<3>よりつづく

「嗚呼!! 水平線幻想」 <4>
伊東竜俊戯曲集1 1980/06 カタルシス社 単行本 372p
当ブログとしてはめずらしく、ひとつの記事に三つの書き込みがあった。身元不明の誹謗中傷的な内容は、当ブログとしては必ずしも歓迎はしていないし、2ch的展開は、いささか体力を消耗するので、普段はありがたく受け取るのみで、即レスは避けている。
今回もそうしようかなとも思ったし、すでに何度か異なった場所の書いておいた内容だが、これを機会に自分なりにまとめておくのも悪くないかな、と若干のレスらしきものをメモしておく。
嗚呼水平線幻想ってかなり前に出版されてますね。でも右翼的のような左翼的な作品でした。昔持っていましたがごみ箱へぽいでした。
投稿: さかな | 2013/08/09 12:41
さかなと称する「身元不明の人」の書き込み。この本を「持っていた」ということだから、著者のなんらかの関係者か、よっぽどの「物好き」な人なのだろう。
私が伊東竜俊の唯一の上演された芝居に参加したのは1977年9月のこと。インドへの旅の資金調達のために印刷会社で働いていた時、社長の甥である著者が、芝居のチラシやポスター印刷のために訪れた。
それをきっかけに、彼は私の高校の同窓先輩(同時期に在籍したことはないが)であることもあり、どういうわけか、彼の芝居団に役者として「強引」に巻き込まれた。私は石川裕人の芝居には長く関係していたが、役者として誘われたことは一度もなかったので、一度は、やってみようかなと思ったのかもしれない。あるいは、当時の石川の「洪洋社」的芝居にアンチテーゼを出してやろうという、ちょっとした「ちゃめっけ」もあったかもしれない。
私の役は、ステージ上で「右翼的」アジテーションをぶちかます裸の少年の役だったが、伊東竜俊の人間関係から考えればほぼ「左翼的」人間であっただろうことは間違いない。最晩年に、吉本隆明の死を悼み墓参りしようと言っていたくらいだから、そう理解していいだろう。
私自身は、一度はアングラ系のステージに立つという体験も悪くはないとは思いつつ、その芝居には納得するところは少なかった。どこかにすでに書いたので、詳しくは繰り返さないが、練習中に雷雨を伴った稲妻が街を覆った時、あの稲妻を、このステージに載せることができるなら、あなたの芝居に一生付き合ってもいいよ、と伊東竜俊に言ったことを、私は強く記憶している。
それから数年経過した1982年の夏、私は、オレゴン州の大きなコミューンにおいて、まさにあの稲妻をステージに載せることができる人物を再認識し、ひそかにこの人物と「一生付き合う」ことを改めて誓った、という経緯もどこかに書いた。
この本が脚本集としてでたのは1980年のことであり、芝居そのものは1977年であった。当然、脚本と芝居そのものは、まったく次元の違うものであり、私は彼の芝居の「芸術性」の中で、私なりの「芸術」性を熟成していったことは間違いない。だから、彼の芝居には大いに感謝している。
昨年末2012年12月の伊東竜俊の葬儀の時、その友人の弔辞で知ったことだが、あの演劇が上演された時、伊東が勤務していた高等学校では学園祭が開かれていたという。本来であれば、教師は自らの勤務校の行事に参加すべきであったが、勤務を休み、自らの劇団上演を優先したのだった。
当時の教頭に伊東が休暇願いを出した時、その学校に勤務していたその友人が言うには、その教頭は、「伊東先生、好きなことは若い時しかできませんよ」と、激励して送り出してくれたという。
私はこの本を「持っていた」ことはないが、近くの複数の図書館に所蔵されているので、読もうと思えば、今ならいつでも読める。このブログの書き込みに使っているこの本の画像は、書き込み当時のネットオークションにでていた一冊の画像である。このオークションは、私の親友が「落札」して現在所有している。まぁ、彼にとっては、極めて貴重な資料となる。
ごみ箱へぽい、するかどうかは、受け取り側の自由なのであり、それもまた「芸術」の扱われ方の可能性内であろう。私は、別な時、ある印刷物が気にくわなかったので、受け取ったあとに、すぐバラバラにして、シュレッターにかけてしまったことがある。私にはそれはごみ箱すら許せない、憎々しい表現物だった。
伊東竜俊丸って古川黎明や岩出山や古川や宮城広瀬や塩釜や宮城広瀬や黒川や田尻で国語教えた悪名高いペテン師の教師だな^o^飲酒運転やスピード違反の名人です・・・大和町の恵自動車で飲酒運転の車レッカー移動していますよ!だって僕黒川高校のOBで恵動車の従業員だったから分かるんですよww 投稿: かつぼ | 2013/08/09 15:18
彼の勤務校について、私は全部知っているわけではないが、いくつかは該当しているので、上の情報は、まんざら信用できないものではないだろう。元勤務校OBで、K自動車の従業員であったというこの「かつぼ」さんの意見は意見で、なるほどと思わないわけではない。
ただ、彼の劇団に参加していた数ヶ月の間、彼が「酒くさい」ということはなく、アルコールに依存している人間風には思えなかった。彼はまだ26歳くらいだったろうし、(私は23歳)、新陳代謝が活発だったので、アルコールの分解も速かったかもしれない。
しかし、昨年2012年10月の石川裕人の葬儀の時は、近づいただけでアルコール臭かった。久しぶりに会った彼に私は直接言った。「ちょっと酒臭いね」。すると彼は「ニュートン(石川裕人)が死んだのに、飲まないでいられますか」。なるほどね、そういう言い方もあるか。
この話を、幾人かの友人たち(たとえば絵永けい)に話してみると、ほとんどの反応は「あの人、いつもそうなのよ」というものだった。アルコール依存度はそうとうに進んでいたのではないだろうか。
PTA役員をやっている時代、ひとりの体育教師が飲酒運転をして事故を起こし、全国ニュースになってしまったことがあった。通常人でも泥酔運転はご法度だが、教員の事故となれば職業倫理上も大きなスキャンダルとなる。PTA役員のひとりとして私は減刑嘆願の署名活動を行い、数日で1000名の署名を集めたことがあるが、もちろん、そんなことで減刑できるような事件ではなかった。
きれいごとは私にも言えないが、やっぱり私とて職業倫理上においても飲酒運転は重罪である。そいう可能性を想起されること自体、まずいよなぁ。
最近は私たち世代も還暦も迎え、次から次へとかけがいのない友人たちを失い始まっているが、どうも酒飲みから死んで行っているように思えてならない。酒なくしてなんの人生ぞ、とは言うものの、酒の飲み方は工夫しないと長生きはできないのではないか。
もっとも、自然食品レストラン経営者で、ベジタリアンの加藤哲夫のような人も還暦を越えてあっという間に亡くなっていく訳だから、必ずしも酒ばかりを責めるわけにはいかないかもなぁ。
あっこの人が芸術的的な事は有り得ませんね(・・;)伊東竜俊丸こと伊東俊は黒川高校で一緒に教員をしていましたがデタラメ教員ですよ。いつも酒臭く教え子に酒を飲ませたり授業もはちゃめちゃで評判悪かったですね(-_-)昔のドラマ伝説の教師のような性格でした。でも退職して良かったですo(^-^)o 投稿: 加美の整体師 | 2013/08/10 09:07
かつての同僚で、加美地方の整体師ということなので、分かる人には分かる存在であろう。私とて調べようと思えば調べられないこともないが、そこまで追っかける気にはならない。まぁ、こういう書き込みが一番自己満足的であり、書きこまれた方としては、読むだけ時間の無駄、ほとんど意味はない。
人のことをデタラメというなら、自らもまた「退職」していることの意味性をキチンと受け手側にわかるように書かないといけない。あなたが「退職して良かった」と思っている人もいないとは言えない。
別なところにも書いたが、いつの間にか、石川裕人と伊東竜俊も若い時代に運命の出会いをし、その後、生涯の友であり続けたらしい。石川裕人の葬式に参列した伊東竜俊は、自宅に帰って大きく嘔吐して体調を崩し、そのまま2ヶ月後には亡くなっている。
彼らがやった仕事が「芸術的」的であったかどうかなんてことは、私にとってはほとんど意味はない。少なくとも身近に生きていた友人たちが、積極的な表現者たちであり、多くの人々の記憶にとどまり、多くの関わりを残してくれた、ということだけで、私は満足であるし、感謝している。
また、逆説的ではあるが、私の身近にあり、大きな関わりと影響を与えてくれた友人たちの表現物について、私自身は、これらを「芸術的」的であった、と評価しなければ、ナニを「芸術」と言えばいいだろう。
石川裕人の作品については1995年のオウム真理教を皮肉った作品において、私は一時見切りをつけた。私の人生観とは大きく違った方向に向かっていた。
しかし3・11後において、被災地を回る慰問芝居の中で、石川裕人は、そのステージに「地震」そのものを乗せることができた。(このことについても別な所に詳細をのべた)
私の人生において、彼らが存在したことは、大きな収穫であったし、かけがいのない想い出をたくさん残してくれた。感謝している。彼らが存在していなかったら、私の人生の中で、決定的な何かが欠落してしまったことになる。
以上、未整理のままだが、3つの書き込みをきっかけに、自分なりの想いをメモしておいた。
<5>につづく
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