「世の中がわかる『○○主義』の基礎知識」 吉岡 友治 <1>
吉岡 友治 (著) 2007/07 PHP研究所 新書: 248ページ
Total No.3083 ★★★★★
著者の本としては当ブログ4冊目。あともう一冊「東大入試に学ぶロジカルライティング」(2011/06 ちくま新書)が残るだけだが、タイトルから類推するに、これまでの4冊に比較すれば、かなり傾向の違った一冊になるだろう。身近な図書館に所蔵されている著者の本は、大学ネットワークを含めてこの5冊なので、とりあえず5冊目まで、ソーカツ的に論ずるのは控えておこう。
そもそもこのかたの社会的な存在(つまり職業)としては、予備校の先生ということになるのだろうが、もう一歩進んで、偏差値の高い大学や司法試験やMBAにおける小論文指南ということであり、なおかつ勤務しているのではなく、自ら「学校」を主宰しているようなのだ。
こういう存在で、ちょっと思い出すのは小浜逸郎という人。この人は当ブログが始まったばっかりの時に友人の紹介で読み始めてみたのもの、いまいち最後まで納得できなかった。通常当ブログでは、ひとまとまりになると「関連リスト」としてリンクを張っておくのだが、初期的なこともあってか、まだ関連リストも作っていなかった(近日中につくろう)。
小浜の場合、「塾」であり、むしろ小中学生あいての塾だったかもしれない。小浜の「塾」と、吉岡の「学校」ではまったくレベルが違っており、同列には語れないかもしれない。
それでも、この二人になにか共通するものを感じるとしたら、両者とも世の中の「広く」見ているということ。そしてそれぞれに対する「一家言」を持っている、ということである。どんな話題に対しても、コメントを求めるなら、軽く応じてくれそうな気配を感じる。
しかしながら、その「広さ」と「軽さ」の中に、なにか「塾」や「学校」的であり、実務的、実際的、現場的な、切実感が薄いと思わせる何かがある。そして、マルチに対応していそうでいて、結局は絶対平面に全てを同列になど並べることなどできるわけじゃないので、どこかに歪みができ、またそれは湾曲となり、ややゆるやかに歪んだ円や、球体を形成するようになり、結局、著者たちは、その表面にはおらず、その円や球体の内部にいる、ということになる。私なんぞは、その語られている内容より、語っている人そのものに関心を持ったりするので、読み方も自分なりに工夫する必要を感じる。
こちらのこの本の著者も、自らを何々主義、何々イズムと強く主張はしていないので、ここで語られているすべての「主義」や「イズム」はゆるやかに(あるいは部分的に)否定されていることになる。
そもそも、「神秘体験」を大げさに吹聴する宗教はろくなものはない。儀式や祭儀の中で、人間は簡単に日常感覚を失う。それどころか、自分が自分であるという感覚さえ忘れてしまう。一定の身体的テクニックを使えば、夢遊状態や脱自状態になるのは難しいことではないのだ。
たとえば、手を上に挙げたまま、十五分間ハッハッと思いきり息をおはきながら、ジャンプをしつづける。そうすれば、(その現れ方は人によって違うが・・・・)目の前に鮮やかな現像が見えることが多い。身体に過大な負荷を与えることで、「神秘体験」はある程度誰にでも起こるのだ。幻覚物質を使えばほぼ自動的だ。こういう「神秘体験」をことさらのように尊重する向きがある。そのテクニックは意外に簡単なのである。p213「『神秘体験』は簡単に起こる」
この部分は「スピリチュアリズム」や「グルイズム」との関連の中で語られる部分であるが、一読者としては、付箋を貼っておかなければならない部分である。
例えば、この「身体に過大に負荷を与えるテクニック」は、著者が在籍したであろう竹内敏晴演劇研究所のテクニックかもしれないし、また他の系譜に属する瞑想法であったりするかもしれない。「誰にでも起こる」ということだから、著者も当然実験ないし体験していることだろう。
私なんぞは、この文脈から連想するのは、Oshoの代表的瞑想法「ダイナミック・メディテーション」だ。そもそもがチベットに伝えられてきた瞑想法がベースになっているかのように語られる時もあるが、確かではない。ほとんどがOshoのオリジナルと解釈してもそれほど無理はない。
さて、著者の解説と、私の、やや類似した体験をすり合わせておけば、いくつかの違いが明確となる。
まず、私は「手を上に挙げたまま、15分間ハッハッと思いきり息をはきながら、ジャンプをしつづける」ことは難しい。やって見れば分かるが、それほど体を鍛錬してきていない私なんぞには15分間は無理である。せいぜい10分間である。(しかもハッハッではなく、「HOO! HOO!」(フー! フー!)であるが)
しかもその10分間を、いきなりスタートしてもできない。前段で、激しい呼吸の10分間と、内面の感情を外側に出す10分間のカタルシスのステージがないと、できない。このプロセスにおいてなら、私は何度も10分間、ジャンプしてきた体験がある。(しかも付け加えておけば、この後に、15分間のストップと最後の踊りの15分間がセットになった1時間の体験においてである。)
そして(という接続詞は著者は重要ではないと言っておられるが)、私はこのジャンプ中に「現像が見える」ことはまずない。「現れ方は人によって違う」とのことだが、著者はその中でそのような体験をしているのかもしれない。
少なくとも、10分間ジャンプすること自体が、かなりの行ないなので、「現像」なんぞ見ている暇はない。とにかくジャンプするしかない。そもそも、「神秘体験」をするために「ジャンプする」なんて、なんだか、どこかおかしい。
そして、この本の文脈の中で語られる「神秘」についても、私には私なりに異論がある。簡単に言っておけば、なにかこの世ならざるものを見たり聞いたりすることが「神秘」なのではなく、この世なるものを、この世なるものとして直視できることこそが神秘なのである。なにかの現像を見ているのは、一般に、人が普段の日常生活においてなのであって、むしろ、それらをふっ切って、じかに起きていることを直視することこそ神秘と言えるのではないだろうか。
ちょこっと引っかかったから引用しておいたが、この本もまたアクセスポイント、あるいは突っ込みどころ満載である。また、この方の著書シリーズをきっかけに、再読や確認しておきたいこともたくさんでてきた。
まずは、もうすこし全体をつかんでから、著者全体の再読モードに入ろうと思う。
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