぽいでした。  投稿: さかな | 2013/08/09 12:41 

 さかなと称する「身元不明の人」の書き込み。この本を「持っていた」ということだから、著者のなんらかの関係者か、よっぽどの「物好き」な人なのだろう。

 私が伊東竜俊の唯一の上演された芝居に参加したのは1977年9月のこと。インドへの旅の資金調達のために印刷会社で働いていた時、社長の甥である著者が、芝居のチラシやポスター印刷のために訪れた。

  それをきっかけに、彼は私の高校の同窓先輩(同時期に在籍したことはないが)であることもあり、どういうわけか、彼の芝居団に役者として「強引」に巻き込まれた。私は石川裕人の芝居には長く関係していたが、役者として誘われたことは一度もなかったので、一度は、やってみようかなと思ったのかもしれない。あるいは、当時の石川の「洪洋社」的芝居にアンチテーゼを出してやろうという、ちょっとした「ちゃめっけ」もあったかもしれない。

  私の役は、ステージ上で「右翼的」アジテーションをぶちかます裸の少年の役だったが、伊東竜俊の人間関係から考えればほぼ「左翼的」人間であっただろうことは間違いない。最晩年に、吉本隆明の死を悼み墓参りしようと言っていたくらいだから、そう理解していいだろう。

  私自身は、一度はアングラ系のステージに立つという体験も悪くはないとは思いつつ、その芝居には納得するところは少なかった。どこかにすでに書いたので、詳しくは繰り返さないが、練習中に雷雨を伴った稲妻が街を覆った時、あの稲妻を、このステージに載せることができるなら、あなたの芝居に一生付き合ってもいいよ、と伊東竜俊に言ったことを、私は強く記憶している。

  それから数年経過した1982年の夏、私は、オレゴン州の大きなコミューンにおいて、まさにあの稲妻をステージに載せることができる人物を再認識し、ひそかにこの人物と「一生付き合う」ことを改めて誓った、という経緯もどこかに書いた。 

 この本が脚本集としてでたのは1980年のことであり、芝居そのものは1977年であった。当然、脚本と芝居そのものは、まったく次元の違うものであり、私は彼の芝居の「芸術性」の中で、私なりの「芸術」性を熟成していったことは間違いない。だから、彼の芝居には大いに感謝している。 

  昨年末2012年12月の伊東竜俊の葬儀の時、その友人の弔辞で知ったことだが、あの演劇が上演された時、伊東が勤務していた高等学校では学園祭が開かれていたという。本来であれば、教師は自らの勤務校の行事に参加すべきであったが、勤務を休み、自らの劇団上演を優先したのだった。 

  当時の教頭に伊東が休暇願いを出した時、その学校に勤務していたその友人が言うには、その教頭は、「伊東先生、好きなことは若い時しかできませんよ」と、激励して送り出してくれたという。 

  私はこの本を「持っていた」ことはないが、近くの複数の図書館に所蔵されているので、読もうと思えば、今ならいつでも読める。このブログの書き込みに使っているこの本の画像は、書き込み当時のネットオークションにでていた一冊の画像である。このオークションは、私の親友が「落札」して現在所有している。まぁ、彼にとっては、極めて貴重な資料となる。 

  ごみ箱へぽい、するかどうかは、受け取り側の自由なのであり、それもまた「芸術」の扱われ方の可能性内であろう。私は、別な時、ある印刷物が気にくわなかったので、受け取ったあとに、すぐバラバラにして、シュレッターにかけてしまったことがある。私にはそれはごみ箱すら許せない、憎々しい表現物だった。 

 伊東竜俊丸って古川黎明や岩出山や古川や宮城広瀬や塩釜や宮城広瀬や黒川や田尻で国語教えた悪名高いペテン師の教師だな^o^飲酒運転やスピード違反の名人です・・・大和町の恵自動車で飲酒運転の車レッカー移動していますよ!だって僕黒川高校のOBで恵動車の従業員だったから分かるんですよww 投稿: かつぼ | 2013/08/09 15:18 

 彼の勤務校について、私は全部知っているわけではないが、いくつかは該当しているので、上の情報は、まんざら信用できないものではないだろう。元勤務校OBで、K自動車の従業員であったというこの「かつぼ」さんの意見は意見で、なるほどと思わないわけではない。

 ただ、彼の劇団に参加していた数ヶ月の間、彼が「酒くさい」ということはなく、アルコールに依存している人間風には思えなかった。彼はまだ26歳くらいだったろうし、(私は23歳)、新陳代謝が活発だったので、アルコールの分解も速かったかもしれない。

 しかし、昨年2012年10月の石川裕人の葬儀の時は、近づいただけでアルコール臭かった。久しぶりに会った彼に私は直接言った。「ちょっと酒臭いね」。すると彼は「ニュートン(石川裕人)が死んだのに、飲まないでいられますか」。なるほどね、そういう言い方もあるか。

  この話を、幾人かの友人たち(たとえば絵永けい)に話してみると、ほとんどの反応は「あの人、いつもそうなのよ」というものだった。アルコール依存度はそうとうに進んでいたのではないだろうか。

  PTA役員をやっている時代、ひとりの体育教師が飲酒運転をして事故を起こし、全国ニュースになってしまったことがあった。通常人でも泥酔運転はご法度だが、教員の事故となれば職業倫理上も大きなスキャンダルとなる。PTA役員のひとりとして私は減刑嘆願の署名活動を行い、数日で1000名の署名を集めたことがあるが、もちろん、そんなことで減刑できるような事件ではなかった。

  きれいごとは私にも言えないが、やっぱり私とて職業倫理上においても飲酒運転は重罪である。そいう可能性を想起されること自体、まずいよなぁ。

  最近は私たち世代も還暦も迎え、次から次へとかけがいのない友人たちを失い始まっているが、どうも酒飲みから死んで行っているように思えてならない。酒なくしてなんの人生ぞ、とは言うものの、酒の飲み方は工夫しないと長生きはできないのではないか。

  もっとも、自然食品レストラン経営者で、ベジタリアンの加藤哲夫のような人も還暦を越えてあっという間に亡くなっていく訳だから、必ずしも酒ばかりを責めるわけにはいかないかもなぁ。

 あっこの人が芸術的的な事は有り得ませんね(・・;)伊東竜俊丸こと伊東俊は黒川高校で一緒に教員をしていましたがデタラメ教員ですよ。いつも酒臭く教え子に酒を飲ませたり授業もはちゃめちゃで評判悪かったですね(-_-)昔のドラマ伝説の教師のような性格でした。でも退職して良かったですo(^-^)o  投稿: 加美の整体師 | 2013/08/10 09:07 

 かつての同僚で、加美地方の整体師ということなので、分かる人には分かる存在であろう。私とて調べようと思えば調べられないこともないが、そこまで追っかける気にはならない。まぁ、こういう書き込みが一番自己満足的であり、書きこまれた方としては、読むだけ時間の無駄、ほとんど意味はない。 

  人のことをデタラメというなら、自らもまた「退職」していることの意味性をキチンと受け手側にわかるように書かないといけない。あなたが「退職して良かった」と思っている人もいないとは言えない。

 別なところにも書いたが、いつの間にか、石川裕人と伊東竜俊も若い時代に運命の出会いをし、その後、生涯の友であり続けたらしい。石川裕人の葬式に参列した伊東竜俊は、自宅に帰って大きく嘔吐して体調を崩し、そのまま2ヶ月後には亡くなっている。 

  彼らがやった仕事が「芸術的」的であったかどうかなんてことは、私にとってはほとんど意味はない。少なくとも身近に生きていた友人たちが、積極的な表現者たちであり、多くの人々の記憶にとどまり、多くの関わりを残してくれた、ということだけで、私は満足であるし、感謝している。 

 また、逆説的ではあるが、私の身近にあり、大きな関わりと影響を与えてくれた友人たちの表現物について、私自身は、これらを「芸術的」的であった、と評価しなければ、ナニを「芸術」と言えばいいだろう。 

  石川裕人の作品については1995年のオウム真理教を皮肉った作品において、私は一時見切りをつけた。私の人生観とは大きく違った方向に向かっていた。 

  しかし3・11後において、被災地を回る慰問芝居の中で、石川裕人は、そのステージに「地震」そのものを乗せることができた。(このことについても別な所に詳細をのべた) 

  私の人生において、彼らが存在したことは、大きな収穫であったし、かけがいのない想い出をたくさん残してくれた。感謝している。彼らが存在していなかったら、私の人生の中で、決定的な何かが欠落してしまったことになる。 

  以上、未整理のままだが、3つの書き込みをきっかけに、自分なりの想いをメモしておいた。

<5>につづく

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2013/08/10

「Sue スー」  史上最大のティラノサウルス発掘 ピ-タ-・ラ-ソン他 <2>

<1>からつづく

ピ-タ-・ラ-ソン&クリスティン・ドナン著 冨田幸光監訳 池田比佐子訳  2005/03 朝日新聞出版 単行本 464p

ようやく3分の2ほどまで読み進んできた。もともとハードカバー本を読むのは得手ではないが、思ったよりも時間がかかる。最初は、単に恐竜モノとして、漠たる好奇心でこの本を手にしたものの、米国サウスダコタ州の荒野でショベルカーや削岩機を使って行なわれる古生物化石の発掘作業が、わがチキン骨恐竜工作のカッターナイフとピンセント作業とどこか連動していて、物語の中にハマっていったようだ。

 最初の3分の1ほどは純粋な化石発掘作業なのだが、中盤になってくると、裁判や法廷闘争の物語となってくるのは、苦痛である。アメリカにおける法律問答は、日本におけるそれとはいささか趣きが違うので、あまりためにならないが、どこかオレゴン州におけるコミューン活動とその法律問答(「Osho アメリカへの道」)を連想させ、現代アメリカ人のマインドを浮き上がらせるので、興味が湧かないわけではない。

 しかしながら、ここにおける「恐竜」と「現代アメリカ」の「対峙」は、「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」における、「大自然」と「現代人」との「対峙」に似ていて、その距離感が、どうもうまく調整されていないのではないか、と思われる。

 ティラノザウルスの「雌」スーの骨格化石のほぼ80%という、超一級の資料を発掘することができた著者たちは、もともとの地主、そしてその地主が属するスー族、そして連邦政府から、それぞれ、その化石の所有権を主張され、法廷に立つことになる。

 そもそも、化石発掘を専業とするビジネスがあること自体驚きだが、訴訟地獄に陥った彼らの資金源を援助したのが、日本のテレビ局をはじめとする日本人による「恐竜熱」であったことを再認識するに及んで、ますます、この「対峙」劇の滑稽さと深刻さを痛感することになった。

 直観的に言えば、6500万年前に絶滅したはずの恐竜たちの骨格を発掘し展示するというアートは極めて魅惑的ではあるが、どこか間違っている。映画「ジュラシック・パーク」のエンターテイメント性を笑うのは簡単だが、科学や学術という名のもとに、いきなり6500年前以前に飛んでしまうことは、当ブログとしても、いささか控え目にしなければならないのだろうと思う。

 気が付いてみると、世の中は夏休みである。巷には、夏休みの子供たちの「自由研究用」の恐竜情報が氾濫している。そういう目で見てみると、街には「恐竜グッズ」が山積みにされているのだった。

 精巧なゴムで作られたフィギュア、メタルで作る恐竜工作、4分の1スケールの頭骨スケルトン、博物館に美術館や科学館における恐竜グッズの展示。いやはや、これだけの氾濫に、私はどうしていままで気づかなかったのであろうか。

 わが「夏休み」の「自由研究」である「チキンの骨でつくるティラノサウルス」の制作も、多忙にまかせて中断したままである。夏休みが終わるまでには、完成させたいものである。限りなく完成度を高めたいとは思うものの、どこかで手を打たなければ、収拾がつかない工作として、中座しかねない。

 しかしである、そもそもが当ブログにおける「ムー大陸から飛来してきた天空の龍」を、「パンゲア大陸からやってきたティラノサウルス」と読み替える作業としての、現在の「恐竜追っかけ」であれば、ここは、多少の紆余曲折があったとしても、慎重にことを進めていかなければならない。

 まずは、この「対峙」感であろう。「恐竜」が「現代人」を魅了するもの。そして「恐竜」が「現代人」に対してつきつけているもの。この二つのベクトルを、当ブログなりに理解し、咀嚼することが、今後の課題となる。

<3>につづく

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2013/08/07

現代建築家による“地球(ガイア)”建築<3>

<2>からつづく 

【送料無料】現代建築家による“地球”建築
「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」<3>
乙須敏紀 2008/11 ガイアブックス/産調出版 単行本 287p

 「男のロフト主義。」まで、話しが現実に舞い降りてきたところで、思い出すのは、こちらのガイア建築の一冊。こちらもまた、全体が啓発的ではあっても、お気に入りに建築や画像はそう多くない。

 あえて思い出すのは、この一枚。

Gaia

 建築の本なのに、この画像一枚では、ほとんど建築らしい建築は感じられない。むき出しの木製の床に、やや薄暗い部屋を、すっぽり切り取ったようなスクエアな全面的な窓。そこに立つ男ひとり。

 この画像が痛く心打つのはなぜであろうか。

 まず気づくのは、この大自然と人間空間の距離感、対峙感である。そこにあるのは、公園や植林された屋敷林ではない。そこにはコンパクトではあるが、むき出しの大自然がある。そして、眼下に広がる湖がスペースの奥行きを感じさせる。

 どこかのマンションからの眺めでもないし、すぐ近くにホテルやモーテルの看板が見えるようにも思えない。この小さな窓から見えるのは、決して小さな風景ではない。その背後に広がる、手付かずの大自然を予感させる。

 もし、これが単に風景画像だったとしたら、ごくごくありふれたものとなるだろう。めずらしくもなんともない。しかし、これはちゃんとした建築物の窓からの風景なのだ。キャンピングカーからの「一時的」な眺めでもない。

 この窓を通じて、人間と大自然は、対峙している。

 この緊張感に、心打たれるのではないだろうか。

 人はこれほどまでに、大自然と「対峙」すべきなのだろうか。一体全体その必要性はあるのだろうか。この画像からはっきりと排除された「生活感」。ここは人間が生活する場所でもない。ただただひたすら、大自然と対峙するスペースなのだ。

 世界中を覆っている喧騒から離れたいと、所有者である新婚の夫婦は、サンティアゴから1000km離れた深い原生林の中に彼らの避難所を建てることを決意した。しかし当初の空想的な衝動が具体化するにつれ、孤独感に襲われるのではないかと2人は心配し始めた。

 2人の気持ちを理解した建築家が提案したプランは、住居はかなり高さのある簡潔なモノリスとし、広い開口部をできるだけ多く取るというものであった。四方に開かれた窓からは、それぞれに異なった雄大な景色が眺望でき、昼間は、ほとんどどこからか日光が家の中に射し込む。p12「リヴォ・ハウス 森に潜む」

 新婚さんであれば、確かに世界中の喧騒から離れて2人だけになりたい、と思うのは当然であろう。だが、それは、現実の原生林である必要があるのだろうか。

Gaia2

 ここには、車が入っていく道路も見つけることができなければ、ライフラインを外部から取り入れているつながりもまったく見えない。まるでヘリコプターでコンテナを空中から運んできて、ちょこんと置いたようにさえ見える。

 湖の側の森の中の一軒家と言えば、ヘンリー・ディビット・ソローの「ウォールデン  森の生活」を連想する。

 人はいったいに、ここまで退却する必要があるだろうか。

 ソローにしたところで、その森の生活を一年数カ月で切り上げている。

 新婚さんとて、2人だけで、この空間だけで充足することはないだろう。

 ただ、この時思うのは、人は心の中にこのスペースを持っているのではないだろうか、ということ。それを、当ブログなどでは「瞑想」という言葉で呼んでいる。

 人は、この大自然との対峙感を大事にしながら、街に住む。男のロフト主義というものがあるとすれば、それは明らかにこの大自然と、瞑想と、つながっている。

 そして、生活のためにロフトには、meditation in the marketplace の香りがするはずなのである。

 この本にはたくさんのバリエーションが紹介されている。決してこのイメージ一辺倒ではない。しかし、ほとんどトップにこの建築が紹介されている限り、このイメージを大いに借りているのは確かなことだ。

 それに建築家たちを喜ばすような予算枠が大きく取れるようなプランが主であって、平均的な生活者には不向きなデザインがほとんどだ。

 しかしまた、この本全体のイメージが、街で暮らす時の「地球建築」に生かされるのであれば、やはり、この本の魅力は絶大である、ということになる。

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「男のロフト主義。」 Pen (ペン) 2004年 4/15号

「Pen (ペン)」 2004年 4/15号「男のロフト主義。」  阪急コミニュケーションズ; 隔週刊版 [雑誌]
Total No.3077 ★★★★★

 Pen Books「恐竜の世界へ。」を書店で手にした時、ふっと、雑誌「Pen」というものがあったことを、ほのかに思い出した。そもそも、その本は、雑誌「Pen」(2008年 5/15号)の特集を元に編集された本だった。雑誌としてのこの特集もぜひ読んでは見たいが、近くの図書館にはなく、オークションで入手するほどでもないか、と一時休戦状態になっている。

 そういえば、自分の手元にも何冊か雑誌「Pen」なるものがあるのではないだろうか、と見渡してみると、2002年12/15号「徳利・ぐい呑・酒注 人気陶芸家の酒器。」や、2008年9/1号「天才設計者が描いた完璧なるフォルム ポルシェの美学。」、そしてこの2004年4/15号「自由な空間を独占せよ! 男のロフト主義。」などがあった。

Loft
 バックナンバーの一覧を見てみると、全てが好みというわけではないのだが、中にはなにか、「男」の琴線をくすぐるフェロモンがホンワカと醸し出されている特集も何冊かはある。あの一連のセンスの中に君臨する「恐竜の世界へ。」特集号であったから、なおのこと、当ブログとしては、この一冊を取り上げることにしたのだった。

 この男のロフト主義、って奴、実はいつ手に入れたのかまったく覚えていない。リアルタイムで店頭で買ったのか、後で古書店で買ったのか、ひょっとすると誰か友人が置いていったのか(これはまずない)、定かではない。

 しかし、溜まる一方の雑誌類はどんどん捨ててきた我ライフスタイルの中にあって、少なくとも10年近く古い雑誌が残っているということは、かなり気にいった一冊で、捨てるに捨てられなかった一冊ということになろう。

 そもそも、次々と生まれるかわいい孫たちのために、わが事務所をキッズルームとして改造して開放して以来、我オフィス空間は、ビルトイン車庫へと押しやられてしまっていたのだ。電動シャッター付きとは言え、床はコンクリートだし、壁はむき出しのモルタルや断熱材のままである。

 出入り口も、被災した身内のアパートを取り壊す時にはがしてきたサッシ類で塞いだ、実に手作りのオフィスなのである。救いと言えば、天井が高いのが唯一の「美点」か。そのオフィスを、いつかなんとかしようと思ってきたのだが、最近、ようやく手を入れ始めることができた。

 ロフトと言えば、倉庫だ。天井が高く、どことなく薄汚れているが、自由に手を加えることができる気楽さがある。センスさえ良ければ、格安で、夢多き空間を作ることができる。思えば、我オフィス空間になろうとする、「元」ビルトイン車庫も、決して広くはないが、特徴を生かせば、結構「男のロフト主義。」へと展開していくのではないか。

 ロフトと言えば、梯子段があり、天井ファンがあり、ぶっきらぼうなグリーンが一つか二つ転がっている、という感じ。あとは、ごちゃごちゃ詰め込まないで、その広さを愛する、という感じだろう。

 そこに我オフィスには、必要なIT機器や、必須掲示物を加えればいいわけだ。いろいろ手を加えたので、なかなかいい具合に変貌中。近くのDIYショップから木材の床材を買ってきて、ドリルで全面床を張ったし、ショーケース類もひとまとめにして、一面に限定した。

 この雑誌を参考にしていると、いろいろイメージが湧く。うんうん、この感じ、いいじゃん。我オフィスと似ているじゃん、などと、うなづきながら、まあ、楽しみながら、いろいろ、「クリエイティブ」に体を動かしている、つうワケでござんす。

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今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電<4>  ニュートンムック

<3>からつづく 

【送料無料】今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電
「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」 <4>NEWTON別冊
ニュートンムック 2011/08 ニュートンプレス ムック 159p

 ようやく我が家でも太陽光発電システム導入へ向けて一歩大きく踏み出した。途中で、小さな「ソーラーチャージライト MA-551」で多少道草を食ったが、むしろこれからのエネルギーを考える場合、わが家では必須だと決断できた。

 今回大きく踏み出したのは、その他にも大きな理由がいくつかある。よい業者とめぐりあったことである。なに、昔から付き合いのある親しい会社なのだが、最近ようやく太陽光システムの業務を始めたのだ。しかもメインの機種は化合物系太陽電池CIS。その性能の是非はともかく、私自身は注目してきた。

 さらに、被災地であるわが家では、「り災証明書」を添付すると、なんと、最初の3年だけだが年利0.75%という嘘みたいな融資を受けることができることが分かったのだ。3年後以降も1.85%ということだから、今借りなきゃ何時借りるの、というチャンスではある。

 他の経済収支もまずまずのタイミングとなったことが大きい。詳しい収支計算は追々やってみるとして、まずは導入してみるしかないでしょう。

 南面に面した切妻の屋根を持ち、当面20年は引っ越す予定がないとなれば、太陽光を導入するには最適な条件と言える。販売工事会社の試算によれば、およそ7年で原価償却するということで、その後、条件つきだが20年間の保証付き。発電状況を細かく把握できるHEMS(ヘムス)の設置も魅力的。

 イメージとしては、向こう十年間の電気料金を前払いしてしまうという形だが、その間、自前の電気を使っているという安心感と、原発どころか化石燃料発電も使わないというエコ感覚は納得できる。その後は、このシステムは何年持つのか、その間により経済的なメリットもあるはずなのだ。

 自然相手なので、どれほどの発電があるのか、不安定要素は多い。自家消費電力も、家族環境が変われば大きく変わる。補助金制度もあり、何かと煩雑な計算になるが、まずは、今後もそのレポートを続けることにする。

<5>につづく

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だんボールでつくる「恐竜20」 滝口あきはる<1>


「恐竜・20」 だんボールでつくる <1>

滝口あきはる(著) 1994/04 星の環会 ムック p88
Total No.3076 ★★★★★

 なんとかのひとつ覚えで恐竜王ティラノザウルスばかり追いかけていると、どうしても片手落ちであることに気づかざるを得ない。そうしてようやく覚えた翼竜テプラノドンを側においておかないことには、落ちつかない雰囲気になってきた。

20130807_3

 チキンの骨で二体を作り始めてはいるのだが、どうも時間がかかる。それにあまりに華奢すぎて、子供たちの遊び道具にはならない。そこで、なにはとりあえずこの本を借りてきて、一対のセットを作ってみた。

 原本は段ボールで作ることになっているが、それではすぐに壊されてしまうので、事務所を改造した時に余った木材で作ってみることにした。なるほど、これはこれで雰囲気がでている。

 恐竜20とはいうものの、20種類の恐竜の名前を覚えるのはしんどい。あとわかるのは、エラが大きく張り出たトリケラトプスぐらいか。どれもこれもひととおり作ってみたくなるが、それでは、チキンの骨シリーズに戻れなくなる(笑)。

<2>につづく

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2013/08/05

「Sue スー」  史上最大のティラノサウルス発掘 ピ-タ-・ラ-ソン他 <1>

ピ-タ-・ラ-ソン&クリスティン・ドナン著 冨田幸光監訳 池田比佐子訳  2005/03 朝日新聞出版 単行本 464p
Total No.3075

 Pen Books「恐竜の世界へ。」(2011/07 阪急コミュニケーションズ)にあったティラノサウルスの全体骨格図を20分の1スケールに拡大して、スーパーから買って来たチキン丸鳥から採集した骨を基に、骨格モデルを作ろうとしている。

 ひとつひとつをじっくり見ていくと、いろいろと疑問が湧いてくる。一体、「正しい」ティラノサウルスの骨格図というものは存在するのであろうか。推察するところ、それはない。

 そもそも恐竜の化石が100%でてくることはほとんどない。通常は20%~40%ほどの化石が発掘されるだけで、あとは左右を対称的に補完したり、類似モデルから推測して全体像が作られているのだ。

 その中にあっても、この第一発見者スーザンの名前にちなんで名づけられたスーは、ティラノサウルスとしては珍しく全体骨格の80%程の化石がでてきており、まさに恐竜中の恐竜として人気が絶大である。

 この本は、そのスーを発掘した本人たちの記録である。ハードカバー本だけに情報量も多く、ゆっくり読み進めている。まだ70ページほど。

 それでも、あちこちに、極めて重要な情報を見つけることができる。ティラノサウルスの鎖骨は左右つながっていたのかどうか、腹肋(ふくろく)はスーの骨格モデルには書かれているが、スーの発掘現場からは発見されなかったとか、あるいは、12mのスーに対して、プテラノドンは両翼を広げた場合の全幅は7m程度であっただろうとか。

 限りなく精確に作ろうと思っていたのだが、そろそろ見極めの季節がやってきている。これは限りなく不可能なのだ。少なくとも6500万年前に死滅した生物の生態もまだまだ推測の域を出ず、モデル個体数も決して充分な量に達していないのだ。

 わが「地球ザウルス」がほとんど、無知で滑稽な(今となっては)姿をしているように、今ティラノサウルスを作ってみたところで、いつか振り返れば、やはり笑止千万ということになるに違いない。

 次のプテラノドン制作への足がかりをつかみつつ、そろそろティラノサウルス全体骨格の「組み立て」を始める時期が来ているようだ。

<2>につづく

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