「ことばが劈(ひら)かれるとき 」 竹内 敏晴 <1>
「ことばが劈かれるとき」<1>
竹内 敏晴 (著) 1975/08 思想の科学社 単行本: 278ページ
Total No.3087 ★★★★☆
吉岡友治氏(Yと略記)という人の近著の存在を確認し、多少なりとも深く降りて行こうと試みにあたって、Yが「師」と仰いでいるらしき人物の存在も確認しておかなくてはならない。この本の著者がその人である。
例によって、この本の著者については、ほとんど何も知らない。名前と、わずかのプロフィールを知るだけである。なぜそうであるのかは、自分でも興味あるところだが、いずれは分かってくるであろう。詳細は後段に譲る。
さて、私にも師と仰ぐ人物がいる。いわずと知れたOshoのことだが、Yと私の両者において、「師」の意味しているところが、まったく同じことなのかどうかは、今のところ定かではない。また、ここにおいて、Yの師を持ちだすことで、互いの師を比較検討しようなどという意図は当然ながら、まったくない。
もっと言うなら、本当は、他者としての弟子や師のことなどについて、本質的にはまったく関心はないのだ。
ある共通の友人の葬儀にあたり、友人として弔辞を述べる役割を仰せつかったYと私、二人のそれぞれの独立した人間として、その共通項は一体どこにあったのか。あるいはなかったのか。ほとんど同じ年月にこの世に生を受け、同じ友人を介しながら繋がっていたとは言え、還暦を迎えた老域に到達して、ようやく知り得た存在である。ある意味、一期一会と言える。
私は、私の自分の師に会うことによって、その人生を決定づけられた。彼なくして私の人生はなかったと言えるし、またそのような存在として特別視してきた。または、彼とめぐり合うことこそ私の宿命であっただろうし、彼とめぐり合うように生きてきていたともいえる。
逆に言うと、同じような年代に生きながら、Yが竹内という人に師事しながら、私はなぜに竹内という人とめぐり合わなかったのか、にも興味ある。あるいは、YはなぜにOshoに「師事」しなかったのか、にも興味があるのである。
ここにおいて、私がまったく竹内という人を知らなかったというわけでもなく、YがOshoをまったく知らなかった、というわけでもない、ということが、不思議の大前提になる。互いに、互いの師にめぐり合うチャンスは十分にあったのである。しかるにおいて、Yは竹内を師とし、私はOshoを師とした。
Yは、若い時代にインドを旅し、また生涯においてアジアを初め広く世界を旅しているらしいので、当然若い時代からOshoを知っているらしい。私もまた、近くの大学の教授として在籍していた竹内の名前を知らないはずはない。どこかで、なにかがクロスしたら、私とYは、互いの師を取り換えっこしていた可能性は、ゼロとは言えない。
もう一つ気になるキーワードは「演劇」である。竹内は演劇のジャンルで語られるらしい。図書館を検索してみると、いみじくも当ブログで最近触れた「演出家の仕事」 六〇年代・アングラ・演劇革命/日本演出者協会/西堂行人(2006/02 れんが書房新社)がヒットする。このあたりも何事かを暗示しているように、現在の私には思える。
石川裕人を初め、伊東竜俊という身近な「演劇人」を喪った今、もう一人の友人の逝去において、さらにまた登場した「演劇」というキーワードに、何事かの重きを感じざるを得ない。
正直言って、今まで何度も当ブログで述べてきたけれども、私個人は演劇というジャンルは得手ではない。避ければ避けて通れるジャンルである。しかるに、なぜにこれほどまでに、私の人生に登場するキーワードなのであろうか。その辺も気になるのである。(これは私たちの時代性なのか? あるいは人生上の重要な要素なのか?)
それともうひとつ。竹内には「からだ」と「ことば」というキーワードがある。当ブログにおいて、図書館から借りだした本、約3000冊に目を通した段階で、ブログ存続を逡巡するあまり、思考停止のプロセスとして、Oshoの「こころでからだの声を聴く」(2007/11 市民出版社)の全文転写を始めているところだった(自分では現代流写経と思っているのだがw)。
竹内が「からだ」と「ことば」をひらき、Oshoが「からだ」と「こころ」を語る時、その「からだ」にはどのような共通項があるだろう。あるいは、竹内の「ことば」とOshoの「こころ」には通じるものがあるだろうか。
さらに言えば、これらの論旨の向こうに見え隠れするはずのスピリチュアリティ=「たましい」は、いったいどういうことになっているのだろう。これら一般のことどもに、なにやら興味惹かれる。
ついでのついでだが、竹内には木田元との対話「待つしかない、か。 二十一世紀身体と哲学」(春風社2003/02)や、メルロ=ポンティについての言説が残されているらしい。これらひとつひとつが、当ブログとして追っかけてみる価値が大いにあると思える。
以上、なにはともあれ、著者については何にも知らない段階で、とりあえずの思い込みだけをメモしておく。本質的にはこれら全体が鏡となってくれて、わが身を検証する手掛かりになってくれそうな予感にひかれての善光寺参りである。
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